【新帝国暦二十四年一月 教国軍第一聖団〈ベローナ〉艦隊旗艦 厨房 給仕長】
教国軍第一聖団。
〈ベローナ〉艦隊の旗艦では、今日ひとつの昼食会が開かれることになっていた。
主催者は艦隊司令のヴィクトール・フォン・ラスバッハ従聖将。
招かれたのは、半年前にこの艦へ着任した艦隊司祭のローデリヒ・フォン・グルックスブルクである。
参加者は、ラスバッハと副官のレームに、ローデリヒの三人。
名目は、司祭の着任歓迎だった。
艦隊司祭は教団から各艦隊へ置かれ祈りと葬送を司るほか、艦隊が何をしたのかを見届け、その記録を艦の外へ持ち帰り教団の枢機卿団に報告する。
そのため艦隊指揮官の部下ではなく、軍の階級も持たない。
グルックスブルク司祭が着任したのはもう五か月と二十六日も前のことである。
着任から約半年を経てなぜ今さら歓迎することになったのか。
そこまでは給仕長の職分ではなかった。
朝の六時から厨房は湯気で曇っていた。
牛の頬肉は昨夜から低温の鍋に入れてある。
鴨と肝のテリーヌは十分に冷やして落ち着かせ、添える無花果は葡萄酒と香辛料で煮てある。
最後に出す菓子もカスタードまで仕込みを済ませていた。
銀器は三人分、二度磨いた。
給仕長はこの道二十年を超え、旧帝国の名の通った門閥貴族の家から教国軍正規艦隊の旗艦へ移っても同じ仕事をしている。
その間の事情を艦の誰も訊かず、給仕長も話さなかった。
教国の建国宣言から一か月。
宣言と同じ日に始まったローエングラム朝銀河帝国との戦争で、この艦も皇帝を追った一万隻の中にいた。
給仕長がこの艦へ移ってきたのは、その少し前である。
艦隊司令のラスバッハ従聖将について知っているのは、旧門閥貴族の名家出身で、五百年続いた家はすでになく、ひどく口が悪いということくらいだった。
どんな人物なのかと訊いたことはある。
ところが具体的な話になると、古参の乗員ほど口を閉じた。
「気をつけた方がいい」
そこまでは何人かが言った。
何に気をつければいいのかを訊くと、また黙った。
献立は古典の型で組んである。
食前酒に小さな焼き菓子を添え、前菜には鴨と肝のテリーヌ、続いて茸のスープを出す。主皿は牛頬肉の葡萄酒煮込みとし、最後に焦がした砂糖を張ったカスタードと濃い珈琲を置く。
厨房の入口で副官のレームが足を止めて声をかけた。
「支度はどうだ」
「整っております」
「結構」
レームは鍋から磨き終えた銀器までひととおり見て、それ以上は何も言わずに戻っていった。副官という肩書ではあるがこの男が普段どこで何をしているのかを給仕長は知らず、訊いたこともなかった。
***
【同 司令官公室 ラスバッハ】
卓は三人分に整えられていた。白い布に銀器を置き、よく磨かれた薄い脚付きの杯が灯りを返している。
艦の食堂としては破格の手のかけ方だった。ラスバッハは上座について薄い綴りをめくっていた。
「で、何が好きなんだぁ?こいつは」
「調書は先日お渡ししました」
レームが答えてもラスバッハはページから目を上げなかった。
「読んだよぉ。でも全然わかんねえ。紙で分かってたなら一緒に飯なんか食わねえよ」
金も女も酒も決め手に欠けることは昨日のうちに報告してある。
レームが黙るとラスバッハはもう一枚だけめくって綴りを閉じた。
通路の向こうから足音が近づいてきた。
レームは綴りを受け取り上着の内ポケットへ収める。ラスバッハはナプキンを取り膝へ広げた。
そこで扉が開いた。
***
【同 司令官公室 給仕長】
高級士官の嫌味にも、政治の話にも、死んだ人間の数の話にも慣れている。聞かなかったことにする技術で、給仕長はいまの職まで来た。
定刻に扉が開いた。入ってきたのは黒いカソックに緋の帯を締めた細身の男だった。
ローデリヒ・フォン・グルックスブルク司祭は卓の手前で足を止め、静かに一礼した。
「お招きにあずかりまして、恐悦にございます」
「おう、司祭サマ。座ってくれよぉ」
司祭は勧められた席に着くと、小さな記録端末を卓の右手へ置いた。
開きはしなかったが、そこにあるだけで給仕長には少し気になった。
もっとも、何を記録するかまで給仕長の職分ではない。
食前酒には新帝国暦元年産の辛口の発泡白を選んである。
二十年以上を瓶の中で過ごした単一年産だった。
給仕長がラベルを見せると、ラスバッハの目がそこへ落ちた。
「新帝国暦元年、ヴァルデンの単一年産にございます」
「ああ。あの、ヴァルデンの元年ものかぁ」
給仕長は栓を抜き、まず少量をラスバッハの杯へ注いだ。
淡い金色の酒の底から、細かな泡がゆっくりと立ちのぼる。
若い酒にあったはずの青い果実の香りはすでに落ち着き、焼いたパンと木の実、それに熟した林檎を思わせる香りへ変わっていた。
ラスバッハは一口含むと、すぐには飲み込まず、舌の上でしばらく転がした。
「……まだ酸が残ってんなぁ。いいじゃねえか。泡も死んでねえ」
「保存状態のよいものにございます」
ラスバッハはもう一度ラベルを眺めた。
「ああ。懐かしいなぁ」
