真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第14話 真祖吸血鬼、撃たれた少年が旗印になるのを見る

 一七七〇年二月初旬。

 

 ボストンのヴァレンタイン衛生用品商会仮出張所で、俺は輸入品の流通記録と地元紙を机に並べ、腕を組んでいた。

 

「……結局、足並みってのは必ずどこかで崩れるもんだな」

 

 タウンゼンド関税への対抗策として始まった『輸入拒否運動』は、表向きにはまだ継続していることになっていた。

 

 だが、現実は違う。

 

 イギリス製の布、茶、金物、食器、日用品。

 

 それらが少しずつ、ボストンの店頭に戻り始めている。

 

 輸入を再開した商人たちは、決して本国に尻尾を振る完全な王党派というわけではない。

 

 彼らの大半は、単純に在庫が尽き、商売が立ち行かなくなり、家族や使用人を養うために『やむなく』仕入れを再開しただけの普通の人々だ。

 

 他の植民地がこっそり抜け駆けして輸入を始めているのに、ボストンだけが真面目に我慢を続ければ、自分たちだけが飢えて損をする。

 

「全員が同じ期間、同じだけの損失に耐え続けないと、こういう運動は成立しない。一人が抜けたら、その店だけが商品を売れて儲かる。それを見た隣の店も『馬鹿らしい』って言って抜ける。典型的な協調行動の崩壊だよ」

 

 俺が言うと、窓辺で外を監視していたギデオンが振り返った。

 

「ならば、その抜けた商人を徹底的に見せしめにして罰すればよい。……というのが、反英派の連中の考えだろう」

 

「そう。だから、それがもう始まってる」

 

 俺は新聞の紙面を指差した。

 

 そこには、輸入を再開した商人たちの名前が、これ見よがしに羅列されている。

 

 彼らの店の前には『輸入業者』『植民地の裏切り者』『この店から買うな』と大書された木札や看板が立てられ、客は店へ入ろうとするだけで群衆から罵声を浴びせられる。

 

 悪質な場合には、買い物をした客の名前までが晒し上げられ、店の窓には泥が投げつけられ、荷物が道へ放り出されるのだ。

 

「反英派の連中が守ろうとしている理念は理解できるよ。でもさ」

 

 俺はため息をついた。

 

「『本国の議会が、俺たちの同意なしで勝手に規則を押しつけるな』って激しく抗議している彼ら自身が、今度は地元の商人たちに、自分たちの同意なしで勝手に規則を押しつけている。この矛盾、当事者たちは気づいてないのかな」

 

「大義に酔っているうちは、自分たちの足元に転がっている矛盾など目に入らんものだ」

 

 ギデオンが冷たく言い捨てた。

 

 *

 

 数日後。

 

 俺はサミュエル・アダムズのもとを訪ね、輸入業者への威圧行動が行きすぎているのではないかと忠告した。

 

「店の前で『買わないでくれ』って呼びかけるくらいなら、まだ平和的な輸入拒否運動として分かる。でも、客を取り囲んで罵倒したり、店を物理的に壊したり、家族まで脅迫するのは違うだろ」

 

 サミュエルは、深い瞳で俺を静かに見据えた。

 

「ヴァレンタイン氏。輸入拒否というものは、植民地全体が痛みを分かち合うことで初めて本国への圧力として成立するのです。一部の商人だけが我々の犠牲を踏み台にして利益を得ることを許せば、すべてが崩れ去る」

 

「だからって、群衆が勝手に法律を作って、勝手に同胞を処罰していいことにはならない」

 

「本国の作った法律が、我々の権利を守らないどころか奪いに来ているからです。だからこそ、市民自身が直接行動して正義を示しているのです」

 

「……それ、本国も全く同じ理屈を言って、この街に軍隊を送り込んできたんだよ?」

 

 サミュエルは、一瞬だけ不快そうに口を閉ざした。

 

「相手の理屈を、ただ自分の都合のいいように立場だけ変えて使ってるだけだ」

 

「同じではありません。彼らは我々を支配しようとしているが、我々は自由を守っているのです」

 

