後年になってからも、マーロヴィアからジャムシードを経て帝都へ戻るまでの二週間ほどのことを僕はよく思い出した。
戦争全体から見れば短い時間だった。
だがあの二週間は、場所も、交わした言葉も、妙に鮮明に残っている。
僕たち五人が四人になったあと。
初めてそれぞれの歩き方を決めた時間だったからだろう。
***
【新帝国暦二十三年十二月末 ジャムシード星系惑星タフテ・ジャムシード軌道上軍港 アレク】
「余は健在である」
神聖黄金樹教国の建国の日の敗戦から四日後、僕たちはようやくジャムシード星系、惑星タフテ・ジャムシード軌道上の帝国軍港へたどり着いた。
放送原稿は、皇帝府の随員と軍務省の広報担当がまとめたものだった。
その原稿の一行を僕は五度読んだ。
別に難しい文章ではない。
意味を取り違える余地もなければ、事実として間違っているところもない。
たしかに僕は生きていた。
大きな負傷もなく、歩行にも執務にも支障はない。
皇帝としてすべきことも、これまでどおりできる。
だからその一文を読み上げることに何の問題もないはずだった。
それでも、五度読んだ。
惑星タフテ・ジャムシードの軌道上軍港の臨時放送施設は本来、星系総督府が災害時などの緊急放送に使うためのものだった。
壁も机も飾り気がなく、正面には撮影機と原稿表示用の小さな投影板が置かれている。
僕の背後には帝国旗が一枚だけ立てられていた。
映像に余計なものが入らないよう、軍務省の担当者がさっきから何度も位置を直している。
通信担当者によれば、ここで撮った映像は帝国全域の公共回線へ流され、同時に軍用回線にも中継される。旧同盟領でも、バーラトでも、そして教国の勢力圏内でも見ることができるという。
銀河中へ自分がまだ生きていることを知らせる。
考えてみれば妙な仕事だった。
今朝も僕は食事を取り、昨夜は三時間ほど眠った。
本来なら、そんなことは僕自身と侍従、それに医官くらいにしか関係がない。
ところが皇帝という地位にいると、心臓が動いているというだけで軍事情報になり、政治情報になり、ときには市場まで動かすそうだ。
父は、そういうことまで当然のものとして受け入れていたのだろうか。
そこまで考えて僕はもう一度原稿へ目を落とした。
余は健在である。
嘘ではない。
ただ、トビアス・ブリュックナーはもういなかった
「陛下、あと三分です」
係官に声をかけられて顔を上げた。
「分かった」
返事をすると、少し離れた場所にいたフェリックスが僕の顔を眺めた。
建国戦の日からまともに眠っていないらしく、軍服の襟元にはいつもよりわずかな乱れがあった。
「よし、顔色は悪くねえな。銀河中にツラ見せても詐欺広告にはならなそうだ」
「フェリックス、一体何を確認している」
「商品と広告の一致だよ」
「……僕は商品か」
僕が笑うとフェリックスも笑った。
最近のあいつは以前よりよく笑うようになっていた。
少なくとも僕の前ではそうだった。
食事を残せば文句を言い、端末を長く見ていれば取り上げようとし、医官が睡眠時間を増やせと言えば医官の側について僕を責めた。
もともと明るい男だ。
知らない人間が見れば以前と変わらないと思ったかもしれない。
ただ、目が妙に据わっていた。
話をしているあいだも多分頭のどこかで別のことを考えている。
何かを待っている人間というより、立ち止まれずに休まず何かを探し続けている人間の目だった。
理由は僕もなんとなくわかった。
トビアスのことだけではない。
リディア・ハルランダー中尉。
最後に彼女の所在が確認されたのは、惑星ルドミラの第三十四中継港だった。
建国の日、ルドミラの帝国軍地上基地は教国軍の陸戦部隊に制圧された。
それでも彼女は中継港に残り、医療船や避難船、それに民間船の入出港管制を続けていた。軍の管制要員はすでにかなり引き揚げ、彼女のように軍用と民間、救難の各回線をまとめて扱える士官も少なくなっていた。
何度も撤収命令が出ていた。
だが、彼女は結局それに従わなかった。
