銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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幕間二 沈黙と猛火

【新帝国暦十一年 獅子の泉 フェリックス】

 

 

その日、獅子の泉の練兵場に雷が落ちた。

 

「ぬるいわッ!そんな踏み込みで、敵の何が斬れるかァ!」

 

声の主は、火のような赤毛の大男だった。

 

フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥。

黒色槍騎兵艦隊(シュワルツ・ランツェンレイター)を率いる、帝国きっての猛将。近くにいるだけで、こちらの体まで熱くなるような男だった。

 

俺とアレクはその日、宮廷教育の一環で剣術の稽古をつけてもらうことになっていた。

相手が誰かは、来るまで知らされていなかった。

 

そして、この大声である。

 

俺の隣で、アレクがそっと半歩後ずさった。

 

 

***

 

 

「お前が、ミッターマイヤーの倅か!」

 

ビッテンフェルト元帥は俺を見下ろして、豪快に笑った。

俺のことは、遠慮なく「倅」と呼んだ。だが、その隣のアレクに向き直ると、元帥はぴたりと居住まいを正した。

 

「陛下におかれましては、御機嫌うるわしゅう。このビッテンフェルト、稽古のお相手を仰せつかり、光栄の至りにございます」

 

あの大声のまま、口上だけがやけに折り目正しい。

 

俺は思わず吹き出しそうになった。

皇帝には、あのビッテンフェルト元帥でも頭が上がらないらしい。

 

「さて、倅」元帥は、また俺に向き直った。

声が、一段跳ね上がる。

「宮廷で行儀よく木剣を振っておるだけの、ひよっこめ。おれが、性根から叩き直してやるわ!来い、まっすぐ来い!小賢しい手はいらん。全部をぶつけてこいッ!」

 

俺は、木剣を握り直した。

 

なぜだか、胸がわくわくしていた。この人は、俺には飾らない。忖度も遠慮もない。

それが、なんだか気持ちよかった。

 

「行きます!」

 

 

***

 

 

結果を言えば、俺は三秒で吹っ飛ばされた。

まっすぐ突っ込んだ俺の木剣を、元帥は片手で軽くいなし、そのままの勢いで俺の襟首を掴んで地面に転がした。乱暴だった。手加減の欠片もなかった。

 

「わっ」

 

俺は砂の上に、盛大に尻もちをついた。

 

「よわいッ!」元帥は大笑いした。

「疾風の倅が、聞いて呆れる!だが」

 

その笑いが、ふと止んだ。

 

「目は、悪くない」

 

元帥は俺を見下ろして言った。

 

「まっすぐだ。逃げも、隠れも、駆け引きもない。ただ、まっすぐに来た。……近頃の、小賢しい若造どもとは違うわ。おれは、そういう目が、嫌いではない」

 

俺は砂まみれのまま、その言葉に、なぜか胸が熱くなった。

 

「もう一回、お願いします!」

 

「おう、来い来い! 何度でも転がしてやるわ!」

 

俺は立ち上がった。何度転がされても、立ち上がった。

ビッテンフェルト元帥の稽古は、乱暴で、痛くて、そして、どうしようもなく楽しかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十一年 獅子の泉 アレク】

 

 

やがて、僕の番が来た。

ビッテンフェルト元帥は、フェリックスを転がしていた手を止め、僕のほうを見た。そして、あの大声をまた少しだけ収めた。

 

「陛下。あなた様に稽古など、恐れ多いことにございます。木剣を、二つ三つ、打ち合わせる真似事でも」

 

皇帝には、遠慮がある。あれほど豪快な人でも、僕を前にすると、その荒々しさに一枚、布がかかる。

臣下として当然のことだった。

 

だが、僕はそれが嫌だった。

フェリックスは、あんなに何度も転がされて、そのたびに笑って立ち上がっている。

僕だけが皇帝だからと、布のかかった真似事をしてもらう。それでは、何も身につかない。

 

僕は前に出た。膝は、震えていた。

 

