銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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幕間 集う者たち(三)
七「ゴットフリート・フォン・メルゼブルクと赤毛の騎士」


【新帝国暦二十三年末 帝都レーヴェンシュテルン 皇太后ヒルダ】

 

神聖黄金樹教国(サンクタ・アルボル・アウレア)建国の日の戦報が帝都へ届いたのは、年の暮れである。

教国軍の艦隊司令の一覧に、帝国人なら見覚えのある名が一つあった。

 

 ゴットフリート・フォン・メルゼブルク聖将。

 教国軍(サンクタ・ミリティア)第一聖団〈ウィルトゥス〉艦隊司令。

 

皇太后ヒルデガルドは、その名のところで目を止めた。

四年前まで帝国軍人だった男である。

 

マリーンドルフ伯爵家を寄親とする旧門閥貴族の出で、士官学校を卒業してから長く辺境に勤務した。

大佐のとき、旧同盟領辺境のロフォーテン星系で軍命に背いて駆逐戦隊を動かし、軍法会議にかけられた。

事実関係を争わずに予備役編入。

 

その翌年には爵位と領地を返し、自分の代でメルゼブルク家を閉じた。

それから帝都を去った。

どこへ行ったのかは誰も知らなかった。

しばらくは宮廷でも噂になったが、やがて誰も口にしなくなった。

 

その名がいま、敵軍の将として戻ってきた。

疾風ウォルフと鉄壁ミュラーを相手に皇帝を敗死の際まで追い込んだ一万隻の艦隊指揮官として。

 

ヒルダは戦報を二度読んだ。

二度目を読み終えてから、冷たい林檎の汁を頼んだ。

その名を初めて訊き話したときも、林檎の汁を飲んでいた。

二十五年前のことである。

 

 

***

 

 

【宇宙暦七九六年(帝国暦四八七年) マリーンドルフ伯領 ゴットフリート】

 

まだローエングラム王朝の存在しない時代。

銀河帝国を治めていたのはゴールデンバウム王朝である。

 

ゴットフリート・フォン・メルゼブルクは六歳だった。

 

順番が好きだった。

朝の着替えにも、食事の皿にも、廊下を歩く歩幅にも順番があった。

順番のあるものは安心できた。順番のないものは、まだ名前がついていないのと同じだった。

もう一つ好きなものがあった。

騎士の話である。

 

母が寝る前に読んでくれる古い本には、旗と、馬と、約束が出てきた。

彼がとくに好きだったのは戦の場面ではない。

騎士が誰かに何かを約束してそのとおりにする場面である。

 

「どうしてこの人たちは約束を守るのですか」

一度、母に訊いたことがある。

 

「守ると言ったからでしょう」

 

「言っただけなのに?」

 

「約束をするというのは、そういうことなのですよ」

 

母はそう答えて頁をめくった。

ゴットフリートにはそれでよく分かった。

言う。守る。

順番が決まっている。

 

メルゼブルク家は、マリーンドルフ伯爵領の一角に所領を持つ小さな貴族の家だった。

 

伯爵家とは縁戚にあたるが家格にはずいぶん開きがある。

マリーンドルフ伯爵家は門閥貴族のなかでも名の通った家で、当主フランツは穏健な人柄で知られていた。

それに比べればメルゼブルク家など、伯領の片隅で麦と羊を数えている家にすぎない。

 

宮廷の派閥争いとは縁がなかった。

加わるほどの家格ではなかったからである。

 

ただし凶作の年には必ず穀倉を開く家だった。

父の代も、祖父の代にも、その前の代にもそうしたという。

 

「特権は、貴族としての務めを果たすために預かっているものだ」

 

父はそう教えた。

なぜ、とゴットフリートは訊かなかった。

預かったなら、返す。

持っているなら、そのぶん働く。

これにも順番があった。

 

 

***

 

 

その年の春、カストロプ公爵家が反乱を起こした。

 

