真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第11話 真祖吸血鬼、密輸船リバティ号という火薬庫を見る

 タウンゼンド関税という新たな脅威に対抗し、俺たちヴァレンタイン衛生用品商会が税関監査への防御陣形を敷き始めてから、数週間が経過した。

 

 フィラデルフィアのハンター支部、その地下に設けられた仮設事務所。

 

 俺は、万能トランクから引き寄せた青白いタブレット端末の画面を指で叩きながら、忌々しげに唸り声を上げていた。

 

「……違う違う違う! そっちのリバティー号事件じゃないんだよ! 今調べたいのは、一九六七年にアメリカ海軍の情報収集艦がイスラエル軍に攻撃された事件じゃなくて、一七六八年のボストンで起きる密輸船の方!」

 

 検索窓に入力した『リバティー号事件』という言葉が、二百年近く後に起きる全く別の歴史的事件を弾き出してきたのだ。

 

 俺が慌てて検索語を『一七六八年 ボストン 密輸船リバティ号 ジョン・ハンコック』と打ち直していると、背後からアーサーが静かに画面を覗き込んできた。

 

「……同じ名前の船が、後世の時代でも国際的な事件を起こすのですか」

 

「船に『自由』なんて大層な名前を付けると、歴史的な大事件に巻き込まれやすくなる運命でもかかるのかもしれないね」

 

「船の命名に責任を押しつけるな」

 

 ギデオンが帳簿から顔を上げずに冷たく突っ込んだ。

 

 検索結果の画面が切り替わり、立派なコートを着た一人の男の肖像画と、その華々しい経歴が表示された。

 

 ジョン・ハンコック。

 

 植民地屈指の大商人。

 

 ボストン政界の若き有力者。

 

 反英運動への莫大な資金提供者。

 

 後の大陸会議議長であり、そしてアメリカ独立宣言に誰よりも巨大な署名を残すことになる『建国の父』の一人。

 

「出た。アメリカ史において、一番署名がでかい男」

 

「英雄としての評価基準が、そこなのですか?」

 

 アーサーが呆れたように尋ねる。

 

「いや、冗談抜きで。後世のアメリカじゃ『ジョン・ハンコックを書け』って言葉が、『ここに署名しろ』って意味の慣用句になっちゃうくらい、彼のサインはでかくて有名なんだよ」

 

「自身の名が慣用句になるほど、自己顕示欲の強い目立ちたがり屋ということか」

 

 ギデオンの呟きに、俺は頷いた。

 

「その理解、たぶんそんなに間違ってないと思う」

 

 さらに画面をスクロールし、密輸船リバティ号事件の概要を読み進める。

 

 所有者ジョン・ハンコック。

 

 密輸の疑惑。

 

 税関による船の差し押さえ。

 

 激昂した群衆によるボストンの暴動。

 

 そして、ハンコックの弁護人として法廷に立つ男の名は――。

 

 俺は画面を二度見した。

 

「……またお前かよ!」

 

「どうした、奇声を上げて」

 

「ジョン・アダムズだよ! あいつ、歴史的な事件が起きるたびに絶対に首を突っ込んで弁護士してるじゃん!」

 

「彼は優秀な法律家なのだから、揉め事の弁護を引き受けるのは至極当然の業務ではないか」

 

「それはそうなんだけどさ! 未来の歴史から俯瞰すると、イベントへの遭遇率が高すぎるんだよ! RPGの固定NPCか!」

 

 *

 

 その日の午後、フランクリンからボストンの最新情勢についての詳細な報告が入った。

 

 タウンゼンド関税を執行するため、ボストンに新設された『税関委員会』は、本国からの強い意向を受けて密輸の取り締まりを本格化させていた。

 

 港の緊張は限界に達しつつある。

 

 商人の船は厳しく検められ、港湾労働者は荷役のたびに監視の目を向けられている。

 

 税関側は、これまで『暗黙の了解』として黙認されてきた商慣行すらも厳格に密輸と見なし、容赦なく摘発を進めていた。

 

 当然、反英派の新聞はこれに激しく噛みついている。

 

「フランクリンの旦那からの手紙によれば、ボストンの新聞は連日、税関委員たちを『植民地の生き血を吸う者ども』と書き立てて攻撃しているそうです」

 

