【新帝国暦二十三年十一月下旬 ハイネセンポリス郊外・市民職業教育センター】
全日制四年間の『広域救難課程』は、神聖黄金樹教国による建国宣言が行われた日の一か月前に始まった。
実習用の作業着と安全靴以外に制服はない。クブルスリーは入学式を作る案を断ったが、課程長の挨拶だけは引き受けた。
事務局が式辞の草稿を用意した。
だがクブルスリーはそれを一切使わなかった。
「四年間ある。今日、長い話をする必要はないだろう」
教室に小さな笑いが起きた。
「船を動かす者が医療を学び、医療を知る者が輸送を学ぶ。分からなければ知っている者を探し、権限がなければ持っている者を探せ。それでも間に合わない場合にどうするかは、この四年間で考えればいい」
最後に一つだけ付け加えた。
「修了したあと、傘の会に残る必要はない。病院へ戻っても、港へ戻ってもいい。使う場所までこちらで決める気はない」
式典が終わった後、廊下で事務長が言った。
「事務局で用意した原稿、不要でしたか」
「不要ではない。だが課程の内容はすべて把握している」
「良い学校になりそうです」
「……学校ではない」
訂正する方も、もう本気ではなかった。
***
その週の講義では、旧同盟軍時代のアムリッツァ会戦につながった『帝国領侵攻作戦』を輸送計画の教材にした。
受講者には、『帝国領侵攻作戦』であることは伏せ、架空の星図と地名の書かれた演習資料を配布した。
戦闘経過も伏せ、食料と燃料、輸送船の能力、占領予定地域の人口推計だけを渡した。ある班が補給能力の不足を見つけて中止を提案すると、政治側から作戦規模を維持した実施案を再提出するよう求められた、という条件を追加する。
輸送船を増やせば民間輸送が足りず、現地調達を増やせば住民への供給が減る。しばらくすると、受講者は思いつきで案を出さなくなった。
「これ、全部の条件を守って実行できる案がないんじゃないですか」
そこで初めて表題を表示した。
〈帝国領侵攻作戦〉
教室の何人かが顔を上げた。
年配の受講者は、表示された作戦名を見たところで表情を変えた。若い者は隣の席へ目をやり、何人かが小声で名称を確かめ合った。
帝国領侵攻作戦。アムリッツァ会戦。
「これは机上の失敗例ではない。実際に行われた作戦だ」
クブルスリーは作戦開始前の補給見積りへ画面を戻した。
「どの時点で兵站の不足が見えていたか。誰がそれを知ることができたか。知った者に、作戦規模を変える権限があったか。なかったとすれば何ができたか。そこから全部追え」
授業の最後に、敗戦後に同盟軍が作成した再建計画の資料を一枚加えた。
艦艇の補充だけではない。熟練下士官、整備員、通信技師、教官まで足りなくなり、現場の欠員を埋めるために教育部門から人を出せば、翌年の補充能力がさらに落ちると報告されていた。計画の作成者と承認者の名前は伏せておいた。
「戦力を人数だけで数えると、こうなる。前線へ出せる人間を増やすために、次の人間を育てる側まで使ってしまう。今日の課題は、この損失を単なる欠員数以外の形でどう記録するかだ」
授業が終わったあと、年配の受講者が一人だけ残った。
「課程長」
「なんだ」
「最後に出された再建資料ですが」
少し言いよどんでから訊いた。
「あれの承認権者、つまり統合作戦本部長は、課程長だったのではないですか」
「そうだ、私だ」
受講者は一度、閉じられた画面を見た。
「では、あの不足を実際に埋めた側だったんですね」
「違う。埋めようとした。だが最後まで埋まらなかった」
***
授業が終わってしばらくして、ユアン・ウォードが課程長室へ課題を持ってきた。
クブルスリーの向かいには、ユアンの知らぬ男が座っていた。
「遅れました。すみません」
「置いていけ」
ユアンは端末を机へ置いた。
「ところで校長先生」
「課程長だ」
「では課程長。あなたはアムリッツァ――」
そこで言い直した。
「〈帝国領侵攻作戦〉が計画されていたとき、あなたは何をしていたんですか」
