銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第二次バーミリオン星域の会戦まで、あと二話。


第六十二話「聖恩大典 ―― 教国side」(新帝国暦二十四年・聖暦二十三年二月)

【新帝国暦二十四年(聖暦二十三年)二月 タナトス星系 聖都ラディークス】

 

教国軍第四聖団〈ディス〉艦隊司令イリヤ・ラザレフ従聖将に、聖都から召喚が届いたのは式の十日前だった。

 

正式には「建国戦勝奉献・聖恩叙任大典」という。教国では略称である〈聖恩大典〉の名で呼ばれていた。

 

艦橋で聖都から通信を受けた通信士が、復唱を二度間違えた。大伽藍から直接通信が入るなど、艦の誰にも経験がなかったのである。

 

――聖都ラディークス、大伽藍において、建国と緒戦の勝利を寿ぐ叙任の式を執り行う。第四聖団〈ディス〉艦隊司令イリヤ・ラザレフ従聖将は列席されたい。なお式後、戦況報告のため軍議への列席を命ずる。

 

文面はそれだけだった。

 

軍議への列席とある以上、ラザレフはロフォーテン会戦の経過を時系列に整理した。

帝国軍の推定損害、自艦隊の損耗と補充を要する艦種、通信途絶の時刻、〈祈燈〉と敵砲撃の関係には数字を添え、〈レムレス〉艦隊との連携については自分が現場で確認した事実と戦後の報告で知った事実を分けた。

 

補充後の〈ディス〉艦隊をいつ再出撃させられるか、艦長や機関要員が何人足りないかもまとめてある。上官に訊かれて「調べていません」と答えるのを、ラザレフは好まなかった。

 

ラザレフが軍議というものを覚えたのは、十年以上前、エイジ・クルス提督の艦橋にいたころである。

自由惑星同盟が滅んだあとも、クルスの艦隊では軍議のやり方まで旧同盟軍式で行われていた。

まず敵情と味方の兵力を出し、補給と損害を確かめる。分からないものは分からないと置いたうえで意見を出し、反論を重ね、最後に指揮官が決める。

ラザレフにとって軍議とは、そうやって結論まで下から積み上げて登っていくものだった。

 

教国軍ではしばしばその順番が逆になる。

 

先に〈神託〉が置かれるのである。

 

まず、慈母司牧アガーテから神託が下る。

枢機卿団が典礼と教理に照らしてその意味を解き、聖団司令たちが兵力、航路、補給、戦場へ置き換えていく。何をするべきかを一から積み上げるのではなく、先に示されたものが何を命じているのかを確かめ、それを実行可能な作戦へ直していく。

 

旧同盟軍には、『統合作戦本部』というものがあったとラザレフは聞いている。全軍の作戦を中央でまとめ、異なる艦隊や軍種を一つの方針の下へ置くための組織だったらしい。クルス艦隊の艦橋でも作戦を論じるときにはしばしばその名が出た。

 

教国軍にはそれに当たるものがない。

 

教国にも軍政はある。

軍務を預かるベルム枢機卿の下に〈聖序寮〉があり、聖団をまたぐ軍務を整理して枢機卿団の裁可を仰ぐ。だが四つの聖団はそれぞれ自前の指揮系統を持っており、旧同盟軍の統合作戦本部や、帝国軍の統帥本部に当たるような、全軍の軍令を一元的に作る常設機関はなかった。

 

その空白を埋めるのが〈神託〉である。

慈母司牧アガーテから神託によって方向が示され、枢機卿団がその意味を国家の方針へ直し、聖団司令たちが作戦へ落とす。そして複数の聖団が同じ戦場へ出るときには、その都度、聖序寮による調整と裁定を経て定める。

 

教国軍に加わって何年にもなるがラザレフはいまだにこの順序へ馴染みきれなかった。

 

 

***

 

 

〈ディス〉艦隊はかつて『エコニア』と呼ばれていた惑星の軌道に停泊したままである。

 

ラザレフの式服は当日の朝に支給された。灰褐色の軍服の上に着る白い肩衣で、係の司祭が受領簿に印を求めた。受領欄の隣には返納欄がある。

ラザレフは印を押しながら、ロフォーテン会戦の出撃前に支給された白い布を思い出した。

あの布の受領簿に返納欄はなかった。

 

大伽藍は、聖堂という言葉から思い描かれるものより、はるかに大きかった。

 

正門をくぐっても、すぐに聖堂へ入るわけではない。石を敷いた広場の向こうに回廊が延び、その左右には聖具庫、記録庫、典礼官の詰所、来賓棟、枢機卿団の会議棟などが並んでいる。

さらに奥にもう一つ門があり、それを抜けてようやく主聖堂の正面へ出た。大伽藍と呼ばれてはいるが、一つの建物というより、小さな町を壁の内側へ収めたような場所だった。

 

旧エコニア捕虜収容所の中央区画を一部利用する形で建てられたのだという。

新しい石造建築のあいだには、撤去されなかった灰色の壁や監視棟がところどころ残り、正門には収容所時代の鉄扉まで使われていた。

新築された建物だけを見れば壮麗なのにそのあいだから古いコンクリートと鉄が顔を出すため、どこまでが聖堂で、どこからが昔の収容所なのか判然としない。

 

主聖堂は全長四百メートルほどあり、正面の大扉から祭壇までは人の顔を見分けることさえ難しかった。

中央身廊の両側には巨大な列柱が並びその外側にも側廊と上層回廊が重なっている。

大典の日には数千人を収められるというが、すでに数百人の司祭と軍人が入っているのに、まだ空いている場所の方が広く見えた。

 

身廊の天井は百八十メートルほど上にある。

ラザレフは数字を聞かされても距離の実感が湧かなかった。

見上げれば梁も装飾も霞み、上層回廊を行き来する人影は点にしか見えない。

主聖堂の中央ではさらに高くドームが立ち上がり、その頂部は二百八十メートル近いという。

 

そのさらに上に大伽藍の象徴である黄金樹の大尖塔が伸びていた。

高さは六百二十メートルほどあり聖都のかなり離れた場所からでも見える。旧収容所の監視塔は今も何基か残されていたが、大尖塔の足元では子供の積み木ほどにしか見えなかった。

 

石の身廊には燭が幾列にも並び、香の煙が高いところへ昇っていく。

鐘が鳴るたび音は天井へ吸い上げられたあと、わずかに遅れて四方から降ってくるように響いた。

 

白い衣を着た子供たちが左右の高廊に並び、歌っているあいだ身動きひとつしなかった。

よく躾けられている、とラザレフは思った。

その言葉がなぜか少し喉に引っかかった。

 

