【新帝国暦二十四年三月 帝都レーヴェンシュテルン・獅子の泉「北辰の間」】
『バーミリオン星域』という名が帝国軍の戦況図に戦場として表示されるのは、二十数年ぶりのことだった。
かつて自由惑星同盟と銀河帝国が戦っていた時代、この星域で両軍の会戦が行われた。同盟軍を率いたのはヤン・ウェンリー元帥、帝国軍を率いたのはラインハルト・フォン・ローエングラム元帥だった。
帝国軍は同盟領深くまで進出した。正面からこれを押し返すだけの力を、すでに自由惑星同盟は持っていなかった。ヤン・ウェンリーが選んだのは帝国軍全体の撃破ではなく、その中心にいるラインハルトを倒すことだった。
ローエングラム陣営には、その時点でラインハルトの権威と統率力を継承できる後継者が定まっていなかった。彼が倒れれば帝国軍は揺らぎ、帝国内部でも権力の再編が始まる。少なくとも同盟領への外征を続けることは難しくなる。それが存亡の瀬戸際にあった自由惑星同盟に残された唯一の生存策だった。
ヤン艦隊はシュタインメッツ、レンネンカンプ、ワーレンといった帝国軍の名だたる提督たちを次々と退けながらラインハルトの本陣へ迫り、最後には総旗艦ブリュンヒルトをもその射程に収めた。しかしハイネセンから停戦命令が届き、ヤンはそれに従った。
それから二十数年が過ぎた。
自由惑星同盟はすでになく、ヤンもラインハルトもこの世にはいない。
それでもバーミリオンという星域は、昔と同じ場所にあった。
新帝国暦二十四年三月、その名が戦況図へ戻ってきた。最初に異変を捉えたのは、教国勢力圏を監視していた帝国軍の情報網だった。
タナトス星系を中心とする複数の集結泊地から教国軍の正規艦隊が相次いで出航し、その進路が数時間を経るうちに一つの方面へ収束し始めた。
「敵艦隊の進出先はどこだ」
宇宙艦隊司令長官のミッターマイヤー元帥が訊くと、参謀が星図を拡大した。
「バーミリオン星域です」
確認された教団軍の艦影はすでに三万隻を越え、さらに後方にも複数の集団がある。
統帥本部は最終的な規模を五万隻級、五個艦隊規模と見積もっていた。
獅子の泉の「北辰の間」にわずかな沈黙が生じた。
議長席にはアレクがいる。
宇宙艦隊司令長官ミッターマイヤー、軍務尚書ケスラー、ミュラー、ビッテンフェルト、メックリンガー、アイゼナッハの各元帥、それに統帥本部総長ザルツマン大将と参謀団が席を占めていた。
元帥席の一つは空いている。
ワーレンは一月の北辰大軍議の決定に従い、すでに一万五千隻を率いて帝都からバーミリオン星域へ進出して艦隊の展開を完了していた。主表示の脇には、ワーレン艦隊司令部から送られてくる戦況情報が絶えず更新されている。
驚きはない。
バーミリオン星域が次の戦場になる可能性は北辰大軍議で織り込み済みであった。
教国使節団の訪問を受けたバーラト自治政府からも、教国軍によるバーミリオン進出の計画が告げられていた。大軍議で定まった戦略として、帝国はこの方面を主防衛線には選ばず、人と物を後方へ送り出したのち所定の条件で軍も退く遅滞圏と定めている。
それでも『バーミリオン』という地名まで無色になったわけではなかった。
「……バーミリオンか」
ミッターマイヤーが低く言った。
ミュラーも星図を見たまま、しばらく黙っていた。
二十数年前、この星域でラインハルトを守るために艦を乗り換えながら戦い続けた。後に彼の〈鉄壁〉という異名を語るうえで欠かせない戦歴の一つになった。
「ずいぶん経ちましたな」
「そうだな」
二人の会話はそれだけで終わった。
ミッターマイヤーは参謀席へ向き直った。
「予定どおり、バーミリオン方面からの撤収計画へ移る。その前に目的だけ確認する」
星図の縮尺が変わり、バーミリオン星系と帝国後方を結ぶ航路が大きく表示された。