クブルスリーが黙った。
向かいの男がユアンを見る。
「おい、君。学生だからって、何を聞いてもいいわけじゃないぞ」
「はい?」
ユアンは本当に意味が分からないらしい顔をした。
だが、クブルスリーを見る目に冗談めいた色はなかった。
「あのときは同盟軍第一艦隊司令官だったんですよね。作戦には参加しなかった」
「そうだ」
「反対は?」
「していない」
ユアンは少しだけ間を置いた。
「もう一度聞きます。クブルスリー第一艦隊司令官。あなたは何をしていたんですか」
部屋が静かになった。
クブルスリーは机の上に置かれた課題へ目を落とした。
「……シトレ元帥に聞くことくらいはできただろうな」
ユアンは黙っている。
「何を根拠にその規模を決めたのか。補給は足りるのか。なぜこれほどの兵力を動かすのか。帝国内領土保持の現実的な可能性。……私に作戦を止める権限はなかった」
そこで一度言葉を切った。
「だが、質問する権限までなかったわけではない」
ユアンは一度だけ頷いた。
「ありがとうございました」
そのまま出ていった。
扉が閉まった。
キャゼルヌはしばらく黙っていた。
「……あの学生、いつもああなんですか」
「だいたいな」
「ずいぶん容赦がないですね」
クブルスリーは提出された課題を開いた。
「私の教育の成果だ」
***
【新帝国暦二十三年十二月二十五日 同教育センター】
その日の正午前、教育センターはいつもどおり動いていた。
クブルスリーが課程長室で教材を準備いると、食堂で映像端末の音量が上がり、廊下の会話が少しずつ止まった。
画面には黄金の樹を象った紋章と、新しい国名が出ている。
国号。神聖黄金樹教国。
建国地。タナトス星系、聖都ラディークス。
聖王の名。七つの星系議会の復設。
四聖団と十一個艦隊。
そして聖戦の宣言。
食堂には、訓練用の包帯を抱えた教官も、ヘルメットを手にした操艇講習の若者も立っていた。
クブルスリーは画面を見ながら、食堂にいる人数を数えなかった。
入口にはユリアンがいた。目が合ったが何も言わない。
放送が終わると、家族へ連絡する者、午後の講習を確認する者が動き始めた。自治政府からも、現時点で特別措置はなく公共施設は通常運用を続けるとの通知が来た。
午後の授業で、キムラが手を挙げた。
「課程長。今日は予定を変えないんですか」
「何に変える」
「さっきの放送があります。状況によっては……」
クブルスリーは、自治政府や勤務先から新しい指示が来たか、家族のため急いで戻る必要があるかを訊いた。どれも否だった。
「なら今のところ、君に新しく決めることはない。情報が増えたら、そのとき考えろ」
予定どおり、大規模停電に伴う医療搬送の演習を始めた。
授業が終わっても、クブルスリーへ「どうすればいい」と聞きに来る者はいなかった。
夕方、ユリアンが自治政府からの資料を持って来た。新国家の宣言、帝国との関係悪化、辺境から入る断片的な報告。
そして、教国からの会談要請。宣信院なる外交組織の長を務めるスアーダ枢機卿という人物を特使としてハイネセンに派遣するという。
昔なら、クブルスリーはこの種の資料を前に艦隊配置と兵站を考え始めていた。今のハイネセンには、その艦隊自体がない。
「傘の会から何か動かすな。救難や民生上の要請が来れば別だが、戦争が始まったというだけで人を集めるな。名簿も作るな」
「そのつもりです」
「シトレ元帥もそうしたでしょうね」
「ミンツ君。死人ならどうしたかを、自分の判断の代わりにするな。君は時々、ヤン・ウェンリーにもそれをやる」
ユリアンは少し黙った。
「……分かっています」
「ならいい。思い出すなとは言っていない」
クブルスリーは続けた。
「必要なら必要だと決める者が出てくる。そのときまで、ここは学校だ」
ユリアンが眉を上げた。
「……いや、教育課程だ」
***
年が明けて三日目、来客があった。
キャゼルヌでもユリアンでもない。痩せた男が一人、書類鞄を提げて課程長室の扉を叩いた。
