幕間一 青い瞳
【新帝国暦十三年 帝都レーヴェンシュテルン・ミッターマイヤー邸 フェリックス】
初陣から帰って、半月が過ぎた。
俺の家は、拍子抜けするほどいつも通りだった。
玄関で母上が俺を抱きしめて、少し泣いて、それから「痩せたわね」と言ってすぐに台所へ立った。父上は「よく戻った」と一言、俺の頭を乱暴に撫でて、それきりだった。まるで、俺がちょっと遠くまで使いに出て帰ってきただけのように。
あの戦場を、俺は見たのに。
光を失った鉄の箱の底も、スクリーンの向こうで音もなく消えていった無数の光点も。数百隻で六千五百の大軍を屠った、あの父上の艦隊運用も。
なのに家は、何も変わっていなかった。
***
夕餉の卓で、父上は母上の作った
「相変わらず、エヴァンゼリンの飯は宇宙一だな」
「まあ。宇宙中のお食事を全部召し上がったことがおありで?」母上が澄まして言い返す。
「ないな。だが、食わずとも分かる」
二人がくすくす笑い合う。宇宙艦隊司令長官とその奥方の会話とは、とても思えなかった。
俺は皿の香草焼きを、黙って突いていた。
あの戦場で、敵の指揮艦を、風のように駆け抜けて撃ち抜いた、あの父上。
その同じ人がいま、母上の料理をお代わりして、宇宙一だなどと言っている。
どちらが、本当の父上なんだろう。
「どうした、フェリックス」父上が、俺の手が止まっているのに気づいた。
「食が進まんな。……戦場のことか」
俺は答えられなかった。
母上がそっと席を立った。何も言わず、洗い物の音を少し大きめに立てはじめる。
俺と父上に二人の時間をくれたのだと、後で分かった。
***
父上は卓に肘をつき、俺をまっすぐ見た。
家の顔でも、戦場の顔でもない。その中間の顔だった。
「何が引っかかっている。言ってみろ」
「……分からないんだ」俺はようやく口を開いた。
「父上が。家の父上と、戦場の父上が、同じ人だってことが。俺はあの戦場で、父上を見て」
言葉に詰まった。
「怖い、と思ったんだ」俺は正直に言った。
「あんなにたくさんの敵を、父上は平気な顔で屠っていった。それが……すごくて、でも、怖かった。家の父上とは、別の人みたいで」
父上は怒らなかった。ただ、少しだけ目を細めた。
「そうか。怖かったか」
「うん」
「それでいい」父上は言った。「戦を見て、怖いと思えぬ者のほうが、俺は怖い」
俺は顔を上げた。
「フェリックス。あの戦で俺が何をしていたか、お前は見ていたな。俺の艦隊が、敵の何を狙って動いていた」
「……指揮艦だ」俺は思い出しながら言った。「敵の指揮艦を狙って、撃ってた」
「なぜだと思う」
俺は考えた。
「……頭を潰せば、早く終わるから?」
「半分、正しい」父上は頷いた。「もう半分はこうだ。早く終われば、それだけ、死なずにすむ者が増える」
俺は息を呑んだ。
***
「用兵とは何かと、あの船で陛下にお尋ねした。憶えているか」父上は続けた。
「答えは、できるだけ多くの兵を生きて還すことだ。敵を何隻沈めたかではない」
俺はあの戦場を思い出した。
鉄壁のミュラー元帥が正面から敵を圧し、父上が背後から刈った。
金床の上の鉄を、鎚が打つように。
戦闘の記録は、何度も見返した。
逃げる者は追うな、と父上は言っていた。
窮鼠は噛む、と。
もう勝敗は決した、ここから先で兵を死なせるのはただの浪費だ、と。
「家の俺も、戦場の俺も」父上はかすかに笑った。
「同じ、一人の男だ。エヴァの飯を宇宙一だと思う男が、味方を一人でも多く生きて還したいと思っている。それだけのことだ。別の人間ではない」
俺の中で二つに割れていた父上の顔が。
ゆっくりと一つに重なっていくのを、感じた。
怖くて、すごくて、そして優しい。それは別々のものではなかった。
全部、同じ一人の父上だった。
***
その夜、俺はなかなか寝つけなかった。