 連絡係の言葉に、俺は不満げに唇を尖らせた。

 

「俺、本物の吸血鬼なのに、税関の連中に吸血鬼の比喩を奪われてるんだけど。解釈違いも甚だしい」

 

「お前のちっぽけな種族としてのアイデンティティなど、今はどうでもいい」

 

 ギデオンが手紙を読みながら言った。

 

「フランクリンによれば、我々ヴァレンタイン商会としても、一度ボストンへ出向き、直接情勢を確認しておくべきだとのことだ。税関委員会の本拠地で彼らがどのような基準で動いているかを知らなければ、フィラデルフィアでの監査対策も後手に回るからな」

 

 さらにフランクリンは、ボストンの商人たちとの間に新たな石鹸の販路を構築するなら、ジョン・ハンコックという男の存在を絶対に無視することはできないと書き添えていた。

 

『彼は単なる富裕な商人というだけではない。ボストンの民衆に顔が利き、政界にも席を持ち、何より本国への抵抗運動に惜しみなく金を出せる男だ』

 

「金持ちで、政治家で、民衆人気があって、反英のパトロンで、しかも未来の建国の父。属性盛り盛りのSSRじゃん」

 

「だから、人間を異界の希少度で評価するな」

 

 *

 

 数日後、俺たちはボストンに到着した。

 

 港に足を踏み入れた瞬間、フィラデルフィアとは明らかに空気が違うことが肌で感じられた。

 

 まるで、今にも破裂しそうな圧力釜の中を歩いているようだ。

 

 港の至るところに、税関の役人や監視員が立っている。

 

 地味な上着を着た彼らは、荷物が動くたびに帳面へ目を落とし、船員や港湾労働者の手元を執拗に追っていた。

 

 船員たちは重い荷物を降ろすたびに、役人の背中へ向かって汚い言葉で罵りを吐き捨てている。

 

 夜の酒場に入れば、飛び交うのは怒りと疑心暗鬼の声ばかりだった。

 

「次に言いがかりをつけられて差し押さえられる船は、誰の船だ?」

 

「税関委員の奴ら、没収した船の売却益で自分の懐を肥やすために、わざと難癖をつけて船を狙ってやがるんだ」

 

「本国は密輸を止めたいんじゃない。俺たちの首に縄をかけ、ボストンという街そのものを屈服させたいだけだ!」

 

 一方で、税関側にも彼らなりの『正当な言い分』があった。

 

 ギデオンの情報網が拾い集めた役人たちの愚痴は、こうだ。

 

『申告される積荷の量が、船の大きさに比べて毎回不自然に少なすぎる』

 

『我々が目を離した夜中に、港湾労働者がこっそり荷物を動かしているのは明らかだ』

 

『税関吏への脅迫や買収の試みが日常化している。町の有力者たちが結託して密輸商を庇い、陪審裁判に持ち込んでも、地元の商人で固められた陪審員が平然と無罪の評決を下す。法律を執行しようとすれば、すぐに群衆に囲まれて暴力を振るわれる』

 

 俺は宿の部屋で、両方の言い分をノートに書き出しながらため息をついた。

 

「税関側から見れば、このボストンの街全体が『密輸を庇う巨大な共犯組織』に見えてる。でも、ボストン側から見れば、税関全体が『本国の利益と個人の私欲のために商売を潰しに来る強盗集団』に見えてる。そりゃあ、会話なんて成立するわけないよ」

 

「どちらも、相手を法を破る犯罪者としてしか見ていないからな」

 

 ギデオンが窓の外の港を見下ろしながら言った。

 

「互いの不信が、互いの強硬手段を正当化している。どこかで火種が爆発するのは時間の問題だろう」

 

 *

 

 俺たちは、ボストンの港を見下ろす瀟洒な商館の応接室に招かれていた。

 

 重厚な扉が開き、ジョン・ハンコックが現れた。

 

 三十代前半。

 

 仕立ての良い華やかな絹の服を纏っているが、彼から受ける印象は、決して親の遺産を食い潰すだけの放蕩な富豪のものではなかった。

 

 彼の目は、帳簿の数字、積荷の種類、自船の現在位置、そして取引先の信用状態のすべてを正確に把握している『実務家』のそれだった。

 