代わりが来たら出る。来るまでは自分が次の船を通す。
彼女としては、そういうつもりだったらしい。
その後、ロフォーテン星域で大規模な艦隊戦が発生した。
その際にワーレン元帥からも撤収が命じられていた。
戦闘ののち、第三十四中継港も教国軍に接収され、リディア・ハルランダー中尉は消息不明になった。
フェリックス自身から聞いたわけではない。
結局あいつは僕には何も言ってこなかったし、僕も訊かなかった。
ただ、軍用通信網への照会履歴を見れば、何を気にしているのかは分かった。
ルドミラ第三十四中継港の当直記録、ルドミラ方面へ向かう交代要員の派遣状況、避難船や医療船の発着記録、救難回線の通信状況。
フェリックスは、思いつく限りの場所から彼女の状況を確かめ続けていた。
本人は僕に隠しているつもりだったのかもしれない。皇帝というのは、友人の隠し事まで報告書で知れてしまうという意味では、あまり趣味のよくない職業だった。
僕たちはリディアのことをまだ詳しく話したことがなかった。
フェリックス自身も、まだ何かをはっきり決めていたわけではないのだと思う。
それでも彼女がもう、あいつにとって単なる知人ではないことくらいは、さすがに僕も分かった。
少し離れたところでは、クラインが放送原稿の最終版を確認していた。
表情はいつもとほとんど変わらない。
三十分ほど前にも「この箇所は確認済みの事実ですか」と担当官に訊き、裏の取れなかった一文を削らせている。良くも悪くも、クラインはクラインだった。
ハインリヒもいた。
僕がそちらを見ると、向こうも気づいて一礼した。
最近、ハインリヒは僕の私室へ来なくなった。
もともと用事もなく部屋に来るような男ではない。
それでも以前なら、何日か姿を見せないとトビアスが勝手に呼びに行った。
仕事があるとハインリヒが断っても、
「実家から菓子が届いたぞ、配給だ。断る権利はねえ」
などと、理由になっているのか分からないことを言って連れてきた。
ハインリヒも面倒そうな顔をしながら、結局はついてきた。
そうやって輪の中へ無理やり人を引っ張り込む男は、もういなかった。
「陛下」
係官にもう一度呼ばれた。僕は原稿を置き、正面を向いた。表示灯が変わった。
***
「銀河帝国皇帝、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムである」
放送が始まった。最初の一文を口にすると不思議なくらい迷いは消えた。
「余は健在である。現在、帝都への帰途にあり、皇帝としての職務を通常どおり遂行している。神聖黄金樹教国を僭称する新興の叛徒らは、余を討つことに失敗した」
そこから先は確認されたことだけを話した。
帝国政府の統治機構は機能している。
軍の指揮系統も維持されている。
これより帝都へ帰還し軍務・民政双方の対応を直接指揮する。
戦況については、確認できていないことを話さなかった。
帝国は必ず勝つ、とも言わなかった。
僕にはまだこの戦争がどのような形を取るのか分かっていなかったからだ。
分からないことまで断言するつもりはなかった。
皇帝の言葉は一度口にすればあとから知らなかったでは済まない。
ただ一つだけ。原稿より長く話した箇所があった。
「帝国内に居住する者に対し、その出身地、信仰、旧国籍、あるいは教国との縁故を理由として、私的な制裁や暴力を加えることを厳に禁ずる。罪の有無を定め、処罰するのは法に基づく国家の権限に属する。帝国臣民は平静を保たれたい」
そこまで言って最後にもう一度、帝都へ帰還することを告げた。
放送終了を示す灯が消えると胸の奥に残っていた息がようやく抜けた。
帝国臣民を安心させるための放送だったのに、終わっていちばん安堵しているのが自分なのは少し妙だった。
「短かったな」
フェリックスが言った。
「僕の生存を知らせるための放送だ。長くする必要はない」
「もう少し、『帝国臣民よ、悪逆の徒を討つため余は帰還した。正義は我らにあり。立てよ臣民!余に続け!』とか言うのかと思ったぞ」
