第六話 拾われた者たち(新帝国暦十三年十二月)
【新帝国暦十三年 辺境暗礁宙域 イリヤ・ラザレフ】
艦は死につつあった。
主機は沈黙し、灯りは非常用の赤に落ちている。
暖房はとうに切った。
乗員は凍えぬために身を寄せ合って眠る。
無音の闇のなかを傷ついた一隻があてもなく漂っていた。
イリヤ・ラザレフは、冷えきった作戦室で数を数えていた。
生き残った乗員、自らを含めて三十九名。
まだ動く砲、二門。
水と食糧と空気の残り。
それを人数で割り、日数に直す。
何度やり直しても答えは同じだった。
あと、十日。
イリヤはまだ二十歳そこそこの若い士官である。
この漂う鉄の棺のなかで、いつのまにかいちばん上の階級になっていた。
上官たちはみな、あの日に死んだ。
この三十九名を生かして、どこかへ連れていかねばならない。
それが私に遺された、ただ一つの命令だった。
あの日。
沈みゆく艦隊から一隻でも多く逃がすために、エイジ・クルス提督が自ら殿に残った日。
散り散りに逃げるその直前。
私は残らせてくれと願った。
家族も友も、あの戦役の火でみな焼かれた。
ほかに行く先などない。
ならばここで死なせてほしい、と。
だがクルス提督は一喝した。
「行き場所がないなら、なおのこと生きろ。……それが、命令だ」
そしてこう続けた。
「行け。生き延びて、見ろ。我々が見られなかったものを」
私は何か言いかけて、言えなかった。
ただ、精いっぱいの敬礼をした。
旧・自由惑星同盟軍式の古い敬礼。
提督は背筋を伸ばしてそれを返した。
それが、あの人を見た最後だった。
見ろ、と言われた。
だが私には何を見ればいいのか、本当のところは分からずにいる。
私が生まれたとき、自由惑星同盟という国家はもう傾いていたらしい。
そして物心のつく前に、国は滅びた。
議会も選挙も、自由の下で暮らす日々も。
私にとって民主共和政とは、体験ではなく言葉だった。
老兵たちの昔語りの、どこか眩しい遠い一節。
それでも私はその一節のために戦ってきた。
クルス提督が遺した、見られなかったもの。
老兵たちが歌に託した、自由の暁。
それがいつかほんとうにこの空の下に訪れる朝のことだと、私は思っている。
そう信じるよりほかになかった。
だからまだ死ねない。
生きろと、命じられた。
この全員を連れて、その暁のある場所までたどり着かねばならない。
だが。
その暁がこの暗い宇宙のいったいどこにあるのか。
イリヤ・ラザレフは、まだ知らずにいた。
***
三日が過ぎた。
食糧はまた減った。
負傷者の何名かはもうあと何日も持たないだろう。
行く先を早急に決めねばならなかった。
作戦室に、動ける者だけが集まった。
みな痩せて、目だけが落ちくぼんでいる。
沈黙を破ったのは機関部の老兵だった。
アムリッツァを知る数少ない生き残りの一人である。
「バーラトへ行きませんか」
老兵はしわがれた声で言った。
「魔術師の……ヤン提督の……。その遺志を継ぐ人々があそこにいる。我々と同じ旗を捨てなかった者たちが。あの人たちなら、我々を見捨てはしますまい」
その名が冷えた空気をわずかに震わせた。
ヤン・ウェンリー。
議会も選挙も見たことのない私にすら、その名だけは別格だった。
あの人が守り抜いた場所こそ、あの眩しい一節がいまなお息づくただ一つの場所。
そう教わって育ったのだ。
もし辿り着けるなら。
あそこは暁のある場所かもしれない。
「――発信しろ」私は決めた。
「旧同盟軍の符丁で。ヤン・ウェンリーの遺志を継ぐ方々に届くように」
呼びかけは幾度も闇へ放たれた。
返事は長いあいだなかった。
そして、来た返事は短かった。
バーラト自治政府。事務的な定型の通信だった。
――貴船の受け入れはできない。
理由は記されていなかった。
私はしばらく動けなかった。
拒まれたのだ。
同じ旗を掲げたはずの人々に。
だが――通信が切れるその間際。
定型ではない、もう一つの声が割り込んだ。
低い男の声だった。
どこかあの機関長の唱和に似た古い同盟兵の響きがあった。
「……すまない」
それだけをまず言った。
声は絞り出すように続けた。
