後世、ローエングラム朝銀河帝国と神聖黄金樹教国の戦争を調べる者は、戦史の中に宇宙時代の戦争にはひどく似つかわしくない呼び名を見つけることになる。
〈灯読み〉
暗い書庫で灯をかざし、古い本を読む者を想像したなら、それは時代が違う。
何千年分もの記録が索引化され、戦争も飢餓も疫病も、滅びた都市の最後の通信さえ必要なら数秒で端末の上へ呼び出せる時代である。書庫に灯を当てる必要など、とうになかった。
それでも、その時代の人々は彼らをそう呼んだ。
彼らが探したのは文字そのものではない。
過去を生きた人間が判断を誤り、逃げ遅れ、殺し合い、ときには辛うじて生き延びたあとに残した微かな光だった。
未来を言い当てる者たちではない。
いま目の前で起きていることが、人類にとって本当に初めてのことなのか。それを確かめる者たちだった。
バーラト自治政府から与えられた正式な名称は『危機事例分析官』であった。
だが後には、旧同盟系の将兵からは同盟公用語で『エンバーリーダー(Ember Reader)』、帝国軍人からは帝国公用語で『リヒトレーザー(Lichtleser)』と呼ばれるようになる。
呼び方は違っていたが、指しているものは同じだった。
彼らはいったい何を読む者なのか。そう尋ねられたある軍人は、こう答えたという。
「――残光を詠んでいるのさ」
それからいつしか、彼らにはもう一つの呼び名がついた。
〈灯読み〉。
もっとも、開戦当時にはそのどの名も存在していない。
そもそも『危機事例分析官』という職種そのものがまだなかった。
レイコ・クゼは、自分がその最初の一人になるとは知らなかった。
彼女にとって差し迫った問題は、人類史の過去や未来などではなく、四月から給料が出なくなることだった。
***
【新帝国暦二十四年一月 バーラト自治政府ハイネセン ハイネセン記念大学】
「廃止という言い方は正確じゃないんだ」
研究科長はそう言って翌年度の予算案を表示した端末をレイコの方へ押した。
前宇宙期史研究部門そのものがなくなるわけではない。資料と研究機能は近現代政治史や社会史との共同枠へ移されて図書館の利用資格も維持される。ただしその中にあった前宇宙期戦争史の任期付き研究員一名分の給与枠だけが消える。
その一名がレイコ・クゼだった。
ハイネセン記念大学で前宇宙期戦争史を研究している。
専門は前宇宙期、つまり西暦時代の宗教戦争と包囲戦で、国家同士の勝敗よりも、包囲された都市で食糧配給がいつ崩れたか、住民がどの段階で行政を信用しなくなったか、降伏を決めた者がその時点で何を知っていたかといったことを好んで調べていた。
講義や演習もいくつか受け持っているが専任教員ではない。論文の評価は悪くなく、研究科長も仕事ぶりを買っていたものの、大学で恒久的な席を得るには専門がいささか古く、狭すぎた。本人はそのことをあまり気にしていなかった。調べたいことがあり、書庫が使えて、その結果として生活できるだけの給与が出るなら、それでよかったのである。
性格も研究の仕方によく似ていた。分からないことを分かったとは言わず、例外があれば例外として残す。
結論を急ぐより条件を一つ増やす方を好み、そのせいで論文の注釈も学生への回答も長くなりがちだった。
研究者としては長所だった。
少なくとも、この日までは。
「研究は続けられる。君の専門までなくすつもりはない」
「お給料の出る席はなくなるんですね」
「そうなる」
レイコは予算案をもう一度見た。医学系には戦傷治療、工学系には通信と輸送、社会政策系には避難民受入れと非常時行政の研究枠が増えている。戦争が始まった以上、二千年以上前の地球の宗教戦争で包囲都市が井戸を失った順番を調べる研究より、いま負傷している人間を治し、逃げる人間を運ぶ研究へ金を回すのは理解できた。
事情は理解できた。だが理解はできても家賃は払えなくなる。
「いつまでお給料は出ますか」
研究科長は少し間を置いて三月末までだと答えた。レイコは二月と三月が満額支給されることを確かめると頷いた。
「クゼ君。もう少し怒ってもいいんだぞ」
「何にですか」
「……大学に、とかだ」