【北辰大軍議後・帝国軍基本配置予定図】
「バーミリオンは守り切る戦場ではない。教国軍主力を艦隊決戦で撃破する場所でもない。今、我々がやることは三つだ。ひとつ、退去を希望した臣民を全員星系の外に出す。ふたつ、軍需物資を可能な限り後送する。みっつ、ここへ出した艦隊を次に戦える形で帰す」
バーミリオン星系の総人口は一億八千万に近い。帝国政府は住民の強制退去を命じていなかった。
すでに教国支配下へ入った近隣星系では、少なくとも表面上、統治は安定していた。虐殺や略奪があるわけではなく、港や市場、地方行政は再び動き始め、帝国統治下より税負担が軽く、福祉が手厚くなった地域も少なくない。
故郷に残る者、仕事や家族を置いていけない者、神権国家による新しい統治にさほど不満を覚えない者もいた。結局、帝国領への退去を届け出た者は、星系人口約一億八千万のうち約二百七十万人だった。
「残ると決めた者まで無理に船へ押し込むことはしない。だが、バーミリオンを出ると届け出た帝国臣民は全員、搬出計画に載せる」
北辰大軍議の直後から遅滞圏のバーミリオン、リューカス、ガンダルヴァの各星系からの撤収作業は始まっていたが、まだ輸送待ちの住民と軍需物資が残っている。
作戦に参加する帝国軍艦は約四万隻。
現地に展開中のワーレン艦隊一万五千隻を最も前方へ出して教国軍を牽制しつつ、搬出拠点からはできるだけ遠ざける。
バーミリオン星系総督府のある惑星モン・ミラーユの軌道には、リューデンハイム中将麾下の現地遅滞部隊五千隻を残し、最後の輸送作業を守らせる。
現地遅滞部隊とは、バーミリオン軍管区に平時から置かれている警備戦力を中核とする地方部隊だった。正規艦隊のように遠征して敵主力と戦うためのものではなく、星系内の航路と港湾、軌道施設を守るための軍である。
その後方にはミュラー艦隊一万五千隻を置き、前方部隊が退き始めたときの受け皿とする。
残る五千隻の指揮にはケルステン中将を置き、一か所には集めず、救難、中継、収容、航路維持へ分散させる。戦うための五千隻ではない。四万隻を最後まで帰すための五千隻だった。
「撤収条件も変更しない」
ミュラーが確認するとミッターマイヤーは頷いた。通信、退路、掩護戦力、燃料。事前に定めた基準のいずれかが限界を割れば、まだ戦える艦が残っていても退く。
教国軍五万隻が来ると分かってからであっても、新しく決めなければならないことはほとんどなかった。
撤収条件を定める統帥本部訓令案の初稿起案を担当したのは、統帥本部作戦局のハインリヒ・フォン・アイゼンベルク中尉だった。
通信回線の残存率、退路の確保状況、掩護可能な艦数、燃料、損傷率、救難艦の処理能力。いくつかの条件が同時に悪化した場合についても、組み合わせごとに撤収開始の基準が置かれている。現場から帝都へ判断を仰いでいる間に退路を失うことがないよう、一定の条件に達すれば現地司令官が独自に撤収へ移れるようにしたものだった。
草案は、統帥本部から前線のワーレンにも意見照会として送られていた。
しばらくして、ワーレンから照会が入った。担当者として回線に出たのはハインリヒだった。
『アイゼンベルク中尉。起案者である貴官に一つ訊きたい』
「はい、閣下」
『この表のどの条件にも当てはまらん状況では、誰がどのように撤収を判断する』
ハインリヒは一度、手元の草案を見た。
「は、現地指揮官の判断となります」
『どこに書いてある』
「最終項です」
ワーレンは数秒黙った。
『その一行は、一番上の項目に置け』
「一番上に、でありますか」
『撤収の条件を事前に決めるのは結構。だがどれだけ細かく準備しても、戦場では必ず想定外のことが起きる』
ハインリヒは答えられなかった。