「元帥。お願いがあります」

 

「は」

 

「今日は、皇帝としてではなく……一人の生徒として、扱ってください。手加減は無用です。フェリックスと、同じように」

 

ビッテンフェルト元帥の目が、見開かれた。

しばらく、僕をじっと見ていた。何かを量るように。それから、その口の端がにやりと吊り上がった。

 

「……よろしいので」

 

「はい」

 

「承知、いたしました」元帥は木剣を構え直した。その構えから、さっきまでの布が消えていた。

「ですが陛下。これは、あなた様ご自身がお望みになったこと。この一時だけは、遠慮はいたしませぬ。……恨みっこは、なしですぞ」

 

「はい」

 

「来られよ、陛下。まっすぐに」

 

結果は、言うまでもなかった。

ろくに打ち込むこともできず、僕は一瞬で砂の上に転がされた。フェリックスより、ずっとあっけなく。

痛かった。情けなかった。目の奥が熱くなった。

だが、僕は立ち上がった。泣かなかった。もう一度、木剣を構えた。膝は笑っていたけれど。

ビッテンフェルト元帥が僕を見下ろした。その目が、ふと和んだ。

 

「お逃げになりませんな、陛下」

 

「……逃げ、ません」

 

「よろしい」元帥は大きく頷いた。

「お弱い。実に、お弱い。……ですが陛下。強い弱いより先に、逃げるか、逃げぬか、にございます。あなた様は、逃げなんだ。びくびくしておられても、逃げずに立っておられればよい。それも一つの強さにございます。……お忘れなきよう」

 

僕には、その言葉の意味がまだよく分からなかった。

 

ただ、何度か転がされて、僕はもう、へとへとだった。

 

 

***

 

 

僕は練兵場の端に退いて、木陰で息を整えた。

もう一度あの輪へ戻る勇気は、正直なかった。

フェリックスは、まだ嬉々として転がされている。あの底なしの元気が、僕には少し眩しかった。

 

――と、その木陰に先客がいたことに、僕は気づいた。

 

 

***

 

 

一人の、静かな将軍だった。

 

痩せて、背が高く、身動き一つしない。ビッテンフェルト元帥とは、何もかもが正反対だった。

あちらが炎なら、この人は氷のように静かだった。

 

エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥。

 

僕は、その名だけは知っていた。七元帥の一人。

だが、宮廷でもその声を聞いた者は、ほとんどいないという。

何を考えているのか、分からない人。臣下たちは、そう囁いていた。

 

その人が木陰で、フェリックスの稽古をじっと見ていた。

僕は少し迷ってから、そっと近づいて隣に立った。

 

「……アイゼナッハ元帥」

 

声をかけても、その人はこちらを見なかった。ただ、視線だけがわずかに動いて僕を捉えた。

喋らない。何も言わない。

僕は居心地の悪さに、何か話さなければと焦った。

 

「あの、ビッテンフェルト元帥は……すごい声ですね」

 

アイゼナッハ元帥は答えなかった。

ただ、ほんの少しだけ口の端が動いた気がした。笑ったのか、そうでないのか、分からないほど、かすかに。

それから、その右手がわずかに上がった。

指を、二度、鳴らす。乾いた、涼やかな音だった。

するとどこからか、従卒が一人、音もなく現れた。冷えた飲み物を二つ、盆に載せている。一つを僕に。もう一つを、練兵場で汗だくのフェリックスのほうへ。

 

僕は、驚いた。

 

この人は、一言も喋らなかった。

なのに、僕がここに立っていることも、僕が喉を渇かしていることも、フェリックスが汗みずくなことも、全部、見ていたのだ。

そして、指を二度鳴らすだけで、それを叶えてしまった。

 

言葉より、確かなもの。

 

その意味の一端に、僕はこのとき、触れた気がした。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十一年 獅子の泉 フェリックス】

 

稽古が、何日か続いた。

 

