【新帝国暦二十三年十二月 マーロヴィア星域 帝国軍総旗艦ブリュンヒルト・艦橋】
戦術図のどこを見ても祈燈の光があった。
神聖黄金樹教国、第一聖団。三個艦隊三万隻。
そのうち二個艦隊二万隻がすでに戦域へ入っていた。
前方にも、後背にも。
左右から回り込んだ光列はさらに上方と下方へ伸び、ブリュンヒルトを中心とする帝国船団を幾重にも取り巻いている。
その艦々の船腹には黄金色の経文が灯されていた。
遠くにあるものは星の列に見えた。
近いものは一字一字まで読めた。
どの方角にも切れ目がない。
帝国船団を包む暗い宇宙のそのさらに外側を、祈りの文字が閉じていた。
「退避航路、完全に遮断されました」
報告が落ちた。
艦橋を一度、完全な沈黙が支配した。
「代替航路は」
ミッターマイヤーが言った。
参謀たちが星図に取りついた。
逃げ道を探して視線を一周させても、最後には同じ場所へ戻ってくる。
辺境の航路は細い。正規航路が一本太く通っているだけで、あとは廃れた旧航路が数本絡んでいるにすぎない。
しかも旧航路の管制もほとんどは現在の中継網に接続されている。
敵がそこを握っている以上どの道を選んでも途中で目を潰される可能性があった。
「護衛に来るザントフォスの辺境分艦隊との連絡はついたか」
「依然、応答がありません。当てにはできません」
星図を囲む者たちの背後で、経文の光だけが増えていった。
そのとき。
「――握られてない航路が、一本あります」
輸送管制席から声がした。
トビアス・ブリュックナー中尉が報告書を掴んで立ち上がっていた。
「旧・第七採掘航路。廃止された道です。現行の航路網から切り離されてます。いまの星図からは検索もできません」
彼は綴りを開いた。
「ですが、旧管制設備そのものは残ってる。……設備番号は報告書に載せてあります。抜ければジャムシード星系まで辿り着けます。利用可否は未確認のままです」
星図の上に古い航路が一本引かれた。
「帝都から出発以来、この星域の燃料の動きを追ってました。敵の備蓄は主航路の要所にだけ積んであります。追う側は追う道に飯を置く。逆に言えば、飯を置かなかった道は敵が使わないと決めた道です」
「なぜ追ってこられないと言い切れる」
「補給です。この道には港がもない。狭い区間も多い。補給船団を連れて追撃する航路じゃありません」
トビアスは星図を指した。
「戦闘艦だけで入って、追って、帰りの燃料まで数えりゃ足りない。だから敵はここを退路に数えてない。数えてないから、本気では見張ってません」
「――我々も片道分しか持っていないが」
「持ってます」
トビアスは綴りをもう一枚めくった。
「港湾復旧用の非常備蓄です。現地引渡しの予定でしたが受け取りを拒否されました。引き取り手のなかった燃料がまだ船団の腹に残ってます」
機関参謀が顔を上げた。
「民生規格だぞ。軍艦用の高純度燃料とは違う」
「分かってます。定格出力は出せません。長く使えば機関にもよくない」
トビアスは旧航路の終点を指した。
「でも戦うための燃料じゃない。逃げるためです」
一拍置いた。
「最大戦速と戦闘機動には使えません。巡航出力なら問題ない。ジャムシードまでは持ちます」
艦橋が静かになった。
ミッターマイヤーは何とも言えない顔をした。
帝国の旧同盟領辺境での不人気さに救われる日が来ようとは、さすがに予想していなかった。
「……よし」
ミッターマイヤーが短く言った。
「旧・第七採掘航路。そこを撤収回廊とする。輸送主任、管制班を一つ割け。旧航路の通過管制はブリュックナー中尉を主任とする」
トビアスが顔を上げた。
「……小官をですか」
「貴官が見つけた道だ。必要な人員は付ける。通過順序と間隔の判断は貴官に任せる」