「指定の座標へ向かってくれ。そこで落ち合う者を待たせてある。新しい名と戸籍と隠れ家を用意した。辺境の静かな星だ。……そこでなら生きられる。書類には残らん形で手配した。目立つな。誰にも見つからぬよう、そこへ。……それが、いま我々にできる精いっぱいだ」
一拍、置いて。
「――生きてくれ。頼む」
通信は切れた。
拒まれた。
だが、あの声はたしかに、我々と同じ痛みで震えていた。
扉は閉ざされ、その扉の内側で誰かが詫びていた。
暁のある場所はあった。
だが、その扉は我々を正面からは迎え入れられなかった。
――ならば、裏口から差し出されたその手を掴むしかない。
***
【新帝国暦十三年 バーラト自治政府・惑星ハイネセン】
その報せを持ち込んだのは、ダスティ・アッテンボローだった。
かつては魔術師ヤン・ウェンリーの後輩として自由惑星同盟軍で艦隊を率い、若くして将官の椅子に座った男である。
反骨精神と皮肉屋の血は、ジャーナリスト志望だった父から継いだものだ、と本人は嘯く。
今は軍服を脱いで久しい。
いまは「革命戦争の回想」と題したノートを書き続ける、ジャーナリストのはしくれである。
――もっとも、退役してなお旧同盟軍の古い周波数を、酒でも舐めるように聴き続けている。
消えた国の、消えた符丁。
もう誰も使わぬはずの帯域だ。
「悪趣味だとは自分でも思うんだがね」と、いつもは笑ってみせる。
だがその夜、評議会の小部屋に現れた男は笑っていなかった。
「あのクルス艦隊の、生き残りだ」
アッテンボローは机に一枚の紙を放った。
「三十九名。飢えて、凍えて、暗礁の底を漂っている。……古い符丁で救援を乞うてきた。まだあの自由の旗を畳んじゃいないんだとさ」
そこまで言って、この皮肉屋はめずらしく、続く軽口を呑み込んだ。
「気持ちは皆と同じだ。誤解のないように言っておくが」
口を開いたのは、ムライだった。
事務処理に長け、規律と秩序を重んじる生真面目な元軍人である。
かつてのヤン艦隊の会議では、いつも開口一番に慎重論を唱え、陰では「歩く叱言」と呼ばれてきた。
だが本人はそれを不平とは思っていない。
誰かが冷や水を差さねば、艦隊はとうに沈んでいる。
そう心得て、長年進んで憎まれ役を引き受けてきた男である。
「だが、こういう場で水を差すのは昔から私の役目でね。……嫌われ役だが、誰かが言わねばならん」
規律の男は、抑えた声で続けた。
「彼らは帝国皇帝の暗殺を企てた。新帝国法でも、皇帝への大逆は死刑だ。例外はない。……そしてここは帝国内の自治領だ。その大逆の者を我々が匿えば、かつて多くの血をながしてようやく獲得した自治権。その剥奪の格好の口実になりかねん。和約後、薄氷の上で守ってきたこの自治を失う」
「ムライ内務局長の言うとおりだ」
評議員ベルナール・コーツが冷めた声で引き取った。
中年の、どこか醒めた目をした男である。
理念より生存を優先する現実派として知られ、帝国への感情的な主戦論をいつも冷静に戒めてきた。
善人ではある。
ただ、痩せた自治領を守るためなら、理念の一片を切り売りしてでも構わない、と信じている。
「三十九人のために、この星の幾億を危険に晒すのか。感傷では国は守れん。私は反対だ」
「――だから、見捨てろっていうんですか!」
アッテンボローが机を叩いた。
「よしてくれ。あの旗のために戦って、負けて、それでも旗を捨てなかった連中だぞ。おれたちと同じものを信じた仲間を。扉の外で野垂れ死にさせろってのか」
「落ち着け、アッテンボロー」
そう言ったのは、アレックス・キャゼルヌだった。
旧同盟軍・後方勤務本部長代理。
ヤンの士官学校以来の親友であり、現在は自治政府の行政と兵站を一手に担う、事実上の文官の長である。
限られた資源の小勢力を二十余年やりくりしてきた現実的な屋台骨だ。
だが、その乾いた現実主義の底には家族思いの温かさが流れている。
誰よりもそれを知っているのが、アッテンボローだった。
「落ち着けるかよ、キャゼルヌ先輩!なら聞くが、何のための自治だ!仲間ひとり拾えん自由なんぞ後生大事に抱えて、いったい何になる!」
キャゼルヌはすぐには言い返さなかった。
古い兵站家は腕を組んで、しばらく机の木目を睨んでいた。
「……拾えん、とは言っておらんよ」