 人を惹きつける愛嬌のある笑顔の中に、相手の価値と利用価値を瞬時に計る冷徹な商人の計算が潜んでいる。

 

 なるほど。

 

 未来の肖像画では立派な大政治家に見えたけど、目の前にいるのは純粋な聖人でも、熱狂的な革命家でもない。

 

 この男は、とてつもなく巨大な富を持ち、その金の使い方と政治的な見せ方を熟知している、極めて有能な大商人だ。

 

 ハンコックは、俺たちが持ち込んだヴァレンタイン商会の石鹸を一瞥すると、人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「フィラデルフィアで、妙に評判の良い石鹸を扱っている商会があるとは耳にしていましたよ、ヴァレンタイン氏。利益の薄い港湾や産婆向けの商品を意地でも維持しながら、富裕層向けの高級品でしっかりと採算を取っているとか」

 

「利益のためじゃありません。すべては合法的で清潔な血液……じゃなくて、社会全体の健康を守るための、崇高な公共事業です」

 

 俺がにこやかに答えると、隣に座っていたギデオンが無言のまま、テーブルの下で俺の足を思い切り踏みつけた。

 

 ハンコックは楽しげに声を立てて笑った。

 

「素晴らしい。ただの理想家ではなく、社会の血流に食い込む『商売の作り方』を知っている方のようだ」

 

 話題が現在のボストンの情勢――すなわち税関委員会との対立――に移ると、ハンコックの言葉には熱が籠もった。

 

 彼は本国の政策を激しく批判したが、その理由には明確な『二つの層』があった。

 

 一つは、代表を送っていない議会による不当な課税と、植民地の自治への侵害という政治的・法的な層。

 

 そしてもう一つは、税関によって理不尽に船が止められ、積荷が腐り、取引先からの信用が失われ、本国と癒着した競争相手だけが得をするという、極めて現実的な『商売上の損害』の層だ。

 

「自由や権利というものは、広場での演説や紙切れの中にだけ存在するものではありません」

 

 ハンコックは、窓の外の海に浮かぶ自分の船団を指差した。

 

「自分の意志で船を出し、正当な契約を結び、自ら築き上げた財産を理不尽に奪われないこと。それもまた、我々が命懸けで守るべき『自由』なのです」

 

「なるほど」

 

 俺は深く頷いた。

 

「政治的な信念と、商売上の利益が、あなたの中では綺麗に同じ方向を向いているんですね」

 

「利益の伴わない信念は、決して長続きしません。そして、大義や信念のない利益は、決して人を束ね、ついて来させることはできないのですよ」

 

 ハンコックがウィンクしてみせる。

 

「……厄介な男だな」

 

 ギデオンが小声で俺の耳元に囁いた。

 

「しょうがないよ。アメリカの建国の父になるような人たちって、だいたいどっかしら面倒くさくて厄介なんだから」

 

 実際、ハンコックはすでに税関と激しく衝突していた。

 

 以前、彼の所有する別の船『リディア号』に税関の監視員が乗り込んで積荷を調べようとした際、ハンコックは実力行使に出て、監視員を船倉から甲板へと強制的に追い出したのだ。

 

『甲板上での監視までは、法律に従って認める。しかし、正式な令状もなく、私の船の奥底まで好き勝手に漁り回る権利まで認めた覚えはない』

 

 というのが、彼の毅然たる態度だった。

 

 だが、税関委員会から見れば、この態度は許しがたいものだ。

 

 法の抜け道を公然と利用し、民衆からの人気を盾にして税関の取り締まりを妨害する大商人。

 

 彼らからすれば、ハンコックこそが、ボストンの密輸商人たちを震え上がらせるための『最高に見栄えの良い見せしめ』なのだ。

 

「これ、もう単なる船一隻の密輸疑惑とか、そういう次元の話じゃないな」

 

 商館を出た後、俺はギデオンに言った。

 

「税関委員会は、ハンコックを一人の商人としてじゃなくて、『本国に反抗する植民地の象徴』として見て、どうしても首を獲りたいんだ」

 

 すると、いつの間にか俺たちの背後に合流していたジョン・アダムズが、静かに言葉を引き取った。

 

「そして、ボストンの民衆たちもまた、彼を単なる金持ちの商人としては見ていません。我々の権利を守るために盾となってくれる、英雄として見ています」

 

