【新帝国暦二十三年一月 バーラト自治政府ハイネセンポリス・自治政府庁舎】
神聖黄金樹教国の建国宣言まで、あと十一か月。
この時点では、これから自治政府で始まる四年制の新教育課程を戦争と結びつけて考える者はいなかった。
***
「長いな」
クブルスリーは端末を少し離した。
『バーラト星系市民 安全互助隊附属教育課程』
画面には新設される教育課程の案内文の草案があり、本人の了承もまだ取っていないのに、末尾には〈課程長候補〉として彼の略歴が仮置きされていた。
自由惑星同盟軍第一艦隊司令官。大将。帝国領侵攻作戦後、統合作戦本部長に就任。
そこまで自分のプロフィールを読んでから、指を止めた。
「なんだこれは」
向かいで別の資料を見ていたキャゼルヌが顔を上げた。
「どれでしょうか」
「ここから下、全部だ」
クブルスリーはもう少し画面を送った。統合作戦本部長在任中、復職を求めて面談に来たアンドリュー・フォーク准将に銃撃され、長期療養に入ったことまで書いてある。
「ここは削れ。教育課程の責任者を紹介するのに、私が元部下に撃たれた経緯まで載せる必要はないだろう」
「そこを削ると、その後の公職歴が何年も空きます。文部委員会は、責任者の経歴に長い空白があると理由まで書けと言っているんです」
クブルスリーは画面から目を上げた。
「療養していた、では足りんのか」
「何の療養かを訊かれます」
「ずいぶん熱心だな」
「教育行政ですから」
クブルスリーはしばらくキャゼルヌを見てから、もう一度画面へ目を戻した。
「……暇なのか、そこは」
キャゼルヌは椅子を寄せ、続きを覗き込んだ。
「あなたの経歴なら、歴史の教科書にはもっと詳しく載っているでしょう。それに比べれば、これでも相当に短い方ですよ」
「たかが学校紹介のプロフィールだろう」
「『学校』じゃありません」
「なら、なおさらだ」
クブルスリーは画面をさらに送った。
略歴の下には、課程の概要が続いている。
全日制の四年教育。操艇、通信、救急、港湾、輸送などのうち一分野で基礎資格を持つ者を受け入れ、他分野を連携に必要な範囲で学ばせる。修了者には自治政府認可の高等職業教育課程修了資格が与えられ、在学中には関連する個別資格も取得できる。
指が止まった。
「……四年の全日制で、学ぶことは輸送に通信に幕僚業務。同盟軍の士官学校と、どこが違う?」
キャゼルヌは表情を変えなかった。
「制服がありません」
「それだけか」
「武器も、階級も、卒業後の配属先もありません。全寮制でもない。遠方から通えない受講生には宿舎を用意しますが、全員を一つ屋根の下に集めることはしません」
キャゼルヌは端末を受け取り、頁をめくった。
「あとは、あなたが見つけてください。候補の欄に名前を仮置きしたのは、そのためです」
「私の了承なしにか」
「了承を先に取ろうとすれば、見に来なかったでしょう」
扉のそばに立っていたユリアンが、小さく笑った。
クブルスリー元自由惑星同盟軍・統合作戦本部長。
帝国領侵攻作戦の敗戦でシドニー・シトレ元帥が辞任したあとを継ぎ、損耗した同盟軍の再建を進めている途中で、復職を求めて執務室へ乗り込んできたフォークに撃たれた。療養中に救国軍事会議が首都を占拠し、復帰したものの、ほどなく退役した。
それから二十年以上、公職には就いていない。
『傘の会』に関わるようになったのはシトレが十年ほど前に死んだあとだった。
シトレは旧自由惑星同盟の時代、士官学校の校長を務め、のちに統合作戦本部長になった。
国家が消えたあと、シトレは公職に就かず、表舞台へ戻ることもなかったが、『災害救難』を目的とする非営利の民間組織の骨格だけは創った。
それが『傘の会』である。
救急、救難、通信、避難誘導、港湾作業、小型艇の操縦。
平日は別の仕事を持つ者や学生が、夜と週末に集まり、『救難訓練』を行う。
新帝国暦二十三年の時点で登録者は一千万人に達したが、艦隊も兵籍もない。
『傘の会』の会員規約には、〈四不〉(The Four Noes)と呼ばれる四つの禁止事項があった。
- No secret army.
- No secret supreme commander.
- No hidden arsenal.
- No commander chosen in advance.
