真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第12話 真祖吸血鬼、ボストンが兵営になるのを見る

 九月末。

 

 ボストンの港に面した、ヴァレンタイン衛生用品商会の仮出張所。

 

 俺は机の端に未来の歴史資料を表示したタブレットを置き、もう一方の端から窓の外に広がる現実のボストン港を見下ろしていた。

 

 未来の記録には、こう短く書かれている。

 

『一七六八年十月一日、英国軍がボストンへ上陸』

 

 たった一行だ。

 

 試験に出るから暗記しろと言われれば、一秒で頭に入る程度の無機質な文字列。

 

 だが、現実は一行では済まない。

 

 窓の外、どんよりと曇った海を埋め尽くすように、黒々とした船体の軍艦と無数の輸送船が沖合に停泊している。

 

 その数の多さと、高くそびえる帆柱の列が与える視覚的な圧迫感は、歴史書の文字からは絶対に伝わらない。

 

 海風に乗って、遠くから野太い号令や太鼓の音が響いてくる。

 

 港周辺の商人たちは、その音に怯えるようにそそくさと店の鎧戸を下ろし始めていた。

 

「……教科書だと、たった一行だったんだけどな」

 

 俺がポツリと呟くと、背後で剣の手入れをしていたアーサーが顔を上げた。

 

「何がです?」

 

「『英国軍がボストンへ上陸した』って一行。実際にその日を目前にすると、港の景色から街の空気まで、全部が変わるんだなって」

 

 帳簿をめくっていたギデオンが、冷たく鼻を鳴らした。

 

「歴史書というものは、千人規模の武装した男たちを運んできた軍艦の影で、日差しが遮られる生々しい感覚までは記録しないからな。そういうものだ」

 

 俺はタブレットの画面をスクロールさせた。

 

 そこには、明日から始まる未来の出来事が羅列されている。

 

 英軍駐留。

 

 市民との終わらない摩擦。

 

 少年の死。

 

 そして二年後――ボストン虐殺事件。

 

 俺は画面を閉じた。

 

「先のことまで分かっていると、窓の外を歩いてる人間のすべてが、未来の犠牲者か加害者候補に見えてくる。よくないな、こういう見方は」

 

 *

 

 上陸の前夜。

 

 ギデオンが、彼が独自に築いた情報網から入手した「二種類の文書」の写しを机に広げた。

 

 一つは、本国から派遣された英国軍側へと伝えられている、現在のボストンに関する状況説明書だ。

 

『王の税関吏が群衆に集団暴行を受けた。税関委員たちは命の危険を感じて沖合の要塞へ避難した。港では密輸が公然と行われ、地元当局は暴徒を抑えられない。王の法律を執行し、秩序を回復するため、軍による保護が早急に必要である』

 

 そしてもう一つは、ボストンの町会や反英派の商人たちが共有している認識をまとめた声明文。

 

『リバティ号は、極めて信憑性の低い証言によって不当に差し押さえられた。税関が軍艦の暴力を盾にして市民の財産を奪ったのだ。その後の暴動は税関側の過剰な挑発によって起きたものであり、平時の街に軍隊を送る理由など存在しない。本国は、不当な税を取り立てるために武力で我々を脅そうとしているのだ』

 

 俺は二つの文書を交互に読み、深いため息をついた。

 

「これ、派遣される兵士の側から見れば、『暴徒が支配する無政府状態の危険都市への治安出動』なんだよな」

 

「だが、ボストン市民の側から見れば、『外敵もいない平和な英国の街への、不当な軍事占領』でしかない」

 

 ギデオンが、冷酷に事実をまとめる。

 

 アーサーが不思議そうに首を傾げた。

 

「どちらかが、完全に嘘をついているわけではないのですか?」

 

「嘘じゃない。そこが厄介なんだよ」

 

 俺は二枚の文書を重ね合わせた。

 

