【新帝国暦二十四年一月下旬 帝都星レーヴェンシュテルン ポプラン高速運送】
オリビエ・ポプランが自由惑星同盟軍の軍服を着ていたのは、もう二十年以上前のことである。
同盟軍時代から名の知られた撃墜王で、
もっとも軍人として模範的だったかと訊かれれば、本人を知る者の多くは別の答えを返しただろう。軍規とは折り合いが悪く、女性関係についてはさらに悪かった。
帝国との戦争が終わると軍服を脱いだが、ハイネセンへは戻らず、そのまま帝都に残った。宇宙から降りることもなく、ほどなく請負で民間船を飛ばし始めた。機械部品、医薬品、高価な小口貨物、急ぎの文書。ときには故障した設備を直す技師一人だけを別の星へ運ぶこともあった。
大量輸送ではない。普通なら三日かかるところを二日で着け、その一日を必要とする客から仕事をもらった。やがて自分の船を持ち、何人かを雇った。
そして、『ポプラン高速運送』という小さな会社を構えた。
昔の仲間なら社名を聞いて笑ったかもしれないが、本人は気にしなかった。
五十一歳になった今も自分で操縦席に座る。
二十年以上そうして飛んでいれば、航路が一本止まる程度のことは珍しくない。港が混めば別の港へ降り、直行便が消えれば途中で別会社へ荷を渡す。戦争がなくても人は病気になり、機械は壊れ、工場では交換部品を待つ者がいるから、道さえどこかに残っていれば商売は続いた。
ところが、この一か月は勝手が違った。
神聖黄金樹教国なる神権国家の建国と同時に、ローエングラム朝銀河帝国との戦争が始まり、旧自由惑星同盟領の民間航路が急速に細り始めた。軍艦が入れば発着枠は軍用優先になり、戦闘のあった宙域から保険会社が降り、保険が残っていても船主が運航を止める。目的地へ着けても、その先を引き受ける会社が船を引き揚げていることまであった。
ニュースでは連日、皇帝の動静や各地の戦況が大きく報じられていた。
ポプランが気にするのは、どちらが勝ったかではない。戦闘がどこで起き、どの港が閉じ、どの航路が止まったかだった。皇帝がどこで何をしているのかも、そのために軍艦がどこへ集まり、民間船の発着枠がどれだけ減るかという以上の意味は持たなかった。
もう一つ、戦争が始まってから変わったことがあった。
ハイネセンからの通信が来なくなった。
それまではユリアンからもキャゼルヌからも、ときにはカリンからも、用事とも呼べないような連絡が何かしら届いていた。天気の話だったり、共通の知人の近況だったり、こちらの仕事ぶりをからかうだけの一文だったりした。
開戦して、それがぱたりと止んだ。
最初の数日は忙しいのだろうと思った。十日を過ぎても誰からも来ないので、今度は偶然ではないと思った。
こちらから訊けば返事くらいは来るだろう。
だが、ポプランは訊かなかった。
何も言ってこない理由には、だいたい見当がついていた。
「勝手に気を遣いやがって」
一度だけそう言って、それきりだった。
事務所の壁には航路を示す札と手書きの迂回線が並んでいる。開戦から一週間で何本かが消え、二週間目には迂回先に選んだ航路まで使えなくなった。三週間目になる頃には、どの道を選ぶかより先に、まだ道が残っているかを確かめるようになっていた。
その朝、事務員が新しい運航情報を持ってきた。
「社長、今度はロフォーテン星域で、両軍が交戦状態に入ったようです」
ロフォーテン方面で大規模な艦隊戦が始まったらしいというだけで、軍から詳しい発表はない。それでも民間運航管制は周辺宙域への不要不急の航行を見合わせるよう求めていた。
ポプランは壁から一本の札を外した。裏に書いてある代替港の一つはすでに民間船の新規入港を止め、もう一つへ回れば目的地には着けるものの、帰りに使える航路がない。
「これで旧同盟領方面、何本残った」
「定期で四本、条件付きで三本です。昨日は六本と五本でした。どんどん減ってます」
