銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

97 / 98
第六十八話「第二次バーミリオン星域の会戦(4)」(新帝国暦二十四年・聖暦二十三年三月)

【会戦二日目 ワーレン艦隊旗艦火竜(サラマンドル) ワーレン】

 

二日目になると〈マルス〉艦隊の砲撃に対しても帝国側なりの対策ができていた。

初日のうちに祈燈の増光、鐘の受信、火器管制系の反応、砲口方向、実際の発砲時刻をそれぞれ別に記録している。大規模な斉射へ入る際にはいくつかの徴候が似た順序で現れることも分かってきた。

 

ただし固定した周期があるわけではなく、射撃群が変われば間隔も変わり、同じ鐘を受信したからといって全艦が同じ動きをするわけでもない。それでも前日までとは違った。

 

二日目最初の大規模な斉鐘斉射で、ワーレンは初めてその記録を回避に使った。

祈燈が増し、鐘が入り、火器管制系の反応が過去の記録と近い推移を示す。砲列が正面を維持していることまで確認すると予測された発砲時刻を待たず、前衛をわずかに右へ滑らせた。数秒後、〈マルス〉の砲火が届いた。

 

帝国前衛にも被害は出たが、火線の中心は艦列が先ほどまで占めていた空間を貫いていった。初日の第一撃に比べれば損害は明らかに小さく、艦橋の空気もそれまでとは少し違ったものになった。

 

「最近の戦争というのは、ずいぶん敵が親切になったものですな」

砲術参謀の一人が言った。

「光って、鐘まで鳴らして、これから撃つぞと教えてくれる」

 

隣にいた参謀が笑った。

「こちらが分かるように撃ってくれているんですよ。阿呆どもめ」

 

艦橋の何人かが笑った。鐘を聞くたびに張りつめていた空気が初めて少しだけ緩んでいたのである。

 

だがワーレンだけは笑わなかった。

「敵を阿呆と決めるのは、戦が終わってからにしろ」

 

参謀たちの笑いが止まった。

 

「こちらが一度読んだなら、向こうもこちらを見ている。口を動かす暇があれば、次が同じか確かめろ」

 

叱責というほど強い声ではなかった。それでも艦橋はすぐに仕事へ戻り、光電徴候卓では最初の成功例がそれまでの記録と並べ直された。

 

二度目にはさらに慎重になった。今度は祈燈と鐘だけでは動かず、火器管制系の反応と砲列の向きが揃うところまで待つ。

 

条件が重なったところで前衛を右へ滑らせると、〈マルス〉艦隊の砲火は帝国艦列の後方を通過し、またしても損害は前日の平均を下回った。三度目になると鐘が入っても艦橋で顔を上げる者は少なくなっていた。

 

光電徴候担当が直近二例との差を読み上げ、砲術側が敵砲列の状態を確認する。

ワーレンは報告を最後まで聞いてから回頭を命じ、数千隻の前衛が戦列を崩さないまま右へ滑った。〈マルス〉の斉射はほとんど空を焼いた。

教国側が撃ち終えると帝国軍の三つの射撃群が順に応射した。〈マルス〉艦隊前列とその後ろで進路を整えようとした艦へ火線が重なり、教国側の損害表示が増えていく。

 

さきほど軽口を叩いた参謀が今度は笑わずに言った。

「測れるものなら、かわせますな」

 

ワーレンは正面の戦列を見たままだった。

「いまのところはな」

 

鐘への恐怖が消えたわけではない。ただ、光は記録でき、鐘も記録でき、その前後に敵艦が何をしたのかも残せる。同じ現象が重なれば、次の判断に使える。分からないものが少しずつ戦場の数字へ変わり始めていた。

 

 

***

 

 

【教国軍第一聖団〈マルス〉艦隊旗艦〈ベルトルト〉 シュタイガー】

 

ワーレン艦隊の前衛が三度続けて右へ動いたことをシュタイガーは最初から見ていた。〈マルス〉艦隊の射撃が乱れたわけではない。祈燈も鐘も正常でその後に続く射撃も予定された手順から外れていなかった。

 

