【新帝国暦二十三年十二月二十六日 バーラト自治政府ハイネセン 中央港運航調整室】
帝国と教国の戦争が始まった翌朝も、ハイネセン中央港には船が入り続けていた。
昨日まで予定表になかった船ばかりである。
帝国から離脱し教国への帰属を宣言した旧同盟領七星系へ向かう途中で針路を変えた貨客船。教国方面から引き返した定期船。寄港を断られ、行き先を失った貨物船。どちらへ情勢が転ぶか読めず、とりあえずハイネセンまで来た船もあった。
入港待ちの船列は夜明け前から伸び続けている。
運航調整室の壁面には港内図と入出港予定が大きく表示され、その片隅では公共放送が流れていた。
教国の掲げる金色の樹の紋章。白衣の聖王。その周囲に立つ七人の枢機卿。
昨日の建国宣言が終わると、画面はタナトス星域での教国軍の戦勝速報へ切り替わり、続いてマーロヴィア星域では皇帝直率の帝国軍二万隻を教国軍第一聖団が撃破したという教国側の発表が流れる。
そのあいだにも、緊急入港要請がまた一件増えた。
ラオは放送へ目を向けず、手元の勤務表を開いた。
二十数年前、彼は自由惑星同盟軍第二艦隊旗艦〈パトロクロス〉の艦橋にいた。
アスターテ会戦ではパエッタ中将が負傷し、ヤン・ウェンリーが指揮を引き継いだ場にも居合わせ、戦闘の途中から砲術長を兼ねた。
自由惑星同盟が帝国に併合され、軍を離れてからは、港湾会社で民間船団の運航安全や事故処理に長く携わってきた。
この朝、彼の前にあるのは艦隊の戦術表示ではなく、港で働く人間の勤務表だった。
「ラオ班長。第一臨時船団、出ました」
若い運航主任が報告した。昨夜からほとんど寝ていない顔だったが声にはようやく安堵が混じっている。
「多少遅れましたが大型船も整理できました。中央管制に経験者を増員したので、このままなら昼までは回せると思います」
「増員はどこからですか」
「外側の埠頭と修理管制です。曳船会社からも経験者に来てもらいました」
ラオは勤務表を下へ送った。
「抜いた側の夜勤は足りますか」
若い主任が自分の端末を開く。
「……通常なら足りますが」
「今日は『通常』ではありませんね」
主任は勤務表を見直した。中央管制へ移された修理主任は前日の夕方から勤務を続け、本来なら今朝が交代だった。
「この人は交代させましょう」
「ラオ班長。本人はまだやれると言っています。機関関係では一番経験があります」
「だから休ませます。午後の修理管制は誰が見ますか」
主任の目が勤務表を追った。第一便を出すため、経験のある者から中央へ寄せた結果、午後から夜の欄には穴が増えている。
「……経験者を中央へ集めた方が早いと思ったんです」
「今朝の船団を出すためには正しい判断だったと思います」
「ではこのままでも」
「今朝の船団はもう出ました」
ラオは画面を切り替えた。外側の埠頭には係留中の船が残り午後にも予定船が入る。
修理管制には昨日からの故障船があり、避難船の中にも機関系統の警告を出している船があった。
「中央へ寄せた人員を一部戻してください。修理主任は休ませます。代わりは最低限でいい」
主任は修正を入力しながら訊いた。
「曳船も全部中央へ寄せますか?」
「一隻は予備で残してください」
ラオは入港予定の上に並ぶ赤い表示を見た。〈未確定〉〈行き先変更中〉〈航路照会中〉。
どれも朝より増えている。
「何も来なければ、休ませればいいでしょう」
主任が苦笑した。
「何か来るかもしれないから、予備で残しておくということでしょうか?何も来ないかもしれません」
「もし予備が必要になったときに誰もいない方が困ります」
修正した勤務表が保存され、第一便へ集中していた人員が少しずつ元の部署へ戻された。残した曳船の交代班も早めに休ませることになった。
主任は処理を終えてからラオを見た。
「ラオ班長は、昔からこういう見方をしていたんですか」
「どういう見方ですか?」
「今の仕事よりその次を先に心配するというか」