声に珍しく懐かしむような響きがあった。
「思い出がおありでございますか」
「あるある。いい年だったぜぇ」
給仕長は、当時はまだ帝国にいたラスバッハが新王朝の成立を祝って買い求めたものだろうと思った。
「帝国にとりましても節目の年でございましたから」
「え?そっちじゃねえよぉ」
ラスバッハは杯を鼻先へ戻し、もう一度香りを確かめた。
「ヴァルデンだよぉ。この酒の葡萄が採れる伯爵領な。領主の爺さんから跡取り、家令、会計担当者、警護責任者、私設艦隊の指揮官、港の責任者まで、何年かかけてみーんな『お薬』に沈めたんだよぉ。懐かしいなぁ」
給仕長は瓶を持ったまま動かなかった。
「新帝国歴元年になった頃に屋敷も倉庫も船着場も、こっちの荷物なら何でも通るようになってよぉ。ヴァルデンの領地が丸ごと、俺の組織の中継所になった。あれは壮観だったぜぇ」
「……さようでございましたか」
「たしかうまくいった記念に酒を買わせたんだった。レーム、何箱だったかなぁ」
「二十四箱です」
レームが記録も見ずに答えた。
「ああ、そうそう」
ラスバッハは満足そうに頷いた。
「思い出した。ラリってた当主の爺さん本人に注文させたんだ。自分の蔵へなぁ。今はうちの艦にあったのかぁ」
給仕長は新帝国暦元年を祝う酒だと思ったことについて、誰にも話さないことにした。
「しかし、こいつはよく持ったなぁ。あの家の連中より出来がいい」
給仕長は聞き流し、ラスバッハの杯へ酒を足した。それから他の杯にも順に注いでいく。
ラスバッハは満たされた杯を取り上げた。
「じゃ、まあ……ローデリヒ司祭サマの着任と、建国の日の戦で死んだ連中にぃ。
三つの杯が軽く合わされた。
給仕長は少し意外に思った。この男にも、戦死者を悼む気持ちはあるらしい。
「あんだけ死にぁあ、祈りだろうが葬式だろうがやり放題だろぉ。司祭サマ、着任した甲斐があったよなぁ」
意外に思ったことをすぐに後悔した。ラスバッハは杯を少し高くした。
給仕長は焼き菓子を添えた。厨房を出る直前まで火を入れてあり、薄い皮を割れば、溶けた乾酪と焼けた小麦の香りが立つ。
ラスバッハは一つ摘まんで割り、まだ温かい内側を確かめてから口へ入れた。
「皇帝サマも取り損ねたしなぁ。まあ、悪いことばっかじゃねえよ。あの日に獲ってたら、それで終わりだった」
「残念ではおありでなかったので?」
「残念だったよぉ。そりゃあなぁ」
ラスバッハは泡の向こうを眺めた。
「でも、生きてりゃまた追えるだろぉ。せっかく始まった戦争だ。早く終わったらもったいねえ。長く遊べる方がいい」
給仕長は今度は何も思わないことにした。
ラスバッハはもう一口酒を含んでから、司祭の杯を見た。
「ところで俺が招いといてアレなんだがよぉ、坊主が酒なんか飲んでいいのかぁ」
「聖典が戒めておりますのは酒ではございません。酒に己を預けることでございます」
「じゃあ、潰れなきゃいくら飲んでもいいのかぁ」
「そのように杯数で考え始めた時点で、少々お控えになるべきかと」
ラスバッハが笑った。
「便利だなぁ」
「節制とは、そのような教えにございますので」
ラスバッハは喉の奥で笑った。
口は悪いが杯もナプキンも扱いは堂に入っており、旧い門閥貴族の家の出だという話は食卓の上では嘘ではないらしい。
***
前菜には鴨と肝のテリーヌを出した。
鴨の赤身と淡い肝の層が切り口に重なり、その脇へ葡萄酒で煮た無花果を添えてある。
ブリオッシュは表面だけを軽く焼き、中まで熱くならないところで止めた。
給仕長が皿を置くと、ラスバッハはまずテリーヌには触れず、ブリオッシュを指先で割った。
「ブリオッシュ、表面だけ温めてんのかぁ」
「はい。脂が少しほどけますので、冷たいままより香りが立ちます」
ラスバッハはテリーヌを一切れ載せて口へ運び、二度ほど噛んだ。
「なるほどなぁ。冷てえままより、こっちの方が口ん中で早くほどける」
もう一切れ切り、今度は無花果を少し添えた。
「最初から無理に崩そうとするよりも、こっちのやり方がいいかもなぁ」
そう言いながらラスバッハが司祭を見ると、ローデリヒも無駄のない手つきで無花果をテリーヌへ添えていた。
「しかし毒見もさせねえで、よく食うなぁ」
「お招きくださった席で害されるのでしたら、それだけの値打ちがわたくしにあったということにございます」
「……あると思うか?」
「本日ただいまはまだ、ないものと存じます」
「はい正解ぃ」
物騒ではあるが、まだ将官と宗教家の軽口として聞き流せる範囲だった。
ラスバッハはブリオッシュをちぎり、皿に残った脂を拭った。
「しかしよぉ、司祭サマ。施療院だの配給だの聖廉など言ってる国で、こんな美味いもん食ってていいのかねぇ」
「恵みを拒むのは恵みを侮ることにございます」
「また聖典かぁ。便利だよなぁ、その言い回し」
「典礼にございますので」
給仕長には、どちらが相手をからかっているのか分からなかった。
皿が空いたところで前菜を下げる。次の料理が来るまでの短い間に、給仕長は二人の杯へ葡萄酒を足した。