秘密軍を作らない。秘密の最高司令官を置かない。隠れて武器を持たない。将来もし軍を必要とする日が来ても、指揮官はその時代の合法な政府に選ばせる。
シトレの死後、『傘の会』に常設の総指揮者を置こうという案が何度も出た。
規模が大きくなった以上、一つにまとめた方が効率はいい。
そのたびに総指揮者への就任を求められた、すべて拒絶したのがクブルスリーだった。
最初は拒絶の理由を説明した。二度目には短くなり、三度目には規約の該当箇所を指しただけだった。
そのうち傘の会の側で勝手に「顧問」という肩書をクブルスリーのために作った。
十年近く、彼は「総指揮者にはならないし、置かない」と言い続けてきた。
その男の名前が、新設される四年制の教育課程の責任者候補として、断りもなく画面の末尾に置かれている。
クブルスリーは端末を返さず、課程の概要へ戻した。
「全日制の受講生は、自治政府から生活補助をもらって四年間ここにいるということだ」
指で一箇所を示す。
「卒業生の名簿を作ればそれは予備役名簿だ。名簿に指揮官を付ければ軍になる」
「勝手に軍は作りません」
「作らないという保証はあるのか」
キャゼルヌは端末から目を上げ、まっすぐに彼を見た。
「あなたです」
しばらく誰も口を開かなかった。
「課程長の欄が空いています。傘の会の顧問、いや
「私を看板に使うのか」
「はい」
キャゼルヌは目を逸らさなかった。
ユリアンが口を開いた。
「私は、その言い方には反対しました」
「本当のことだ」
「本当のことでも、言い方はあります」
クブルスリーは二人を交互に見た。
「ミンツ君。君の意見は」
「引き受けるかどうかは、クブルスリー顧問が決めることです」
ユリアンは扉から離れなかった。
「断られても、課程は始めます。責任者は別に探します」
「探せるのか」
「探します。クブルスリー顧問ほど疑り深い人は、いないと思いますが」
クブルスリーは端末を置いて、席を立った。
「まず現物を見る。話はそれからだ」
キャゼルヌが扉を開けた。
「そう言うと思っていました」
***
【同日午後 ハイネセンポリス郊外・市民職業教育センター】
自治政府庁舎から車で三十分ほどの場所に、三階建ての低い建物が二棟と実習棟、小型艇の訓練場が並んでいた。
正門の看板には〈ハイネセン第三区市民職業教育センター〉とあり、その下に溶接、救急、通信、港湾機械、操艇資格と、ここで受けられる講習の科目一覧が並んでいる。
看板のどこにも、傘の会の名はない。
「平日は職業教育センターです。傘の会が使うのは夕方と週末。空いている教室と機材を借りています」
キャゼルヌは玄関へ向かいながら説明した。
「専用施設を造る案もありました。一千万人の民間団体が訓練基地を持つと見栄えが悪い、と財政担当が却下しました」
「思想より予算か」
「専用施設を建てる金がありませんから」
玄関では作業着の若者たちが工具箱を抱えて出てきた。ユリアンを見て軽く頭を下げる者はいるが、立ち止まって敬礼する者はいない。
ユリアンは自治政府の評議員でも官吏でも軍人でもない。ただし傘の会の『会長』を務めている。
教程の範囲や自治政府からの依頼、帝国編入協定との境目で話が止まると、最後には誰かが彼を呼びに行く。
ユリアンは関係者を集め、自分より詳しい者に話させ、決裁する者を確かめる。
会長ではあっても、自治政府の権限を代行することも、隊員を軍隊のように動かすこともしない。
一階では救急救命の講習が終わったばかりだった。
訓練用の人形を片づける横で、年配の通信技師が若い受講生に中継器の配線を見せている。
廊下の向こうでは白髪の男が十代の少女に携帯発電機の始動手順を教えていた。
クブルスリーは足を止めずに実習棟へ入った。
大型車両の操作卓、港湾クレーンの訓練機、減圧事故を想定した隔壁設備が並び、奥に小型艇のシミュレータがあった。一台では若い受講生が姿勢を立て直したところだったが、燃料表示が大きく減っている。
教官は結果を見て首を振った。
「帰れなきゃ同じだ。もう一度」
受講生は不満そうな顔をしたが、席を立たずに設定を読み込み直した。
「厳しいな」
「操艇課程は昔からああです」
ユリアンが少し笑った。
「教本の初版の著者の影響が残っているらしくて」
「誰だ」
「ポプランさんです」
クブルスリーの足が止まった。
オリビエ・ポプラン。自由惑星同盟軍の撃墜王。軍紀とは折り合いが悪く、女性関係についてはさらに悪かったが、