身廊にはすでに数百人の司祭が入っていた。

それでも空席の方が多く見える。諸侯、聖管区代表、四聖団の将校たちが次々に案内され、典礼官や記録官がその間を行き来していた。

 

身廊の両翼には聖騎士(ケルビム)が数十体立っていた。灰色の装甲に金の細線を刻み、外套と両手剣を備えた教国の陸戦部隊である。誰も動かず、誰も喋らない。それだけの人数が並んでいるのに建物が人で埋まっているという感じはしなかった。

 

祭壇の左右には、教国軍を構成する四つの聖団――〈黄金樹〉、〈律法〉、〈フェザーン〉、〈聖戦〉――の軍旗が掲げられていた。

 

どれも黒地に黄金樹を戴くところまでは同じだったが、その下に置かれた紋章と縁取りの色が違う。第一聖団は臙脂に王冠、第二聖団は象牙色に聖典、第三聖団は深緑に方位星、第四聖団は紺青に五芒の星を配している。四枚を並べると、同じ軍の旗というより、別々の来歴を持つ集団が黄金樹だけを共通の印として掲げているように見えた。

 

【四聖団軍旗・艦隊章一覧】

【挿絵表示】

 

 

聖団というのは要するに派閥である。どこから流れてきた者の集まりか、その区分がそのまま軍の編成になったようなものだった。

 

第一聖団〈黄金樹〉は旧ゴールデンバウム王朝の門閥貴族とその旧臣。

第二聖団〈律法〉は旧帝国軍の軍政官僚や技術者。

第三聖団〈フェザーン〉は旧フェザーン商人や傭兵、武装商船乗り。

第四聖団〈聖戦〉は、自由惑星同盟という国を失った軍人たち。

 

列席者の肩衣にも、それぞれの聖団色が細く入っていた。祭壇に近いところを臙脂が占め、その後ろに象牙色、さらに深緑が続き、紺青は身廊のもっとも後ろへ集められている。

 

ラザレフが案内されたのは、紺青の列だった。ロフォーテン会戦を戦った第四聖団の者たちは、ほとんどがそこにいる。席次を見れば、戦わなかった者ほど祭壇に近いようにも見えた。

 

「一番前は『家格』。その次が『役所』。その次が『金』だぜ」

隣から声がした。肩衣を羽織るというより、引っかけた男が座っている。

「第三聖団司令のカザリスだ。前は肩が凝る」

 

ラザレフは一礼した。

「では、『戦』の順はどうなりますか」

 

「後ろから数えた方が早いな」

 

冗談なのかどうかは、最後まで分からなかった。

 

ラザレフはふと、カザリスの周囲へ目をやった。ほかの将官たちには副官や随員が付き添っているが、この男の連れらしい者は見当たらない。

 

「ところで、今日はお一人なのですか。聖団司令ともなれば、副官の一人くらいは伴われるものかと思っていましたが」

 

「連れてくるつもりだったさ。ダンカンの野郎、積荷の検品に立ち会わなきゃならねえとかぬかして、逃げやがった」

カザリスは忌々しそうに鼻を鳴らした。

「じゃあ別の奴をと思ったら、そいつは機関の点検、その次は荷主との打ち合わせだとよ。俺が声をかけようとするたびに、用事を思い出して消えちまう。最後の方は、目が合っただけで逃げていきやがった」

 

「ずいぶん急な用事が重なったものですね」

 

「なに、式が終わりゃ、どれも片づくさ」

カザリスはそう言って、窮屈そうに襟元へ指を差し入れた。

「薄情な連中だぜ。俺だって検品の方がよかったんだ」

 

 

***

 

 

鐘が三つ鳴って式が始まった。

 

普段は緋色の司祭服をまとう彼らも、この種の大典では黒い長衣に改める。

背には黄金樹が金糸で縫い取られ、裾から肩へ細い刺繍が伸びている。

中央に立つ白衣の聖王だけが、その黒い列の中でひどく明るく見えた。

 

聖録院のプローディア、財務院のサエクルム、教理院のリトゥス、宣信院のスアーダ、辺境司牧院のアロイジウス、聖廉院のノクス、そして院を持たず聖序寮で軍務を預かるベルム。

『六院一寮』を担う七人の枢機卿団である。教国の政務で彼らの誰の手も通らないものは多くなかった。

 

執行を務めるリトゥス枢機卿の祈りは美しく、美しいまま長かった。

 

壇の脇、一段高くなった席に、一人の老女が座っていた。

 

慈母司牧アガーテ。

 

七人の枢機卿が祭壇の左右に並ぶなか、彼女だけはその列に加わらず、壇の脇に席を与えられている。聖王が現れる前からそこに座っていたが誰もそのことを気に留める様子はなかった。

 

【挿絵表示】

 

 

「あれが慈母司牧のアガーテだ」

カザリスは声を落としもしなかった。

「この国で一番上にいる婆さんだ。枢機卿サマがたを任じるのも、あの方でな」

 

「何を担当しておられるので?」

 

カザリスは前を向いたまま口の端を上げた。

「あれだよ。婆さんの『謎々』だ。外れりゃ人間の信心が足りねえ。当たりゃ神託になる」

 

少し間を置いてから、付け足した。

「まあ、俺とは長い付き合いなんだぜ。昔からああいう婆さんだ」

 

ラザレフは笑った。

「また、そういうことを」

 

「信じねえのか?」

 

「信じろという方が無理でしょう」

 

「そりゃそうだ」

 

声が大きすぎた。

近くの司祭が祈祷の途中で聞いてはいけないものを聞いたような顔で振り向いた。カザリスは気づいているはずなのに、前を向いたままだった。

 

聖王ヴィルヘルミーネが壇に立った。

白い式服を着た少女はまだ小柄で、冠だけが年齢より先に育ったように見えた。金色の髪は背へ垂れ、細い首は重い冠の下でまっすぐに保たれている。

 

少女の声はまだ細かったが、大伽藍の奥までよく通った。

 

「我は、黄金樹の名において、この勝利を母の土へ返す」

 

壇の斜め後ろには、階級章も飾りもない黒衣の男が一人立っていた。ヨーリクと呼ばれる男だった。

 

死神という名の方が先に第四聖団まで届いていたが、実際に見る男は噂から想像したより若かった。二十歳をいくらか越えた程度にしか見えない。長身ではあるが身体に厚みはなく、整った顔には笑った皺も怒った皺もなかった。

 

式のあいだ、彼は一度も手を動かさなかった。

 

目だけが、壇上の少女を追っていた。

 

 

***

 

 

聖恩の配分が始まった。

 

最初に名を読まれたのは、第一聖団を擁する門閥貴族の領袖、エードゥアルト・フォン・グレーフェンベルク侯だった。位階が確認され、聖句とともに港湾の使用権と航路の司牧が与えられる。

