【新帝国暦十一年 獅子の泉 フェリックス】
その日、獅子の泉の練兵場に雷が落ちた。
「ぬるいわッ!そんな踏み込みで、敵の何が斬れるかァ!」
声の主は火のような赤毛の大男だった。
フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥。
俺とアレクはその日、宮廷教育の一環で剣術の稽古をつけてもらうことになっていた。
相手が誰かは来るまで知らされていなかった。
そしてこの大声である。
俺の隣でアレクがそっと半歩後ずさった。
***
「お前がミッターマイヤーの倅か!」
ビッテンフェルト元帥は俺を見下ろして豪快に笑った。
俺のことは遠慮なく「倅」と呼んだ。だがその隣のアレクに向き直ると元帥はぴたりと居住まいを正した。
「陛下におかれましては御機嫌うるわしゅう。このビッテンフェルト、稽古のお相手を仰せつかり光栄の至りにございます」
あの大声のまま口上だけがやけに折り目正しい。
俺は思わず吹き出しそうになった。
皇帝にはあのビッテンフェルト元帥でも頭が上がらないらしい。
「さて、倅」元帥はまた俺に向き直った。
声が一段跳ね上がる。
「宮廷で行儀よく木剣を振っておるだけのひよっこめ。おれが性根から叩き直してやるわ!来い、まっすぐ来い!小賢しい手はいらん。全部をぶつけてこいッ!」
俺は木剣を握り直した。
なぜだか胸がわくわくしていた。この人は俺には飾らない。忖度も遠慮もない。
それがなんだか気持ちよかった。
「行きます!」
***
結果を言えば俺は三秒で吹っ飛ばされた。
まっすぐ突っ込んだ俺の木剣を元帥は片手で軽くいなし、そのままの勢いで俺の襟首を掴んで地面に転がした。乱暴だった。手加減の欠片もなかった。
「わっ」
俺は砂の上に盛大に尻もちをついた。
「よわいッ!」元帥は大笑いした。
「疾風の倅が聞いて呆れる!だが」
その笑いがふと止んだ。
「目は、悪くない」
元帥は俺を見下ろして言った。
「まっすぐだ。逃げも、隠れも、駆け引きもない。ただまっすぐに来た。……近頃の小賢しい若造どもとは違うわ。おれはそういう目が嫌いではない」
俺は砂まみれのまま、その言葉になぜか胸が熱くなった。
「もう一回お願いします!」
「おう、来い来い! 何度でも転がしてやるわ!」
俺は立ち上がった。何度転がされても立ち上がった。
ビッテンフェルト元帥の稽古は乱暴で、痛くて、そしてどうしようもなく楽しかった。
***
【新帝国暦十一年 獅子の泉 アレク】
やがて僕の番が来た。
ビッテンフェルト元帥はフェリックスを転がしていた手を止め、僕のほうを見た。そしてあの大声をまた少しだけ収めた。
「陛下。あなた様に稽古など恐れ多いことにございます。木剣を二つ三つ打ち合わせる真似事でも」
皇帝には遠慮がある。あれほど豪快な人でも、僕を前にするとその荒々しさに一枚、布がかかる。
臣下として当然のことだった。
だが僕はそれが嫌だった。
フェリックスはあんなに何度も転がされて、そのたびに笑って立ち上がっている。
僕だけが皇帝だからと布のかかった真似事をしてもらう。それでは何も身につかない。
僕は前に出た。膝は震えていた。
「元帥。お願いがあります」
「は」
「今日は皇帝としてではなく……一人の生徒として扱ってください。手加減は無用です。フェリックスと同じように」
ビッテンフェルト元帥の目が見開かれた。
しばらく僕をじっと見ていた。何かを量るように。それからその口の端がにやりと吊り上がった。
「……よろしいので」
「はい」
「承知、いたしました」元帥は木剣を構え直した。その構えからさっきまでの布が消えていた。
「ですが陛下。これはあなた様ご自身がお望みになったこと。この一時だけは遠慮はいたしませぬ。……恨みっこは、なしですぞ」
「はい」
「来られよ、陛下。まっすぐに」
結果は言うまでもなかった。
ろくに打ち込むこともできず、僕は一瞬で砂の上に転がされた。フェリックスよりずっとあっけなく。
痛かった。情けなかった。目の奥が熱くなった。
だが僕は立ち上がった。泣かなかった。もう一度木剣を構えた。膝は笑っていたけれど。
ビッテンフェルト元帥が僕を見下ろした。その目がふと和んだ。
「お逃げになりませんな、陛下」
「……逃げ、ません」
「よろしい」元帥は大きく頷いた。
「お弱い。実に、お弱い。……ですが陛下。強い弱いより先に、逃げるか、逃げぬか、にございます。あなた様は逃げなんだ。びくびくしておられても、逃げずに立っておられればよい。それも一つの強さにございます。……お忘れなきよう」