『条件で決められないところから先が現場の仕事だ。ルールで答えが出ない場合、現地指揮官での判断となることをまず最初に書け』
通信が終わったあと、ハインリヒは草案を開き直した。数値は一つも削らなかった。
ただ、最終項にあった一文を冒頭へ移した修正案を作り、統帥本部総長の決裁へ回した。
――撤収の最終判断は、現地指揮官に属する。以下の基準は、その判断を妨げるものではない。
あとは皇帝による命令発出の裁可を待つだけの状態となったところでアレクが口を開いた。
「余の位置がないな」
北辰の間の動きがそこで止まった。アレクは少し黙ってからメックリンガーを見た。
「あの映像は、余も見ている」
メックリンガーの手が止まった。
「……教国の流している宣伝放送を、でございますか」
「そうだ。シヴァ星域会戦での父上の演説を利用したものだ」
教国が全銀河に向けて配信している映像は、二十年以上前の記録映像から始まる。
イゼルローン共和政府軍と戦うシヴァ星域会戦で、先帝ラインハルトが帝国軍将兵へ語りかけている。教国側の映像は、まずその演説の末尾近くからごく短い部分を抜き出した。
『余の息子もだ。ローエングラム王朝の皇帝は、兵士たちの背中に隠れて、安全な宮廷から戦争を指揮することはせぬ』
そこで映像は切り替わった。現在のバーミリオンである。
宇宙港の待機区画に並ぶ住民の列、係員に書類を差し出す老人、子を抱いたまま順番を待つ女、積載中の輸送船、軌道港へ向かう連絡艇、閉鎖予定日を告げる帝国政府の公告。どの場面にも、帝国官憲が暴力を振るう様子はない。怒号もない。むしろ映っているのは、整然とした撤収作業だった。
教国の宣信院は、そこを逆に利用していた。静かな声が流れる。
『ローエングラムの帝国は、秩序だった退去を行っているという』
画面の隅に、細い文字で日付と撮影地点が出た。
バーミリオン星系惑星モン・ミラーユ中央宇宙港。第七待機区画。モン・ミラーユ軌道搬出港。第三積載塔。
いかにも記録映像めいた体裁である。
『では、誰が去り、誰が残るのか』
住民の列がもう一度映る。今度は子供の顔が少し長く残された。荷物を抱えた商人らしい男もいた。病人を乗せた担架が通り、軍需輸送船へ運び込まれるコンテナの列が重なる。
そこで字幕が現れた。
『去るのは帝国。残るのは民』
ビッテンフェルトが低く鼻を鳴らした。メックリンガーは何も言わず、再生を続けた。次に映ったのは、教国占領下に入った近隣星系の市街映像だった。
港で荷役が再開され、市場で物が売られ、旧地方行政庁舎の前を人が出入りしている。広場では子供たちが笑い声を上げ、教国軍の兵士や教団の司祭、黄金樹の徽章をつけた信徒たちに混じって遊んでいた。
帝国側も把握している映像である。画面の中には、教国軍による虐殺も略奪も、占領軍に怯える群衆も映っていない。教国はそうした日常の断片を並べ、自らの統治が安定をもたらしたかのように見せていた。
画面には簡潔な指標が添えられる。
『市場再開。雇用安定。港湾機能回復。税率引下げ。学校再開』
もちろん、それがどこまで本当かは別だった。だが、映像だけを見れば、少なくとも「教国に占領されたら地獄になる」とは見えない。
『新しい支配が始まっても、民は生きねばならぬ』
ナレーションは終始静かで、声を荒らげることがない。それがかえって、視聴者に自分で考えた結論であるかのような錯覚を与える。そこで再び画面が切り替わった。
今度は一人の若い帝国軍士官の顔写真だった。
『トビアス・ブリュックナー』
名と階級、没年、そして短い説明が示される。
『皇帝の士官学校時代の学友。建国の日、マーロヴィアの撤収回廊にて皇帝に残置され、戦死』
トビアスの肖像写真は数秒、動かなかった。それから画面の片隅に、もう一行だけ文字が加わった。