「本国だって『俺たちは秩序を守ってる』って言ってる。自分の行動の目的に『自由』とか『正義』って正しい名前を貼り付けたからって、やってる暴力行為そのものまで自動的に正しくなるわけじゃない」

 

 サミュエルは、俺の言葉を認めなかった。

 

 だが、完全に否定することもできなかった。

 

 この段階では、彼自身も暴徒による流血や少年の死を望んでいたわけではない。

 

 彼はただ、輸入拒否を維持し、本国に立ち向かうために『強い圧力』が必要だと計算していただけだ。

 

 しかし、その圧力を実行する群衆の熱狂は、果たして彼の想定した枠の中で綺麗に止まってくれるのだろうか。

 

 *

 

 一七七〇年二月二十二日、木曜日。

 

 市場が開かれ、子供たちの学校が休みとなる日。

 

 ボストンの北端近くにある、セオフィラス・リリーという商人の店の前に、巨大な木製の掲示物が立てられた。

 

 そこには英国製品の輸入を続ける商人たちの似顔絵と名前が描かれ、大きな手がリリーの店を露骨に指差していた。

 

 意味は明白だ。

 

『この店は植民地の敵である。ここで物を買う者も同罪である』

 

 店の前には、朝から多くの少年たちが集まっていた。

 

 彼らにとっては、政治的抗議というよりも、大きな木像があり、大人たちが怒鳴り合い、店に入ろうとする客を野次で追い返す『ちょっとした祭り』のような興奮状態だった。

 

 そこに混ざる大人たちも様々だ。

 

 市場へ来た農民。

 

 熱狂的な活動家。

 

 ただの野次馬。

 

 騒ぎを楽しみたいだけのならず者。

 

 報告を受けたギデオンは、呆れたように言った。

 

「現場の連中の証言がひどくバラバラだ。群衆は六十人ほどだという者もいれば、三百人はいたと主張する者もいる」

 

「集まった人間の数すら、自分たちを正当化したい側から見た数字に歪むんだな」

 

 その群衆の輪の外側に、一人の男が通りかかった。

 

 エベニーザー・リチャードソン。

 

 彼は税関の正式な役人ではないが、税関への情報提供者として広く知られ、ボストンの市民から日常的に激しく嫌悪され、憎まれている人物だった。

 

 過去の素行についても、数々の悪評がつきまとっている。

 

 俺も彼の評判は知っていた。

 

 誰からも嫌われるだけの理由はあったのかもしれない。

 

 だが、嫌われているからといって、家へ石を投げ込んで殺してもいいことにはならない。

 

 リチャードソンは、リリーの店の前に立てられた巨大な掲示物を見て激怒した。

 

 彼は通りすがりの通行人や荷車の御者へ「あんなもの、さっさと倒してしまえ!」と要求したが、誰も応じなかった。

 

 業を煮やした彼は、自分で荷車を動かして掲示物に物理的にぶつけ、破壊しようとした。

 

 それが、群衆の逆鱗に触れた。

 

 ただでさえ憎まれている『本国の手先』が、自分たちの正当な抗議活動を力ずくで壊そうとしたのだ。

 

 泥が飛んだ。

 

 棒切れが投げられた。

 

 石が飛んだ。

 

 激しい罵声が浴びせられ、リチャードソンも怒り狂って罵り返した。

 

 だが、リチャードソンは、自分はたった一人で、相手は怒り狂った数十人から数百人の群衆であるという圧倒的な数の暴力の前に、急速に恐怖に駆られた。

 

 彼は石を避けるようにして、すぐ近くの自宅へと逃げ込んだ。

 

 *

 

 後にギデオンが集めた複数の証言と、リチャードソンに関する裁判記録を照合すると、その家の中では、おおよそ次のようなことが起きていたらしい。

 

 リチャードソンの自宅には、税関関係の船員であるジョージ・ウィルモットがいた。

 

 だが、外の群衆はさらに膨れ上がり、彼の家を完全に包囲した。

 

 容赦なく投げ込まれる泥と石が、窓ガラスを粉々に砕く。

 

 ガラスだけでなく、木の枠や鉛の桟までが破壊される。

 