先代当主オイゲン・フォン・カストロプは長く財務尚書の職にあり、その地位を利用して莫大な私財を蓄えていた。彼が死ぬと帝国政府はその返還を求めたが、嫡子マクシミリアン・フォン・カストロプはこれを拒み、私兵を集めて抵抗した。

 

カストロプ家もまたマリーンドルフ伯爵家とは縁戚にあたる。

 

当主フランツ・フォン・マリーンドルフは説得のためカストロプ公領へ赴き、そのまま帰ってこなかった。

監禁されたのだとマリーンドルフ家と帝国が知ることになったのは、それからしばらく後のことである。

 

夏のはじめにはカストロプ家の艦隊がマリーンドルフ伯領へ入り、伯領を併合して帝国の一角に半ば独立した王国をつくることが、マクシミリアンの企図であるらしいと伝わってきた。

伯爵家の警備隊は帝都オーディンへ救援を求めた。

 

だが地上にいる者には、宇宙で艦隊同士がどう向き合い、どちらがどこまで進んでいるのかなど見えなかった。

空を見上げても平時と変わらず、戦争が近づいていることを知らせるものといえば、館の通信機が鳴る回数と、大人たちの顔つきくらいのものである。

 

通信が鳴れば誰かが廊下を走り、鳴らない日が続けば屋敷はかえって静かになった。ゴットフリートが最初に憶えた戦争の音は砲声ではなく、遠くの部屋から聞こえてくる呼び出し音だった。

 

やがて電力の使用まで制限されるようになり、館の灯は決められた順番で消されていった。最初は車庫と物置、それから東の廊下、客間、最後に書庫である。ゴットフリートは毎晩、夕食のあとに廊下の端まで歩き、その日まだ灯っている場所を数えた。

 

数えたところで灯が戻るわけではない。それでも数えておかなければ、昨日まであったものが一つ減ったことに気づけないような気がした。

 

大人たちは以前より声を落として話すようになり、ゴットフリートが部屋へ入ると、たいてい途中で話をやめた。

 

 

***

 

 

その夏、ヒルダが来た。

 

ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ。マリーンドルフ伯爵家の一人娘で十九歳になっていた。父が監禁されているあいだ、彼女はその代わりに領内を回っていた。戦が行われているのは宇宙であり地上ではまだ普通に日が暮れ、畑では麦が揺れていた。

 

その日、メルゼブルク領にも彼女が来る順番が回ってきた。

 

大人たちが応接室で長い話をしているあいだ、ゴットフリートは廊下で待っていた。やがて扉が開き、父や家令たちとともに出てきた若い娘が、廊下の端にいる彼を見て足を止めた。

 

「あなたが末の坊ちゃまね」

 

「ゴットフリートです」

 

「ヒルデガルドよ。ヒルダでいいわ」

 

「……ヒルダお姉さま」

 

彼女は少し笑った。

応接のあと、ヒルダはすぐには次の訪問先へ向かわず、庭のベンチで休むことになった。使用人が冷やした林檎の汁を運んでくると、彼女は礼を言ってグラスを受け取り、半分ほど飲んでからようやく背を預けた。

 

ゴットフリートはその隣に座った。

 

当時の彼は、ヒルダが自分と話したかったのだと思っていた。

だがずっと後になってから考えれば、あの十九歳の娘はただ十五分ほど誰にも判断を求められず、静かなところに座っていたかっただけなのかもしれない。

 

それでも彼女は、ゴットフリートが話し始めると彼の話を最後まで聞いた。

 

ゴットフリートは騎士の話をした。夜ごと母が読んでくれる古い本について、旗の色から馬の名前まで初めから順に説明し、最後には彼がいちばん好きな、騎士が誰かとの約束を守る場面の話になった。

 

「ぼくは騎士みたいな人になりたいです」

 

「どうして?」

 

「強いからではありません」

 

彼は真剣な顔で答えた。

 

「本のなかの騎士は、遠いところから来ます。呼ばれていなくても来て困っている人を助けます。それで、終わったら帰るんです。ぼくはそこがいちばん好きです」

 

「帰ってしまうところが?」

 