ミッターマイヤーは戦域図を指した。
「この細い道へ船団を順番に通せ。一隻も詰まらせるな」
「……本当に、俺が」
「本気だ」
ミッターマイヤーはわずかに口の端を上げた。
「今日の船団は貴官の帳場だ」
だが道を見つけたことと、そこへ入れることは別だった。
旧第七採掘航路の入口はマーロヴィア外縁の岩塊群に開いた細い裂け目の向こうにある。
その前にも第一聖団の包囲線があった。
二万隻の包囲は正規航路だけを塞いでいるのではない。
経文を灯した艦列は船団の全周を取り巻き、その一部が旧航路の入口と帝国船団との間にも横たわっていた。
星図に一本の道は現れた。
だがその道の口は敵の向こう側にある。
ミッターマイヤーが立ち上がった。
「入口を開けます」
アレクが顔を上げた。
「卿が行くのか」
「ここを破らなければ、どれほど見事な撤収計画を立てても一隻も入りません」
それだけ言ってミッターマイヤーはブリュンヒルトの艦橋を出た。
ほどなく総旗艦人狼が船団の外殻を離れた。
その後ろから直属艦隊が続く。
回廊の口をこじ開ける役に、疾風ウォルフは自ら立った。
敵の主斉射は七十秒周期だった。
斉射が過ぎる。
その瞬間、ミッターマイヤー艦隊が動いた。
最大戦速で包囲線へ迫り、回廊入口の前を横切る敵艦列へ火力を集中する。
次の斉射が来る寸前には岩塊と廃材の陰へ散った。
光が虚空を裂く。
撃ち終わる。
また飛び出す。
裏拍。
裏拍。
裏拍。
敵の律儀な時計の拍と拍のあいだにだけ疾風は存在した。
正確で重い斉射も来る時刻が分かれば避けられる。
第一聖団の戦艦列が七十秒ごとに火を吐くたび、その正面から帝国艦は消え、撃ち終えた空間へ別の一群が飛び込んだ。
包囲線の一角だけが少しずつ後ろへ押されていく。
警護連絡席でフェリックスは父の艦隊の航跡から目を離せずにいた。
二年前、士官学校で三脚架の教導隊と戦った評価戦で彼は「開く前に走り出す」操艦を覚えた。
だが父のそれは次元が違った。
扉が開く前に走るのではない。
敵が扉を開ける時刻を知って、その向こう側ですでに走っている。
「――ああ」
フェリックスは掠れた声で言った。
「あれが、本物の疾風だ」
言ってから少しだけ誇らしげな顔をした。
包囲線が割れた。
経文の光が左右へ押し分けられその向こうに暗い裂け目が現れる。
旧第七採掘航路。
ほんの数分前まで誰の星図にもなかった退路だった。
「船団、突入開始!管制、頼む!」
「了解!」
トビアスは待機船の列を見た。
「第九輸送群、待て。曳航船を先に入れる。三十秒だ。――次、第三補給群」
返答を待たず、次の回線へ切り替える。
「第二輸送群、速度そのまま。前を詰めるな。入口で止まったら全部止まるぞ」
二万隻の光の壁に開いた細い穴へ、船団が一隻ずつ吸い込まれていった。
***
撤収の順序はハインリヒが組んだ。
損傷船が先。
民間船団が続き、補給船、戦闘艦の順で細い回廊へ入る。
彼が更新し続けてきた撤収案から、この航路に使えるものがそのまま採られた。
ミュラー艦隊は船団の外殻を保ったまま入口まで下がり、民間船団の盾となっている。
その間も殻は回り続けていた。
敵の斉射を受ける面へ傷の浅い艦を回す。
撃たれた艦は横へ流し内側へ下げる。
次の七十秒には別の艦が前へ出る。
それでここまで耐えてきた。
だが限界が近づいていた。
エネルギー中和磁場の回復が間に合わない艦が出た。
「第三防護列、交代!」
外周から損傷艦が下がる。
代わって前へ出た戦艦もすでに何度か斉射を受けていた。
「中和磁場の出力七十二パーセント!」
「そのまま出せ」
「次の斉射まで五十八秒!」
船団の殻がゆっくり回る。
光の柱が来た。
「戦艦グライフェンベルク、エーレンフェルト、ローゼンハイム、撃沈!
