銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第六十九話「第二次バーミリオン星域の会戦(5)」(新帝国暦二十四年・聖暦二十三年三月)

【新帝国暦二十四年三月 会戦二日目 惑星モン・ミラーユ軌道 リューデンハイム】

 

ゲオルク・フォン・リューデンハイム中将麾下の現地遅滞部隊五千隻は、二日目も軌道砲台群の射程から出なかった。

 

正面にはメルゼブルク麾下の第一聖団〈ウィルトゥス〉艦隊一万隻がいる。

 

数では帝国軍に倍していたが、〈ウィルトゥス〉艦隊も無理には入ってこない。帝国艦が軌道砲台の射界へ下がれば止まり、帝国側が誘っても追わず、距離を詰めれば今度は一斉に火力を返してくる。

 

「左翼、下がりすぎるな。砲台群第三射界から出すな」

リューデンハイムは言った。

「取れる艦が見えても追うな。ここを通さないのが我々の仕事だ」

 

その言葉どおり、リューデンハイムは敵艦を沈めるためには前へ出なかった。

 

〈ウィルトゥス〉艦隊もまた、帝国軍を誘い出すために無駄な損害を出さなかった。

 

五千と一万が、軌道砲台群を挟んだ距離の中で、互いに一歩ずつしか動かない戦いを続けていた。

 

そのときだった。

戦況表示の外側で、金色の光が開いた。

円環がひらきその内側に巨大な樹影が浮かび上がった。

 

 

***

 

 

【帝国軍直衛旗艦〈パーツィバル〉 ミュラー】

 

ミュラーも、その光を見ていた。

 

直衛艦隊一万五千隻の外側では、ラスバッハ麾下の第一聖団〈ベローナ〉艦隊がなお側面方向から圧力をかけている。

 

正面ではワーレン艦隊がシュタイガー麾下の第一聖団〈マルス〉艦隊を受けながら撤収を続け、さらに反対側にはメルゼブルクの〈ウィルトゥス〉艦隊がいる。

 

本来なら、どの方向からも戦力を抜く余裕はなかった。

だが金色の旗の下で、それまで戦域全体に散っていた小艦群が集結し、同じ方向を向いた。

 

黒い槍の穂先は、帝国軍総旗艦ブリュンヒルトを指していた。

 

「直衛中央を厚くします!」

 

参謀が言った。

中央寄りの数個戦隊が移動を始めた。

その直後、黒い艦群が増速した。

 

「敵親衛艦隊、突入してきます!」

 

聖王の紋章を描いていた金色の光が閉じた。

残ったのは、細長い黒色艦と、押し寄せる一万隻近い艦群だった。

 

「敵先頭群、さらに増速!」

 

「応鐘なし。指揮通信量、増加なし!」

 

「直衛第三層まで、まもなくです!」

 

通常の艦隊なら直衛線の正面火力を見れば進入軸をずらす。黒い艦群は、ずらさなかった。槍の穂先の数百隻が、そのまま帝国軍の中央へ突っ込んでくる。

 

「第三層、中央へ寄せますか」

 

「全部は動かすな」

ミュラーは即答した。

「突入軸にかかる部隊だけで受ける。第二層も正面射撃準備」

 

直衛第三層の一部が中央へ寄った。

黒い槍も、そこへ来た。

 

「射程!」

 

「撃て(ファイエル)」

 

帝国軍の砲列が白くなった。

最初の斉射で敵十数隻が消えた。次の斉射でさらに前列が削られ、先頭にいた巡航艦の艦首が大きく砕けた。

 

それでも、敵の速度は落ちなかった。

 

「敵一番艦、操艦不能――」

 

報告が途中で変わった。

 

「いえ、違います。進路を維持!」

 

艦首を失った艦が、残った姿勢制御だけでわずかに向きを修正した。

火器はもう沈黙している。

それでも艦は来た。

 

第三層の帝国巡航艦が回避を始めたが、間に合わなかった。

黒い艦の残骸に近い船体が、その横腹へ突き刺さった。

二つの艦影が重なる。

白い閃光が走った。

 

「衝突! 第三戦隊前面!」

 

「巡航艦一、応答消失!」

 

「敵艦も消失!」

 

艦橋の何人かが言葉を失った。

事故ではなかった。そのすぐ横でも、砲塔を失った黒色駆逐艦が進路を変えた。

逃げるためではない。

もっとも近い帝国艦へ向けて突っ込んできた。

 