ラオは少し考えた。
「いいえ」
意外だったらしく主任が顔を上げる。
「昔、艦橋の人間が足りなくなって他の部署から集めたことがあります」
「軍にいたころですか」
「そうです」
『アスターテ会戦』という名までは口にしなかった。
「足りないところへ経験者を他部署から無理やり集めました。おかげで艦橋は動きました」
「なら成功だったんじゃ」
ラオは勤務表へ目を戻した。
「抜いた部署ではそのせいで何人か余計に死にました」
主任が黙ったところで新しい入港照会が鳴った。壁面ではまた白衣の聖王が映っている。
ラオは勤務表を閉じず端末を取った。午後の欄にはまだ余白が残っていた。
***
昼を過ぎるころには第二臨時船団も港を離れた。朝に中央へ集めた人員の一部は元の持ち場へ戻り、交代に入った者は休憩区画で眠っている。
ラオが使わずに予備として残した曳船も係留されたままだった。
それでも入港待ちの列は短くならない。それどころか、戦闘星域を迂回した定期客船、教国圏七星系への寄港を取りやめた貨客船、帝国領奥部へ戻ることを諦めた商船が増え続けた。
避難命令の有無にかかわらず、運航調整室ではどれも〈緊急入港要請〉として処理するしかない。
壁面では昨日から何度も繰り返されている建国放送がまた始まった。白衣の聖王が七星系の民へ議場を返すと告げ、普通選挙と地方議会の再開が読み上げられる。
やがて聖王の演説へ移った。
『かつて我らは拾われた。ゆえに我らは、拾いに行く』
その放送が流れる間にも港では入港位置の変更が続いていた。壁際の若い職員は二台の端末を使い、重なった入港時刻を一隻ずつずらしている。
片方で船会社と話しながらもう片方では港外の宙域や空域での待機位置を書き換えていた。
隣の職員が画面を覗き込んだ。
「おい、ウォード。お前、昨日も夜の課程だったろ」
「はい」
「お前ちゃんと寝たのか?」
ユアン・ウォードは入港表を動かしたまま答えた。
「横にはなりました」
「それは寝たとは言わない」
「課程の先生にも似たようなことを言われます」
「だったら聞けよ」
「ちゃんと聞いてますよ。従うかどうかは別ですが」
同僚が呆れた顔をしたときにはユアンは別の船へ回線をつないでいた。
「そちらは今入ると前の船のお尻に刺さりますよ。外周をもう一周してください。燃料は足りますね。なら大丈夫です。港は逃げませんから」
返事を聞いて待機位置を変えるとすぐ次の船を呼び出した。ラオは少し離れた席でやり取りを聞いていたが口は挟まなかった。
***
午後になって教国圏方面からまとまった船団が近づいた。貨客船や商船を中心にした集団で、どの船も本来の運航計画から大きく外れている。
途中で別の船から旅客を引き受けた船もあり乗客名簿の更新さえ追いついていなかった。
その中の大型定期客船には一万人を超える人間が乗っていた。途中で別船から移された患者もおり、機関系統には以前から軽い警告が出ていた。
「ラオ班長。主推進制御の応答が少し遅れているそうです。港外で曳船を付けてから入れます。船長も了承済みです」
担当者の報告を受けラオは状態表示を確かめた。この時点では入港を断念させるほどの異常ではない。
「修理管制にも送っておいてください。入港後は優先して見てもらいましょう」
船団が外周待機区画へ入り始めたころ、昨日から繰り返し放送されている教国の建国放送では聖王が七星系の名を読み上げていた。神聖黄金樹教国の樹立宣言に続きローエングラム朝銀河帝国への聖戦が今も告げられている。
***
大型客船の状態表示が赤へ変わった。
「減速指令への応答遅延が拡大しています。出力は落ちていますが速度が下がりません」
運航主任が立ち上がり壁面へ予測航跡を出させた。中央港外の待機空域で十分に速度を落とすはずだった船が、その減速点を越え、港内へ流れ込もうとしている。