「両陣営が、ハンコック本人よりもはるかに巨大な『政治的意味』を背負わせちゃってる。……完全に爆発寸前の火薬庫じゃん」

 

 *

 

 運命の一七六八年五月九日。

 

 ハンコックが所有するスループ船が、マデイラ島からの長い航海を終え、ボストンの港へと入港してきた。

 

 積荷は高級なマデイラワインだ。

 

 翌日、船長のナサニエル・バーナードは税関に出向き、二十五パイプのワインを申告し、その分の関税を素直に支払った。

 

 俺は岸壁に立ち、波に揺れるその船の船尾を見つめていた。

 

 そこには、白い塗料で船の名前が誇らしげに刻まれていた。

 

 LIBERTY。

 

「……よりによって、船の名前がリバティ号」

 

 俺が頭を抱えると、アーサーが不思議そうに首を傾げた。

 

「リバティ。自由、という意味の美しい名ですね」

 

「美しすぎるから駄目なんだよ! よく考えてみろ。もし本国がこの船を力ずくで差し押さえたら、ボストンの反英新聞のトップ見出しが、完全に自動生成されちゃうだろ! 『英国、ボストンの港から自由を奪い去る!』ってさ!」

 

「……まだ何も起きておらん。お前は少し、言葉尻に敏感になりすぎだ」

 

 ギデオンが呆れたように言うが、俺の不安は一ミリも晴れなかった。

 

「起きるんだよ。歴史っていうのは、そういう皮肉な偶然を絶対に見逃さないんだから……」

 

 俺は未来の歴史の記録を知っている。

 

 だが、この密輸船リバティ号事件に関して言えば、後世の資料をどれだけ読み漁っても『決定的な真実』は分からないのだ。

 

 税関側の証言。

 

 反英派の新聞の怒り。

 

 ハンコック側の法的主張。

 

 後世の歴史家の研究。

 

 資料は山のようにあるが、あの夜、船上で実際に何が起きたのかを完全に証明できる者はいない。

 

 俺はハンコックの商館を再び訪れ、忠告した。

 

「ハンコックさん。税関委員会は、間違いなくあなたの船を狙っています。特に、あの『リバティ号』は危険すぎる」

 

 ハンコックは優雅に紅茶をすすりながら、軽く微笑んだ。

 

「私の船は、常に彼らの汚い目に狙われていますよ、ヴァレンタイン氏」

 

「今回はいつもと空気が違う。委員会はただ船の密輸を捕まえたいんじゃない。あなたという存在を、完全に屈服させて見せしめにしたいんだ」

 

 ハンコックは否定も肯定もしなかった。

 

 そして、微塵の怯えも見せなかった。

 

「私が彼らを心底嫌っているように、彼らも私を嫌っている。ただそれだけのことでしょう」

 

「あのさ、徹底的に嫌い合ってる大商人と国家権力の間に、『自由』なんて名前の船を置くなよ。引火して爆発するぞ」

 

 俺は、少しだけ声を潜めて尋ねた。

 

「念のために聞いておくけど……船長が申告していない残りのワインを、税関の目が届かない夜中のうちに、こっそり船から降ろしたりしてないよね?」

 

 ハンコックは、まるで気の利いた冗談を聞いたかのように穏やかに笑った。

 

「その質問に、商人がこの港のど真ん中で素直に答えると思いますか?」

 

「答えないだろうね。でも俺は……」

 

「依頼人になる可能性がある人物に、不用意な自白を求めないでいただきたい」

 

 突如、横から鋭い声が割って入った。

 

 ジョン・アダムズだ。

 

「もう弁護士の顔して出てきた! あんた、まだ正式に依頼されてないだろ!」

 

「私は法律家ですから。いかなる状況でも、権利を守る準備はしておくべきです」

 

 ハンコックはアダムズの肩を軽く叩き、俺に向かって言った。

 

「ヴァレンタイン氏。植民地の通商法というものは、まるで迷宮のように複雑なのです。何十年も黙認されてきた当たり前の取引が、本国からやってきた役人の顔ぶれが一つ代わっただけで、ある日突然『密輸』という重罪に変わることもあるのですよ」

 

「……で、結局、やったのか、やってないのか、どっちなの?」

 

「答えさせません」

 

 アダムズが立ちはだかる。

 