砲術参謀が帝国側の記録を推定し、発光から発砲までの系列を読まれている可能性が高いと報告した。次の射撃では祈燈の開始や鐘との間隔を変え、それまで蓄積された記録を使いにくくする案も示された。シュタイガーは首を振った。

 

帝国軍前衛は回避行動と応射を終えて、すでに元の位置へ戻りつつあった。三度続けて損害を減らしたことで向こうは自分たちの観測方法が使えるという手応えを得ている。

シュタイガーはしばらくその動きを見ていた。

 

「よし。頃合いだ。次は読ませたまま、当てる」

 

砲術参謀が振り返った。シュタイガーは次の射撃群を示した。

「灯は変えるな。鐘も変えるな。時も変えるな。照準だけ、右へずらせ」

 

砲術参謀の視線が帝国軍前衛へ移った。右側は帝国軍が三度続けて逃げた空間だった。

 

一度撃てば、こちらも帝国側の回避運動を見ていることは知られる。それでも構わない。一度だけ、帝国軍自身が選んだ逃げ道へ砲火を置けばよかった。

 

撃て(イグニス)

 

シュタイガーはそれ以上の命令を出さなかった。

 

 

***

 

 

【ワーレン艦隊旗艦火竜(サラマンドル) ワーレン】

 

四度目の金色もそれまでとほとんど同じように見えた。前列各所で祈燈が増し、受信系へ鐘が入る。

 

火器管制系の反応も発光からの経過時間も直近三回の記録から大きく外れておらず、砲列も正面を向いているように見えた。光電徴候担当が各項目を読み上げるとワーレンは前衛へ回頭準備を命じた。

 

右へ避ける理由は変わっていない。左へ動けば隣接する戦隊の射界を塞ぎやすく、後方には損傷艦と救難艇がいる。一方右側には数千隻を滑らせるだけの空間が残っていた。

 

「前衛、右へ」

 

戦隊ごとにわずかに角度を変えながら帝国前衛が動き始めた。最初の数秒はそれまでの三回と何も違わなかった。異変を拾ったのは砲術参謀だった。

 

「敵砲列、偏向しています」

 

ワーレンも表示を見た。発射態勢へ入った〈マルス〉艦隊内の砲列が最後の照準修正をしている。それまで帝国艦隊がいた場所ではなく、その少し右へ向きを変えていた。いま、帝国前衛が進んでいる場所である。

 

「いかん、待て――」

 

命令が届くより早く、〈マルス〉の砲列が白くなった。

四度目の斉鐘斉射は帝国前衛が先ほどまでいた空間を外れ、その右側へまとまって落ちた。

回避運動の途中にある第三戦隊と第五戦隊の数十隻が、隊形を保ったまま白い光に包まれた。

 

先頭の巡航艦が消え、その後ろでは回頭中の艦が残骸を避けるためさらに外側へ針路を振った。そこへ別の火線が重なり、第三戦隊旗艦からの応答が途絶える。第五戦隊でも赤い損害表示が一つ二つではなく、艦列に沿って増えていった。

 

「第三戦隊、直撃多数。旗艦、応答ありません」

 

「第五戦隊も被弾。回頭中の艦が集中して狙われています」

 

報告が重なったが、ワーレンは怒鳴らなかった。主表示へ一歩近づき、火線の跡を見た。

「なるほど。逃げ先を狙ったか」

 

ワーレンはしばらく火線の跡を見ていたが、やがて口元をわずかに緩めた。

「シュタイガーの腕は鈍っておらんらしい」

 

参謀たちは一瞬、司令を見た。第三戦隊旗艦との通信は途絶え、第五戦隊でも損害表示が増え続けている。笑うような状況ではなかったが、ワーレンの声には苛立ちも動揺もなかった。

 

祈燈の時刻は合っていた。鐘も、火器管制系の反応も、発砲までの間隔も観測側の予測から外れていない。帝国軍が、その正しい数字を見てどこへ逃げるかまで相手は見ていたのである。

 

「全戦隊、回頭方向の統一を解除。以後は各戦隊で周囲と敵砲列を見て避けろ。予測だけで艦を動かすな」

 

命令を出し終えてからワーレンは光電徴候卓を振り返った。

 