「誰がそんなことを言うか!」
少し離れたところで原稿を閉じたクラインが、顔も上げずに言った。
「ミッターマイヤー中尉。陛下をあなたの思考水準まで引き下げないでください」
「クライン。今、さらっと俺を馬鹿にしたな」
「さらっと、ではありません。明確に申し上げました」
「もっと悪いじゃねえか!」
二人のやり取りを聞いて、僕はいつものように笑った。
けれど笑い終えたあと、そこに一人分の声が足りないことにも気づいた。
以前ならトビアスが一番最初に何か余計なことを言っていたはずだった。
そのことを考えないようにして、僕は放送室を出た。
***
ジャムシードを離れてから二日目。
帝都への帰路、僕はトビアスの仕事を調べることにした。
死に方を確かめたかったわけではない。
あの夜何が起きたのかは通信越しに見ていたし、旧航路の回廊結節点にトビアスが最後まで残った理由も分かっている。
僕が知りたかったのはその前だった。
夕食のあと、フェリックスとクラインとハインリヒを私室へ呼んだ。
以前は五人で座っていた机に四人で座ると思っていたより広かった。
「トビアスの件を調べる」
フェリックスが顔を上げた。
「何をだ」
「どうしてトビアスは旧第七採掘航路を逃げ道に選べたのか。開戦前からあの航路を見ていたのかもしれない」
クラインの目がわずかに動いた。
「報告書のことですか」
「何?何の報告書だ?僕は知らないぞ」
今度は三人とも黙った。
フェリックスが最初に口を開いた。
「……開戦の前、あいつは燃料のことで騒いでた。北西辺境の補給港で高純度燃料の備蓄が増えてるって」
僕はフェリックスを見て、それからクラインとハインリヒを見た。
「お前たち、皆知っていたのか」
「はい、陛下」
ハインリヒが答えた。
クラインもうなずいた。
「ブリュックナー中尉は開戦前、北西辺境の複数の港で高純度燃料の備蓄が不自然に増えていることを報告していました」
「燃料の備蓄?どういうことだ?」
「はい。購入主体は複数の企業や団体に分散しており、一件ごとの取引にも違法性はありません。ただ、各港の備蓄を航路順に並べると、数千隻規模の艦隊が北西辺境を継続して移動するための補給線として利用できる、と彼は分析していました」
クラインは少し間を置いた。
「敵対主体を特定した報告ではありません。何者かが意図して備蓄している可能性を、物流上の異常として警告したものです。報告書は軍務省へ正式に提出され、審査も受けています。ブリュックナー中尉からは軍務省の審査結果も送られてきました」
「俺にも来た」
フェリックスが言った。
しばらく言葉が出なかった。
「……受け取っていなかったのは、僕だけか」
誰も否定しなかった。
クラインが端末から文書を呼び出した。
提出者は軍務省輸送管制局北西辺境航路監査班、トビアス・ブリュックナー中尉。
読み始めて、すぐに分かった。
トビアスは「敵艦隊が来る」とは断定していない。
確認済み事実として、各港の備蓄増加、企業別購入量、航路上の間隔、燃料規格、港湾処理能力を並べ、そのうえで、それらの備蓄を連続して利用すれば艦隊の補給線として機能し得る、と推定の項に書いていた。
航路の順に並べれば、高純度燃料の備蓄が主要航路に沿って一定の間隔で増えていた。
添付された燃料分布図の中には、一本だけほとんど燃料備蓄がなく、白いまま残っている線があった。旧第七採掘航路だった。
「トビアスは、巡察出発前の時点でもうこの航路を見ていたのか」
「はい」
クラインが答えた。
僕はもう一度、赤い点の列と、その中に一本だけ残った白い線を見た。
急に腹が立った。
「軍務省は何をしていた!」
三人とも答えなかった。
「トビアスは報告したんだろう。数千隻の艦隊の補給線として使える燃料が、北西辺境に沿って並んでいると。なら、なぜ巡察任務を中止しなかった!」
声が思ったより強くなった。
「中止できなかったとしても、少なくとも僕へ報告を上げるべきだった。僕は何も聞いていないぞ!」
クラインが僕を見た。
