【新帝国暦十三年 獅子の泉 フェリックス】
その元帥は、左手の肘から下が、作り物だった。
最初は気づかなかった。動くし、物も持つ。
だが、その日、庭の卓に並べられた盤の駒を、その手が一つ、つまみ上げたとき。
俺は、はっとした。指の関節が、かすかに金属の音を立てたのだ。
アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥。
剛毅にして温和と評される、歴戦の武人だった。
がっしりとした体つきで、声は低く、物言いは静かだった。
そこにいるだけで、大きな岩がどっしりと据わっているような、そんな安心感のある人だった。
「見ておるな。この手を」
俺の視線に気づいて、ワーレン元帥は静かに言った。俺は慌てて目を逸らした。
「よい。隠すものではない」元帥は、左手を右手で軽く叩いた。こつ、と硬い音がした。
「昔、悪い者どもとの戦いで、失った。……人は、失ったものより、残ったもので、何ができるかだ。この手でも、駒は指せる。将は務まる。
その言葉は、なぜか俺の胸に深く残った。
***
俺はその日、ワーレン元帥に剣の稽古をつけてもらうものと思っていた。
だが、卓の上に置かれたのは、木剣ではなかった。
一枚の大きな盤だった。碁盤のように升目が引かれ、その上に、精巧な駒が並んでいる。
歩兵、騎兵、砲、軍旗。両軍の駒が、向かい合っている。
「
「戦を、盤に写したものだ」
「稽古は……剣は、しないんですか」俺は、思わず聞いた。
ワーレン元帥は、低く笑った。
「剣は、ビッテンフェルトに習えばよかろう。あれの右に出る者はおらん。……今日教えるのは、それ以外のことだ。剣より、少しだけ、長く役に立つことだ」
***
俺たちは、盤を挟んで向かい合った。
ワーレン元帥は、駒の動かし方を、一つずつ教えてくれた。
歩兵は前へ。騎兵は駆ける。砲は遠くを撃つ。
軍旗を取られたら、負け。
俺は夢中になった。
単純そうに見えて、奥が深かった。
歩兵をどう並べるか。
どこで騎兵を動かすか。
一手一手に、意味があった。
俺が勢い込んで騎兵を突っ込ませると、ワーレン元帥の砲に、あっさり討ち取られた。
「突っ込みすぎだ」元帥は、静かに言った。
「その騎兵は、もう戻らん。……その一手で、お前は何を得た。ただ、死なせただけだ」
「でも、攻めないと、勝てないでしょう」
「攻めるなとは、言うておらん。……無駄死をさせるな、と言うておるのだ」
***
何度か指すうちに、俺はあることに気づいた。
ワーレン元帥は、駒を取るとき、その駒を盤の外へ、乱暴に弾いたりしなかった。
一つ一つ、義手で丁寧に拾い上げ、盤の脇に、そっと並べていくのだ。まるで、それを悼むように。
「元帥。……なんで、そんなに丁寧に、置くんですか。取った駒なのに」
ワーレン元帥の手が、ふと止まった。
それから、元帥は盤の脇に並んだ駒を、静かに見つめて言った。
「フェリックス。……この駒には、一つ一つ、名前がある」
「名前?」
「そう思え、ということだ」元帥は、一つの歩兵を義手でつまみ上げた。
「この歩兵にも名がある。故郷がある。帰りを待つ、親や、妻や、子がおる。……盤の上では、ただの駒だ。だが、本物の戦では、この一つ一つが、生きた人間なのだ」
俺は、駒をじっと見た。ただの木の駒が、急に重く見えた。
***
盤を片付けながら、ワーレン元帥がぽつりと言った。
「……うちにもお前くらいの倅がおってな」
「え」
「まだ、お前より、大きいがな。もうすぐ士官学校に入る」元帥の声が、少し和らいだ。
「妻は、先に逝った。倅と、二人きりだ。……戦に出ておると、なかなか、会えん」
その口ぶりには、あの剛毅な武人の顔とは違う、一人の父親の柔らかさがあった。
「元帥は、いい、父上なんでしょうね」俺は、思わず言った。
「どうかな」元帥は、苦笑した。それから、俺をじっと見た。
「……フェリックス。お前は、よい父を持ったな」
俺は、きょとんとした。
「ミッターマイヤーは、よい男だ。よい父だ。……あれに育てられたお前は、幸せ者だぞ。それを、忘れるな」
なぜ、いま、その話になるのか。俺には、分からなかった。
だが、ワーレン元帥の目が、あんまり真剣だったので。俺は、素直に、「はい」と頷いた。
***
【新帝国暦十三年 獅子の泉 アレク】
エルネスト・メックリンガー元帥。
芸術家提督、と呼ばれる人だった。片手に、いつも絵筆と手帳を持っている。
戦の合間に絵を描き、詩を詠み、そして、帝国の戦史を、書き記す人。
僕がその部屋を訪ねたとき、元帥は大きな机に向かって何かを書いていた。
「おや、陛下」元帥は、筆を置いて、柔らかく微笑んだ。
「珍しい客人だ。剣の稽古は、よろしいので」