「記録はそのまま続けろ。光も鐘も、砲口も、時刻も全部だ」

参謀長が訊いた。

「斉射予測も残しますか」

 

「残せ。観測の数字は間違っておらん」

 

ワーレンは救難群が第三戦隊へ向かうのを見た。

 

「今間違えたのは、記録の使い方だ」

それから少し笑った。

「この失敗も帝都に持ち帰るぞ」

 

 

***

 

 

【会戦二日目 バーミリオン星系 ワーレン艦隊旗艦火竜(サラマンドル) ワーレン】

 

第三戦隊からの救難信号は十分を過ぎても途切れなかった。旗艦を失った艦群からは負傷者の収容報告が続き、機関を損傷した巡航艦が一隻ずつ後方へ曳かれていく。

第五戦隊でも戦闘不能艦が増えており、戦術表示に残った赤い符号だけを見れば、シュタイガーの一撃は十分な成果を上げていた。

 

それでもワーレン艦隊はまだ一個の艦隊として動いていた。

被弾した戦隊の両側では別の艦群が射界を保ち、救難艇はあらかじめ定められていた経路を使って損傷艦へ向かっている。旗艦を失った第三戦隊でも次順位の指揮官が指揮を引き継ぎ、本隊がその穴へ手を伸ばす必要はなかった。

 

参謀長が集計を読み上げた。

「第三戦隊、戦闘継続可能艦は六割を切りました。第五は七割強です。ですが艦隊全体では、なお十分に戦えます」

 

「そうだな」

 

教国軍側にもかなりの損害が出ている。

帝国軍が回避先を撃ち抜かれた直後、温存されていた射撃群が応射し、〈マルス〉艦隊前列にもまとまった損傷を与えていた。

 

参謀たちが正面へ目を戻したところで〈マルス〉艦隊の戦列にまた金色が増し始めた。今度は帝国前衛が一斉に同じ方向へ動くことはなかった。第三戦隊の残存艦は速度を落とし、その隣では一個戦隊が短く前へ出る。別の一群はほとんど針路を変えず、敵砲列の向きだけを見た。

 

白い砲火が〈マルス〉から放たれ、帝国前衛の数か所で艦影が消えた。ただし火線は一か所へ集まらず、最も大きな被害を受けた区画でも先ほどの第三戦隊ほどの損失にはならなかった。

 

「前回の三分の一以下の損害しか受けていません」

 

報告を聞いたワーレンはすぐには全力で撃ち返させなかった。

〈マルス〉艦隊前列は大斉射を終え、次射までの間に入っている。ここで火力を重ねれば教国軍前列を押し戻せる距離だったが、敵前列の奥にはまだ損傷していない艦が何千隻も残っていた。

 

「第一射撃群だけ撃て。残りは待たせろ」

 

「いまなら敵の前列を押し返せます」

 

「押し返したあと、どうするのだ」

 

砲術参謀はそれ以上言わなかった。帝国軍の一群だけが火を噴き、〈マルス〉前列に新しい損害を与えた。それでも後続の砲列は沈黙したまま、次に教国側が何を動かすかを待っていた。

 

 

***

 

 

【第一聖団〈マルス〉艦隊旗艦〈ベルトルト〉 シュタイガー】

 

帝国軍の砲火が一度で途切れると後列を前へ押し出して正面火力を戻す案が出た。前列にはすでにいくつもの穴がある。しかしシュタイガーは帝国側にまだ撃っていない砲列が残っているのを見て首を振った。

 

「出すな」

 

「前列が薄くなります」

 

「薄いままでよい。ワーレンは、こちらがそこを埋めるのを待っている。誘え。前に来させろ」

 

後列は動かず、〈マルス〉は減った砲口のまま少しずつ距離を詰めた。帝国側も残りの火力を使わず、二つの艦隊は互いに損傷した前列をさらしたまま、しばらく砲撃を止めることになった。

 

数分後、シュタイガーは中央の艦群だけをわずかに下げた。左右の戦列はそのまま残している。真正面から見れば〈マルス〉中央が浅くへこみ、帝国前衛を受け入れる口のように見せた。ワーレンが押し返そうとそこへ踏み込めば、左右から射線を重ねることができる。

 

だが、帝国軍は前には来なかった。

 

