【新帝国暦二十三年十二月 聖都ラディークス 大伽藍】
聖王御前で戦勝報告が続いていた。
建国の日の戦果と損害が玉座の前で一件ずつ読み上げられている。
神聖黄金樹教国の聖王ヴィルヘルミーネは玉座の中央にいた。
白い長衣の裾は足元へ整然と落ち、肩衣の端は左右同じ位置に揃っている。背は背もたれに預けない。早朝に謁見と報告が始まってから三時間以上姿勢は変わっていなかった。報告が途切れても促さず、言い直しがあっても顔を動かさない。
玉座から少し離れた祭壇脇には、もう一つ椅子があった。
飾りのない暗い色の小さな椅子である。その床だけが玉座より一段高い。
慈母司牧アガーテが座っていた。
膝の上で重ねた手には何もない。報告のあいだ一度も口を挟まず、聖王の言葉にも頷かなかった。ただそこに座っていた。
「今日を勝利の日とのみ記してはなりません。還らぬ者の名をすべて残しなさい。国の礎となった者を一人として忘れてはなりません」
「御意にございます」
軍務を担当する枢機卿が頭を垂れた。
聖王は次の者へ目を向ける。
玉座の後方には黒衣の聖王守護ヨーリクが立っていた。腰にはブラスターがあり右手は空いている。式の始まりから立つ位置もほとんど変わらない。
なお二名が玉座の前へ進み出た。残存艦の収容状況と損傷艦の帰投、第一聖団から届いた戦死者と負傷者の集計が順に読み上げられる。聖王は一件ずつ聞き、必要なものにだけ短く答えた。
最後の報告書が閉じられた。
「以上にございます」
聖王はしばらく動かなかった。
「ご苦労でした。皆、下がりなさい」
一同が深く頭を垂れた。
ミナは玉座を離れた。ヨーリクが半歩遅れて続く。彼が左手で扉を開き、白と黒の二人が外へ出るまで誰も顔を上げなかった。
***
回廊にもまだ人目がある。侍従が二人距離を置いて従い、曲がり角には衛兵が立っていた。ミナは歩調を変えない。ヨーリクも一定の間隔を保って後ろにつく。玉座の前にあった白と黒がそのまま大聖堂の奥へ移っていった。
壁際の司祭が二人を認めて深く頭を下げた。
「聖王陛下」
ミナは足を止めず視線だけを向けた。
「ご苦労でした」
「恐悦至極にございます」
それだけだった。
さらに二つ角を曲がったところで侍従たちが止まった。ここから先は聖王の私的区画になる。衛兵も位置を変えた。扉が閉じると外の足音は厚い壁の向こうへ消えた。
ミナはなお数歩進んだ。ヨーリクも黙って従う。角を曲がるころには歩みが少し速くなっていた。
声はまだ低い。
「ねえ、私の騎士さま」
ヨーリクは返事をしなかった。
ミナが振り返る。さきほどまで微動だにしなかった顔に聖王の表情はもうなかった。
「聞こえている」
「今日の午後、何もないって本当?」
ヨーリクは予定を確かめるように一度だけ視線を落とした。
「午後の謁見は取り消された。枢機卿たちは建国戦の戦果と損害の取りまとめに入っている。教理院の説明も明日に回った。夕刻までは空いている」
ミナは二歩進んで止まり、勢いよく振り返った。
「ほんとに?」
ヨーリクが頷く。
白い肩衣が大きく揺れた。
「やった!」
声が回廊に響いた。
自分でも大きすぎたと思ったのかミナは口を押さえた。だがすぐに手を離す。
「ねえ、どうしよう。夕刻まででしょう?あたし、何してもいいの?」
「何でもではない」
「もう、そういうこと言わないで!」
玉座の前で二時間以上姿勢を崩さなかった少女がヨーリクの前へ回り込み、後ろ向きに歩き始めた。長衣の裾を踏みそうになって慌てて持ち上げる。
「本を読むでしょ」
親指を折る。
「甘いものを食べる」
人差し指。
「庭にも行く」
中指。
「それから昼寝――」
薬指まで折りかけて止まった。
「……駄目。昼寝したら時間がなくなる」
薬指を戻す。
「昼寝はなし」
ヨーリクは歩調を変えなかった。
忙しいのはミナだけだった。
「あたし、今日ずっとここにいていいのよね?」
「夕刻までは」
「誰も呼びに来ない?」
「緊急でなければ」
「じゃあ来ないで」
「俺に言っても仕方がない」
ミナは聞いていなかった。
「すごい。半日もある」