「保安局のバグダッシュです。お邪魔してよろしいですか」
イゼルローンでヤン・ウェンリーの下にいた情報士官。今は自治政府の保安局次長。
帝国編入協定に反していないかを監査し、防諜をする。捜査権はない。逮捕権もない。
「座れ」
バグダッシュは座り、鞄から一通の書類を出した。
「帝国の高等弁務官府からの年次照会です。傘の会会長宛。例年どおり自治政府を経由しています。ミンツ会長にも同じものが回っていますが、今年は一行増えたので、自治政府から顧問意見を求められました」
「私は回答者ではないな」
「もちろんです。ですから、これは写しです」
バグダッシュは書類を机の上で百八十度回し、クブルスリーの側へ押した。
「登録者数、保有する救難艇と通信設備、救急資格者の概数。去年と同じ項目が、去年と同じ順で並んでいます」
「一箇所だけ、去年と違います」
最後の項目だった。
〈大規模緊急事態に際し、短期間に活動可能な登録人員の概数〉
クブルスリーは二度読んだ。
「増えたのは一行です」
バグダッシュは淡々と言った。
「私に分かるのはそこまでで、意図は書いてありません。帝国が旧同盟領からも軍備拡張のための兵員を集め始めているという報告は、複数の経路から入っています。ただ、この一行がそれと関係あるのかどうかを、私は知りません」
「知らないのか。それとも言わないのか」
「知りません」
バグダッシュは表情を変えなかった。
「言わない場合は、言わないと申し上げます」
クブルスリーは書類を見下ろした。
登録者数の欄には一千万人とある。その隣の〈短期間に活動可能〉の欄は空白だった。
資格者数は出せる。住所も職業も記録にある。だが明日仕事を休めるか、本人が参加するかは、どの記録にも載っていない。
「回答期限は」
「今月末です。会長名義で返す前に、自治政府側でも扱いを確認することになっています」
クブルスリーは最後の欄をもう一度読んだ。
「顧問意見なら出す。登録者一千万人を、そのまま短期間に動かせる人員として数えることはできん」
バグダッシュは頷いた。驚いた様子はなかった。
「そう書かれるだろうと、キャゼルヌ事務総監も見ています」
「では、なぜ本人が来ない」
「事務総監は、顧問がその意見を書かれたあとに来るそうです」
バグダッシュは鞄を閉じて立ち上がった。
「一つだけ、監査官として申し上げます。この照会は合法な政府から、合法な手続きで来ています。ただ、来年も同じ一行が来ます。おそらく、前の年と同じ順で」
扉が閉まった。
***
キャゼルヌは、その日の夕方に来た。
「聞きました」
「早いな」
「保安局は口が軽いんですよ。防諜機関の割に」
キャゼルヌは来客用の椅子に座った。机の上の照会状を見て、それから彼を見た。
「即時活動可能人員としては数えられない、と意見を出すそうですね」
「今の登録記録からは数えられん」
「数えようと思えば、数えられますよ」
クブルスリーが顔を上げた。
「私は二十年以上前に、五百万人以上数えたことがあります」
キャゼルヌは声を落とさなかった。
「イゼルローンから脱出させた軍人と民間人、五百六万八千二百二十四名。あれを一人ずつ調べて船に乗せたんです。一千万人だって条件を決めて調べれば、日数はかかるかもしれないが数字は出せる」
「なら、なぜ出していない」
「調べていないからです」
「名簿はあるだろう」
「名前と資格と住所はあります。明日仕事を休めるか、家族を置いて出られるか、本人にその意思があるかまでは書いてありません」
キャゼルヌは照会状を指で叩いた。
「それを知るには、一千万人に訊く必要がある。質問票を作って、回答を集めて、更新する仕組みも要る。そこまでやれば、もう単なる名簿じゃありません」
「活動可能人員の登録簿になる」
「ええ。だから私の判断では始められない」
クブルスリーは黙った。
「あなたの判断でもありません」
キャゼルヌが続けた。
「そこを確認しに来ました」
クブルスリーはしばらく黙っていた。