「戦艦ヘルムヴィーゲ、航行不能!巡航艦グリムゲルデ、ロスヴァイセ、撃沈!」
「穴を埋めろ!」
後続艦が前へ出た。
その艦も無傷ではなかった。
パーツィバルの艦橋で参謀が戦況図を見た。
「閣下。このままではもちません」
「分かっている」
「船団から離れて陣形を解けば、まだ機動でかわせます」
それもミュラーには分かっていた。
守るものが艦隊だけならそうしている。
球を解き、敵の射線を外しながら散開すればいい。
鉄壁とは敵弾を正面から受け続けることではない。
だが球の内側には民間船がいた。
殻を解けば砲火はそのまま中へ通る。
「まだ何隻残っている」
「民間船と救難艦、百八十一隻」
「なら解けん」
ミュラーはそれだけ言った。
「外殻を維持する。最後の一隻が入るまで回せ」
「はっ」
***
【帝国軍総旗艦ブリュンヒルト・艦橋】
通信画面が二つ開いていた。
一方には旗艦パーツィバルのミュラー。
もう一方には人狼へ戻ったミッターマイヤーが映っている。
『陛下。ブリュンヒルトはもう回廊へお入りください』
ミュラーが言った。
「民間船と救難船が全部入ってからだ」
『陛下がここにおられる限り直衛も残さねばなりません。ブリュンヒルトを先に通せばその分だけ後衛へ回せます』
もう一つの画面からミッターマイヤーが続けた。
『意気込みはご立派です。ですが陛下ご自身が残られることで改善する状況はございません』
「駄目だ。余は最後まで残る」
二つの画面がしばらく黙った。
『陛下』
ミッターマイヤーが言った。
『これは勇気の問題ではありません』
「分かっている」
『ならば』
アレクは二人の元帥を見た。
「二十年前のシヴァ星域会戦」
画面の向こうでミュラーが目を伏せた。
ミッターマイヤーの顔から表情が消えた。
「『ローエングラム王朝の皇帝は、兵士たちの背中に隠れて、安全な宮廷から戦争を指揮することはせぬ』」
アレクは続けた。
「『卑怯者がローエングラム王朝において至尊の座を占めることは、けっしてない』。父はそのように帝国軍将兵に約束したそうだな」
『陛下。それは先帝陛下が――』
「知っている。父上と余では状況が違う。敵も違う。戦場も違う」
アレクは遮った。
「だが敵はそこまで区別しない」
二人の元帥から声はなかった。
「余が先に退けば、あの国は何と言う」
通信画面のミュラーの表情がわずかに変わった。
「民間人や負傷者を残して、卑怯者の皇帝は逃げた。そう流すだろう。さきほどから奴らが何をしているか卿らも見ているはずだ」
『それは単なる宣伝です』
ミッターマイヤーが言った。
『……事実ではございません』
「事実である必要があるのか?」
返事はなかった。
シヴァ星域会戦。
先帝ラインハルトが率いる新帝国軍とイゼルローン共和政府軍との最後の戦い。
二人ともその戦場で先帝の言葉を聞いていた。
あのときは誇りだった。
父の言葉が二十年余りの時を越え、いま息子を死地に縛っている。
先に沈黙を破ったのはミッターマイヤーだった。
『……承知しました』
ミッターマイヤーはアレクを見据えた。
『ただし条件がございます。ブリュンヒルトは最後尾には置きません。陛下には救難艦の通過を確認した時点で、直ちに回廊へ入っていただきます』
アレクは頷いた。
「それでいい」
***
【旧第七採掘航路入口 アルブレヒト、シェパード、リヒター】
最後の輸送船が旧航路へ入った。
ミュラー艦隊の外殻はすでに原形を失いかけていた。
中和磁場を使い切った艦。
艦首を失った艦。
片舷の砲塔を沈黙させたまま列に残る艦。
それでも彼らは回廊へ入らなかった。
その外側から三個戦隊が下がってきた。
三脚架も無傷ではない。
彼らもまた別方向から第一聖団に押され続けていた。
船体には焦げ跡が走っている。
沈んだ艦のぶんだけ隊列には穴があった。
それでも三つの戦隊は互いの間隔を保ったまま旧航路の入口へ収束した。
