【新帝国暦二十四年三月 帝国軍本陣旗艦ブリュンヒルト 下段戦況整理卓】
クラインは選んだ四つの区画を〈パーツィバル〉へ送った。
「同じ種類の動きを、四か所で同時に起こします。どこに陛下がおられるのか、向こうにもう一度選ばせます」
クラインがそう言うと、回線の向こうでミュラーは数秒黙った。
ブリュンヒルトを離れたアレクは、すでに第一移乗艦にもいない。
敵が移乗区画の方へ進入軸を寄せたのを見たフェリックスが、ただちに皇帝を警護艇へ戻し、別の移乗先へ向かっていた。
ミュラーは別回線を開いた。
『ミッターマイヤー中尉。次の移乗までどれだけ要る』
『三分あれば足ります』
『三分だな』
ミュラーはクラインとの回線へ戻った。
『その三分を作れるか?』
クラインは直衛内層で現在進行中の作業を戦況図へ重ねた。
負傷者の収容。司令部要員の移乗。損傷艦からの指揮機能の引継ぎ。中継要員と通信班の移動。
皇帝とは無関係に、人と艇が動き、受入艦が速度を合わせ、周囲で護衛をする艦が位置を変えている場所はいくつもあった。だが、そのすべてが使えるわけではない。
艇が一隻動いているだけの場所。
通信だけが増えている場所。
受入艦は動いていても、周囲の護衛配置が変わっていない場所。
そうしたものはクラインが順に除いた。
残ったのは三か所だった。
いずれも、少なくともあと三分は移乗作業が続く。
艇が実際に往復し、受入艦が速度と位置を合わせ、周囲の艦もそれに応じて動いている。
「陛下の実際の移乗を合わせれば、四か所です」
ミュラーが訊いた。
『四つだけか。もっと数を増やせないか?』
「通信上なら十でも二十でも作れます」
クラインは即答した。
「ですが、それは既に一度見切られています。向こうは一つの信号を見て判断しているわけではありません」
四つの区画を拡大する。
「艇が出る。受入艦が速度を変える。護衛が寄る。周囲が射線や進路を空ける。通信も動く。敵は、そういう複数の反応を重ねて見ています」
クラインは直衛艦隊内を行き交う小型艇の表示を重ねた。
「救難艇や連絡艇が何隻も動くこの中で、遠距離から、一隻の小型艇を連続して追跡し続けるのは難しい。まして、その一隻に陛下がおられると識別することはできません」
『だから艇自体ではなく、周囲を見ているのか』
「はい。もし警護艇そのものを敵が捕捉して追えているなら、第一移乗のあとにこちらの護衛配置を見て進入軸を修正する必要はありませんでした」
クラインは四つの区画を示した。
「向こうが追っているのは艇ではありません。われわれが、どの艇を特別扱いするかです」
『通信に加えて、実際に同じ動きをもっと多く作ればいい、という話でもないな』
「そのために艦を動かせば、それだけ直衛に穴が開きます。それに、本来必要のない移動は長く見られるほど不自然になります」
クラインは三つの区画を示した。
「この三か所は違います。最初から必要があって、本当に人を動かしています。本来からして周囲の艦が動く高優先度作業です。」
一つ目では、損傷した戦隊指揮艦から負傷者と生存要員を複数の救難艇で収容していた。
二つ目では、被弾した指揮艦から幕僚、通信要員、指揮用機材を別艦へ移している。
三つ目では、損傷した中継艦の機能を引き継ぐため、人員と予備機材の移送が続いていた。
どれも皇帝を隠すために始めた作業ではない。艇は本当に人を運ぶ。受入艦も本当に速度を合わせる。護衛艦も、本来の任務としてその周囲を守っている。だから、それぞれの動きの間に矛盾がない。
『だが、陛下の移乗とは周囲の護衛の厚さが違う。見分けられるのではないか?』
「見分けると思います」
クラインは否定しなかった。
「見分けられたら、また別の艦に移乗します」
ミュラーが黙って続きを待った。
「向こうは陛下そのものを見ているわけではありません。艇が出る。受入艦が速度を合わせる。護衛が寄る。周囲が進路や射線を空ける。そうした動きを重ねて、陛下の居場所を絞っています」
クラインは四つの区画を順に示した。
「同じ種類の動きが四か所にあれば、向こうは観測をやり直さなければなりません。一つずつ候補を捨てて、本物を選び直す必要がある」
『見分けるまでの時間はいくらか稼げるか』
「はい。ただし、最初がいちばん長く稼げると思います」
ミュラーがわずかに眉を動かした。
『どういう意味だ』
「一度選別すれば、向こうもこちらの違いを覚えます。次は同じ四か所を最初から調べる必要がない。見るべき差を絞ってくるでしょう。それに――」
クラインは〈守護天使〉と直衛艦隊との距離を表示した。
「敵は近づいています。距離が縮まれば、艇そのものも見えやすくなる」
『つまり、移乗を繰り返すほど、稼げる時間は短くなるか』
「はい」
クラインは実際の皇帝移乗区画を最後に示した。
「それでも最初の移乗には足ります。移乗が終われば、受入艦を通常の撤収隊形へ戻します。陛下のためだけに護衛を寄せない。特別な通信も出さない。周囲の艦にも余計な動きをさせません」
『見つける手掛かりそのものを消すのだな』
「そうです」
クラインは頷いた。
「偽の皇帝を四人作るのではありません。重要なものを実際に移している場所を、同時に四つ並べます。敵が観測する事実は、四か所とも本物です」
少し置いて続けた。
「いずれ陛下の乗る艦を見分けられます。見分けられたら、陛下をまた別の艦へ移す。その間に、直衛艦隊で敵を包囲して殲滅してください」
ミュラーは戦況図を見た。
『移乗は何度やれる?』
「分かりません」
クラインは即答した。
「二度目は一度目より短い。三度目があるなら、さらに短くなるでしょう。敵が直衛の内側へ入り込み、警護艇そのものを連続して追跡できる距離まで来れば、この方法はもう使えません」
『その先は』
「もう隠せません」
クラインは黒い槍の先端を見た。
「そこからは、追いつかれて撃たれる前に、敵を殲滅する必要が出てきます」
回線の向こうで、ミュラーがしばらく黙った。
『……時間の取り合いだな』
「はい」
『こちらがあの槍を包んで殲滅するのが先か』
ミュラーは黒い艦群と、その左右へ回り始めている直衛各群を見た。
『向こうが陛下まで届くのが先か』
「そうなります」
これは皇帝を隠し切る策ではなかった。
時間を買う策だった。
どちらが先に終わるか。
それだけだった。
『わかった、やれ。ただし、救難も移乗も中継も、それぞれの本来任務を優先しろ』
「了解しました」
クラインにも異論はなかった。
負傷者を余計に運ぶ必要はない。囮のためだけに護衛艦を抜く必要もない。必要のない通信を増やす必要もない。すでに行われている三つの仕事を、そのまま続けさせる。
そこへ、本物の皇帝移乗を一つ加える。
四つの場所で、四つの本物の仕事が動く。
そのうち一つだけが、皇帝を運んでいる。
そして三分後には、その一つも、他と同じ艦隊の動きの中へ戻る。
クラインは三つの区画へ連絡を流し、最後にフェリックスの警護艇を示す符号を見た。
第二移乗艦まで、あと三分だった。
***
最初に動いたのは、損傷した巡航艦から負傷者を収容している区画だった。
重傷者だけでも一艇では運び切れず、最初の救難艇が受入艦へ向かうころには二艇目が発進準備に入っている。