半日という言葉を何日もの休暇のように口にした。両手を広げて回廊の真ん中で一度くるりと回る。白い衣が円を描いたところでヨーリクが足を止めた。
「転ぶぞ」
「転ばないわよ」
言った直後に裾を踏んだ。
ヨーリクが腕を取るより早くミナは壁へ手をつき体勢を戻す。何事もなかったように裾を整えた。
「……今のはなし」
「見た」
「忘れて」
「無理だ」
ミナは頬を膨らませた。それでもすぐにまた笑った。
「ねえ、私の騎士さま。まず何しよう」
ヨーリクはミナを見た。玉座の上にいた少女とは別人のように顔にも身体にも力が戻っている。裾を持ち上げて廊下の先を見たかと思えば、またこちらを振り返る。何をするか決まっていない時間そのものが嬉しいらしい。
「まず着替えろ」
ミナの動きが止まった。
「え」
「その格好で庭を走る気か」
言われて自分の衣装を見下ろす。白い長衣も肩衣も人前へ出るためのものだった。裾は長く布は重い。ついさっき一度踏んだばかりである。それでもすぐ認めるのは癪だった。
「走るとは言ってないわ」
「今、転びかけたぞ」
ヨーリクが黙って見ているとミナは目を逸らした。
「……着替える」
決めると早かった。裾を両手でまとめて私室へ続く回廊を駆け出しかける。
「走るな」
背後から声が飛んだ。
ミナは足だけを止めて振り返る。
「ねえ、騎士さま」
「何だ」
「あたし、今日くらい転んでもいいと思うの」
「俺が困る」
答えが早かったのでミナは一瞬きょとんとした。それからまた笑った。
「じゃあ転ばない」
今度は走らなかった。ただし歩く速さは聖王ヴィルヘルミーネとして許されるものではなかった。ヨーリクは後ろを追いながら特に咎めもしない。
私室の前まで来るとミナは扉に手をかけたまま振り返った。
「騎士さま。本」
ヨーリクが動かないので差し出した手を二度振る。
「早く。ずっと待ってたんだから」
ヨーリクは答えず外套の内側へ左手を入れた。手の甲が決まった位置へ一度だけ触れる。
そこではない側から取り出したものを見てミナの目が大きくなった。
「十三巻!」
今や敵国となった帝国の首都レーヴェンシュテルンで刊行されたばかりの恋愛小説の最新刊だった。
前巻を読み終えてからミナは発売日を何度も確かめていた。書籍データならとうに配信されている。ただ聖王が私用で閲覧端末から好き勝手に購入できるはずもない。
紙の娯楽小説は帝都から遠い辺境までわざわざ運ばれてくるのを待つしかなかった。
表紙には白いドレスの少女と二人の青年が描かれていた。少女を挟み一人は軍服、一人は黒い礼装をまとっている。どちらも現実にはそうそういそうにないほど整った顔だった。背景には薔薇と星が散り、大仰な金文字の題字が浮いている。
そんな甘い表紙の新品がもう〈死神〉ヨーリクの手にあった。
ミナが受け取ろうとすると彼は本ごと少し持ち上げて避けた。
「待て」
「なんで?」
「俺が先に読んだ」
ミナの手が宙で止まった。喜びに緩みきっていた顔が怪訝なものへ変わっていく。
「……どうして騎士さまが読むの」
「確認した」
「何を?」
「危険がないか」
ミナは本とヨーリクの顔を見比べた。
「本よ?」
「知っている」
「恋愛小説よ?」
「それも知っている」
冗談を言っている気配はなかった。
ミナは両手を腰に当てる。
「恋愛小説のどこが危険なのよ!」
「人が死ぬ」
「そういう本じゃない!」
「死ぬ」
ヨーリクは念を押すように表紙を示した。
「男が二人いるだろう」
軍服姿を指す。
「こっちが死ぬ」
ミナの顔から表情が消えた。宙に浮いていた手がゆっくり下がる。
「……ねえ、私の騎士さま」
声が静かになった。
ヨーリクの眉がわずかに寄る。怒っていることまでは分かる。何に怒っているのかは分かっていない。
「何だ」
「今、あたしがこれから読む本の話をした?」
「した」
「人が死ぬって言った?」
「言った」
「しかも、どっちかまで絞った?」
「ああ。軍服の方が女を逃がすために残って撃たれて死ぬ」
「死に方まで言った!」
ミナの声が回廊に跳ねた。
ヨーリクは黙った。ここで反論すれば悪化する。それだけは理解した。