「ワーレン、動きません」

 

シュタイガーは両翼から短い試射を入れさせた。二本の火線が下げた中央の前で交わったが、その宙域には帝国艦は一隻もなく、ほどなく〈マルス〉中央も元の位置へ戻った。

 

その後しばらく、戦況図の上では大きな変化がなくなった。

ワーレンには前へ出れば取れそうな敵艦があり、シュタイガーにも速度を上げれば捕まえられそうな区画がある。それでも双方とも相手の欲しがる距離へ入らず、小規模な砲撃と位置の取り合いだけが続いた。

 

 

***

 

 

【帝国軍総旗艦ブリュンヒルト アレク】

 

午後二時五十五分、最後の避難船団が星系外縁の安全圏へ入った。

搬出管制から上がった報告によれば、帝国領への退去を届け出た住民の後送はこれで終了した。

 

医療用物資や艦艇部品の優先指定分も予定量を越えているが、大型工作機械や補修設備の一部、優先順位を下げられた軍需品までは持ち出せず、倉庫に残されている。

 

後方表示にはなお一群だけ軍需輸送船が残っていた。優先指定された最後の物資を積んだ船団で現在の速度を維持した場合、星系外縁の安全圏へ達するまで二十三分を要する。

 

「ワーレン艦隊、戦力七割以上を維持。ミュラー艦隊も戦闘継続に支障ありません。現地遅滞部隊も、予定された撤収線までは自力で下がれます」

 

作戦参謀の報告を聞きながらアレクは正面の戦況図を見ていた。ワーレンとシュタイガーはなお撃ち合っている。〈ベローナ〉も側面から圧力を続け、そのさらに外には〈サトゥルヌス〉と所属の判然としない小艦群が散っていた。

 

「最後の輸送群が外縁を越えるまで、あと二十三分です」

 

アレクは表示の隅に出た時刻を確認した。

 

「輸送群の撤収が終わるまで、前を持たせろ。その後は予定どおりに全軍で帝都へ撤収する」

回線の向こうでミュラーが答えた。

『御意』

 

それ以上の命令は必要なかった。

 

 

***

 

 

【ワーレン艦隊旗艦火竜(サラマンドル) ワーレン】

 

〈マルス〉艦隊の撃ち方は、また変わっていた。

 

最初の砲火で帝国前衛の一部を動かし、わずかに遅れて第二射を重ねる。

先の火線を避けた艦が向かいそうな場所へ次の砲火を置くやり方だったが、帝国側はすでに一つの回避法を全軍へ配ることをやめている。

 

ある戦隊は第一射を見て速度を上げ、そのまま射界を抜けた。別の戦隊は逆に減速し、ほとんど動かずに第二射をやり過ごす。後方へ下がっていた艦群と位置を入れ替え、二射目が届くころには別の戦隊が正面に出ている区画もあった。

 

いずれも、練度の高い帝国軍正規艦隊だからこそ成立する動きだった。

 

若い参謀がその一つを見て首をかしげた。

「第四戦隊は、ほとんど避けませんでした」

 

「向こうは避ける先を撃った」

ワーレンは正面を見たまま答えた。

「そこへ行かなければいいだけだ」

 

二段目の砲火は何隻かを捕らえたが、帝国前衛全体を一つの場所へ追い込むことはできなかった。その後も〈マルス〉が二段に分けて撃つたび、帝国側は戦隊ごとに異なる速度と方向で火線を外していった。

 

もちろん損害は徐々に増えていった。巡航艦や駆逐艦がさらに戦列から落ち、救難線へ新しい信号が流れ、応答を失う艦も出ている。それでも被害は一つの区画へ固まらず、艦隊の一角をまとめて崩す傷にはならなかった。

 

後方表示では最後の輸送群が外縁線へ近づいていた。

 

「輸送群の撤収完了まで、残り十一分です」

 

参謀長が声を落として伝えた。ワーレンは一度だけ頷いた。

「まだ長いな」

 

その直後、正面の金色が強まり、〈マルス〉艦隊の斉射が再び帝国前衛へ伸びてきた。

 

 

***

 

 

【教国軍第一聖団〈マルス〉艦隊旗艦〈ベルトルト〉 シュタイガー】

 