僕にはその言葉の意味がまだよく分からなかった。
ただ何度か転がされて、僕はもうへとへとだった。
***
僕は練兵場の端に退いて木陰で息を整えた。
もう一度あの輪へ戻る勇気は正直なかった。
フェリックスはまだ嬉々として転がされている。あの底なしの元気が僕には少し眩しかった。
――と、その木陰に先客がいたことに僕は気づいた。
***
一人の静かな将軍だった。
痩せて、背が高く、身動き一つしない。ビッテンフェルト元帥とは何もかもが正反対だった。
あちらが炎なら、この人は氷のように静かだった。
エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥。
僕はその名だけは知っていた。七元帥の一人。
だが宮廷でもその声を聞いた者はほとんどいないという。
何を考えているのか分からない人。臣下たちはそう囁いていた。
その人が木陰でフェリックスの稽古をじっと見ていた。
僕は少し迷ってからそっと近づいて隣に立った。
「……アイゼナッハ元帥」
声をかけてもその人はこちらを見なかった。ただ視線だけがわずかに動いて僕を捉えた。
喋らない。何も言わない。
僕は居心地の悪さに何か話さなければと焦った。
「あの、ビッテンフェルト元帥は……すごい声ですね」
アイゼナッハ元帥は答えなかった。
ただほんの少しだけ口の端が動いた気がした。笑ったのか、そうでないのか、分からないほどかすかに。
それからその右手がわずかに上がった。
指を、二度、鳴らす。乾いた涼やかな音だった。
するとどこからか従卒が一人、音もなく現れた。冷えた飲み物を二つ盆に載せている。一つを僕に。もう一つを練兵場で汗だくのフェリックスのほうへ。
僕は驚いた。
この人は一言も喋らなかった。
なのに僕がここに立っていることも、僕が喉を渇かしていることも、フェリックスが汗みずくなことも、全部、見ていたのだ。
そして指を二度鳴らすだけでそれを叶えてしまった。
言葉より確かなもの。
その意味の一端に僕はこのとき触れた気がした。
***
【新帝国暦十一年 獅子の泉 フェリックス】
稽古が何日か続いた。
俺はすっかりビッテンフェルト元帥が好きになっていた。
乱暴だが裏表がない。転がされるのは痛いが、そのあとに来る「目は悪くない」の一言のために俺は何度でも立ち上がれた。
ある日の休憩、汗だくの俺のところへ元帥がのっそりとやってきた。そして俺の顔をぐいと覗き込んだ。
至近距離でじろじろと。
「……なんですか」
「いや」元帥はしげしげと俺を見た。
「お前、どうも誰かに似ているとさっきから思っておったのだ。この、目つき。この、まっすぐな気性。……ふむ」
やがて元帥はぽん、と手を打った。得心がいったという顔で。
そして練兵場じゅうに響く大声で朗らかに言い放った。
「――ロイエンタールだ!やはりお前、あのロイエンタールに生き写しだ!いやはや、血は争えんものよなァ!」
練兵場がしんと静まり返った。
従卒が水を注ぐ手を止めた。稽古をしていた近習の子らが凍りついた。
***
俺の頭の中は真っ白だった。
ロイエンタール。実の父の名前らしい。
俺はその人を知らない。会ったこともない。生まれる前に死んだと聞いている。
俺の父上はミッターマイヤーだ。あの、家で母上の料理を宇宙一だと言うあの人だ。
なのに。
なぜだろう。胸の奥がかっと熱くなった。似ている、と言われたことが無性に腹立たしかった。
理由は自分でも分からない。ただ、言われたくなかった。
「……俺は」声が震えた。「俺の父上はウォルフガング・ミッターマイヤーです」
「うん?そりゃそうだ。育ての親はな」
ビッテンフェルト元帥はきょとんとした。
「だが血はロイエンタールだろう。何を怒っている」
「怒ってません!」
「怒っているではないか」
俺は木剣を握りしめた。目の奥がまた熱くなった。今度は稽古の痛みとは違う熱さだった。
***
ビッテンフェルト元帥は本気で俺がなぜ怒るのか分からないようだった。
腕を組んでうんうん、と唸っている。
「はて。おれは褒めたのだぞ。ロイエンタールの戦のうまさ、白兵戦の強さは帝国軍の双璧の名に恥じないものだった。その血を引くのだ、誇ってよいだろうに。……なあ、坊主。父親が二人おろうが、三人おろうが大した違いはあるまい。血の父がロイエンタール、育ての父がミッターマイヤー。……どちらも飛び切りの名将だ。二倍、得ではないか。何が気に食わん」
暴論だった。
だがこの人は本気でそう思っている。悪気は微塵もない。それがかえってたちが悪かった。
「元帥は
「たくと?