ラスバッハは注がれる赤を眺めながら訊いた。
「艦の暮らしはどうだぁ。不自由してねえか。欲しいもんありゃ言えよぉ」
「従聖将閣下から頂戴するものでしたら、先に理由を伺いとう存じます」
「歓迎だよぉ。溢れる好意だぜぇ。酒でも宝石でも薬でもよぉ、欲しいもんありゃなんでも言えって」
ローデリヒは杯へ口をつけた。
「では本日のお食事で十分にございます」
「遠慮すんなよぉ。俺の息のかかった店をいくらでも紹介するぜぇ」
今度は司祭が少しだけラスバッハを見た。
「たいそう広いお心にございますね」
ラスバッハが笑った。
「あんた、坊主のくせに疑り深えなぁ。純粋な親切心からかもしれねえだろぉ」
「閣下からでございますか」
給仕長は空いた皿を盆へ載せた。
どうやら歓迎される側も、歓迎する側をあまり信用していないらしい。
給仕長は空いた皿へ手を伸ばしかけ、一拍だけ待った。ラスバッハは怒らなかった。
むしろ愉快そうにナプキンで口元を押さえている。
「お前、失礼な奴だよなぁ」
「これはご無礼を」
謝った声には反省らしいものが聞こえなかった。
「女はどうだよ。好みがあるならすぐ揃えさせるぜぇ」
給仕長が皿を持ち上げる横でローデリヒは杯へ目を落とした。
「閣下がお選びになるので?」
「気に入らねえ?」
「わたくしのためにお選びくださるのでしたら選定の理由の方に興味がございます」
「背ぇ高い方が好きとか髪が長い方がいいとか、そういう話だよぉ」
ローデリヒは少し考えた。
「結構にございます」
「なんだよぉ。坊主だから女に興味ねえとか?それとも男の方かぁ?」
「どちらも興味がないと申し上げましたらご安心なさいますか」
「しねえなぁ」
「では申し上げる意味もございません」
ラスバッハは声を立てて笑った。給仕長は二人の前から皿を下げた。
会話の内容は褒められたものではないが金や酒や女で相手の好みを探る人間なら旧帝国の貴族社会にもいくらでもいた。その意味ではラスバッハも人並みである。
もっとも人並みであることに安堵してよい相手なのかはすでに分からなくなっていた。次の皿を運ぶあいだにも話は続いていた。
「本日は、わたくしのお話をお聞きになるためにお招きくださったものと」
「違うよぉ。司祭サマの着任祝いだって」
「着任から五か月と二十六日を経て、でございますか」
「細けえなぁ」
ローデリヒが杯を置いた。
「ところで閣下は何をしておいでの時がいちばん退屈なさいませんか」
ラスバッハは少しも考えなかった。
「今だなぁ」
ローデリヒのナイフが一拍だけ遅れた。それを見て給仕長は少し安心した。
***
茸の濃いスープを運び込んだ。深皿から立つ湯気には数種類の茸を炒めた香りと、焦がした発酵バターの甘い匂いが混じっている。
最後に挽いた黒胡椒が飲み込む寸前に小さく舌を刺す。
ラスバッハは匙を一度沈め、香りを確かめてから口へ運んだ。
「……これ、バター最後に焦がしてんだなぁ」
「はい。茸を炒めるものとは分けてございます」
「一緒にやると苦くなるもんなぁ。こっちの方が香りだけ残る」
給仕長は頭を下げた。
口は悪く、乾杯も最低で、人を値踏みするために午餐を開いているらしい。それでも料理については今のところ一度も見当外れなことを言っていない。
ローデリヒも一口飲み、静かに匙を置いた。
「閣下のお家はたいそう古い家門であったと伺いました」
「五百年だったか。長かったらしいなぁ」
ラスバッハは匙を止めずに答えた。
「俺が潰したけど」
給仕長は家庭の匂いのするスープを選んだことを少し後悔した。
「……ご自身で?」
ローデリヒが訊いた。
「おう。あの頃は門閥貴族ってだけでけっこう守られててなぁ。家一つ取り潰すのも案外骨だったんだぜぇ」
ラスバッハは何でもないことのようにスープを飲んだ。
「何をなさいました」
「色々だよぉ。家が五百年も続くとなぁ、潰す方にも手順ってもんがある。親戚も財産も残るし役所も余計な世話を焼く」
ラスバッハはそこで匙を置き、給仕長の方を見た。
「これ、もう少し熱くてもよかったなぁ」
「申し訳ございません」
「いや、悪くはねえよ。茸の香りはこのくらいの方が分かるしなぁ。ただ俺ぁ、こういうのは熱い方が好きだ」
「次から、そのようにいたします」
「頼むわぁ」
給仕長は頭を下げた。家を滅ぼす手順について話していた人間とは思えないほど、料理への注文は穏当だった。
「ご親族はさぞお嘆きになったことでございましょう」
ローデリヒが言った。
「おう。怒るの泣くのって。親父なんか最後まで五百年、五百年ってよぉ。家名だ祖先だって、ありゃすごかったぜぇ」
ラスバッハはレームへ顔を向けた。
「何人くらい食い扶持なくしたっけなぁ」
「血縁や縁戚だけなら五十七。家臣と使用人まで含めれば五百を超えます。出入りの商人や取引業者も含めますか?」
「そこまででいいわ。これ以上は飯がまずくなりそうだ」
いままでの話ではまずくならないらしい。