進路の先には避難客の残る旅客ターミナルがあり、後方からは同じ船団の残りが続いていた。
予測線が赤へ変わる。
「まずい、止まれない!大型客船が旅客ターミナルに突っ込んでくるぞ!全航路停止。入港中の船も全部止め――」
「それ、やらない方がいいです」
壁際のユアン・ウォードだった。主任の返事を待たず港内図を外周まで広げる。
「全部止めたら事故船の後ろにいる連中まで行き場がなくなります。事故船と交差する進入路だけ閉めて残りは流した方がいいです」
「ウォード。そうは言うが、一万人以上乗った船が減速できていないんだぞ!このままだとターミナルに突っ込んでくる!」
「分かってます。でも廊下で一人転んだからって後ろの全員にその場で座れと言ったら余計に危ないでしょう。しばらくしたら人間の山になります」
主任は後続船の列を見て判断を変えた。
「……わかった。事故船の進路だけ閉鎖。交差しない進入路は流せ。外周待機船は間隔を広げろ」
通信担当が各船へ指示を送り始めるとユアンは大型客船へ戻った。予測線はまだ旅客ターミナルへ向かっている。
主任は主機を完全に切る案も確認したが、いま切っても慣性でかなり流れるという。
曳船会社の表示を開く。
「曳船を全部出す。曳船で取りついて逆向きに引っ張って減速させるしか――」
「それもやめた方がいいですね」
「ウォード」
「止められませんよ。あれだけ大きな船を曳船で真正面から止めるのは、走ってる象を人間が受け止めるようなものです。人の方が潰されて終わりです」
「ではどうすればいい」
ユアンは予測線を横へずらした。
「象の顔だけ横に向けましょう」
何人かが画面を見た。ユアンが拡大したのは旅客ターミナル脇の貨物バースだった。
「ここです。客船を完全に止める必要はない。ターミナルへの線から外せればいい。バースを空けて曳船は船首を振るために使います。補助推進が残っていれば一緒に使う。最後まで速度が残ったら空けた貨物バースで受けます」
「受けるって、どうするんだ。止まれないぞ」
「止まれずぶつかるでしょう。であれば、ぶつける場所を選びます。人がいる旅客ターミナルに正面から突っ込むより、無人の貨物バースへ船腹を擦らせる方がましです。船会社には怒られるでしょうけど、生きてればあとで謝れます」
主任は客船の速度と貨物バースまでの距離を見比べた。
「曳船は何隻使う。現在即応状態が二隻。予備も一隻控えてる。出そうと思えば予備も起こして、合計三隻だせる」
「二隻でいいです。後ろにも機関不調の船がいます」
ラオが訊いた。
「二隻分の推力で足りますか」
「押し返すのでしたら、足りないでしょう。ですが欲しいのは船首を横へ押す力です。必要な位置へ二隻つけられれば足ります」
「予備で待機中の一隻を追加して三隻分出せば、回頭は楽になりますよ」
「予定どおりなら。――でもこの港、今日一度でも予定どおりに動きました?」
ラオは少しだけユアンを見た。
「分かりました。二隻でやりましょう」
「助かります。消火器は一本くらい残しておいた方が安心なので」
「象の話ではなかったんですか?」
ユアンは少し考えた。
「象はもう使いました。次は火事の話でいきます」
ラオの口元がわずかに動いたところで別の職員が声を上げた。
「待ってください。貨物バースを空けるには係留中の船を動かさないといけません。荷役中の船もあります」
主任がそちらを見る。
「船長へ離係を要請しろ」
「一隻は船長が下船中です。もう一隻は船会社から即時離係の了承が取れていません」
ユアンが時計を見た。
「どれくらいかかります?」
「分からない。通常手続なら――」
「通常手続が終わるころには、客船の方がもう旅客ターミナルに突っ込んでますよ」
貨物バースを空けなければ、回頭案は使えない。
旅客ターミナルには避難者がまだ多く残っている。進路を十分に外せなかった場合に備え、こちらの退避も始める必要があった。
ユアンは貨物バースの表示を指した。