『――皇帝は、友を捨て石にして逃げた』
映像はそこで止まらず、幼年学校時代のものらしい古い集合写真へ移った。
アレクの姿も小さく写っている。さらにそのあと教国側がどこから入手したものか、士官学校時代の訓練映像が流れた。若い候補生たちが走り、笑い、整列している。
実際には何の変哲もない記録でしかない。だが編集は、その中からアレクとトビアスが同じ画面に映る瞬間だけを選び出して繋ぎ合わせていた。
『一人の友すら守れなかった者が』
そこで現在のバーミリオンの映像へ戻る。輸送船へ乗り込む住民、軌道上で積載を待つ船列、港湾職員に誘導される避難民。画面中央に、今度は少し大きめの文字が浮かんだ。
『バーミリオンの一億八千万の民を守れるのか』
ミュラーの表情は動かなかったが、視線だけがわずかに硬くなった。
宣伝映像は、そこで初めてアレク個人へ矛先を向けた。
『冠は、人の上に置かれる。だが、責はどこに置かれるのか』
バーミリオンの港。帝都レーヴェンシュテルンの遠景。帝国軍総旗艦ブリュンヒルトの過去映像。
そして再び先帝ラインハルトの演説の記録映像が流れる。
『余の息子もだ。ローエングラム王朝の皇帝は――』
そこだけをもう一度聞かせ、今度は途中で音声を切る。切られた沈黙のあと静かな声が続いた。
『その言葉は、今なお生きているのか?』
今度の字幕は問いの形だった。
『ローエングラムの皇帝は、バーミリオンの民と共に残るだろうか?』
すぐには次の文が来ない。数秒の間を置いてからトビアスの写真が再び現れた。
『友を戦場に残して逃げた者が、民を残さぬと言えるだろうか?』
さらに別の字幕。
『近き者を捨てた者が、遠き者を捨てぬだろうか?』
ケスラーの眉がわずかに動いた。文言そのものは断定ではない。問いかけ、格言めいた言い回し、黙想を促す調子で統一されている。
だが、映像の順番が結論を代弁していた。最後に教国の国章が暗い背景に浮かび上がった。
『我らは問うのみである』
鐘の音が一度だけ鳴る。
『バーミリオンの民よ。汝らと共に残る者が、誰であるかをよく見よ』
画面が落ちた。アレクはしばらく画面を見ていた。
「……綺麗に並べたものだな」
「安い挑発です」
ミッターマイヤーが言った。
「陛下がお応じになる理由にはなりません。敵の意図は明らかです。陛下をバーミリオンへ誘い出し、そこで討つ。ここまで露骨にバーミリオンでの決着を急ぐのは、教国軍が長期戦には耐えられぬ証拠でもあります」
アレクにも異論はなかった。
だが教国側の映像は、まったくの虚構から作られているわけでもなかった。帝国はバーミリオンから退く。その後ろにはリューカスがあり、ガンダルヴァがある。そこも必要なら同じように人と物を出して軍を退かせる。
メックリンガーが旧同盟領を広く表示した。
「教国が狙っているのはバーミリオン一つではないでしょう。帝国は、自分たちを守るためなら旧同盟領を順番に切り捨てる。その印象を作ることができれば、次からは地方官吏も港湾労働者も輸送業者も、帝国はいずれ自分たちを置いていくと思い始めます」
軍事的な後退と、国家に見捨てられたと思われることは同じではなかった。
「父上の演説だけなら、余は行かん」
アレクが言った。
「父上がシヴァ星域の会戦で何を言おうとしたかは分かる。皇帝だけが安全な場所にいて、兵に戦わせるべきではない。そういうことだったのだろう」
少し間を置いた。
「あれは父上が、自分の時代に出した父上の答えだ。父上の言葉に従うのではない。余は余の理由で、バーミリオンに行くと決めた」
アレクは一度、星図へ目を落とした。
「トビアスならどうした、とも考えない。あいつには、もう訊けないからな。だから、これは余自身で決めた」
北辰の間は静かだった。