「こいつ、本当に隙あらば弁護士ムーブするな……」

 

 結局、俺はハンコックの有罪・無罪の確証を得ることはできなかった。

 

 本当に大量のワインを密輸していた可能性もある。

 

 税関側がハンコックを貶めるために、弱い証言を針小棒大に膨らませた可能性もある。

 

 あるいは、その両方が同時に存在していたのかもしれない。

 

 *

 

 五月十七日。

 

 ボストンの海に、絶望的な影が落ちた。

 

 英国海軍の五十門艦、HMSロムニーが、波を割ってボストン港へ入港してきたのだ。

 

 税関委員会が、ボストンの地元警察や役人だけでは法を執行できないと判断し、ついに本国の軍隊に直接的な支援を要請した結果だった。

 

 港の空気が、一瞬で凍りついた。

 

 税関の役人だけなら、まだ地元の人間関係や同調圧力で追い返すこともできた。

 

 しかし、軍艦は違う。

 

 そこには冷たい鉄でできた大砲があり、命令一つで引き金を引く水兵と海兵がいる。

 

 本国の圧倒的で物理的な『暴力』が、港の中央に浮かんでいるのだ。

 

「……監査部門が、警備員どころか本物の軍隊を連れてきたぞ」

 

 俺は港の倉庫の影から、ロムニーの巨大なマストを見上げて呟いた。

 

「税関側からすれば、群衆の暴徒化に怯えることなく職務を遂行するための、正当な護衛なのだろう」

 

 ギデオンが冷静に分析するが、アダムズがギリッと奥歯を噛み締めた。

 

「しかし、ボストン市民の目にはそうは映らない。本国は、我々から無理やり税金を取り立てるために、軍艦という暴力装置を街のど真ん中に持ち込んだのだと見ます」

 

「互いの恐怖が、互いの過剰な武装を正当化していく……。最悪の悪循環だ」

 

 そして六月十日。

 

 事態は最悪の形で動いた。

 

 税関の監視員であるトマス・カークという男が、一通の宣誓供述書を提出したのだ。

 

 内容はこうだ。

 

 リバティ号が到着した夜、彼は監視のために船上にいた。

 

 しかし、未申告のワインを降ろすことへの協力を求められ、それを拒否したところ、船室に閉じ込められた。

 

 そして三時間ほどの間、甲板の上で大勢の人間が重い荷物を動かし、降ろしている『音』を聞いた、というものだ。

 

 なぜ一か月も経ってから証言したのかという問いには、

 

「船長に殺すと脅されていたからだ。その船長が急死したので、ようやく真実を話せるようになった」

 

 と答えた。

 

 カークは、実際にワインが降ろされる光景を見てはいない。

 

 もう一人の監視員は酒に酔って寝ていたとされ、明確な裏付けにはならない。

 

 証拠としては、あまりにも弱く、不完全だった。

 

 だが、ハンコックをどうしても仕留めたかった税関委員会にとっては、これで十分すぎた。

 

「完全な証言や証拠を待っていれば、このボストンでは永遠に法の執行などできない」

 

「ハンコックをこのまま見逃せば、委員会の面子は丸潰れだ。今後すべての商人が同じように我々を嘲笑うだろう」

 

 彼らを突き動かしたのは、純粋な悪意だけではない。

 

 焦り。

 

 組織の面子。

 

 本国への成果報告の圧力。

 

 そういった官僚組織特有の論理が、決定的な『差し押さえ命令』の引き金を引かせたのだ。

 

 *

 

 その日の日没頃。

 

 商会の情報網から、俺のもとへ緊迫した知らせが届いた。

 

「ヴァレンタインの旦那! 税関の徴収官たちが、大勢の役人を引き連れてハンコック埠頭へ向かっています!」

 

「……来たか」

 

 俺は椅子から立ち上がった。

 

「止めるのですか?」

 

 アーサーが短剣の柄に手を置きながら尋ねる。

 

 俺は答えに窮した。

 

 ここで俺が介入して役人を追い返せば、歴史を変えることになるし、ハンコックの密輸疑惑を庇ったことにもなる。

 

 かといって群衆を抑え込めば、本国の理不尽な税関を助けたことになる。

 

 何もしなければ、間違いなく暴動が起きる。

 

「……とりあえず、見に行く」

 