「二段射撃の効果が落ちています。三射目を加えれば、二度目の回避先まで追えます」

 

砲術参謀の具申をシュタイガーは退けた。

「やらん。三つ作れば、向こうは四つに割る」

 

帝国軍は一つの回避法を捨て、戦隊ごとに別々の動きを取るようになっていた。そのすべてを追えば、今度は〈マルス〉の側が射撃を細かく分け、正面火力を自分から失うことになる。

 

シュタイガーは一度、後方の表示を開かせた。細く連なった帝国軍の最後の輸送群が、星系外縁へ向かっている。

 

「……同じ軍なのか?」

誰かが、小さく言った。

 

艦橋の何人かがそちらを見たが、咎める者はいなかった。

第一聖団はロフォーテン星域会戦には参戦していなかった。それでも送られてきた戦闘映像も、帝国軍の崩れ方を記した報告も、ここにいる将校たちは見ている。タナトス星域会戦の記録も同じだった。

 

あの映像の帝国軍と、いま正面にいる軍が、うまく重ならなかった。

 

一つの命令で全軍を逃がすことをやめても、戦隊ごとの動きがばらばらにならない。加速する部隊の横で別の部隊が減速し、後ろへ退いた艦群が次の瞬間には前へ出る。それぞれが違うことをしているのに、戦列そのものは崩れなかった。

 

「これだけ別々に動かして、まだ艦列がつながっている……」

砲術参謀が呟いた。

別の参謀が表示から目を離さずに答えた。

「帝国軍の正規艦隊というのは、こういうものか」

 

シュタイガーは何も言わなかった。

驚くべきなのは、帝国軍がこちらの射撃を読んだことではない。

読んだ答えを一つにしないまま、それでも軍として動けていることだった。

 

通信参謀が顔を上げた。

「敵輸送群、あと十分程度で撤収を完了します。その後、帝国主力も撤収に移るものと見込まれます」

 

シュタイガーは戦況図から目を離さなかった。

「死神はまだか」

 

「まだです。所定位置への収束を確認できません」

それきり、シュタイガーは何も言わなかった。

 

戦況図の上では、帝国軍の背後を細く流れていた輸送群が、ひとつ、またひとつと星系外縁へ消えていく。正面ではワーレン艦隊が〈マルス〉艦隊の砲火を受けながら、なお戦列を崩さずにいた。

 

八分。

 

通信参謀が時刻を確認したが、報告はしなかった。

シュタイガーも訊かなかった。

ただ、帝国軍の後方と、そのさらに外側の空域を、じっと見ていた。

 

〈マルス〉艦隊は仕掛けを増やすのをやめ、帝国軍が退ける距離そのものを削る砲戦へ戻った。シュタイガーは攻勢を強めることも弱めることもなく、ワーレン艦隊が現在位置を維持するために使う時間と艦を少しずつ増やしていった。

 

 

***

 

 

【帝国軍総旗艦ブリュンヒルト アレク】

 

最後の軍需輸送群が星系外縁を越えたのは予定より一分ほど遅れてからだった。

 

「優先後送任務、完了しました」

 

後方表示から最後の輸送群を示す符号が安全圏へ移り、艦橋では撤収条件の成立が確認された。正面のワーレン艦隊は第三、第五戦隊に大きな損害を受けながらも戦列を維持し、ミュラー艦隊にもまだ十分な余力がある。作戦参謀が数字を確認した。

 

「陛下。正面戦力は、なお戦闘継続可能です」

 

崩れてからでは遅い。前線の穴を後方部隊が埋め、さらにその穴を別の部隊が埋め始めれば、四万隻を同じ形で帰すことはできなくなる。

 

「知っている」

アレクは戦況図から目を離さなかった。

「だから退く。予定どおり撤収へ移れ」

 

ミュラーから返答が来た。

 

『御意。各隊、予定された撤収順序へ移します』

 

「ワーレンにも伝えろ。予定どおり撤収だ、と」

 

命令はそれだけだった。

 

 

***

 

 

【ワーレン艦隊旗艦火竜(サラマンドル) ワーレン】

 