トビアス・ブリュックナーの死は、すでに一人の青年士官の死だけではなくなっていた。
帝国政府では、建国の日の撤収作戦で最後まで回廊を維持した功績を公的に顕彰する準備が進められている。勲章の追贈、戦死公報の特別掲載、遺族への弔慰、そして「撤収回廊の英雄」という呼称まで、いくつかの案が上がっていた。
それ自体に虚偽があるわけではない。
トビアスが撤収のために残り、多くの人間を先に通したのは事実だった。
一方、教国の宣信院は同じ事実から、まったく別の物語を作った。
皇帝の学友でありながら置き去りにされた青年。人々を逃がすために残された犠牲者。自分は帰還した皇帝に見捨てられた友人。
帝国では英雄だった。
教国では犠牲者だった。
勇敢だったことも、残されたことも、どちらも嘘ではない。だからこそ厄介だった。
二つの国家が、一人の死者から、それぞれ自分たちに必要な意味を切り出している。
トビアス本人は、もうどちらにも反論できない。
「余は前線で指揮を執るために行くのではない。敵艦を一隻多く沈めるためでもない」
アレクはバーミリオンを指した。
「帝国が自ら退くと決めた土地で、その決定を皇帝自身が引き受ける。そのために行く」
「陛下。それは映像でも、直接中継でもできます」
ミッターマイヤーは冷静だった。
「ミッターマイヤー元帥、そうではない」
アレクは答えた。
「これは為政者としての責任の問題だ」
ミッターマイヤーはしばらく皇帝を見ていた。
「……では条件がございます。陛下がお出になっても作戦は変えません。撤収条件も変えない。陛下がお残りになることで、一隻でも余計に残すことは認めません」
アレクは黙って聞いた。
「条件が成立すれば、ワーレンもミュラーも現地部隊も退きます。ブリュンヒルトが損傷すれば、陛下には別の艦へ移っていただく。戦場で陛下がお残りになると言われても、それを理由に撤収計画を変えることはいたしません」
アレクは、少し前にブリュックナー家を訪ねたときのことを思い出した。
帝国政府がトビアスの顕彰を検討していることを伝えるための訪問だった。勲章の追贈も、戦死者としての待遇も、家族は拒まなかった。
ただ、「撤収回廊の英雄」という言葉が出たときだけ、部屋の空気が少し変わった。
ブリュックナー家の者はしばらく黙ってから言った。
『あの子が人を逃がしたことは、誇りに思っています』
アレクは何も言わずに聞いていた。
『でも、運んだ者が戻らなかった仕事を、うちでは成功とは呼びません』
責める口調ではなかった。
皇帝に向けた抗議でも、軍に対する恨み言でもない。ただ家族にとっては、人を帰したという結果と、トビアス自身が帰らなかったという事実を、同じ言葉で包むことができなかったのだ。
あのとき、アレクには返す言葉がなかった。
今もない。
トビアスは人を帰すための仕事をして、自分だけ帰らなかった。
帝国がそれを英雄の物語にすることはできる。勲章も与えられる。名前も残せる。
だが、それで同じ死をもう一度繰り返してよいことにはならない。
「それでいい」
アレクは答えた。
「余も帰還対象に入れろ」
ミッターマイヤーは一礼した。
「御意」
それから先は早かった。皇帝の出陣準備が始まったころには、帝国軍の方がすでに先へ動いていた。
***
【数日後 帝国軍総旗艦ブリュンヒルト アレク】
帝都レーヴェンシュテルンが後方表示から消えたのは、出航から五時間ほど経ったころだった。アレクは一度だけ後ろを見たが、帝都を示す光はすでに周囲の恒星へ紛れ、肉眼では区別できない。
艦橋では航路確認と各部隊からの報告が続いていた。