「そういう意味じゃ……!」
「だいたい、音楽なぞ辛気くさくて、おれは好かん。ぴろぴろと、まだるっこしい。戦とはそんな悠長なものではない」
「もういいです!」
俺が真っ赤になって怒鳴ったそのとき。
***
すっ、と。
木陰から音もなくアイゼナッハ元帥が歩み出た。
そしてビッテンフェルト元帥の背後に立つと
その後頭部を平手で、ぱこん、と叩いた。
「いたッ?!」
ビッテンフェルト元帥が頭を押さえて振り返る。
「なにをするか、アイゼナッハ!貴様、いきなり」
アイゼナッハ元帥は何も言わなかった。
ただじっとビッテンフェルト元帥を見て、それからゆっくりと俺のほうへ視線を移した。
もう一度ビッテンフェルト元帥へ。そしてまた俺へ。
言葉は一つもなかった。
だがその視線の往復がはっきりと告げていた。
今のはこの子に言ってはならぬことだ。
分からんのか、この、うつけ者が。
ビッテンフェルト元帥はしばらくきょとんとしていた。
それから視線を俺の強張った顔とアイゼナッハ元帥の呆れ顔との間で、二、三度往復させて。
「……む」
ようやく何かまずいことを言ったらしい、と気づいたようだった。
「……そうか。おれは、また、余計なことを言ったか」
アイゼナッハ元帥が無言で深々と頷いた。
その頷きがあんまり深く、あんまり呆れきっていたので。
俺は怒っていたのに思わずぷっと吹き出してしまった。
***
「……笑うな」ビッテンフェルト元帥がばつが悪そうに頭をかいた。
「おれは口が、その、まわりくどいことが苦手でな。思うたことをそのまま言ってしまうのだ。……悪気は、ないのだ。うむ」
悪気がないのはよく分かった。
この人は嘘がつけない。裏がない。だから平気で人の地雷を踏む。
そして踏んだことにもなかなか気づかない。
アイゼナッハ元帥に叩かれてようやく気づく。
なんて不器用な人だろう。
俺の怒りはいつのまにかしぼんでいた。かわりになんだか可笑しくてたまらなくなっていた。
「……別にいいですよ」俺は言った。「元帥が悪気ないの、分かりましたから」
「おお、そうか!」元帥はぱっと顔を輝かせた。単純な人だった。
「では水に流せ!――よし、稽古だ!立て、倅!もう十本、転がしてやるわ!」
「まだやるんですか!」
だが俺は笑いながら立ち上がっていた。
***
【新帝国暦十一年 獅子の泉 フェリックス】
その日の稽古の終わり。
汗だくで座り込んだ俺の隣にビッテンフェルト元帥がどっかりと腰を下ろした。
そして遠い目をしてぽつりと言った。
「……お前を見ておると昔を思い出すわ」
いつもの雷のような響きはなかった。低く静かで、どこか懐かしむような色があった。
「おれの若い頃の上官にな。まことに惜しい男が、いた」
「上官?」
「シュタイガーという」元帥は汗を拭った。
「平民の出だ。おれと同じくな。だが用兵にかけては……そのへんの貴族の軍人どもが束になっても敵うまい。おれはあの人の下で戦の何たるかを覚えたのだ」
「その人、今はどうしてるんですか」
俺が問うと、元帥の顔がふと翳った。
「……潰されたさ。門閥貴族の連中にな」元帥は吐き捨てるように言った。
「あの人はな、戦がうまいだけの男ではなかった。曲がったことが大嫌いでな。無能な貴族どもがいくさ下手の命令で兵を無駄死にさせようとすれば、平民の分際で面と向かって『それは誤りです』と言うてのけた。頭を、決して下げなんだ」
元帥は苦い顔で続けた。
「おれやミッターマイヤーはまだ運がよかった。先帝陛下という、身分で人を計らぬお方が現れてくださった。後ろ盾もできた。……だがあの人は早すぎたのだ。実力だけで人が計られる時代が来る、その少し前に門閥貴族の連中に潰された。……くだらん話さ。世があと少し早く変わっておれば。あの人は間違いなく元帥になっておった」