「フェリックスが、ワーレン元帥のところにいます。僕は……剣は、あまり得意ではないので」
僕は正直に言った。メックリンガー元帥は、気を悪くするふうもなくうなずいた。
「では、こちらで、別のものを見ていかれるとよい。剣とは、違うものを」
メックリンガー元帥の物言いは、不思議と、僕を皇帝扱いしなかった。
かといって、子供扱いするのでもない。
ただ、一人の客として、対等に招き入れてくれる。
その気安さが、僕には心地よかった。
だから僕も、皇帝の言葉ではなく、素直に、一人の生徒として尋ねることにした。
「元帥。……これは、なんですか」
机の上には、分厚い書物が何冊も積まれていた。
「戦史です」元帥は言った。
「帝国が、これまで戦ってきた、数えきれぬ戦の記録。……勝った戦も、負けた戦も。誰が、どこで、いかに戦い、いかに死んだか。それを、書き残しておくのです」
僕は一冊を、そっと開いてみた。細かい文字が、びっしりと並んでいる。
名前。日付。艦隊の数。そして、死者の数。
「どうして、こんなに細かく書くんですか」僕は問うた。
「勝った戦は、憶えていればいい。負けた戦は……忘れたいでしょう」
メックリンガー元帥は、静かに僕を見た。
その目には、芸術家の柔らかさの奥に、何か鋼のようなものがあった。
***
「陛下。一つ、大切なことを、お教えしましょう」
元帥は筆を取り、それを、そっと机に置いた。
「勝った者だけが、歴史を書くのではありません。……書き残された事だけが、歴史になるのです」
僕は、その言葉をうまく飲み込めなかった。
「書き残されなかった事は、どうなるんですか」
「消えます」元帥は、静かに言った。
「なかったことに、なる。どれほど多くの人が、そこで生き、そこで死のうと。誰も書き残さなければ、それは、歴史からは消える」
僕は、ぞっとした。
あの初陣の名簿を思い出した。
帝国のために命を捧げた、一万二千の名。
あれを、もし誰も書き残さなかったら。
あの一万二千人は、どうなるのか。
「だから、私は、書くのです」元帥は続けた。
「勝ち負けに関わらず。華々しい武功も、兵の死も。……書き残すことが、その者たちを、歴史の忘却から救う、ただ一つの手立てだからです」
***
「僕にも」僕は、思わず言った。
「僕にも、書けますか」
メックリンガー元帥は、少し驚いたように、それから嬉しそうに微笑んだ。
「書けますとも。……いや、陛下。あなたこそ、書き残さねばならぬお方だ」
「どうして」
「皇帝は、多くの死を、命じる立場にあります」元帥の声が、静かになった。
「多くの者が、あなたの御名の下で、死んでいくでしょう。……その一人一人全員を、憶えておくことはできませぬ。ですが、書き残すことは、できる」
憶えられぬなら、書いておく。
それは、あの名簿を手放せずにいる僕にとって、初めて示された、一つの道のように思えた。
***
【新帝国暦十三年 獅子の泉 フェリックス】
その日の夕方、俺とアレクは、ワーレン元帥とメックリンガー元帥に呼ばれて庭の東屋にいた。
二人の元帥は、旧い友人らしかった。武人のワーレンと、文人のメックリンガー。
まるで違う二人が、静かに茶を酌み交わしていた。
「ワーレン。卿の左腕の一件は、私の戦史にも書いてあるぞ」メックリンガー元帥が、からかうように言った。「隻腕にして、なお前線に立ち続けた剛毅の将、とな。なかなかの名文だ。後世の史家が涙するように書いておいた」
「よさぬか、メックリンガー」ワーレン元帥は、苦笑した。「そう書かれると、尻がむず痒い」
「事実だろう」
「……美化するな。ただ、逃げそびれただけだ」
メックリンガー元帥が、声をあげて笑った。
ワーレン元帥は、茶をすすっている。
片や饒舌、片や訥弁。
まるで違う二人が、それでいて、妙に気が合っているらしかった。
***
「そういえば、ワーレン」メックリンガー元帥が、茶を一口含んで言った。
「先日、ビッテンフェルトに、私の新しい曲を聴かせてやったのだ。渾身の一曲でな。三年、温めた」
「ほう」
「あの男は、何と言ったと思う」
「……さあな」
「三小節で、大あくびよ」メックリンガー元帥は、心底おかしそうに、肩を揺らした。
「『メックリンガー、この、ぴろぴろした辛気くさいのは、まだ続くのか』とな。三年だぞ。三年温めた曲を、三小節だ」
「はは」ワーレン元帥が、低く笑った。
「あれはあれで、正直な男だ」
「正直にも、ほどがある。戦の話をさせれば、あれほど雄弁な男が。芸術となると、まるで赤子だ。……いや、赤子のほうが、まだ音に喜ぶだけ、ましやもしれん」
「メックリンガー」
「なんだ」
「卿も、たいがい、しつこいぞ。根に持っておるのか」
メックリンガー元帥が、ぐっと詰まった。