朝の依頼には、建設機械の交換部品の輸送があった。通常便なら四日、ポプランのところなら途中の接続次第で二日半ほどで届く。
だが期限に間に合わなくても、しばらくは代替機でしのげる依頼だと分かると断った。
「ポプラン社長、いいんですか? かなり報酬が上乗せされてましたよ」
「いいさ。急いでほしいのと、急がなきゃ困るのは別だ」
次は、故障した作業船を直せる技師を明日の夜までに運ぶ仕事だった。
こちらは受けることにしたが、最短経路の補給港は軍用優先、その先では民間船への燃料販売が制限されている。ポプランの船では途中までしか行けず、そこから先は別の会社に引き継いでもらう必要があった。
心当たりの会社へ連絡すると、行き先を聞く前から嫌そうな声が返ってきた。
『ポプラン。この時期にお前から来る仕事で、楽なのがあるか』
「偏見だな。こっちで一つ手前の港まで運ぶ。そこから先、お前さんのところで引き受けられるか?」
『無理だ。そこから先へ行ったら、俺の船が戻れん』
「へえ、奇遇だな。おれも同じ計算になった」
『なら人に訊くな』
「別の頭で計算すれば、違う答えが出ることもあるだろ」
『今回は出ないな』
「そうか。安心した。おれの計算は合ってたらしい」
五人に断られ、六人目でようやく中継を引き受ける会社が見つかった。最短より六時間ほど余計にかかる遠回りになった。
依頼主はなお最短を希望したが、ポプランが「船を一隻買ってくれるなら行く」と答えると、その案は採用されなかった。
昼を過ぎる頃には契約文書、分析装置の部品、急ぎの人員と、朝からの依頼にひと通り行き先をつけていた。荷物そのものは開戦前と変わらない。
ただ、目的地を見ただけでは、いつものように到着時刻も料金も答えられなくなった。
昨日まで使えた港が閉じ、入港できても必要な燃料を積めず、そこまで運べてもその先を引き受ける会社が消えている。一か月前なら一本で済んだ仕事に二本、三本と迂回線をつなぎ、そのうち一本が消えればまた組み直す。
ポプランが商売を始めてから、こんな速さで航路そのものが消えていくのは初めてだった。
事務員が空白の増えた壁を眺め、下の方に残っている古い札を見つけた。
帝都――ハイネセン。週一便。
「それ、まだ飛んでましたっけ」
「まだ飛んでたはずだ」
端末で確認すると、今週の便は三日後だった。
その次の欄には、〈運航停止・再開時期未定〉と表示されている。
事務員が言った。
「これが最後ですか」
「定期便としてはな」
ポプランは画面を見たまま答えた。
三日後の一本が飛べば、その先はない。
ハイネセンへ行こうと思えば、二十年以上いつでも行けた。来週でも来月でもよかった。その間、実際に仕事で何度も足を運んでいる。
だから、そこへ行く道がなくなることなど考えたこともなかった。
ポプランは壁の札を外さなかった。
少し斜めになっていたのを、指でまっすぐに直した。
***
【翌日 帝都レーヴェンシュテルン 中央宇宙港】
翌朝、ポプランは中央宇宙港へ出た。
長く使ってきた定期航路が消えるなら、途中の港がどこまで使えるのか、貨物を別会社へつなぐ余地が残っているのかくらいは見ておく必要がある。
少なくとも、本人はそういうことにしていた。
窓口には貨物会社の社員、旅行者、船員、保険会社の職員まで列を作っていた。待っている間にも民間便が二本止まり、一便は六時間延期、もう一便は欠航になった。理由はいずれも軍用輸送優先である。
ハイネセン便はいまのところ飛ぶ予定だった。
第一寄港地は使え、第二寄港地では給油制限が始まっているものの、レーヴェンシュテルンで燃料を増載する許可が出ている。
ただし副操縦士が昨夜降りていた。
代員が見つからなければ、その便も欠航になる。
理由を訊くと家族の事情だという。それ以上を訊く必要はなかった。
ポプランが運航会社へ連絡すると、機体はアルタイル六型、旅客二十七人。貨物は医薬品と通信機器の交換部品が中心だった。