「三個戦隊、所定位置へ!」
ミュラー艦隊の正面を三脚架が横切った。
一個。
二個。
三個。
三つの戦隊が敵との間へ入る。
これでミュラー艦隊が退くわけではなかった。
外側を三脚架が受け持つ。
その内側には傷ついたミュラー艦隊が残る。
さらにその後ろに旧第七採掘航路の入口があった。
盾が一枚増えた。
シェパード准将。
リヒター准将。
アルブレヒト准将。
三人とも二年前より階級章が増えていた。
乗っている艦は二年前より傷だらけだった。
船団の殿軍はここから三脚架が引き受ける。
回線が開いた。
『皇帝陛下。二年前は、よくもうちの受け渡しを撃ってくださいましたな』
聞き覚えのある軽い声だった。
『あれはなかなか効きました。いずれお返ししたいところですが――今日はやめておきましょう。船団の後ろは、我々が引き受けます』
『黙れ、シェパード』
リヒターの声が割り込んだ。
『……船団があの細い口を抜け切るまで追撃をここで喰い止める』
画面の上で三隊が展開した。
シェパードの戦隊が前へ出る。
追撃してくる灰色の海の先鋒へ、隙のある背中を見せて深追いを誘う。
敵が食いついた。
シェパードが退く。
伸び切った敵の正面へ、入れ替わるようにリヒターの戦列が滑り込んだ。
扉が、開いて、閉じた。
クラインは画面から目を離さなかった。
演習で自分たちが撃った継ぎ目である。
いま彼らはそれを自分から開けている。
『リヒター。次の受け渡し、六秒遅らせてください』
回線に乗ったアルブレヒトの声から、気だるさが落ちていた。
『敵先鋒はもう減速に入っています。それでも戦列が止まるまで四十二秒。まだ前へ流れます。六秒ぶん、深く入れてから閉じましょう』
シェパードが退いた。
いつもなら閉じるはずの場所が閉じない。
敵の先鋒がさらに踏み込んだ。
六秒後、リヒターの戦列が閉じた。
***
【第一聖団〈ベローナ〉艦隊旗艦 ラスバッハ】
「……また閉じやがった」
ラスバッハは戦域図を睨んだ。
シェパードが退く。
追えばリヒターが塞ぐ。
その時刻を読んで突けば今度は閉じるのが遅れる。
「次、左へ三個戦隊。継ぎ目を狙え」
艦隊の先鋒が走った。
だが継ぎ目はその直前にまた消えた。
レームが言った。
「受け渡しを毎回ずらしていますな」
「ああ。分かってる」
ラスバッハは笑った。
「ずいぶん丁寧に扉を閉めてくれるじゃねえか」
その間にも帝国船団は一隻ずつ回廊へ消えていく。
ラスバッハの笑みが薄くなった。
「……めんどくせえ連中だなぁ」
***
【教国軍第一聖団〈マルス〉艦隊・戦闘司令部 シュタイガー】
「亀になりましたな」
参謀長の言葉のとおり、盤上の帝国船団は一個の球体になり、細い口へ吸い込まれ始めていた。
「神託の予定では」
監察司祭の一人が静かに言った。
「敵は散り、順に狩られる、と」
シュタイガーは盤の時刻表を指の背で叩いた。
「疾風が束ねた亀は殻を割るのに手間が要る。ラスバッハには割れまい。あれは割れた殻の中身を漁る犬だ」
麾下の司令を犬と呼ぶ声には侮蔑の温度すらなかった。
道具の仕様を読み上げる声だった。
「殻には殻を割る槌を当てる」
シュタイガーは盤の隅の、まだ動いていない駒に手を伸ばした。
「――メルゼブルク、出ろ」
***
【教国軍第一聖団〈ウィルトゥス〉艦隊旗艦 メルゼブルク】
出撃の命令は祈りの途中に届いた。
ウィルトゥス艦隊旗艦の艦橋で、メルゼブルクは祈りを終え、立った。
形式ではなかった。
この艦隊の祈りは号令ではなく、真の祈りだった。
「全艦、前進。整列を崩すな。急がずともよい」
命令はそれだけだった。
一万隻が一個の身体のように静かに動き出す。
「皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム」