その外側では駆逐艦二隻が収容経路を守る位置へ寄り、受入側も艇を迎えるためにわずかに速度を合わせていた。
別の区画では、被弾した戦隊指揮艦から幕僚と通信要員を移す作業が続いていた。
人員だけでなく、暗号機材や指揮記録、予備の通信装置まで運び出すため、複数の連絡艇が艦の間を往復している。
さらに三つ目では、損傷した中継艦から別艦への機能移管が始まり、交代要員と予備機材を載せた作業艇のために周囲の艦が航路を空けていた。
どれも皇帝を隠すために始めた作業ではない。だからこそ、外から見える動きには嘘がなかった。
そこへ、フェリックスの警護艇が向かう第二移乗艦を加えると、直衛艦隊の内側には四つの似た反応が同時に生じた。
艇が艦から艦へ渡り、受入側が相対速度を合わせ、その周囲では護衛艦が進路と射線を確保している。
何を運んでいるかを遠距離から見分けられなければ、四つのうちどれが皇帝移乗に伴う動きなのか、すぐには決められないはずだった。
観測士が表示を拡大した。
「敵先頭群、分散しています。救難区画側へ一群。指揮艦移乗区画にも変針を確認。中継艦側へ向いた群もあります」
クラインは四つの区画と〈守護天使〉の航跡を同じ表示へ重ねた。
黒い槍そのものが四つに割れたわけではないが、先端近くの小群がそれぞれ別の場所へ向かい、それまで一つの区画へ集まっていた観測の向きが明らかに散っている。
本流も進入軸をすぐには定めず、帝国側の次の反応を待つように速度を抑えていた。
クラインは表示から目を離さなかった。
「迷わせてはいます。完全に騙したわけではありません」
三つの区画では、その後も予定された作業が続いた。
負傷者を運ぶ艇は往復し、戦隊司令部では人員に続いて機材が運び出され、中継区画でも機能移管の確認が終わっていない。
〈守護天使〉の小群も、それぞれの周辺からすぐには離れなかった。
その停滞を、ミュラーは見逃さなかった。
『直衛各戦隊。止まっている群から撃て。中央は空けておけ』
〈パーツィバル〉を中心に、それまで黒い槍の突入を受け止めるため温存されていた砲列が次々と火を噴いた。
四つへ散った小群の一つがまともに斉射を受けた。
先頭の駆逐艦が消え、その後ろで二隻が航跡を崩す。
別の区画では巡航艦の船腹が白く弾け、数隻が戦列から外れた。
それでも敵は退かなかった。
大きく散開して火線から逃げればいま見ている区画を見失う。
後方へ下がれば帝国軍の次の反応を取り逃がす。
〈守護天使〉の小群は最低限の回避だけを取り観測している区画との位置関係を崩さなかった。
「敵、まだ残ります」
観測士が言った。
二度目の帝国軍斉射が入った。
今度は一群の半数近くが消えたが、生き残った艦はなお同じ方向を向いている。
反撃の砲火は散発的だった。
クラインはその動きを見た。
「……逃げることより、見続けることを優先しています」
四つの候補の周囲で、敵艦が一隻ずつ失われていく。それでも〈守護天使〉は観測をやめなかった。
その間に、フェリックスの警護艇は第二〇四駆逐艦へ近づいていった。
受入艦は命令どおり速度を変えず、周囲の護衛も配置を崩していない。
皇帝を迎えるためだけの艦隊運動は、できる限り生じさせていなかった。それでも接舷する以上、艇と艦の間にはいずれ何らかの動きが出る。
しばらくして、観測卓から新しい報告が上がった。
「敵中央群、再増速」
クラインが顔を上げた。
三つの区画へ向かった小群が戻ってきたわけではない。それぞれの観測は続いている。
だが中央に残った艦群だけが再び前へ出て、先ほどまで広がっていた進入軸を少しずつ狭め始めていた。
「進路を延長」
予測線が伸びた。
まだ第二〇四駆逐艦そのものを指してはいない。
それでも、四つの候補を同じように見ていたときより、明らかに本物の側へ寄っている。
〈パーツィバル〉からミュラーの声が入った。
『ヴァルター中尉』
「はい」
『向こうの判断が早い。移乗まで持たん。何を拾っている』
クラインは四つの候補を見比べた。
負傷者収容も、司令部移乗も、中継機能の移管もまだ続いている。
どの区画でも艇が往復し、受入艦が速度を合わせ、その周囲では必要な護衛艦が位置を変えていた。
皇帝の移乗する第二〇四駆逐艦の周辺だけが、露骨に違っているわけではない。
違いは、もっと小さかった。
クラインは四区画について、受入艦ではなく、そのさらに外側にいる戦闘艦の動きを重ねた。
ほかの三か所でも護衛は動いている。
救難艇へ近づく敵を牽制し、損傷した指揮艦の移乗路を守り、中継艦の作業区画へ火線が通らないよう、それぞれ必要な位置を取っていた。
第二〇四駆逐隊の周囲でも、表向きは同じだった。
だが、わずかに厚い。
前方の直衛艦二隻が、規定の間隔を崩さない範囲で少し内側へ寄っている。
別の一隻は、本来なら正面へ向けておけばよい艦首を、黒い槍の側へ数度だけ振っていた。
さらに一隻が、第二〇四と敵との間に入れる位置へ、ほんのわずかに速度を合わせている。
どれも命令違反と呼ぶほどの動きではない。
一隻ずつ見れば、戦闘中の位置修正で片づけられる程度だった。
だが、三隻、四隻と重ねれば違った。第二〇四の周囲だけ、何かあれば自分が先に撃たれる位置を取ろうとする艦が多い。クラインは表示を拡大した。
「……護衛です」
『何だと』
「第二〇四の周囲の護衛の動きが他より多い」
クラインは敵側に寄った艦だけを表示へ残した。
「命令された動きではありません。周囲の艦が、それぞれ自分の判断で陛下と敵の間へ入ろうとしています」
回線の向こうでミュラーが黙った。クラインは四つの区画をもう一度見比べた。
「救難なら、救難艇を守る。司令部移乗なら、移乗路を守る。ですがここでは――」
第二〇四の前にできた、わずかに厚い艦列を指した。
「作業ではなく、人を守ろうとしています」
『……それを読まれているのか』
「おそらく」
黒い槍の中央群は、ゆっくりと進入軸を狭めていた。
四つあった候補のうち、一つへ。
帝国軍自身が、答えを教えていた。
黒い槍の中央群は、さらに進入軸を狭めていた。
クラインはすぐに警護艇への回線を開いた。
「ミッターマイヤー中尉。第二〇四への移乗を中止してください」
『……読まれたか』
「はい。第二〇四の動きではありません。周囲の艦が敵に答えを出しています」
『了解。別の移乗先を指示してください』
フェリックスは第二〇四へ向けていた針路を外した。
第二〇四駆逐艦への接近を打ち切った直後、警報が鳴った。
「敵先頭群、射撃準備!」
黒い槍の前列で砲口が増光する。
警護艇の進路一帯に、射線がとられた。
フェリックスが操縦桿を切る。
その瞬間、左前方から一隻の帝国軍巡航艦が加速した。
「第七〇一巡航艦、変針!」
第七〇一巡航艦〈ヴァルトラウテ〉だった。
巡航艦は敵艦群へ突撃するのではなく、黒い槍と警護艇の間を横切るように船体を滑り込ませた。同時に電子妨害が強まり、それまで警護艇の予測進路へ集まっていた照準波がいくつか乱れる。
「敵射撃解、変動!」
ほとんど同時に通信が開いた。
『こちら〈ヴァルトラウテ〉、ケラー。陛下、お先にどうぞ。今から少々、幅を利かせてまいります』
アレクが顔を上げた。
「ケラー中佐……」