それから、ばつが悪そうに、茶に口をつけた。
ワーレン元帥の口の端が、かすかに緩んでいた。
寡黙な男の、これが精一杯の意趣返しらしかった。
俺は思わず吹き出した。
あの、ビッテンフェルト元帥が、ここでは、こんなふうに笑い話にされている。
そして、いつも饒舌なメックリンガー元帥が、寡黙なワーレン元帥の一言で、あっさり黙らされている。
なんだか、痛快だった。
穏やかな、夕暮れだった。
***
そんな与太話から、話は、いつしか昔の戦のことへ移っていった。
メックリンガー元帥が、ある会戦の話をする。
ワーレン元帥が、それに応じて当時のことを語る。二人の思い出話は、尽きなかった。
やがて、話が帝国の草創期、先帝陛下が、まだ天下を統一する前の、古い戦の話になった。
「あの頃は、辺境の平定に、ずいぶん手を焼いたものだ」メックリンガー元帥が、懐かしそうに言った。
「反乱、残党狩り、掃討……。統一の裏で、辺境では、まだ、いくさが続いておった。ワーレン、卿も、あの頃は、辺境を、ずいぶん駆け回っておったな」
俺は、何気なくワーレン元帥のほうを見た。
そして。
気づいてしまった。
***
ワーレン元帥の顔から、表情が消えていた。
さっきまで穏やかに笑っていた、あの温和な顔から。
すっと、何かが引いていた。
目が、ティーカップの暗い水面を、じっと見つめている。
何も見ていないような目だった。
遠い、どこか。ここではない、遠い場所を見ているような。
義手を置いた膝の上で、その左手が、こつ、とかすかに鳴った。
無事な右手が、それを、そっと握っていた。
ほんの数瞬のことだった。
「……ああ」ワーレン元帥は、低く、短く応じた。
「駆け回った。……いろいろ、あった」
それきり、元帥は口を閉ざした。辺境のことは、それ以上何も語らなかった。
メックリンガー元帥は、そのまま、別の話へと話題を移していった。
ワーレン元帥も、いつもの穏やかな顔に戻っていた。
俺は子供心に思った。なにか、触れてはいけないことに、触れてしまったのだろうか、と。
***
だが、それが何なのかは、分からなかった。
あの、駒の一つ一つに名前があると言った、優しい元帥。
その温和な顔から表情を消させるほどの、何が、辺境にあったのか。
俺には、見当もつかなかった。
東屋を辞したあと、俺はアレクに、そっと聞いてみた。
「なあ、アレク。さっき、ワーレン元帥、変な顔してなかったか。辺境の話のとき」
「……うん」アレクも気づいていたらしい。「なんだか、急に、遠くを見てた」
「なんでだろうな」
「分からない」アレクは首を振った。
「でも……聞いちゃいけない気がした」
俺も同じことを思っていた。ただ、あの一瞬のワーレン元帥の目だけが、なぜか、いつまでも記憶の底に残った。
***
その翳の意味を、俺たちが知ることになるのは。
ずっと後のことだ。焼かれた暦と、掘り起こされた名の、遠い遠い先で。
***
【新帝国暦十三年 獅子の泉 アレク】
帰り道、僕は、ずっとメックリンガー元帥の言葉を考えていた。
書き残された事だけが、歴史になる。
そして、ワーレン元帥の、あの一瞬の目も。
もしかしたら、と僕は思った。
もしかしたら、書き残されなかった事の中にこそ、いちばん大切な何かが、あるのかもしれない。
ワーレン元帥が語らなかった、あの辺境の「いろいろ」のように。
書き残された事だけが、歴史になる。
なら、書き残されなかった事は、誰が憶えているのだろう。
八つの僕には、その問いの答えは、まだあまりに遠かった。
だが、その問いだけは。あの日、東屋で見た、ワーレン元帥の遠い目とともに、僕の中に、静かに刻まれた。
フェリックスが、隣で大きく伸びをした。
「今日は、変な日だったなあ。稽古してもらえると思ったのに、ずっと、盤上遊戯だったんだぜ」
「へえ。強くなった?」
「全然。ぼろ負け」フェリックスは、頭をかいた。
それから、少し、静かな顔になった。「でも……なんか、大事なこと、教わった気がする。駒には、名前がある、とか」
「駒に、名前」
「うん。うまく言えないけど」
僕は、その言葉を聞いてはっとした。
駒に、名前がある。書き残された事だけが、歴史になる。
武と、文と。まるで違う二人の元帥から、僕たちは、まるで違う場所で同じことを教わっていたのかもしれない。
誰かを、忘れるな、と。
「なあ、フェリックス」僕は言った。「今日、僕たち、たぶん、同じことを、習ったんだよ」
「そうなのか?」フェリックスは、きょとんとした。「剣と、本で?」
「うん。……たぶんね」
フェリックスは、「アレクは、やっぱり変だなあ」と笑った。僕もつられて笑った。
茜色の空の下、僕たちは、宮殿へと帰っていった。