水を飲もうと廊下へ出ると、書斎の灯りがまだ点いていた。父上が一人、机に向かっている。
何を書いているのだろうと、俺は近づいた。
父上の手元には、名簿があった。初陣で失われた、一万二千の名。
それを父上は一枚一枚、めくっていた。読んでいるのだ。一つずつ、その名を。
声をかけそびれて、俺はそっと廊下へ引き返した。
家の父上と、戦場の父上と。そして、死んだ者の名を一人で読む父上と。
全部が、同じ一人だった。俺はそのことを、少しずつ埋めていけそうな気がした。
***
翌朝は、よく晴れていた。
父上が庭で木剣を振っていた。俺を見つけると、もう一本を放ってよこす。
「稽古だ、フェリックス。久しぶりに、腕が鈍ってないか試してやる」
いつもの、家の父上だった。
打ち合いは、いつも通り一方的だった。
俺の木剣はことごとく弾かれる。
だが、その手ほどきの一つ一つに、俺は昨夜の言葉を重ねていた。
この速さも、この踏み込みも、全部、誰かを生かすためのものなのだ、と。
数合で、俺は尻もちをついた。
「まだまだだな」父上は笑った。「だが、目つきが少し変わった」
「……そう?」
「うむ」
父上は木剣を担ぎ、ふと俺の顔を覗き込んだ。
俺はその視線に、少しだけ身を硬くした。
***
俺には一つ、癖がある。
鏡や水面に映った自分の顔を、まっすぐ見られない。
ほんの一瞬、目を逸らしてしまう。
なぜなのか、自分でも分からない。
物心ついたときには、もうそうだった。
だから庭の泉のほとりを通るとき、俺はいつも水面から目を逸らす。
その朝もそうだった。
父上は、それに気づいたようだった。
「フェリックス。お前は時々、自分の顔から目を逸らす」
俺はどきりとした。
「……別に。癖だよ」
「そうか」
父上はそれ以上、問い詰めなかった。ただ俺の肩に手を置いて、泉のほうへそっと俺を向けた。
水面に俺の顔が映っている。日に灼けた頬。そして、深く澄んだ、青い瞳。
「見てみろ」父上は静かに言った。「お前の、目だ」
俺は逸らしたくなった。いつものように。だが父上の手が、俺の肩をしっかりと掴んでいた。
「前を見る、いい目だ」父上は言った。
飾りのない、まっすぐな声だった。
「俺は、お前のその目が好きだ」
俺は水面の中の、自分の目を見た。
ほんの数瞬だけ、まっすぐに。
それから、やっぱり少しだけ、逸らした。癖は、そう簡単には消えない。
だけど、胸の奥が、なぜか少し熱かった。
「……変なの」俺は照れ隠しに言った。「目なんて、みんなあるだろ」
「そうだな」父上は笑った。「だが、お前の目はお前だけのものだ。誰のものでもない。覚えておけ」
今の俺には、その言葉の重さがまだ分からなかった。
ただ、いつもよりほんの少しだけ長く、水面を見ていられた。
それだけのことが、その朝の俺には、なんだか大きなことのように思えた。
***
【新帝国暦十三年 帝都レーヴェンシュテルン・ミッターマイヤー邸 ミッターマイヤー】
ウォルフガング・ミッターマイヤーは、息子が家の中へ駆けていくのを見送った。
両の目とも、青い。曇りのない、まっすぐな青だ。
(……ロイエンタール)
ふと、亡き友の名が胸をよぎった。
あの誰よりも誇り高い男の目は、
この子の目は、あの男の目とは違う。
だが、世間はいずれこの子に囁くだろう。
ロイエンタールの遺児だ、と。あの男の血が流れている、と。
血の呪いを、この子に着せようとするだろう。
ならば。
その前に、俺が刻む。
ミッターマイヤーは木剣を肩に担ぎ、澄んだ朝の空を見上げた。
初陣で、彼はひさびさに、あの頃の風を感じていた。
数百隻で大軍の腹を裂いて駆けたとき、胸の奥で何かが疼いた。若かった日の、あの疾走。
まだ、金髪の主君が二十歳そこそこで、銀河のすべてが敵で、それでも一つずつ覆していった頃。