話を聞いていくうちに代わりの操縦士が見つからない理由も分かった。
ハイネセン到着後、この船は現地へ移管され、乗員もそこで解散する。帝都へ戻る席までは会社で用意できない。
つまりこの便に乗れば帰りの足がない。
「なるほどな。だから代わりが見つからんわけだ」
『飛べる奴はいる。帰れない仕事を受ける奴がいない』
「そりゃそうだ」
ポプランは一度通信を切った。
発着表示には、三日後のハイネセン便が残っている。
その下は空白だった。
端末にはユリアンたちとの通信履歴も残っていた。最後の日付は、どれも開戦前後で止まっている。
誰も来いとは言わなかった。
来るなとも言わなかった。
言わなくても分かると思っているのだろう。
「……まったく」
ポプランはもう一度、運航会社を呼び出した。
「さっきのハイネセン便、まだ副操縦士を探してるか」
『探してるが』
「日当はいくらだ」
一瞬、向こうが黙った。
『お前、そこから聞くのか』
「仕事なんだろ」
通常の十倍に最終便手当がつくという。
ポプランは発着表示を見上げた。
「安いな」
『嫌ならいい』
「誰が嫌だと言った。おれを乗員表に入れろ」
『帰りはないぞ』
「聞いたよ」
それでも相手が何か言おうとしたので、先に切った。
「十倍なんだろ。十分だ」
事務所へ戻ると、出発までの仕事を並べ直した。
自分が飛ばなければ処理できないものだけを片づけ、残りは社員や知り合いの会社へ回した。途中で荷を受け取る会社にも予定があり、定期契約の客には、自分がいなくなったあとでも荷を頼める相手を残しておかなければならない。
仕事を一件引き取った同業者から、廃業するつもりなのかと訊かれた。
『ポプラン。お前、もしかして会社を畳むのか』
「まさか。おれが飛ばなくても荷が着きゃいい。客はおれの顔に金を払ってるわけじゃない」
会社を閉めるつもりはなかった。十年以上帝都の事務所にいる事務員は受託から精算まで一通り扱えるので、新規依頼をどこまで受けるかの権限だけ広げ、定期契約もいくつか他社へ引き継がせた。
「社長はいなくなるのに会社はそのままなんですね。社名に『ポプラン』って入ってますけど」
「看板まで失踪すると縁起が悪いだろ。名前は置いてく」
「若い頃につけたんですよね」
「そうさ。若い頃はおれも、自分の名前に商品価値があると思ってたんだ」
事務員は笑ったあと、変更した契約先と権限表をもう一度見た。
「これ、戻ってこない人の仕事の片づけ方ですよ」
「戻る便がないんだから、しばらく戻らないのは確かだ。その先はその先で考える」
「十年以上社長と一緒に仕事しましたけど、その答えで本当に後から考えたことって、あまりないですよね」
「お、よく分かってるじゃないか」
長く使ってきた貨物艇も売らず、馴染みの整備員へ預けた。買ったときから中古だった船で、主機は一度丸ごと交換し、姿勢制御系にも何度も手を入れている。計器も配線も大半が新しくなったが、操縦席の左側にある細い擦り傷だけは買った頃から残っていた。
「で、帰ってくるのか」
「今日それをおれに訊く奴、何人目だったかな」
「船を預かる側には重要だ」
整備員はそこで、ハイネセンに住むのは二十年ぶりになるのかと訊いた。
ポプランが、行くだけなら仕事で何度も行っていると返した。
「行くのと住むのは違うさ」
「まあな。整備は予定どおり終わらせとけ。おれがいなくなった途端に故障したら、最後まで面倒を見なかったみたいじゃないか」
「整備してるのは俺だ」
「じゃあ故障したらお前のせいだな。もっとまずい」
事務所へ戻って棚に溜まったものを少しだけ片づけていると、会社を始めた頃に酒場で撮った写真が一枚出てきた。何人かの操縦士や整備員と肩を並べ、自分はグラスを持っている。
今より髪が多い。
事務員が横から覗き込んだ。
「社長、どれです?」
「明日から給料減らすぞ」