それから書架の規約集を取り、〈四不〉の頁を開いた。
「四つ目を読んでくれ」
キャゼルヌが目を落とした。
「『将来もし軍を必要とする日が来ても、指揮官はその時代の合法な政府に選ばせる』」
「私は十年、これを『傘の会で勝手に決めるな』という意味で使ってきた」
「間違っていますか」
「いや。だが、止めるところまで私が決めていいわけではなかった」
クブルスリーは照会状へ目を戻した。
「現在の資料では算出できない。それは事実だ」
「はい」
「算出する制度を作るかどうかは誰が決める?」
「評議会です」
「なら、そう書けばいい」
クブルスリーは照会状を裏返した。
「登録者一千万人を即時活動可能人員へ読み替えることはできない。技能資格も現職も所在も、本人の意思も違う。この欄に数字を入れるならまず本人の意思を訊かなければならん。その上で実際に動ける者を数える」
キャゼルヌが眉を上げた。
「ただし、志願を受け付けるかどうかを私は決められない。そこは評議会へ返せ。傘の会の会長にも、私の意見ではなく、評議会が決める事項だと伝えろ」
キャゼルヌはしばらく彼を見てから、立ち上がった。
「今の言葉を、そのまま自治政府へ持って帰ります」
「持って帰れ。顧問意見として私の名前を付けろ」
「校長の名前で」
「課程長だ」
キャゼルヌは笑わなかった。扉のところで振り返った。
「一つだけ。志願受付の制度まで、今度の評議会が決めるとは思えません」
「知っている」
「では、なぜ」
「今すぐ作る必要はない。この照会を受けた記録と、誰に決める権限があるかを残せばいい。次に同じ一行が来たとき、誰かがそれを読む」
扉が閉まった。
***
翌週、キムラが課程長室へ来た。
答案ではなく、封筒を持っていた。
「照会のことは、聞きました」
「誰から聞いた」
「食堂です。みんな知ってます」
キムラは封筒を机に置いた。志願書だった。所属も宛先も空欄で、書式は自分で作ったものらしい。
「傘の会が動くことになったら、最初の名簿に入れてください」
「宛先がないな」
「ありません。受け付ける人がいないので」
「私に名簿を作る権限はない」
「知ってます。でも課程長が名前を出せば」
「出さん」
「なぜですか」
クブルスリーは記録端末から答案を一枚表示した。〈自分の判断で実行〉と書かれた十か月前のキムラの答案だった。
「今、君がやろうとしていることは、十か月前の君の答案と同じだ」
キムラは黙った。
「志願は自由だ。止める権限は私にない。勧める資格もない」
クブルスリーは答案を戻した。
「だが、君が最初の名簿に入るかどうかを私が決めれば、そこから先は私が決めることになる。二人目も、三人目もだ」
キムラは封筒を見ていた。
「では、どうすれば」
「受け付ける者ができるまで、その紙は君が持っておけ。そのときに、自分の名前で出せ。私を通すな」
キムラは封筒を鞄へしまった。
「……分かりました」
扉のところで振り返った。
「校長先生。受け付ける者は、誰が決めるんですか」
「評議会だ」
「評議会は、決めますか」
クブルスリーは答えるまでに間があった。
「分からん」
「……そうですか」
「分からんから、君たちに四十分の使い方を書かせている」
キムラは頭を下げて出ていった。
***
その日の夕方、ノックもなしに扉が開いた。
「校長先生、いますか」
カリンだった。作業着のまま、片手に白兵課程の名簿を持っている。
「課程長だ。それと、ノックをしろ」
「あら。ユリアンはそんなこといいませんよ」
「ユリアンは君の夫だ」
カリンは来客用の椅子に腰を下ろさず、名簿を机に置いた。
「帝国からの照会の話、聞きました。数を出さないそうですね」
「出さん」
「うちの受講生の名簿です」
カリンは名簿の背を指で叩いた。
「操艇でも救急でもない。人を押さえる手を持ってるのは、うちだけです。自治政府が兵の数を出す日が来たら、いちばん最初に数えられるのはこの受講生たちでしょう」
「そうだろうな」
「その日が来たら、教程は変わりますね」