フェリックスは前方から目を離さなかった。
「……ご存じなのですか」
「三十九歳だ。子供が二人いる」
副操縦士が一瞬だけアレクを見たが、何も言わなかった。
敵の砲火が来た。
最初の数発が〈ヴァルトラウテ〉の後部へ命中し、機関出力が急速に落ちる。それでも巡航艦は射線から退かず、崩れかけた姿勢を補助推進器で支えながら、警護艇の進路を隠す位置に船体を残し続けた。
「〈ヴァルトラウテ〉、被弾!」
フェリックスは、その陰を使って警護艇を代替航路へ滑り込ませた。敵砲列が照準を取り直すより早く、警護艇は大型艦の間へ入る。
直後、二度目の斉射が〈ヴァルトラウテ〉の船体中央部を捉えた。白い閃光のあとに装甲と構造材が噴き出し、巡航艦は中央から折れるように崩れた。通信表示も同時に消える。
「第七〇一巡航艦〈ヴァルトラウテ〉、反応消失」
アレクは後方表示を見たままだった。フェリックスは何も言わず、新たに指定された受入艦へ艇を寄せていった。
***
代替受入艦への移乗は、〈ヴァルトラウテ〉が買った時間の中で完了した。
だが、〈守護天使〉の再選別は止まっていなかった。
散っていた観測の向きは一つずつ整理され、皇帝を受け入れた艦そのものではなく、その周囲で生じる小さな反応を手掛かりとして、黒い槍の進入軸が再び狭まり始める。
フェリックスは敵の動きを確認すると、移乗から二分も経たないうちに警護艇を呼び戻した。
「敵がまた来ます。ここを出ます」
アレクは何も言わず、衛兵とともに接舷区画へ戻った。ようやく入った艦を逆にたどり、再び警護艇へ乗り込むと、固定具が閉じるのを待ってフェリックスは離艦した。
直衛艦隊の内側では、救難艇、連絡艇、移乗艇がなお行き交っていた。大型艦の船体が小型艇の航跡を何度も遮るため、〈守護天使〉はまだ皇帝の乗る警護艇一隻を連続して追え切れてはいない。
したがって、敵が見ているのはまだ引き続き周囲の反応だった。どの艇へ護衛が寄るのか。どの艦のために射線が空くのか。敵が近づいたとき、どこへ帝国艦が集まるのか。
黒い槍の先端から、いくつかの小群が再びこちらへ寄り始めたところで、一隻の帝国駆逐艦が動いた。
「第三三八駆逐艦、変針!」
第三三八駆逐艦〈ジークルーネ〉だった。
ただし、警護艇の前へ出たのではない。〈ジークルーネ〉は皇帝艇とは別の移乗区画へ寄り、そこで続いていた司令部要員の移乗作業を守るように敵側へ艦首を向けた。
近くにいた二隻にも短い通信が飛び、二隻は戦列を大きく崩さない範囲で位置を変えた。三隻の戦闘艦が、一つの移乗区画を庇う形になる。
クラインの声が回線へ入った。
『〈ジークルーネ〉が、別の移乗区画で護衛を作り、敵に見せています』
フェリックスが表示を見た。
こちらへ向かっていた〈守護天使〉の小群のうち、一つが〈ジークルーネ〉側へ折れた。続いてもう一群が変針し、一つへ集まりつつあった敵の観測方向が再び割れる。
アレクも何が起きたのか理解した。
「リンデマン……」
第三三八駆逐艦の艦長だった。
〈ジークルーネ〉は敵へ突撃しなかった。そこに守るべきものがあると敵へ見せ続ける。
敵も、その答えを受け取った。
「敵小群、第三三八へ増速!」
アレクが回線を開いた。
「〈ジークルーネ〉、下がれ!命令だ!余のために艦を捨てるな!」
返答はすぐに来た。
『〈ジークルーネ〉艦長、リンデマンです。陛下、ご命令には従えません』
「リンデマン!」
わずかな間のあと、若い男の声は妙に落ち着いたまま続いた。
『命令違反の処分は、帝都に帰ってから受けます。今は少々、取り込んでおりまして』
砲撃音が回線へ混じった。
「リンデマン――」
『陛下、ご帰還を。ここは我々が受け持ちます』
〈ジークルーネ〉が火を開いた。
最初の一斉射で艦尾が大きく抉られ、推進力が落ちた。それでも駆逐艦は持ち場を捨てず、残った姿勢制御だけで艦首を敵へ向け続けた。
二度目の斉射が船体中央部へ入った。白い光の中で爆発が重なり、細い艦体が中央から折れる。ほどなく第三三八を示していた符号が戦況図から消えた。
「第三三八駆逐艦〈ジークルーネ〉、反応消失」
アレクは表示を見たまま、掠れた声で言った。
「……リンデマン少佐。去年、昇進したばかりだった」
フェリックスは答えなかった。
〈ジークルーネ〉が引きつけた二群は、すぐにはこちらへ戻れない。その数十秒のあいだにも、警護艇は次の受入艦との距離を縮めていた。
「……次へ行きます」
フェリックスは前だけを見ていた。
***
だが、その次にはもう、同じ手を使う余地がなくなった。
〈守護天使〉の先頭群が直衛艦隊の内側へ深く入り込み、警護艇との距離そのものが縮まっていた。大型艦の陰へ入るたびに一度は見失われても、数秒後には別の観測艦が艇を拾い、その航跡を次の艦へ渡している。
敵にとってこれまで断続的だった小型艇の光学像が、一つの航跡としてつながり始めていた。
『敵先頭群、追尾方式が変わっています』
クラインからの報告だった。
フェリックスが訊いた。
「どう変わった!?」
『もう周囲の艦を見て、陛下の位置を推定しているのではありません。警護艇そのものを補足して追ってきています』
フェリックスは表示を見た。
直衛艦の間を抜けてくる黒い艦影が一つある。大型艦に遮られても進路を修正し、再び艇を捉えるたびに艦首をこちらへ向け直していた。
敵はもう、皇帝の所在を推定していなかった。近距離から皇帝を乗せた艇そのものを捉え続けている。
「敵先頭艦、急接近!」
前方には次の受入艦が見えていたが、接舷位置まで入るにはなお数十秒を要した。いま大きく回避すれば接舷軸から外れ、再び位置を合わせ直す時間はない。
黒い艦の艦首で主砲の光が急速に強くなった。
「敵主砲、充填!」
副操縦士が接舷までの時間を読み上げようとした、その途中だった。右後方から一隻の帝国駆逐艦が飛び出した。
「第五一二駆逐艦、急加速!」
艦名表示が開く。
〈シュヴェルトライテ〉。
今度は敵を迷わせるためではなかった。駆逐艦は警護艇と黒い艦の間へ一直線に入り、すでにできあがっていた射線そのものを断とうとしている。
「〈シュヴェルトライテ〉、駄目だ!戻れ!」
アレクの声が飛んだ。
『第五一二駆逐艦〈シュヴェルトライテ〉、グレーベルです。戻れません』
「命令だ。戻れ!」
短い沈黙のあと、グレーベルは静かに答えた。
『申し訳ありません。陛下、帝都までお帰りください。こちらは、あの黒いのに少々、道を空けてもらうとします』
アレクが顔を上げた。
「待て。グレーベル、やめろ!余が命じている。回頭しろ!」
返答はなかった。
〈シュヴェルトライテ〉はさらに加速し、主砲を充填した黒い艦の正面へ斜めから入っていく。敵艦の砲口はすでに白く、発砲まで数秒も残っていなかった。
「〈シュヴェルトライテ〉!」
アレクの声とほとんど同時に、第五一二駆逐艦が黒い艦の艦首へ激突した。
白い光が弾けた。敵主砲の発射より、ほんのわずかに早かった。
衝撃で黒い艦の艦首が大きく横へ振られ、充填を終えていた主砲が明後日の方向へ火を吐いた。数条の光が警護艇の横を走り、そのまま暗い宇宙へ消えていく。
〈シュヴェルトライテ〉は敵艦へ食い込んだ位置から折れた。後半部がちぎれて回転し、数秒後には機関部が爆発する。黒い敵艦も艦首を大きく潰され、進入軸から外れた。