「陛下。軍務省は何もしていなかったわけではありません」
その返事にさらに腹が立った。
「では、なぜ巡察を止めなかった!」
「止めるだけの根拠がなかったからです」
クラインの声は変わらなかった。
「燃料は合法に購入されていました。敵がいる証拠も、軍事行動を準備している証拠もありません。巡察日程を変更すれば、複数星系の受け入れ、警備、輸送計画をすべて組み直す必要があります」
クラインは一度、表示された決裁記録へ目を落とした。
「それだけではありません。皇帝巡察の中止は、辺境情勢に重大な危険があると帝国政府自身が認めたのと同じ意味を持ちます。確証のない情報だけで変更すれば、住民の不安を煽り、地方政府や市場にも影響が出ます。敵対勢力に対しても、帝国が北西辺境の安定に自信を失ったと受け取られかねません」
「その結果がこれだ。トビアスが死んだ」
クラインは一瞬だけ黙った。
「はい。ですが、それは結果を知っているから言えることです」
返す言葉がなかった。
クラインは最後の文書を表示した。
各部署の審査結果をまとめた決裁票の末尾に、赤い文字が二行だけ残っていた。
『所見なし
既存監視を継続』
「……担当者の結論が、それか」
「いいえ、陛下。その表現は正確ではありません。担当者だけの結論ではありません。いや、軍務省だけの結論でもありません。必要な照会と審査を経て、帝国の『国家』として出された結論です」
その言葉に、頭の奥で何かが切れた。
「国家の結論だと?皇帝の僕はそんなものを知らない。認めていない。皇帝巡察の危険について審査して、それを国家の結論だと言うなら、なぜ僕のところへ何も上がってこなかった!」
声が強くなったが、クラインは目をそらさなかった。
「陛下がお知りにならなかったことと、国家の決定でなかったことは同じではありません。この案件は、それぞれの部署に委任された権限の範囲で審査され、必要な照会を受け、最終決裁まで行われています。皇帝御自身の裁可を必要とする水準には達していないと判断されたため、皇帝府へは上がりませんでした」
「その判断の結果がこれだ」
「はい。ですから、制度のどこを改めるべきかは検討しなければなりません。しかし、陛下が御存じなかったから国家の判断ではなかった、ということにはなりません」
僕はしばらくクラインを見ていた。
腹は立っていた。
トビアスは見つけ、報告した。
軍務省も読んだ。それでも巡察は続き、僕は何も知らないまま北西辺境へ入った。
その事実を前にして、国家として正しい手続だったと言われても、納得できるはずがなかった。
「では、今後は危険に関する情報をすべて皇帝府へ――いや、すべて僕に上げさせる」
「それはなりません、陛下」
クラインは間を置かなかった。
「皇帝陛下が帝国のすべての案件を直接判断することの方が、制度としては危険です。陛下は国家の最終責任者ですが、国家のすべての判断を一人でなさるわけではありません。そのために軍務省があり、各局があり、それぞれに権限と責任が定められています」
「だが、その仕組みでトビアスの報告は『所見なし』になった」
「はい。ですから、仕組みは改める必要があります。ですが、それは陛下御一人にすべて情報を集めればよいということを意味しません」
僕は答えなかった。
誰か、無能や怠慢な人間がいて、トビアスの報告を握り潰したのだと思いたかった。
数字を読まなかった者がいたのなら、その人間を罰すればいい。
だが、無能や怠慢の人間の名前はどこにもなかった。
制度に則り報告書は読まれ、数値も検算され、治安、軍事情報、巡察計画まで適正に審査された。
そのうえで「所見なし」になった。
制度そのものを憎むということは、難しかった。
そもそも制度には顔がない。
どれだけ問い詰めても答えず、罰することもできない。
けれどそのときの僕には、トビアスの死について、何か憎むべきもの、罰することができるものが必要だった。
「クライン。お前は、当時、トビアスに何と返した」
クラインは保存記録を開いた。