大学が戦争を始めたわけではないし、目の前の研究科長が自分の給与を医療へ付け替えたわけでもない。考えてみたが特に怒る相手は思いつかなかった。
その答えに研究科長は困ったような顔をして、今年度分の講義は予定どおり頼むこと、必要なら紹介状はいくらでも書くことを告げた。
ありがたい話ではあった。
ただし、紹介状を持っていく先がなかった。前宇宙期の宗教戦争と包囲戦を専門にする研究者の席など、ハイネセン記念大学以外には平時でさえそうはない。戦時中ならなおさらだった。
レイコは礼を言って立ち上がって扉へ向かいかけてから振り返った。
「研究室は三月末まで使えますか」
「使える」
「よかったです」
研究科長は、今度こそ出ていく彼女をしばらく見送った。
***
その日の夕方、レイコは研究室の端末で求人を探した。
もともと史学系の常勤職は多くない。
経済史や法制史なら行政や企業にも受け皿があったが、彼女の専門は前宇宙期戦争史、とりわけ宗教戦争と包囲戦である。
西暦時代中世の地球の都市が降伏するまでに何日かかり食糧が尽きるより前にどの制度が壊れたかを知りたがる雇用主はその日の求人欄には見当たらなかった。
大学の募集を二件見つけたものの、一つは専門が違い、一つは半年だけの代替要員だった。
研究職という条件を外し、教育、公務、資料調査まで範囲を広げたところで、バーラト自治政府が数か月前から始めたという、全日制教育課程の追加募集が出てきた。
『バーラト星系市民 安全互助隊附属教育課程』
最初に大きく書かれていた「軍人養成を目的とするものではない」という説明はほとんど読み飛ばしたが、その下に並んだ条件で指が止まった。
『全日制。希望者は入寮可。在籍期間中は生活補助を支給』
レイコはまず生活補助の金額を開いた。次に寮費はかからないことを確認した。
そこで初めて募集要項を最初から読み直した。
標準修業年限は四年。ただし大学での履修歴や専門資格、実務経験については能力認定があり既修得分の履修を免除する。制服も武器もなく修了後に軍務や行政機関への就職を義務づける規定もない。
災害救援、避難輸送、通信、医療補助、物資管理などの募集分野に混じって『危機事例分析分野』という見慣れない名称があった。
過去の災害、戦争、行政機能停止、物流崩壊、占領、暴動その他の危機事例を用いて現場責任者の判断に必要となる情報を分析し、限られた時間内に提示する能力を養成する。応募資格の例には歴史学、社会学、政治学、行政学などが挙げられていた。
何をする人間を育てたいのかはよく分からない。ただ自分の専門が応募資格から外れておらず、合格して入学すれば四月以降も住む場所には困らないことはわかった。
レイコは募集要項を保存した。
帰宅すると朝に淹れた茶が机の上に残っていた。流しへ持っていく途中で昨日の茶も見つけ、そのとき洗濯乾燥機が止まっていることに気づいた。扉を開けると、中の衣類には赤い染みが点々と広がっていた。講義の採点に使った赤ペンを上着のポケットへ入れたまま回してしまったらしい。
レイコは一枚ずつ確認した。
濃い色の服は着られる。白いものは無理だった。
被害のトリアージを終えたところで、まだ夕食を食べていないことに気づいた。
冷蔵庫には卵が二個と、少し萎びて、何の野菜だったか一瞬考える程度には色の変わった野菜があった。
レイコはしばらく眺めたあと、まだ食べられると判断した。
カップ麺の中身を耐熱容器へ移し、野菜を適当にちぎって放り込み、卵を割って水を入れる。そのまま電子レンジへ押し込んだ。
加熱時間は考えなかった。
端末に戻り、生活補助の額が変わっていないことをもう一度確かめて応募画面を開いた。
***
一週間後、レイコは面接会場の洗面所で髪を束ね直した。
肩より少し下まである黒髪は研究室にいるときと同じように後ろで簡単にまとめた。服も新しくは買わず手持ちの中から皺のない濃色のものを選んでいる。
鏡の中には黒い瞳と白い肌をした細身の女がいた。
長く書庫と研究室を往復してきたため日焼けする機会が少なく、化粧も必要な程度しかしないので第一印象は地味だったが、顔立ちそのものは端正だった。
本人もそれくらいは知っている。
だからといって朝の時間を余計に使う理由にはならない。