「第五一二駆逐艦〈シュヴェルトライテ〉、反応消失。艦長、グレーベル少佐」
アレクは消えた艦影を見たまま、何も言えなかった。
その直後、艇内に別の音が鳴った。
「受入艦、接舷軸に入りました!」
フェリックスは操縦桿を切り、警護艇を受入艦の船腹へ滑り込ませた。残り十二秒、八秒、五秒と数字が減り、最後に接舷具が噛む重い振動が艇内へ伝わった。
「接舷完了!」
〈シュヴェルトライテ〉の衝突と爆発で乱れていた〈守護天使〉の光学追尾は、警護艇が受入艦の船腹へ入り込んだところで一度途切れた。敵が最後に捉えていたのは、この区画へ入っていく艇影までだった。
アレクはなお後方表示を見ていた。
〈ヴァルトラウテ〉。
〈ジークルーネ〉。
〈シュヴェルトライテ〉。
三つの艦名が、もう戦況図にはない。
フェリックスが振り返った。
「陛下、お急ぎください。次、移乗します」
アレクはすぐには動かなかった。
「……三隻。僕を運ぶために、三隻も――」
フェリックスは返事をしなかった。
接舷筒の気密表示が緑へ変わる。その外では、〈守護天使〉の次の群が、すでにこちらの区画へ向きを変え始めていた。
***
次の移乗先が決まると、フェリックスは再び警護艇を出した。艇は直衛艦の陰を縫いながら進んでいる。〈守護天使〉はなお皇帝の所在を探していたが、一度光学追尾が途切れたため、周囲の艦影が重なる区画へ入れば、しばらくは直接の砲火を避けられる。
アレクは後方の固定席で黙っていた。〈ヴァルトラウテ〉が沈んだあとも、〈ジークルーネ〉が沈んだあとも、〈シュヴェルトライテ〉が沈んだあとも、移乗には従った。だが今は、次に乗る艦の名さえ訊かずに俯いていた。
フェリックスは操縦桿を握ったまま、しばらく前方を見ていた。
「副操縦士」
「はい」
「後部の接舷具をもう一度確認してくれ。さっきの離舷で警告が一度出ている。警護員にも手伝ってもらってくれ」
「了解しました」
副操縦士は固定具を外して席を立ち、後部区画へ入った。フェリックスはその姿が隔壁の向こうへ消えるのを確認してから扉を閉じた。
外部回線はそのまま残し、後部区画との艇内通話を切った。
アレクが顔を上げた。
「どうした」
「陛下。次の受入艦まで、まだ少し時間があります」
「それがどうした」
フェリックスは答えなかった。前方では帝国艦の船腹が次々と流れ、警護艇はその隙間を抜けていく。
しばらくして、フェリックスが口を開いた。
「……アレク」
陛下、とは呼ばなかった。
「次の艦に着くまででいい」
フェリックスは前を向いたまま言った。
「いまだけ、皇帝をやめろ」
固定席の方で、わずかに布の擦れる音がした。
「今、ここには俺しかいない」
フェリックスは振り返らなかった。
***
アレクはしばらく何も言わなかった。
警護艇は直衛艦の陰を抜け、次の艦へ向かっていた。遠くではまだ砲火が見える。艇内にも戦況表示は残っていたが、外部から入ってくる声は消えていた。
フェリックスは前を向いたまま待った。やがて、後ろでアレクが息を吐いた。
「……もういい」
皇帝の声ではなかった。フェリックスは振り返らない。
「何がだ」
「もういいんだ。やめてくれ。僕のために、これ以上」
そこで言葉が止まった。アレクは両手を膝の上で組んでいた。血の気が引くほど強く指を握っていることに、自分でも気づいていなかった。
「三隻だ」
しばらくして言った。
「ヴァルトラウテと、ジークルーネと、シュヴェルトライテ。三隻沈んだ」
「そうだな」
「ケラー中佐も、リンデマン少佐も、グレーベル少佐も……三人とも、僕に帰れって言った」
フェリックスは何も言わなかった。
「ケラー中佐は知ってた。三十九歳で、子供が二人いる。リンデマン少佐も知ってた。去年、昇進したばかりだった。グレーベル少佐の名前だって、名簿で読んでた。憶えていた」
アレクの声が少しずつ速くなった。
「でも、憶えて、知ってただけだ。名簿を読んだだけなんだ。僕はあの人たちと話したこともない。何かしてやったこともない。僕の顔だって、あの人たちは式典の映像で見たくらいかもしれない」
そこでいったん言葉が途切れた。
「それなのに、僕の前に出た」
フェリックスは操縦桿を握ったまま答えた。
「ああ」
「僕を生かすために死んだ」
「ああ」
アレクは俯いた。
「……怖くなかったわけないだろ」
今度は返事を待たなかった。
「死にたくなかっただろう。悔しかっただろう。ケラー中佐には子供がいた。家族に会いたかったはずだ。リンデマン少佐だって、せっかく昇進したばかりだった。グレーベル少佐にも、帰ったらやりたいことくらいあっただろ」
声が震え始めていた。
「なのに三人とも、最後までそんな素振りひとつ見せなかった。冗談まで言って、僕に帰れって言った」
アレクは顔を上げた。
「なんでだよ!!」
その一言だけ、声が大きくなった。フェリックスは答えなかった。アレクの呼吸が乱れた。
「僕は頼んでない!僕のために死んでくれなんて、ひとことも言ってない!前に出ろとも言ってない!それなのに、勝手に前へ出て、勝手に死んで、それで僕だけ生きろって――」
そこで声が切れた。しばらく、機関の振動しか聞こえなかった。
「……そんなの、ひどいだろ」
今度は小さかった。
「……僕は、皇帝になんか、なりたくてなったわけじゃない」
フェリックスの指が、操縦桿の上でわずかに動いた。アレクは続けた。
「父上みたいになれるとも思ってない。みんな口では比べないって言う。でも、見てるんだ。分かるんだよ。もう口には出さなくなっても、みんな思ってるんだ。父上ならどうした、父上なら何を言っただろうって。僕だって分かってる。僕が父上のような天才じゃないことくらい」
目の前にはフェリックスの背中しかない。だから言えた。
「……守れないことと、捨てることは違うって言った。帰るって決めた。戦えるうちに退くって決めた。全部、僕がいいと言った」
声が震え始めた。
「それで、死んでる」
「……」
「僕が決めたことの中で、人がたくさん死んでる」
とうとう息が詰まった。
「……なんで。なんで僕だけが、こんなものを背負わなきゃいけないんだよ」
フェリックスは、しばらく答えなかった。慰める言葉なら、いくらでも思いついた。
皇帝だから仕方がない、と言うこともできた。
お前のせいではないと言うこともできたし、三隻の乗員も覚悟していたのだろうと言うこともできた。
だがどれも今ここで言えば、嘘になる気がした。
「アレク、お前の言うとおりだ」
後ろでわずかに動く気配がした。
「……何がだ」
「お前がなりたくて皇帝になったわけじゃねえ。親父さんと比べられるのも、お前が頼んだことじゃない。お前が決めたことで人が死ぬ。それを背負わされてるのも、そのとおりだ」
フェリックスは前を見たままだった。
「俺から、そんなことねえよ、なんて言えねえ」
アレクは何も言わなかった。
艇の右側を損傷した巡航艦が通り過ぎた。艦尾からは白い蒸気のようなものを引きながら、敵の方に向かって行った。
しばらくして、アレクが言った。
「……いや、違うな」
「何が」
「僕が背負ってるんじゃない」