「また『見ているだけ』か」

 

 ギデオンが呆れたように言うが、俺は首を振った。

 

「歴史的な大事件を完全に止めるなんて、今の俺には無理だ。でも……人が無駄に死にそうになったら、その時だけはこっそり止める。それ以上のことは、今は決められない」

 

 潮が満ちたハンコック埠頭。

 

 税関徴収官ジョセフ・ハリソンと、監査官ベンジャミン・ハロウェルが、リバティ号の甲板に立っていた。

 

 現在、リバティ号には約二百樽の鯨油と数樽のタールが積まれている。

 

 これは次の航海のためではなく、ハンコックの倉庫に入りきらない荷物を一時的に船へ置いていたものだとされている。

 

 税関の役人は大声で、リバティ号の正式な『差し押さえ』を宣言した。

 

 埠頭には、あっという間に人だかりができていた。

 

 港湾労働者。

 

 屈強な船員。

 

 商人の使用人。

 

 反英派の若者たち。

 

 そして、ダニエル・マルコムのような、長年税関と対立してきた反骨の港の男たち。

 

 最初は、群衆もまだ理性を保っていた。

 

「おい、差し押さえの法的な手続きをするだけなら、俺たちは邪魔はしねえぞ!」

 

「勝手に船を持っていこうとするなよ!」

 

 だが、税関の役人たちは、群衆の言葉など信用していなかった。

 

 ハリソンが沖合に浮かぶ軍艦ロムニーに向かって、合図を送る。

 

 ロムニーの側面から、武装した水兵と海兵を乗せた二隻のボートが降ろされ、滑るように埠頭へと向かってきた。

 

 彼らは埠頭に到着するなり、リバティ号を係留していた太い綱を斧で切断し、岸壁から強引に引き離そうとしたのだ。

 

「待て!」

 

「船をどこへ持っていく気だ!」

 

「逃げる気か! ここで正々堂々と法の手続きをすればいいだろうが!」

 

 群衆が怒号を上げるが、武装した海兵たちは銃を構えて群衆を牽制し、リバティ号はずるずると、沖合の軍艦ロムニーの大砲の下へと曳航されていく。

 

 その瞬間、港の空気が完全に、そして決定的に変わった。

 

 これはもはや、税関による単なる船舶の差し押さえ手続きではない。

 

 本国の軍隊が、ボストン市民の財産である船を、圧倒的な暴力で力ずくで奪い去った。

 

 そういう光景が、市民の目の前で完成してしまったのだ。

 

 群衆の中から、誰かが悲痛な声で叫んだ。

 

「リバティを、奪うなァァッ!!」

 

 それが、船の名前を指して叫んだのか。

 

 それとも、自分たちの『自由』そのものを指して叫んだのか。

 

 もはや誰にも分からなかった。

 

 俺は埠頭の影に隠れながら、絶望的な気分で呟いた。

 

「……最悪だ」

 

「何がだ。まだ流血は起きていないぞ」

 

 ギデオンが言うが、俺は首を横に振った。

 

「絵面が、あまりにも完璧に完成しすぎてるんだよ。大商人ハンコックの船。船名は『リバティ』。税関が無理やり差し押さえて、それを英国軍艦の黒い大砲の下へ強制連行する。反英派の新聞屋が何も文章を捏造しなくても、この事実をそのまま書くだけで『本国が自由を奪った』っていう最悪の物語が完成しちゃうんだ!」

 

 リバティ号が岸壁から完全に離れた瞬間、群衆の怒りは沸点を突破し、逃げ遅れた税関の役人たちへと向かった。

 

 ハリソンとハロウェルが群衆に囲まれ、突き飛ばされる。

 

 帽子が奪われ、衣服が引き裂かれ、石や泥が容赦なく投げつけられる。

 

 暴徒と化した人々は、税関関係者の家へ押し寄せて窓ガラスを次々と叩き割り、さらに税関徴収官が使っていた小舟を港から引きずり出すと、町の広場へと運んで火を放った。

 

 俺は人混みの影を縫うようにして走り回り、歴史を変えない範囲で、密かに介入した。

 

 税関の役人の頭に振り下ろされそうになった太い棍棒を、暗闇から指一本の力でへし折る。

 