 重い扉が何度も押され、家の中にも石の破片が飛び込んでくる。

 

「……扉を破られたら、何をされるか分からないぞ!」

 

 ウィルモットが恐怖を露わにした。

 

「あの暴徒どもは、王の役人を平気で火の海に投げ込もうとする連中だぞ! 俺を生かしておくと思うか!」

 

 リチャードソンは、扉を破られれば自分は殺されると思い込んでいたらしい。

 

 リバティ号事件の暴動の記憶が、彼の中で「このままでは確実に殺される」という確信へと変わっていたのだ。

 

 外からは「出てこい!」「密告人を引きずり出せ!」「木に吊るしてやれ!」という殺意に満ちた声が響き続ける。

 

 リチャードソンは、部屋の奥からマスケット銃を取り出した。

 

 窓の隙間から銃口を突き出し、一度引き金を引く。

 

 だが、銃は発火せず、撃鉄の乾いた音だけが響いた。

 

 それが群衆を追い払うための意図的な威嚇だったのか。

 

 それとも、単なる不発だったのか。

 

 後の証言でも食い違っており、完全には確定できない。

 

 ただ、その音を聞いても、熱狂した群衆は引かなかった。

 

 むしろ「撃てるものなら撃ってみろ、この臆病者!」とさらに興奮し、石を投げつけた者までいたという。

 

 大きな石が窓から飛び込み、リチャードソンのすぐ横の壁に激突した。

 

 扉が、メリメリと嫌な音を立てて内側へ押し込まれる。

 

 極限の恐怖の中、リチャードソンは再び銃を構えた。

 

「下がれェェェッ!!」

 

 だが、外の怒号で、その声は誰にも届かなかったのだろう。

 

 轟音。

 

 濃い硝煙。

 

 そして一瞬の静寂の後、甲高い少年の悲鳴が響き渡った。

 

 *

 

 銃口から放たれた散弾の一部は、前列で手を上げていた別の少年の腕を傷つけた。

 

 だが、残りの複数の鉛玉は、その場にたまたま居合わせた十一歳の少年、クリストファー・サイダーの小さな身体の胸、腕、そして脇腹へと深く食い込んだ。

 

 彼は自分が撃たれたことすら理解できないまま、血だまりの中へと崩れ落ちた。

 

 *

 

 同じ時刻。

 

 俺は商会の仮出張所で、兵営向けの石鹸の納入記録と、街中で頻発している兵士と市民の小競り合いの報告書を整理していた。

 

 北部のリリーの店が群衆に囲まれているという第一報は、すでに届いていた。

 

 しかし、最近のボストンでは、その程度の騒ぎは日常茶飯事だった。

 

 泥を投げる。

 

 罵る。

 

 看板を立てる。

 

 店を一時的に閉めさせる。

 

 だから俺は、すぐには現場へ向かわなかった。

 

「また輸入業者への嫌がらせか。怪我人が出そうなくらいエスカレートしたら、すぐに連絡してくれ」

 

 この判断が、後で俺の心を深く、深く抉ることになる。

 

 俺は決して怠けていたわけではない。

 

 別の急ぎの書類仕事を処理していたし、街で起きるすべての騒ぎに一人で駆けつけることなど、物理的に不可能だ。

 

 しかし結果として、「またいつもの騒ぎだ」と優先順位を下げたその隙間から、この対立における最初の死者が出てしまったのだ。

 

「ヴァレンタインの旦那! 北部で、銃が撃たれました!」

 

 連絡係の悲鳴を聞いた瞬間、俺は椅子を蹴り倒して窓から飛び出した。

 

 人間の目には見えない真祖の速度で屋根を蹴り、壁を伝い、現場へと急行する。

 

 しかし、俺が到着した時には、すべてが遅すぎた。

 

 まだ硝煙の匂いが漂う通り。

 

 割れた窓。

 

 怒りで我を忘れて叫ぶ群衆。

 

 そして、地面の血だまりの中に倒れている、小さな少年。

 

 俺は政治状況など考える暇もなく、サイダーのもとへ滑り込んだ。

 

「アーサー! 布だ! 俺のトランクから一番清潔な布を持ってこい!」

 