声はまだ掠れていた。だが、さっきまでとは少し違った。
「ケラー中佐、リンデマン少佐、グレーベル少佐」
一度、息を継いだ。
「背負ってるのは、僕じゃない」
アレクは俯いていた。
「僕が、あの人たちに背負われてるんだ」
その言葉を口にした途端、また声が震えた。
「僕は何も返してない」
フェリックスは言った。
「名前を憶えてる」
「それだけだ」
「それでしかできねえこともある」
「でも死んだんだぞ」
「分かってる」
フェリックスの返事も強くなった。
「分かってるから、俺も適当なこと言いたくねえんだよ」
アレクが顔を上げた。フェリックスは振り返らなかった。
「死んだ奴が何を望んでたかなんて、俺には分からねえ。あの人たちのことは、俺もよく知らねえ。お前を生かして満足だったなんて、勝手に決める気もない。皇帝なんだから全部背負えとも言いたくねえ」
少し間を置いた。
「俺には、決められない」
「……」
「お前に皇帝をやめればいいとも言えねえ。続けろとも言えねえ。それは、お前が決めることだ」
アレクは黙っていた。
「……もし、本当に全部やめたいなら」
フェリックスは続けた。
「そのときは言え」
「もし、僕がそう言ったら、どうする?」
「手伝うよ」
アレクが少し顔を上げた。
「皇帝が嫌なら、逃げる方法を一緒に考える。もう戦いたくないなら、そう言え。俺は、お前が皇帝だから友達やってるわけじゃねえ」
そこで初めて、フェリックスは少しだけ後ろを見た。
「ただし、俺からは、逃げろとは言えねえ」
また正面へ向き直る。
「続けろとも言わねえ」
フェリックスはしばらく黙っていた。
「……アレク、憶えてるか」
「何を?」
「六つのころだ。皇宮の旧庭園で迷ったときのこと」
アレクが少し顔を上げた。
「あれは、お前が近道を知ってるって言ったからだろ。二時間も歩いた」
「悪かったよ」
「いま謝るのか?」
「十五年近く経ったから、そろそろいいかと思ってな」
アレクの口元が、ほんのわずかに動いた。
フェリックスは前を向いたまま続けた。
「アレク。途中で、お前は泣きながら言ったんだ。『帰れなくなったらどうしよう』って」
「言ってない」
「言ったさ」
「言ってない」
「じゃあ、そういう顔をしてた」
アレクは返事をしなかった。
「あの時、俺が何て言ったか、憶えてるか」
少しして、アレクが答えた。
「……『安心しろ。お前が帰れないなら、俺も帰らない。絶対に一人にはさせない』」
「そうだ。そのあと、近衛と侍従が総出で捜しに来た。大騒ぎだったな」
アレクの口元が少し緩んだ。
「ミッターマイヤー元帥、怒ってたな」
「……ああ」
「お前、見つかった途端に元帥に首根っこをつかまれて、そのまま連れていかれた」
「憶えてる」
「尻も叩かれてた」
「三発だ」
「五発だった」
「三発だ」
「泣いてたぞ」
「泣いてねえよ!」
今度は、アレクがほんの少し笑った。
フェリックスは前を向いたままだった。
「……あの時から、大して変わってねえよ」
艇の前方を、帝国艦の船腹がゆっくり横切っていった。
「お前が皇帝を続けるのか、やめるのか、逃げるのか、お前が決めろ。俺には決められねえ」
一度、言葉を切った。
「でも、お前が何を選んでも、絶対に一人にはさせねえ」
アレクの表情がわずかに動いた。
「……もし、僕が全部やめて、今ここで死にたいって言ったら?」
「怒るさ」
「怒るのか」
「当たり前だろ」
「皇帝に?」
「いまだけは、皇帝やめてるんだろ」
アレクの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「……それでも、今ここで死ぬって言ったら」
フェリックスは間を置かなかった。
「一緒に死んでやる」
アレクが顔を上げた。
フェリックスは振り返らなかった。
「絶対に一人にはさせねえって言ってるだろ」
「フェリックス……」
「ガキのころから、ずっとそう言ってる」
艇の中が静かになった。
アレクは俯いた。
しばらくして、肩が一度だけ大きく動いた。
泣いているのかどうか、フェリックスからは見えなかった。
見ないことにした。そのまましばらく飛んだ。
やがて、後ろから声がした。
「……できない」
「何が」
「逃げるのも、ここで終わるのも」
フェリックスは答えず、続きを待った。
「ヴァルトラウテも、ジークルーネも、シュヴェルトライテも、僕をここまで通した」
アレクは一度鼻をすすった。
「僕がここで投げ出したら、あの人たちが作った時間を、僕が自分で捨てることになる」
声はまだ震えていたが、言葉はもう崩れていなかった。
「それは、できない」
「そうか」
「皇帝を続けたいのかは、まだ分からない」
「それでいいんじゃねえか」
「よくないだろ」
「いま決めなくてもいいだろ。今日死ななきゃ」
アレクは、ほんの少し笑った。
笑ったあと、また黙った。
「でも、今日は帰る」
「おう」
「みんなも帰す」
フェリックスはそこで初めて頷いた。
「なら、それをやれ」
「……簡単に言うな」
「俺の仕事はもっと簡単だ」
「もっと簡単?」
「運転手だよ」
アレクは後ろで息を漏らした。笑ったのかもしれなかった。
フェリックスは操縦桿を握り直した。
「次も俺が迎えに行く。次の艦が危なくなったら、その次まで運ぶ。その次も駄目なら、また次だ」
「フェリックス」
「何隻乗り換えることになっても、俺がお前を運んでやる」
少し置いて、フェリックスは続けた。
「今日だけじゃねえ」
アレクが顔を上げた。
「この先、お前がどこまで行くことになっても、だ」
フェリックスは前を向いたまま、少しだけ笑った。
「だから、お前は名前を憶えてろ」
「……名前を?」
「ああ。誰が残って、誰が帰れなかったか。お前はそれを憶えてろ」
操縦桿を握る手に、わずかに力が入った。
「運ぶのは、俺がやる」
艇内に、また機関音だけが残った。しばらくして、後ろから長い息が聞こえた。
「……分かった」
今度の声にもまだ涙は残っていた。
それでも、もう先ほどまでの「僕」だけの声ではなかった。
次の受入艦が正面表示に入った。
アレクは袖で目元を拭うと背筋を伸ばした。
「フェリックス」
「おう」
「回線を戻してくれ」
「お?もう皇帝に戻るのか」
少し間があった。
「……戻りたくはない」
アレクは言った。
「でも、みんなを帰すまではやる」
フェリックスは、それ以上何も言わなかった。
「御意」
警護艇は、次の艦へ向かった。
***
次の受入艦への移乗が終わるころ、〈守護天使〉の突入速度はようやく鈍り始めていた。
〈ヴァルトラウテ〉が射撃解を崩し、〈ジークルーネ〉が観測群を引き離し、〈シュヴェルトライテ〉が最後の一撃を物理的に止めた。そのたびに黒い槍の穂先はわずかに乱れた。
ミュラーは、その時間を無駄にしていなかった。
直衛艦隊の砲列が、内側へ入り込んだ敵群へ次々と火力を重ねていた。
〈守護天使〉は退かなかったが、退かないということは、そのままミュラーの直衛艦隊の射界に居続けるということでもある。
黒い艦が何隻も光の中へ消えた。
損傷した艦を救う動きはない。崩れた先頭群を切り離し、後続が新しい穂先を作ろうとしている。しかし、一本の槍として突入してきたときの勢いは、もう失われていた。