「離係を始めましょう。係留中の船は緊急退避です。内務局にも並行して連絡してください」
主任が振り返った。
「返事を待たなくていいのか」
「待っていたら間に合いません。港の船を動かすのはこっちの仕事でしょう。人を動かす方は内務局にお願いします」
「責任は?」
「提案したのは私です。でも命令できるのは主任でしょう」
主任は一秒だけ黙った。
「分かった。貨物バース、緊急離係。全船に通達。内務局への回線を開け」
調整室の隅で緊急回線が開かれた。
回線は予想より早くつながった。
画面に出た内務局長のムライは移動中らしく、背後では職員が端末を抱えて行き交っていた。
貨物バースではすでに離係作業が始まっている。旅客ターミナルの退避にも内務局の手が必要だと聞いたところで、ムライの眉間の皺が深くなった。
『離係は、誰の判断だ』
「私です」
運航主任が答えた。
『緊急措置として、君が命じたのか』
「はい。ただ、必要だと最初に言ったのはウォードです」
ムライの目がユアンへ移った。
『名前と役職をいえ』
「ユアン・ウォード。運航調整員です」
『運航調整員か。君に権限はないな』
「ありません。だから主任に上げました」
ムライは一拍置いた。
『それでいい。必要な措置を順に言え』
ユアンはすぐに答えた。
「貨物バースを空けたいです。係留中の船はできるだけ早く離係。旅客ターミナルは事故船の予測線に近い区画から退避を始めてください。警察が使えるなら誘導だけお願いしたいです。操船には入れなくていい」
『時間は』
「数分以内。避難は全部終わらなくてもいいので、まず予測線の近くから外したいです」
ムライは隣の職員へ顔を向けた。
『港湾管理局へつなげ。係留船の離係はそのまま続けさせろ。船主への通知は同時に出せ。損害が出た場合の補償記録も最初から作れ』
続けて別の職員へ指示する。
『港湾警察は旅客区画の避難誘導に出す。操船指揮には関与させるな。現場の管制系統も変えるな』
ユアンが小さく息を吐いた。
「助かります。鍵のある人がいると、ドアを蹴破らなくて済む」
『ウォード』
「はい」
『今は君の軽口に付き合っている時間はない。必要な話だけにしろ』
「はい」
ラオは手元の画面を見たまま口元を緩めた。
ムライは事故船の予測航跡を自分の端末へ転送させると、運航主任へ言った。
『現場の判断は君がしろ。ウォードは必要な情報を君へ上げる。それでいいな』
「はい」
『続けろ』
その間にも客船は近づいていた。貨物バースでは荷役を止め離係準備が始まる。
旅客ターミナルには港湾警察が入り避難者を予測線から遠い区画へ移し始めた。壁面では聖王が七星系の名を読み上げている。
その下で戦争を避けてきた船の入港要請が増え続けていた。
運航主任が事故船へ回線を戻した。右舷側の補助推進器は使えるものの、最大出力をどこまで維持できるか担当者には分からない。
ユアンは機関主任を直接つなぐよう求めた。担当者が一瞬ユアンを見る。
「お前が判断するんじゃないのか」
「私は機関屋じゃありません。分からないものを分かったふりして客船一隻壊す方が嫌です」
事故船の機関主任が回線へ入るとユアンは現在出力、応答遅延、補助推進器の連続使用限界、再使用までの間隔だけを訊いた。旅客区画の退避時間は客室責任者へ回す。
ムライが画面越しに言う。
『ウォード。君は自分の守備範囲をよく分かっているようだな』
「そこは先生にも褒められます」
『……褒めているわけではないのだが、まあいい。続けてくれ』
ラオは貨物バースの離係、避難、曳船の配置を同じ画面で見た。
「ウォードさん。このままならバースが空くのと客船が来るのはほぼ同時です」
「同時なら間に合いますよ」
「少しでも遅れたら」
「そのとき考えます」
「いま考えなくていいんですか」
「考えてますよ。全部の失敗を一度に考えると手が足りなくなるので、次に起きそうな失敗から順番に潰してます」