「本人は今どこにいる」
「ハイネセンにはいません。教本だけ置いていきました」
クブルスリーはシミュレータをもう一度見て、それ以上は訊かなかった。
二階の一番奥の教室で、キャゼルヌが壁面のスクリーンを起動した。
「ここからが本題です」
表示されたのは操艇や救急の教程ではなく、〈広域避難〉〈複数機関協同〉〈輸送計画と物資配分〉といった項目だった。
その下に、過去の実例を使った演習課題が並んでいる。
最初の題名を見て、クブルスリーの目が止まった。
〈ヤン・ウェンリーによるエル・ファシル脱出〉。
「本人が見たら怒るだろうな」
「怒りはしないと思います」
「では嫌がる」
「それは間違いありません」
ユリアンが苦笑した。
中身を開くと、民間人の総数、使用可能な輸送船、出港可能な時間、敵軍の接近方向が順に提示される。実際にヤンが取った行動は、回答を終えるまで伏せてあった。
クブルスリーは最後まで見てから言った。
「中身はこれでいい。だが題名を変えろ。これは教材ではなく、解答集だ。ヤン・ウェンリーと書いてあれば、受講者は最初から『ヤン・ウェンリーならどうしたか』を考える。自分ならどうするかではない」
「どこまで消します?」
「名前も地名もだ。『脱出』も消せ。それ自体が答えになっている」
キャゼルヌが題名を書き換えた。
〈惑星Xにおける住民避難〉。
クブルスリーはそれを見て、もう一度首を振った。
「『避難』もまだ親切すぎるな」
「では?」
「状況だけ渡せ。何をする場面なのかも、受講者に決めさせろ」
キャゼルヌは少し考え、最後には題名を〈惑星X・状況演習〉まで削った。
「これでいい」
クブルスリーは最初の条件表示へ戻した。
「結果を知ってからなら、どんな判断にも立派な理由を付けられる。後から増えた情報で過去の判断を採点するな。その時点で持っていたものだけで考えさせろ」
次の教材には、膨大な輸送量と補給所の配置が並んでいた。
食料、燃料、医薬品、交換部品。輸送距離が伸びるほど必要量も膨らむ。
題名を見る前に、クブルスリーには分かった。
「これはアムリッツァか」
「帝国領侵攻作戦です。広域輸送の失敗例として使っています」
あの作戦が始まったとき、クブルスリーは同盟軍第一艦隊を率いて首都側に残っていた。遠征軍が戻ったあと、失われた艦艇と兵員、空いた補職、足りなくなった熟練者が、シトレの後を継いだ彼の机へ数字になって回ってきた。
教材は、作戦開始から始まっている。
クブルスリーは数頁送らせて首を振った。
「遅い。出撃する前の兵站見積からやれ」
キャゼルヌが視線を上げる。
「必要量を誰が見積もったか。輸送能力をどこまで確認したか。不足に気づいた者が、いつ、誰に何を言えたか。そこを抜けば、受講者は始まった作戦をどう収めるかしか考えない」
「作戦案そのものを検討させますか」
「政治判断を論じさせる必要はない。実行可能かどうかは別だ」
キャゼルヌは修正点を書き込み、教程の目次へ切り替えた。
〈非常時操艇要領〉
〈説得的接触〉
〈野外施設設営〉
「……説得的接触とはいったい何だ」
クブルスリーが中身を開くと、相手の腕を取る位置、重心を崩す方向、複数人で一人を拘束する場合の役割まで書いてあった。
旧同盟軍の教範を知る者なら出所は分かる。ただし現在の想定は敵兵ではなく、暴れる負傷者や錯乱した避難者である。
「要するに白兵戦技ではないか。名前だけ変えたのか」
「用途に合わせた、と言ってください」
キャゼルヌは悪びれなかった。
名称を消したわけではなく、附録を開けば改定前の名称、日付、理由が残っている。
〈回避機動――非常時操艇要領へ改称〉
〈制圧――説得的接触へ改称〉
「これは誰が残させた」
「フレデリカ・グリーンヒル・ヤン記録官です」
ユリアンが答えた。
「名前を変えるなら、前に何と呼んでいたかも残しておくべきだと。あとから見た人が、最初からこうだったと思わないように」
クブルスリーは附録を数行読んでから閉じた。
「書き換えず、履歴を足したわけか」
そのとき廊下から、女の声がした。
「誰か二階の隅で『説得的接触』の悪口を言ってる?」
扉が開いて、作業着の女が顔を出した。三十代の後半、髪を後ろで束ね、袖は肘までまくっている。ユリアンを見て、それからクブルスリーを見た。
「あら、キャゼルヌさん」
「カリンか」
キャゼルヌが言った。
「白兵課程の主任教官です。あなたが読んでいた教程の、現場の責任者」
女は敬礼しなかった。代わりに腕を組んだ。