 俺は群衆を押し退け、少年の傷口を必死に押さえた。

 

 気道を確保し、意識を呼び戻そうとする。

 

 だが、真祖吸血鬼としての本能と異常な聴覚が、残酷な現実を俺の脳に突きつけてきた。

 

 少年の身体からは、外側だけでなく、胸の内側へ向かって大量の血液が流れ込んでいる。

 

 呼吸をするたびに、片側の肺がひゅるひゅると嫌な音を立て、機能不全に陥っているのが分かる。

 

 複数の散弾が深く入り込み、体内でどの臓器と血管を破壊しているのか、外からは全く分からない。

 

「……駄目だ。外から布で押さえるだけじゃ、止まらない……」

 

 俺の手に、温かい血がまとわりつく。

 

「卿! あなたのその人知を超えた力で、なんとかならないのですか!」

 

 アーサーが悲痛な声を上げる。

 

「無理だ! 俺の力は、骨や肉を破壊することには向いてる! でも、人間の小さな胸を開いて、散弾を取り出し、傷ついた肺と血管を一本一本正確に縫い直すような神の知識も設備も、俺は持ってないんだよ!」

 

 俺は少年をそっと抱き上げ、人間の医師がいる場所へと全速力で走った。

 

 だが、どれほど俺が人間離れした速度で走ろうと、失われた時間と、鉛玉が破壊した小さな命の器官を元に戻すことはできなかった。

 

 *

 

 後からギデオンとアーサーに聞かされたところでは、俺が少年を運び出した直後、現場では別の暴力が始まっていた。

 

「あの密告人が、子供を殺したぞ!」

 

「家をぶち壊せ!」

 

「引きずり出して木に吊るせ!」

 

 群衆はリチャードソンの家になだれ込み、彼とウィルモットを袋叩きにしながら表へ引きずり出した。

 

 太いロープが持ち出され、近くの木を指差して「ここで吊るせ!」という殺意の合唱が響き渡る。

 

 彼らは子供の死に本気で怒り、悲しんでいた。

 

 だが同時に、裁判による裁きも、少年の死亡の確認すら待たずに、目の前の標的を私刑で即座に殺そうとしていた。

 

 ギデオンとアーサーは、そこで動いた。

 

 ギデオンは人混みをかき分け、町の有力者や治安判事に、

 

「ここで私刑を行えば、少年の死に対する正当な怒りが、ただの野蛮な殺人事件に変わるぞ!」

 

 と必死に説得して回った。

 

 アーサーは影に潜み、群衆が持ち出したロープを誰にも気づかれずに切断して動きを妨害した。

 

 町の指導者たちの必死の制止もあり、リチャードソンたちは顔を血まみれにしながらも、かろうじて治安判事の前に引き出され、そのまま強固な牢獄へと移送されたという。

 

 後からその経緯を聞いた俺は、頭を抱えて呻いた。

 

「……少年を撃った男を、少年が本当に死んだかどうかも分からないうちに、その場で吊るそうとしたのか。怒りってのは、本当に前が見えなくなるんだな」

 

 *

 

 クリストファー・サイダーは、すぐには死ななかった。

 

 その日の夕方まで、細く、苦しい呼吸を続けていた。

 

 俺は駆けつけた町医者と共に、寝台の横で処置を続けた。

 

 未来の知識をそのまま明かすことはできないが、

 

「傷口を汚れた手で触らせるな」

 

「呼吸を妨げる衣服を緩めろ」

 

「身体を冷やしすぎるな」

 

「無理に酒や水を飲ませるな」

 

 と、必死に助言を出した。

 

 だが、内部の致命的な損傷はどうにもならなかった。

 

 サイダーは苦しげに顔を歪めながら、寝台の傍らにすがりつく家族を呼んだ。

 

 彼は、「自由のために」だの「本国の圧政が」だのといった、大層な政治的な台詞は一言も口にしなかった。

 

「……痛いよ」

 

「……家に、帰りたい」

 

「……お母さんは?」

 

 ただ、痛みと恐怖に怯える、十一歳の普通の子供の言葉だけを繰り返した。

 