フェリックスはミュラー艦隊の機動予備部隊へ入り、クラインは本陣の戦況整理班、ハインリヒは後方通信と撤収管制を担当している。三人とも同じ戦場へ向かっていたが、アレクは三人を自分の隣には呼ばなかった。やがてミュラーの座乗するパーツィバルから通信が入り、ミュラーが先行偵察隊の報告を伝えた。
『バーミリオン星域外縁部で教国軍の艦隊を確認しました。現在までに三万以上。後方にも複数の反応があります。敵軍、総計五万隻級まで増える見込みです』
アレクは主表示へ目を向けた。
「分かった。予定どおり進めてくれ」
回線が閉じると艦橋はすぐ通常の報告へ戻った。
教国軍五万隻。帝国軍四万隻。
数だけなら一万隻の差だったが、帝国軍のうち五千隻は救難と撤収のために後方へ分散している。正面の撃ち合いだけを考えれば、その差は数字以上に大きかった。
***
【同日 ミュラー艦隊 機動予備部隊】
フェリックスの端末へ、外縁索敵線から低確度の警報が一件入った。
教国軍の小集団が、それまでの監視位置から本陣寄りへ針路を変えた可能性があるという。観測時間は短く、艦数も確定していない。単なる索敵線の組み替えである可能性もあり、警報区分もまだ最下位から一段上がっただけだった。
同じ情報はミュラー艦隊の司令部にも送られている。
通信士が訊いた。
「ブリュンヒルトにも同報しますか?」
フェリックスは表示を拡大した。
推定航路の先には、ミュラー艦隊の内側にいるブリュンヒルトがある。
「ミュラー元帥の司令部にはそのまま上げろ」
「はい」
「陛下の直通には、まだ送らない。確度が上がってからでいい」
通信士がわずかに顔を上げた。
「ですが、ブリュンヒルトからは危険情報は全部直接上げるようにと指示が出ています」
「知っている」
フェリックスはもう一度、敵の推定航路を見た。
「でも、まだ敵がこっちへ来ると決まったわけじゃない。俺たちで処理できるかもしれない話まで、全部陛下の卓に積む必要はない」
フェリックスは敵の推定航路から目を離さなかった。
「陛下のことは、俺が一番よく分かっている。お前も知っているはずだ」
「……承知しました」
通信士は頷いた。
フェリックスは機動予備の配置を呼び出し、前方に出していた二個小隊を本陣寄りへ戻した。大きな配置変更ではない。ブリュンヒルトから見ても、通常の予備兵力の組み替えにしか見えない程度だった。
「これで様子を見る。陛下に余計な心配をかけるな」
「了解しました」
警報そのものは消さなかった。
ただ、アレクのところへ届くのを少し遅らせただけだった。フェリックス自身は、それをアレクに隠したとは思っていなかった。
***
【同日 バーミリオン星系外縁 教国軍第二聖団〈サトゥルヌス〉艦隊旗艦〈アルクス〉 ブレドウ】
バーミリオン星系の外縁で、教国軍第二聖団〈サトゥルヌス〉艦隊一万隻は進出を止めていた。帝国領へ続く後方航路の真正面ではない。そこからやや外れた位置に陣取っている。
現在地に留まるかぎり帝国軍の退路は開いているが、ひとたび〈サトゥルヌス〉が前へ出れば、撤退回廊へ入ろうとする帝国艦隊の側面へ火力を届かせることができる。
帝国軍の出口を塞いではいない。ただ、いつでも手を伸ばせる位置にいた。
〈サトゥルヌス〉艦隊司令のバルタザール・フォン・ブレドウ聖将は、第二聖団司令部から送られてきた配置図と実際の艦列を見比べていた。旧王朝の帝国軍では、長く要塞と軌道防衛施設の設計に携わってきた男である。砲台でも艦隊でも彼が見るのは正面の厚み、その後ろに残す予備、そして損傷した艦を抜くための道である。
配置完了の報告を受けるとブレドウは第一列を現在位置に置き、第二列をそこから少し後ろへ下げるよう命じた。予備二群についても左右へ分けず、中央に残す。
参謀の一人が表示を確認し、第二列をもう少し前へ詰めれば、第一列に損害が出た際の補充が早くなると意見を述べた。ブレドウは途中で遮らず、最後まで聞いてから答えた。