俺はすっかり、ビッテンフェルト元帥が好きになっていた。

乱暴だが、裏表がない。転がされるのは痛いが、そのあとに来る「目は悪くない」の一言のために、俺は何度でも立ち上がれた。

 

ある日の休憩、汗だくの俺のところへ元帥がのっそりとやってきた。そして、俺の顔をぐいと覗き込んだ。

 

至近距離で、じろじろと。

 

「……なんですか」

 

「いや」元帥は、しげしげと俺を見た。

「お前、どうも、誰かに似ていると、さっきから思っておったのだ。この、目つき。この、まっすぐな気性。……ふむ」

 

やがて、元帥はぽん、と手を打った。得心がいった、という顔で。

 

そして、練兵場じゅうに響く大声で朗らかに言い放った。

 

「――ロイエンタールだ!やはりお前、あのロイエンタールに、生き写しだ!いやはや、血は争えんものよなァ!」

 

練兵場が、しんと静まり返った。

 

従卒が水を注ぐ手を止めた。稽古をしていた近習の子らが、凍りついた。

 

 

***

 

 

俺の頭の中は、真っ白だった。

 

ロイエンタール。実の父の、名前らしい。

 

俺は、その人を知らない。会ったこともない。生まれる前に死んだと聞いている。

俺の父上は、ミッターマイヤーだ。あの、家で母上の料理を宇宙一だと言う、あの人だ。

 

なのに。

 

なぜだろう。胸の奥が、かっと熱くなった。似ている、と言われたことが、無性に腹立たしかった。

理由は、自分でも分からない。ただ、言われたくなかった。

 

「……俺は」声が、震えた。「俺の父上は、ウォルフガング・ミッターマイヤーです」

 

「うん?そりゃそうだ。育ての親はな」ビッテンフェルト元帥は、きょとんとした。

「だが、血はロイエンタールだろう。何を怒っている」

 

「怒ってません!」

 

「怒っているではないか」

 

俺は木剣を握りしめた。目の奥が、また熱くなった。今度は、稽古の痛みとは違う熱さだった。

 

 

***

 

 

ビッテンフェルト元帥は、本気で、俺がなぜ怒るのか分からないようだった。

 

腕を組んで、うんうん、と唸っている。

 

「はて。おれは、褒めたのだぞ。ロイエンタールの戦のうまさ、白兵戦の強さは、帝国軍の双璧の名に恥じないものだった。その血を引くのだ、誇ってよいだろうに。……なあ、坊主。父親が二人おろうが、三人おろうが、大した違いはあるまい。血の父がロイエンタール、育ての父がミッターマイヤー。……どちらも、飛び切りの名将だ。二倍、得ではないか。何が気に食わん」

 

暴論だった。

 

だが、この人は本気でそう思っている。悪気は、微塵もない。それが、かえってたちが悪かった。

 

「元帥は、心配り(タクト)ってものが、ないんですか!」

 

「たくと?指揮棒(タクト)のことか。おれは、そんなもん振らんぞ」

 

「そういう意味じゃ……!」

 

「だいたい、音楽なぞ、辛気くさくて、おれは好かん。ぴろぴろと、まだるっこしい。戦とは、そんな悠長なものではない」

 

「もういいです!」

 

俺が、真っ赤になって怒鳴ったそのとき。

 

 

***

 

 

すっ、と。

 

木陰から、音もなくアイゼナッハ元帥が歩み出た。

 

そして、ビッテンフェルト元帥の背後に立つと

 

その後頭部を、平手で、ぱこん、と叩いた。

 

「いたッ?!」

 

ビッテンフェルト元帥が、頭を押さえて振り返る。

 

「なにをするか、アイゼナッハ!貴様、いきなり」

 

アイゼナッハ元帥は、何も言わなかった。

 

ただ、じっとビッテンフェルト元帥を見て、それからゆっくりと、俺のほうへ視線を移した。

もう一度、ビッテンフェルト元帥へ。そして、また俺へ。

 

言葉は、一つもなかった。

 