「また来ます!」

 

帝国艦が撃った。

黒い駆逐艦の後部が吹き飛んだ。

それでも残った船体が進む。

 

今度は帝国側が間一髪で避け、黒い艦は艦尾をかすめて通り過ぎた。そのまま制御を失い、後方で爆発した。

 

「……何だ、あいつら」

 

すぐに次が来た。

一隻が沈めば、その後ろから二隻。

二隻を落とせば、少し離れた場所から別の群が加速してくる。

まだ砲が生きている艦は撃ちながら来る。

砲を失った艦も来る。

 

推進器の片側を失った艦でさえ、帝国直衛へ届く進路が残っていれば、離脱しようとはしなかった。

 

「救難行動……ありません」

 

観測士の声だけが、わずかに遅れた。

戦闘軸から外れた損傷艦へ救難艇は向かわない。

後続艦も速度を落とさない。

 

ロフォーテン星域会戦の〈ディス〉艦隊なら、艦が完全に任務能力を失えば、後続がその位置と役割を埋めた。

 

この敵は違った。

穴を埋めない。

損傷した仲間を拾わない。

戦えなくなった艦を戦列から外すことさえしない。

前へ届くなら、帝国艦に文字通り突っ込んでくる。

 

一隻の黒い巡航艦が主砲を失った。

数秒後、その艦は帝国駆逐艦へ向けてさらに増速した。

 

「敵損傷艦、衝突進路!」

 

「第三層、開け!」

 

帝国艦が左右へ逃げる。

その隙間へ、黒い巡航艦が飛び込んだ。

後続の黒色艦が、そのすぐ横を抜けていく。

ミュラーはそこで理解した。

「中央を開けろ」

 

参謀が振り返った。

「閣下?」

 

「第三層を左右へ開け。第二層から正面を撃たせろ」

 

「開けるのですか」

 

「壁を作るな」

ミュラーは突入してくる艦群を指した。

「壁を作れば、壁ごと押される」

 

第三層が左右へ開いた。

目の前にあった帝国軍の壁がなくなる。

その奥で、第二層の砲列が一斉に正面を向いた。

 

左右へ開いた第三層も退いたわけではない。斜めから侵入軸を射撃できる位置に残っている。

 

「正面で止めるな」

ミュラーは言った。

「軸を崩す」

 

黒い槍が開いた空間へ入った。

 

「撃て」

 

第二層から正面射撃。

ほぼ同時に、左右の第三層から斜射が入る。

三方向の火線が先頭群へ重なった。

今度は、一隻ずつ止めるのではなかった。

 

突入軸そのものを横から削った。

先頭群の右側が崩れ、一部が左へ寄る。そこへ第二層の砲火が入り、密度の上がった区画で複数の艦が同時に爆発した。

 

「先頭群、戦力低下!」

 

「なお前進!」

 

「右から別群!」

 

少し離れた位置を進んでいた無傷の艦群が、一斉に加速した。

崩れた先頭群の後ろには入らない。

横を抜けた。

損傷艦も、崩れた隊形も、そのまま置いていく。

 

さきほどまで槍の先だった数百隻は、もう槍の一部ではなかった。

 

「……穴を埋めないのか」

 

幕僚の一人が言った。ミュラーは新しく前へ出た群を見た。

 

「穴ではない」

 

「は?」

 

「あの連中には、最初から戦列という概念がない」

 

第二の穂先が来た。帝国側も射線を移す。

正面から撃ち、左右から削る。

 

それでも黒い艦群は止まらない。

前列の一隻が被弾し、推進力を大きく失った。

その艦だけが群れから離れた。

後退ではなかった。

もっとも近い帝国駆逐艦へ艦首を向けていた。

 

「また衝突進路!」

 

帝国艦が避ける。

避けさせられた場所へ、後続の黒色艦が砲火を撃ち込んだ。

 

「そういう使い方まで――」

 

参謀の言葉が消えた。

死にかけた艦まで、次の艦の射線を作るために使われていた。

 

ミュラーの声が低くなった。

「付き合うな。壊れた艦を止めるために隊形を崩すな。避けられる艦は避けろ。撃てる艦は、その後ろを撃て」

 