ようやく低く言った。
「言っているのは、正面の扉を開けたら全員死ぬ、ということだ。迎え入れれば、帝国は必ず引き渡しを要求してくる。応じれば、自分たちの手で彼らを処刑台へ送る。拒めば和約違反で自治が終わる。……扉を開けても開けずとも、彼らは死ぬ」
キャゼルヌは顔を上げた。
その目に諦めはなかった。
「――だが、正面が駄目でも裏口ってものがある」
「裏口?」
「二十余年、同盟軍の時代から痩せた台所で少ない材料をやりくりしてきた。得意なんだよ、そういうのは」
キャゼルヌは皮肉に口の端を上げた。
「正面玄関からは拾えん。だが、正面でなければ話は別だ。……人目につかぬ座標で落ち合う手筈を整えてやる。新しい名と、戸籍と、隠れ家を、な。辺境の静かな星に。補給も積んでやる。書類に残らん形で」
「それは和約違反では」ムライが眉を寄せた。
「おや。おれはただ、書類を少々数え間違えるという話をしているんだがね」
キャゼルヌはしれっと言った。
「戸籍の一枚くらい、どこかへ紛れ込むこともあるさ。……誰かが責任を取らにゃならんのなら、おれが取る。誰も責任を取らん国よりは、まだしもまともってもんだ」
ユリアンは長いあいだ黙って聞いていた。
議論が途切れ、誰も次を継がなくなった。
みなが彼を見ていた。
――僕に、決める権限などないのに。
借り物の椅子だと、いつも思う。
ヤン・ウェンリーなら座らなかったであろう椅子。
座ってもいないのに、いつのまにか座らされている椅子。
「……正式な回答は、『受け入れられない』。それしかないでしょう」
ユリアンは静かに言った。
声には痛みが滲んでいた。
「コーツ評議員の懸念は正しい。ここで自治を失えば、僕たちが守ろうとしているものすべてを失う。それは、あの三十九名を含めて、もっと多くを死なせます」
誰も異を唱えなかった。
それで決まってしまった。
アッテンボローが口を開きかけた。
「――でも、アッテンボローさん」
ユリアンはその先を穏やかに継いだ。
「裏口の鍵は、キャゼルヌさんに預けます。できることは全部してください」
そして、少しだけ笑った。
どこか自信のなさそうな笑い方だった。
「……こういうとき、ヤン提督なら何と仰ったでしょうね」
***
評議が果て、みなが去ったあと。
キャゼルヌだけが通信卓の前に残った。
古い兵站家はしばらく、誰もいない画面を見ていた。
それから、記録に残らぬ回線をそっと開いた。
落ち合いの座標を送る。
新しい名と戸籍と隠れ家を、辺境の静かな星に用意したと伝える。
そして最後に、事務仕事とは関わりのないひとことを闇へ向けて囁いた。
「指定の座標へ向かってくれ。そこで落ち合う者を待たせてある。新しい名と戸籍と隠れ家を用意した。辺境の静かな星だ。……そこでなら生きられる。書類には残らん形で手配した。目立つな。誰にも見つからぬよう、そこへ。……それが、いま我々にできる精いっぱいだ」
一拍、置いて。
「――生きてくれ。頼む」
返事はなかった。
キャゼルヌは回線を閉じた。
そして背を少しだけ丸めて、部屋を出ていった。
自分が差し伸べたその手が、無事にあの三十九名へ届くことを。
ただ、祈りながら。
***
【新帝国暦十三年 辺境宙域 イリヤ・ラザレフ】
バーラトは扉を開けてはくれなかった。
だが、閉じた扉の隙間から手だけは差し入れてくれた。
指定された座標へ向かえ、とあの声は言った。
そこで落ち合う者がいる、と。
新しい名。新しい戸籍。辺境の静かな星の、小さな家と職。
息をひそめて生きるための一切を用意してある、と。
私はその座標へ艦を向けた。
ただ、胸の底がざらついていた。
ラザレフの名を捨て、自由のために戦う戦士だった過去を捨てて。
――それでも、皆が助かるなら。
私はそのざらつきに無理やり蓋をした。
指定された座標まで、あと半日という頃だった。
闇の中から、一隻の船が音もなく寄り添ってきた。
まず届いたのは、言葉ではなかった。
食糧だった。
温かい湯気の立つ、粗末な配給食ではない本物の食糧が無人艇に載せられて、こちらの艦へ送り込まれてきた。
医薬品も毛布もあった。
飢えて凍えた三十九名がそれに群がった。