ラオはしばらく表示を見ていた。
「分かりました」
ユアンは、突っ込んでくる客船の船長へ回線を戻した。
「聞こえますか、船長。こちらでバースを空けます。曳船は船首側へ付けます。主機で止まろうとしないでください」
『このままだとターミナルに突っ込むぞ。それでも止まるなと言うのか』
「止まれないんでしょう?」
返事が途切れた。
「なら止まる話はいったん忘れましょう。向きを変えます。どうせ止まれずぶつかります。であれば、ぶつける場所を選びましょう」
『ずいぶん身も蓋もないな』
「今日はそういう日みたいです」
***
客船の予測線がゆっくり貨物バース側へ引き直された。
船長が回頭案を受け入れると運航調整室の回線が一斉に動き始めた。事故船と曳船、貨物バース、後続船を扱う職員がそれぞれの持ち場につく。
ユアンは空いていた副卓へ移り、客船の航跡と曳船の位置、バースの離係離状況を一つの画面へ重ねた。
貨物船は次々に離係し、船長を待てない一隻は副長による緊急離係へ切り替えられた。
ムライは回線を切らずに見ていた。貨物バースでは最後の一隻が動き始めていたが、旅客側は予測進路に近い区域から人を移している途中で、全員を建物外まで出す時間はない。
「外まで出さなくていいです。建物の反対側へ寄せてください。貨物バース付近と大窓の前だけ空けばいい」
『それで十分か』
「分かりません。ですがそれ以上は間に合わないでしょう。建物の強度は施設管理に聞いてください」
ムライは施設管理責任者を回線へ加えさせた。
ほどなく二隻の曳船が事故船へ追いついた。
船首付近へ位置を取り管制から送られた回頭予定を確認する。
ラオは取り付く位置が近く、客船が振れたときに巻き込まれる危険を指摘した。
ユアンは事故船の機関主任へ補助推進器の状態を確かめる。短時間なら右舷側をまだ使えるという。
「曳船、少し外へ取れますか。効率は落ちますけど船首が予定より早く振れたときの逃げ道を残したいです」
回頭力が不足するという曳船長の返答に補助推進を併用すると答え位置を変えさせた。ラオはそれ以上口を挟まなかった。
貨物バースの最後の船が離れた。
「貨物バース、空きました」
ほぼ同時に事故船から通信が入る。
『主機出力、まだ下がり切らない。これ以上待つと回頭開始点を越える』
ユアンは客船の現在位置を見た。
「始めましょう。曳船二隻は予定位置へ。事故船の補助推進器はまだ使わないでください」
『いつ使う』
「こちらから合図します。先に曳船の推力だけで船首を振ります」
外部映像に切り替えると大型客船の船首へ付いた曳船はひどく小さく見えた。二隻が押し始めても船体はほとんど動かない。
「回頭率、予定以下」
「まだ待ちます」
衝突するまでの時間が迫る中、やがて船首がわずかに貨物区画側へ向いた。
「船長、右舷補助推進。いまです。最大まで上げず機関主任が出した範囲で」
事故船の側面に噴射光が灯り回頭率が上がる。
予測線は旅客ターミナルの中心を外れ端をかすめる線まで動いた。
「もう少し。ここで止めるとまだ近い」
ラオも同じ場所を見ていた。船尾側はまだ旅客区画へ寄る可能性があり速度も高い。
「曳船、あと少し押せますか」
返事より先に警告音が鳴った。事故船ではない。
曳船の一隻だった。
「第一曳船、接舷装置に異常発生!」
『接舷を保持できない。一度離れる!……こんなときに』
表示上の回頭補助力が落ち客船の回頭率も下がった。貨物バース側へ曲がっていた予測線が旅客ターミナル側へ戻り始める。
主任が残った曳船へ出力増加を命じようとした。
ラオが止める。
「一隻ではとても持ちませんね。無理して出力を増やせば、もう一隻も壊れます」
ユアンも同じ判断だった。
「待機中の曳船を出してください。ラオ班長、予備でとっておいた消火器です」
「そういう言い方はしませんが」
ラオはもう曳船との回線を開いていた。