「互いに、自分たちに都合の悪い部分だけを綺麗に省略してる。でも、書かれていること全部が嘘ってわけでもない。同じ街の同じ出来事について書かれているのに、全く別の都市の出来事みたいに見える。……認識の齟齬がここまで完璧だと、もう話し合いでどうにかなるレベルじゃない」

 

 *

 

 一七六八年十月一日。

 

 ボストンの港には、重苦しい空気が立ち込めていた。

 

 見物人は大勢集まっていたが、歓迎の声を上げる者はごく一部の王党派だけだ。

 

 かといって、武器を持って彼らの上陸を実力で妨害しようとする者もいなかった。

 

 圧倒的な暴力を前に、ただ無言で睨みつけることしかできない。

 

 軍艦から何隻もの小舟が降ろされ、赤い軍服を着た兵士たちが整然と岸壁へ運ばれていく。

 

 最初に上陸したのは、第十四連隊と第二十九連隊だった。

 

 ダンダンダン、と腹の底に響くような太鼓の音。

 

 鋭い笛の音。

 

 革靴が揃って石畳を叩く、地鳴りのような響き。

 

 そして、鈍色の空の下で冷たく光る、無数の銃剣。

 

 第二十九連隊は港から街の中央へと進み、広大なボストン・コモンへ向けて行進していく。

 

 そこで野営の準備を始めるためだ。

 

 上陸自体に戦闘は伴わなかった。

 

 しかし、その儀礼的で威圧的な行進は、十分に街への『デモンストレーション』として機能していた。

 

 俺は群衆の端から、その様子を観察した。

 

 年配の商人は、まるで不浄なものを見るように無言で帽子を深く被り直した。

 

 港湾労働者たちは、赤い軍服の背中へ向けて露骨に唾を吐き捨てる。

 

 一方で、子供たちは物珍しそうに軍楽隊を追いかけ、兵士相手に新しい商売ができると計算高く笑う店主もいた。

 

 反英派の若者たちは「占領だ」と憎々しげに呟き、軍務経験のある男たちは、兵士たちの隊列の乱れのなさや装備の質を冷静に値踏みしている。

 

 全員が一枚岩ではない。

 

 だが、この街の空気が決定的に変質したことだけは確かだった。

 

 その時。

 

 何百人もの兵士が一斉に近づいてきたことで、俺の内に眠る真祖吸血鬼としての本能が、唐突に、そして強烈に刺激された。

 

 ドクン、ドクン、と街のあちこちから響いてくる無数の心音。

 

 長い航海で疲労しているとはいえ、厳しい軍務に耐えうる若く健康な肉体。

 

 その中を流れる、生命力に満ちた熱い血の匂い。

 

 真祖の本能から見れば、彼らは重武装した軍隊であると同時に――『規則正しく並べられた、極上の血液の群れ』でもあったのだ。

 

 俺は一瞬だけ、込み上げてくる唾液を飲み込み、喉元を押さえた。

 

 アーサーがそのわずかな変化を察知し、スッと短剣の柄に手をかけた。

 

「……卿?」

 

「大丈夫。ちょっと、吸血鬼としての本能が、最悪な感想を出力しただけ」

 

「どのような?」

 

「二個連隊分の健康な人間が、綺麗に隊列を組んで歩いてくるのを見て……ビュッフェスタイルの食べ放題みたいだなって」

 

 アーサーの顔が、能面のように引きつった。

 

 ギデオンが、兵士たちの列を眺めたまま低い声で言った。

 

「あの兵士たちにとって、お前は人の姿をした理不尽な捕食者だ。そして、ボストンの市民にとって、あの兵士たちは王の姿をした理不尽な暴力だ」

 

「……誰もが、誰かに食われる側なんだよな。この世界は」

 

 俺は強引に吸血衝動を抑え込み、赤い軍服を着た彼らを、ただの一人の人間として見るように意識を切り替えた。

 

 *

 

 行進が一段落した頃、岸壁の近くで列から少し離れて休んでいる若い兵士を見つけた。

 

 長い航海でひどく船酔いしたのか、顔色が青白い。

 