「名前をつけたのはあたしじゃありませんよ。中身を決めたのもあたしじゃない。あたしが決めたのは、生きて帰れる手順だけです」
クブルスリーは彼女を見た。
カーテローゼ・フォン・クロイツェル・ミンツ。
旧同盟軍の
目の据わり方が親子そっくりだった。
「暴れる負傷者を、これで押さえるのか」
「押さえます。負傷者じゃない相手が来たときも、同じ手で押さえます。手は一つしかないので」
「それを言うために来たのか」
「いいえ。教程を減らされると困るから来ました」
女は肩をすくめた。
「減らさないなら、失礼します。下で五十人待ってるので」
扉が閉まった。
クブルスリーはしばらく扉を見ていた。
「あれが主任教官か」
「あれが主任教官です」
ユリアンは平然としていた。
「僕の妻でもあります」
「知っている。訊いていない」
クブルスリーはもう一度、閉じた扉へ目をやった。
「たしか彼女は、旧軍時代は空戦隊所属ではなかったか」
「そうです」
「では、なぜ白兵の主任をしている」
ユリアンは閉じた扉を見た。
「飛ぶ方はポプランさんに習いました」
少し間を置く。
「殴る方は、薔薇の騎士の生き残り全員から一手ずつ習いました」
クブルスリーは黙った。
「……それは、強くなるな」
「ええ。かなり」
キャゼルヌが咳払いをして、新設予定の課程案を開いた。
一つの技能を教える講習ではない。救難艇、通信、医療、避難所、輸送を同じ状況の中で扱い、限られた時間と資源で複数の現場を動かすための判断と調整を、四年かけて学ばせる。
クブルスリーは最初から最後まで目を通した。
「士官学校の幕僚教育に近いな」
「使う能力は重なります」
キャゼルヌは否定しなかった。
「病院でも港でも、大人数を動かせば同じ問題が出ますから」
「修了者を傘の会で配置する仕組みは」
「ありません。資格を取ったあと、どこで働くかは本人が決めます。自治政府へ行っても、民間へ戻ってもいい。傘の会に残る義務もありませんが、希望者には民間や行政の就職先をあっせんします」
「修了者だけの名簿は」
「作りません。他の職業教育と同じ資格記録として扱います」
「課程長の権限は」
「教程の承認、講師の選任、修了判定。そこまでです。教育施設の外へ出れば、誰にも命令できません」
クブルスリーは一つずつ確かめた。武器の欄はない。招集の規定もない。卒業後の配置先も空欄だった。
それでも、操艇と通信と医療と輸送を四年かけて教えれば、災害以外の場所でも役に立つ人間ができる。
「この教育を受けた者が二十年後に何をしているかは、誰にも分からんな」
「それでいいと思っています」
ユリアンが言った。
「将来この星に軍隊ができることがあるとしても、その人が入るかどうかまで、今決める必要はありません」
クブルスリーは講師予定表を見た。操艇、通信、救急、施設復旧には担当者がいる。空いているのは、課程全体を見て、教程を承認し、講師を選び、修了判定をする責任者の欄だった。
「私は教育者ではないぞ」
「シトレ元帥も、最初から校長だったわけじゃありませんよ」
クブルスリーは顔を上げた。
シトレは士官学校長を経て統合作戦本部長になった。
今度は自分を、逆向きに歩かせるつもりらしい。
「学校ではない」
「はい、教育課程です。肩書も校長ではなく、課程長です」
ユリアンが横で笑った。
「受講生はたぶん、校長先生って呼びますよ」
「……まだ引き受けるとは言っていない」
***
隣の大教室では、港湾事故を想定した机上演習が行われていた。
受講者は六人ずつの卓に分かれ、負傷者の搬送先、消火車両の進入路、入港予定船の振替先を相談している。一つの卓では、火災に近い埠頭へ負傷者を集めるか、遠いが安全な埠頭へ送るかで意見が割れていた。講師は近い埠頭を選んだ班には十五分後に風向きを変え、遠い埠頭を選んだ班には主要道路で事故を起こした。
授業が終わるまで、クブルスリーは口を出さなかった。
受講者が帰ったあと、講師が最後列まで来た。四十過ぎの女で、自治体の災害対策部門に長くいたという。
「クブルスリー顧問。何かお気づきの点は」
「正解を一つにしていないのはいい。ただ、最後に結果だけ比べると、運の悪かった班が間違えたように見える」
「判断した時点で、何が分かっていたかを分けて講評した方がいい、ということですか」
「後から増えた情報で過去の判断を採点するな。未来を当てる練習になる」
講師は端末に書き込んだ。それから、少し間を置いて言った。