 燃え盛る小舟の火の海へ、興奮した若者が役人を投げ込もうとした瞬間、人間には見えない速度でその若者の襟首を引っ張り、軌道を逸らす。

 

「……卿。歴史に介入しないのではなかったのですか?」

 

 アーサーが咎めるように言うが、俺は息を吐きながら答えた。

 

「事件そのものを止めるとは言ってない。俺はただ、目の前で人が生きたまま焼き殺されるのを見過ごさないだけだ」

 

「その曖昧な境界線を、あなたはいつまで引き続けられるおつもりですか」

 

 アーサーの問いに、俺は答えられなかった。

 

 *

 

 ジョン・ハンコック本人は、群衆の暴動の最前線には立たず、直接暴力を命じることもなかった。

 

 表向きは、あくまで冷静な商人を貫いていた。

 

 だが、ボストン市民の目には、彼はすでに『本国の不当な税関に財産を奪われた、我々の代表者であり被害者』として映っていた。

 

 もはや、彼が過去に本当に密輸をしていたかどうかなど、誰も気にしない。

 

 リバティ号という名の船を奪われたという『事実』の持つ政治的な力が、すべてを覆い隠してしまったのだ。

 

「税関の連中、見せしめにする相手を完全に間違えたな……」

 

 燃える小舟の炎を見つめながら、俺が呟く。

 

「彼らから見れば、どうしても屈服させなければならない、最も見せしめにすべき相手だったのでしょう」

 

 アダムズの言葉に、俺は苦く笑った。

 

「だから最悪なんだよ。一番目立って影響力のあるやつを殴ったら、一番民衆を熱狂させる『英雄』が完成しちゃったんだからさ」

 

 その夜、群衆のさらなる襲撃を本気で恐れた税関委員たちは、ボストン市内に留まることを諦めた。

 

 彼らは命からがら軍艦ロムニーへと逃げ込み、その後、家族とともに港に浮かぶ要塞キャッスル・ウィリアムへと避難した。

 

 同じ出来事について、二つの正反対の報告書が作成されることになる。

 

 税関側はロンドンへこう報告する。

 

『ボストンの街は完全に無政府状態である。王の法律を執行する役人が暴行を受け、法執行は不可能となった。我々を守るためには、強大な軍隊の派遣が不可欠である』

 

 一方、ボストンの新聞はこう書き立てる。

 

『税関による不当な財産権の侵害。軍艦による市民への威圧。英国臣民としての権利の破壊。我々は自由を守るために立ち上がらねばならない』

 

 どちらも完全な嘘ではない。

 

 だが、どちらも事件の自分に都合の良い一面しか見ていない。

 

 *

 

 暴動の翌日。

 

 ハンコックの商館に、俺とギデオン、そしてアダムズが呼ばれた。

 

「税関委員会は、昨夜の暴動と船の没収だけで終わらせる気はないでしょう」

 

 ハンコックが、静かな、しかし闘志を秘めた声で言った。

 

「ええ。船の没収手続きだけでなく、密輸に関与したとして、あなた個人に莫大な罰金を求める訴訟を起こす可能性があります。それも、通常の陪審裁判ではなく、彼らに有利な海事裁判所へと持ち込むでしょう」

 

 アダムズが法的な見通しを語る。

 

「海事裁判所って……地元の人間が陪審員にならない、裁判官だけのやつだっけ?」

 

 俺の問いに、アダムズが頷く。

 

「そうです。彼らはボストンの陪審員を信用していませんから」

 

 ハンコックは、アダムズの目を真っ直ぐに見た。

 

「もし私が訴追された時には、弁護人をお願いできますか、アダムズ先生」

 

 アダムズは少しだけ沈黙し、やがて力強く頷いた。

 

「私は、暴徒の無秩序な暴力を弁護するつもりはありません。しかし、本国の役人が法をねじ曲げ、英国臣民の正当な権利を奪おうとするならば、私は喜んで法廷で彼らと争いましょう」

 

「……結局やるんじゃん! こいつ、やっぱり歴史的イベントが起きるたびに弁護士してるな!」

 

「私は法律家ですから! 当然の責務です!」

 

 俺のツッコミに、アダムズが胸を張って答えた。

 

 *

 

 夜。

 

 ボストンの宿の一室。

 

 窓の外には、まだ港の方角に、暴動の爪痕である赤い火の粉がちらちらと舞っているのが見える。

 