 俺は通りすがりの商人のふりをして、ヴァレンタイン商会の石鹸と清潔な布を彼に差し出した。

 

「船旅で疲れてるだろう。顔でも拭きなよ」

 

 若い兵士は一瞬警戒したが、俺から敵意を感じなかったのか、銀貨を数枚押し付けて石鹸を受け取った。

 

「……助かります。この街では、我々のような赤服は、誰も相手にしてくれないと聞いていたので」

 

「そう教えられてきたの?」

 

「士官からはそう聞いています。この街では、王の法律を守る役人が白昼堂々襲われ、火に投げ込まれても、誰も犯人を捕まえようとしないのだと」

 

 俺は前話で、小舟の火に投げ込まれそうになった税関吏をこっそり助けたことを思い出した。

 

 兵士の認識は恐怖によって誇張されているが、根本から捏造された嘘というわけではない。

 

「上陸した瞬間に、暴徒から一斉に撃たれるのではないかと覚悟していました」

 

 若い兵士は、石鹸で顔を拭いながら自嘲気味に笑った。

 

「ですが……ただの普通の街ですね。人々が生活している」

 

「ボストンの市民も、君たちを見て全く同じことを思ってると思うよ」

 

 俺が言うと、兵士は不思議そうに顔を上げた。

 

「もっと角の生えた恐ろしい悪魔か、血も涙もない殺戮機械が来ると思ってた、ってさ」

 

 だが、若い兵士は笑わなかった。

 

 ただ、軍人としての硬い声で答えた。

 

「我々は、ただ命令を受けて、治安を守るためにここへ来ただけです」

 

「……その言葉、市民側にも同じように言う人がいるよ。『俺たちはただ普通に暮らしていただけだ』ってね」

 

 互いに、根っからの悪人ではない。

 

 ただ、この『税関を守る軍隊と、税に反発する市民』という構図の中に配置されただけで、確実に衝突する運命にあるのだ。

 

 *

 

 同じ頃。

 

 サミュエル・アダムズ――ジョン・アダムズの又従兄弟であり、ボストンにおける急進的な反英運動の最も有能な煽動家――は、少し離れた広場から軍隊の上陸を静かに観測していた。

 

 彼は熱狂的に叫んで群衆を煽るような真似はしなかった。

 

 ただ、目の前の光景を冷酷に、一つ一つ記憶に刻み込んでいた。

 

 軍艦の威容。

 

 赤い軍服。

 

 市街地に向けられた銃剣。

 

 英国臣民の平和な街を我が物顔で行進する常備軍。

 

 そして、市民の憩いの場であるボストン・コモンに次々と張られていく軍用テント。

 

「また、あの絵面だけで政治的な物語が完成するやつだ」

 

 俺が少し離れた場所から呟くと、サミュエルは振り返ることなく答えた。

 

「物語などではありません。これは明白な現実です」

 

「現実をどこから見るかで、切り取られる物語の形が変わるんだよ。軍の側では、これは『法を守る勇敢な兵士が秩序を回復する光景』になる」

 

「……ならば、彼らにはそう書かせればよい。我々は、英国臣民の平和な街に、不当に銃剣が持ち込まれたという『事実』だけを書く。それだけで十分だ」

 

 サミュエル・アダムズは、完全に理解していた。

 

 嘘や捏造をする必要は一切ない。

 

 平和な街へ軍隊が上陸したという、誰もが目撃したその事実だけで、十分に本国を攻撃する強烈な政治宣伝になるのだと。

 

 一方、ジョン・ハンコックの商館。

 

 彼は窓から、赤服の兵士が街を行進する姿を無表情で見下ろしていた。

 

 俺とギデオンが訪ねると、彼は振り向きもせずに言った。

 

「……本国は、私の船を不当に奪っただけでは飽き足らず、その後始末としてこの街全体へ軍隊を送り込んできたわけですか」

 

 自分のリバティ号事件が、軍隊派遣の直接的な『口実』として使われたことに、彼は静かな、しかし確かな怒りを抱いていた。

 