第三の穂先が来た。

一万隻の後ろに整然とした予備列があるわけではない。

どの群でも、必要になれば穂先になる。

穂先として使えなくなれば切り離される。

そして切り離されたあとでさえ、敵へ届くなら最後の特攻まで使われる。

 

「第三群、射撃終了!」

 

「下げろ。第四群を出せ」

 

「敵、新しい先頭群、左へ変針!」

 

「第二層左、合わせろ。右は動かすな」

 

報告が重なった。

帝国側にも被害が広がる。

駆逐艦が一隻、艦首から光に包まれた。隣の巡航艦が速度を落とし、救難艇がすぐに向かう。

 

帝国軍は被弾艦を拾う。

指揮官を失えば次順位が引き継ぐ。

穴が開けば、その穴を埋めながら後ろへ帰す。

それでもミュラーの直衛艦隊は崩れなかった。

 

一つの穂先を削る。

次を受ける。

三つ目を横へ流す。

衝突進路へ入った艦には正面から付き合わず、その後ろにいる無傷の艦を撃つ。

 

何度かの突入が繰り返されたたあと、黒い旗艦が速度を落とした。

周囲の艦群も、それ以上前へ出てこなくなる。

 

「敵、減速します」

 

「突入停止。後退ではありません」

 

荒くなっていた艦橋の呼吸が、少しだけ戻った。

幕僚が追撃可能距離を表示した。

 

「いまなら先頭群を取れます」

 

「必要ない」

 

「ですが――」

 

「一度止めた」

 

ミュラーは黒い旗艦から目を離さなかった。

その周囲では、まだ一度も穂先になっていない無傷の小艦群が、ゆっくり位置を変え始めている。

 

「二度目を見ろ」

 

第一波は止めた。

直衛艦隊の前には、帝国艦と教国艦の残骸が入り混じって漂っていた。

そのうち何隻が、自分から最後の衝突進路へ入ったのか。

数える者はいなかった。

 

誰も勝ったとは言わなかった。

 

 

***

 

 

第一波が止まってしばらくすると、〈守護天使〉はなお前方にいた。削られた群は外へ流れ、無傷の群だけが位置を変えている。撤退の準備ではない。次の攻撃の準備だった。

 

ミュラーは第一波の記録を見直していた。敵はどこへ向かってきたのか。本陣そのものか。それとも、その中の何かか。

 

「一つ試す」

ミュラーが言った。

「〈パーツィバル〉の指揮通信を増やす。本陣中継の一部をこちらへ回せ」

 

幕僚が顔を上げた。

「敵に位置を知らせます」

 

「そうだ。わざと知らせる」

 

本来は複数艦へ散らしている通信の一部が、〈パーツィバル〉へ集められた。皇帝旗艦とは名乗らない。護衛配置も射線も変えず、指揮通信だけを普段より太くする。

 

「敵側、変化」

電子情報士官が言った。

「右外側二群、こちらへ変針」

 

艦橋の空気が動く。二群が〈パーツィバル〉を向いた。十秒。

 

まだ来る。十五秒。機関出力も上がった。

 

「食ったか」

幕僚が呟いた。二十秒を越えたところで、一群が減速した。もう一群も続いた。

「敵、変針」

 

「どこへ」

 

「元の軸へ戻ります」

 

ミュラーは時計を見た。通信はまだ増やしたままだった。周囲の配置は変えていない。それでも敵は戻った。

 

「……偽装だと見切られました」

 

「敵は通信を追っているのではないのか?」

 

「追ってはいる」

ミュラーは言った。

「だから一度はこちらへ来た」

 

しかし、それだけではなかった。

 

「記録しろ。向こうが曲がった時刻と、戻った時刻を秒単位で残せ」

 

下段からクラインの声が入った。

 

『ミュラー閣下。いまの二十秒ですが』

 

「続けろ」

 

『通信だけで決めているなら、戻る理由がありません』

 

「そうだな」

 

『通信以外も見ています』

 

「何をだ」

 

少し間があった。

 

『まだ分かりません』

 

クラインはそこで止めた。分からないものを、分かったことにはしなかった。

黒い艦の上に、もう一度金色の円環が開いた。

 

「敵、再編完了」

 

「複数群、前進」

 

「第二波、来ます」

 

 

***

 

 

第二波は、最初から一本ではなかった。五つの小艦群が間隔を空けて前へ出る。中央へ来る群もあれば、左右へ外れた群もあり、どれが本当の穂先なのか判断できない。

 