『審査結果を確認しました。追加情報がなければ、制度上は妥当です』
トビアスの返信が続いていた。
『お前までそう言うのか』
そしてクラインは、
『妥当であることと正しいことは同じではありません』
と返していた。
ハインリヒにも、フェリックスにも記録が残っていた。僕以外の全員が読んでいた。
「……トビアスの報告書を読んで、そのあとお前たちは何をした」
ハインリヒは公示航路に依存しない撤収案を一本加えた。
クラインは燃料購入企業などの照合項目を増やした。
フェリックスは伝令経路を訓練名目で確認していた。
トビアス自身も予備燃料と可搬中継器の増載を申請し、一部は認められている。
何も起きなかったわけではない。
彼らはそれぞれ、自分の権限でできることは全部していた。
そして皇帝の僕だけが、何も知らなかった。
「では、直すべきなのは、誰も読まなかったことではないな」
「はい、陛下」
ハインリヒが答えた。
「緊急措置を発動できないことと、予備準備をしないことを、同じ判断にしないことです、陛下。巡察の中止には根拠が要ります。しかし、代替航路や予備通信、撤収手順の確認まで同じ確証を求める必要はありません」
「分かった。強制措置の基準は下げない。その代わり、確証がなくても損害が大きい可能性がある案件には、可逆的な予備措置を検討させろ。『所見なし』で終わった案件も、その後に何を準備したかまで今後は確認する」
「承知しました」
僕はもう一度、トビアスの報告書を見た。
「それと、皇帝の生命、身体に危険が及ぶ可能性を指摘した情報は、今後すべて全件を皇帝府へ回せ。所管部署の審査結果とは別にだ」
クラインが僕を見た。
「陛下。すべての情報を、ですか」
「そうだ。確証がなくても構わない。可能性が指摘された時点で上げろ」
「皇帝府で再審査する、ということでしょうか」
「違う。僕が全部見る」
「陛下」
「これは譲らない」
クラインが僕を見た。
「陛下御自身が全部ご覧になるのですか」
「読む」
「……先ほど申し上げたことと同じです。陛下御一人に集めることが解決ではありません」
「分かっている。それでも上げろ」
そのときの僕には、それがいちばん確実に思えた。
トビアスの報告書は制度にも友人たちにも届いていた。
ただ僕にだけ届かなかった。
なら次は、制度として僕のところまで届くようにすればいい。
制度を直すことと、自分で抱えること。
その境目を、二十歳だった僕はまだうまく分けられていなかった。
***
その日の夜、フェリックスとクラインが帰ったあとも僕は起きていた。
帝都到着後の予定がすでに端末へ入っていた。
僕が報告を読んでいると、入口の呼出音が鳴った。
ハインリヒだった。
「入ってくれ」
僕は最初、ハインリヒが何か用件を持ってきたのだと思った。
報告か、確認か、質問への回答か。ハインリヒが自分から僕を訪ねるときにはいつもそういうもっともな理由があった。
彼には、用もなく友人のところへ来るということが、あまり得意ではなかった。
その夜だけは手ぶらだった。
「ハインリヒ、どうした?何かあったのか?」
「いえ」
そう答えてから、ハインリヒは珍しくすぐに次の言葉を続けなかった。
「陛下。少し、お時間をいただけますか」
「何の件だ」
訊いてから、少し妙な訊き方をしたと思った。
ハインリヒもわずかに黙った。
「……件、というほどのものではありません」
それなら座ればいい、と言って、僕は向かいの椅子を示した。
ハインリヒは腰を下ろしたが、しばらく話さなかった。
僕は待った。
「……ブリュックナーのことです」
「報告書のことか?」
「いえ。報告書ではありません」
いつもなら僕の言葉が終わるまで待つ男が、わずかに重ねるように否定した。
「最後の判断についてです」
僕の手が止まった。
「……何だ」
「私は、ブリュックナーの判断が誤りだったとは思いません」
胸のどこかが固くなった。
「四百二十名が通過しました。あの時点で管制を放棄すれば、後続の衝突が起きる可能性もありました。現地に残る者が必要だったことも――」