「はい。だって、助けに来て、ちゃんと助けて、お礼も何もいらないって帰るんでしょう?」

 

ヒルダはグラスを持ったまましばらく答えなかった。

「そういう人は、あまりいないわよ」

 

「いないんですか」

 

「……まったくいないと決まったわけではないわ」

 

ゴットフリートは少し考えてから訊いた。

「助けは、来ますか」

 

ヒルダは手の中のグラスを見た。氷はもうだいぶ小さくなっていた。

「来る」

そう答えて、残っていた林檎の汁を飲んだ。

 

 

***

 

 

夏の終わりに報せが来た。

館の通信が鳴ると大人たちが走った。やがて誰も走らなくなった。

帝国から派遣された討伐軍が敗れ、指揮官のシュムーデ提督が戦死したのである。

 

その日の夕方、ゴットフリートは客間の隅に座って大人たちの話を聞いていた。いつもなら彼が入れば話をやめる者たちも、この日は誰一人として口を閉ざさなかった。そんな余裕もなくなっていたのだと後になって思う。

 

二度目の討伐軍も敗れたと知ったのは、それから半月ほど後だった。このころになると館の通信が鳴っても誰も走らず、呼び出された者だけが席を立つようになっていた。

 

カストロプ側の使者は三度来た。

 

三度目の日、ゴットフリートは廊下の角から応接室を覗き、閉まりかけた扉の向こうに父と家令の姿を見た。

 

「穀倉を開けよ、と申しております」

 

「開ければどうなる」

 

「……家は残ります。残りますが」

 

そこで扉が閉まった。

家が残るというのがどういうことなのか、ゴットフリートには分からなかった。ただ穀倉の中身なら知っていた。三年前の冬にはあそこから麦が運び出され、坂の下にある家々へ配られている。

 

父の返事はその日も翌日も出なかった。そのまま四日が過ぎると穀倉の前には人が立つようになったが、守るためなのか開けるためなのかは誰も教えてくれなかった。

 

その夜、ゴットフリートは廊下を通りかかった執事を呼び止めた。

 

「ぼくの部屋の灯を消してください」

 

執事は手にした灯を下ろさないまま足を止めた。

「なぜでございます」

 

「そのぶんを下の人たちに回してください。ぼくは寝るだけですからいりません」

 

執事はしばらく黙ってから、いつもより丁寧な声で答えた。

「そういうものではございません」

 

「どうしてですか」

 

「そういうふうにはできておりませんので」

 

その言葉に嘘はなかった。

 

ゴットフリートの部屋の灯を消すことはできても、そのぶんの電力が坂の下の家へ届くわけではない。館と領民の家々は、六歳の子供が考えたような簡単な仕組みではつながっていなかった。

 

ゴットフリートは自分の部屋へ戻り、灯のついた寝台に腰を下ろした。いつもなら何とも思わない明るさが、その夜だけは自分のところに余分なものが残っているように見えた。

 

 

***

 

 

ある朝、カストロプ家から派遣されていた艦が一隻も見えなくなった。

 

観測の当番は三度数え直し、四度目にようやく父を呼びに走った。見落としでも観測機器の故障でもなく、本当にいなくなっていたのである。

 

それでも屋敷では半日のあいだ誰も何もしなかった。罠かもしれないという言葉があちこちで交わされ、そのたびに誰かが「そうかもしれません」と答えた。人によって言い方は違っていたが話していることは同じだった。

 

ゴットフリートはその日初めて、大人が長いあいだ怖がっているところを見た。怖がっている大人はじっとしていることができず、何度も同じ報告を確かめたり必要のない場所まで見回ったりした。何もしないで待つことのほうが怖いので、何かしていなければならないのだろうと彼は思った。

 

夕方になると制限されていた電力が戻った。

 

灯はこれまでのように一つずつではなく全部がほとんど同時についた。廊下も書庫も客間も車庫も一度に明るくなり、ゴットフリートは眩しさに目を細めた。

 

父は穀倉を開けずに済んだ。最後まで拒んだから間に合ったのか、それともただ間に合ったから拒み続けることができたのか、当時のゴットフリートには考える理由もなかった。

 