皇帝を追う小群はなお直衛内に残っている。
だが、そこは一万五千隻の直衛艦隊のただ中でもあった。
〈守護天使〉は皇帝へ近づくほど、ミュラーの艦隊の奥深くへ入っていたのである。
次の受入艦への移乗が終わると、フェリックスは警護艇を切り離した。
アレクは接舷区画から艦橋へ向かった。
歩くたびに右の脇腹が痛んだ。左腕にもまだ十分な力が入らず、裂けた袖の下では応急処置を受けた前腕の傷が脈打っている。額の傷から流れた血はすでに乾きかけていたが、目元にはさきほどまでの涙が残っていた。
アレクは右手でそれを拭い、いったん立ち止まって呼吸を整えた。
軍装の袖口にはブリュンヒルトで浴びた誰のものとも分からない血が赤黒く残っている。着替える時間も、傷をきちんと診てもらう時間もなかった。
それでも艦橋へ入るころには、背筋だけはまっすぐになっていた。
通信士が立ち上がろうとした。
「そのままで良い」
アレクは主表示を見た。
〈守護天使〉の先頭群は、ミュラー艦隊の集中砲火を受けて突入速度を落としていたが、なお直衛の内側に深く食い込んでいた。黒い艦影が一隻、また一隻と消える一方、後続は損傷した先頭群を切り離し、新しい穂先を作ろうとしている。
ミュラー艦隊一万五千隻も、すべてが皇帝移乗艦の周囲に集まっているわけではなかった。
直衛内層で皇帝を直接守る部隊のほか、外側には〈ベローナ〉や〈サトゥルヌス〉を牽制する群、撤収する艦列の側面を守る群、損傷艦や救難線への進入を防ぐ群が置かれている。それらを含めた全体で、ミュラーは直衛を作っていた。
その外側にいた部隊が動き始めていた。
「ミュラー艦隊第三群、反転します。皇帝移乗区画方向へ」
続いて別の報告が上がった。
「第五群も針路変更。敵突出部への攻撃進路を取ります」
アレクが振り返った。
「ミュラー元帥の命令か?」
「いえ。第三群司令の現地判断です。敵先頭群が皇帝移乗区画まで侵入したとの情報を受けて――」
その報告が終わるより早く、別の回線が開いた。
『第三群、反転を中止せよ。原配置を維持』
ミュラーだった。
間を置かず、次の命令が飛ぶ。
『第五群も動くな。皇帝直衛は一隻の周囲へ集まることではない。各群、持ち場を守れ』
主表示の上で、内側へ向きかけていた第三群の進路が止まった。第五群も旋回を浅くし、外周の配置へ戻り始める。
アレクは何も言わなかった。
ミュラーは見ている。
そして、止めている。
それでも表示の別の場所で、撤収方向へ向いていた艦群が速度を落とし始めていた。
ミュラー艦隊ではない。
後退中の戦隊が一つ、皇帝直衛方向へ艦首を振る。
さらに別の救難群が予定航路から外れ、戦闘可能艦を二隻だけ前へ出そうとしていた。
「こちらもです」
作戦士官が言った。
「皇帝移乗艦救援のため、撤収を一時中断したいとの具申が複数入っています」
アレクは主表示を見た。
〈ヴァルトラウテ〉が沈んだ。
〈ジークルーネ〉も沈んだ。
〈シュヴェルトライテ〉は敵艦へ体当たりし、最後の砲撃そのものを止めた。
ミュラーは自分の艦隊を押さえている。
だが、皇帝が危ないという情報そのものが、戦場のあちこちで同じ判断を生み始めていた。
自分たちの皇帝が殺されようとしている。
戻れる距離にいる。
少しだけ戻って敵を押し返し、そのあと撤収すればよい。
それが十か所、二十か所で始まれば話は変わる。
一隻が戻れば、その後ろが速度を落とす。
一個戦隊が戦えば、損傷艦が出る。
損傷艦が出れば、救難艦が残る。
それを守るため、また別の艦が残る。
そうして全軍が少しずつ自分の方へ引き戻されていく。
「全軍回線を開け」
艦橋が一瞬静かになった。
「陛下。敵にも内容を拾われます」
「構わない」
「発信位置を絞られる可能性があります」
「本陣中継網を使え。送信元を固定するな。これまでと同じように複数艦から流せ」
通信士は隣席と短く確認した。
「可能です」
アレクは頷いた。
「開けてくれ」
「帝国全軍、接続」
アレクは息を吸った。
「帝国軍の将兵に告げる。皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムである」
声は、自分で思っていたより普通だった。
「余は健在だ」
同じ声が、ミュラー艦隊の直衛線にも、ワーレンの前衛にも、撤収回廊にも、損傷艦を曳く救難艇にも流れていった。
「繰り返す。余は健在である。皇帝直衛はミュラー元帥の指揮下にあり、なお機能している」
アレクは主表示を見た。
第三群も第五群も、まだ完全には元の進路へ戻っていない。
「各群は、余を救援するために持ち場を離れるな。ミュラー元帥が定めた直衛配置を維持し、予定された撤収を続けよ」
一度、言葉を切った。
「余のいる場所を守るために、軍全体の帰る道を失うな」
そこまで言って、一度言葉が止まった。
「先ほど、三隻の艦が余の前へ出た」
艦橋の誰も動かなかった。
「第七〇一巡航艦〈ヴァルトラウテ〉。艦長ケラー中佐。第三三八駆逐艦〈ジークルーネ〉。艦長リンデマン少佐。第五一二駆逐艦〈シュヴェルトライテ〉。艦長グレーベル少佐」
アレクは一人ずつ、名を読んだ。
「余は三隻に、前へ出よとは命じていない。それでも彼らは余の前へ出た」
一度、息を継いだ。
「ケラー中佐は、『お先にどうぞ』と言った。リンデマン少佐は、『ご帰還を。ここは我々が受け持ちます』と言った。グレーベル少佐は、『帝都までお帰りください』と言った」
言葉が一度止まった。
「三人とも、余に帰れと言った」
アレクは息を継いだ。
「ならば、余は帰る。彼らが作った道を、余がここで捨てることはしない」
主表示の第三直衛群が動いた。反転しかけていた艦首が、少しずつ撤収方向へ戻っていく。
「余が生きていることを確かめるために戻る必要はない。余も、卿らと同じ撤収計画の中にいる」
最初の大軍議で決めたことだった。
「損傷艦を拾え。負傷者を拾え。だが、拾うために新しく誰かを置いていくな」
その部分だけは、ゆっくり言った。
「戦えるからといって残るな。余のためにも残るな。今日ここで見たものを、失敗も、敵の戦い方も、死んだ者の名も、全部持ち帰れ」
アレクは一度、息を継いだ。
「余も帰る」
もう一度、艦隊へ向けて言った。
「だから、卿らも一緒に帰ろう」
一拍だけ置いた。
「――全軍、帰るぞ」
***
回線が閉じたあと、直衛艦隊には数秒の沈黙があった。
最初に動いたのは〈守護天使〉の進入軸にいた駆逐隊だった。
敵先頭群がもう一度内側へ寄ると、一隻が射線へ入り、後方の艦列が撤収方向へ下がる時間を作った。続いて別の巡航艦が位置を変えた。
最初の艦はその場に残らなかった。役目を終えると撤収方向へ下がり、次の艦が外側へ入る。被弾して速度の落ちた艦があれば、その左右へ護衛が寄った。敵の砲口がそちらへ向けば、さらに別の艦が射界を塞ぐ。
誰も敵を押し返そうとはしていなかった。
艦隊全体の針路は、帝国領を向いたままだった。
帰りながら、互いを守っていた。
それまで皇帝一人の周囲に集中していた種類の動きが、いまは直衛のあちこちで生じていた。損傷艦を守る艦があり、負傷者を運ぶ艇のために道を空ける艦があり、その護衛をさらに別の艦が庇っている。
皇帝のためだけに、特別な道を作る者はいなかった。