「後悔はなさいませんでしたか」
「後悔?何を?」
「家をお潰しになったことをでございます」
「ああ。それかぁ。別にぃ。使えるもんは全部潰れる前に抜いたしなぁ」
「使えるもの?」
「金とか、船とか、人とか」
ラスバッハは最後の一匙を口へ運んだ。
「家ってのは便利なんだぜぇ。五百年も続いてりゃ、蔵がある。土地がある。名前で開く扉がある。誰それの息子ですってだけで、役人が頭下げてくれる場所もある。親父はそれを守ることばっか考えてたけどよぉ」
空になった深皿へ匙を置く。
「俺ぁ、使った方が得だと思ったんだ」
ラスバッハは妙に楽しそうだった。
「最後の頃なんか、すごかったぜぇ」
「何がでございましょう」
「ラスバッハ伯領だよぉ。親父の役所が税金取ってる横を、俺の荷物が検査なしで抜ける。家の倉庫に『お薬』を入れて御用商人の船で運び、家臣名義の商会で金を洗う。港の役人まで客だった」
「ご家族もご承知で?」
「まさかぁ。親父なんか最後まで、うちは由緒正しいラスバッハ伯爵家だと思ってたぜぇ」
ローデリヒが確認した。
「では知らぬままに」
ラスバッハは当然のことのように頷いた。
「知らねえから使えるんだろぉ。みんな知ってたら犯罪組織じゃねえか」
「十分に犯罪組織であったように伺えますが」
「だからすごかったって言ってんだよぉ。取り潰しの直前なんか役人も商人も軍人も医者も倉庫番もこっちの息がかかって、金か薬か脅しか、俺にも全部は分からなくなってた」
「統制が取れていなかったのでは」
「違う違う。勝手に回るようになったんだよぉ。最後の頃なんか、伯領丸ごと魔窟だったぜぇ」
少し懐かしそうに笑った。
「ありゃあ、我ながらいい出来だったなぁ」
魔窟。
給仕長には五百年続いた伯爵領について語る言葉とは到底思えなかった。給仕長は皿を下げた。
先ほど栓を開けた酒がどこから来たのかを思い出さないようにした。
「左様にございますか」
「そういやぁ、司祭サマが幼年学校をクビになって家を追い出されてから、『グルックスブルク家』もずいぶん傾いたんだってなぁ」
ラスバッハはスープを掬いながら言った。
「グルックスブルクの帝都屋敷、この前とうとう売れたらしいじゃねえか」
ローデリヒの匙は止まらなかった。
「あれ?知らなかった?去年の十一月。東棟までつけて八百四十万帝国マルク。ずいぶん安く買われたらしいぜぇ」
「存じませんでした。買われた方にはよいお買い物でございましたね」
自分が生まれ育った屋敷が買い叩かれた売値まで聞けば少しは顔に出るものだろうと給仕長は思ったが、ローデリヒは静かにスープを飲んでいた。
「領地の辺境惑星にもってた採掘権も半分売った。旧都の別邸は抵当に入って、使用人もだいぶ減ったってよぉ。何人だっけ」
「四十七名から十名です」
レームが答えると、ローデリヒはそこで初めて顔を上げた。
「まだ十名もお残しなのでございますか」
「……そこ?」
「家計が苦しいのでしたら、もう少し整理なさればよろしいかと」
ラスバッハは呆れたように言った。
「お前んちだろぉ」
「かつては。わたくしを家から出した時点で先方も同じようにお考えであったものと存じます」
「お前の親父も?」
「率先して」
恨みを押し殺した声ですらなかった。ラスバッハはまだ続けた。
「じゃあ家が傾いてんの聞いても何とも思わねえの?昔住んでた屋敷だろ。悲しいとかよぉ」
ローデリヒは少し考えた。
「まだ傾いているだけなのでございますね」
ラスバッハの眉がわずかに動いた。
「もしかして、潰れたって聞いた方がよかったか?」
「そこまでは申しませんが少々期待いたしました」
給仕長は危うくラスバッハの顔を見るところだった。
「……お前、けっこう酷えなぁ。仮にもかけがえのねえ家族ってやつだろぉ?」
「閣下にお褒めいただくほどではございません」
「褒めてねえよぉ」
「それは失礼を」
ラスバッハはローデリヒの顔を眺めた。
「効かねえかぁ。じゃあ、あれも効かねえのかなぁ」
「何のお話でございましょう」
「いや。こっちの話」
給仕長にもようやく午餐の性質が見えた。
酒も女も実家の没落も、この司祭が何に食いつくか試していたらしい。
***
厨房から主皿が上がってきた。給仕長は三枚の皿を確かめてようやく少し気を取り直した。
温めておいた皿へ盛った牛頬肉は昨夜から低い温度を保って火を入れ、いったん休ませたあと食事の時間に合わせてソースの中へ戻してある。
ナイフを強く押し込まなくても繊維がほどけるほど柔らかいが形は崩れていない。
牛頬肉の葡萄酒煮込みを卓へ運ぶとラスバッハは最初の一切れを切り、ソースを絡めて口へ運んだ。すぐには感想を言わず、舌で肉をほどいて二度ほど噛んでからジャガイモのピューレを少し合わせる。
「……葡萄酒、かなり詰めてんなぁ」
「はい。酸味が残りすぎませんように肉を戻す前に一度詰めてございます」
給仕長が答えるとラスバッハは今度は肉だけを小さく切った。