「損害を早く埋める必要はない。第一列に穴が開いたなら、その穴の後ろに第二列があればよい。前の壁を直すために、後ろの壁まで使ってしまう方が困る」
参謀は一度配置図を見直した。
第二聖団は旧軍官僚を母体とし、兵站や製造、工兵に強い聖団だった。その用兵も、目の前の火力を最大に保つことより、損害を受けたあとにも部隊全体の機能を残すことを重んじる。
ロフォーテン星域会戦で第四聖団〈ディス〉艦隊が見せたような、失われた艦の位置へ次々と後続を送り込み、正面の砲口数を維持するやり方とは運用思想が違っていた。
ブレドウにとっての『予備』とは、開いた穴を埋めるために使い切るものではない。その次に開く穴のために残しておくものだった。
ブレドウは最初の線が完全であり続けることを求めていない。どこかが破られることを前提に、その先にまだ厚みが残る形を作っていた。修正された配置が表示されるとブレドウはしばらく眺めてから頷いた。
「それでよい」
次に参謀が示したのは帝国軍の後方航路だった。現在地からなら帝国軍が撤収へ入ったあとに前進して、その側面を押さえることができる。さらに早く動けば、回廊そのものを狭めることも可能だった。
「ブレドウ閣下。ここから二千隻ほど前へ出しておけば、帝国軍が退き始めたときには、より早く撤収回廊へ届きます。うまくいけば、連中の退路そのものを断てましょう」
ブレドウはその提案にすぐには答えず、帝国側の進路と第二聖団司令部から与えられた作戦線を重ねて見た。
「貴官の計算は正しい」
若い参謀はわずかに表情を明るくしたが、ブレドウは続けた。
「だが、小官がベーレント司令から受けている命令は現在位置の保持だ。それを小官の判断で勝手に捨ててよい理由はない」
「敵が退き始めてからでは、回廊を閉じるのに間に合わない可能性があります」
「わかっておる。それでは間に合わんだろう」
ブレドウの声は変わらなかった。
「そのときは、その時点で小官に与えられている命令に従う。命令が変われば動く。変わらなければ、動かん。ここにいる」
参謀はそれ以上食い下がらなかった。そのとき通信参謀が別の報告を上げた。
「第一聖団のシュタイガー司令から、追撃に備えた前進要請が上がっています。ただいま聖序寮で、両聖団の軍令を継ぐための裁定が進んでおります」
「ベーレント司令からは何かあるか」
「いえ。聖序寮の裁定が下るまでは前進は無用、とだけ。……それよりも、例の要塞化計画の方を詰めておけとのことです」
ブレドウが初めて配置図から目を上げた。
「期限は?」
「第一次案を三日以内に、と」
「承知した。担当を二班に分けろ。こちらの計算は止めるな」
参謀は端末を閉じかけて、もう一度開いた。
「もう一件あります。メスナー従聖将の〈ウルカヌス〉艦隊が、ジャムシード方面への展開準備に入ったそうです」
ブレドウの視線が戻った。
「メスナーの方も始まるか」
アルノルト・メスナー従聖将は、第二聖団でもその戦術の手札の多さで知られていた。その評判について本人が謙遜したという話はなかった。
ブレドウはジャムシードの表示を一度見た。
「ジャムシード方面の帝国軍の指揮官が誰かは知らんが――初見でメスナーを読むのは難しかろうな」
「ベーレント司令からは、第二聖団としてこの戦での不要な戦力消耗は避けよ、とも指示があります」
「不要かどうかを決めるのは、戦ってからでは遅い」
「はい」
ブレドウは配置図へ目を戻した。
「なおさらここでは動かん。前進は無用だ。退路までの所要時間、前進後の射界、各戦列の転換時間だけは出しておけ。艦は一切動かすな。それより、例の計画を優先して進めろ」
ブレドウは配置図から目を上げなかった。