写真は旅行鞄には入れず、机の引き出しへ戻した。
出発前夜、壁にはレーヴェンシュテルンとハイネセンを結ぶ札が一本だけ残っていた。
ポプランはそれを外さず事務所の灯りを消した。
***
【出発の日 帝都レーヴェンシュテルン中央宇宙港】
出発の日ポプランが持ってきたのは旅行鞄一つと工具箱だけだった。二十年以上住んだ街を離れる荷物としては少ないが会社も船も部屋も残しているので、必要なものまで全部運び出す理由はない。足りなければ向こうで買えばよかった。
ハイネセン便の船長は三十代後半ほどで、ポプランの軍歴ではなく資格証と直近一年の飛行時間を先に見た。
「撃墜数は見ないのか?」
「旅客船の採用には関係ありません」
「まぁそうだろうな」
搭乗するアルタイル六型は外板にいくつも補修跡を残していたが、航法系は更新され、主機も前年に交換されていた。改修後の同型は初めてだったので、最初の離港は船長に任せた。撃墜数やヤン艦隊時代の話を訊かれるより、その方がよほどありがたかった。
民間船の出港準備には待つ時間が多い。貨物重量、旅客、燃料、運航許可を一つずつ確認し、ほとんど準備が終わったところで軍用輸送船が三隻入ってきた。その荷役で出港は一時間分遅れた。
航路へ出てから操縦を交代すると船体は左へ振ったあとの戻りがわずかに遅く、主機を絞ったときも減速が半拍遅れた。故障ではない。この船はこういう動きをするらしいと分かればそれで済む。
しばらくして前方の貨物船へ追いついたが、ポプランは距離があるうちに早めに位置をずらした。船長がまだ間はあると言うとポプランは「あるうちに動いた方が楽だ」とだけ返した。
十分ほどすると、並走していた船に管制から減速指示が入った。
ポプランは速度を変えなかった。
そのまま相手の前へ出て、空いた進入枠へ滑り込む。
「……管制の指示、分かってたんですか?」
「違う。あの貨物船が先に合流してくる。二隻並べて入れる幅はない。向こうはこっちより重い。止めるならあっちだ」
ポプランは正面を見たまま続けた。
「管制が言う頃には遅いんだよ」
レーヴェンシュテルンの管制圏を抜けると宇宙そのものは何も変わっていないように見えた。星があり、航法灯があり、後方には帝都の交通量を示す光点が残っている。ただ、その間を飛ぶ民間船は一か月前より明らかに少ない。
船内には二十数人の旅客がいた。子供を連れた夫婦も、一人で乗ってきた老人もいる。この便が当面最後だと知って乗った者もいれば予約したあとで知らされた者もいるだろう。
ポプランもハイネセンへ帰ろうと決めて便を探したわけではない。残っていた一本を見つけ、その次がなく、たまたま副操縦士が一人足りなかっただけだ。
最初の寄港地では民間船用の発着区画が軍用輸送へ振り替えられ、別の区画が空くまで四十分近く待たされた。窓の外では輸送艇が何隻も横切り、大型貨物車と軍服姿の誘導員が途切れずに動いている。警報も戦闘の音もなく、旅客が六人降りて四人乗り、医療機器の部品と行政文書を降ろす荷役そのものはいくらもかからなかったので、待っていた時間の方が長かった。
二つ目の寄港地では民間船への給油制限がさらに厳しくなり、十数隻が順番を待っていた。レーヴェンシュテルンで積み増した燃料だけでハイネセンまで届くと計算し、船長と相談して給油待ちの列から外れる。旅客の乗降中にも出港時刻は何度か変わったが、客席から苦情は出なかった。この一か月で、時刻表どおりに船が動く方が珍しくなっているのだろう。
出港前に運航情報を見ると朝まで載っていた民間便がまた一本消えていた。ポプランは理由までは調べず、ハイネセンまでの線がまだ使えることだけを確かめて端末を閉じた。
***
【二週間後 ハイネセン宇宙港】
ハイネセンの管制圏も混んでいた。旧同盟領の各地から来る民間船に貨物船や救難船が混じり、着陸順位を三度変えられたが、ポプランは無理に前へ出なかった。先行船が遅れれば距離を取り、別方向から船が入れば先に行かせる。途中から船長も何も言わなくなった。