その夜、父は久しぶりに食卓で酒を飲み、いつもより一杯だけ多く杯を重ねた。

 

なぜ包囲が解かれたのかを、その時点で屋敷の者は誰も知らなかった。

事情をゴットフリートが知ったのは数日後になってからである。

 

帝国が三度目に送り込んだ討伐艦隊はマリーンドルフ伯領の救援へ向かうと見せながら、そのままカストロプ公領へ進路を取った。本拠を衝かれると見たマクシミリアンは伯領の包囲を解き、展開していた艦隊を急いで引き揚げた。

 

だが帝国艦隊が狙っていたのはカストロプ公領そのものではなかった。敵艦隊を引き戻したあと小惑星帯の難所に身を隠して通過させ、その後背へ回って攻撃したのである。

 

半年にわたった反乱はジークフリード・キルヒアイス少将の艦隊が動き始めてから十日ほどで終わり、実際に両軍が艦隊戦をおこなったのは二日にすぎなかったという。

 

もっとも六歳のゴットフリートが見たものは、そんな作戦ではなかった。

朝になると敵の艦が消えていて、夕方になると数え続けていた灯がいっぺんについた。

 

それだけだった。

 

 

***

 

 

赤毛の男が来たのは、それから六日後だった。

 

宇宙港から三台の地上車が並木道を上ってきた。一台目からマリーンドルフ伯フランツが降りると屋敷の者たちから声が上がった。カストロプ公領から解放された伯を送り届ける途中だという。

 

二台目からは数人の軍人が降りてきた。その中に一人だけ飛び抜けて背の高い男がおり、遠くからでも分かるほど鮮やかな赤い髪をしていた。

 

「ジークフリード・キルヒアイスと申します」

 

男はそう名乗った。

 

「ローエングラム元帥の命により伯爵閣下をお送りし、あわせて貴家のご無事を確認に参りました」

 

言葉づかいは丁寧だったが、それ以上のことは言わなかった。自分の名とここへ来た理由を告げると、父の長い挨拶を聞いて短く答えた。

 

ゴットフリートは大人たちの列の後ろで待っていた。やがて赤毛の男が彼に気づき、そのままこちらへ歩いてきた。

 

そして石畳の上に片膝をついた。

 

あまりに迷いのない動作だったので、ゴットフリートは最初それが特別なことだとは思わなかった。背後にいた軍人の一人が慌てた声を上げて初めて周囲の空気が変わったことに気づいた。

 

「閣下、何を――」

 

「ベルゲングリューン大佐」

 

「は」

 

「私の目の高さは、この子には高すぎます」

 

ベルゲングリューンは何か言いかけたが結局何も言わなかった。屋敷の大人たちも黙っている。

 

門閥貴族の反乱を討つために来た平民出身の軍人が、その門閥貴族の縁戚にあたる子供の前で片膝をついたのである。屋敷の大人たちはそこに何か異様なものを見たらしいが、六歳のゴットフリートには分からなかった。

大きな人が話しやすいところまで下りてきてくれた。それだけだった。

 

「あなたが助けてくださったのですか」

ゴットフリートが訊くと赤毛の男はすぐに答えた。

「いえ。私は助けに来たのではありません」

 

背後で誰かが咳をした。

父の顔からさっと血の気が引き、キルヒアイスもそこで自分の答え方がまずかったことに気づいたらしい。

 

「……失礼しました。順序が逆でした。私が向かったのは惑星カストロプです。この領の包囲が解けたのはその結果でした。間に合ったのはたまたまです」

 

先ほどよりずっと長い答えになったが、言っていることを取り繕うつもりはないらしかった。

「こわくありませんでしたか」

 

「怖かったです」

 

「ほんとうですか」

 

「本当です」

キルヒアイスはそこで少し考えた。

「怖いと思わない人は、たぶんあまり長く生きられません」

 