「クブルスリー顧問。一つ、伺っていいですか」
「何だ」
「傘の会に、命令できる人がいない理由です。規約は読みました。理屈も分かります」
講師は端末を閉じた。
「私は八年前、港湾火災の現場にいました。傘の会の人間が三百人いました。船も、艇も、資格者もいた。すぐに港を閉めるべきでした」
「ですが誰も港を閉めろと言えなかった。港湾局の人間が来るまで四十分。その間に、二つ目の倉庫に火が回りました」
クブルスリーは何も言わなかった。
「あの日、誰も決められませんでした。三百人いて、誰も」
ユリアンが一歩前へ出かけて、止まった。
クブルスリーは講師を見ていた。
「四十分か。その四十分で、君は何をした」
講師は少し黙った。
「傘の会の会長のミンツさんを探しに走らせました」
教室が静かになった。
「もちろんミンツさんに港を閉める権限がないことは、みんな知っています。それでも、ミンツさんが来て一言いえば、いいえ、何も言わずにミンツさんが頷くだけで、港は閉まっていたと思います」
「結局ミンツ氏は来たのか」
「来れませんでした。所用で別の星系にいました」
クブルスリーはユリアンの方を見なかった。
「ミンツ氏は何も法的な権限を与えられていない。なぜ彼が現場にいれば、港は閉められたと思うのだ」
講師は答えなかった。
「その四十分間に誰が港を閉めていいかが、先に法や規則で決まっていたら、どうだった」
「……閉まっていました。誰が来ても」
「君の質問は、傘の会に、命令できる者がいない理由だったな。君の質問には答えない。私は答えを持っていない」
クブルスリーは立ち上がった。
「代わりに課題を出す。次の演習で、港湾局の人間が四十分来なくて港を閉められない条件を入れろ。その四十分に誰が何を決めていいか、平時のうちに書かせろ。書けない班には、なぜ書けないかを書かせろ」
「……それが答えですか」
「答えではない。私にできる唯一のことだ」
講師は少し黙ってから、端末を開き直した。
「分かりました」
***
教室を出ると、キャゼルヌが廊下で待っていた。
手にしているのは一枚の登録書類で、正式な職名には〈バーラト星系市民安全互助隊附属教育課程 課程長〉とある。
クブルスリーは受け取って最初から目を通した。
「長いな」
「略せば『課程長』です」
その答えには何も言わず、今度は職務規程へ目を移した。
教程の承認、講師の選任、修了判定、教育機関との調整。書かれている権限は、教育課程の中で完結している。傘の会そのものを動かす権限も、修了者をどこかへ配置する権限もなかった。
クブルスリーは署名欄まで読んだところで、指を止めた。
「確認する。私がこれを引き受けても、傘の会で持つ権限は今までと変わらないな」
「変わりません。これまでどおり顧問です」
「修了者の進路にも関与しない」
「教育上の推薦状は書けます。それ以上は本人と採用先の話です。任期は四年。再任もできます」
クブルスリーはそこで初めて書類から目を上げた。
「四年で足りるか」
「足りなければ次の課程長へ渡します」
クブルスリーは返事をせず、廊下の先を見た。
さきほどまで机上演習を行っていた大教室の扉が、まだ開いている。中では講師が机を戻し、画面に残っていた港湾図を消していた。
ここで教えることはできる。
だが、教えた人間を自分のものにはできない。
それでよかった。
クブルスリーは書類へ視線を戻した。
「分かった。引き受けよう」
キャゼルヌは少しだけ表情を緩めた。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。教程はかなり直すことになる」
「そのためにお願いしたんです」
クブルスリーは署名欄に名前を入れた。
かつて大将への昇進辞令にも、統合作戦本部長への任命書にも署名したことがある。それらに比べれば拍子抜けするほど簡単な書類だったが、書き終えたあとに名前を消す理由はなかった。
キャゼルヌが保存処理をしている間に、クブルスリーはもう一度講師予定表を開いた。
「全日制の開講はいつだ」
「今年の終わりごろです。これから募集をかけて、選考をやります」
クブルスリーは少し眉を寄せた。
「ずいぶん先だな」
「四年預かるんです。誰でも入れるわけにはいきません」
「それは分かる。だが、そこまで私は何をすればいい」
「夜間課程なら今もやっています」
「なら明日から私も講義をやろう」
キャゼルヌが顔を上げた。
「夜間課程ですよ」