 

恩賞の多くは建国によって教国の手に入った七星系から生じたものだった。もっとも、星系政府から取り上げた統治権ではない。建国の前後に、帝国統治下では総督府と呼ばれていた『聖管区』や企業、土地・施設の所有者から聖座へ寄進され、あるいは管理を委ねられた財産と権利である。

 

港や倉庫、航路の使用権、採掘権、輸送契約。星系がまだ戦勝の熱を残しているうちから、そうして教団の手に集まった権利だけは整然と分けられていった。

 

財務院宰のサエクルム枢機卿が読み上げるたび、記録官が一つずつ聖庫の帳簿へ記した。

 

「聖庫ってのは、要するに什一(じゅういち)だ」

 

カザリスが小声で言った。

「作物も荷も商売の上がりも、信徒は十のうち一つを納める」

 

「徴税ですか」

 

「いや。払いたくなきゃ払わなくていい」

 

ラザレフは横を見た。

「取り立てはないのですか?」

 

「ねえよ。教団の信徒でなけりゃ義理もない。納めなくても誰も戸口を叩きに来ねえ」

 

カザリスはそこで少し笑った。

「ただ、何も来なくなるだけだ」

 

強制ではないし、教団に加わらない者から何かを奪うわけでもない。ただ、加わらない者のところへは何も来ない。

 

什一を納めている家には、聖堂から食料や日用品の配給が来る。病めば無償で診療を受けられ、一般病院を使えば費用の一部を聖堂が負担する。子供は学舎へ入れられ、無利子の貸付があり、仕事も紹介される。

 

「別に黄金樹を拝まなきゃならねえわけじゃない。民主共和政でも、別の神様でも、悪魔崇拝でも、スパゲッティでも、好きに拝んでいい。人様に迷惑さえかけなきゃ、頭の中に何を置こうが誰も文句を言わねえよ」

 

「では、本当に自由なのですね」

 

「ああ。自由だ」

カザリスは肩をすくめた。

「まあ、飯と医者だけなら、金のある奴は別に困らねえ」

 

ラザレフが横を見る。

 

「だがな。こいつは金じゃ買いにくい」

 

カザリスが指を一本立てた。

「名簿だ」

 

「聖堂の名簿に載ってりゃ、どの星系へ行っても身元が通る。職にも就きやすい。それから、散らばった家族を探してくれる」

 

「家族を」

 

「ああ。戦争で星系ごと飛ばされたのも、帝国へ行ったのも、バーラトへ行ったのもな。あれで親や子供を見つけてもらった連中は、まず抜けねえよ」

 

ラザレフは祭壇の方へ目を戻した。読み上げは続いていた。

聖名を賜る者もいた。

 

武勲を立てた第一聖団の旧門閥貴族の若い士官が壇の前へ進み、旧い家名を声に出して返上した。

「リヒャルト・フォン・キュヒラーの名を、ここに返します」

 

聖王が新しい名を告げた。

「マルケッルス・セウェルス・ルキアヌス」

 

小さなどよめきが起こった。

「おお……『マルケッルス』とは」

 

「聖録で最初に家名を捨てた者の名だぞ」

 

「しかも、それが『第一名』に置かれるとは」

 

「……ふん、所詮は『三重聖名』よ」

最後の一言だけは、少し声が低かった。

若者は三つの名を一つずつ復唱した。顔を上げたとき、泣いていた。

 

名を失い、誇らしさで泣く顔というものを、ラザレフは初めて見た。

 

席へ戻る途中、年嵩の男が声をかけた。

「おめでとう、キュヒラー伯」

 

若者の足が止まった。

「……本日より、マルケッルス・セウェルス・ルキアヌスです。ファウスティヌス・ヴァレリウス殿」

 

「おお、そうだったな。これは失敬」

ファウスティヌス・ヴァレリウスは丁寧に頭を下げた。少しも悪びれていなかった。「それにしても、立派な聖名を三つも頂いたものだ」

 

「恐れ入ります」

 

「私など二つしか頂けなかったのだぞ」

 

横にいた別の貴族が鼻で笑った。

「それを自慢したいだけでしょう、ファウスティヌス殿」

 

「まさか、まさか。私のファウスティヌスなど、母なる地球におわす神の御名でもないのだぞ。それに名の数に上下などない。聖典もそう言っておる」

 

「これはこれは、ファウスティヌス殿はお心が広い。では、もう一つ神の御名を頂いて、「三重聖名』になさっては?数に上下がないのなら、結構なことではありませんか」

 

「……卿は時々、余計なことを言うな」

 

「お褒めにあずかり恐縮です」

 

周囲で何人かが笑った。マルケッルス・セウェルス・ルキアヌスだけが、まだ泣いたあとの顔で立っていた。

 

旧王朝で彼ら門閥貴族が賜った爵位はなくなった。

そして彼らは新天地で、名の数を数え始めた。

 

教国の法にも聖典にも、聖名の数で位階を定める規定などなかった。それでも旧門閥貴族たちは、三重より二重、二重より単名を尊び、数が同じなら名の由来を比べていた。

 

神の名であればその神の格を、聖者の名であれば聖録における由緒を持ち出し、どちらを重く見るかについても、それぞれに一家言があった。

 

ところが、旧門閥貴族たちの領袖であるグレーフェンベルク侯だけは、「旧い家名を頼ってくる者がいるうちは、その名のままで彼らを信仰へ導くのが私の務めである」との理由で聖名を固辞し続けていた。自分一人が栄誉に浴するわけにはいかぬ、というのである。

 

もっとも、門下の貴族たちには積極的に聖名の拝受を勧めていた。由緒ある聖名を賜った者を人前で大袈裟に褒め、そうでない者には「卿の奉仕が、あの者に劣るとは思わぬがな」と耳打ちする。

 

そうして互いの聖名を比べるようになった貴族たちも、グレーフェンベルク侯に呼びかけるときだけは、揃って「侯爵閣下」と言った。

 

カザリスは笑っている貴族たちを眺めたまま、ラザレフに顔を寄せた。

「あいつら、天国で平民と並ばされるくらいなら、地獄に貴賓席がねえか探すぜ」

 

 

***

 

 

第二聖団司令コンラート・フェルディナント・ベーレントの名が呼ばれると、痩せた軍人は型どおりに進み、礼をして、同じ歩数で戻った。第四聖団司令ニコラス・ブルーメンタールには航路の司牧が一本と聖句が与えられ、第一聖団司令オットフリート・シュタイガーには聖句だけが与えられた。老将は低頭して席へ戻ったが、遠くて表情までは見えなかった。

 