だが、その視線の往復が、はっきりと告げていた。

今のは、この子に、言ってはならぬことだ。

分からんのか、この、うつけ者が。

 

ビッテンフェルト元帥は、しばらくきょとんとしていた。

 

それから、視線を、俺の強張った顔とアイゼナッハ元帥の呆れ顔との間で、二、三度往復させて。

 

「……む」

 

ようやく、何かまずいことを言ったらしい、と気づいたようだった。

 

「……そうか。おれは、また、余計なことを、言ったか」

 

アイゼナッハ元帥が、無言で深々と頷いた。

 

その頷きが、あんまり深く、あんまり呆れきっていたので。

 

俺は、怒っていたのに、思わずぷっと吹き出してしまった。

 

 

***

 

 

「……笑うな」ビッテンフェルト元帥が、ばつが悪そうに、頭をかいた。

「おれは、口が、その、まわりくどいことが、苦手でな。思うたことを、そのまま言ってしまうのだ。……悪気は、ないのだ。うむ」

 

悪気がないのは、よく分かった。

 

この人は、嘘がつけない。裏がない。だから、平気で人の地雷を踏む。

そして、踏んだことにもなかなか気づかない。

アイゼナッハ元帥に叩かれて、ようやく気づく。

 

なんて、不器用な人だろう。

 

俺の怒りは、いつのまにかしぼんでいた。かわりに、なんだか可笑しくてたまらなくなっていた。

 

「……別に、いいですよ」俺は言った。「元帥が、悪気ないの、分かりましたから」

 

「おお、そうか!」元帥は、ぱっと顔を輝かせた。単純な人だった。

「では、水に流せ!――よし、稽古だ!立て、倅!もう十本、転がしてやるわ!」

 

「まだやるんですか!」

 

だが、俺は笑いながら、立ち上がっていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十一年 獅子の泉 フェリックス】

 

その日の稽古の終わり。

 

汗だくで座り込んだ俺の隣に、ビッテンフェルト元帥がどっかりと腰を下ろした。

そして、遠い目をしてぽつりと言った。

 

「……お前を見ておると、昔を思い出すわ」

 

いつもの雷のような響きは、なかった。低く静かで、どこか懐かしむような色があった。

 

「おれの、若い頃の上官にな。まことに惜しい男が、いた」

 

「上官?」

 

「シュタイガーという」元帥は、汗を拭った。

「平民の出だ。おれと同じくな。だが、用兵にかけては……そのへんの貴族の軍人どもが、束になっても敵うまい。おれは、あの人の下で、戦の何たるかを覚えたのだ」

 

「その人、今は、どうしてるんですか」

 

俺が問うと、元帥の顔がふと翳った。

 

「……潰されたさ」

 

「潰された?」

 

「門閥貴族の連中にな」元帥は、吐き捨てるように言った。

「あの人はな、戦がうまいだけの男ではなかった。曲がったことが、大嫌いでな。無能な貴族どもが、いくさ下手の命令で兵を無駄死にさせようとすれば、平民の分際で、面と向かって『それは誤りです』と言うてのけた。頭を、決して下げなんだ」

 

元帥は、苦い顔で続けた。

「おれや、ミッターマイヤーは、まだ運がよかった。先帝陛下という、身分で人を計らぬお方が、現れてくださった。後ろ盾もできた。……だが、あの人は、早すぎたのだ。実力だけで人が計られる時代が来る、その少し前に、門閥貴族の連中に潰された。……くだらん話さ。世が、あと少し早く変わっておれば。あの人は、間違いなく、元帥になっておった」

 

俺には、その話の意味が半分も分からなかった。

門閥貴族が、とか、潰された、とか。

そういう大人の世界のことは、九つの俺には遠すぎた。

 

シュタイガー。

 

その名も、聞いたそばから俺は忘れてしまいそうだった。

ただ、あの豪快なビッテンフェルト元帥が、こんな静かな顔をするのだ、ということだけが、妙に胸に残った。

 