 俺は、血まみれになった彼の手を固く握り締めていた。

 

 俺の血を飲ませれば、もしかしたら。

 

 真祖の血を与えれば、治癒能力が暴走して傷が塞がるかもしれない。

 

 だが、それは彼を『人間のまま救う』ことにはならない。

 

 真祖の血が十一歳の子供に何を引き起こすか。

 

 自我を失った吸血鬼の眷属に変えてしまうか。

 

 最悪の場合、肉体が適合できずに灰になる可能性もある。

 

 俺には、その残酷な賭けを実行する権利はなかった。

 

 夕刻。

 

 俺の異常な聴覚に微かに響いていた少年の心音が、完全に止まった。

 

「……止まった」

 

 俺の言葉に、部屋の中へ家族の慟哭が響き渡る。

 

 俺は、冷たくなっていく子供の手を、しばらくの間、離すことができなかった。

 

 後に遺体を検めた若き医師ジョセフ・ウォーレンは、その小さな身体から十一個もの散弾を摘出することになる。

 

 *

 

 その夜。

 

 俺は仮出張所の屋根の上に一人で座り込み、冷たい夜風を浴びていた。

 

 俺の手には、サイダーの血がまだわずかに残っている。

 

 最悪なことに、俺の吸血鬼としての本能は、この小さな悲劇の痕跡を『食料の匂い』として感知し、無神経に喉を鳴らそうとしていた。

 

「……黙れ」

 

 俺は自分の右手を、漆喰の壁に激しく打ちつけた。

 

 痛みが、少しだけ本能を黙らせてくれた。

 

 背後の天窓から、ギデオンが音もなく屋根へ上がってきた。

 

「……お前の責任ではない」

 

「最初の知らせは届いてたんだよ」

 

 俺は自分の手を見つめたまま言った。

 

「街で起きるすべての諍いに、お前一人で駆けつけることなど物理的に不可能だ。気に病むな」

 

「でも、もしかしたら……行けたかもしれない」

 

「行かなかった結果を知った後なら、人間は誰でもそう言えるのだ」

 

 ギデオンの言葉は優しかったが、俺は自嘲気味に笑った。

 

「未来を知ってるくせに、俺は」

 

「未来を知っていることと、世界のすべての時間の、すべての路地に立ち、すべての少年が拾う石を先回りして弾き落とすことは、全く違う能力だ」

 

 俺は、何も答えられなかった。

 

「……それでも、俺があの子供を助けられなかったっていう事実だけは、変わらないんだよ」

 

 俺は、歴史の巨大な流れを変えられなかったと嘆いているのではない。

 

 ただ、目の前で血を流していた一人の小さな子供を救えなかった。

 

 その明確な敗北を、歴史の必然という都合の良い言葉で誤魔化すことを、自分自身に許さなかった。

 

 *

 

 翌朝。

 

 エデスとギルの印刷所をはじめ、街の印刷機が一斉に唸りを上げ、少年の死は活字となってボストン中へばら撒かれた。

 

 家族がまだ、その死を完全に受け入れきれていないうちに。

 

『クリストファー・サイダー。十一歳。無辜の少年。税関の手先による残虐な殺害。自由のための最初の犠牲者!』

 

 リチャードソンが、税関委員会から「群衆を撃て」と直接命令された証拠などどこにもない。

 

 あの発砲は、彼個人の極限の恐怖と怒りによるものだった可能性が高い。

 

 それでも、新聞の紙面上では、すべての線が一つに結ばれていた。

 

 税関制度。

 

 本国の圧政。

 

 駐留軍。

 

 密告人。

 

 そして、少年の死。

 

「リチャードソンが撃った。それは曲がらない事実だ。でも、記事の論調の中じゃ、まるで英国政府全体が彼に引き金を引かせたことになってる」

 

 俺が言うと、横にいたサミュエル・アダムズが冷徹に答えた。

 

「彼が本国の手先として市民を不当に苦しめていなければ、そもそもこの事件は起きていません」

 

「群衆が彼の家を物理的にぶっ壊そうとしなければ、彼だって発砲までしなかったかもしれないだろ」

 