「第四聖団〈レムレス〉艦隊司令、サミュエル・ホロウェイ従聖将――」

 

応える者はいなかった。リトゥス枢機卿は一拍だけ待ち、そのまま次の名を読んだ。

 

「第四聖団〈ディス〉艦隊司令、イリヤ・ラザレフ従聖将」

 

自分の番だった。ラザレフは壇の前まで進み、教えられたとおりに膝を折った。

 

恩賞は補充の優先枠と聖句で、聖名は読まれなかった。そこで初めて、自分がそれを警戒していたことに気づく。名を差し出さずに済んだという安堵のあとから、単に差し出すに足りないと判断されただけかもしれない、という考えが遅れてついてきた。

 

 

***

 

 

式のあと、回廊に長い卓が出た。

 

酒と料理が運ばれ、司祭たちが教国軍の幹部たちの杯を満たして回る。ラザレフは柱の近くに立った。立っているだけで済む場所を探した結果だった。

 

カザリスは彼を気に入ったらしく、祝いの席でも離れなかった。

 

「聖将、だとよ」

 

杯を揺らしながら笑った。

 

「数年前まで海賊まがいの商人、いや商人まがいの海賊をやってた俺が、いまじゃ聖将サマだ。最高に出来のいい冗談だと思わねえか」

 

「正式な肩書でしょう」

 

「そこがいいんじゃねえか。今ごろ帝都じゃ、皇帝やら元帥やらが報告書を囲んでるだろうよ。ジェイク・カザリス、第三聖団司令、聖将。聖団の名は『フェザーン』」

 

一度、杯を傾けた。

 

「俺ならまず欺瞞情報を疑うね」

 

「帝国軍は、そこまで暇でしょうか」

 

「暇じゃねえから深読みするんだよ」

 

「帝都の参謀を見くびるな」

 

低い声が割り込んだ。シュタイガーだった。

 

「欺瞞情報に使うなら、もう少しましな嘘をつく」

 

カザリスは声を立てて笑った。

 

「まあ、アガーテの婆さんに、冗談半分で艦隊を預けるなら聖将くらい寄越せって言ったら通っちまったんだよ。聖将だろうが聖人だろうが、船が通るなら何でもいい」

 

「いらんなら返してこい」

 

「こんな面白いもん、返さねえよ。しばらくはな」

 

カザリスは杯を空にし、思い出したように訊いた。

 

「そういや、ラスバッハの旦那はどうしました。あれだけ働いたんだ。名前くらい読まれてもよさそうなもんだが」

 

「謹慎中だ」

 

「ああ、そっちが残ってましたか」

 

「命令を無視して〈聖赦執行隊〉を出した。処分は処分だ」

 

「じゃあ、ラスバッハの旦那には何もなしで?」

 

「戦功章は出た」

シュタイガーは平然としていた。

「戦闘記録を洗い直したら、あれが落とした管制施設の一つにブリュックナーとかいう皇帝の近侍が乗っておったそうだ。ラスバッハが狙ったわけではない。単なるまぐれ当たりだ。本人は誰を仕留めたのかも知らんかったそうだ」

 

「で、勲章だけ来たと」

 

「そういうことだ」

 

「ラスバッハの旦那、喜んだでしょうねえ」

 

「いや」

 

シュタイガーは少し考えた。

「珍しく困った顔をしておった。叱られて部屋に閉じ込められているところへ、戦功章だけ持って来られたからな。『誰だそりゃ。たまたま当たった奴で褒められても、面白くねぇ』、だそうだ」

 

カザリスが吹き出した。

「そいつは見たかった」

 

「儂はもう見た」

 

「戦は上手いでしょうに」

 

「上手い。だから戦場に置いておく」

 

シュタイガーはそれ以上ラスバッハの話をせず、少し離れたところを杯も持たずに歩いていたブルーメンタールへ視線を移した。

 

カザリスが声をかけた。

「お、革命家の旦那。酒は飲まねえんですか」

 

「戦の前は飲まん」

ブルーメンタールはそれだけ返すと、ラザレフへ視線を移した。

「補充の優先枠が出たそうだな」

 

「はい」

 

「受け取れ。遠慮するな。ロフォーテンで減ったのは、お前の責任ではない。存分に戦えるところまで戻せ」

 

「承知しました、閣下」

 

ブルーメンタールはそれだけ言って歩いていった。

カザリスはその背中へ向かって言った。

「『戦の前』しかねえ国なんだがな。ここは」

 

ブルーメンタールは振り向かなかった。カザリスはしばらくその背中を見送り、それから一人で笑って杯を傾けた。

 

 

***

 

 

祝いの席が終わりかけたころ、鐘が一つだけ鳴った。退出を告げる鐘ではなかった。回廊の外へ通じる扉が閉じられ、一般の列席者が順に退出していく。残るよう告げられた者だけが、大伽藍の奥にある会議室へ案内された。

 

ラザレフの名も、その中にあった。

 

「えぇ?俺までか」

カザリスが隣で言った。

 

「聖団司令でしょう」

 

「そういう真面目な答えを返すんじゃねえよ」

 

部屋には長い卓が一つ置かれていた。席に着いたのは、聖王ヴィルヘルミーネ、慈母司牧アガーテ、七人の枢機卿、グレーフェンベルク侯、それに四人の聖団司令である。ラザレフは末席に座らされ、ロフォーテン会戦で実際に帝国軍と撃ち合った者として、求められたときに質問へ答えればよいとだけ告げられた。

 

軍議が始まる前に慈母司牧アガーテが立った。七人の枢機卿は同時に同じ型の小さな記録具を手元へ置き、老女が目を閉じるのを待った。

 

やがてアガーテが何かを呟いた。  

 

 『レオ・ソリイ・ラピデイ・イン・カンポ・プロベートゥル   

 

  ネ・スペル・インスラム・ソリタリアム・ウンブラム・グラディイ・イアキアス

 

  アンテクアム・フルクトゥス・ノヴィ・ラミ・ヌメレス、ラディケム・エイウス・ヌトリ』

 

短い言葉の連なりだった。 ラテン語だということくらいは分かった。

だが、聖堂で耳にするラテン語とは響きが違った。子音が硬く、母音の切れ目も違う。聞き覚えのある単語がいくつかあっても、一続きになると意味を取れなかった。

古い言い回しなのだろう、とラザレフは思った。

 

七人の枢機卿だけが一斉に手を動かし、老女にも隣の記録にも目を向けないまま書き取った。三句目が終わるとアガーテは目を開いたが、それ以上は何も言わなかった。プローディアが七枚の記録を順に確認して短く頷くと、記録板の上に文字が現れ、卓の中央へ投影された。

 

訳文は三行だった。

 

 『石座の獅子は、野にて量らるべし

 