あの方の閃きは、いつも常軌を逸していて、俺とロイエンタールは、それを現実の戦に翻訳するのに必死だった。
勝つたびに、生きて還れたことが不思議だった。
あの頃は、皆、若かった。
そして、あの方の傍らには、いつも赤毛の若者がいた。
ミッターマイヤーは、その名を、胸の内でも呼ばなかった。呼べば、まだ痛む。
あの者が生きていれば、あるいはロイエンタールも。
――もう、皆いない。
(見ていろよ、ロイエンタール。この子らは、俺たちよりは、穏やかな時代を生きる。……そうであってくれと、俺は思っている)
(ロイエンタール。お前の息子は、いい目をしているぞ)
口にしないその思いは、朝の光の中に静かに溶けていった。
***
【新帝国暦十三年 獅子の泉 アレク】
僕はあの名簿を、まだ手放せずにいた。
一万二千の名。あの名簿を。部屋の机に置いて、時々開いては、また閉じる。そんな日々が続いていた。
その日、獅子の泉に、ミュラー元帥が来ていた。
初陣の後始末の報告のため、母上に拝謁していたのだ。用が済み、退がろうとするその人を、僕は廊下で呼び止めた。
「ミュラー元帥」
僕は、廊下でその人を呼び止めた。
鉄壁と呼ばれる将は振り返り、僕を見て、丁寧に膝を折った。
「陛下。いかがなさいました」
「少し、聞きたいことがあるのです。……皇帝としてではなく、一人の子供として。時間を、もらえますか」
ミュラー元帥は、わずかに目を見開いた。
それから、深く一礼した。
「……御意のままに」
礼は、崩さなかった。だが、その目が、少しだけ和らいだのを、僕は見た。
僕たちは、中庭のベンチに、並んで座った。
***
中庭のベンチに、僕たちは並んで座った。
ミュラー元帥は、穏やかな、飾らない人だった。鉄壁という猛々しい二つ名とは、どこか結びつかない。
「あの戦で」僕は切り出した。
「元帥は、一歩も退くなと言い続けていました。敵に囲まれて、味方の艦が次々と砕けていくのに。どうして言い続けられたんですか」
ミュラー元帥は少し考えてから、答えた。
「退けば、後ろの者が死ぬからです」
「でも、退かなければ、前の者が死ぬ」
「さようです」元帥は頷いた。「前の者が、後ろの者を生かす。それが盾の役目にございます」
僕はあの艦上での言葉を思い出した。守るとは、盾になることだと。一歩も退かねば、後ろの者は死なずにすむ、と。
「攻めるのと、守るのと」僕は問うた。
「どちらが難しいのでしょうか」
「守るほうが、難しゅうございます」
元帥は迷わずに答えた。
「攻めるのは華やかです。敵を打ち破り、名を上げる。人はそれを称えます。ですが、守るのは地味です。ただ、耐える。退かぬ。砕けた艦の分だけ、味方が死ぬのを見ていなければならぬ。それでも、退かぬ。攻めるより、よほど辛うございます」
「ただ」元帥は静かに微笑んだ。
「派手ではなくても、退かぬ者がいればこそ、後ろの者が生きます」
***
僕はその言葉を、胸の中で繰り返した。
派手ではなくても、退かずに務めを果たす者。
僕は父上のような天才ではない。剣も下手で、成績も中ほどで、力と才覚で敵を断ち斬ることもできない。
だけど。
退かずに盾になることなら。皆の力を一つに束ねることなら。僕にも、できるかもしれない。
初めて、そう思えた。
「……ありがとう、ミュラー元帥」
「もったいなきお言葉」
元帥が腰を上げようとした。僕は、もう一つだけ、と引き止めた。
***
「あの、敵の将のことです」
僕は、ずっと胸に沈んでいた、あの棘のことを口にした。
「最後に、全周波で僕に言い残した人。……善き皇帝の、次に来るものは何か、と。あの人は、どんな人だったのですか。元帥は、あの人と戦ったのでしょう」
ミュラー元帥の顔が、わずかに引き締まった。
しばらく答えなかった。何かを選んでいるようだった。