「敵先頭群、進入軸を変更」
観測士の報告から間を置かず、また声が上がった。
「再変更。右側へ寄ります」
その先にも帝国艦が入った。
〈守護天使〉はなお皇帝のいる一点を探していた。
だが帝国軍の中から、そこだけを示す動きはもう消えつつあった。
***
【親衛艦隊〈守護天使〉旗艦〈ネメシス〉】
帝国皇帝の放送は、〈守護天使〉の旗艦〈ネメシス〉でも受信されていた。
正面表示では帝国艦隊が後退を続けているが、それまでのように、護衛の集まり方だけを追えば皇帝の所在を絞れる状況ではなくなっている。
損傷艦にも救難艇にも艦が付き、射線へ入る艦も次々と入れ替わっていた。観測班は候補を増やしながら、その中からなお一つを選び出そうとしている。
「皇帝所在、再算出中。候補六」
ヨーリクは返事をせず、公開回線から流れる声を聞いていた。
アレクは、〈ヴァルトラウテ〉、〈ジークルーネ〉、〈シュヴェルトライテ〉と三隻の名を挙げ、それぞれの艦長の名まで読み上げている。自分が前へ出よと命じたわけではない、それでも三人とも自分の前へ出て、最後に帰れと言ったのだと語った。
艦橋では誰もその放送について口を挟まなかった。
やがてアレクは、戦えるからといって残るな、と言った。自分のためにも残るな、今日ここで見た失敗も、敵の戦い方も、死んだ者の名も持ち帰れ、と続けたあと、最後に全軍へ帰還を命じた。
『――全軍、帰るぞ』
放送が終わると、通信士官が記録を閉じようとした。
「待て」
ヨーリクが言ったので、士官の手が止まった。
「今の放送は残せ」
「戦術記録に付けますか?」
ヨーリクは一度だけ正面表示から目を離し、音声記録の時刻を見た。
「全部だ。最初から最後まで残せ」
「承知しました」
それ以上、理由は言わなかった。
***
【帝国軍直衛旗艦〈パーツィバル〉 ミュラー】
「直衛各群、前進許可を求めています」
「許可しない」
ミュラーは即答した。
「前へ出る必要はない。帰りながら守れ」
「敵先頭を押し返せます」
「押し返したら、そのまま追いたくなる」
ミュラーは撤収を続ける艦列を見た。
「陛下は帰ると言われた。こちらも帰る」
命令が直衛全体へ流れた。帝国艦は追撃せず、砲火を返しながら後方へ下がり続けた。
黒い旗艦の上で、金色の紋章が一度だけ強く輝いた。帝国直衛は撤収しながら左右の間隔を詰め、深く入り込んだ〈守護天使〉の後方を狭め始めていた。それから〈守護天使〉の先頭群が速度を落とした。
「敵本隊、減速」
前へ出ていた小群が、ひとつずつ針路を変え始める。損傷した艦を拾う動きはなく、崩れた穂先を埋める動きもない。戦える群だけが黒い旗艦の周囲へ戻り、そのまま外縁方向へ向きを変えた。
「親衛艦隊、離脱します」
ほとんど同時に、別回線からクラインの声が入った。
『敵離脱時刻、記録しました』
ミュラーは表示から目を離さなかった。
「何かあるのか?」
『こちらが包囲を完成させる予測時刻まで、あと七分でした』
ミュラーはそこで初めて、黒い艦列の退路を見た。
「……包囲が閉じる直前に、自分から退いたのか」
『はい』
ミュラーはしばらく黙っていた。
「陛下を討ち取るためなら、あれだけ損害を出してでも突っ込んでくる。だが、艦隊ごと死ぬ気はない、ということか?」
黒い艦列は、すでに帝国軍の射程から離れ始めていた。
「……狂信者ではないのか」
クラインは少し考えてから答えた。
『そこまでは分かりません。ただ、死ぬことそのものを目的にはしていないようです』
ミュラーは黒い旗艦を見た。
「死を恐れないのと、死ぬことを望むのは別か」
ミュラーはそれ以上何も言わなかった。
歓声は上がらなかった。誰もが、もう一度こちらへ向き直るのではないかと表示を見ていた。だが黒い艦群は戻らなかった。
捕まる前に槍をほどき、来たときと同じ静けさの中へ退いていった。
「追撃できます」
参謀が言った。ミュラーは首を振った。
「追わん」
それから一言だけ付け加えた。
「帰るぞ」
***
【第一聖団〈マルス〉艦隊旗艦〈ベルトルト〉 シュタイガー】
「親衛艦隊、離脱」
報告を聞いても、シュタイガーの表情は変わらなかった。正面ではワーレン艦隊が後退を続け、ミュラーの直衛も帝国領側へ下がっている。その後方では、すでに最初の艦群が撤収回廊へ入り始めていた。
シュタイガーは〈サトゥルヌス〉の位置を表示させた。
「聖序寮の裁定はまだか」
通信士が確認した。
「まだ下りておりません。第一聖団の回廊遮断要請を、現行軍令の執行範囲に含めるかについて教理照会が入っています」
シュタイガーが目だけを向けた。
「何を照会している」
「回廊遮断を、現在の作戦目的に含まれる敵軍排除と見るか、撤退敵への追撃として別個の裁定を要するか、神託からの逸脱はないか、とのことです。第二聖団は、現命令が現在位置保持である以上、聖序寮の裁定なしには変更できないと回答しています」
「ベーレントらしいな」
それは非難ではなかった。
「第一聖団からの前進要請は」
「裁定資料へ追送済みです。教理院も交えた論議が行われているようです」
シュタイガーは撤収回廊を見た。帝国艦はもう、その入口へ流れ込み始めている。
「回廊遮断を最優先とする。追加意見として送れ」
「はい」
「軍事上の猶予は残っていない、とも付けろ」
通信士が発信した。
返ってきたのは、受理番号だけだった。
***
【第二聖団〈サトゥルヌス〉艦隊旗艦〈アルクス〉 ブレドウ】
「第一聖団から追加要請。帝国軍の撤収を確認、回廊遮断のため即時前進を求めています」
ブレドウは主表示を見た。帝国軍はすでに撤収を始めており、先頭の艦群は回廊へ入り、後続も順に帝国領側へ艦首を向けている。だが、主力のかなりの部分はまだ回廊のこちら側に残っていた。
「第二聖団司令部は何と言っておる」
「現在位置を維持。正式命令を待て、とのことです。聖序寮では、今回の前進が既定の作戦目的に含まれる敵軍排除なのか、撤退敵への新規追撃に当たるのか、引き続き教理と神託の解釈に照らして裁定中です」
参謀の一人が主表示へ目をやった。
「……第一聖団は、初日から我々の前進を求めていました」
「知っておる」
「前進すれば、まだ届きます」
「そうだな」
「皇帝も、まだ回廊のこちら側にいる可能性があります。このまま待てば――」
ブレドウはそこで参謀を見た。
「小官が、動きたくないように見えるか?」
参謀は黙った。ブレドウは主表示へ視線を戻した。
「各戦列に進路を配れ。第一目標、回廊外縁。第二目標、帝国軍最後尾。砲撃区画は第三案を使う。前衛は加速準備、後衛は射界だけ合わせておけ」
「前進命令は、まだ出ておりません」
「分かっておる。だから、一隻も動かすな」
ブレドウの声は穏やかなままだった。
「命令が来た瞬間に動けるようにしておけ」
一万隻の艦隊で、静かな準備が始まった。各戦列へ進路が送られ、砲撃区画が割り振られ、前衛では加速手順が確認された。後衛も回廊方向へ火力を集中できる角度を取ったが、〈サトゥルヌス〉の戦列そのものは、なお現在位置を維持している。
その間にも、帝国軍は回廊へ流れ込んでいった。