「構わん」
「引き受けたばかりで、ずいぶん働きますね」
「年末まで待つ理由がない」
登録を終えたキャゼルヌは端末を閉じた。
「では、課程長室をご案内します」
「もう用意してあるのか」
「部屋だけなら」
その言い方に少し引っかかったが、クブルスリーは何も訊かなかった。
案内されたのは講義棟の端にある小部屋だった。
机が一つ、来客用の椅子が二脚。壁際には古い書架があり、机上には端末と紙の予定表が置かれている。必要なものは一応揃っていたが、部屋の隅には梱包材と清掃用具がまだ積まれていた。
クブルスリーは入口に立ったまま中を見回した。
旧同盟軍の統合作戦本部長だった頃の執務室は、この部屋だけで収まるような場所ではなかった。副官と参謀が出入りし、壁面表示には各方面の艦隊配置と補給状況が絶えず更新されていた。専用回線はいくつもあり、机の上に届く書類一枚が数万隻規模の艦隊移動や数百万の兵の配置につながることもあった。
一人で静かに考えるための部屋ではなかった。
こちらには机が一つしかない。通信端末も一台で、壁に星図を出す設備さえない。
「昨日まで物置だったな」
「一昨日までです。昨日片づけました」
「問題ない」
クブルスリーは中へ入り、机の引き出しを開けた。空だった。
不思議と狭いとは思わなかった。
書架にも歴代責任者の写真や表彰状はなく、軍艦模型も置かれていない。代わりに入っていたのは現在の教程と、旧自由惑星同盟軍士官学校の教材を民間用に改訂した古い冊子だった。
クブルスリーはその一冊を抜いた。
旧い用語を消した跡があり、その脇に現在の呼称が書き足されている。削除した項目には理由が残り、後年になって復活した部分には別の筆跡で日付が入っていた。
何人もの人間が、消さずに直してきた教材だった。
キャゼルヌから渡された鍵をポケットへ入れると、クブルスリーは冊子を机の上へ置いた。
「これも初回で使う」
ユリアンが横から覗き込んだ。
「ずいぶん古いですよ」
「だからいい」
クブルスリーは最初の頁を開いた。
「制度というものは、最初から今の形で存在していたわけじゃない。それを最初に教えておく」
***
【翌日 同教育センター】
翌日の夜、クブルスリーは開始時刻より二十分早く教室へ入った。
四十八席の半分ほどは埋まっている。仕事帰りの背広、港湾会社の作業着、学生に近い年齢の者もいた。後方で席を探していた二人の会話が耳に入る。
「クブルスリーって、誰だっけ」
隣の受講者が声を落とした。
「昔の同盟軍の偉い人だよ。学校の歴史の教科書にも載ってただろ。統合作戦本部長とかいう肩書だったらしい」
「俺らの生まれる前の話だな。統合作戦本部長って何する人だったんだ?」
少し考えた末の答えは、「さあな。とにかくすごく偉かった、らしい」だった。
クブルスリーは振り返った。
「その説明で十分だ。今日の授業には関係ない」
教室に笑いが広がり、二人は慌てて席へ着いた。
開始時刻になると、用意されていた経歴紹介を飛ばして演習画面を出した。軌道港の火災、通信障害、病院の受入能力低下、避難船不足。最初の問いは一つだけだった。
〈誰が、何を決めてよいか〉
「最善と思う方法を見つけても、それを実行していいとは限らない。逆に、権限がないから何もしなくていいわけでもない。誰に判断を求め、返事が来るまで何を進めるか。連絡が切れたらどの規定を使うか。その間を考えてもらう」
十五分ほどして、一人の受講者が被害を大きく減らせる手段を見つけた。港湾会社の経営管理部にいる男で、名札にはアーロン・キムラとあった。ただし与えられた役職には決定権がない。
「自分の判断で実行します」
クブルスリーは理由を訊いた。処置そのものが有効であることは認めた。その上で、画面へ次の問いを出した。
〈同じ権限を、判断を誤った者にも認めるか〉
教室が静かになった。
演習は予定より二十分延びた。二つ目、三つ目の想定へ進むにつれて、受講者が「何をするか」より先に、誰が責任者か、どの機関が車両を持っているか、通信の優先順位を誰が決めるかを確かめるようになったためである。
終了時刻を過ぎたところで、クブルスリーは画面を閉じた。
「今日はここまでだ。何か質問は」
前の方から手が上がった。
「実際に人命がかかっていて、判断する権限のある人に連絡がつかなかった場合でも、待つべきでしょうか」
クブルスリーはすぐには答えなかった。
「いい質問だ」
何人かが顔を上げた。