その後ろでベルゲングリューンが我慢できなくなったように口を開いた。

「キルヒアイス閣下は二千隻でお勝ちになったのです。味方の損害もわずかでした。先に向かった討伐軍は二度とも敗れ、シュムーデ提督も戦死されています」

声には隠しようのない誇りがあった。

キルヒアイスは振り返らず、ゴットフリートを見たまま答えた。

「ですが死者は出ました」

 

それでベルゲングリューンは黙った。

ゴットフリートは少し考えてから、さっきから聞きたかったことを訊いた。

「あなたは英雄でしょうか」

 

赤毛の男は今度も迷わなかった。

「いいえ。違います。私は英雄の友人です」

 

意味は分からなかった。それでもゴットフリートはその言葉を憶えた。

「お名前をもう一度うかがってもいいですか」

 

「ジークフリード・キルヒアイスです」

 

名前をもう一度頭の中で繰り返してから、ゴットフリートはさらに訊いた。

「キルヒアイス提督は勝ったのに、どうして嬉しそうじゃないんですか」

 

背後で父が息を吸った。止めようとしたのだろうが、キルヒアイスは振り返ってそれを制することもなく、しばらく考えてから答えた。

「私が行かなければ、あの人はもう少し長く生きていました」

 

誰のことを言っているのかゴットフリートには分からなかった。なぜ勝った人が敵の死を気にしているのかも、このときには分からなかった。

 

その意味を知ったのはずっと後のことである。

 

一行が帰ることになり、ゴットフリートは見よう見まねで敬礼した。肘は下がりすぎており指もきちんと揃っていなかったので、屋敷の誰かが小さく笑った。

 

キルヒアイスは笑わなかった。

 

立ち上がると背筋を伸ばして踵を揃え、目の前にいる六歳の子供へ正規の答礼を返した。相手が大人の軍人であっても、おそらく同じようにしたのだろう。

 

それから彼は車に乗って帰っていった。

 

一人の男が来て、助けて、帰っていった。

 

そのようにゴットフリートは記憶した。

 

 

***

 

 

【宇宙暦七九七年(帝国暦四八八年) 帝都オーディンへの航路 ゴットフリート】

 

翌年の春、ゴットフリートはヒルダに連れられて帝都オーディン行きの船に乗った。

 

その年、門閥貴族の連合がローエングラム元帥に対して兵を挙げた。

マリーンドルフ伯爵家は元帥の側につき、伯家を寄親とする縁戚の家々もそれに従った。

後になって考えれば、そうした家の子供をヒルダが伴ってオーディンへ向かったことにも意味があったのだろう。

 

七歳のゴットフリートにはそんな事情は分からなかった。

彼が知っていたのは、あの赤毛の騎士にもう一度会えるということだけだった。

 

船に乗ってからも彼はその話ばかりした。

 

「キルヒアイス提督は膝をついたんです。石の上にですよ」

 

「そうだったわね」

 

「ぼくに答礼をしてくれました。ちゃんと大人にするのと同じ角度で」

 

「よく見ていたのね」

 

「ぼくも練習しました。ずっと鏡の前で」

 

ヒルダは書きものの手を止めなかった。

「ヒルダお姉さま」

 

「なあに」

 

「ぼく、キルヒアイス提督にお礼を言ってもいいですか」

 

「お礼はいいわ。ただ一つだけ約束して」

 

「はい」

 

「お会いしても何もお願いしないこと」

 

「どうしてですか」

 

「あの方は毎日いろいろな人から何かを頼まれているの。あなたまでその一人にならなくていいでしょう」

 

それなら七歳のゴットフリートにも分かった。礼を言うだけなら約束を破ることにもならないので、そのつもりでいようと決めた。

しばらくして彼は別のことを訊いた。

 

「あの、どちらが偉いんですか」

 

「どちらとは」

 

「ローエングラム元帥とキルヒアイス提督です」

 

ヒルダはようやく手を止めて少し笑った。どう説明したものか考えているときの顔だった。

 

「お二人でお一人なのです」

 