「エイジ・クルス」やがて元帥は、その名を口にした。
「旧同盟の、最後の提督の一人にございました。……あの者は、強うございました。数も、地の利も、初撃も、すべて向こうが上でした。あれを凌げたのは、正直、紙一重にございます」
「悪い人、だったのですか」
「いいえ」
元帥の答えは静かだが、はっきりしていた。
「あの男は、敵ながら、自ら命を賭して信じるもののために戦うておりました」
僕は顔を上げた。
「滅びた国の、もう掲げる者も少なくなった理想のために。飢えながら、老いながら、最後まで。……ああいう者を、私は悪人とは呼びませぬ。討たねばならぬ相手でした」
元帥は遠くを見た。
「敬うべき、『敵』にございました」
元帥は、しばらく黙っていた。それから、独り言のように、ぽつりと続けた。
「……敬う、という気持ちを、私は、あなたの父君から教わったように思います」
僕は、はっとして元帥を見た。
「先帝陛下は、敵を侮られませんでした。ヤン・ウェンリーという、生涯ただ一人、正面から先帝を破った男がおりました。……先帝は、その男を憎むどころか、いつか語り合いたいと願うておられた」
「父上が……」
「あなたは、その方の御子にございます」元帥は僕を見た。「敵を敬えるお方は、父君のいちばん良いところを、受け継いでおられます」
***
敵を、敬う。
その言葉は、僕の中に静かに落ちた。
僕はあの名簿の名を思った。
僕を守って死んだ、味方の名を。
だけど、あの戦場で死んだのは味方だけではない。
あの、散り際に歌を歌っていたという敵将も。
その部下たちも。数えきれないほど死んだのだ。
だけど、敵にも名前があった。信じるものが、あった。
「元帥」僕は言った。「あの人の名も。エイジ・クルスという名も。……僕は、憶えておくよ」
ミュラー元帥は少し驚いたように、僕を見た。
それから、深く頭を垂れた。
「陛下は」その声はかすかに震えていた。
「いずれ、よき君主におなりになられましょう」
なぜそう言うのか、そのときの僕には分からなかった。
ただ、鉄壁と呼ばれる将の目が少しだけ潤んでいたことだけを、僕は憶えていた。
***
夕暮れ、宮廷の中庭の泉のほとりで、僕はフェリックスと落ち合った。
「よう」フェリックスはいつもの調子で手を挙げた。「何してたんだ」
「ミュラー元帥と話してた。……フェリックスは?」
「父上と稽古。相変わらず、一本も取れねえ」フェリックスは頭をかいた。それから少し照れたように、付け足した。「でも、なんか、父上のこと、前より分かった気がする」
「そうか」
「お前は?ミュラー元帥と何話したんだ」
僕は少し考えて、言った。
「守るってことと。……敵を、敬うってこと」
「難しそうだな」フェリックスはあっさり言った。「俺には、よく分かんねえや」
「僕も、まだよく分からない」僕は笑った。「でも、少し分かった気がする」
泉の水面が、夕陽で金色に揺れていた。
フェリックスがふと、その水面に目を落とした。
ほんの一呼吸だけ、じっと見て、それから、いつものように、すっと視線を外した。
「どうした」
「別に」フェリックスは短く言った。
いつもの癖だ。僕はそれ以上、問わなかった。
ただ、その日のフェリックスは、目を逸らしたあとも、どこか晴れやかだった。
二人並んで、金色に揺れる泉をしばらく黙って眺めていた。
初陣から、半月。
僕たちはまだ、何も分かっていない。
あの敵将の問いも、一万二千の名の重さも、これから僕たちが背負っていくものも。
だけど、この半月で、僕は知った。
僕たちのまわりには、教えてくれる人たちがいる。
戦場の顔と、それとは違う顔とを、両方持った大人たちが。
その人たちの話を、僕はもっと、聞いてみたいと思った。
泉の水音だけが、静かに、暮れていく庭に響いていた。