「だよなぁ。酸っぱさが立ってねえし脂も後に残らねえ。それに柔らけえのに崩れてない。最初から全部一緒に煮たらこうはならねえだろ」
「途中で肉を休ませております」
「そうだろうなぁ」
ラスバッハは満足そうに頷き、ピューレでソースを拾った。
「こういうの、好きだぜぇ。柔らかくするだけなら簡単なんだよな。やりすぎりゃ、何食ってんのか分かんなくなる」
給仕長は少しだけ胸を張りたくなった。ラスバッハは形を残したまま柔らかくする火入れまで食べて分かっている。
「形が残ってる方が面白えんだよぉ」
そこでせっかくの満足が少ししぼんだ。
ローデリヒは肉を切りながら訊いた。
「料理の、お話でございますか」
「今のはなぁ。人間はこう、ちょうどいい塩梅で止まってくれねえんだよぉ」
ラスバッハは笑った。給仕長は聞かなかったことにした。
しばらくは本当に料理の話が続いた。付け合わせもピューレも注文は好みの範囲で、理由は筋が通っていた。
肉が半分ほどになったところでローデリヒが口を開いた。
「閣下にも幼少のみぎりには騎士道の教えなどございましたか」
ラスバッハが目を上げた。
「騎士ぃ?」
「古い家門でございましたので」
「そりゃあったよぉ。親父も家庭教師もうるせえくらい言ってたなぁ。高貴なる者の義務がどうとか、弱きを守れとか、約束を違えるなとか」
鼻で笑うかと思ったがそうはしなかった。ラスバッハは肉をもう一切れ切ると、少し考えるようにナイフの先を止めた。
「俺ぁ、騎士ってのは嫌いじゃねえぜぇ」
ローデリヒが少し眉を上げた。
「意外にございますね」
「なんでだよぉ。いいじゃねえか、騎士」
ラスバッハは本気で不思議そうだった。
「言ったことは守る。誰かが後ろにいりゃ前へ出る。怖くても逃げねえ。自分が痛え目に遭っても、仲間は売らねえ」
給仕長は危うく頷きそうになった。
「殺すぞって言っても睨み返してきてよぉ。仲間の居場所を訊いても、知らねえの一点張り。自分の傷より、隣の奴の心配してるようなのな」
ラスバッハは肉を口へ運んだ。
「ありゃあ、立派だぜぇ」
どうやら皮肉でもないらしい。ローデリヒが尋ねた。
「そのような方をお好みなのでございますか」
「ああ。大好きだぜぇ。……時間かける甲斐があるからなぁ」
給仕長は感心しかけたことを取り消した。ローデリヒは表情を変えなかった。
「と申しますと」
「最初から泣いて命乞いする奴なんか、つまんねえだろ。脅したら喋る。殴ったら仲間を売る。何もしてねえうちから許してくださいってよぉ」
ラスバッハはナイフを入れ、牛頬肉の繊維を崩さないように一切れだけ分けた。
「減らすもんがねえんだ」
給仕長は肉から目を離した。
「だが騎士サマは違う。誇りがある。忠義がある。守りてえ奴がいる。約束もある。いっぱい持ってる」
ローデリヒは淡々と返した。
「それをお壊しになるので?」
「『壊す』ってのとはちょっと違うんだよなぁ」
ラスバッハは少し考えて首を振り、ナイフの腹で肉へソースをまとわせた。
「そうそう、こんな感じだよ。無理に切らなくても時間かけりゃ勝手にほどける」
給仕長は、せっかくの料理をそんな例えに使わないでほしかった。
「昨日まで『殺せ』って言ってた奴がそのうち『助けてくれ』って言うようになる。仲間の名前は絶対に言わねえって奴が、訊いてもねえのに自分から一人ずつ教えてくれるようになる」
ラスバッハは肉を食べ、よく味わってから飲み込んだ。
「最後にはそいつが何を守りたかったのか、本人にも分かんなくなる」
ローデリヒが少しだけ杯を回した。
「それでも騎士であったことには変わりないのではございませんか」
「ああ。だからいいんだよぉ」
ラスバッハは笑った。
「値打ちがあるから、ほどく甲斐があるんじゃねえか」
その口調に騎士をあざ笑う気配はなく、むしろ妙に真剣だった。
ローデリヒは肉をもう一切れ切った。ローデリヒは皿の上の牛頬肉を見た。
「ずいぶんお時間をお掛けになるのでございますね」
「そりゃそうだろぉ。せっかく形があるんだからよ」
ラスバッハも同じ肉へ目を落とした。
「最初からぐずぐずにしたら、何がなくなったのか分かんねえじゃねえか。昨日まで何を大事にしてたか覚えてるうちに一つずつ手放してもらう方がいい」
給仕長にはさきほどまで美味そうに見えていた肉が少し違って見え始めていた。
「どのように?」
「色々だよぉ。寝かせなかったり、逆にずっと寝かせたり、誰が何を喋ったって教えてやったりな。本人が一番気にしてる奴の話を聞かせるだけでも、けっこう効く」
ラスバッハは杯を回し、赤い酒の脚を眺めた。
「俺も昔はよぉ、変なもんも使ってたからなぁ」
給仕長はわずかに目を上げた。
「最初は妙に元気になるんだよ。寝なくても平気になって、飯もいらなくなって、何でもできる気になる」
ラスバッハは面白そうに続けた。
「誰もいねえ廊下に誰か立ってるって思ったりよぉ。三日間も徹夜なのにまだ眠くねえ。そんで、もう少し経つと水が欲しい、寝たいって、そればっかになる」
給仕長はようやく少し腑に落ちた。