「第三層、右側だけ一段厚く」

ミュラーが命じた。数百隻が移動する。その直後、敵の一群が右へ曲がった。

「敵右寄り」

 

幕僚が表示を拡大する。

 

「こちらの護衛移動に合わせています」

 

「まだ決めるな」

ミュラーは言った。砲火が始まった。右第三層が最初の群を受ける。

 

何隻かを落としたが、二群目も同じ側へ寄ってくる。被弾が増えたため、後方にいた一隊が援護へ出た。その瞬間、中央にいた敵の一群がさらに右へ折れた。

 

「またです」

今度は誰も偶然とは言わなかった。帝国軍が右を守る。敵も右へ来る。ミュラーは表示を見た。

「援護を止めろ」

 

「ですが右第三層が――」

 

その声を別の報告が遮った。

 

「直衛第三層、被弾多数!」

 

右側の戦列に穴が開く。ブリュンヒルトを後方へ滑らせるため、内側の艦群が動いた。一隊が進路から外れる。もう一隊が射線を開ける。皇帝旗艦が通るための道ができた。

 

「敵、変針!」

二群だった。今度は二群が同時に曲がった。護衛を寄せたら、一群が曲がった。道を空けたら、さらに二群が曲がった。ミュラーが低く言った。

「……見ているな」

 

クラインにも同じ記録が届いていた。だが、まだ答えは完成していない。

 

「ブリュンヒルトへ警報!回避機動に入れ!!」

 

命令が流れた。本陣内側の艦がさらに動く。敵も動いた。五つに分かれていた進入軸が、少しずつ同じ方向へ寄り始める。

 

「敵、収束します!」

 

「進入軸、本陣右側!」

 

「距離、急速に縮まります!」

ミュラーは命じた。

「いかん!全艦、突入軸へ――」

 

途中で言葉を切った。

 

集めれば、また見せる。

集めなければ、来る。

 

迷ったのは一瞬だけだった。その一瞬で、黒い槍はさらに距離を詰めた。

 

「陛下の区画へ警報! ブリュンヒルト、回避! 回避を続けろ!」

 

命令が飛ぶ。

 

「敵先頭群、さらに増速!」

 

「進入軸、ブリュンヒルトへ収束!」

 

「射程――」

 

観測士の声が跳ねた。

 

「敵先頭群、ブリュンヒルトを射程内に捉えました!」

 

ミュラーが顔を上げた。

 

黒い槍の穂先で、砲口が一斉に白くなった。

 

「発砲!」

 

光が走った。

 

 

***

 

 

【帝国軍本陣旗艦ブリュンヒルト アレク】

 

第一射は直衛が受けた。

前方の二隻が白い光に包まれ、一隻はそのまま消えた。

もう一隻は機関を失って戦列の外へ流れていく。

 

「回頭継続!」

 

ブリュンヒルトが艦首を振る。

進路を空けるため、前方の艦が左右へ分かれた。

黒い艦群も曲がった。

 

「まだ追ってきます!」

 

アレクは主表示を見た。

「敵はブリュンヒルトを見つけたのか?」

 

誰も答えなかった。

 

第二射が来た。

今度は警報より早かった。

 

艦橋全体が横から殴られた。

 

床が跳ね上がり、主表示が白く潰れ、天井の照明が一斉に消える。

 

直後、左舷後方の隔壁が内側へ弾け、固定されていた端末と座席が人間ごと数メートル吹き飛んだ。

 

アレクも指揮席から投げ出された。

 

肩から床へ落ち、次いで額を何か硬いものに打ちつける。

 

耳の奥で音が潰れ、しばらくは自分がどちらを向いているのかさえ分からなかった。

 

暗闇の中で、熱いものが頬へ降ってきた。

 

非常灯が点いた。

 

艦橋の後方がなくなっていた。

正確には、そこにあったものが原形を保っていなかった。

 

左舷後部の隔壁は内側へめくれ、裂け目から配線束と断熱材が引きずり出されている。折れた支持材が斜めに艦橋へ突き出し、その先では火花が断続的に散っていた。

 

ひしゃげた端末の下に人の脚が見えた。上半身は崩れた隔壁と機器の向こうに隠れている。

 

別の席では背もたれだけが残り、その周囲の壁と床へ血と細かな肉片が飛び散っていた。

 

アレクの軍服にも赤黒いものが付着していた。

 

誰のものかは分からなかった。

 