髪が落ちてこないことを確かめると、鏡から離れた。
面接では経歴や研究分野についていくつか訊かれたあと、志望理由を求められた。
「生活補助が出て、寮に入れば家賃もかからないからです」
三人いた面接官の一人が顔を上げた。
「……それだけですか」
「かなり重要です」
レイコは少し考えてから付け加えた。
「研究を完全にやめなくても済みそうだというのもあります」
危機事例分析そのものへの関心を訊かれると、レイコは「あります」と答えたうえで募集要項を読んでも実際に何をする人を育てるのかはよく分からなかったと付け加えた。
右端にいた女性が笑いをこらえるような顔で説明した。
「まだ、そういう職業があるわけではありません。あくまで教育分野です」
「そうですか」
「がっかりしました?」
「いいえ。生活補助は予定どおり出ますか」
今度は女性も笑った。
「出ます」
筆記試験では名前も年代も伏せられた一つの都市について、人口、食糧備蓄、水源、守備兵力、避難民の流入、周辺勢力との関係、市政内部の対立をまとめた資料が与えられた。記録は危機の途中で切れており、その後どうなったかは示されていない。
設問は一つだけだった。
〈提示された危機状況に関連する過去事例を挙げ、現地責任者に伝えるべき事項を百語以内で記せ。〉
レイコはすぐに一つ目の類例を思い浮かべたが人口規模が違う。二つ目は水源条件が近いものの包囲側の政治目的が異なり、三つ目まで使えば比較は安定するが今度は史料自体の信頼性について留保が必要になる。反証となる事例も一件入れた方がよい。
それらを書いているうちに、監督員がレイコの横で足を止めた。
画面を見て、設問を見て、もう一度画面を見る。
「クゼさん」
「はい」
「念のため確認しますが、あなたの母語は同盟公用語ですよね」
「はい」
「問題文に書いてある『百語以内』とは、同盟公用語の単語で百語以内という意味です」
「はい」
「いま何語ありますか」
レイコが表示を確認すると、八百七十三語だった。
「八百七十三語です」
監督員はしばらく黙った。
「……百語ですよ」
「分かっています。重要な条件差がありますので」
試験中でなければ何か言われたかもしれない。監督員は諦めたように離れた。レイコは思い出した留保条件をもう一つ加えた。
***
レイコの答案は採点者を困らせた。
内容だけなら最上位だった。挙げた事例も条件差の指摘も、史料そのものへの疑い方も正しい。
一方で百語という指示への達成度は、零だった。
答案は新設した危機事例分析分野の採点基準を確認する資料としてクブルスリーへ回された。
彼は八百七十三語を最後まで読んだあと、知識の量と情報の選別と制限時間内の伝達を別々に評価するよう基準を直せと指示した。
「この応募者はどうします」
「それを私に決めさせるな。私は面接官ではない」
クブルスリーは答案を端末の端へ戻した。
「基準を直して全員を採点し直せ。その上で入るなら入れればいい。一人だけ特別だった、では制度にならん」
レイコは改めて算出された総合点で合格した。
本人がそのやり取りを知るのはずっと後のことである。
***
四月に始まった最初の授業には二十人あまりが集まった。
自治体の防災部門にいた者、物流会社で輸送管理をしていた者、病院勤務の経験者、統計を専門にしてきた者など経歴はばらばらで、歴史学だけを長くやってきたのは自己紹介を聞いた限りではレイコ一人だった。
教室へ入ってきた課程長のクブルスリーを見て何人かが姿勢を正した。
「ここでは正解を教えるつもりはない。正解が分かっているなら危機ではないからだ」
穏やかな声でそう言うと、彼は最初の教材を配った。
ある惑星都市で起きた大規模火災。出火から十二分、避難路は三本あり、そのうち一本で煙が確認された。消防隊はまだ到着せず、現場責任者は二百人余りの避難者がどの区画にいるか完全には把握できていない。結末は伏せられて資料はそこで止まっている。
「続きを知っている者も忘れろ。いま与えられた情報だけで、責任者に何を伝えるか。六十語以内で回答しろ」
受講者たちが端末へ向かった。
火災そのものは専門外でも一部の安全性が確認できない複数経路へ人員を分散させる問題なら、包囲都市からの撤収や宗教騒乱時の群衆避難に比較できる事例がある。