この男にも、若い頃には相当に荒れた時期があったらしい。
五百年続いた家を犯罪の巣に変えたという人間なら、自分まで薬に沈んでいたことがあったとしてもさほど不思議ではない。
「ずいぶんお詳しゅうございますね」
ラスバッハは杯から目を上げなかった。
「まあなぁ」
「閣下はどの程度までお使いに?」
「使う?俺が?」
ラスバッハは本当に意外そうな顔をした。
「まさか。俺ぁ自分には使わねえよ」
給仕長はほんの少し安心した。
ラスバッハは牛頬肉を一切れ味わって飲み込んだ。
「使わせてたんだよぉ」
ソース器がわずかに傾いた。
「おいおい、かけすぎんなよぉ。これ、ちょうどいいんだから」
「――申し訳ございません」
給仕長は手元を戻した。安心する方向をまた間違えた。
ローデリヒは何事もなかったように訊いた。
「それで何をさせたのでございます?」
ラスバッハが顔を上げた。
「……そこ訊くんだ?」
「効き目のお話だけ伺っても用途が分かりませんので」
「喋ってもらったり働いてもらったり、忘れてもらったり。いろいろだよぉ」
「騎士のような方々にも?」
「ああ。ああいう連中ほど、最後の仕上がりがいいんだよ。最初は薬なんかいらねえ、殺せって言ってたのが、最後には自分から欲しがるようになる。俺ぁ、そういう奴の方が好きだなぁ」
ローデリヒの表情は変わらなかった。
「なぜでございましょう」
「だって命が惜しいのは普通だろぉ?死にたくねえってのは、別に負けじゃねえよ」
ラスバッハはピューレで皿に残ったソースを拾った。
「でも昨日まで嫌ってたもんを、自分からくれって言うのは違う。そいつが自分で決めてた線を、自分で越えるんだ」
先ほどラスバッハが騎士を立派だと言ったことを、給仕長はもう思い出したくなかった。
「それで、その者たちをお手元に置かれるので?」
「昔は何人かいたなぁ。今はいねえよ」
ラスバッハは妙に懐かしそうに笑った。
「よく懐くんだよぉ。仕上がりまでに手がかかった奴ほど、かわいいもんなんだよなぁ」
***
次は菓子のはずだったが、まだ皿には牛頬肉が残っていた。ラスバッハは急がず最後のソースを拾っている。
「せっかくだ。共通の話でもしようぜぇ」
「共通の話題がございましたか」
「あっただろぉ。建国の日」
ラスバッハは杯へ赤を足させた。
「皇帝サマ、もうちょいで獲れたんだよなぁ。撃っても撃っても逃げやがってよぉ」
「先ほどは長く遊べるので悪くないと仰せでしたが」
「それとこれとは別だよぉ。獲れる時に獲れなきゃ腹は立つ。お前、前にも言ってたろ。皇帝サマ本人じゃなくて、周りをどうにかした方が効くとか」
ローデリヒは少し考えてから頷いた。
「陛下ご本人に痛みを与えるだけでしたら、容易でございましょう。民を撃ち、兵を殺し、ご友人をお殺しになればよろしい」
「簡単じゃねえか。でもそういう話でもねえんだろ?」
「はい。憎む相手がおありになれば、人は存外、迷わずに済むものでございます」
ラスバッハが杯を止めた。
「俺を憎んで殺して終わり?」
「おそらくは」
ラスバッハが呟いた。
「うーん。それはつまんねえなぁ」
ローデリヒはさらりと同意した。
「左様でございましょう」
ラスバッハは肉を一切れ切った。
「皇帝サマのお友達なぁ。あの辺のどれかに、殺さねえ程度でちょっかいかけるか」
「ご本人をお捕らえになるよりは可能性がございますね」
給仕長は捕虜か交換材料の話だと思っていた。
「誰がいいかなぁ。ミッターマイヤーの倅とかどうかなぁ」
ローデリヒのナイフは止まらなかった。
「フェリックス殿でございますか」
「そうそう、フェリックス。そういやあいつ、お前を殴ったんだってなぁ。幼年学校で、みんなの前で」
「はい」
「恥ずかしくなかったかぁ?寄親に切られた原因も、あれなんだろ」
「原因の一つではございましょう」
ラスバッハは赤葡萄酒をひと口含んだ。
「ずいぶん落ち着いてんなぁ。俺なら根に持つけど。で、お前、何言ったんだよぉ」
「フェリックス殿の出生について若干の疑義を呈しました。具体的には――」
ローデリヒは淡々と説明した。
給仕長はあまりの下劣さに耳を塞ぎたくなった。職務中なのでそうもいかず、代わりに卓上の皿を頭の中で数えることにした。
ラスバッハはしばらく司祭を見ていた。
「……お前、それは殴られるだろぉ」
少し間があった。
「ほんとに司祭サマかぁ?どっちかっつうと……いや、あんた完全にこっち側の人間だろぉ」
「心外にございます」
ラスバッハが笑い出した。
「そんだけのこと言っといて、恨む筋じゃねえよなぁ」
「わたくしもそのように考えております。あの日も、あの方は十分に我慢しておいででした。ご自分への侮辱にはよくお耐えになりますが、大切な方への侮辱にはお耐えになりにくい。そのあたりは当時から分かりやすい方でございました」
「じゃあ家族を使えばいいんじゃねえのか?親父かお袋」
給仕長は瓶を傾けたまま、ほんの一瞬だけ手を止めそうになった。
捕虜の話ではなかったらしい。