  (ひと)つ島に、剣の影を落とすな

 

  新枝の実を数える前に、その根を養え』

 

ラザレフは三度読み返したが、どれも戦争の話には見えなかった。もっとも、教国の神託が最初から戦争の話に見えたためしはない。

 

枢機卿団の中で最初に口を開いたのはベルムだった。

「第一句から解釈して参りましょう。『石座』は玉座。『獅子』はローエングラムの皇帝、あの簒奪者の嗣子(しし)と解するのが自然でしょう」

 

リトゥスが頷いた。

「『野』は、座に対する外界を意味します。典礼上は試練の地を指す場合もあります」

 

「戦場、と読めますね」

プローディアが言った。

 

ベルムは聖団司令たちへ視線を移した。

「第一句は、『簒奪者の嗣子を戦場へ出せ』という意味と解します」

 

シュタイガーは何も言わず、投影された三句を見つめていた。

 

スアーダが二句目を指した。

「『孤つ島』はバーラト自治政府のことでしょう。ただし、『剣を振るうな』ではありません。『剣の影を落とすな』とあります」

 

グレーフェンベルク侯は眉を上げた。

「剣なら鞘に納めれば済む。影はどうやって納めるのだ?」

 

「攻めるな、だけなら刃で足ります。『影を落とすな』というのなら、軍事力を威圧として用いることまで避けよ、ということでしょう」

スアーダはそこで少し考えた。

「先日、私がハイネセンを訪れた際には護衛の聖列艦を伴いました。次は、それもやめた方がよいのかもしれません」

 

「護衛まで禁じるという意味ですか?」

ベーレントが訊いた。

 

「禁じる、とまでは申しません。ただ、護衛と呼ぶのはこちらの都合です」

スアーダは卓上の第二句へ目を戻した。

「バーラト自治政府から見て『次はもっと多くの軍艦が来る』と思わせるのであれば、それは十分に『剣の影』でしょう」

 

サエクルムは三句目を見ていた。

「『新枝』は、新たに教国へ加わった星系でしょう。『実を数える』というのは、財務院の言葉で言えば徴税、徴発、生産割当です」

 

「なら、取るなということですか」

 

「先に取るな、でしょうな」

答えたのはアロイジウスだった。

「『根を養え』とあります。食料、医療、住居、仕事。まず、そこで生きていけるようにする。それが先ですぞ」

 

「なるほどねえ。さっぱりわかんねえや」

カザリスは椅子へ深く座り直した。しばらく三行の訳文を眺めていたが、やがて口元を緩めた。

「で、前から一度聞きたかったんだがな」

 

七人の枢機卿を順に眺める。

「そもそも、その『神託』ってのは何なんですかね。そこにいるアガーテの婆さんが、その場その場で適当こいて吹かしてるだけじゃねえのか?」

 

空気が止まった。鐘が鳴っているときより静かだった。

 

リトゥスの顔色が変わった。

「貴様……フェザーンの海賊風情が、慈母司牧聖下を――いや、教団そのものを愚弄するか!」

椅子から腰を浮かせたところで、アガーテが片手をわずかに上げた。

 

「良いのですよ。私は気にしていません」

アガーテはカザリスへ目を向けた。

「ジェイク。私の子らを、あまり苛めないでくださいね」

 

「ほらな。いいってよ」

カザリスはリトゥスへ顎をしゃくった。

 

アガーテは今度はリトゥスを見た。その目には叱る色はなく、むしろ困った子供を見るような慈しみがあった。

「リトゥス。優しい子ね。私のために怒ってくれたのでしょう。ありがとう。でも、私は大丈夫ですよ」

 

リトゥスはなお憤懣を顔に残していたが、慈母司牧にそう言われては続けられなかった。ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。

 

そのやり取りが収まると、シュタイガーが三行の訳文を見たまま言った。

「カザリスの言うとおりやもしれませぬな」

 

カザリスが振り向いた。

「おいおい。俺の台詞まで取るんじゃねえよ、シュタイガーの旦那」

 

「儂は神託を信じてはおりませぬ」

シュタイガーは三行の文字から目を離さない。

「ですが、外れ始めるまでは使いまする」

 

「もう外したろ」

カザリスは笑った。

「建国の日だ。皇帝の首を取るってんで、あんだけ船を動かした。で、どうなった?」

誰も答えなかった。

「当の皇帝は今ごろ帝都で飯食って、風呂入って、女の一人や二人でも抱いて、ふかふかの寝台で寝てるぜ」

 

何人かの枢機卿が目を伏せた。リトゥスの顔が、怒気で見る間に赤黒くなった。

 

ベルムだけは表情を変えなかった。

カザリスの言葉遣いについては、聞かなかったことにしたらしい。

「神託は、戦場の一手一手まで指図するものではありません」

声も変わらなかった。

「示されるのは進むべき方角です。その先で敵を捕らえられなかったのなら、それは神託を解釈し、作戦にした我々の責任でしょう」

 

「へえ。神様は方角だけ教えて、道に迷ったら人間のせいか」

 

「軍人まで神にやらせるわけにはいきませんので」

ベルムは平然としていた。

笑ったのはカザリスだけだった。

プローディアは手元の記録板を開いた。

「記録にも、はっきり傾向が出ています。数時間後の艦隊運動や個々の指揮官の選択については、神託の修正も解釈の変更も多い。ところが、年単位になると事情が違います」

 

「どう違う」

 

今度はサエクルムが口を開いた。

「八年前、トリプラとライガールに残っていた休眠船渠と補修設備を、どのような高値でも買い取れという神託がありました。当時は大きく赤字の出ていた設備です。持っているだけで金が出ていく代物でした」

 

カザリスの笑みが少し薄くなった。

「覚えてるよ。俺のところにも買い付けの船が来た」

 

「財務院は反対しました。高すぎる、と。その後も維持費を払い続けました」

サエクルムは記録板に数字を出した。

「船渠そのものは他の星系にもありました。戦争になることも、誰もが予想していた。ですから各地で補修能力の増強も進めています」

 

「なら、あの二つを買う理由にはならねえな」

 

「ええ。当時は」

サエクルムは数字を切り替えた。

「予想が外れたのは、開戦後の損傷艦の戻り方でした。沈むか、軽傷で帰るかではなかった。主機か船殻のどちらかを大きく損ないながら、自力で帰投する艦が想定をはるかに上回ったのです」

 

カザリスの笑みが消えた。

「そういう艦は、普通の補修船渠では回せねえな」

 

「はい。主機を抜き、船殻を開き、大型艦を長期間収容できる設備が必要になる。いま教国軍が使っている重修理用船渠の相当部分が、八年前に買った設備です」

 