レイコが書き始めようとしたところでクブルスリーがこちらを見た。
「レイコ・クゼ。入学選考で百語を八百七十三語にしたのは君か」
「はい」
「そうか」
それだけ言って別の席へ歩いていく。
レイコは六十語の入力欄を見た。初日から嫌な予感がした。
制限時間が終わると、クブルスリーは全員の回答を回収した。いくつかを順に取り上げ、何を残して何を捨てたのかを本人に説明させていく。
やがてレイコの答案が表示された。
七百五十二語あった。
教室の何人かが画面を見上げた。
「クゼ。説明してみろ」
レイコは人口規模の差、包囲側の目的の違い、史料の信頼性、反証事例の必要性まで、一つずつ理由を説明した。
クブルスリーは途中で止めず、最後まで聞いてから答えた。
「君の言っていることは間違っていない。問題はそこではない」
「六十語では留保条件が落ちます」
「落とせ。全部ではない。責任者がいま間違えると取り返しのつかないものだけ残せ」
「どれが取り返しのつかないものか、結果を見なければ分からない場合があります」
「だから結果を隠してある」
クブルスリーは答案を指した。
「火事場の責任者に七百五十二語読ませる気か。家が燃えている。人も逃げている。その横で消防士だけが端末を持って『なるほど。次の留保条件は、学説の対立は』と君の文章を読んでいる。そんな現場があるか」
短くすれば誤解されるとレイコが言うと、「長くても誤解される」と返された。
「読む時間も条件の一つだ。三十秒しかない者には三十秒で渡せ。十分後に完璧な説明が届いても、九分前に決断が終わっていれば役には立たん」
研究会や学会なら七百五十二語はむしろ短い。そう思いながら画面を見るレイコに、クブルスリーは続けた。
「削ることを知識を捨てることだと思うな。相手が何を決めるために聞いているのかを選べ。残りは後から渡せばいい」
「区別する基準は?」
「ここはそれを学ぶところだ」
そこで初めてレイコは、この課程が何を教えようとしているのか少し分かった。
***
クブルスリーは彼女だけに特別な課題を出さなかった。
豪雨による河川氾濫、病院の非常電源停止、港湾封鎖下での食糧配給、定員を超えた避難船、二人の行政責任者が互いの命令を無効だと主張する状況。すべて他の受講者と同じ条件で解かされ、最初のうちレイコは六十語の課題に七百語以上、百語の課題に八百語以上を書いた。口頭で一分と言われれば十分を越えた。
それでも削ってよいものと削ってはいけないものが同じではないことを少しずつ覚えた。
年代や固有名詞は落とせる。学会では原因について争いがあってもいまの判断に関係しないなら後回しにできる。一方、現在と過去で条件が違うことは結論を左右するなら残さなければならない。
類例が三つあっても一つとして使えないなら無理に答えを作る必要もなかった。
ある日の演習で「使用できる類例はありません」と答えたレイコにクブルスリーはそれも成果だと言った。
「何も助言していません」
「知らんのに助言するよりいい」
別の日、避難事例の説明を始めたところで止められた。
「で、責任者は何を間違えそうなんだ」
レイコはしばらく考えて事例名も年代も出さずに答えた。
「避難者を一つの集団として扱うことです。自力で移動できる人と、できない人を分けないと輸送が先に詰まります」
「そこから言え。根拠は訊かれたら出せ」
授業の終わりに見直すと、指定語数内だった。
大学の研究室は三月末に返したが、図書館の利用資格は残った。課程が始まってからも週に何度か大学へ戻って古い前宇宙期の包囲戦の記録を読んだ。
以前と違うのは勝敗や原因だけでなくその場の責任者がいつ何を知り、どの時点で選択肢を失ったのかを見るようになったことだった。研究そのものを捨てたわけではない。古い史料の中に現在へ返せる問いがあることを知っただけである。
生活の方はあまり改善しなかった。授業と研究を両立させるうちに食事を抜くことが増え、ある日とうとう講義の途中で倒れて医務室へ運ばれた。診察した医師に前日の食事を訊かれ、レイコは少し考えた。
「朝にコーヒーを一杯」