「そんなことは言われなくても分かっている!」
思ったより早く言葉が出た。ハインリヒが黙った。
「……数字は分かっている」
僕は声を落とした。
「四百二十人が通ったことも、トビアスがいなければもっと死んでいたことも、全部分かっている」
ハインリヒは僕を見ていた。
それから、何かを決めるように息を吸った。
「陛下。私は――」
そのとき、卓上端末が鳴った。
緊急優先だった。
辺境各地から届き続けている教国軍との戦闘による損害推計の更新。
数字を開いた瞬間、頭の中から別のものが押し出された。
戦闘可能艦艇数。生還確認。行方不明。救難信号。僕は端末を見たまま言った。
「……悪い、ハインリヒ」
返事はなかった。
「今は、その話はできない」
言ってしまってから、顔を上げた。
ハインリヒの表情はほとんど変わっていなかった。
「承知しました、陛下」
「また別の機会に訊く」
「承知しました、陛下」
ハインリヒは立ち上がり、一礼して出ていった。
僕は本当に、後日に続きを訊くつもりだった。
けっして嘘をついたわけではない。
今なら分かる。
ハインリヒはきっと分かち合いたかったのだと思う。
不器用な男だから気の利いたことは何も言えない。
それでも、彼は僕のそばにいようとしてくれた。
あのときの僕には、それが分からなかった。
***
翌日の夜、艦内の居住区へ戻る途中で通信区画の前を通るとフェリックスがいた。
制服の上着を脱ぎ、シャツの袖を肘までまくって壁際の端末に寄りかかり、勤務中の通信士と何か話していた。
僕に気づくと姿勢を直したが、端末を閉じる直前に見えた文字だけで何をしていたのかは分かった。
ケリム、ロフォーテン、惑星ルドミラ、生存者照会、民間救難回線、それに第三十四中継港。
あいつが毎日何度も開いている画面だった。
「フェリックス、まだ起きていたのか」
「陛下に言われたくねえな」
「僕はこれから休む」
「奇遇だな。俺も今そう思ってた」
「何か分かったのか?」
フェリックスは一瞬だけ黙ってから、端末へ目を戻した。
「ロフォーテンでの戦闘の情報は、少しずつ入ってきてる。まだ全体は見えねえけどな。ケリム側へ抜けた艦もあるし、民間船に拾われた連中もいる。ワーレン元帥のところで集め直してるらしいが、三千隻くらいは助かったらしい。損害の詳細はまだ分からねえな。かなり悪いのは間違いないけどな」
「フェリックス、そうじゃない」
「ん?」
「リディアのことだ」
フェリックスは黙った。
「……ロフォーテンでの戦闘中、ワーレン元帥とやり取りしていた記録までは残ってる。そのあと消息が切れた。第三十四中継港も教国軍に押さえられて、今は連絡がつかねえ」
フェリックスはそこで一度言葉を切った。
「でもまあ、連絡がつかねえのと死んでるのは別だからな。あいつのことだ。どっかでまた、帰れって言われながら船でも通してるんだろ」
その言い方が妙に早かった。誰かに説明しているというより、何度も自分へ言い聞かせた言葉がそのまま出たように聞こえたので、僕はそれ以上訊かなかった。
「ところで、皇帝陛下が臣下の私生活に干渉するのは感心しませんな」
フェリックスが冗談めかしてそう言ったので、僕もわざといかめしい口調を作った。
「何を言う、ミッターマイヤー中尉。側近の異性関係を把握しておくのも、皇帝の仕事であるぞ」
フェリックスが眉を上げた。
「今つくっただろ、その仕事」
「必要性を認識しただけだ」
フェリックスが笑ったので、僕も笑ってその場を離れた。
数歩進んだところで、背後からまた端末の作動音が聞こえた。
おそらく続きを始めたのだろう。
そのときの僕には、さっきのフェリックスの軽口は、それ以上僕には踏み込ませないという線引きに聞こえていた。フェリックスに拒絶されたのだと思った。
だから僕もそこから先へは行かなかった。
相手の意思を尊重したつもりでもあったし、僕自身、フェリックスにどう寄り添えばいいのか分からなかった。
あとになって分かった。