甲高い警報が鳴った。

 

「左舷艦橋区画、気圧低下!」

 

天井近くの裂け目から空気が白い霧となって吸い出されている。破断した冷却管から噴き出した霧状の冷却材がそれに巻かれ、艦橋の奥を白く曇らせた。

 

直後、非常隔壁が作動した。

 

損傷区画へ通じる通路の防圧扉が次々と落ち、遠くで重い衝撃音が続く。完全には閉じきらない一枚を警告灯が赤く表示し、その周囲だけ気流がなお強く流れていた。

 

照明は主系統を失い、赤い非常灯へ切り替わっている。消えた端末の間では、生き残った表示だけが不規則に明滅し、焦げた樹脂と冷却材の匂いが艦橋に広がっていた。

 

艦橋のどこかで人が絶叫し、別の場所では衛生兵を呼ぶ声が何度も重なった。

 

「陛下!」

 

アレクは片膝をついたまま顔を上げた。

「無事だ。艦橋を見ろ」

 

自分で言ってから、左腕に力が入らないことに気づいた。

制服の袖が肘から下で裂け、前腕に長い傷が走っている。

額からも血が流れ、片目の端へ入り込んでいた。

呼吸をすると右の脇腹が痛んだが、立てないほどではない。

 

衛生兵がこちらへ来ようとした。

 

「後だ。先に倒れている者を見ろ」

アレクは指揮席の残骸へ手をかけて立ち上がった。

そのとき、足元で何かを踏んだ。

小さく硬い音がした。

人の指だった。

 

アレクは一瞬だけそれを見た。

 

艦橋中央では、まだ生きている端末へ人員が殺到していた。

戦術卓の半分は消え、航法表示は三系統のうち二つが落ちている。

左舷側の通信席では二人が倒れ、一人は衛生兵が首へ手を当てたあと、何も言わず隣へ移った。

 

もう一人の通信士は、座席ごと後方へ倒れていた。

胸から上に破片を受けており、制服の前がほとんど赤く染まっている。

 

「通信――」

 

誰かが叫ぶより先に、後列にいた通信士が前へ出た。

倒れた男の身体を衛生兵と二人で引きずり出し、血に濡れた座席へそのまま座る。

計器盤にはまだ肉片が付いていたが、袖で一度だけ払い落とした。

 

命令はなかった。

 

「……第二、第四中継、生きています。……艦隊回線、復旧します」

 

声が震えていた。それでも通信士の手は止まらなかった。

 

アレクは額の血を手の甲で拭い、生き残った補助表示へ目を向けた。黒い艦影が再び映っている。

 

ブリュンヒルトの艦橋をあれだけ破壊してなお、敵は距離を開こうとしていなかった。

 

「後部第三、第五区画被弾! 第二主機関、停止!」

 

「姿勢制御、右舷系応答なし。左舷系へ切り替えます!」

 

主表示は戻らなかった。

予備系に切り替えられた戦術図の隅で、ブリュンヒルトを示す艦影が赤く染まっていく。

推進力は四割まで落ち、通常航行は可能でも、これ以上の戦闘機動はできないという報告が続いた。

 

まだ飛べる。

通信もできる。

残った砲塔なら撃ち返すこともできた。

 

だが、次の一撃は避けられない。

 

〈パーツィバル〉から直通回線が入った。

 

『陛下! ご無事ですか!』

 

ミュラーの声が大きかった。

背後では参謀たちが何かを叫び、別の回線では直衛艦隊への命令が飛び交っている。

ミュラーは画面の向こうのアレクを見て、一度言葉を詰まらせた。

 

『……お怪我を』

 

「大丈夫だ、立てる。意識もある」

 

『それを訊いているのでは――』

 

ミュラーはそこで言葉を切った。

目を閉じるほどの間もなく、表情を戻そうとしたが、声までは戻りきらなかった。

 

『……失礼しました。陛下、ブリュンヒルトは戦闘機動を喪失しました。次の斉射を受ければ、直衛で受け切れる保証がありません』

 

アレクは損傷表示を見た。

 

ミュラーも同じ数字を見ている。

だからこそ、次に何を言うかも分かっていた。

 

『移乗条件が成立しました』

 

そこで初めて、いつもの軍人の声に近づいた。だがその直後、ミュラーはほとんど念を押すように続けた。

 

『陛下。今すぐお移りください』

 