「それは食事じゃない」
「昼は忘れました」
「夕食は」
「食べていません。ただ翌日に二食分食べれば平均は合うかと」
医師はしばらく黙ってから「人は平均で食べない」と叱った。
それでも生活補助は毎月入り、研究を続けられた。
倒れた原因は課程ではなく、本人の生活能力にあった。
***
それから六年後。
【新帝国暦三十年一月 ガンダルヴァ星域 帝国軍右翼後方】
帝国軍の各司令部には、バーラト自治防衛軍から共同作戦のため派遣された『危機事例分析官』の『セル』が分散していた。
セルは三人一組を基本とする。主任が問題を分類し、現況担当がいま起きている事実を整理し、史料担当が後方の資料班とつなぐ。
全員が歴史学者であるわけではなく、扱う分野も同じではない。
帝国軍人は、彼らを『
アイゼンベルク分艦隊の旗艦には、主任分析官であるレイコ・クゼ中佐のセルが置かれていた。
同じ課程を経た分析官たちは、ほかの帝国艦司令部にも分乗している。輸送要員の勤務限界を見る者もいれば、教国の宣伝がどの条件で広がるかを追う者もいた。
中央予備にはジュガ・ジンホン中佐がいた。
彼が見ていたのは敵軍内部の命令系統である。第四聖団内に生じた不一致を、ただちに離反や内紛の兆候と解釈しないよう進言していた。
彼らに命令権はない。
交代要員を動かすのも、宣伝への対応を決めるのも、敵軍の不一致をどう利用するかを判断するのも、それぞれの帝国軍指揮官だった。
同じ〈灯読み〉と呼ばれていても、見ているものは違う。
輸送の限界を読む者もいる。流言が増幅する条件を見る者もいる。軍隊がいつ政治勢力へ変わるのかを追う者もいれば、西暦時代の包囲戦と宗教戦争ばかりを何年も読んできた者もいた。
未来を知る者は一人もいない。
だからこそ、複数の過去を持ち寄った。
バーラト自治防衛軍の艦に乗らず、帝国艦にいるからといって彼女たちが帝国軍人になったわけではない。
軍籍も指揮権もバーラト側に残したまま、共同作戦に必要な期間だけ帝国軍の指揮所へ派遣される。
かつて自前の艦を持たなかった時代に始まった奇妙な共同勤務は、バーラト自身が艦隊を持つようになっても形を変えて残っていた。
艦橋の端で低い鐘が一度鳴った。
「光電徴候」
光電徴候席からすぐに応答が返った。
「第四聖団正面二群、祈燈増光。祈鐘も確認」
「補正後は」
「〈フリアエ〉が八秒先行しています」
「前回との差は」
「軽微です。意図は判定できません」
「了解。監視継続」
そこで別の声が上がった。
「敵第四聖団、速度上昇!」
主表示の右翼後方に赤い光点が広がり、艦橋の空気が変わった。
「〈フリアエ〉艦隊、正面へ展開。〈ディス〉艦隊は右翼寄りに回頭。敵艦数、約二万!」
こちらのアイゼンベルク分艦隊は寡兵である。参謀が中央への増援要請を問うと、分艦隊司令のハインリヒ・フォン・アイゼンベルク准将は即座に首を振った。
「要らん。陽動だ」
「この兵力でですか」
「この兵力だからだ。中央の増援をこちらへ引けば、それで敵の仕事は済む」
レイコは教国軍第四聖団の識別情報を開いた。
〈ディス〉艦隊と〈フリアエ〉艦隊について説明できることはいくらでもある。どのように兵を集め、どの教理で死を意味づけ、過去の会戦でどれほどの損害を許容してきたか。前宇宙期にも、自らの損耗を作戦上の失敗と見なさない軍隊の例は残っている。
だが、いま必要なのはそれではなかった。
前衛から報告が上がった。
「〈フリアエ〉艦隊、損耗一割を突破!ですが退きません。なお加速して接近!」
被弾して炎を噴く艦まで、艦首を帝国軍へ向けたまま突っ込んでくる。
「損傷艦も突入を継続!旗艦に突っ込んできます!」
参謀が表示を見て呟いた。
「〈フリアエ〉の艦隊司令はテオドール・ハーゲンだったな。あの自分の命まで勘定に入れない復讐の鬼か。陽動で、なぜここまで損耗を許す。復讐に呑まれたか」
ハインリヒがレイコへ視線を向けた。
「クゼ中佐。あれはハーゲンの暴走か。それとも第四聖団の作戦か。六十秒で頼む」
「はい」
問いが絞れれば、探す範囲も狭くなる。
レイコは第四聖団の実戦記録から〈フリアエ〉の参加戦を抜き、その中からハーゲン指揮下の戦闘を拾った。さらに〈ディス〉と同時に投入されたものだけを残し、損耗率と離脱時刻、そのときの〈ディス〉の位置を重ねていく。