「承知しました」
第一列も第二列も、そのままだった。参謀はそれ以上食い下がらなかった。ブレドウも意見を出したことを咎めず、帝国軍が撤収へ移った場合の所要時間だけを計算しておくよう命じた。その後、〈サトゥルヌス〉艦隊では大きな命令は出なかった。
第一列と第二列の間には、損傷艦を後方へ抜くための空間が残されている。そのさらに後ろには予備があり、左右にも救難艇や連絡艦が通れる余地が取られていた。艦隊全体は攻撃のために前へ押し出されることも、敵の接近を恐れて後ろへ下がることもなく、指定された位置に一万隻の厚みを作っていた。
宇宙空間には城壁はない。それでもブレドウは、艦を使って『築城』をしていた。
***
【バーミリオン星系外縁 ワーレン艦隊旗艦
バーミリオンで最初に砲火を交えたのは、先行していた帝国軍ワーレン艦隊と教国軍第一聖団〈ベローナ〉艦隊だった。
ワーレン艦隊の索敵線へ入ってきたのは、ラスバッハ従聖将麾下の〈ベローナ〉艦隊の先行部隊、およそ四千八百隻である。帝国軍を捕捉してから二度針路を変え、最後には艦列を横へ広げながら接近してきたためワーレンの前衛を試そうとしているのか、その後方にある輸送航路へ回り込むつもりなのか、しばらくは判然としなかった。
さらに遠方には、教国軍主力とみられる反応がある。ワーレンは敵とほぼ同数の五千余隻を前へ出し、本隊には現在位置を維持させた。双方の前衛は互いに有効射程へ入るまで撃たなかった。
教国軍の灰色の艦群は正面から見ればごく普通の艦隊に見えた。ロフォーテンで恐れられた金色の祈燈も、この時点ではまだ上がっていない。
有効射程が重なるとワーレンが攻撃を命じた。
「
帝国前衛の砲火が教国側の前列へ入り、十数隻が爆発または航行不能となった。等間隔に並んでいた艦列へ穴が開き、前衛回線では戦果を数える声が上がったが、それが終わるより早く後列の艦が動いた。
一隻が失われた場所へ一隻が入り、二隻が抜けた場所には二隻が前へ出る。残骸を避けるためのわずかなずれを除けば艦間距離までほとんど変わらず、数十秒後には帝国軍が作った穴の大半が新しい艦首で塞がれていた。ロフォーテンの記録で何度も見た動きだった。
任務能力を失った艦が列を外れると後続艦が同じ位置へ入り、帝国軍へ向ける砲口の数を保つ。理屈は分かっている。それでも自分たちの砲火で確実に艦を壊した直後、その痕跡だけが消されていく光景には、記録映像とは違う圧迫感があった。
「前列の砲口数、ほぼ回復しています」
参謀長の報告を聞いて、ワーレンは敵艦列を見た。
「次は前を撃つな。後ろから穴へ入る艦を狙え」
帝国側の照準が一列奥へ移った。穴を埋める途中の艦は進む先も速度もほぼ決まっている。教国側から最初の砲撃が返り、帝国前衛にも被弾艦が出る中で、第二射がその移動中の艦へ重なった。
二隻の巡航艦がほとんど同時に失われ、その後ろから続いていた艦が急減速した。前が止まれば後ろも同じ速度では進めず、さらに帝国軍の砲火が一段奥へ入ると補充の流れに初めて目で分かる滞りが生じた。教国側もすぐに艦間距離を広げ始めたが、第一射ではすぐ消えた灰色の戦列の穴が、今度は凹みとなって残った。
前衛回線から声が上がった。
『効いてるぞ。第二列が止まった!』
別の艦からも歓声が重なった。
「浮かれるな」
ワーレンの声が前衛回線へ入った。
「穴へ入る途中の艦を撃つ。それだけだ。同盟軍との戦でも何度も見た。敵が新しいからといって、戦争まで新しくなったわけではない」
歓声が少し静まった。射撃管制員たちは次の目標を拾い始めた。
ロフォーテン会戦では、確実に敵艦を破壊しているにもかかわらず目の前の砲列だけが減らないという現象が帝国将兵を追いつめた。
今度は自分たちの砲火で教国軍を止めた。