「フェリックス殿の父親を餌になさるのでしたら、宇宙艦隊司令長官をお捕らえにならなければなりません」
ラスバッハは少し考えた。
「……無理だなぁ」
「ええ。母君だけを狙いましても、元帥をはじめ相応の警護と捜索が動くものと存じます」
「もっと面倒じゃねえか」
「わたくしもそう存じます」
問題は人の母親を攫うことではなく、その後らしい。
「じゃあクライン・ヴァルター。たしか教団では『クリュプタ』って呼ばれてたんだっけ。あいつはどうだ?」
「血縁のご家族はおられません。ただ、リーゼという少女が一人」
「誰だぁ?」
「身元保証人と被保証人の関係にございます。少女の方はヴァルター中尉を兄と呼んでいるようです」
「お、じゃあそれ使えばいいじゃねえか」
給仕長は今度こそ声を上げそうになった。
「グリューネワルト伯爵夫人の離宮におります」
ラスバッハの匙が止まった。
「……もしかして侍女?」
「はい」
「あそこから攫えって?」
「わたくしはそのようには申し上げておりません」
「だよなぁ」
ラスバッハは匙を置き、指先で杯の脚を回した。
「一人引っ張るのに、何人ついてくるか分かんねえ」
「伯爵夫人の身辺に手を触れたと受け取られれば、なおさらでございましょう」
「却下ぁ。無理無理。高えよ。他は?」
ラスバッハはもう次を探している。
給仕長は心を殺して仕事を続けた。
「ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク」
ラスバッハの目が止まった。
「ああ。あん時の学生かぁ」
「ご記憶でございましたか」
「憶えるって言ったからなぁ」
ラスバッハは杯を傾けた。
「給電塔に食いつかねえで出口に居座って、うちの連中を止めた奴だろ。射撃もいい。肝も据わってる。頭も回る。ああいうのは忘れねえよぉ」
「左様にございます。現在は統帥本部の作戦局におります」
「あいつ、偉くなったなぁ」
ラスバッハは嬉しそうに笑った。ほとんど縁もない。それどころか敵である。それなのに、まるで昔から成長を見てきたような顔をしていた。給仕長には、その親しみ方が気味悪かった。
「両親は?」
「すでに亡くなっております」
「じゃあ、そっちは使えねえかぁ」
「弟がおります」
そこでラスバッハのナイフが止まった。
給仕長も動けなくなった。
今度は何の話が始まるか分かってしまったからである。
「弟ぉ?」
「エルンスト・フォン・アイゼンベルク。現在、士官学校に在学中の候補生にございます」
「兄貴と同じ道かぁ」
「ご本人が望まれました」
「仲いいの?」
ローデリヒは少し考えた。
「たいへんに。ただし兄君は弟君が軍人になることに当初、強く反対しておられました」
ラスバッハが顔を上げた。
「なんで?」
「ご両親を亡くされてからは兄君が半ば親代わりでございました。弟君を危険な場所へ進ませたくなかったのでしょう」
「それでも入った?」
「はい。進学志願書の保証人は兄君ご自身という情報にございます」
ラスバッハはしばらく黙った。
「じゃあ、あいつは弟を守りてえけど、檻には入れられねえんだ」
ローデリヒは否定しなかった。
「弟の方は?」
「兄君をたいそう敬愛しておいでです。ただし兄君の後ろに置かれることを好んではいないとか」
「言うこと聞かねえの?」
「それは別のお話かと」
ラスバッハが笑った。
「いいねぇ。面倒くせえ兄弟だ」
騎士の話をした時と同じ笑い方だった。
「エルンスト、ねぇ」
ラスバッハはレームを呼んだ。
「ハインリヒの弟の方、調べといてくれよぉ。成績、付き合ってる奴、金の使い方、遊び。それから――」
残っていた牛頬肉を切って口へ運ぶ。
「兄貴には言ってねえこと。俺の勘だけどよぉ、そいつ兄貴に見せてねえ顔がある気がすんだよなぁ」
「本人の嗜好ではなく?」
レームが訊いた。
「そっちは後でいいよぉ。兄貴に追いつきてえ奴ってのはな、いちばん兄貴に見せたくねえ顔を一つくらい持ってるもんだぜぇ」
「承知しました」
「ああ、それと攫うなよぉ。攫った瞬間、そいつは全部『兄貴に見せる顔』になっちまうだろ。普通に暮らさせとけ。その方がいろいろ出てくる気がする」
レームはそれ以上訊かず、ローデリヒも止めなかった。
***
厨房へ戻っても名前は頭に残ったが、給仕長は菓子へ意識を戻した。
冷えたカスタードへ薄く砂糖を振って火を当てる。焦がしすぎれば苦く、浅ければ匙を入れた時の音が出ない。
今度こそ料理の話だけで終わってほしかった。
給仕長は三つの皿を盆に載せて食堂へ戻った。
白い器の表面には薄い飴の膜が張り、まだわずかに熱を残している。ラスバッハとレームの前へ一皿ずつ、ローデリヒの前へもう一皿を置き、銀の匙を添えた。
ラスバッハは待ちかねたように匙を取った。
匙の背で飴を割ると、ぱり、と音がした。冷たいカスタードに卵とヴァニラ、焦がした砂糖の苦味が重なる。
ラスバッハは最初の一口で素直に顔をほころばせた。
「このクリーム・ブリュレ、うめえなぁ」