 俺は机にノートを広げ、ペンを走らせた。

 

【密輸船リバティ号事件・初動確認メモ】

 

 ・ジョン・ハンコック:植民地屈指の大商人。反英運動の資金源。署名がでかい。

 

 ・現在の立場:民衆人気の高い政治家。税関委員会とバチバチに対立中。

 

 ・リバティ号:ハンコック所有の船。船名の意味は「自由」。政治的火薬庫として最低最悪のネーミングセンス。

 

 ・五月九日:マデイラ島から到着。ワイン二十五パイプを申告し、関税は支払い済み。

 

 ・密輸疑惑:税関監視員カークが「船内へ閉じ込められている間、甲板で大量の荷物を降ろす音を聞いた」と、一か月後に遅れて証言。

 

 ・証拠の信憑性:カークは現行犯を見たわけではない。もう一人の監視員は寝ていた。未来の資料を全部読んでも、本当に密輸があったのか完全には確定できない。

 

 ・税関側の見え方:ハンコックは法を軽視する大商人。見逃せば税関委員会の権威が崩壊する。摘発は行政として当然の義務。

 

 ・ボストン側の見え方:本国が反英運動の有力者を狙い撃ちにし、軍艦の暴力を使って市民の財産を強奪した。

 

 ・決定的な失敗:税関がリバティ号を、英国軍艦ロムニーの大砲の下へ曳航したこと。

 

 ・政治的な見え方:『英国の軍隊が、力ずくで“自由”を奪い去った』

 

 ・発生したこと:群衆の暴徒化。税関吏への暴行、家屋の破壊、小舟の炎上。税関委員会は軍艦を経由して要塞へ逃亡。

 

 ・ハンコック:単なる大商人から、本国の圧政に立ち向かう『反英運動の英雄』へと進化。

 

 ・アダムズ:また弁護士になる予定。本人は「法律家だから当然」と主張。

 

 ・次に起こること:本国は「ボストンは無政府状態である」と判断する。逃亡した税関を守るため、間違いなく軍隊を直接送り込んでくる。

 

 ・俺:密輸が本当にあったのか、未来の資料を持っていても断定できない。ただし、この事件の『政治的な勝者』が誰かは、一目で分かる。

 

 最後に、ページの真ん中に大書きする。

 

【結論:船を差し押さえたら、“自由”そのものを差し押さえたことになった】

 

 密輸が本当に行われていたのか。

 

 ハンコックはどこまで知っていたのか。

 

 税関監視員の証言は真実だったのか。

 

 それとも、仕組まれたものだったのか。

 

 それは、この時点では誰にも分からなかった。

 

 後世の俺が大量の資料を読み漁っても、完全には分からない。

 

 だが、ボストンの街の空気の中では、すでに法廷の裁きとは別の『判決』が下されていた。

 

 本国は、リバティ号を奪った。

 

 本国は、軍艦の暴力を使った。

 

 本国は、ボストンから自由を奪おうとした。

 

 真実が法廷で確定するよりずっと先に、民衆の熱狂の中で『物語』が完成してしまったのだ。

 

 俺は窓を開け、夜の潮風を浴びた。

 

 港の沖には、英国軍艦ロムニーが黒々とした影を落として浮かんでいる。

 

 その大砲の下には、無理やり岸壁から引き離された一隻の小さな船が繋がれている。

 

 船尾に刻まれた名は、月明かりの中でもはっきりと読めた。

 

 LIBERTY。

 

 その夜、税関委員たちは暴徒を恐れて軍艦へと逃げ込んだ。

 

 そしてロンドンへ向けて、こう報告することになる。

 

『ボストンでは、もはや王の法律を執行できない。王の役人を守るためには、軍隊の派遣が必要である』と。

 

 俺は黒い海に浮かぶ軍艦を見つめながら、静かに頭を抱えた。

 

「……税関の役人を守るために、街に本物の軍隊を入れたら……その次に何が起きるかくらい、未来の歴史の教科書を開かなくたって、嫌でも分かるんだよなぁ……」

 

 密輸船リバティ号事件は、まだ終わっていなかった。

 

 むしろこれは、ボストンという街全体が本国との武力衝突の最前線――兵営へと変わっていく、その最初の号砲にすぎなかった。

 




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