俺にはその話の意味が半分も分からなかった。
門閥貴族が、とか、潰された、とか。
そういう大人の世界のことは九つの俺には遠すぎた。
シュタイガー。
その名も聞いたそばから俺は忘れてしまいそうだった。
ただあの豪快なビッテンフェルト元帥がこんな静かな顔をするのだ、ということだけが妙に胸に残った。
その名を、幾年か後。遠い戦場でふたたび耳にすることになるとは。
このときはまだ、俺は知らなかった。
***
「いいか、倅」
元帥は俺の頭を大きな手で乱暴に撫でた。
さっきの余計な一言の詫びのつもりだったのかもしれない。
「出自なんぞ、戦場では何の役にも立たん。貴族だろうが、平民だろうが、砲弾は等しく人を殺す。……物を言うのは実力だけだ。血でも、家柄でもない。お前が何をできるか。それだけだ」
俺はその言葉の重さをまだ知らなかった。
自分の血にどんな噂がまとわりつくことになるのか。まだ何も知らなかった。
ただなぜだかその言葉は俺の中に温かく落ちた。ロイエンタールに似ている、と言われて怒ったその同じ胸に。
「はい」俺は頷いた。
「実力だけ。……憶えておきます」
***
【新帝国暦十一年 獅子の泉 アレク】
稽古の最後の日。
僕は思いきってアイゼナッハ元帥の隣で一つだけ尋ねてみた。
「元帥。……どうして喋らないんですか」
我ながら失礼な問いだった。だがこの静かな将軍の沈黙の理由を僕はどうしても知りたかった。
アイゼナッハ元帥はしばらく答えなかった。もちろん、言葉では。
だがその人はゆっくりと練兵場のほうへ目を向けた。
そこではフェリックスがビッテンフェルト元帥にまた転がされていた。
そして大声で笑いながら立ち上がっていた。
ビッテンフェルト元帥の雷のような声。
フェリックスの弾けるような笑い。
練兵場は音で満ちていた。
アイゼナッハ元帥の視線はそれを静かに撫でた。
それからその視線がゆっくりと空へ移った。
夕暮れの茜色に染まりはじめた静かな空へ。
僕ははっとした。
言葉が、なくても。
この人はいま僕に何かを見せてくれたのだ。
あの、音に満ちた練兵場と、この、音のない空とを。
どちらも確かにそこにある。
もちろんそれは僕の思い込みかもしれなかった。
だがアイゼナッハ元帥がちらりと僕を見て、また口の端をかすかに動かしたとき。
僕はなぜか通じた、と思った。
***
稽古を終えて二人の元帥が帰っていく。
ビッテンフェルト元帥は去り際まで大声だった。
「またな、倅! 次までに少しはマシになっておけよ!そして、陛下」
元帥は僕の前でまた居住まいを正した。
「この一時、無礼の数々、平にご容赦を。……ですが陛下。あの、びくびくだけははやいところ克服なさることですな。逃げぬお覚悟はしかと見届けましたゆえ」
僕は少し笑った。
無礼の数々、と自分で言うくらいにはこの人も分かっているらしい。ロイエンタールの一件も含めて。
その隣をアイゼナッハ元帥が音もなく歩いていく。
去り際、その人はふと足を止めた。
そして僕とフェリックスのほうを振り返った。
何も言わなかった。その日は指も鳴らさなかった。ただじっと僕たち二人を見た。
その眼差しは不思議と温かかった。厳しくもあり、優しくもあった。
何かを託すような。あるいは案じるような。
それからその両の手がゆっくりと上がって、僕たち二人の頭に片方ずつそっと置かれた。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間にはもうその人は背を向けて、静かに歩き去っていた。
「……なんだ、あれ」フェリックスが頭に手をやって訝しんだ。
「無言で頭に手ぇ置いてくんだぜ。やっぱ、変な人だな」
だが、僕は。
その一瞬の眼差しと、頭に置かれた手の温もりをうまく言葉にできなかった。
何かを言われた気がした。とても大切なことを。