メルゼブルクはその名を一度だけ口にした。
それから盤へ目を戻した。
「二十だ。戦場に立つには若い。死ぬにはなお若い」
「聖将もお若うございます」
副官が言った。
悪気はなかった。
「十一年ぶん、私のほうが長く生きている。……それだけの差だ」
彼は手袋の指を一度だけ組んだ。
祈りの続きだった。
「やらねばならぬなら――せめて、苦しまぬように。一撃で」
闇の中を第二の光の帯がゆっくりと動き始めた。
『よぉ、聖者サマ』
整列の前進が始まって間もなく、回線が粘った。
『助けなんざ頼んでねえぜぇ』
「命令を受けた」
『……そんな綺麗に並んでたら、獲物が逃げちまうぜぇ』
「整列を崩さぬだけだ」
『はいはい。……なあ、そもそもよぉ』
声が笑いの底を這った。
『誰のおかげで、いまそこに座ってると思ってんだ。聖者サマよぉ』
艦橋の何人かが司令を見た。
「ラスバッハ従聖将」
『あぁ?』
「誤解があるようだ。私は拾われた覚えはない」
メルゼブルクの声は静かだった。
「降りたのだ」
***
【帝国軍総旗艦ブリュンヒルト・艦橋】
異変は、観測班の記録から見つかった。
新たに戦域へ入った一万隻。
メルゼブルクの率いるウィルトゥス艦隊。
その艦隊だけ、斉射の間隔が七十秒の前後を揺れていた。
六十九・六。
七十・四。
六十九・八。
『揺れています』
通信画面でクラインの声が照合の結果を告げた。
『新手の艦隊だけです』
「揺れている」
アレクは数字を見た。
「であれば弱いのか」
『……いいえ』
間があった。
『斉射間隔は揃っていません。それでも戦列は崩れていない。照準の乱れも、射線の重複もありません』
クラインはもう一度、数字を見た。
『この艦隊は、機械的統制の七十秒に合わせなくても同じことができます』
***
【旧第七採掘航路入口 アルブレヒト、シェパード、リヒター】
『――やあ、おいでなすった』
殿軍の回線で、シェパードが低く笑った。
笑いの底がこれまでと違った。
『リヒター、アルブレヒト。新手だ。……綺麗な整列で来やがる』
三脚架は型どおりに迎えた。
まずシェパードが釣る。
隙のある背中。崩れかけた退き方。追えば食い破れそうな甘い距離。
ラスバッハの先鋒を何度も罠へ引きずり込んだ餌だった。
メルゼブルクの艦隊は食いつかなかった。
追わない。
速度を上げない。
餌の背中が誘う方向には目もくれず、整列のまま押してくる。
『……釣れねえ』
シェパードの声から笑いが落ちた。
『おい、嘘だろ。あの距離を見せて釣れねえ。……あの艦隊、腹が減ってねえのか』
ならば、と壁が立つ。
リヒターの戦列が、押してくる整列の正面を塞いだ。
伸び切った敵を受け止めて砕く、あの顎である。
だが敵は伸びていなかった。
整列は壁の手前で静かに減速した。
砕けるだけの勢いを、最初から持っていない。
そのまま戦列を崩さず壁の前面にゆっくりと圧をかけ始めた。
殴らない。
押すのである。
一万隻の、一個の身体の重みで。
『……リヒター。押し返さないでください』
『何?』
『押し返せば、こちらが伸びます』
アルブレヒトの声は静かだった。
『あちらはそれを待っているわけでもないでしょうけどね』
『受け渡しの扉は』
リヒターが言った。
『開けて見せたか』
『三度見せ、三度無視されました』
アルブレヒトが答えた。
『番頭。数字はどうした。奴らの穴はどこだ』
『……出ません』
アルブレヒトの声から気だるさはなかった。
『燃料、速度、慣性。どこを逆算しても無理をしている艦が一隻もない。伸びた翼がない。焦れた先鋒がない。
三十秒どころか、十秒の窓もない。リヒター、この艦隊は賭けをしていません』
戦域図の上で整列線がまた一つ前へ出た。
殿軍が、じり、と下がった。
破られてはいない。
まだ穴は開いていない。
それでも下がるしかなかった。
空間を渡す。
そのぶんだけ船団の時間を買う。