「……戦争が来ることは皆知ってたけどな」

 

「はい」

サエクルムは答えた。

「戦争が始まったあと、どんな壊れ方をした船が帰ってくるかを八年前に当てていたのです」

 

プローディアが別の記録を呼び出した。

「もう一つあります。十二年前、宣信院と辺境司牧院に、救済対象者の旧軍歴と保有資格を記録せよとの神託が出ました」

 

「それなら珍しくもないだろう」

カザリスが言った。

 

「はい。財務院も反対しませんでした」

プローディアは記録を送った。

「ただ、資格が失効しても、その記録を消してはならない。最後に実務に就いた年月を残し、その後も職種が変わるたびに追記せよ、と」

 

「ずいぶん細けえ神様だな」

 

「ええ。そこまで調べる必要があるのか、という意見も当時は出ています」

スアーダがブルーメンタールの方を一度見た。

「就業斡旋のため、と説明しました。それも嘘ではありません」

 

「だが、その名簿から第四聖団を作った」

ブルーメンタールが言った。

 

「第四聖団だけではありません」

スアーダは頷いた。

 

プローディアが別の表を出した。

「建軍後、資格が失効して十年以上になる者を、何百万人も呼び戻しました。ですが、その間ずっと実務から離れていた者ばかりではありません。民間の発電設備を扱っていた者も、貨物船に乗り続けていた者もいます。再訓練の期間を見積もる際には軍歴よりもその後の民間での職歴の方が役に立つことが多かった」

 

プローディアは手元の記録に目を戻した。

「名簿には、今も用途の分からない項目がいくつか残っています。そちらも、神託に従って更新を続けています」

 

誰も何も言わなかった。

 

カザリスもしばらく黙っていた。さっきまでの笑いはもう顔に残っていない。投影された三行へ目を戻し、卓を指先で二度叩いた。

「……長い博打は当てる。目の前の札はよく外す、か」

 

「乱暴ですが、記録だけを見れば、その理解で大きくは違いません」

プローディアが答えた。

 

カザリスは鼻で笑った。

「星系ひとつ跨ぐ航路は外さねえのに、宇宙港じゃ接舷をしくじる船頭みてえだな」

 

リトゥスの顔に、怒気が戻った。

「貴様……さっきから神託を何だと思っている!」

 

「だから、それを聞いてんだよ」

カザリスは悪びれもしなかった。

「俺は神だとも思ってねえんだよ」

 

リトゥスの顔にまた怒気が戻り、腰を浮かせかけたところで、スアーダが先に口を挟んだ。

「それでも構いません。カザリス聖将、この三句の内容そのものについて、異論がおありですか」

 

カザリスは返事をせず、もう一度三行を上から下まで読んだ。

 

 『簒奪者の嗣子』を戦場へ出す。

 バーラトには軍事的な威圧を加えない。

 占領した星系から取り立てる前に、まず立て直す。

 

神託だの母なる地球だのを全部取り払ってしまえば、どれも彼自身が聞いて腹を立てるような話ではなかった。

 

「そこが困るんだよなぁ」

カザリスは椅子へ背を預けた。

「異論は、ねえよ」

 

シュタイガーの口元が、ほんの少しだけ動いた。

 

 

***

 

 

神託の読みが一通り出ると、アガーテは聖王へ一礼した。

 

「ここからは、子らの仕事です」

 

ヴィルヘルミーネが小さく頷き、慈母司牧だけが退出した。扉が閉じるのを待ってベルムが卓の表示を切り替えると、三行の神託に代わって銀河西部の星図が現れた。

 

「では、戦争の話をする」

ベルムが言った。

 

帝国軍の現有戦力、保管艦の状況、民間船渠で始まった調査、軍用部品の発注量、航宙学校と軍施設における人員募集の変化が順に示された。数字には幅があり、帝国が対教国政策として実際に何を決めたかまでは分からない。それでも民間契約と物流を追えば、何を始めようとしているかはある程度見えてくる。

 

「帝国軍の正規艦隊は六個、総数およそ九万隻。保管艦の復帰はすでに始まっている。新造艦の増加には時間がかかるが、造船能力は二年ほどでかなりのところまで回復すると見積もる」

ベルムが言った。

 

「二年で『艦隊』が倍になる、という意味ではありません」

ベーレントが訂正した。

「『艦』だけなら数は伸びるでしょう。ですが乗員、艦長、機関、通信、幕僚は船渠では造れません。艦を揃えるより、艦隊を作る方が時間がかかります」

 

シュタイガーが訊いた。

「それでも二年後には、今より強くなるか」

 

「間違いなく」

 

「こちらは」

 

「増やせます。しかし同じ率ではありません。二年後に同じ損耗率で撃ち合えば、先に苦しくなるのはこちらです」

ベーレントは淡々と答えた。

 

ブルーメンタールが腕を組んだ。

「ならば、その二年で取れるだけ取るべきだ。星系を奪えば、こちらには船渠も工員も鉱山も増える。帝国からはその分が減る」

 

「進んで、どこまで行く」

 

「進めるところまでだ」

 

シュタイガーは星図から目を離さなかった。

「二十六年前にもどこかで聞いたような話だな」

 

ブルーメンタールの目が細くなった。

「……同盟の帝国領侵攻作戦を言っているのか」

 

「そうだ」

シュタイガーは星図の外縁を指でなぞった。

「旧同盟軍は帝国領へ出て、星を取った。取った星には兵を置き、食わせ、守った。前へ出るほど後ろが長くなり、最後には自分で自分を支えられなくなった」

 

「我々は同じ失敗をしない」

 

「皆、始める前にはそう言う」

シュタイガーの声に嘲りはなかった。

「帝都を落とせば戦が終わるなら、それでもよい。だがローエングラムの帝国は、帝都一つではない。艦隊は退ける。政府も移せる。取った土地を守るたび、こちらの十一万隻は薄くなる」

 

ブルーメンタールが黙ると、シュタイガーは短く続けた。

「儂らは戦をやめたいわけではない」

 

カザリスが小さく笑った。

「ちげえねえ。そいつは、この部屋で一番揉めねえ話だろうな」

 

否定する者はいなかった。

 

「だが、今の形のまま戦を長く続ければ、負ける。帝国を相手に、沈めた艦の数を競う戦はできん」

シュタイガーが言った。

 

グレーフェンベルク侯が面白そうに眉を上げた。

「ほう。では何を買う。二年という代価を払って、星でなければ何を」

 

「侯。帝国を征服する必要はございませぬ」

シュタイガーは答えた。

「帝国を一つでなくせばよいのです」

 

侯の笑みが少し深くなった。部屋の他の者は黙り、ベルムが先を促した。

 