ミナは彼の手から本を奪い取り表紙を確かめた。傷はない。折れもない。ずっと待っていた十三巻である。見れば嬉しい。腹は立つ。どちらも本当だった。
「そもそも、どうして先に読むのよ」
「確認が必要だった」
「だから何を?」
「お前が嫌な思いをしないか」
ミナはヨーリクを見た。
「……騎士さまが?」
「そうだ」
「その本を?」
「そうだ」
「最初から最後まで?」
「守護として必要だからな」
ミナは黙って表紙へ目を落とした。薔薇と星の向こうで二人の青年がやたらと整った顔をしている。
ヨーリクは構わず続けた。
「前の巻を読んだあと、お前は三日ほど機嫌が悪かった」
「……覚えてるの?」
「覚えている」
「だから先に読んだの?」
「そうだ」
あまりにも真顔だった。
ミナは怒った顔のまま言葉を失う。ヨーリクは説明が足りないと思った。
「今回も同じなら読む前に知らせた方がいいと――」
本の角が胸に当たった。
「そこ!」
そこでようやく説明が止まった。
「そこが駄目なの!」
「……どこだ」
「全部!」
もう一度本が胸に当たる。ヨーリクは避けない。
三度目を振り上げかけてミナの手が止まった。
「避けなさいよ」
「お前が怒っているから」
「だからって、わざと当たりにこないで」
「その方が少しは気が済むかと思った」
ミナは怒鳴る言葉を探したが今度は出てこなかった。代わりに頬が赤くなる。
「……そういうことを真顔で言わないで」
「なぜだ」
「知らない」
ヨーリクは困ったように黙った。
戦場ではまず見せない沈黙だった。
それを見ているうちにミナはとうとう笑ってしまう。
「騎士さまって、本当に女の子のこと何にも分からないのね」
「分からない」
即答だった。
「そこは少しくらい否定しなさいよ」
「嘘になる」
ミナは本で口元を隠した。怒っていたはずなのに今は笑いを堪える方が難しい。ヨーリクがまだ困っているのもいけなかった。
「じゃあ次からは、あたしが読んだあとに心配して」
「それでは遅い」
「遅くないの」
「嫌な思いをする前に――」
「そこまで」
ミナは片手を上げた。ヨーリクも止まる。
「次の巻も読む?」
「読む」
また即答だった。
ミナが目を細める。
「どうして」
ヨーリクは一拍置いた。
「お前が読むからだ」
今度はミナが黙った。
ヨーリクはまた外したと思ったのか困った顔をする。
「……駄目か」
ミナは本で顔の半分を隠した。
「駄目じゃない。でも絶対に先のことは言わないで」
「善処する」
「約束」
「……努力する」
「弱くなってる!」
今度こそミナは声を上げて笑った。
まだ笑いながら扉を開け、私室へ入るなり白い肩衣の留め具に手をかけた。聖王の衣装は一人で扱えないほど複雑ではない。ただ長く着ていれば肩にくる。重い布を椅子の背へ掛けて両腕をいっぱいに伸ばす。それから待ちかねていた新巻を寝台の上へ大事そうに置いた。
「やっぱり着替える。騎士さま、ちょっと待ってて」
「分かった」
ヨーリクは扉の脇にいたがミナが衣装棚を開けるのを見ると外へ出ようとした。
「どこ行くの?」
「そこで待ってればいいじゃない」
「外で待つ」
「小さい頃は平気だったのに」
ヨーリクは答えなかった。
ミナは意味を悟ってにやりとした。
「あたしが女の子だってことは分かってるのね」
「五分後に戻る」
「逃げた」
「早く着替えろ」
ミナは笑った。
「はいはい。行ってらっしゃい、私の騎士さま」
ヨーリクは何も返さず外へ出た。
着替えを終えたミナは先ほどまでとは別人だった。白い長衣も肩衣もなく淡い上衣と足首までの簡素なスカートを身につけている。髪も後ろで緩くまとめ直していた。ヨーリクにはずいぶん小さくなったように見えた。
ミナは扉を閉めるとその場で一度身体を回した。
「どう?」
ヨーリクは考えて答えた。
「動きやすそうだ。裾も邪魔にならない。縫製も悪くない。だが、この仕立てなら値段もそう高くはなさそうだ」
ミナの笑顔がすっと消えた。
また何かを外したことだけはヨーリクにも分かった。ミナの服を慎重に見直す。見直したところで判断材料は増えない。
「似合ってるとか、可愛いとか、あるでしょう」