「予備で待機中の三号曳船との回線を開いてください。すぐ出てもらいます」
朝から使わずに残していた三号曳船の交代班は、十分に休んでいた。
呼び出しへの返答は早かった。
そのころ、調整室の後方で航路表示を扱っていた年配の職員が顔を上げていた。
旧自由惑星同盟軍で通信士をしていた男だった。若いころエル・ファシルの撤退作業に加わり、その後は何度かヤン艦隊の旗艦勤務も経験している。退役後は長く港湾交通の仕事をしており、ラオとは以前から顔見知りだった。
彼が見ていたのはユアンではなかった。
正確には、ユアン一人ではなかった。
副卓に立つ若者が曳船へ指示を求め、その数字をラオが補い、画面の向こうではムライが警察と港湾管理局の権限を整理する。主任はその情報を受けて現場命令を出し、機関主任や船長が自分の担当範囲を返してくる。
それまで別々の仕事だったものが、一つの流れになっていた。
同盟軍時代にも、似た光景を見たことがあった。
誰も全体を掴めず、それぞれが自分の持ち場で正しいことをしているのに艦橋全体が噛み合わない。そこへ一人が何かを言うたび、別々だった仕事が同じ方向へ向き始める。
男の指が端末の上で止まった。
だが、すぐに違うと思った。
あの人はこんなに動かなかった。
もっと眠そうで、面倒そうで、放っておけば椅子から立とうともしなかった。少なくとも調整室を端から端まで歩き回り、象だの消火器だの言いながら他人の端末を覗き込むような人物ではない。
似ているのは顔でも話し方でもなかった。
仕事が一つになる瞬間だけだった。
男は何も言わず、自分の端末へ目を戻した。
指先が少し震えていた。
***
三号曳船が事故船へ届くまでには時間がいる。
それまでは残った一隻で回頭を支えなければならない。
ユアンは故障した曳船を戻そうとせず、残った船には出力を上げる代わりに位置を変えるよう頼んだ。接舷部の負担を減らしながら回頭力を残すためだった。
事故船の機関主任から右舷補助推進器の新しい報告が入った。
『もう一度なら使える。ただし前と同じ時間は持たない。温度が上がっている』
「どのくらいです」
『安全を見るなら十数秒だ。それ以上は保証できない』
ユアンは客船の位置と三号曳船の到着予測を重ねた。
『いま使うか』
「まだです。いま使うと曳船が来る前に切れます。そこから曳船だけで押しても回頭が間に合いません」
『曳船を待って、間に合わなかったらどうする?』
「そのときはターミナルに突っ込みますね」
『おい』
ラオが三号曳船の位置を読み上げた。ユアンは必要な時間だけ確認し貨物バース側の映像へ切り替える。
最後の貨物船は十分な距離を取っていた。荷役設備や作業用車両の一部は残ったが人員は退避している。
旅客ターミナルでも予測線に近い待合区画は空になり、避難者は建物の奥へ移されていた。
「燃料船は?」
「もう接触範囲からは外れた」
「なら一個減りました」
「何がだ」
「死に方です」
主任は嫌そうな顔をしたが何も言わなかった。
三号曳船が事故船へ近づいた。ほどなく所定の接近位置へ入る。
『三号曳船、所定位置へ入る』
ラオが確認した。
「使えます」
「ありがとうございます」
ユアンは客船の船長と機関主任、二隻の曳船を同じ回線へ入れた。
「順番を確認します。三号曳船が船首側へ入る。残ってる曳船は今の位置を維持。三号曳船が押し始めて回頭率が戻ったら右舷補助推進を短く使います。船長は貨物バースへ船腹を持っていく。正面からバースへ当てないでください」
『分かっている』
「だったら助かります。私、客船を突っ込ませて大惨事を引き起こした人としてハイネセン・ジャーナルに載りたくないので」
『こっちはもっと載りたくない』
「意見が一致しましたね」
『……ウォード』
ムライの声だった。
「はい」
『雑談は後にしろ』
「すいません。どうしても話しちゃうんです」
『黙れとは言っていない。必要なことだけ話せ』