「変わるだろう。暴れる怪我人を押さえる手と、軍人が抵抗する敵を制圧する手は、似ているように見えて別のものだ」
「なら、変えた日を書いてください」
カリンは腕を組んだ。
「うちの子たちは、軍の白兵戦技を習ってることくらい知ってます。今は救難現場で人を押さえるために使ってる。それを人と戦うために使わせるなら、そこから先は別です」
「違いは用途か」
「用途と責任です。変えた日を残してください。あとから、最初からそうだったことにされるのが一番嫌なんです」
クブルスリーはしばらく彼女を見ていた。
「教程の改定は、附録に旧称と日付と理由が残る」
「あたしはそれを、口でも言い続けます」
カリンは名簿を取り上げた。それから少し声を落とした。
「あたしは志願します。受付が始まったら」
扉のところで振り返った。
「ユリアンには、あたしから言います。あなたからは言わないでください」
「私が言う筋ではない」
「そうですね」
扉が閉まった。
クブルスリーはしばらく閉まった扉を見ていた。
***
翌日は地域向けの救急講習があり、課程長室まで子供の声が聞こえていた。
そこへユリアンが二人分の飲み物を持って来た。
「カリンが来たそうですね」
クブルスリーは飲み物を受け取った。
「来た」
「何の話でした」
「教程の話だ」
ユリアンは少し彼を見てから、笑った。
「そうですか」
外のベンチからは小型艇の地上点検が見えた。その手前では救急講習を終えた親子が昼食を広げている。
「シトレ元帥が見たら、どう思うでしょうね」
「文句は言うだろう。名前が長い。規程も増えた。予算書も厚い」
「そこですか」
「だがなくせとは言わんだろう」
ユリアンは飲み物を持ったまま、しばらく窓の外を見ていた。
「照会の件、来月の評議会で議題になります。志願者の数だけ、という条件も含めて」
「通るのか」
「今度の評議会では通らないと思います」
「君は評議員ではないな」
「違います」
「だが傘の会の会長ではある」
「はい」
「では、評議会の話をなぜ君が知っている」
ユリアンは少し考えてから答えた。
「訊かれたからです」
クブルスリーはそれ以上訊かなかった。
戻る途中、少年が案内図を見上げた。
「お母さん、校長室ってどこ」
クブルスリーは足を止めなかった。
***
一月の半ば、夜間課程の総合演習を作る会議が開かれた。
各講師の案を一枚へ重ねると、通信障害の横に貨物船衝突、その横に救難艇故障まで書き込まれた。
「受講者を困らせるだけなら隕石でも落とせばいい。見たいのは、問題が増えたとき何を捨てるかだろう」
条件を整理し救難艇の故障は燃料不足へ変えた。
「全艇を予定どおり使えば、最後の一隻が帰る分だけ足りないようにしろ」
「かなり嫌な問題になりますね」
通信担当が言った。
総合演習で燃料不足の条件が入ると、救助人数を減らす班と、民間貨物艇へ協力を求める班に分かれた。
一班だけ、帰還用に残すはずの燃料まで使って最後の一便を出した。
教官は警告せず、そのまま演習を続けさせた。
その班は要救助者の収容数では一位になった。だが最後に出した艇は燃料切れで帰還できず、収容した者ごと途中で停止した。最終的な帰還完了率は全班で最も低かった。
「補給施設が途中にあるという伝聞情報に賭けました」
代表者が説明した。
「確認したか」
「していません」
「なら燃料計算より先に、そこだな」
演習後、その班の何人かは同じ条件でもう一度やらせてほしいと頼み、シミュレータ室へ戻っていった。
廊下まで、若い教官が「帰れなきゃ同じだ」と言っている声が届いていた。
クブルスリーは少し聞いてから、課程長室へ戻った。
***
その週の操艇実習で、受講者が若い講師に訊いた。
「現地にまだ人が残っていたら、どうするんですか」
講師は燃料表を見た。
「全員を乗せれば帰還できないならその便では乗せないこともある。次の便を待つ」
「置いてくるんですか」
「そうなる」
答えてから、講師はもう一度燃料表へ目を落とした。