条件は何も告げられなかった。
ただ、差し出された。
それから通信が入った。
「……よくぞ生き延びられました」
穏やかな老いた女の声だった。
祖母が孫を迎えるようなあたたかさがあった。
「飢えて、凍えて、それでも旗を捨てなかった。……立派です。あなた方はまことに立派だ」
声は労わるように続けた。
「バーラトへ行かれるのですね。……自治政府の人たちは扉を閉じたでしょう。詫びながら、苦しみながら。……お辛かったでしょうね」
私は答えられなかった。
なぜそれを知っている。
「責めてはなりませんよ。あの人たちも正しいのです」
声は静かに言った。
「正しくあろうとすれば、誰かを見捨てねばならないことがある。……もちろんあなた方が悪いのではありません。ただ、彼らの正しさのため見捨てられる側になっただけです」
「一つ伺っても?」
声は優しく問うた。
「その座標の先で、あなた方を待つのは何でしょう。……新しい名。偽りの戸籍。辺境の片隅で別の誰かのふりをして、息をひそめて老いてゆく日々」
「あなた方は何も悪いことをしていない。滅ぼされた国の民が征服者に抵抗した。それのどこが罪でしょう。……なのに、イリヤ・ラザレフという名を捨てさせられる。同盟の軍人だったという誇りごと」
「その恨みとその後悔を胸の底に埋めたまま、偽りの名で残りの生涯を静かに朽ちてゆく。……それは、生きている、と言えるのでしょうか」
言葉が、胸のざらついた場所にまっすぐ指を差し込んできた。
私が自分でも言葉にできずにいたものを。
この声は私よりも正確に言い当てた。
「最後に――エイジ・クルス提督は何と歌っておられました?」
その一言に、私は息を呑んだ。
「思い出してごらんなさい。……自由の暁を。呼び込もう、と。あの方はそれを見ずに逝かれた。あなたに託して」
声は限りない崇敬を込めて続けた。
「では、伺います。……あの方が見たかった暁とはなんでしょう。また剣を執り、また誰かを喪う終わりなき日々でしょうか。……それとも、もう二度と誰も喪わずにすむ静かな朝でしょうか」
――行け。生き延びて、見ろ。我々が見られなかったものを。
あの遺言が耳の奥で鳴った。
偽りの名で隠れて老いること。
それが「見ろ」の答えなのか。
もう誰も喪わずにすむ、静かな朝。
それこそが。
だが、なぜだろう。
その「静かさ」に、墓地のような静けさをふと感じた。
「戦えとは申しません」
声は両手を広げるように言った。
「戦わぬのもあなたの自由。名を捨てよとは申しません。……ただ、あたたかい寝床と、あなた方を待つお仲間が、もう幾人も。自由の旗を捨てなかった方ばかり。……あなたのような、ね。とりあえず、いらしてみては? ……気に入らねば、いつでも――」
声はそこで言葉を切った。
その続きを言わなかった。
通信の画面の隅に、その船の紋章がちらと映った。
緋色の、衣の裾。
そして、胸に――一本の樹の意匠。
幾重にも枝を広げ、深く根を張った金色の大樹だった。
帝国の紋章では、ない。
旧同盟軍にも、いずれの星系にも、そんな紋章はなかったはずだ。
――それでも、私はそれを気に留めなかった。
胸を占めていたのは、暁のこと、ただそれだけだった。
「……名を捨てなくていいのですか」
私は掠れた声で問うた。
「ええ」老いた声は微笑んだように言った。
「あなたは、あなたのままでよいのです。……イリヤ・ラザレフのままで」
それが、どれほど優しく聞こえたことか。
「……行きます」
私は言った。
全員を、暁のある場所へ連れてゆくために。
***
指定の座標で、バーラトの連絡員は三日待った。
船は来なかった。
やがて、辺境の航路監視網がひとつの記録を拾った。
所属不明の老朽艦、一隻。機関の停止。暗礁宙域での漂流。
――遭難。生存者、確認されず。
キャゼルヌはその報せを長いあいだ見つめていた。
そして静かに書類を閉じた。
「……間に合わなかったか」
キャゼルヌはひとり呟いた。
差し伸べた手がほんの少し届かなかったのだと、彼は思った。
三十九の命を救い損ねたのだと。
その悔いを彼は生涯手放さなかった。
――だが。
その船は沈んではいなかった。
金色の樹を掲げた手が先に救いあげていた。