「はい」
三号曳船が押し始めると回頭率が戻った。ユアンは数値を見ながら待ち力が十分に乗ったところで合図する。
「事故船の右舷補助推進。いまです」
短い噴射で船体の向きが変わり予測線が旅客ターミナルの外へ抜けた。
「切ってください」
『まだいける』
「切ってください。使い切るのはよくない。いま使い切ったら最後の微調整ができません」
機関主任が出力を落とす。客船はもう旅客ターミナルへ向かっていなかったが速度は残っていた。
あとは貨物バースを使って止めるしかない。
船長は船首を外へ向けながら船腹をバースへ寄せた。曳船は接触直前に離脱する。
最初に左舷後部が当たり外部映像が激しく揺れた。荷役設備が潰れて倒れ、客船は一度弾かれたあと再びバースへ寄る。
今度は船腹を長く擦りながら速度を落としていった。
客船からは転倒や落下物による負傷者が報告され、バースと外板にも広く損傷が出た。
船尾が最後にバースへ強く当たり客船が止まった。旅客ターミナルにも燃料船にも届かなかった。
***
誰かが拍手しかけて手を止めた。客船の中にはまだ一万人を超える人間がいる。
負傷者数も船体損傷も確定していない。曳船の一隻は接舷装置を壊し貨物バースもしばらく使えなかった。
運航主任が椅子へ腰を下ろして息を吐く横でユアンは入港一覧を開いた。
「次の故障船、あと何分です?」
「……十八分」
「じゃあ使える曳船を数え直しましょう。壊れた一隻は除外。三号曳船は点検が要ります。客船の救援に持っていかれる船も――」
『ウォード』
ムライだった。
「はい」
『君は昨日何時間寝た』
ラオが勤務記録を開いた。
「昨夕に通常勤務を終えたあと、〈傘の会〉の夜間教育課程へ出ています。睡眠は二時間ほどでしょう」
「正確に測ってません」
『ウォード。交代しろ』
「でも次が十八分で――」
『君が倒れたら次の船の仕事を一つ増やすだけだ』
「まだ倒れませんよ」
『船の余力は数えられるのに、自分は数えられないのか。そこは未熟だな』
ユアンは黙った。
「次の船は私が見ます」
ラオが言う。
「ラオ班長まで」
「ウォードさん。朝、修理主任を休ませた理由を覚えていますか」
ムライは待たなかった。
『君だけ別扱いする理由があるなら言え』
「ありません」
『よろしい。なら交代だ』
ユアンは端末を閉じかけて顔を上げた。
「やばい!ムライ局長、夜間課程の課題、今日提出なんですけどまだ終わってません」
『遅れて出せ。事情は私から事務局に伝えておく』
「うーん。クブルスリー先生、期限にはうるさいんですよね」
ムライは顔色ひとつ変えなかった。
『あの人なら、災害も危機も提出期限を待ってはくれん、と叱責するだろうな』
ユアンは少し考えた。
「……言いそうですね」
『私からクブルスリー課程長には直接言っておく。もう休め』
「はい、ありがとうございます!」
ユアンは副卓を離れた。出口で一度だけ振り返る。
「そうだ、ラオ班長。三号曳船、本当に残しておいてよかったですね」
「そうですね」
「思ったんですが、『消火器』じゃなくて、『非常食』の例えの方がよかったかもしれませんね。普段は使わないけどいざというときに、という点では同じなんですが――」
『ウォード』
「なんでしょう、ムライ局長」
『いいから早く休め』
「はい」
ユアンは少し笑って、調整室を出ていった。
***
ムライは回線を切る前にラオを呼んだ。
『ラオ』
「はい」
ムライは少し考えた。
『ユアン・ウォードという若者は、〈傘の会〉の教育課程を受けているんだな』
「はい。夜間課程ですが成績は首席です」
ラオは続けた。
「旧同盟軍がまだあったなら放ってはおかなかったでしょう。艦隊司令候補として育てたはずです」
『身元に問題は』
「ありません。母親と二人暮らしです。父親は旧同盟宇宙艦隊の軍人でしたが、本人が生まれる前に回廊の戦いで戦死しています」