それで七歳の子供への説明は済んだつもりだったのだろう。

ヒルダはすぐに手元へ目を戻したが、ゴットフリートはその言葉を生涯忘れなかった。

 

 

***

 

 

【宇宙暦七九七年(帝国暦四八八年) 帝都オーディン ゴットフリート】

 

出撃の日だった。

 

廊下には軍人や官吏が絶えず行き交っており、誰もが早足で歩いていた。

ゴットフリートは邪魔にならないよう壁際の椅子に座らされ、迎えが来るまで動かないよう言いつけられていた。

 

給仕が飲み物を配って回った。ヒルダは勧められた葡萄酒を断って冷たい林檎の汁を頼み、この子にも同じものをと付け加えた。

 

ゴットフリートは渡されたグラスを両手で持った。庭のベンチでヒルダと同じものを飲んだ前年の夏のことは覚えていたが、わざわざ口にはしなかった。

 

やがて廊下の向こうから二人の軍人が歩いてきた。

 

金色の髪の人と赤毛の騎士だった。

 

ローエングラム元帥とキルヒアイス提督は何かを話しながらこちらへ歩いてきて、途中で別々の扉へ向かった。

その別れ際に交わした言葉はひどく短かった。

 

「遅れるなよ、キルヒアイス」

 

「はい、すぐに」

 

命令というほど固い言葉でもなく返事というほど改まったものでもなかった。二人のあいだでは一日に何度も交わされているような言葉だったのだろう。

 

ゴットフリートはグラスを持ったまま二人を見送った。

なぜかこのやりとりも、ゴットフリートは後々まで忘れなかった。

 

しばらくしてローエングラム元帥が再び廊下を通り、ヒルダのそばにいるゴットフリートを見て足を止めた。近くで見ると噂に聞いていたよりずっと若かった。

 

伯爵令嬢(フロイライン)マリーンドルフの縁戚か」

 

「はい。ゴットフリート・フォン・メルゼブルクです!」

 

ゴットフリートは椅子から立って背筋を伸ばした。

そのとき船の中でヒルダに言われたことを思い出した。会っても何もお願いしてはいけない。そこで何も願わず、自分がするつもりのことを言った。

 

「ぼくは大きくなったら立派な帝国軍人になって、お二人を助けるんです」

 

周囲にいた何人かの大人が笑ったが、ローエングラム元帥は笑わなかった。

少しだけ身をかがめて少年の顔を見ると穏やかな声で答えた。

 

「助けたのは私ではない。キルヒアイスだ。礼を言う相手を間違えてはいけない」

 

「知っています」

 

元帥の眉がわずかに動いた。

「知っているのか。ではなぜ私まで助ける」

 

ゴットフリートはヒルダから教わったとおりに答えた。

「お二人でお一人だからです」

 

ローエングラム元帥はそこで初めて少年の顔をしばらく見た。

やがて笑った。

「あと十年だ。

 十年もすれば助けなど要らぬ世になっている。好きなことをするといい」

 

その傍らにいたキルヒアイスが口をはさんだ。

「ラインハルトさま」

 

「なんだ」

 

「……この子は本気です」

 

「知っている。だから言った」

 

元帥はそれだけ答えると再び歩き出した。

 

キルヒアイス提督はすぐには立ち去らず、もう一度ゴットフリートの前に膝をついた。

「軍人にはならなくてもいいのです」

ゴットフリートの顔があからさまに曇ったので、キルヒアイスは少し困ったような表情になった。

「ただ、誰を助けたいのかだけは忘れないでいてください」

 

「……軍人でなければ助けられません」

 

「そういうこともあります」

キルヒアイスはそれを否定せず、少し考えてから続けた。

「ですが軍人になってから誰を助けるか決めるという順番にすると、たいていあとで困ります」

 

ゴットフリートにはその言葉の半分ほどしか分からなかった。

軍人にならなくてもいいと言われたことの方が大きく残り、自分の決心をやんわり断られたような気がしたのである。

 

それでも最後には敬礼した。

一年前とは違って肘は下がらず、指もきちんと揃っていた。

 