「本国側の説明だと、街が税関を襲って無政府状態になったから軍隊を送ったことになってる」

 

「その原因を作ったのは、彼らの不当な差し押さえでしょう」

 

「税関側は、原因を作ったのはおたくの密輸と暴力だと思ってる」

 

 ハンコックは短く鼻で笑った。

 

「では、互いに『相手が最初に殴った』と言い張りながら、お互いに次の拳を準備することになりますね」

 

「もう準備している。港の沖に浮かんでいるだろう」

 

 ギデオンが窓の外の軍艦を顎でしゃくった。

 

 ハンコックは、自分の富と通商の象徴である巨大な商船と、王の命令と大砲を運ぶ黒い軍艦を交互に見比べた。

 

「商人が船を使えば密輸と呼ばれ、王が船を使えば秩序と呼ばれる。……まったく、権力とは便利なものですね」

 

 *

 

 上陸が終わった瞬間、政治問題は即座に『宿泊問題』へと移った。

 

 最初の部隊を率いるダルリンプル中佐は、ボストン市に対して兵士の宿舎を提供するよう要求した。

 

 ボストン当局の言い分はこうだ。

 

『軍隊を収容するなら、港内の島にあるキャッスル・ウィリアムの既存の兵舎を使うべきだ。市内に野営するなど認められない』

 

 対する軍側の反論はこうだ。

 

『我々の任務は、市内にいる税関委員を守り、法の執行を助けることだ。港から離れた島の要塞に兵士を隔離してしまっては、暴徒を鎮圧する任務が果たせない』

 

 俺は仮出張所で、ボストンの地図を広げた。

 

「これ、宿舎として法的に正しい場所と、任務を遂行するために物理的に正しい場所が完全に分かれちゃってるんだ」

 

「だから、どちらかを選べば必ず政治的な問題に発展する」

 

 ギデオンが言った。

 

「技術的には正しい配置が、政治的には最悪な結果を生む……。システム運用保守で一番嫌なパターンのやつだ」

 

 軍側は、市内の『マニュファクトリー・ハウス』を宿舎として借り上げようとした。

 

 そこは植民地政府が所有する公有施設であり、軍から見れば「公共の建物なのだから、王の軍隊の宿舎として使っても問題ない」という理屈だった。

 

 しかし、そこはただの空き家ではなかった。

 

 貧しい人々の収容と就労支援に使われている施設であり、中には実際に生活している人間がいたのだ。

 

 住民たちは「ここは俺たちの家だ!」と扉を閉ざし、女たちが家具を扉の前に積み上げてバリケードを作った。

 

 兵士たちも困惑した。

 

 命令どおりに強行突入すれば、ただの貧困者を銃剣で追い出すという最悪の光景になる。

 

 上陸初日からそんな流血騒ぎを起こせば、軍隊派遣の正当性が完全に崩壊してしまうからだ。

 

 結果として、ダルリンプル中佐は強行突入を避け、その場での入居は失敗に終わった。

 

 もっとも、軍と植民地当局がこの建物を完全に諦めたわけではない。

 

 マニュファクトリー・ハウスを巡る押し問答は、その後もしばらく続くことになった。

 

「誰も最善の行動を選ばなかったわけじゃない。軍も、市民も、全員が『自分の立場では一番マシな選択』をして、結果として全体が最悪の方向に転がってる」

 

 結局、ボストンの代表者たちは、兵士の一部を『ファニエル・ホール』へ数日間収容することを渋々認めた。

 

 翌日には、バーナード総督が『旧タウン・ハウス』の一部も兵士へ開放した。

 

 アーサーは「雨風をしのぐ、ただの宿泊場所でしょう?」と言ったが、ジョン・アダムズの顔は険しかった。

 

「ただの建物ではありません。ファニエル・ホールは町会が開かれる自由の議場であり、タウン・ハウスは植民地の政治と法が議論されてきた神聖な場所です。そこへ軍隊が寝泊まりし、床に藁を敷き、壁に銃を並べる。それを市民が何も感じずに見られると思いますか」