「あなたは、罪なき少年を撃った殺人者を庇うおつもりですか」

 

「庇ってない。都合よく削り取られた事実の欠片を元に戻してるだけだよ」

 

 サミュエルは、毅然とした態度で言い放った。

 

「起きた出来事のすべてを同じ大きさの活字で並べ立てれば、責任の所在は霧の中へ消えてしまいます」

 

「だから、自分たちが世間に伝えたい結論に合う事実だけを大きく印刷するのか?」

 

「人々が理解しやすい形にして届けているだけです」

 

 サミュエルの中に、少年を利用しようという下劣な悪意はない。

 

 彼は、この一人の理不尽な死を無駄にしないため、本国への怒りとして結集させるため、そしてこれ以上の犠牲を防ぐために、この死を政治化しているのだ。

 

 サイダーの家族は、狭い部屋の棺の前で途方に暮れていた。

 

 外では政治家や新聞屋が「殉教者」「小さな英雄」と書き立てているが、家族にとっては、ただ朝に元気に家を出ていった息子が、夕方には冷たい骸となって帰ってきたという、途方もない悲劇でしかない。

 

 俺は棺の前に立ち、家族に何か謝罪の言葉をかけようとした。

 

 だが、何について謝ればいいのか、自分でも分からなかった。

 

 間に合わなかったことか。

 

 救えなかったことか。

 

 それとも、未来を知りながら何もできなかったことか。

 

 家族の一人が、涙で腫れた目で俺に尋ねてきた。

 

「……ヴァレンタイン様。この子は、本当に……自由のために、立派に死んだのでしょうか」

 

 俺は、即答できなかった。

 

「……この子は、学校が休みで、表の騒ぎをただ見に行って、たまたま運悪く撃たれたんです」

 

 俺の言葉に、家族の顔がわずかに傷ついたように歪む。

 

 俺は慌てて言葉を続けた。

 

「でも、この子が何か悪いことをしたわけじゃない。十一歳の子供が、大人たちの複雑な政治的争いの意味を全部理解して、自分から命を賭けて前に出たわけでもない。ただの、悲しすぎる犠牲者です」

 

「……では、この子の死には、何の意味もないのですか?」

 

 俺は唇を噛んだ。

 

「……その死の意味を決めるのは、死んだ本人じゃありません。生き残った人間たちの都合です」

 

 俺の言葉は、酷く冷たく響いたかもしれない。

 

 政治利用は許せない。

 

 だが、遺族には息子の死に崇高な意味があってほしいと願う切実な気持ちもある。

 

 その二つを完全に切り離すことは、誰にもできないのだ。

 

 *

 

 サミュエル・アダムズをはじめとする反英派の指導者たちを中心に、ボストンの歴史上でも類を見ない規模の葬儀の準備が進められた。

 

 少年を悼むため。

 

 リチャードソンの極刑を求めるため。

 

 税関への怒りを示すため。

 

 そして何より、崩れかけていた輸入拒否運動への市民の結束を、再び強固なものにするため。

 

「……これ、お葬式だよね?」

 

「もちろんです」

 

「どう見ても、巨大な政治集会の準備に見えるんだけど」

 

「それが二つ同時に存在してはならないという理由が、何かありますか?」

 

「中に入ってるのは、政治家じゃない。十一歳の子供の棺だぞ」

 

「だからこそ、人々は自分の目でしっかりと見る必要があるのです。この街の路上で、実際に何が起きたのかを」

 

 サミュエルの言葉は冷酷だが、嘘は一つもない。

 

 少年を撃ったのは彼ではない。

 

 しかし、その死をどのような意味で社会へ提示するかを、サミュエルをはじめとする反英派の指導者たちは意識的に組み立てていた。

 

 二月二十六日。

 

 自由の木の周辺に、見渡す限りの人々が集まった。

 

 黒い布で覆われた棺には、ラテン語で『無垢なる者でさえ、どこにも安全ではない』という意味の言葉が大きく掲げられている。

 

 葬列の先頭を歩くのは、大人たちではない。

 

 サイダーと同じくらいの年齢の、大勢の少年たちだった。

 