撤収命令が届いたとき、ワーレン艦隊にはまだ十分な火力が残っていた。〈マルス〉前列も二日間の砲戦で薄くなり、帝国軍の応射によって戦列から下がった艦は少なくない。このまま全軍を一度押し出せば、正面の教国艦へさらに損害を与えられることは、参謀長にも分かっていた。

 

「ワーレン元帥。もう一度だけ押せば、かなり獲れます」

 

「そうだろうな」

 

「いま退けば、教国軍側からはこちらが押し切られたように見えるでしょう」

 

ワーレンは少しだけ笑った。

「見せておけばよい。今日の仕事は、シュタイガーを沈めることではない」

 

撤収命令が各戦隊へ流れた。帝国前衛は一斉に背を向けず、最前列で射撃を終えた戦隊から後方に開いた間隙へ下がっていった。

 

その間は二列目が現在位置に残って〈マルス〉艦隊の進出を押さえ、下がった艦群が後方で新しい砲列を作ると今度は二列目がその前を離れる。一万五千隻の戦列は形を失わないまま少しずつ後ろへ移動した。

 

〈マルス〉艦隊が距離を詰めれば、その時点で最後尾にいる艦群が火線を重ねる。撃ち終えた部隊が下がるとさらに奥から次の砲列が現れ、教国軍は帝国側が捨てていく宙域を一つずつ占めながら追うことになった。

 

 

***

 

 

【第一聖団〈マルス〉艦隊旗艦〈ベルトルト〉 シュタイガー】

 

帝国軍が後退を始めたとき、〈マルス〉艦橋では最初、それを教国軍の戦果と見る者が少なくなかった。

 

「帝国前衛、後退を開始しました」

 

「さすがのワーレンも、こちらの正面圧力に耐えきれなくなったのでしょう」

 

「やった、俺たちの勝ちだ!」

 

若い幕僚たちの声にはわずかな高揚があった。シュタイガーだけは答えなかった。

 

帝国後方の表示を出させ、最後の軍需輸送群が星系外縁を越えた時刻を確認する。その数字の横へワーレン艦隊が第一線を下げ始めた時刻を並べると、両者の差はほとんどなかった。シュタイガーが低く言った。

「……予想より早い」

 

「何がでありますか」

 

「帝国軍が帰るのが、だ」

 

幕僚たちは正面を見た。後退しているはずのワーレン艦隊はまだ撃ってきていた。第一線が下がれば第二線が射撃を続け、そこが離れれば次の戦隊が前へ出る。

損害を受けた部隊はあるものの、艦隊が崩れる気配はない。砲術参謀が思わず言った。

「まだ、これほど戦えるのに……」

 

別の若い参謀がその言葉を引き取った。

「我が軍を押し返す火力もまだ残っています。それでも、この時点で退くというのですか?」

 

シュタイガーが初めてそちらを見た。

「今日の仕事が終われば帰る。それだけのことだろう」

 

あまりに平然とした返答だったため若い参謀が言葉を失った。

シュタイガーは正面へ視線を戻した。

「何を驚いている?あれはワーレンだぞ」

 

艦橋が静かになった。

 

「まだ戦えるから残る、さらに勝ちを上乗せできそうだから残る、という程度の男なら、帝国元帥にはなっておらん」

 

若い幕僚たちにとって、帝国軍の元帥たちは戦史の中に並ぶ名前でもあった。ミッターマイヤー、ミュラー、ワーレン、ビッテンフェルト。少年時代から教本や記録映像で見てきた者たちである。

 

「……帝国元帥とは、皆ああなのですか」

 

誰かが小さく呟いた。シュタイガーは鼻で息を吐いた。

「知らん。本人に訊け」

 

一瞬だけ、艦橋の空気が緩んだ。だが次の瞬間にはシュタイガーの声はいつもの調子へ戻っていた。

「ワーレンの尻を追う。ただし走らせるな。整列を保て」

 

〈マルス〉艦隊がゆっくりと前へ出た。帝国軍も後退を続けたが、両軍の距離は容易には縮まらない。

 

ワーレンは射撃可能な艦を殿に残し、教国軍が速度を上げればすぐに砲火を返せる形を崩していなかった。しばらくして、帝国第二線の一部がそれまでより早く下がった。戦列の中央に大きな空間が開いた。