ローエングラム元帥はすでに廊下の向こうへ消えていた。

残っていたキルヒアイスだけが姿勢を正し、七歳の少年へ答礼を返した。

ゴットフリートが生きている彼を見たのは、それが最後だった。

 

 

***

 

 

帰りの船でヒルダは長いこと黙っていた。

その夜、ゴットフリートが寝台へ入る前になってようやく一度だけ呼び止めた。

 

「ゴットフリート」

 

「はい」

 

「約束なんかしなくていいのよ」

 

ゴットフリートはしばらく考えた。

「……でも、もう言ってしまいました」

 

ヒルダは何も答えなかった。

何も願わないことを教えたのも、お二人でお一人なのだと言ったのも、約束などしなくていいと告げたのもヒルダだった。彼女にとってはその時々に少年へかけた言葉にすぎなかったが、それらの言葉はどれも彼の中から消えなかった。

 

 

***

 

 

【宇宙暦七九七年〜新帝国暦三年 マリーンドルフ伯領 ゴットフリート】

 

その年の秋にジークフリード・キルヒアイスが死んだ。

 

訃報を聞いた七歳のゴットフリートには、なぜあの赤毛の騎士が突然いなくなったのかよく分からなかった。

 

 

四年後の新帝国暦三年には皇太子アレクサンデル・ジークフリードが生まれた。

帝国中がその誕生を祝ったが、ゴットフリートはこのとき自分とは遠い宮廷の慶事としてその報せを聞いただけだった。

 

同じ年にローエングラム王朝の初代皇帝も病で世を去った。

 

十一歳になっていたゴットフリートは、その報せを聞いてから誰にも訊けないことを一つだけ考えるようになった。

 

あの約束はどうなるのだろう。

 

自分は大きくなったら帝国軍人になって二人を助けると言った。

しかし助けるはずだった二人はもうどちらもいない。

ローエングラム元帥が言った十年という時間も、まだ六年残っていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十年 帝都レーヴェンシュテルン・帝国軍士官学校 ゴットフリート】

 

それから年月が過ぎ、ゴットフリートは帝国軍士官学校の講堂にいた。

 

少年のころに口にしたことの一つだけは現実になろうとしていた。帝国軍人になるのである。

ただし助けるつもりだった二人はもうこの世にいなかった。

 

戦史の課程で彼はローエングラム元帥の時代について学んだ。

 

宇宙暦七九六年の帝国領侵攻では、後にアムリッツァ星域会戦へ至る戦役のさなかに帝国辺境から食糧が引き上げられ、進攻してきた自由惑星同盟軍は占領地の住民を養わねばならなくなった。住民は飢えたが同盟軍もまた補給を失い、戦役は帝国の勝利に終わった。

 

翌年にはヴェスターラントで熱核兵器が使用され二百万人の領民が焼かれた。攻撃したのは門閥貴族の側だったが、その計画を事前に知りながら阻止しなかった者たちがいたことにも講義は触れた。

 

講義で触れられたのはほんの数分だったが、ゴットフリートには納得できる理屈だった。

戦争を早く終わらせれば死ぬ者の総数は減る。そのために二百万人を救わないという判断もあり得るのだろう。

 

ただ一つだけ分からなかった。

 

本当にそれで死者が少なくなったのだと誰が確かめるのか。別の道を選んでいればもっと少なく済んだのではないかという問いに、誰が答えるのか。

 

講義の終わりにゴットフリートは手を挙げた。

 

「では、その勘定は誰が検算するのですか」

 

教官は顔を上げてしばらく彼を見た。

「戦時の判断を事後の結果だけで裁くことはできん。その時点で得られた情報と状況に基づいて判断するほかない。それが軍人というものだし、法もまたそう考える」

 

「ありがとうございました」

ゴットフリートは一礼して席へ戻った。

 

教官は質問をはぐらかしたわけではなかった。おそらく自分が問われたと思ったことに誠実に答えたのだろう。ただゴットフリートが訊いたのは、そのことではなかった。

 