そこまで言われてようやく頷いた。
「そういうことか。似合ってる。可愛い」
ミナは彼を見た。
「……今の、嬉しくない」
「なぜだ」
「あたしが答えを教えたから」
ヨーリクは考えた。
「なるほど。そういう趣向か」
「趣向って言わないで」
「違うのか」
ミナは呆れたように息を吐いた。
「もういい。騎士さまにこういうことを期待したあたしが悪かった」
本を胸に抱えて廊下を歩き出す。
ヨーリクも数歩遅れて続いた。
二人の足音だけが続く。
「ミナ」
呼ばれて振り返る。
ヨーリクは足を止めていた。今度は裾も袖口も見ない。まっすぐミナを見ている。
「似合っている」
ミナは何も言わなかった。
「……可愛いと思う」
今度はミナが困る番だった。
散々相手を言葉に詰まらせていたのに自分の口が開かない。やっと視線を逸らし、本を抱える腕に力を入れた。
ヨーリクの眉が動く。
「これも違うのか」
ミナが顔を上げた。
「違わない!」
思ったより大きな声が出た。
ごまかすようにさっさと歩き出す。今度はヨーリクより半歩ほど前を行ったまま振り返らなかった。
「……最初からそう言えばいいのよ」
聞かせるつもりがあるのかないのか分からない声だった。
ヨーリクは追いついた。余計なことは言わなかった。
私室から離れるにつれてミナの足取りはまた軽くなった。半日の自由を思い出したのだろう。恋愛小説の新巻は胸に抱えたままで扱いだけは妙に慎重だった。
「それで、騎士さま。どこに行く?」
ヨーリクは大伽藍の私的区画を頭の中でたどった。聖王が人目を避けて歩ける場所はいくつかある。ただどこも完全に自由ではない。庭には庭の警備があり回廊には回廊の当直がある。第三庭なら今日は使われておらず周囲の人員も下げられた。
「第三庭なら空けられる」
ミナの顔が明るくなった。
庭へ行くことは決まった。だが午後をそれだけで使い切るつもりはない。胸の本と回廊の先を交互に見てからまた指を折り始める。
「まず甘いものを食べて、それから庭。本は庭で読む。これでいいわね」
「昼寝はいいのか」
「やめるわ。半日しかないのに寝てたらもったいないでしょう」
朝まで聖王の一日は分刻みで決められていた。いまは何を先にして何を後にするかを自分で決めている。ミナはまだ何か足せないかと指を折ったまま考えていた。
ヨーリクはやがて甘いものは何がいいと訊いた。自分から尋ねるとは思わなかったのかミナは一瞬目を見開き、すぐ嬉しそうに笑った。
「〈小鳥と砂糖壺〉の苺のタルトが食べてみたい」
ヨーリクの眉が寄った。
「なんだ、それは」
「お店の名前よ。お菓子屋さん。苺を山みたいに載せたタルトが有名なの」
「店なのか」
「そう。女の子なら大抵知ってると思うけど」
いかにも当然のことを教える口ぶりだった。
ヨーリクは訊いた。
「行ったことがあるのか」
ミナの目が泳いだ。
「……ないけど」
「なら、どうして知っている」
「本に載ってたの。何度も出てくるもの。聖都の女の子なら一度は行く店なんだから」
今度は少し早口だった。
ヨーリクが黙るとミナは不満そうに本を抱え直した。
「とにかく有名なの。騎士さまが知らないだけ」
「用意させる」
ミナの表情が曇った。
「用意させる、じゃなくて」
本の角を指でなぞりながら声を落とす。
「あたし、自分で買ってみたい」
ヨーリクは答えなかった。
「お店に行って本当にあのタルトがあるのを見て、それから自分で頼んでみたいの」
菓子だけなら品書きを取り寄せれば済む。何種類か運ばせることもできる。その気になれば店ごと買うこともだ。だがミナが欲しがっているのは菓子だけではなかった。
「お店に行って並んでるのを見て、今日は苺のタルトにするか別のにするか、ちゃんと迷って決めたい」
聖王ヴィルヘルミーネの予定には菓子を一つ選ぶために迷う時間などない。
ヨーリクが返事を考えているうちにミナの顔が急に明るくなった。
「そうだ」
ひどくいいことを思いついた顔だった。
ヨーリクには嫌な予感がした。
「ねえ、騎士さま。二人で〈小鳥と砂糖壺〉へ行きましょう」
「二人で?」