最初の艦群が消え、次の艦群が続く。損傷艦を曳航する救難艦も、後衛を務める戦隊も、順番が来れば一つずつ帝国領側へ下がっていった。帝国軍は崩れて逃げているのではなく、決められた順序に従って戦場から消えていた。
「実施要請受領から二十三分」
通信士が報告した。
ブレドウは何も言わなかった。
二十九分。
三十五分。
そのたびに帝国軍の位置が変わった。
命令が遅れているからといって、〈サトゥルヌス〉の準備が遅れるわけではない。敵の後退に合わせて予想進路は何度も更新され、回廊遮断に必要な到達点も前へずらされた。ブレドウは、命令が次の一秒に届いても動ける状態を保ち続けていた。
「四十二分です」
参謀の一人が低く言った。
主表示では、帝国軍主力の半ば以上がすでに回廊へ入っている。まだ戦場に残っているのは、直衛、後衛、損傷艦の収容を続ける部隊、それに撤収順序の遅いいくつかの戦隊だった。
「第一聖団、シュタイガー司令から再照会。軍事上の猶予は残っていない、と」
「第二聖団司令部へ追送しろ」
「すでに」
「なら、待つ」
ブレドウはそれ以上言わなかった。
五十分を過ぎたころには、当初設定していた回廊遮断点へ〈サトゥルヌス〉が到達しても意味がなくなっていた。
帝国軍の先頭どころか主力まで、かなりの数がその向こうへ抜けている。作戦参謀は新しい遮断点を設定し直したが、それはもはや「回廊の口を閉じる」というより、最後尾へ食いつくための位置に近かった。
「五十七分」
通信士が言った。
ブレドウは主表示から目を離さなかった。
その三分後、通信卓に着信音が鳴った。
通信士が表示を開き、一瞬だけ息を止めた。
「第二聖団司令部より正式発令。〈サトゥルヌス〉艦隊、回廊遮断のため前進を許可」
艦橋の空気が変わった。ブレドウは時計を見た。
「本日の第一聖団からの回廊遮断の実施要請からどのくらいだ」
「一時間です」
「一時間か」
その数字について、感想は述べなかった。
「前進」
一万隻が、布陣以来初めて前進した。
待っていた一時間とは対照的に、動き始めてからの〈サトゥルヌス〉は速かった。前衛群が一斉に加速し、後続が間隔を詰め、すでに何度も更新されていた進路に沿って各戦列が回廊方向へ向きを変えていく。命令が来てから新しく決めることは、ほとんど何もなかった。
「第一射撃群、配置完了。第二群、追随」
「帝国軍最後尾まで射程内、五分」
「遮断位置への到達は」
作戦参謀が数字を見た。
一瞬、答えが遅れた。
「……間に合いません」
ブレドウは訊き返さなかった。訊かずとも主表示を見れば分かった。
帝国軍の先頭はとうに消えている。主力も大部分が回廊へ入り、いま〈サトゥルヌス〉が追いつけるのは最後尾だけだった。そこへ砲火を浴びせ、何隻かを沈めることはできる。しかし、その前へ回り込み、退路そのものを塞ぐための時間はもう残っていない。
「届くところまででよい」
参謀が振り返った。
「命令されたのは、敵を全滅させろということではない。回廊を閉じろ、だ」
〈サトゥルヌス〉艦隊はさらに速度を上げた。
だが、もう回廊を閉じることはできなかった。
***
戦闘が終わったあと、帝国軍の観測記録が集められた。その中に、直衛外層で黒い旗艦を至近から観測した士官の記録があった。乗艦は戦闘中に大破したが、観測員自身と記録装置の一部は救命艇で回収されている。戦闘詳報を作っていた士官が訊いた。
「聖王の紋章を掲げていた黒い艦だな」
「はい」
「艦種は」
「既知の帝国艦にも、旧同盟艦にも一致しません」
「艦名は分かるか」
観測員は少し黙った。
「読めました」
記録を取っていた手が止まった。
「読めた?」
「光が開いたときです。聖王の紋章の下、艦体側面に文字がありました」
「何と」
観測員は答えた。
「――〈ネメシス〉」
士官はその名を端末へ入力した。聖王直属親衛艦隊〈守護天使〉。その先頭に立つ黒い旗艦の名を、この日、帝国軍は初めて知った。
〈ネメシス〉。報復の女神。
そして会戦ののち、帝国軍将兵はその艦を率いる艦隊司令のヨーリクを〈死神〉と呼ぶようになった。
皇帝をあと一歩まで追い詰め、艦隊を削られながらなお直衛の内側へ突入し、包囲が閉じようとしても標的を追い続けた男である。
帝国軍は知らなかったが、教国軍の将兵もまた以前から彼を同じ名で呼んでいた。
由来はそれぞれ違い、互いに相手側の俗称を知っていたわけでもない。それにもかかわらず、ヨーリクという男について、敵味方は偶然に同じ呼び名へたどり着いた。
〈死神〉。
【次回予告】
帝国軍は、バーミリオンから去った。
教国軍は、皇帝を討てなかった。
タナトス、マーロヴィア、ロフォーテンで崩れた軍は、
バーミリオンでは崩れなかった。
次なる戦場は、ジャムシード。
敵は第二聖団〈
率いるのは、アルノルト・メスナー。
かつて帝国軍統帥本部で幾多の作戦を見定め、
いまは教国軍屈指の作戦家として、
古巣へ砲口を向ける。
迎え撃つのは、ジャムシード軍管区警備隊。
動かせる艦は、六千。
正規艦隊に救援を求めたが、
戦端は、その到着を待たずに開かれる。
指揮を執るのは、一人の大将。
二十三年前。
ラインハルト・フォン・ローエングラムと
ヤン・ウェンリーが相まみえた、
あのバーミリオン。
その戦場に、
いささか忘れがたい形で名を残した――
あの男である。
歴史はもう一度、
彼の前に戦場を置く。
同じころ。
銀河の片隅で、
一人の機関士が追われていた。
彼を拾ったのは、
歳を重ねてもなお口の減らない、
元撃墜王だった。
なぜ追われるのか。
なぜ、帰ることを拒むのか。
その名の下に何が埋もれているのかを、
追う者たちは、知っている。
次回より、幕間「集わなかった者たち」。
「イザーク・フェルナンド・フォン・トゥルナイゼン」。
そして、
「ヨーゼフ・ベルガー」。
――銀河の歴史が、また1ページ。
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【第二次バーミリオン星域の会戦】
戦争:銀河帝国と神聖黄金樹教国の戦い
年月日:新帝国暦二十四年三月
場所:バーミリオン星系、惑星モン・ミラーユ周辺宙域および星系外縁部
結果:神聖黄金樹教国軍によるバーミリオン星系の掌握、銀河帝国軍の撤退
銀河帝国軍は退去希望住民・優先軍需物資の後送および主力艦隊の保存に成功
神聖黄金樹教国軍は皇帝殺害および帝国主力艦隊への決定的打撃に失敗
交戦勢力
銀河帝国
神聖黄金樹教国
指導者・指揮官
銀河帝国
皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム
アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥
ナイトハルト・ミュラー元帥
ゲオルク・フォン・リューデンハイム中将
ケルステン中将
神聖黄金樹教国
オットフリート・シュタイガー聖将
ヴィクトール・フォン・ラスバッハ従聖将
ゴットフリート・フォン・メルゼブルク聖将
バルタザール・フォン・ブレドウ聖将
聖王守護ヨーリク
戦力
銀河帝国
艦艇 約四万隻
神聖黄金樹教国
艦艇 約五万隻
損害
銀河帝国
艦艇損害 約五千四百隻
帝国軍総旗艦〈ブリュンヒルト〉大破
皇帝負傷
神聖黄金樹教国
艦艇損害 約五千七百隻