あいつは僕を遠ざけたかったわけではない。
自分のことで、僕にこれ以上心配をかけたくなかっただけだったのだ。
*
その先ではクラインとすれ違った。
こちらは端末と紙の書類を両方抱えていた。
「何をしていた」と訊くと、先ほどの報告書について、『所見なし』で終わった案件にあとから別部署の情報が加わった場合の再確認手順を作っている、と答えた。
「もう作っているのか」
「陛下から、帝都到着までに第一案を出すよう命じられましたので」
言われて思い出した。命じたのは僕だった。
「……悪い」
「悪い?何がでしょうか?」
責めているわけではない。本当に分からないらしい。
こういうところは以前と変わらなかった。
クラインは分からないことを分からないと言い、期限を決めればその期限までに仕事を終え、僕が妙なことを言えば妙だと指摘する。
それが、僕にはありがたかった。
「何か問題はあるか」
「あります。短期的な問題が三件、中長期的な問題が七件。うち二件は、帝都到着前に修正可能です」
「……即答だな」
「訊かれましたので」
僕はそのまま廊下で十分ほど説明を聞き、二か所を直すよう命じた。クラインは「承知しました」と答えて去っていった。
*
ハインリヒとは、その夜も話さなかった。
ただ、自室へ戻ると、あいつが作った予備措置案の改訂版が端末に届いていた。
代替航路、予備通信、撤収手順、現地要員の交代条件、指揮権の移譲。
前日に見たものより細かく、どこか一つが失われても次へ引き継げるようになっていた。
僕はそれを彼の責任感だと思った。
実際、責任感だったのだろう。
だからその先にあるものが何なのか、深く考えなかった。
*
帝都が近づくころには、僕たちはもうそれぞれの仕事へ戻っていた。
フェリックスは通信区画へ通い続けた。
クラインは記録と記録の間に抜け落ちるものがないよう手順を作った。
ハインリヒは確証のない危険に対する予備案を増や続けていた
僕も、皇帝の生命や身体に危険が及ぶ可能性を指摘した報告はすべて自分のところまで上げさせ、読むことにしていた。
僕たちは、あのとき確かに立ち直ったつもりでいた。
いつまでも一人の死に立ち止まっていられる立場ではなかった。
僕は皇帝で、フェリックスもクラインもハインリヒも軍人だった。
戦争は続いていたし、翌日になればまた命令と報告が届く。
だから僕たちは仕事へ戻り、同じことを二度と起こさないと、それぞれに決めた。
トビアスの死を無駄にせず、あいつが残したものをきちんと受け取ったつもりでいた。
けれど、死者が残す光は、見る者の位置によって違う色を帯びる。
フェリックスには「誰も置いていくな」と見えた。
ハインリヒには「必要なら自分が残れ」と見えた。
クラインには「何も消すな」と見えた。
僕には「全部訊け」と見えた。
僕たちは皆、たしかに同じトビアスの残光を見ていたはずだった。
ただ、その光の中に自分自身の考えを映し込んでいたことを、そのときの僕たちはまだ分かっていなかった。
***
【新帝国暦二十四年一月中旬 帝都レーヴェンシュテルン 北辰の間】
帝都へ戻るまで、ロフォーテン星系での戦闘については断片的な数字しか届いていなかった。
生還確認、行方不明、救難信号、各地へ流れ着いた艦艇数。
どれも悪い数字だったがそこで実際に何が起きたのかを説明できるものではなかった。
まとまった戦闘報告が届いたのは、帝都へ着いてからだった。
ワーレン元帥の司令部が、生還艦から集めた航行記録と証言、それにギールケ中将が最後に送った戦闘記録を照合して作成した第一次詳報だった。
僕が帝都へ戻った翌朝、
のちに『北辰大軍議』の名で記録される会議だった。
――「七星系を取り返すために十の星系を荒廃させ、二十の星系から人と物資を吸い上げ、最後に帝国そのものを弱らせるなら意味がない。余が取り返したいのは単なる星図の色ではない」
次回、『北辰大軍議(前編)』
V — 人物図譜 教国軍親衛艦隊〈守護天使〉艦隊司令 聖王守護ヨーリク
【挿絵表示】