殿軍としては正しい。
メルゼブルクはその正解だけを選ばせ続けていた。
***
【教国軍第一聖団〈ウィルトゥス〉艦隊旗艦 メルゼブルク】
副官は射撃指揮の盤を見ていた。
一万隻の射線は殿軍の三個戦隊に向いている。
削られ薄くなった盾の奥に、識別光が一つあった。
皇帝座乗艦ブリュンヒルトである。
射程にはとうに入っていた。
副官は何も言わなかった。
「見事な殿軍だ」
メルゼブルクは言った。
「退きながら距離の主導権を渡していない。あれを率いる者の名を後で調べておけ」
「追撃を強めますか。数では押しています」
「ならん」
メルゼブルクの声は静かだった。
「強行すればこちらの兵が無為に死ぬ。あの殿軍はこちらの焦りを待っている。……急がずともよい。整列のまま押せ」
一万隻は急がず、揺らがず。しかし一分を稼ぐたびに三個戦隊の戦列は薄くなっていった。
***
【帝国軍総旗艦ブリュンヒルト・艦橋】
『――撤収が遅れています』
アルブレヒトの声が指揮回線に流れた。
『殿軍、後退線を二本、内側へ下げました。船団の抜け時刻から逆算して……予定より五分、押し込まれています』
作戦部のハインリヒは結論だけを艦橋へ上げた。
「最終艦の通過予定、当初計画より五分遅延。これ以上艦間を詰めれば回廊内での閉塞率が上がります。現行間隔を維持します」
「それでいい」
ミッターマイヤーが答えた。
「急がせて詰まらせるな」
***
【旧第七採掘航路 回廊口 ミュラー艦隊】
回廊へ吸い込まれていく船団の最後尾をなおミュラー艦隊の回る殻が包んでいた。
三脚架が後ろを喰い止め、その間をミュラーの鉄壁がブリュンヒルトを包んだままじりじりと回廊へ下がっていく。カーラの救難艦も担当していた収容を終えてすでに入口へ入った。
それでもまだ外に人が残っていた。
「あと六隻だ」
ミュラーは後方宙域を指した。
救難線から外れた位置に航行不能船が六隻残っている。
推進器を失った文官輸送船。
行政監査船も一隻、姿勢を崩したまま漂っていた。
三脚架と敵艦隊のあいだに取り残されており、回廊から救難艦を戻せる位置ではない。
「こちらで回収してから入るぞ」
「元帥、三脚架が回廊口まで押されています。今、入らなければ――」
「分かっている」
ミュラーは穏やかに答えた。
「あの六隻に何人残っているか数えたか」
副官は答えなかった。
「私は数えた。五百十二人だ」
巡察に同行した官吏や技術者などの文民が多数乗っていた。
戦域図の向こうで六隻のうち一隻がまた被弾した。
すでに推進器を失っている。逃げることもできず船体の姿勢だけがゆっくりと崩れていった。
「五百十二人の文民を置いて狭い道へ逃げ込む軍人を、鉄壁とは呼ばん」
収容艇が出た。
回収には二十分を要した。
その二十分のあいだに三脚架の後退線はさらに内側へずれた。
メルゼブルクの整列は急がず、崩れず、それでも確実に回廊口へ近づいてくる。
七十秒ごとに光が届く。
もう外殻をきれいに回す余力はなかった。
エネルギー中和磁場の回復を待てる艦も少ない。
傷ついた艦を下げればその穴へ入るのは同じように傷ついた艦だった。
「左舷防護列、二隻脱落!」
「戦艦グライフェンベルク航行不能!巡航艦ボスフェルト、ヴァルデック撃沈!」
「穴を埋めろ!」
艦列が詰まる。
その内側を収容艇が走っていた。
「第三艇帰投!」
「第五艇、監査船へ接舷!」
「敵斉射、次弾四十秒!」
ミュラーは戦術画面と救難表示を交互に見た。
六隻が残っている。
どれも自力では回廊まで来られない。
「第四艇、収容完了!」
「残り二隻!」
次の斉射が来た。
外殻の一角が光に呑まれた。
三隻の反応が消えた。
「第六防護列、もちません!」
「もたせろ。あと二隻だ」
「閣下、回廊入口まで後退を――」
「まだだ」
収容艇が一隻戻った。
最後の一隻から救命ポッドが射出される。