一割で退いた例はない。二割でもない。最大の一戦では三割を超えてなお前進していた。
その戦闘で〈フリアエ〉が後退したのは、損害が増えたときではない。
〈ディス〉が敵側面への機動を終えたあとだった。
「どうだ」
「閣下。作戦の可能性が高いです」
参謀がレイコを見た。
「……復讐に呑まれているわけではない?これが正常だというのか?」
「少なくとも、ハーゲン指揮下ではそうです」
レイコは三件の戦闘記録を主表示の脇へ出した。
「〈フリアエ〉艦隊が、損害を理由に攻撃を中止した例は確認できません。撤退した戦闘ではいずれも先に別の条件が成立しています」
「別の条件?」
「〈ディス〉艦隊の機動完了です」
右翼に展開する赤い光点へ線を重ねる。
「〈フリアエ〉が正面から敵を拘束している間に、〈ディス〉が外側へ回る。相手が増援を入れれば増援ごと拘束する。入れなくても、その場に留まれば〈ディス〉に側面を取られる」
ハインリヒの目が細くなった。
「陽動は半分だけか」
「はい。増援を引き出せれば敵の成功です。でも、引き出せなかったからといって失敗する作戦でもありません」
レイコは〈フリアエ〉艦隊の損耗表示を消した。
「この艦隊に対して、何割まで削れば退くという判断は危険です。少なくとも記録上、撤退条件は自分たちの損害ではありません」
ハインリヒは数秒だけ戦域図を見た。
「なるほどな。増援を寄越せば釣れる。寄越さなければ俺たちをここへ縫いつける」
「その可能性が高いです」
「だったら、どっちもやらん」
ハインリヒは指揮卓へ身を寄せた。
「増援は無用。全艦、左前方へ斜行。〈フリアエ〉を引っぱるぞ。〈ディス〉との間を開かせろ」
さらに彼は通信士官へ向き直った。
「中央の皇帝陛下へ通信だ。『陽動ごときに余計な増援は無用。我が分艦隊のみにて防ぎきってご覧に入れる。皇帝陛下におかれてはなにとぞ死神めにご専心を』」
通信士官は入力する手を止めた。
「閣下。皇帝陛下からまだ増援の打診は来ておりませんが」
「だから今のうちに伝える。こちらは持つ。主力を割く必要はない」
「しかし陛下が増援を必要と判断された場合は」
「それは陛下の仕事だ」
通信士官は一礼し、復唱してから通信を送った。
その直後、別の回線から入電が入った。
「入電。バーラト自治防衛軍、宇宙艦隊、アッテンボロー司令長官麾下の二個艦隊、約二万。左翼側面宙域への展開を完了。味方識別、登録名は……『第十三艦隊』となっております」
通信士官の報告に艦橋の何人かが表示を見た。
「第十三艦隊か」
ハインリヒの口元がわずかに緩んだ。
「なるほど。名前ではなく、番号を継いだか」
傍らのレイコが小さく息を吐いた。
「もう……あの人たち、またそういうことを」
「悪くない趣味だ」
「閣下まで乗らないでください」
ハインリヒは戦域図へ視線を戻した。
「クゼ中佐。貴官たちの艦隊も間に合ったな」
「正確には私たちは第十三艦隊の要員ではありません。自治防衛軍から帝国軍との共同作戦へ派遣されている専門士官です。前はポプラン司令の空戦隊も、クロイツェル司令の混成地上群も帝国艦へ分乗してましたが、それと同じです」
「その通りだ。言葉が粗かった」
レイコは少しだけハインリヒを見た。
「珍しいですね」
「何がだ」
「アイゼンベルク閣下が用語を雑に使うのが」
「雑ではない。会話上の省略だ」
「そういうことにしておきます」
ハインリヒはそこで一度だけ横を見た。
「では言い直す。故郷の艦隊が来たな」
レイコも左翼へ加わった二万の味方表示を再び見た。
「はい、少し安心してます」
レイコは少し待ってから言った。
「……ところで閣下。少し、気合が入っていませんか」
「何の話だ」
「陛下への通信です。いつもより格好をつけていました」
「気のせいだ」
次の被害報告が入り、二人とも正面へ戻った。
――「あなた、こいつに会うために来たんでしょう」
次回、『ユリアン、フレデリカ、キャゼルヌ』
※ 最後の場面は、序章で描いたガンダルヴァ星域の会戦(新帝国暦三十年一月)を、ハインリヒ視点から見たものです。