 

「中央、開きました。突入可能です」

 

砲術参謀が即座に報告した。

「いま速度を上げれば、退却中の二個戦隊を分断できます」

 

シュタイガーもその穴を見ていた。その奥にはまだ射撃していない帝国艦が並んでいる。

 

「速度は維持。穴には入らん」

 

シュタイガーは前進速度を変えさせなかった。数十秒後、何もないように見えた穴の奥から帝国軍の砲火が飛び出した。〈マルス〉が加速していれば、正面からまともに受けていた距離である。若い参謀が息を呑んだ。シュタイガーは反応しなかった。

 

やがて帝国軍の戦列は再び閉じ、そのまま後退を続けた。

「……こちらが入らないことまで読んでいたのでしょうか」

 

「知らん」

シュタイガーは答えた。

「だが、入ってくればワーレンは撃つつもりではいた。それで十分だ」

 

帝国軍の策を必要以上に神秘化する気も、逆に侮る気もなかった。ワーレンもまた同じようにこちらを見ている。シュタイガーにとってはそれだけのことである。

 

 

***

 

 

【帝国軍本陣旗艦ブリュンヒルト アレク】

 

ワーレン艦隊の撤収が予定された形に乗り始めたころ、帝国軍本陣の戦況整理班では正面とは別の表示が開かれていた。そこには会戦前から所属の判然としない小艦群が散っている。

 

十隻ほどの群れもあれば、五十隻、百隻を越えるものもあり、二日間ほとんど戦列を作らず、遠巻きに帝国軍の動きを見続けていた。そのうち、いくつかの群れがほぼ同じ時刻に針路を変えている。

 

クラインは現在位置だけを見ても意味がないと判断し、帝国軍の予定撤収線と各小艦群の航跡を同じ表示へ重ねた。現在の位置では互いに大きく離れていたが、予測時刻を一時間、二時間と進めるにつれていくつかの航跡が帝国軍の撤収線へ寄っていく。三時間後の表示を出したところで複数の線が帝国軍の前方で重なった。

 

小艦群は、退いていく帝国軍の背後へ集まろうとしているのではない。帝国軍が予定どおり撤収を続けた場合、その数時間後に通過する宙域へ向かっていた。

 

クラインは直衛司令部への回線を開いた。

「ミュラー元帥。外周の敵小艦群に動きがあります。現在位置だけなら、こちらの撤収に合わせた追撃にも見えますが、進路を未来位置まで延ばすと合いません」

 

ミュラーの声が返った。

『追撃ではないのか?』

 

「はい。われわれの後ろを追ってきていません」

 

クラインは予測表示を送った。帝国軍の進行方向には、現時点ではまだ敵艦が一隻もいない。

「先へ回っています」

 

主表示の時刻を三時間進める。

さきほどまで空白だった宙域へ、散っていた教国の小艦群が次々と入り込んでいた。

総数は一万隻近い。帝国軍がそこへ到達するころには、その進路そのものが塞がれようとしていた。

 

しかも、その横にはブレドウの〈サトゥルヌス〉艦隊一万隻が、戦列を崩さず控えている。

前へ進めば小艦群にぶつかる。横へ開けば〈サトゥルヌス〉の射界へ入る。

 

クラインは二つの表示を重ねた。

空いているように見えた航路は、三時間後にはもう空いていなかった。

アレクが表示を見たまま、つぶやいた。

 

「なぜ、今になって動く」

 

クラインの視線が止まった。

「……絞り終えたからかもしれません」

 

「何をだ」

 

クラインは本陣を示す表示を見た。

「陛下が、どこにいるかです」

 

クラインの言葉のあと、艦橋には短い沈黙が落ちた。

 

主表示では、撤収を始めた帝国軍の前方へ、教国の小艦群が回り込みつつある。その数は合計すれば一万隻近い。さらに横には、ブレドウの〈サトゥルヌス〉艦隊一万隻が、開戦からほとんど位置を変えないまま控えていた。

 

アレクが表示を見たまま訊いた。

「確かめられるか」

 

「やります」

クラインは下段の戦況整理卓へ戻った。会戦開始から記録された小艦群の航跡を呼び出し、帝国軍側の記録と時刻を合わせる。

 