「ポッド確認!」
「次弾二十七秒!」
「拾え!」
艇が飛び出した。
ミュラー艦隊の外周ではもう交代する艦が足りなかった。
後ろへ下がるはずだった戦艦がそのまま前に残り回復しきらない中和磁場をもう一度展開する。
「次弾十二秒!」
救命ポッドが収容艇へ吸い込まれた。
「収容!」
「人数!」
数秒だけ返事がなかった。
「五百十二。全員確認!」
「よし。全艦退避!」
その直後に斉射が来た。
光の中でミュラー艦隊が回廊へ向きを変える。
もう陣形を整える余裕はない。動ける艦が動けない艦を庇いながら細い入口へ殺到した。
それでも五百十二人を、一人も置いていかなかった。
ブリュンヒルトもミュラー艦隊に囲まれて回廊へ入った。
***
【帝国軍総旗艦ブリュンヒルト・艦橋】
旧第七採掘航路の中に入ると岩塊と暗礁宙域に遮られ、旗艦からの電波は回廊の全域に届かなかった。
だが回廊の途中には使える中継局があった。
三十年以上前の旧式規格で造られた古い航路管制施設である。
遠隔では起動できなず、指向性アンテナの切り替えも現地操作しか受け付けない。
船団をあの細い道へ通し続けるには施設の通信設備を起こして現地で交通を捌く必要がある。
設備を起こし、航路標識と中継系を生かすところまでは技術班がやる。
その先は別の仕事だった。
「俺が行きます」
トビアスは管制艇へ乗り移りながらそれだけ言った。
「技術班を先に降ろします。設備を起こしてもらう。航路標識と中継が生きたら連中は船団へ戻します」
通信画面のミッターマイヤーが訊いた。
『ブリュックナー中尉。貴官はどうする』
「残って船を流します」
間を置かずに答えた。
「全船の通過順と割り当てを持ってるのは俺です。遅れた船、曳航になった船、途中で順番を入れ替えた船まで、こっちでずっと更新してます」
トビアスは手元の表示を叩いた。
「途中で管制官を替えて、数千隻ぶん引き継いでる暇はありません」
たまらずフェリックスが言った。
「待て、トビアス。警護から人を――」
「フェリックス」
トビアスは遮った。
「技術班がいる間は付けてくれ。連中が帰ったら警護も一緒に帰せ」
「……お前一人で残る気か」
「一人で足りる」
トビアスは笑った。
「もちろん機械は直せねえよ。壊れたら俺じゃどうにもならねえ。でも技術屋を残したって、止まった設備を直してる時間はない。壊れたらそこで終わりだ」
一度、管制局の表示へ目をやった。
「動いてるあいだ船を通すのは、俺一人で足りる」
それからいつもの調子で付け足した。
「撃たれる前に終わらせて最後の便で帰る。……段取りは俺の商売だぜ」
フェリックスはまだ何か言いたそうだった。
通信画面のミッターマイヤーが先に口を開いた。
『技術班と警護は設備起動後ただちに離脱。ブリュックナー中尉は最終船の通過まで管制。その後、自身も離脱する。それでいいな』
「はい」
ミッターマイヤーはそれ以上訊かなかった。
『――ブリュックナー中尉』
「はい」
『行け』
「了解」
トビアスは管制艇の梯子を下りた。
***
【教国軍第一聖団・指揮回線 ラスバッハ】
『よぉ、シュタイガー司令ぇ』
ラスバッハの粘った声が指揮回線に乗った。
『見えてんだぜぇ、皇帝サマの尻尾がよぉ。あの細い穴に頭から突っ込みゃ、獲れるぞぉ。……なあ、獲らせてくれよぉ。首だぜ?皇帝の首だぜぇ?』
『反対する』
静かな声が被さった。
メルゼブルクである。
『狭隘路へ兵を一列に入れるのは戦ではない。兵の浪費だ』
『はぁー、出たよぉ。出ましたよ、聖者サマの説教がよぉ』
『説教ではない。単純な計算だ。あの穴の中ではこちらの数の利が消える。先頭の一隻から順に擂り潰されるだけだ。皇帝を討つなら次は正面から討つ。今日の勝利を追撃の損耗で汚すな』
『計算ねぇ』
ラスバッハは舌を鳴らした。