授業後、クブルスリーは講師を呼んだ。
「次は、手が届く相手をその場に残す判断を、実際にしたことがある者を呼べ」
「旧同盟軍の退役軍人ですか」
「救難会社にもいる。技術は君が教えられる。だが、乗せようと思えば乗せられる人間を前にして、実際にそこで止めたことがない者にはその判断までは教えにくい」
講師は頷いたあと、少し迷って訊いた。
「課程長はあるんですか」
クブルスリーはすぐには答えなかった。
「ある。統合作戦本部長というのは、そういう判断をする席だ。出せる艦隊を出さないと決めることもある。出せば助けられる場所があってもだ」
「……そうですか」
「ただし、それを私が教えられるかは別だ。だから経験のある者を探せと言っている」
廊下へ出ると、すれ違った受講者が頭を下げた。
「校長先生、お疲れさまです」
クブルスリーはそのまま頷いて通り過ぎた。
訂正しなかったことに気づいたのは、少しあとだった。
***
照会の回答期限は、一月末だった。
その日の午後、ユリアンが課程長室へ回答書の最終稿を持ってきた。傘の会の事務方が作成し、自治政府側の確認を経たもので、送信者の欄には〈市民安全互助隊会長 ユリアン・ミンツ〉とある。
登録者数、救難艇、通信設備、救急資格者。前年からある項目には、同じ形式で数字が入っていた。最後に追加された一欄だけが違う。
〈大規模緊急事態に際し、短期間に活動可能な登録人員の概数〉
一千万人という数字は、すぐ上の行にある。それを書き写すだけなら三秒もかからない。だが最終稿の欄は空白で、代わりに短い注記が付いていた。
〈登録者数を即時活動可能人員として扱うことはできない。技能資格、現職、所在、本人の意思がそれぞれ異なり、現時点で志願受付制度も存在しないため、本欄の概数は算出不能。〉
帝国へ送る回答には、それ以上のことは書かなかった。志願受付制度を設けるかどうかは自治政府評議会が決めること、その際には決定者と理由を記録すること。それらはクブルスリーの顧問意見として、自治政府側の記録に残された。
「これで送りますよ」
クブルスリーは送信者の欄をもう一度見た。
「私は顧問として意見を言った。あとは会長の君が決めろ」
「……そうですね」
ユリアンはその場で送信した。三分後、自動の受信確認が返った。
〈受領〉
それだけだった。追加の照会もなかった。
翌日も、その次の日も、教育センターはいつもどおり動いた。
救急講習があり、操艇シミュレータが唸り、廊下を子供が走った。
***
その週の終わりに、クブルスリーは次年度の教程案を開いた。
夜間課程の最終演習に、題名を一つ書き足した。
〈外部から動員の要求が来たとき、誰が決めるか〉
保存してから別の文書を開いた。
教育担当から回ってきた、来年度の課程受講希望者の募集要項の草案だった。責任者略歴の欄は、自分が削らせたまま三行しかない。
自由惑星同盟軍第一艦隊司令官を経て統合作戦本部長。
退役後、市民安全互助隊顧問。
附属教育課程長。
クブルスリーは一行目と二行目の間へカーソルを置いた。
『統合作戦本部長在任中、復職を求めて執務室へ来た部下に銃撃され、長期療養』
書き加えてからしばらく画面を見ていた。
理由までは書かなかった。
夕方、キャゼルヌが来てその画面を見た。
「経歴から削れと言ったのは、あなたですよ」
「気が変わった」
キャゼルヌは何も訊かなかった。草案を保存して、教育担当へ戻した。
帰り支度をしたクブルスリーは、引き出しにしまっていた〈校長先生はこちら〉の紙を取り出した。
少し迷ってから、机の内側の壁へ貼った。廊下からは見えず、自分の席からだけ見える位置だった。
扉の外には、受講者が何人か待っていた。
「校長先生、質問いいですか」
「入れ」
一人目が資料を抱えて入ってきた。クブルスリーは椅子を勧め、その受講者が机に広げた書類へ目を落とした。
――「もう一回やれ。この数字じゃ、まだ帰ってきてない」
次回、『オリビエ・ポプラン』