「ええ、あたしたちだけで。こっそり」
ヨーリクは黙った。
ミナはもう先まで考えている。
「変装すればいいのよ。誰にも分からない格好をして大伽藍を抜け出して、お店まで行ってあたしが自分で選ぶの」
身分を隠して正規の随行を伴わず聖王が大伽藍の外へ出る。目的が苺のタルトでも意味は変わらない。
「それは買い物ではなく、聖王の無断外出だ」
「だから変装するのよ」
説明にはなっていなかった。
ミナはヨーリクの黒衣へ目を移した。行くかどうかではなく、どうすれば見つからないかをもう考えている。
「騎士さまも、その服は駄目ね。ブラスターも外して。髪も少し変えた方がいいかも」
「待て。俺はまだ行くとは言っていない」
ミナは意外そうに見た。
「行かないの?」
行かないという選択肢を初めから考えていなかった顔だった。せっかく空いた半日をミナは最初から二人分で数えている。本を読むのも庭へ行くのも〈小鳥と砂糖壺〉で苺のタルトを選ぶのも、隣には当然ヨーリクがいることになっていた。
ヨーリクは視線を逸らした。
正門は論外だが物資搬入口はいくつかある。そこから市街へ出て人通りの少ない道を選ぶ。〈小鳥と砂糖壺〉までの往復だけに行動範囲を限れば危険は管理できる。問題は許可がないことだった。
「夕刻までには戻る」
ミナの顔が輝いた。
「じゃあ行くのね!」
「まだ条件を――」
「騎士さま、何着る?」
もう聞いていなかった。
ミナは来た道を戻りながら自分の外套を何にするか考え始めている。ヨーリクはその背中を見送り、物資搬入口から〈小鳥と砂糖壺〉までの経路を頭の中で引き直した。
止める話は消えていた。
ミナが次に現れたときヨーリクは一瞬言葉を失った。
変装と呼ぶには心許ない。淡い上衣の上から地味な外套を羽織り、髪をいつもより低い位置で結び直しただけである。それでも白一色の聖王装束を見慣れた目にはずいぶん別人めいて見えた。本人も上機嫌だった。
「どう? これなら〈小鳥と砂糖壺〉まで行っても分からないでしょう」
ヨーリクは慎重に眺めた。
「近くで見れば分かる」
「夢がないわね」
そう言いながらミナは窓硝子に姿を映して髪の結び目を確かめる。聖王として人前へ出るとき自分の衣装について口を挟むことはほとんどない。決められたものを着て決められたように立つ。今日は誰にも命じられていない服を選び、苺のタルトを買いに行くためだけに鏡を覗いていた。
ヨーリクも黒衣を脱いで目立たない灰色の上着に替えていた。ブラスターも外してある。それでもミナはしばらく眺めた末に首を振った。
「駄目。まだ騎士さまに見える」
ヨーリクには意味が分からない。服も武器も替えた以上、識別に使える特徴は減っているはずだった。ミナは彼の周囲を一度回って腕を組み、原因は立ち方だと言った。
「普通の人は、そんなにいつでも動けるみたいに立ってないもの。もっとこう……適当に」
言われた通り肩の力を抜いてみる。
ミナは吹き出した。
「それ、具合が悪い人みたい」
ヨーリクは元に戻した。
変装は服装や髪型を変える技術的な問題だと思っていた。
ミナによれば歩き方も駄目だった。通路へ出た途端に周囲を見渡すのも背後を確認する癖も目立つという。
「誰かに狙われてる人みたいだから」
「実際、狙われる可能性はある」
「今日はそういうこと言わないの」
ミナは笑って袖を引いた。
「今日は騎士さまじゃなくて普通の人になって。二人でお菓子を買いに行くんだから」
ヨーリクは返事をしなかった。
普通の人間がどう立ち、どこを見て歩くのか。考えてみれば自分でもよく知らない。
仕上げまでミナが引き受けた。前髪を指で崩し、きっちり閉じていた襟元を緩める。ヨーリクはされるがままだったが顔の近くを指が行き来するたび眉を寄せた。
「動かないで」
「視界に手が入る」
「髪を直してるんだから当たり前でしょう」
満足したのかミナは一歩下がり、首を傾けて出来栄えを確かめた。
「うん。百点満点で六十二点くらい」
「低いな」
「だって、顔が騎士さまだもの」
顔そのものを替える方法はない。
ミナはまた何か思いついたらしく目を細めた。