シュタイガーは帝国領を指した。

「この国の強さは、艦の数だけではない。皇帝の名で命令が出れば、遠い星の船渠も鉱山も人間も、同じ戦争へ向く。六個艦隊を失っても、また作る。星を一つ取っても、別の星が埋める。それが帝国だ。国力を侮ってはならん」

 

その指が帝都ではなく、星図の中央に表示されたローエングラム朝銀河帝国の国章へ移った。

「ならば、これを使う」

 

ベルムが神託の第一句を再び表示した。

 

『石座の獅子は、野にて量らるべし』

 

ブルーメンタールが言った。

「皇帝を殺すのか」

 

「殺せればよい」

シュタイガーは平然と答えた。

 

それまで黙っていたノクス枢機卿が口を開いた。

「皇帝個人を除くだけなら、戦場へ出す必要はないでしょう。帝都にも人は入れます。方法を選ばなければ聖廉院で検討できます」

 

「それでは意味がない」

シュタイガーは即座に退けた。

「帝都の寝室で皇帝一人を殺しても、帝国軍は負けておらん。ミッターマイヤーもミュラーも残る。官僚も船渠も鉱山も残る。下手をすれば、若くして殺された皇帝を殉教者にしてやるだけだ」

 

ノクスは表情を変えなかった。

「では死そのものには価値がないと」

 

「単独ではな」

シュタイガーは星図の獅子を指した。

「欲しいのは皇帝の死体ではない。ローエングラムの皇帝が軍を率いて出て、その軍とともに敗れることだ。皇帝を討つなら、帝国軍主力も、その威信も、同じ日に傷つける。それで初めて意味がある」

 

「では」

 

「皇帝を出させる。帝国軍主力を、その護衛ごと我らの選んだ戦場へ出させる。そこで軍を叩き、皇帝を討つ。戦の敗北と王朝の敗北を、同じ日に重ねる」

 

グレーフェンベルク侯が喉の奥で笑った。

「若い冠というものは、古い冠より傷が目立つ。臣民の前で一筋つけてやれば、玉座に座ったままではおれまいよ」

 

シュタイガーは侯を見た。

「侯。傷をつけるだけでは足りませんな。皇帝をお舐めにならぬ方がよい」

 

侯の眉がわずかに上がった。

 

「若いことは事実です。だが傍にいるのはミッターマイヤー、ミュラー、ケスラーでしょう。悪口を言われた程度で皇帝を戦場へ出すほど、あの国は愚かではない」

シュタイガーは少し間を置いた。

「……ビッテンフェルトの猪もおりますな」

 

「ならば、どうする」

 

「皇帝本人が出て来ざるを得ない戦場を作ります」

 

シュタイガーが星図を拡大すると、バーミリオン、リューカス、ガンダルヴァ、その後方にマル・アデッタとランテマリオが現れた。

 

【星図】

【挿絵表示】

 

 

「帝国は外周のいくつかを捨てて退くだろう。後年の反攻に使う艦を残すためだ。それは正しい。だが、正しい撤退にも『政』の値段は付く」

 

ベルムが星図を見た。

「皇帝に払わせる値段か」

 

「それもある」

 

シュタイガーは二十年以上前のシヴァ星域会戦の記録を開いた。皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムが自軍将兵へ発した言葉のうち、老将が示したのは最後の一節だけだった。

 

『卑怯者がローエングラム王朝において至尊の座を占めることは、けっしてない』

 

誰も笑わなかった。

 

「簒奪者本人が、息子とその後の皇帝まで縛ってくれた」

シュタイガーが言った。

「ローエングラムの皇帝は兵の後ろに隠れない。それは我らが作った宣伝ではない。向こうの皇帝が、向こうの兵へ約したことだ」

 

スアーダが画面を見たまま言った。

「出陣しなければ、その約束を破ったと宣伝するのですね」

 

「そうだ」

 

「出陣すれば、皇帝本人が戦場へ来る」

 

「それが本命だ」

 

スアーダがようやく顔を上げた。

「では、出ざるを得ない状況を作るということですか?」

 

シュタイガーは首を振った。

「強いる必要はない。出た方が帝国にも得だと思わせればいい」

 

指を一本立てた。

「軍事的に勝てそうに見える」

 

二本目。

「捨てれば臣民へ説明しにくい土地にする」

 

三本目。

「先帝の言葉を思い出させる」

 

四本目。

「そして皇帝自身が出れば、実際に戦況を変えられると思わせる」

 

シュタイガーは手を下ろした。

「一つなら疑う。四つ重なれば、自分で決めたと思う」

 

ベーレントが静かに言った。

「罠だと分かっていても、入る利益がある罠か」

 

「罠とは、そういうものだ」

 

ラザレフは星図を見ながら、ロフォーテンで自分たちがしたこととの違いを考えた。退路を隠して待つのではない。敵が自分の足で選びたくなる道を、先に作っておくのだ。

 

「戦場は」

ベルムが訊いた。

 

シュタイガーの指が、星図の一点で止まった。

「バーミリオンだ」

 

誰もすぐには口を開かなかった。二十数年前、ヤン・ウェンリーが先帝ラインハルト・フォン・ローエングラムをあと一歩まで追いつめた星域である。

 

「あそこなら、皇帝を出す理由を作れる。軍事上の必要だけではない。ローエングラム王朝にとって、名のある戦場でもある」

 

ベルムが訊いた。

「皇帝がこちらの狙いに気づいても?」

 

「気づかせればよい」

シュタイガーは星図を見たまま答えた。

「罠だと分かっていても、出た方がましだと思う状況を作る。そのための戦場である」

 

「神託は場所まで言っていないがね」

カザリスが言った。

 

「それでよい」

シュタイガーは答えた。

「戦場まで神に決めてもらうようになったら、儂らは給金を返さねばならん」

 

今度はカザリスだけではなく、ベルムまでわずかに口元を緩めた。

 

聖王ヴィルヘルミーネは、それまで一度も口を挟まなかった。少女は星図を見たまま、ようやく口を開いた。

「戦は、そこで終わるのですか?」

 

シュタイガーは聖王へ身体を向けた。

「いいえ、陛下。皇帝を討てても、帝国は残ります」

 

「ならば、まだ続くのですね」

 

「続きます」

 

ヴィルヘルミーネはしばらく星図を見ていた。バーミリオンの名の周囲には、すでにいくつもの作戦線が引かれている。

「……戦争なんて早く、終わればいいのに」

 

誰もすぐには答えなかった。

建国の日、この少女がローエングラムを簒奪者と呼び、その冠を認めず、銀河帝国へ聖戦を宣したことを、この部屋の者は皆知っていた。

 