それ以上は訊かなかった。うまく伝わらなかったのなら質問の仕方が悪かったのだろうと思った。

 

その日の食事はいつもどおり喉を通り、夜になればいつもどおり眠れた。だからといって問いが消えたわけでもなかった。

 

それでも彼は軍服を脱がなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十三年末 帝都レーヴェンシュテルン ヒルダ】

 

ヒルダは戦報をもう一度読んだ。

 

 ゴットフリート・フォン・メルゼブルク聖将。

 教国軍第一聖団〈ウィルトゥス〉艦隊司令。

 

昨年の夏、旧メルゼブルク家の残務を終えた担当官が最後に旧当主の所在についてヒルダに報告しようとしたことを思い出した。

 

 「旧当主の所在につきましては――」

 

 「必要ありません」

 

あのときは本当に必要ないと思っていた。

自分で家を閉じて帝国を出ると決めた男である。その先まで古い縁を理由に追うつもりはなかったし、いずれ本人が望めば知らせてくるだろうとも思っていた。

 

今はもう訊く必要がない。

 

彼のいる場所は戦報に書かれていた。

 

なぜそこにいるのかは書かれていなかった。

 

ヒルダはもう一度その名を見てからグラスを手に取った。

 

林檎の汁はまだ半分残っていた。

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銀河英雄伝説 バーミリオンの反逆者(作者:ICHINOSE)(原作:銀河英雄伝説)

『すべての国家権力は、個人の自由と権利を擁護する一点において、はじめてその存在を認められる』自由惑星同盟最高評議会議長 ヤン・ウェンリー▼ バーミリオン星域会戦における同盟軍の勝利は、銀河の歴史を疑いなく定義づけた。いわゆる『バーミリオンの奇跡』である。▼ 宇宙暦823年。バーラト星系第四惑星ハイネセンからフェザーン星系第二惑星フェザーンに政治的中枢を移した…


総合評価:122/評価:6.2/連載:11話/更新日時:2026年08月10日(月) 05:55 小説情報

フェリックス・ミッターマイヤーは庭師になった(作者:シロン茶)(原作:銀河英雄伝説)

ロイエンタールの遺児・フェリックス・ミッターマイヤーが造園技師になる原作後のイフ物語連作。思いつきで書いたので、視点があっちこっち飛びます。▼フェリックスが軍人になる話が普通なので、それ以外を考えたら、職人か芸術家という選択肢が浮かび、ミッターマイヤーの実家の造園技師を思い出しました。▼pixivからの転載を載せています。▼


総合評価:34/評価:-.--/完結:21話/更新日時:2026年05月28日(木) 21:02 小説情報

深淵の門—銀河英雄伝説異聞(作者:でてこ@子(dc1394))(原作:銀河英雄伝説)

宇宙暦796年、帝国暦487年。▼アスターテ会戦の直後、帝国と同盟の首都を直結する“門”が開いた。▼だがその内部は、火器も長距離センサーも通じない暗黒空間。大艦隊は安全に通れず、両軍は主力を首都防衛に縛りつけられる。しかも均衡は対称ではない。帝国にはなお、イゼルローン回廊という“もう一本の矢”がある。▼ラインハルトはこの異変を帝国再編の好機と見なし、ヤンは新…


総合評価:148/評価:8.67/連載:32話/更新日時:2026年08月20日(木) 20:00 小説情報

オーベルシュタインの演算(作者:シロン茶)(原作:銀河英雄伝説)

原作後。▼ラインハルト亡き後の銀河帝国に、死んだはずの二人が密かに蠢動し、残された者たちは葛藤する。▼彼らが密かに設計するのは、全宇宙四百億人の生命を繋ぐ巨大な医療ネットワーク。それは、生来の欠損や不運に苦しむ人々を救う「福音」であると同時に、全臣民の動向を音もなく察知する「究極の監視網(首輪)」でもあった。▼pixivで書いていたオーベルシュタインとロイエ…


総合評価:18/評価:-.--/完結:8話/更新日時:2026年05月29日(金) 18:25 小説情報


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