アルタイル六型が接地したのは当初の予定から一時間ほど遅れた頃だった。
最後の定期便だからといって式典があるわけでもない。旅客は順に降り、貨物を受け取る車が入り、運航会社の端末には「運航完了」と表示された。
飛行記録へ署名して船長へ席を返す。
「次に乗る奴に、左へ振ったあとの戻りが少し遅いって伝えとけ」
「分かりました」
船長は最後まで撃墜王の話をしなかった。ポプランにはその方がありがたかった。
入境区画では帰りの予定も滞在期間も入力できず少し手間取った。隣の窓口では若い夫婦が旧住所について説明し、少し離れたところでは年配の男が二十年以上前に失効した資格証を使えるか係員と話している。
到着ロビーへ出ると、柱のそばにカーテローゼ・フォン・クロイツェル・ミンツがいた。
カリンはポプランの旅行鞄一つと工具箱を見た。
「ずいぶん簡単な荷物ね」
「わざわざ迎えに来た男に最初に言うのがそれか」
「ほかに褒めるところが見つからなかったの」
「昔より口が悪くなったな」
「先生がよかったからよ」
カリンはもう一度、荷物を見た。
「でも、帰ってくるなんて聞いてなかったもの」
前日に届いた連絡には、到着時刻と、しばらく泊まれる場所を知らないかということしか書かれていなかった。
「必要なことは全部書いただろ」
「仕事で来るんだと思ってた。いつまでいるの」
「そこまでは決めてない」
どうやら本当に決めていないらしいと分かると、カリンもそれ以上は訊かなかった。
代わりにポプランが彼女の顔を見た。
「髪、切ったな」
「最後に会ったの、何年前だと思ってるの」
呆れた声で返された。
「似合ってるなら時間は関係ない」
「そういうところは変わらないのね」
駐車区画へ向かう途中、レーヴェンシュテルンでは見なくなった煙草の銘柄を見つけた。値段を見て棚へ戻すと、カリンが訊いた。
「まだ吸ってたの?」
「とっくにやめた。昔いくらだったかなと思ってな」
「それで?」
「知らない方が幸せだった」
「歳を取るとそういうものが増えるのね」
「失礼な教え子だな」
車で市街地へ向かうと昔泊まったホテルは名前が変わり、行きつけだった店の区画には別の建物が建っていた。その一方で、高架道路や古い公共施設には二十年前とほとんど変わらないものもある。仕事では何度も来ている街なのに今回は帰りの便が決まっていないせいか、見慣れたはずの景色が少し違って見えた。
レーヴェンシュテルンへ戻るつもりはあるのかと訊かれ、ポプランは「便ができりゃな。船も会社も向こうだ。二十年いたんだぞ」と答えた。いつまでハイネセンにいるかは、自分でもまだ決めていない。
誰かに呼ばれて戻ってきたのかとも訊かれた。
ユリアンからもムライからも、自治政府からも連絡はなかった。
「副操縦士が足りなかった。おれは資格を持ってた。日当もよかった。それだけだ」
「最後のがいちばん本当っぽい」
「信用されてるな、おれ」
「じゃあ、明日は?」
「何も決めてない」
カリンは少し考えた。
「暇なら、一つ頼みたいことがあるんだけど」
〈傘の会〉では宇宙港の外れで民間向けの操艇講習を続けていた。戦争が始まってから受講者が増えているという。
教えるのは戦い方ではない。機関故障、航路障害、燃料不足、それに救難艇への接近。民間船が途中で立ち往生したとき、生きて帰るための訓練だった。
「それでおれにも教えろと?」
「一度見てくれればいい。嫌ならそれで終わり」
「見るだけだからな」
「はいはい」
「その返事は昔から信用できないんだよ」
「教えた人が悪いんじゃない?」
否定する材料が少なかったので、ポプランは黙った。
***
【翌日午後 ハイネセン郊外・傘の会操艇訓練所】