ヴィルヘルミーネ自身も、何を言ったのか気づいたらしい。ほんの少しだけ視線を伏せた。

だが、言い直さなかった。

 

シュタイガーも何も言わなかった。ベルムは星図へ目を戻し、グレーフェンベルク侯からは笑みが消えていた。

 

やがてベルムが第二句へ表示を切り替えた。

 

『孤つ島に、剣の影を落とすな』

 

グレーフェンベルク侯は星図のバーラトを眺め、いかにも惜しそうに指先を動かした。

「これは惜しいな。城門が開き、守兵もおらぬ。それでも門前を素通りせよと申すか」

侯はハイネセンを指先で軽く叩いた。

「ゴールデンバウム王朝が開かれて以来、あの地を所領にした貴族は一人もおらぬ。もしわしが取れば、家譜にはこう書ける」

口元に楽しそうな笑みを浮かべた。

「『ハイネセンを領した最初の青き血』とな。……なかなか捨てがたい一行ではないか」

 

「……家譜の一行にしては、代価が高すぎます」

ベーレントが答えた。

「攻撃すれば、バーラトに再軍備する理由をこちらから与えることになる」

 

侯は少し考え、それから肩をすくめた。

「なるほど。領地を一つ増やして、敵国を一つ増やすのでは帳尻が合わぬか」

 

ブルーメンタールが眉を寄せた。

「バーラトが艦隊を持ったところで、いまの我々を止められるとは思わん」

 

「問題は、止められるかどうかではありません」

スアーダが言った。

「いまのバーラトは、我々と戦っていないのです。こちらから攻めれば、非武装を唱えてきた者を黙らせ、再軍備を求める者に正しさを与える。帝国と手を結ぶ理由まで、こちらから渡すことになります」

 

グレーフェンベルク侯が小さく笑った。

「高い買い物よな」

 

カザリスが杯のない手を動かした。

「俺も島を焼くのは反対だな」

 

「慈悲ではないな」

ブルーメンタールが訊いた。

 

「商売だよ。ハイネセンにゃ、船も客もいる。砲撃すりゃ両方減る」

 

「それだけか」

 

「理由は一つでなきゃいけねえのか?」

 

ブルーメンタールは答えなかった。

 

「これまでどおり、医療、家族照会、民間航路、必要な物資は止めません」

スアーダが続けた。

「先日の私の訪問では聖列艦を伴いましたが、次からはそれも外しましょう。バーラトが帝国軍を受け入れない限り、こちらから『剣の影』を作る必要はありません」

 

カザリスは神託を見た。

「『剣の影』すら落とすな、か。神様ってのも意外と商売が分かってるねえ」

 

リトゥスは何も言わなかった。

 

ベルムが第三句を表示した。

 

『新枝の実を数える前に、その根を養え』

 

第三句では、サエクルムが最も長く話した。

「新領域では、聖庫への献納を当面求めません。徴発も軍需上不可欠なものに限定する。港湾使用料、医療費、基礎食料についても減免を組みます」

 

グレーフェンベルク侯が眉を上げた。

「ほう。青い実をもぐな、ということだな」

口元に満足そうな笑みが浮かんだ。

「神託もたまにはわしと同じことを申す」

 

「取らないわけではありません」

サエクルムは平然としていた。

「取れるようになってからです」

 

「それならよい。実のならぬ木から薪を取るほど、わしは貧乏ではない」

 

「食料と医薬品は、先に入れましょう」

アロイジウスが加えた。

「停電している地区には発電設備を。家族が離散している地域には、名簿の照会所を置きますぞ」

 

「仕事もです」

スアーダが言った。

「港が動けば、まず現地の者を雇う。帝国の役所が退いたあとに何も残らない状態を作ってはなりません」

 

ブルーメンタールが頷いた。

「帝国が戻ってきたとき、住民が帝国軍を解放者だと思わない程度にはしておくべきだ」

 

「言い方は違いますが」

スアーダは微笑んだ。

「やることは同じでしょう」

 

カザリスが腕を組んだ。

「飯を食わせる。医者を置く。港を動かす。働けば金が出る。まずはそれで十分じゃねえのか」

 

「……人は糧だけで生きるのではない」

リトゥスが言った。

 

「それ、目の前で腹すかしてる奴に言ってみな」

 

「だからその腹を満たした後に何を与えるかも必要だと言っている」

 

「じゃあ、俺は先に腹を満たすわ。坊さんの説教はそのあとで頼む」

 

「説教ではない!」

 

「そういうところだよ。腹一杯になった後なら、説教もいい子守唄になるかもな」

 

二人は同じことの違う順番を話していた。食料と医師を送り、港を直し、身元照会と仕事を用意すること自体には、誰も異論を唱えなかった。

リトゥスには慈悲、サエクルムには投資、スアーダには統治、ブルーメンタールには帝国から住民を切り離す手段であり、カザリスにとっては客を増やす話だった。

 

軍議が終わったのは、日が変わる前だった。

 

バーミリオン方面では第一聖団を中心に、皇帝を戦場へ引き出す条件を調べる。

バーラトには軍事的圧力を加えず、次の使節からは護衛の聖列艦も外す。新たに教国支配下へ入った地域では徴税や徴発を急がず、食料、医療、港湾、雇用、身元照会を先に整えることになった。

 

数時間前には意味も分からなかった三句が、散会するころには艦隊の調査項目や輸送計画にまで姿を変えていた。

 

席を立つより先に、シュタイガーはベーレントを呼び止め、バーミリオン方面の補給資料を求めた。カザリスは輸送を担当する者の名を訊き、ブルーメンタールは皆が席を離れ始めても、しばらく帝国側の星図を見ていた。

 

彼らが神託について何を信じているのかは、最後まで誰も確かめなかった。

 

 

***

 

 

散会の廊下で、ラザレフは慈母司牧アガーテとすれ違った。

 

司祭たちが次々に足を止めて低頭する。壇の上では遠すぎて分からなかったが、近くで見るアガーテは思っていたより小さな人だった。

 

老女はラザレフの前で足を止めた。

「良いお顔ですね」

 

穏やかな声だった。ラザレフは何と返せばよいのか分からなかった。

 

アガーテはしばらく彼の顔を見ていた。

「欲の薄い、良いお顔」

 

それだけ言うと、アガーテは歩いていった。

 

ラザレフは何を言われたのか分からないまま、その場にしばらく立っていた。やがて、自分があれを褒め言葉として受け取っていたことに気づいた。




――「政治家の仕事は、正しい答えを皆さんへ与えることではありません。皆さんが、自分で答えを選べる状態を守ることです」

次回、『ハイネセンに、所管はない(前編)―― バーラトside』

V — 人物図譜 聖王ヴィルヘルミーネ
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