「次回までの課題にする。全員だ」
教室に小さなどよめきが起きた。
「待つ場合と、待たない場合の両方を考えろ。どこまでなら自分で進めてよいか、何を越えたら権限外になるか。最後に自分ならどうするかを書け。根拠も忘れるな」
質問した受講者が少し困った顔をした。
「答えは教えていただけないんですか」
「それを考えるために受講しているんだろう」
今度は教室のあちこちから笑いが起きた。
「提出は次回の授業開始時だ。以上」
受講者たちが端末を閉じ、席を立ち始めた。
人がほとんど出ていったころ、港湾会社の作業着を着た若者が教卓の前まで来た。名札には〈ユアン・ウォード〉とある。
「クブルスリー先生。一ついいですか」
「何だ」
「今日の話って、鍵を持ってる人が来るまで、全員でドアの前に立ってる必要はないってことですよね」
クブルスリーは眉を寄せた。
「なんだそれは」
「たとえですよ。鍵を持ってる人が来るまでに、あとで誰が決めても無駄にならないことからやるんです。荷物をまとめる。通路を空ける。外へ出たあとの行き先を決める。そういうのは先にやっても困らないでしょう」
ユアンは続けた。
「逆に、元に戻せないことは後に残す。ドアを壊すのは最後です。鍵の人が間に合えば開けてもらえばいいし、間に合わなくて火がそこまで来たら、そのとき蹴破ればいい。最初から蹴る必要もないし、蹴るしかなくなるまで何もしない必要もない」
クブルスリーは若者を見た。
「授業中、なぜそれを発言しなかった」
「同じ班の人たちが、もう少しでそこまで行きそうだったので」
「だから黙っていたのか」
「私が先に言ったら、みんなが考えてた時間がもったいないでしょう」
クブルスリーは少し黙った。
「名前は」
「ユアン・ウォードです」
「憶えておこう」
ユアンは少し眉を上げた。
「それ、いい意味ですか」
「まだ決めていない」
「じゃあ次の授業までに決めておいてください」
「帰れ。明日も仕事なんだろう」
「はい」
最後に残ったのは、開始前に彼の経歴を話していた二人だった。
「校長先生、来週の資料なんですが」
「校長ではない。課程長だ」
「あ、すみません。課程長――」
課程長室の前まで戻ると、正式な表示板の下に紙が一枚貼られていた。
〈校長先生はこちら〉。
クブルスリーは無言で剥がしたが、丸めずに部屋へ持って入った。
***
数日後、自治政府の公文書庫から旧同盟軍時代の再建資料が一箱届いた。
帝国領侵攻作戦の教材を作り直していた講師が、作戦後の資料まで照会した結果である。補給報告、艦隊再編案、士官補充計画。紙の隅には自由惑星同盟軍の紋章が残っていた。
自分の署名があるものも多い。統合作戦本部長として、失われた艦艇だけでなく、熟練下士官、技術者、教官をどう補うか考えていたころの書類だった。
一枚に『アレクサンドル・ビュコック』という名の署名があった。
損耗後の人員補充についての意見書で、欠員を埋めるために昇進基準を緩めれば、教える側まで現場へ出る。そうすれば翌年はさらに人が足りなくなる、とある。
その数枚あとには、『ヤン・ウェンリー』の名の署名のある報告書も混じっていた。
こちらはずっと短い。艦隊の再建について照会されたものらしく、艦艇数だけを回復させても、乗員と整備要員と訓練時間が揃わなければ戦力を戻したことにはならない、と書いてある。末尾には、まず失ったものを数えるより、残っているものを正確に調べるべきだという意見が付いていた。
クブルスリーはそこを二度読んだ。
ヤン・ウェンリーらしい、とまでは思わなかった。二十年以上も前のことである。だが、余白の少ない書き方には憶えがあった。
箱の底には、シドニー・シトレ時代の士官学校教官配置表もあった。欠員の横に赤字で補充予定が書かれ、その予定が消され、別の名前に書き換えられている。誰かが退けば、誰かをそこへ置くことを当然のように考えていた時代の書類だった。
クブルスリーは現在の講師予定表を呼び出した。
操艇、通信、大規模輸送は特に高齢化が進んでいる。旧同盟軍で実務を経験した世代は、これから十年でかなり減る。
旧同盟軍にいたころは、教官が退けば次の教官を補充する人事表があった。
ここには、それがない。
ビュコックが二十年以上前に書いた懸念は、そのまま今の講師予定表の空欄になっていた。
ヤンが書いた「残っているものを調べろ」という一文も別の意味で同じ場所を指している。
クブルスリーはビュコックの意見書とヤンの報告書を並べ、教材候補へ回した。