訓練所は旧貨物取扱施設の一角に操艇シミュレータを六基置いただけの小さな場所だった。壁にあるのは非常時の避難経路や応急手当の手順で、軍隊らしいものはない。
「本当に撃つ練習はないんだな」
「昨日もそう言ったでしょう」
奥へ進む途中、別の訓練区画から防煙具を外した一団が出てきた。その後ろにいた男と目が合った。
「リンツ」
「ポプランか。いつこっちに帰って来た」
「昨日。最後のハイネセン便を飛ばしてきた」
カスパー・リンツは、この日の実技講習を担当していた。
カリンから事情を聞き、ポプランが「見るだけだ」と付け加えると、「そうか」とだけ答えた。
「リンツ。お前は何を教えてる」
「今日は船内救難だ。煙の入った区画で一人が動けなくなった想定にして、十人で入る。全員連れて戻るまでやり直しだ」
ポプランは訓練区画の方を見た。
「昔より地味になったな」
「お前に言われたくない」
二十数年前には、戦場でリンツの振るった
「終わったら顔を出せ」
「チェスでもするのか」
「まだ指せるならな」
「誰に言ってる」
リンツは答えず、記録板へ目を戻した。
二十年前から、こういう軽口にむきになって勝ちを取りにくる男ではなかった。ポプランもわざわざ追いかけて訂正させるほど暇ではない。
次の訓練班へ戻っていく背中を見送ってから、操艇講習の方へ向かった。
担当しているのは元民間救難会社の男だった。
受講者は十数人。港湾作業員や貨物船の乗員、整備士、救難関係者が混じっている。正式な操縦資格を持つ者もいれば、仕事で小型作業艇を動かした程度の者もいた。
軍務経験者も何人かいるらしい。
ただし、胸の名札に書かれているのは、いまの職業だけだった。
ポプランは後ろの椅子へ座った。
最初の課程は、途中で故障を与えられた小型艇を、規定量以上の燃料を残して帰投させるものだった。三人目の若者は故障処理も着艇も上手かったが、元の航路へ正確に戻そうとして機首を二度余計に振っている。
課程達成の表示が出たところで、ポプランが口を出した。
「これ、元の線へ戻す必要があったのか?」
若者は指定航路へ復帰するのが正しいと思ったと答えた。
「間違っちゃいないさ。ただ、この二回を使わなきゃ、帰りでもう一つ壊れても退避点まで行ける」
燃料残量の表示を指した。
「最低残量ってのは、何も起きなきゃ足りる数字だ」
そこで終わるつもりだったが、次の受講者では故障後の速度が気になり、その次では救難艇への接近が早すぎた。機首を戻すのが半拍遅い、通信が切れたからといって元の航路へ戻ることばかり考えるな、と気になるところが次々に出てくる。
気づけばポプランは後ろの椅子へ戻らなくなっており、壁際のカリンは何も言わずにその様子を見ていた。
午後の後半は二艇一組の救難訓練だった。二艇とも遭難船へ急ぎすぎた組を止めると、ポプランは画面に残った航跡を指した。
「仲がいいのは結構だが、二艇で同じところへ突っ込むな。こいつまで動けなくなったら、救難船を呼ぶための救難船が要るぞ」
受講者の一人から、昔なら敵機にはどう接近したのかと訊かれた。
ポプランは画面を見たまま答えた。
「教えない。今日の教本にない」
意外そうな顔をされたので、そこでようやく相手を見た。
「おれだって人の国で仕事するときゃ規則くらい守る。驚くな」
講習は予定を四十分ほど超えた。
講習が終わっても、ポプランは記録画面の前に残っていた。操作がおぼつかない者には、まず機体を安定させること。経験のある者には、使える余裕を最後まで残すこと。航跡を見ながら、相手に合わせて言い方を変えている。
そのうち、次回の講習で使う故障設定まで覗き始めた。
「十八パターン? 故障ってのはもう少し想像力があるぞ」
初心者に複数の故障を同時に与えても、慌て方を見るだけの訓練になるので意図的に絞っているのだと聞くと、ポプランもそれ以上は言わなかった。
担当教官が、明後日も来られるかと訊いた。
「午前中は仕事を探す。午後なら来る」