「そうだ。名前も変えましょう。騎士さまも偽名を考えて」
「必要ない。呼ばれなければ済む」
「つまらない」
その口調で次にろくでもないことを言うのが分かった。
「じゃあ騎士さまは本名ね。エ――」
「駄目だ」
声が変わった。
ミナの口が止まる。ヨーリクは怒ってはいなかった。ただそこだけは譲らなかった。
「今はヨーリクだ。そう呼べ」
ミナは彼を見てからいつもの調子に戻った。
「はいはい。騎士さま」
「人前では普通にヨーリクと呼ぶのに、おかしな奴だ」
「その名前で呼んでほしいの?」
ヨーリクは答えなかった。
ミナが少し笑う。
「じゃあ、『騎士さま』でいいでしょ。ずっとそう呼んでるんだから」
ヨーリクはまだ何か言いたそうだったが結局黙った。
***
結局変装はその程度で終わった。
ミナは地味な外套を羽織り、ヨーリクも黒衣を脱いでブラスターを外した。二人とも普段とはずいぶん違って見える。近くで顔を見られれば隠し通せるほどではない。
それでミナには十分だった。
物資搬入口へ向かうあいだ何度も笑いそうになるのを堪えている。ヨーリクは人の流れと警備の位置を確かめながら歩いた。正規の随行はつけていない。〈小鳥と砂糖壺〉の所在地も往復の経路も、問題が起きた場合の退避路も外へ出ると決めた時点で調べてある。
搬入口では荷箱を積んだ台車が何台も出入りしていた。ミナはその列に紛れ、誰にも呼び止められないまま門を抜けた。
大伽藍の壁が背後へ遠ざかる。
ミナは振り返った。
「出た」
声を抑えているのに顔だけで分かるほど嬉しそうだった。
「本当に出た」
ヨーリクにとっては門を一つ通っただけだった。
ミナは遠ざかる大伽藍を見た。予定にも儀礼にも書かれていない場所へ自分で行きたいと言い、自分の足で出てきた。
やがて勢いよく街の方へ向き直る。
「騎士さま。〈小鳥と砂糖壺〉ってどっち?」
ヨーリクは迷わず右を指した。
「この通りを行って二つ目を左だ」
ミナは目を丸くした。
「……騎士さま、あのお店のこと知らなかったわよね」
「知らなかった」
「なのに、もう道を知ってるの?」
「行くと言ったからな。調べた」
ミナは彼を見てから嬉しそうに笑った。
「じゃあ案内して、騎士さま」
街へ入ると歩みは自然に遅くなった。
目的地は決まっているのにまっすぐ辿り着けない。通りには昼の買い物客が行き交う。軒先には果物や衣類が並び、露店では花を束ねていた。食堂の戸口からは香辛料と焼いた肉の匂いが流れてくる。聖王として車列から眺めた街と自分の足で歩く街はまるで違った。
ミナは気になるものを見つけるたび足を緩めた。
「騎士さま、あれ見て」
露店の女が色とりどりの果実を小さな籠へ盛っていた。ヨーリクがそちらを見る間にミナはもう別の店先へ目を移している。
そんなことを何度か繰り返すうち、通りの先に淡い色の庇が見えてきた。小鳥が砂糖壺の縁へ止まった小さな看板が風に揺れている。
ミナの足が止まった。
「……あれ?」
「そうだ」
何度も本で名前を読んだ店を初めて自分の目で見ていた。
硝子張りの店先には色鮮やかな菓子が並ぶ。花を模した小さなケーキ。薄い糖衣をかけた菓子。果実を飾ったタルト。中央には艶のある苺を幾重にも載せた一台があった。
ミナは硝子へ近づいた。
「あった」
玉座の前で戦勝報告を聞いていたときより真剣な顔だった。
「これ。これが食べたかったの」
「なら買えばいい」
「分かってるわよ」
そう答えてもすぐには店へ入らない。
苺のタルトを眺め、隣の花形のケーキへ目を移してまた苺へ戻る。さんざん食べたいと言ってここまで来たのに、目の前へ来れば眺める時間まで惜しいらしい。
「決めていたんじゃなかったのか」
「決めてる。でも、もう少し見たいの」
ヨーリクには違いが分からなかった。迷うなら両方買えばよいと思ったが、口に出すのはやめた。今日はすでに何度か同じようなことで外している。
ようやく満足するとミナは自分で扉を開けた。
店内の菓子をもう一度端から眺めてから苺のタルトを二つ頼む。代金を払い、箱を受け取り、礼まで妙に丁寧に言った。店員は少し面食らっていたが正体を疑った様子はない。