すべてを調べる必要はなかった。目についたものを二つ、三つと拾えば、同じ形が出てきた。

 

本陣の中継経路を切り替えたあと、五十隻ほどの群が近づいている。救難線へ戦力を回したときには、別の七十隻余りがそれを追うように針路を変えた。どちらも攻撃はしていない。帝国軍が対応すると、そのまま離れている。

 

当時の記録には、偵察とだけ書かれていた。

クラインは二つの画面を重ねた。

 

「ミュラー元帥」

 

直衛旗艦〈パーツィバル〉との回線は開いたままだった。

「少なくとも会戦開始以来、あの小艦群はこちらの動きを見ています」

 

『何のためにだ』

 

「まだ分かりません。ただ、何もしていなかったわけではありません」

 

そこで別の声が割り込んだ。

「敵、外周小艦群、応鐘に異常」

 

光電徴候卓だった。クラインが顔を上げる。

「異常とは」

 

「途絶しました。現在追跡中の十五群、ほぼ同時です」

 

担当士官は表示を見直した。

艦影は消えていない。通信障害でもなかった。機関出力は上がっている。それまで群ごとに断続的に返っていた応鐘だけが、一斉になくなっていた。

 

『命令通信は?』

ミュラーが訊いた。

 

「増えておりません。艦群間の通信量にも、目立った増加はありません」

 

その報告の途中で、最初の一群が針路を変えた。

離れた場所にいた二群も続く。さらに外側の群が加速した。

十隻ほどの群れ。五十隻。百隻を越える群れ。それまで別々に数えていた艦影が、次々と同じ宙域へ向きを揃えていった。

 

命令通信はない。応鐘も返らない。

それでも、動きが揃っていた。

 

「……収束していきます」

 

観測士の声が速くなった。

クラインは広域表示を開いた。

 

見えなかったものが現れたのではない。

ずっと見えていたものが、初めて同じ方向を向いた。

 

一万隻近い艦影が、帝国軍の前方で一つに集まり始めている。ただし、横へ並ぶのではなかった。

前方の群ほど間隔を狭め、後方の群がその背後へ重なる。細く、長く、帝国軍へ向かって伸びていく。

 

『……あれは、艦隊戦列ではないな』

 

ミュラーが言った。

クラインも同じものを見ていた。

 

壁ではない。

通常の縦列でもない。

 

一本の槍だった。

 

その先端の近くで一隻だけ異なる艦影が識別された。

細長い黒色の大型艦。船体に祈燈はない。

 

「大型艦一。所属照合中」

 

次の瞬間、その黒い艦の上方に金色の光が走った。

一本だった線が左右へ開き、大きな円環となる。

その内側に幹が立ち上がり枝が広がった。

 

光はそこで止まらなかった。

円環を載せた薄い光の面が虚空へひらき、巨大な旗となる。

 

真空に風はない。

それでもその光で織られた旗(ビームフラッグ)は、黒い艦の進路の上でゆるやかにたなびいて見えた。

縁がかすかに波打つたび、円環と樹影がわずかに揺らぎ、暗い宇宙に金色の残像を引いた。

 

黄金樹。

 

聖王の紋章だった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「教国公示資料と一致。聖王直属親衛艦隊の旗艦と思われます」

 

アレクが表示を見た。

「〈守護天使〉か」

 

答えが返るより早く、通信士が声を上げた。

 

「鐘が――」

 

途中で止まった。

 

「……全部、消えました」

 

クラインが振り向く。

 

「全部?」

 

「はい。収束中の全群です。応鐘が一つもなくなりました」

 

会戦が始まって以来、教国艦隊のどこかで聞こえ続けていたものが、親衛艦隊一万隻の周囲だけ抜け落ちた。

 

戦域全体が静かなのではない。

こちらへ来るものだけが、静かだった。

 

静寂が近づいてくる。

 

そして黒い槍が、皇帝座乗艦(ブリュンヒルト)ただ一隻へ向けて、一気に加速した。




V — 人物図譜 教国軍第二聖団〈ウルカヌス〉艦隊司令 従聖将アルノルト・メスナー
【挿絵表示】
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。