少し離れたところからカリンが口を挟んだ。
「見学って何回まで?」
「金を取られるまでは見学だ」
「ずいぶん都合のいい規則ね」
「料金表にないものは払わない。運送屋の基本だ」
片づけを始めた受講者の一人が、教本を手に戻ってきた。
「ポプランさん。これ、初版を書いたの、あなたですよね」
〈傘の会〉の操艇講習で使われている『小型艇緊急運用教本』だった。
初版の執筆者欄には、オリビエ・ポプランの名が残っている。
「そうらしいな」
「サイン、もらえませんか」
ポプランは差し出された教本を見た。
「教材に落書きしていいのか?」
「著者ですから」
「二十年前のな」
そう言いながら扉に名前を書いて返すと、それを見ていた別の受講者まで教本を持ってきた。
「おい、増えるのか」
「お願いします」
「一冊目はサービスだ。二冊目から有料だぞ」
「いくらです?」
「いま考えてる」
何冊かに名前を書いているうち、ポプランは開いた教本の一頁で手を止めた。
「……まだここ、このままなのか」
担当教官が横から覗き込む。
「どこです?」
ポプランは『故障処理後は速やかに指定航路へ復帰する』とある一行を指した。
「今日の三人目、これを真面目に守って燃料を余計に使っただろ」
「初版からこの記述です」
「知ってる。おれが書いた」
ポプランは少し前まで映していた航跡へ目をやった。
「次から直せ」
担当教官が少し笑った。
「著者が言うんですか」
「二十年前のおれが書いたから言ってるんだ。間違ってるから直せ」
***
明後日、ポプランは開始時刻より二十分早く来た。
前回注意した若者は指定された三地点を回る課程で前より慎重に飛んだが、帰路に入ると遅れを取り戻そうとして速度を上げた。燃料は規定値を上回っている。
「ここは何で飛ばした。恋人でも待ってたか」
「いません」
「ならなおさら急ぐな」
ポプランは残量と最寄りの退避港までの距離を表示した。
「これでこの先もう一度航路が塞がったらどうなる?」
若者は画面を見たまま黙った。
「もう一回やれ。この数字じゃ、まだ帰ってきてない」
二度目は最初から速度を抑え、航路障害が表示されても遅れを取り戻そうとせず、退避港までの距離と燃料残量を確認してから迂回した。到着は一度目より七分遅くなったが、燃料にはかなり余裕が残っている。
課程達成の表示が出ても若者はすぐには席を立たず自分で残量と航跡を見比べてから振り返った。
「これなら?」
「今度は帰ってきたな」
講習後担当教官が次回の課程表を見せると、ポプランは通信途絶の設定を一つ直した。
「途中で一度通信を戻せ。何も分からないまま最後まで飛ばしたら勘のいい奴を褒める訓練になる」
その日の帰り、レーヴェンシュテルンの整備員から、置いてきた貨物艇の整備が終わったと連絡が来た。右舷の外板は元どおり閉じられ、いつでも飛ばせる状態になった船の写真まで添えられている。
『帝都に帰ってくるなら連絡しろ。来ないなら勝手に飛ばす』
『壊すなよ』
『普段のお前よりは丁寧に飛ばす』
端末をしまうと、少し先に昔と同じ名前の酒場の看板が見えた。二十年前と同じ店かどうかは分からないが、看板が残っているなら酒も少しくらい期待できる。
明日の午前中は貨物を扱う運航会社を何社か回ることにしていた。午後は空いている。その次の日には、また操艇講習へ顔を出すことになっている。
端末には、夕方届いたアッテンボローからの通信も残っていた。
『明日の夜は空けとけ』
店の名前と時刻だけが、その下に書いてある。
ポプランはまだ返事をしていなかったが、断る理由もなかった。
いつの間にか、数日先まで用事ができていた。
少し考えてからアッテンボローへ『酒はお前持ちだ』とだけ返し、今夜の夕食は目の前の店で済ませることにした。
ポプランは端末をしまい、昔と同じ名前の看板の方へ曲がった。
――「――残光を詠んでいるのさ」」
次回、『レイコ・クゼ』