通りへ戻るとミナは紙箱を両手で抱えた。少し歩いてから蓋が閉じていることを確かめてヨーリクを見上げる。
「ちゃんと買えた」
ヨーリクには店へ入り、金を払い、菓子を受け取っただけに見えた。
ミナはそれだけのことが嬉しくてたまらないらしく紙箱を大事そうに抱えて歩き出した。
***
帰るにはまだ早かった。
二人は人通りの多い道を避けて市街を歩いた。ミナは店先の品物を覗き、露店の安物の飾りを眺める。広場では足を止めて大道芸を見た。
通りの人波はヨーリクの前だけわずかに割れた。
黒衣を脱いでも近寄りがたいものまでは消えない。
ミナは気づきもせず袖を引いた。
「騎士さま、あっち」
ヨーリクは引かれるまま向きを変えた。
何かを欲しがるわけではない。目についたものを教えて満足するとまた次へ行く。
広場を抜けようとしたところで小さな子供が前を横切った。走ってきた勢いのまま石畳につまずき、抱えていた包みを落とす。中から丸い果実がいくつも転がり出して人の足の間へ散った。
ヨーリクは考えるより先に動いた。
一つを靴で止めてもう一つを拾う。通りへ転がり出そうになった最後の一つも取って戻った。
子供は膝を押さえたまま青年の顔を見上げて固まった。
ヨーリクが果実を差し出しても受け取らない。
ミナには理由が分かった。
服を替えてブラスターを外し髪まで崩しても無愛想な顔までは変わらない。
笑いを堪えながら近づいた。
「騎士さま。笑って」
ヨーリクが振り返る。
「何故だ?」
「何故って、怖がってるでしょう」
ヨーリクは子供へ向き直った。
教程にもない要求に苦戦した末、ぎこちなく口元を緩める。
笑顔のはずなのに、ひどく不気味だった。
子供は泣きそうな顔で一歩下がった。
ミナはとうとう口元を押さえた。
「ごめん、騎士さま。今のは駄目。笑わない方がまだ怖くない」
ヨーリクは何も言わず元の表情へ戻った。
すると子供も少し安心したのか果実へおそるおそる手を伸ばす。
残りを紙包みに戻してやり、擦りむいた膝に大した傷がないことまで確かめた。その手つきだけを見れば怖がられるようなところはなかった。
ミナは傍らで見ていた。
「昔からそうなのよね」
子供が去ってから言うとヨーリクが振り返った。
「何がだ」
「顔は怖いのに優しいところ」
ヨーリクは答えなかった。褒められたのかどうか判断しかねた顔だった。
ミナは笑う。
「だから騎士さまなの」
幼いころからそうだった。
ミナが怖がるものの前にはいつも彼が立った。本人は騎士ではないと言い続け、物語の騎士のような言葉を口にしたこともない。それでも呼び名だけは残った。
ヨーリクは昔の話には乗らず通りの先へ目を向けた。
「そろそろ戻るぞ。遠くまで来すぎた」
ミナは不満そうな顔をしたが空を見上げると反論しなかった。夕刻までという約束は覚えている。
ただ大伽藍へまっすぐ戻るのも惜しかった。
「じゃあ帰る前に食べよう。せっかく買ったんだから」
少し先に小さな広場があった。人通りから外れたところに古い樹木と石造りの腰掛けがある。二人はそこで足を止めた。
ミナは膝の上へ〈小鳥と砂糖壺〉の紙箱を置いて慎重に蓋を開けた。中には苺を幾重にも重ねた小さなタルトが二つ並んでいる。
形の崩れていない方を確かめてヨーリクへ差し出した。
「騎士さま、こっち」
「俺の分か」
「一緒に食べたかったの」
ヨーリクは受け取った。
赤い苺と白いクリームを山のように載せた菓子は、傷だらけの彼の手にはひどく似合わなかった。ミナは自分のタルトへ手を伸ばしかけて彼を見る。
「……騎士さま、確かめなくていいの?」
「何をだ」
「人から渡された食べ物、そのまま口にするの珍しいでしょう」
「お前からだろう」
ヨーリクはそれだけ言って苺を一つ口にした。
ミナは何も言わず自分のタルトへ目を戻した。口元だけが緩んでいる。
「どう?」
「甘い」
「それは見れば分かるわよ」
期待した答えではなかった。それでもミナは上機嫌のまま一口食べて目を細めた。
「……本当に苺がいっぱい」
本の中で何度も読んだ菓子を初めて自分で店まで行って買い、いま自分で食べている。二口目はずいぶんゆっくりだった。