帝都を出る前に決めた条件だった。ブリュンヒルトが戦闘能力を失えば、皇帝は別艦へ移る。自分が残ると言っても撤収を止めない。

 

アレクは、血のついた手で損傷表示を閉じた。

「分かった。移ろう」

 

ミュラーの肩が、ほんのわずかに落ちた。

『……御意』

 

アレクは反論しなかった。

 

 

***

 

 

【ブリュンヒルト 接舷区画】

 

警護艇は予定より早く到着した。損傷した接舷区画へ機首を滑り込ませ、姿勢制御噴射を細かく刻みながら、揺れているブリュンヒルトの船体へほとんど衝撃を与えずに接舷する。

 

扉が開くと、操縦席の士官が振り返った。フェリックス・ミッターマイヤー中尉だった。

「陛下。こちらへ。手摺をお持ちください」

 

アレクは一瞬だけ顔を見た。

「フェリックス、お前が来たのか」

 

「はい。私の艇が最寄りにおりました」

フェリックスはそれ以上説明せず、負傷しているアレクの左腕を見て、座席の固定具を一段緩めた。衛生兵が乗り込む余地だけを残し、自分はすぐ操縦席へ戻る。

 

「離舷します。かなり揺れますので、陛下はそのままおつかまりください」

 

接舷具が外れた。

 

警護艇はブリュンヒルトの船腹から弾かれるように離れたが、フェリックスは主推進器をすぐには使わなかった。損傷艦の周囲には破片が漂い、強く噴かせれば艇自身がその中へ突っ込む。姿勢制御だけで船体を横へ滑らせ、開けた宙域へ出てから一気に加速した。

 

背後ではブリュンヒルトがなお皇帝旗艦としての発信を続けている。艦が大きく損傷していることは敵にも見えているが、皇帝が降りたことは通信上から消されていた。さらに〈パーツィバル〉も直衛艦隊の指揮通信を強く出しており、戦場には二つの大きな目印が残されている。

 

フェリックスの警護艇は、敵の遠距離観測には独立した艦影として拾われていなかった。

直衛艦隊の内側を飛ぶ小型艇一隻にすぎず、少なくとも黒い槍がその艇を直接追っている様子はない。

 

黒い槍の穂先は、まだブリュンヒルトを向いていた。

副操縦士が小さく息を吐いた。

「偽装、効いているでしょうか?」

 

フェリックスは返事をしなかった。敵の針路を一度見ただけで、第一移乗艦との距離を確認する。

 

「受入艦へ。こちらミッターマイヤー中尉。速度は変えないでください。合わせるのはこちらでやります。護衛二隻も現在位置を維持。接舷のために戦列を開かないでください」

 

『了解しました。ですが接舷速度が――』

 

「足りています。こちらで殺します」

 

フェリックスは推力を落とした。

 

艇は第一移乗艦へ真後ろから近づかず、少し外側を回って相対速度を落としていった。受け入れる側を皇帝のために動かせば、その動き自体が目印になる。フェリックスは大きな艦を一隻動かす代わりに、小さな艇の方で位置と速度を合わせた。

 

「接舷まで十二秒。受入区画、そのまま。前方艦も射線を空けなくて結構です」

 

周囲の護衛艦は形を崩さなかった。

 

八秒。

 

五秒。

 

警護艇が第一移乗艦の船腹へ吸いつくように寄り、ほとんど衝撃もなく接舷具が噛んだ。

副操縦士が思わず息を呑んだ。

 

「……すごい」

 

フェリックスは聞こえなかったように、接舷表示だけを確認した。

「陛下。ご移乗ください」

 

アレクが立ち上がり、衛兵と衛生兵に挟まれて連絡筒へ入る。フェリックスはその姿を追わず、黒い槍の表示を見続けていた。

 

敵の先端が、わずかに揺れた。

フェリックスの手が止まった。

「……待て」

 

観測員がほぼ同時に声を上げた。

 

「敵集団、変針!」

 

警護艇の通信機から観測員の声が飛び込んだ。

 

「ブリュンヒルト方向ではありません。進入軸を修正――こちらへ寄っています!」

 

フェリックスは表示を拡大した。

黒い槍は移乗艦そのものへ一直線に向かっているわけではない。それでも、たった今アレクを受け入れた移乗艦を中心とする一帯へ、先端の艦群が明らかに軸を寄せ始めていた。

 