『なぁ、いいだろぉ、シュタイガー司令ぇ。俺が今から追いついて、ブリュンヒルトに乗り込む。皇帝サマを引きずり出してきてやるよ』
喉の奥でくつくつと笑った。
『世の中ってやつをたっぷり教えてやるぜぇ。どうせ女も男もまだ知らねえんだろ……優しくはしねえけどなぁ』
メルゼブルクは答えなかった。
『ラスバッハ』
シュタイガーの声が短く入った。
『貴様の話は聞くに堪えん。理由は品ではない。長い。次は回線を落とす』
『……へいへい』
回線にはしばらく、ラスバッハの低い笑いだけが残った。
『ところで、聖者サマさぁ。皇帝サマの光、見えてんだろぉ?』
『見えている』
『だったら撃てよ』
『射線が通らん』
『……ふぅん』
ラスバッハは笑った。
信じていない笑い方だった。
後方の司令部は二人のやり取りを黙って聞いていた。
『シュタイガー司令』
メルゼブルクだった。
『追わぬのが上策と存じます。あの回廊に補給はありません。入れば、渇くのは我らです』
『……』
『あるいは放っておいても敵の燃料は尽きるかもしれません。ですが敵の腹の中身は分かりません。我らの腹は分かります』
『――追撃はここまでとする』
シュタイガーの裁定は短かった。
『全隊、収容と再編に移れ。
ラスバッハ。貴様の獲物は逃げた。次で獲れ』
『……へいへい』
『メルゼブルク――見事だった』
『恐縮です』
回線が閉じた。
***
ラスバッハは閉じた回線を見ていた。
「レーム」
「はい、閣下」
「『野犬』を放て」
レームは回廊の幅と残存燃料を確認した。
「出せるのは七隻です。目標は」
「皇帝。ブリュンヒルト」
「生死は」
「生きてりゃ連れてこい。無理なら首だ」
「帰還分の燃料は」
「要らねえ。皇帝を獲りゃ、帰りの船はいくらでもある。失敗した犬は帰ってくる必要がねえ」
「承知しました、閣下」
レームの端末上で所属符号を持たない七隻が選び出された。
正規艦隊の戦列には載らない。
だが存在を秘匿されているわけでもなかった。
第一聖団司令部の秘匿名簿には正式名称が記されている。
『
殺人、海賊行為、反逆、軍紀犯罪。
罪状も経歴もばらばらだった。
共通していることが一つある。
全員死刑囚だった。
刑の執行停止と引き換えに彼らには首輪が与えられた。
細い金属環だった。
発信機と薬剤槽が内蔵され外すことはできない。
薬剤槽の中身について説明を受けない者はいなかった。
解毒剤は、ない。
教国軍の将兵はそれを『野犬の首輪』と呼んだ。
定められた時刻までに司令部から更新信号を受ければ、時計は戻る。
受けなければ薬剤槽が開く。
外そうとしても同じだった。
任務を終えて戻れば次の期限が与えられる。
戻らなければいずれ死ぬ。
赦された者は一人もいなかった。
ただ死刑の執行を次の任務まで延ばされているだけである。
ラスバッハから直接汚れ仕事を受ける者たちだった。
教国軍の将兵はこう呼んでいた。
『ラスバッハの野犬』、と。
レームが命令を送った。
『聖赦執行隊。単独追跡、七隻。目標は皇帝旗艦ブリュンヒルト。
皇帝を確保せよ。抵抗する者は聖赦せよ』
返答は七つだった。
『受領』
第一聖団の後方から小型艦が一隻ずつ離れていった。
選ばれた七隻は正規艦隊の小型艦ではない。
艦砲戦をするための艦でもなかった。
偽装識別器。
接舷具。
強襲艇。
隔壁破砕装置。
艦を沈めるより、内へ人を送り込むために造り替えられている。
艦体に教国の聖印も所属標識もない。
乗員も軍服を着けていなかった。
識別灯を落とし味方の艦影に紛れながら七隻は痩せた回廊へ滑り込んでいく。
艦隊を入れれば先頭から擂り潰される。
七隻なら回廊の陰を使える。
皇帝を獲って戻れば独断は手柄に変わる。
失敗すれば野犬が何匹か消えるだけだった。
「行けや、犬ども」
七つの光点が闇へ消えた。
「迷子の皇帝を食ってこい」
――「……賭けは、俺の勝ちだ」
次回、『開戦(後編)』