午後の広場で二人は並んで苺のタルトを食べた。
誰も跪かず誰も聖王とは呼ばない。
ミナはしばらく何も話さず腰掛けの下で足を揺らしていた。
広場を出るころには名残惜しそうに大伽藍の方角を見た。
帰り道では来たときほど店先に引っかからない。それでも歩調は遅く、急げば十分に戻れる距離をわざと使い切るように歩いた。
ヨーリクも急かさなかった。
大伽藍の外壁が見え始めたところでミナが隣を見上げた。
「ねえ、騎士さま。またできるかな」
何を指しているのか訊くまでもなかった。
「分からない」
ミナは口を尖らせたがそれ以上は求めなかった。
二人は人目の少ない搬入口から大伽藍へ戻った。出るときと同じように荷を運ぶ者たちが行き交っていたが誰にも呼び止められない。内側の扉が閉じると市街のざわめきは急に遠くなった。
ミナが大きく息を吐く。
「作戦成功ね」
ヨーリクは返事をしなかった。
成功と呼ぶべきかはともかく無事には戻った。
ミナは外套を脱ぎながら笑っていた。
「誰にも分からなかったでしょう?」
ヨーリクは答えかけてやめた。
搬入口を通ったとき当直の衛兵が一度こちらを見ていた。市街でも妙に距離を保って同じ方向へ歩く男女を何度も見かけた。
ミナは誰にも知られず抜け出したと思っている。
ヨーリクはその顔を見て何も言わなかった。
「そうだな」
ミナは満足そうに頷いた。
***
大伽藍へ戻ったあともミナは元の白い衣装へ着替えることを拒んだ。
夕刻までは自由だという約束を盾に恋愛小説を抱えて私室の長椅子へ陣取る。〈小鳥と砂糖壺〉の空箱までなぜか卓上に残してあった。
ヨーリクにも追い立てる理由はない。
窓際の椅子へ腰を下ろした。
本を開いてからはさすがに静かになった。
ただ、表情まで静かになったわけではない。。数頁ごとにミナの眉が動き、ときには先を知っているヨーリクへ疑うような目を向ける。そのたび彼は視線を外した。今度こそ何も言わないという約束だけは守った。
読む速度が落ちた。
同じ頁で指が止まる。
ヨーリクにはどこまで来たか分かっていた。
軍服の男は女を逃がすために残り、自分だけが死ぬ。
先に読んだときヨーリクはその選択を不自然とは思わなかった。
二人とも助からないなら一人を確実に逃がす。理屈は通る。
最後の頁まで読み終えてもミナはすぐに顔を上げなかった。
「……好きだったのにね」
街で笑っていたときより低い声だった。
指が閉じた表紙をゆっくりなぞる。薔薇と星の向こうでは軍服の青年がまだ何も知らない顔で笑っていた。
「一緒に逃げればよかったのに」
「逃げられないこともある」
それきり二人とも黙った。
窓枠の影が床の上を長く伸びていた。
***
そのころ大伽藍の別棟では午後の出来事が一つずつ報告されていた。
アガーテは居室の小さな椅子に座っている。膝の上で重ねた両手には何もない。
向かいの女は聖王付きの侍従でも衛兵でもなかった。大伽藍の中では誰も気に留めない役目を与えられている。
報告は聖王が私服姿で私的区画へ現れたところから始まった。ヨーリクも黒衣を脱ぎブラスターを外していたこと。二人が物資搬入口から市街へ出て〈小鳥と砂糖壺〉へ立ち寄ったこと。夕刻前には同じ経路で戻ったこと。その間に誰と接触し、どこで足を止めたかまで簡潔に伝えられた。
アガーテは報告者を見た。
「危険は?」
「ございませんでした。接触を試みた者もありません」
「そう」
無断外出を咎める言葉はなかった。
「ほかには?」
報告者が間を置いた。
「聖王陛下がヨーリクを別の名で呼ぼうとしました」
アガーテの表情は変わらない。
「最後まで?」
「いいえ。ヨーリクが止めました」
「そう」
それ以上その名を問うことはなかった。
少ししてアガーテが訊いた。
「あの子は?」
「楽しんでおられました」
「ヨーリクは?」
「終始お側に」
アガーテは目を伏せた。
「禁ずる必要はありません。あの子が望むなら危険のない範囲で好きにさせておきなさい」
報告者が一礼した。
アガーテはもう一度その顔を見た。
「引き続き、よく見ていてあげなさい」