ヤン・ウェンリー。
アレクサンドル・ビュコック。
消滅した国の軍隊にいた二十年以上前の死者たちの判断を、いま自分は教室の中へ蘇らせようとしていた。
***
ある午後、自治政府記録官のフレデリカ・グリーンヒル・ヤンが、規程の確認に来た。
将来、修了者を特定の用途の名簿へ一括登録する制度を設ける場合、提案者、決裁者、変更理由を教育記録へ残す。そういう条項である。
「変更は禁止していません。将来の自治政府が必要と判断すれば変えられます。ただ、誰が、いつ、何のために変えたかは残ります」
「それでいい。禁止してしまえば、今度は我々が未来の政府を縛る」
フレデリカが持参した設立時の記録には、シトレ自身の確認印もあった。中央責任者を置く案が一度提出され、検討の末に削除されている。欄外に一行、シトレの筆跡があった。
〈将来の必要を、現在の人事によって拘束しないため。〉
クブルスリーはその頁をしばらく開いたままにした。
「この人は昔から書類だけはきれいだった」
「シトレ元帥は、主人とは違いました」
「知っている。ヤン・ウェンリーは必要なことは書くくせに書式を守る気がなかった。できるのにやらない人間は直らん」
フレデリカが声を立てずに笑った。
「クブルスリー顧問。一つ伺っても」
「何だ」
「先日、災害対策の講義で課題を出されたそうですね。四十分の間に誰が何を決めていいか、平時のうちに書かせる」
「出した」
「その課題の答案も、全部教育記録に残します」
クブルスリーは彼女を見た。
「残す理由は何か」
「将来この星に軍ができることがあれば、その人たちが最初に読むべきものだと思うからです」
フレデリカは記録を閉じた。
「指揮官の名前ではありません。四十分の使い方を」
***
全日制課程の入学選考が始まると、クブルスリーは面接官には入らず、基準の確認だけを引き受けた。
資格の数を重くしすぎない。旧軍人の家族であることを評価しない。傘の会での活動年数にも過大な加点をしない。
「長く活動している人を優先した方が、途中で辞めにくいのでは」
選考委員の一人が言った。
「それを続ければ、十年後も同じ顔ぶれになる。この課程は傘の会への忠誠を測る場所ではない。学んだものを病院や港へ持って帰るなら、それでもいい」
もう一つ、彼は『足切り』のラインを設定した。基礎資格の免許を持たない応募者は書類選考の段階で外す。四年で他分野まで教える以上、土台のない者を入れれば本人が潰れる。委員会はその線を採り、数千人以上の志願者を『足切り』した。
三日後、災害対策の講師が課程長室へ来た。落とされた一人の志願者の書類を持っていた。
二十二歳の倉庫会社員で、資格は何も持っていない。ただし八年前の港湾火災では避難誘導を指揮しており、応募書類の演習課題では、輸送能力の不足の論点について全応募者のうち二番目に高い得点で論じていた。
「あの日、うちの倉庫にいた子です」
講師は書類を机に置いた。
「基礎資格の免許はありませんがとても有能でした」
クブルスリーは書類を読んだ。読み終えてからも、しばらく開いたままにしていた。
「基礎資格での足切り線は、私が引いた」
「はい」
「理由は本人のためだと言った」
クブルスリーは書類を閉じた。
「委員会を開かせろ。私の引いた足切り線を撤回する」
「この志願者を例外扱いにしますか」
「例外にはしない。例外はその一人しか救わん」
クブルスリーは端末を引き寄せた。
「実務経験を評価項目として別に立てろ。全応募者を採点し直す。落とした数千名も全員だ。それで彼が入らなければ、それは制度の答えだ」
「時間がかかります」
「かかる。私の失敗で二か月遅れたと、記録に書け」
「……お名前を出しますか」
「私の名前を出して失敗したと書け。誰が引いた線かを伏せたら、次に同じ線を引く者が理由をわからん」
選考委員会は実務経験を別項目に加え、全応募者を採点し直した。その若者は定員の最後から三番目に入った。落とし直された者も、理由の欄が一行増えた。
その日の午後、施設案内図にも確認印を求められた。〈教育課程長室〉の横に、小さく〈通称・校長室〉とある。
「これは誰が入れた」
「受付からです。『校長室はどこですか』という方が多いので」
クブルスリーは少し見た。
「……もっと小さくしておけ」
夕方、新しい案内図を見ても、もう何も言わなかった。
――「分からんから、君たちに四十分の使い方を書かせている」
次回、『クブルスリー(後編)』