 

「軍の側からすれば、雨風をしのげる広い建物がそこにあったから借りただけ。でも市民から見れば、自治の象徴となる空間を軍隊に汚され、占領されたことになる」

 

 俺が言うと、ギデオンが皮肉げに頷いた。

 

「同じ床に藁を敷いたという一つの事実から、見事なまでに二つの意味が生まれたわけだ」

 

 *

 

 軍隊側の地獄も、それだけでは終わらなかった。

 

 十月の冷たい雨。

 

 不足する野営用テント。

 

 航海で濡れそぼった装備。

 

 狭い公共施設に押し込められたストレス。

 

 食事の準備。

 

 薪と水の確保。

 

 さらには排泄場所の管理と、脱走防止のための厳しい監視。

 

 俺は兵営の予定地を遠くから眺め、公衆衛生の観点から頭を抱えた。

 

「この何百人もの人間を、こんな狭い場所にろくな設備もなく押し込んで、石鹸も便所も排水処理も不足したら……暴動が起きるより先に、一瞬で感染症が広がるぞ」

 

「兵士が病気になれば、本国は『植民地側が故意に妨害したせいだ』と我々を非難するだろう」

 

 ギデオンが言う。

 

「で、ボストン側は『勝手に押しかけてきて、勝手に不潔になって病気になっただけだ』って言う。そして病原菌は、どっちの責任かなんてお構いなしに、兵士から街の市民へと平等に広がっていく」

 

 その直後、軍の補給担当官から、ヴァレンタイン商会へ大量の石鹸を納入できないかという見積依頼書が届いた。

 

 俺はその書類を見て完全に固まった。

 

「……これ、注文を受けたら、完全に反英派から『軍の協力者』扱いされて焼き討ちされるよな」

 

「断ればよいでしょう」

 

 アーサーが言った。

 

「断ったら兵営の衛生状態が崩壊して、不潔な兵士から病気が街へ溢れ出すんだよ!」

 

「合法血液供給インフラを守るために、占領軍の健康まで守ることになったな」

 

 ギデオンが心底楽しそうに笑った。

 

 *

 

 数日後、巡回裁判の仕事からボストンへ戻ってきたジョン・アダムズが、血走った目で俺たちの出張所にやってきた。

 

「……毎朝、気が狂うような太鼓と笛の音で叩き起こされます」

 

 彼の家の近くにあるブラトル・スクエアという広場では、第二十九連隊が毎朝早くから軍事訓練を行っていたのだ。

 

「目覚まし時計代わりになっていいじゃん」

 

 俺が軽口を叩くと、アダムズは凄まじい形相で睨みつけてきた。

 

「銃剣を持った目覚まし時計を、毎朝喜んで歓迎する家庭がどこにありますか!」

 

「法律家なんだから、騒音被害で訴えて法的に止められないの?」

 

「何でもかんでも裁判に持ち込めば解決すると思わないでください! 相手は王の軍隊ですよ!」

 

 あの理屈っぽく面倒くさいアダムズが、裁判を諦めるレベルの不条理。

 

 だが、彼はすぐに真顔に戻った。

 

「……笑い話で済んでいるうちはよいのです。毎朝、軍隊の足音で目覚める屈辱的な生活が一年続けば……市民は、赤い軍服を着た兵士の姿を見るだけで、理屈抜きで怒りを覚えるようになるでしょう」

 

 夜。

 

 俺たちはボストンの詳細な地図を広げた。

 

 赤い駒が兵士。

 

 黒い駒が税関施設。

 

 白い駒が、商会や倉庫、市場、政治施設などの市民の生活空間だ。

 

 俺が赤いチョークで兵士の移動経路や警備のルートを引き、アーサーが黒いチョークで市民の通勤や買い物のルートを引いていく。

 

 線は、地図のあちこちで幾重にも交差し、重なり合った。

 

「……これ、街のどこを歩いても、市民か兵士のどちらかが『あいつらが邪魔で道を塞がれた』って感じる配置になってる」

 