その名を、幾年か後。遠い戦場で、ふたたび耳にすることになるとは。

このときは、まだ、俺は知らなかった。

 

 

***

 

 

「いいか、倅」

 

元帥は、俺の頭を、大きな手で、乱暴に撫でた。さっきの余計な一言の、詫びのつもりだったのかもしれない。

 

「出自なんぞ、戦場では何の役にも立たん。貴族だろうが、平民だろうが、砲弾は等しく人を殺す。……物を言うのは、実力だけだ。血でも、家柄でもない。お前が、何をできるか。それだけだ」

 

俺は、その言葉の重さを、まだ知らなかった。

自分の血に、どんな噂がまとわりつくことになるのか。まだ、何も知らなかった。

ただ、なぜだかその言葉は、俺の中に温かく落ちた。ロイエンタールに似ている、と言われて怒った、その同じ胸に。

 

「はい」俺は、頷いた。

「実力だけ。……憶えておきます」

 

 

***

 

 

【新帝国暦十一年 獅子の泉 アレク】

 

稽古の最後の日。

 

僕は思いきって、アイゼナッハ元帥の隣で、一つだけ、尋ねてみた。

 

「元帥。……どうして、喋らないんですか」

 

我ながら、失礼な問いだった。だが、この静かな将軍の沈黙の理由を、僕はどうしても知りたかった。

アイゼナッハ元帥は、しばらく答えなかった。もちろん、言葉では。

だが、その人はゆっくりと練兵場のほうへ目を向けた。

 

そこでは、フェリックスがビッテンフェルト元帥に、また転がされていた。

そして大声で笑いながら立ち上がっていた。

ビッテンフェルト元帥の、雷のような声。

フェリックスの、弾けるような笑い。

練兵場は、音で満ちていた。

 

アイゼナッハ元帥の視線は、それを静かに撫でた。

 

それから、その視線がゆっくりと空へ移った。

夕暮れの、茜色に染まりはじめた静かな空へ。

 

僕は、はっとした。

 

言葉が、なくても。

 

この人はいま、僕に何かを見せてくれたのだ。

あの、音に満ちた練兵場と、この、音のない空とを。

どちらも、確かにそこにある。

 

もちろん、それは僕の思い込みかもしれなかった。

だが、アイゼナッハ元帥がちらりと僕を見て、また口の端をかすかに動かしたとき。

僕は、なぜか通じた、と思った。

 

 

***

 

 

稽古を終えて、二人の元帥が帰っていく。

 

ビッテンフェルト元帥は、去り際まで大声だった。

 

「またな、倅! 次までに、少しはマシになっておけよ!そして、陛下」

 

元帥は僕の前で、また居住まいを正した。

 

「この一時、無礼の数々、平にご容赦を。……ですが陛下。あの、びくびくだけは、はやいところ克服なさることですな。逃げぬお覚悟は、しかと見届けましたゆえ」

 

僕は、少し笑った。

無礼の数々、と自分で言うくらいには、この人も、分かっているらしい。ロイエンタールの一件も、含めて。

 

その隣を、アイゼナッハ元帥が音もなく歩いていく。

去り際、その人はふと足を止めた。

そして、僕とフェリックスのほうを振り返った。

 

何も言わなかった。その日は、指も鳴らさなかった。ただ、じっと僕たち二人を見た。

その眼差しは、不思議と温かかった。厳しくもあり、優しくもあった。

何かを、託すような。あるいは、案じるような。

 

それから、その両の手がゆっくりと上がって、僕たち二人の頭に片方ずつ、そっと置かれた。

ほんの一瞬だった。

次の瞬間には、もうその人は背を向けて、静かに歩き去っていた。

 

「……なんだ、あれ」フェリックスが、頭に手をやって訝しんだ。

「無言で頭に手ぇ置いてくんだぜ。やっぱ、変な人だな」

 

だが、僕は。

 

その一瞬の眼差しと、頭に置かれた手の温もりを、うまく言葉にできなかった。

 

何かを、言われた気がした。とても、大切なことを。

 

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