ブリュンヒルトはいまも皇帝旗艦として強い発信を続け、〈パーツィバル〉からも直衛艦隊の指揮通信が出ている。電波だけなら、敵がそちらを追い続けてもおかしくない。それを捨てて移乗区画へ寄ってきたということは、皇帝移乗に伴う何かを拾われたと考えるべきだった。

 

フェリックスはすぐ直衛回線を開いた。

 

「第一移乗艦、すぐに回避を開始してください。周辺艦は寄らず、現在の配置を維持。警護艇は接舷圏内へ戻ります」

 

『了解』

 

続けて〈パーツィバル〉を呼んだ。

 

「第一移乗区画へ敵の軸が寄っています。移乗を読まれた可能性があります。陛下をただちに再移乗させます。次の陛下の移乗艦をご指定ください」

 

数秒で返答が来た。

 

『第二〇四駆逐艦へ移乗せよ。現在位置から三分』

 

フェリックスは距離と周囲の艦列を一度に確認した。

 

「三分あれば足ります」

 

数秒で〈パーツィバル〉から返答が来た。

 

『第二〇四駆逐艦。現在位置から三分』

 

フェリックスは距離を確認した。

「三分あれば足ります」

 

フェリックスは警護艇を反転させた。第一移乗艦では、いったん閉じた接舷区画が再び開き始めている。周囲の護衛艦は動かさず、警護艇の側から速度を合わせて先ほどと同じ接舷口へ戻った。余計な艦を一隻でも寄せれば、それもまた敵に渡す材料になるかもしれない。

 

扉が開くと、アレクは衛兵とともにすでに接舷区画まで戻ってきていた。

「敵に見つかったか」

 

フェリックスは敬礼した。

「はい、陛下。敵は第一移乗区画へ進入軸を寄せています。ここが最有力候補と見られた可能性がありますので、ただちに再移乗をお願いいたします」

 

「分かった」

 

アレクはそれ以上訊かなかった。衛兵とともに警護艇へ戻り、固定具が閉じると、フェリックスはすぐ離舷した。第一移乗艦はそのまま回避を続けたが、周囲の艦は不用意に寄らず、皇帝がまだそこにいるとも、すでに離れたとも分からない形を保っている。

 

黒い槍の進入軸も、なお第一移乗区画の側へ傾いていた。

 

フェリックスはその動きを一度確認すると、移乗先の第二〇四駆逐艦までの航路を呼び出した。表示上では三分。通常の接近手順を踏めば間に合わない距離ではなかったが、受入艦の方を大きく動かせば、先ほどと同じ痕跡をまた作ることになる。

 

「こちらミッターマイヤー中尉。第二〇四駆逐艦へ。現在速度を維持してください。接舷のための減速は不要です。こちらから合わせます」

 

『了解』

 

「周辺艦も配置を変えないでください。護衛を増やす必要はありません」

 

フェリックスは警護艇を加速させた。第一移乗区画がなぜ選ばれたのか、その理由まではまだ分からない。ただ、敵が皇帝そのものを直接見ているのでないことは、ブリュンヒルトと〈パーツィバル〉を捨てて第一移乗区画へ軸を変えた動きから分かる。

 

ならば、同じ場所に皇帝を置き続ける必要はなかった。

警護艇は直衛艦列の間へ入り、皇帝を乗せて第二〇四駆逐艦へ向かった。

 

 

***

 

 

【帝国軍総旗艦ブリュンヒルト 下段戦況整理卓】

 

アレクを送り出したブリュンヒルトは大破していたが、なお航行を続けていた。

 

下段区画には非常電源が残っていた。

 

上部区画ほどの直撃は受けていないが、戦況整理卓も無傷ではなく、十二面あった表示のうち四面は完全に落ちている。残る画面もときおり明滅し、通信系は生きている回線を拾って、その都度つなぎ直して使っていた。

 

艦橋や上部区画から負傷者が運ばれてくるたび背後の通路では担架を通すために人が壁際へ寄ったが、戦況整理班そのものにはまだ退艦命令が出ていなかった。

 

皇帝はすでに艦を離れている。

 

それでもブリュンヒルトには、皇帝旗艦として発信を続け、敵の目を引きつける役目が残っていた。

 

ブリュンヒルトに残ったクラインたちにも、その発信と敵の反応を追う仕事が残っている。彼は落ちた表示に出ていた記録を生きている八面へ寄せ直し、会戦開始以来の航跡と通信記録を時刻順に並べた。