『ああいう若者は、他に何人いる』
「分かりません。数えたことがありませんから」
後世、この日の一件をユアン・ウォードの最初の戦いに数える者もいる。当時の彼は軍人ではなく、民間の港湾会社に勤務する運航調整員だった。指揮した軍艦は一隻もなかった。
のちに設立されたバーラト自治防衛軍で、ユアンは宇宙艦隊司令長官ダスティ・アッテンボロー元帥の片腕として艦隊の航路と運用を預かった。どの局面でも何か一つを使い切らず、最後に選べる手を残す用兵から、『一手残し』と呼ばれるようになる。
その青年が初めて相手にしたのは敵艦ではなく、一万人余りを乗せて止まれなくなった一隻の客船だった。
***
ムライは貨物バースの損傷、客船の負傷者、曳船の故障、警察の配置報告を順に確認した。
『警察の報告は内務局で引き取る。港湾側と時刻を合わせておけ。あとで誰が何を決めたか分からなくなるのが一番まずい』
運航主任が事故処理の入力画面を開いた。
「強制離係のところは内務局長判断で――」
『違う。港湾管理局の緊急避難措置だ。私は手続を確認しただけだ』
主任が入力しかけた文字を消す。
旅客区画についても、警察による避難誘導と操船指揮を分けて記録させた。
ラオは事故処理規程を開いた。衝突や火災、大規模停電、危険物漏洩ごとに港湾管理局、警察、消防、医療機関の役割が分けられている古い規程だった。
緊急時でも一つの機関が他の権限まで握らないよう、何度も追記が入っている。
改訂履歴の一つに見覚えのある名前があった。
〈改訂責任者 ムライ〉
かなり前の日付である。
『何だ』
ムライが訊いた。
「いえ。昔から同じことをしていたんですね」
『同じこと?』
「誰が何を決めるかを分けることです」
ムライは画面に送られた改訂履歴へ一度目をやった。
『混ぜれば便利だからな』
「便利ですか」
『その場ではな。警察に船を動かさせ、港湾職員に人を拘束させれば事故のときは速い』
事故船の停止位置を確認してから続けた。
『だから平時に止めておく』
運航調整室ではすでに次の入港処理が始まっていた。ユアンが訊いた故障船は客船ほど深刻ではなく、速度を落として外周へ待機させられる見込みだった。
三号曳船は点検へ入り、民間会社から代わりを回せるという連絡も来ている。
ムライはそれを確認した。
『ラオ』
「はい」
『年明けに内務局へ来てくれ』
「何の話ですか」
『まだ決めていない』
「では何を」
ムライは少し考えた。
『ああいう若いのがどれだけいるかも分からん。使える船がどれだけあるか、その船を動かせる人間がどれだけ残るかも分からん』
「はい」
『今までは数える理由がなかった。それだけだ。だが昨日から条件が変わった』
一度言葉を切る。
『何かを始めるとは言っていない。何がないのか、それだけ確認する』
「分かりました」
『日程は後で送る』
回線が切れた。
***
夜になっても中央港の照明は落ちなかった。避難船の入港は続いていたが、昼の事故ほど切迫した案件はない。
ラオは交代者へ引き継ぎを済ませ、自分の席で最後の報告を確認していた。
大型客船では重傷者も出ていた。貨物バースの復旧には時間がかかり、故障した曳船もすぐには戻らない。
それでも死亡者は確認されていなかった。
端末の隅に『ハイネセン・ジャーナル』の速報が出ていた。教国建国に関する論説欄の新着である。ラオは、その署名記事を最後まで読んだ。
〈ダスティ・アッテンボロー 論説委員〉
ほぼ同時に、内務局から年明けの日程候補が届いた。
差出人はムライだった。先ほど言っていた件らしく、候補日時が三つだけ並んでいる。
ラオは一つを選び、返事を書きかけて手を止めた。
画面の隅にはまだアッテンボローの署名記事が残っていた。
もう一度だけ署名を見てから、短く入力した。
〈承知しました〉
――「例外にはしない。例外はその一人しか救わん」
次回、『クブルスリー(前編)』