「接触を減らすには、兵士を市外の要塞へ置くしかない」

 

「それだと税関を守るっていう任務が果たせない」

 

「ならば、接触と摩擦は絶対に避けられん」

 

 ギデオンが断言した。

 

 俺は、地図の中心にある『キング・ストリート』という通りを見つめた。

 

 二年後、ここでボストン虐殺事件が起きる。

 

 今はまだ何の印も付けないが、視線だけがどうしてもそこに吸い寄せられた。

 

 十一月に入ると、第六十四連隊と第六十五連隊を含む追加部隊までが到着した。

 

 軍艦と輸送船。

 

 大量の荷物。

 

 大砲。

 

 そして家族を伴う者や軍属たち。

 

 それはもはや『一時的な暴動鎮圧のための出張』ではなく、長期駐留を前提とした組織の形成だった。

 

「出張してきたんじゃない。完全に腰を据えて引っ越してきたんだ」

 

「本国からすれば、情勢が完全に安定するまでの一時的な配備だと言うだろうがな」

 

「一時的なつもりで導入した仕組みが、だらだらと恒久化して現場の首を絞めるの、システム運用保守では死ぬほどよくあるんだよ……」

 

 *

 

 そして十一月の第二週。

 

 軍隊の到着によって市内の安全が確保されたと判断した税関委員たちが、逃亡先のキャッスル・ウィリアム要塞からボストン市内へと帰還した。

 

 朝の光の中、一隻の船が岸壁に横付けされる。

 

 そこには、赤い軍服を着た英国兵がずらりと並び、暴徒から彼らを守るために、銃を携えて警戒の壁を作っていた。

 

 前話で、群衆の怒りから逃げ惑い、夜の軍艦へ駆け込んだ税関委員たち。

 

 今度は、整然と並ぶ銃剣の列に守られながら、堂々と市内へと歩を進めていく。

 

 市民は彼らを襲わなかった。

 

 ただ、遠巻きに無言で睨みつけているだけだ。

 

 誰かが忌々しげに呟く。

 

「軍隊を連れて、偉そうに帰ってきやがった」

 

 俺は、その光景を建物の二階から見下ろしていた。

 

 税関委員側の認識は『王の軍隊が治安を回復したため、我々役人は無事に職務へ復帰した』。

 

 ボストン市民側の認識は『本国の役人が、軍隊の暴力を盾にして街を征服しに戻ってきた』。

 

「同じ帰還の光景なのに、片方には行政の正常化に見えて、片方には完全な軍事占領に見える」

 

「その根本的な認識のズレは、どちらかが滅びるまで変わらんだろうな」

 

 ギデオンが冷たく言った。

 

 税関委員たちは兵士に守られながら、税関の施設へと入っていく。

 

 そして、その建物の入り口には、赤い軍服を着た歩哨が銃を携えて立った。

 

 前話まで、ボストン市民の怒りは主に『不当な税金を取る税関』へと向けられていた。

 

 しかし、この瞬間から構造が変わったのだ。

 

 税関を嫌う者は、その前に立って彼らを守る兵士も嫌う。

 

 兵士の威圧感を嫌う者は、その兵士が守っている税関も憎む。

 

 二つの怒りが、この日、完全に接続されてしまったのだ。

 

 *

 

 夜。

 

 俺は仮出張所の机で、重い気分でノートを開いた。

 

【英国軍ボストン駐留・初期障害確認】

 

 ・派遣理由:密輸船リバティ号事件後、税関委員が「ボストンでは法を執行できない」と本国へ報告したため。

 

 ・英国側の認識:暴徒が王の役人を襲ったため、軍による保護と治安維持が必要。

 

 ・ボストン側の認識:代表権のない課税へ抵抗した市民を威圧するため、平時の街へ軍隊が送り込まれた。事実上の軍事占領。

 

 ・第一印象:赤い。数が多い。太鼓が毎朝うるさい。銃剣が街中で光っているだけで威圧感がすごい。

 