 

中継経路を切り替えた時刻、救難部隊が動いた時刻、直衛艦隊の配置が変わった時刻。その周辺へ教国の小艦群が現れた時刻も重ねていくと、それまで別々に見えていた出来事のあいだに共通点が出てきた。外周に散っていた小艦群は、帝国軍の特定の艦を追っていたのではない。

 

中継経路が変わればその付近へ寄り、救難のために直衛が動けばそちらへ現れ、帝国側がどう反応するかをしばらく観測すると、深追いせず離れている。

 

一度や二度なら偶然でも説明できたが、同じ種類の動きが会戦開始から何度も繰り返されていた。

 

クラインは〈パーツィバル〉を使った最初の試験記録を呼び出した。あのとき帝国側は意図的に指揮通信を増やし、敵の小群は確かに寄ってきたが、二十秒ほど観測しただけで針路を変えている。通信量そのものを皇帝所在の指標にしているなら、そこで離れる理由がない。

 

次の記録では直衛の一部を右へ寄せると敵も右へ曲がり、その後、ブリュンヒルトの進路を空けるため周囲の艦が動いた際には、別の二群まで同じ側へ寄っていた。

 

そこへ、つい先ほどの皇帝移乗時の記録を重ねた。

 

ブリュンヒルトはいまも皇帝旗艦として強い発信を続け、〈パーツィバル〉も直衛艦隊の指揮通信を出し続けている。電波だけを見れば、どちらにも皇帝がいるように見えるはずだった。それにもかかわらず、アレクが別の艦へ移った直後、黒い槍は迷いなく二隻を捨て、移乗先の艦へ向きを変えている。

 

個々の記録には、皇帝の位置を直接示す情報など一つもなかった。しかし、帝国軍が何かを守ろうとして動いた場所だけを結ぶと、別の像が浮かんできた。

 

クラインは〈パーツィバル〉への回線を開いた。

 

「ミュラー元帥」

 

ミュラーの返事はすぐに来た。

 

『聞いている、ヴァルター中尉』

 

「敵は、陛下やブリュンヒルトを見ているのではありません」

 

回線の向こうで、わずかな間があった。

 

『なんだと?いったい何を見ている』

 

クラインは中継の切替、救難部隊の移動、直衛の偏り、そして皇帝移乗時に生じた周辺艦の動きを同じ表示へ重ねた。そのどれ一つだけを取っても、アレクの所在を示すものではない。それでも複数の反応が同じ場所へ重なると、教国側の小艦群はそこへ寄っている。

 

「われわれです。通信だけ追っているのではありません。特定の艦を追っているわけでもない。陛下がおられる場所で、われわれが何をするのかを見ています」

 

黒い槍はすでに新しい進入軸へ乗っていた。

 

「護衛が寄る。射線を空ける。受入艦が速度を変える。通信が増える。どれか一つで決めているのではなく、それらが同じ場所に重なったとき、あちらはそこを陛下のいる場所だと判断しているのでしょう」

 

ミュラーはしばらく黙っていたが、理解するのに長い時間は要らなかった。

 

『……こちらが陛下を守ろうとする動きが、陛下の場所を教えているのか』

 

「はい」

 

クラインは直衛一万五千隻の配置を開いた。皇帝を隠そうとして護衛を厚くすれば、その厚みが敵に位置を知らせる。別艦へ移しても、受入艦の速度を変え、周囲の護衛を寄せ、射線を開けば、その反応をまた読まれる。これまでは、その痕跡をどう消すかという問題だと思っていた。

 

だが、敵が見ているものが分かったのなら、消すことだけが答えではない。

 

クラインの指が、表示上の区画を順に選んでいった。三か所、さらにもう一か所。どれも実際の艦を使い、実際に護衛を動かせる位置だった。

 

「元帥」

 

『何だ』

 

「敵が見ているのが陛下ではなく、陛下を守ろうとするこちらの動きなら――」

 

クラインは選んだ四つの区画を〈パーツィバル〉へ送った。

 

「同じ動きを、四か所で同時に起こします。どこに陛下がおられるのか、向こうにもう一度選ばせます」




――「一緒に死んでやる。絶対に一人にはさせねえって言ったろ」

次回、『第二次バーミリオン星域の会戦(6)(終)』
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