給仕長は少し救われた。
「砂糖、薄く張ってんな。これくらいがいいよ。前の料理長は焦がしすぎでよぉ。厚いわ苦いわ、割ったらカスタードまで一緒に崩れるわで」
「その方はいまは」
ローデリヒが訊いた。
給仕長の手が止まりかけた。まさか、と嫌な想像が頭をよぎった。
ラスバッハが答えるより早くレームが説明した。
「輸送部門におります。本人の希望による異動です」
給仕長は少しだけ息を吐いた。
ラスバッハは給仕長を見た。
「なんだよぉ、その顔。俺が殺したと思った?」
「滅相もございません」
「……思ったんだな」
給仕長は答えなかった。ラスバッハは愉快そうに笑い、飴をもう一か所割った。
「菓子がまずいくらいで殺さねえよ。異動願い出たから出しただけだ。あいつ、菓子以外もあんまり上手くなかったけどなぁ」
ラスバッハはもう一匙すくった。
「でも最初は誰だってそんなもんだろぉ。一つずつ上手くなってきゃいいんだよ。料理なんざ好みの問題もでけえしなぁ」
給仕長は少し意外に思った。
「昨日より旨くなってりゃ、それでいいじゃねえか」
「左様でございますか」
「おう、これこれ。このくらいの薄さがちょうどいいよ。焦げもちゃんと端まで揃ってる」
給仕長は頭を下げた。今度こそ料理だけを褒められているらしい。
ローデリヒも飴を割ってひと匙を口へ運んだ。
「よろしゅうございますね。先ほどのお肉もたいへん結構でございました」
「だろぉ?」
ラスバッハは満足そうに菓子を食べ進めたが半分ほどなくなったところでローデリヒが何気なく言った。
「閣下は加減にはずいぶんお厳しいのでございますね」
給仕長は反射的に二人の顔を見比べそうになった。ラスバッハは匙を止めなかった。
「料理はなぁ」
それ以上は誰も何も言わず、給仕長はこの職に就いて初めて菓子に感謝した。
***
濃い珈琲と小さな干菓子が出た。深煎りの苦味がカスタードの甘さを流す。
ラスバッハは何も加えずに一口飲んだ。
「これもいいなぁ。あの甘さの後なら、このくらい苦味が立ってる方がちょうどいい」
「恐れ入ります」
人も死なず家も潰れず薬も出てこなかったので、給仕長は珈琲を今以上に好きになれそうだった。
ローデリヒが食事中一度も開かなかった記録端末を引き寄せた。
ラスバッハが目を向ける。
「やっと何か書くのかぁ」
「日誌がございますので」
ローデリヒは端末を開き、短く入力した。指が動いたのはほんの数秒で、それ以上は何も書かずに閉じる。
「何て書いたぁ?」
「着任歓迎の午餐、つつがなく相済みました、と」
ラスバッハはしばらく相手の顔を見た。
「……それだけかぁ?ずいぶん色々喋った気がすんだけどなぁ」
「本日の日誌にございますので。必要がございましたら別途記録いたします」
ラスバッハは閉じられた端末を見て、声を出さずに笑った。ラスバッハは珈琲を飲み干し、給仕長へ杯を差し出した。
「もう一杯」
「かしこまりました」
給仕長が注ぎ足している途中でラスバッハが手元を見た。
「給仕長。あんた、皿引くのうめえなぁ。話してる奴が息継ぐ、その一瞬で持ってくだろぉ」
「恐れ入ります」
給仕長の手が止まりそうになった。息を継ぐ瞬間に動くのは、卓の者に給仕を意識させないため二十年かけて身につけた癖だった。
「よく、お気づきでございますね」
「邪魔されんの嫌いなんだよぉ。上手い奴は邪魔しねえから、分かる」
給仕長は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
ラスバッハはもうこちらを見ておらず、珈琲へ口をつけている。給仕長はそれでよかった。
やがてローデリヒが席を立った。
「結構なお膳にございました。ご馳走にあずかりました」
「料理長に言っとくわぁ」
「ぜひ」
司祭はラスバッハへ一礼し次いでレームへ軽く頭を下げた。
「それでは」
「おう。また飯食おうぜぇ」
「機会がございましたら」
「作るよぉ」
ローデリヒはその返事について何も言わず、公室を出ていった。扉が閉じる。
給仕長は使い終えた杯と珈琲の器を盆へ戻し、ラスバッハから下がる許しを得た。扉まで十二歩ある。
「レーム」
十一歩。
「はい、閣下」
十歩。
「お前の調書よぉ。間違ってねえよなぁ」
九歩。
「どの箇所でしょう」
八歩。
「全部」
七歩。
「裏の取れるものは取ってあります」
六歩。
「そうかぁ」
五歩。給仕長は歩調を変えなかった。
背後で短い沈黙があった。四歩。
三歩。
「じゃあ、書いてねえところが多すぎるなぁ」
二歩。一歩。
給仕長は扉を開けた。
「そのための午餐であったかと存じます」
扉を閉じる寸前、ラスバッハの声がした。
「歓迎ってのは便利だなぁ」
***
厨房では料理長が鍋を洗わせながら、残ったソースと返ってきた菓子皿を確かめていた。
「どうだった」
給仕長は答えず、使い終えた銀器を作業台へ置いて一本ずつ数えた。料理長がもう一度訊いた。
「お気に召したか」
給仕長は少し考えた。
「……料理は大変好評でした」