 ・吸血鬼としての第一印象:四個連隊分の健康な血液の群れ。最低すぎる本能なので忘れること。

 

 ・宿舎問題:軍は市内に置かなければ税関を守れない。市民は市内に置けば占領だと感じる。どちらを選んでも炎上する無理ゲー。

 

 ・マニュファクトリー・ハウス:植民地政府所有の公有施設。ただし貧しい住民が実際に生活している。軍の入居を拒否。宿舎を巡る押し問答は継続中。

 

 ・ファニエル・ホール/旧タウン・ハウス:一時的な兵営化。軍側にとっては雨風をしのぐただの建物だが、市民側にとっては自治の神聖な空間を占領された象徴。

 

 ・追加部隊:十一月、さらに連隊が到着。短期出張ではなく長期駐留の構え。

 

 ・税関委員:軍隊による安全確保後、市内へ帰還。

 

 ・税関委員側の見え方:法と行政の正常化。

 

 ・ボストン側の見え方:軍隊の暴力を盾にした本国役人の凱旋。

 

 ・現在の構造:税関の前に兵士が立ったため、税関への憎悪と軍隊への憎悪が完全に一つになった。

 

 ・今後の運用上の懸念:兵士の宿舎、衛生、食料、薪、水、酒、非番兵士の副業による市民との雇用摩擦、侮辱、喧嘩……そして、銃。

 

 ・ヴァレンタイン商会:英国軍から大量の石鹸納入について見積もりを要求された。受けても反英派に裏切り者扱いされて地獄。断っても兵営の衛生が崩壊して疫病が街に溢れて地獄。

 

 最後に、最大フォントで書き殴る。

 

【結論:税関を守るために軍隊を入れたら、税関への怒りが軍隊へ接続された】

 

 俺はノートを閉じ、窓の外を見た。

 

 昼間まで、税関の建物の前には小役人しかいなかった。

 

 しかし今は、赤い軍服の歩哨が立っている。

 

 通りを歩く市民は、その兵士を忌避するように大きく迂回して歩く。

 

 兵士もまた、通り過ぎる市民の手元を油断なく警戒している。

 

 互いに言葉は交わさない。

 

 だが、明確に互いを『敵』として観察している。

 

 遠くから太鼓の音が聞こえる。

 

 別の広場では、兵士が隊列を組み、同じ動作を繰り返している。

 

「……最初は、税関と市民のただの喧嘩だったはずなんだけどな」

 

「もう違う」

 

 ギデオンが短く答える。

 

「うん。税関の後ろに、軍隊が立った。これから市民が役人へ石を投げたら、兵士がそれを止める。兵士が市民を力で止めたら、それは本国の『圧政』になる」

 

「それでも、彼らは治安を守るために来たと言うのでしょう」

 

 アーサーの言葉に、俺は苦笑した。

 

「言うよ。それが嘘じゃないから、余計に始末に負えないんだ」

 

 その時、税関施設の重い扉が開いた。

 

 前話で街から逃げ出した税関委員たちが、兵士に守られながら中へと入っていく。

 

 誰も歓声を上げない。

 

 誰も石を投げない。

 

 ただ、無数の冷たい視線だけが彼らの背中を追っていた。

 

 税関委員たちは、安全を取り戻した。

 

 代わりにボストンの人々は、自分たちの街を完全に失ったと感じた。

 

 二年後、ここで五人の市民が銃弾に倒れる。

 

 まだ誰も、それを知らない。

 

 知っているのは、未来の歴史から来た俺だけだった。

 

 そして俺は、軍隊の上陸を止めなかった。

 

 止める理由も、法的権利も、物理的な方法もなかったからだ。

 

 だから今はただ、この赤い軍服が街の日常へとじわじわと溶け込み、日々の小さな怒りと摩擦を蓄積していくのを、黙って見ているしかなかった。

 

 ボストンは、まだ戦場ではなかった。

 

 だがこの日、間違いなく『兵営』になった。

 




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