 その後ろに棺が続き、家族、女性たち、馬車、そして町の有力者、商人、職人、港湾労働者が延々と続く。

 

 反英派だけでなく、普段は政治に関心のない市民までもが、哀悼と静かな怒りを持って列に加わった。

 

 その数は、二千人とも言われた。

 

 列の中にいたジョン・アダムズが、感嘆したように息を吐いた。

 

「……これほど巨大な葬列を見たことがありません」

 

「子供一人の葬式に、文字どおり街全体が集まってきたね」

 

「子供一人だからですよ。もし撃たれたのが兵士や政治活動家であれば、双方が自分の都合の良いように死を説明し、正当化できる。しかし、この無力な少年の死については、本国側も言い訳が非常に難しい」

 

「もう説明されてるよ。自由の殉教者だってね」

 

 俺が皮肉を言うと、アダムズは棺の前を静かに歩く少年たちを見つめた。

 

「そして、その強烈な説明が、この街の人々をこの先どこへ運んでいくかは……私にも分かりません」

 

 葬列の只中で、俺は死者が一つの象徴へと変質していく光景を目の当たりにしていた。

 

 昨日までクリストファー・サイダーは、ただの家族の息子であり、友人と遊ぶ十一歳の子供だった。

 

 しかし今日から、彼は『英国の圧政によって殺された、自由のための最初の殉教者』になる。

 

 彼本人が最後の瞬間に何を考えていたかは、もう誰にも関係ない。

 

「……死んだ瞬間から、その人の人生の物語を語る権利は、生き残った側に完全に移行しちゃうんだな」

 

「死者は、他人の言葉を訂正できんからな」

 

 ギデオンが低く言う。

 

「サイダーは、自分を自由の旗にしてほしかったのかな」

 

「誰にも分からん」

 

「分からないまま、街の大人たちは彼を旗として高く掲げるんだ」

 

 *

 

 だが、少年の死がもたらした熱狂的な一体感も、ボストンの底に溜まった泥沼のような雇用摩擦までは解消してくれなかった。

 

 三月二日。

 

 サイダーの葬儀から、わずか四日後。

 

 ジョン・グレイが経営するロープ製造所に、非番の英国兵がいつものように安い日雇い仕事を探しにやってきた。

 

 対応した地元のロープ職人は、連日の葬儀の熱気と軍への敵意を引きずっていた。

 

「仕事が欲しいだと? なら、あそこの便所の掃除でもしてこい!」

 

 侮辱された兵士が激昂し、言い返す。

 

 押し合いになり、殴り合いが始まる。

 

 他の職人たちが集まってきて、多勢に無勢となった兵士は一度逃げ帰った。

 

 しかし、面子を潰された兵士は、すぐに仲間の赤服を大勢連れて製造所へ戻ってきた。

 

 ロープ職人の側も、近隣から仲間を呼び集める。

 

 棒。

 

 太い棍棒。

 

 縄を打つための重い木製工具。

 

 そして短い刃物。

 

 それは数十人規模の、凄惨な大乱闘へと発展した。

 

「また赤服と職人が殴り合ってるぞ!」

 

 その知らせが街に走った時の反応は、純粋な反英の熱狂ではなかった。

 

「またかよ!」

 

「サイダーの棺に土をかけたばかりだぞ! 今度は一体何人死ぬんだ!」

 

 店主たちは慌てて鎧戸を閉め、親は子供の襟首を掴んで家の中へ引き戻す。

 

 俺のもとへも、最初の殴り合いが始まった瞬間に、情報網から知らせが届いた。

 

 サイダーの時の失敗を教訓に、多人数や兵士が絡む喧嘩の初動情報を最優先で上げる体制を作っていたのだ。

 

「今度こそ、絶対に死者だけは出させない!」

 

 俺はギデオンとアーサーを伴い、ロープ製造所へと全速力で駆けつけた。

 

 アーサーは影に潜み、刃物を振り回そうとした者の手首を的確に打って武器を落とさせる。

 

 ギデオンは製造所の親方と軍の下士官に素早く接触し、

 

「これ以上やれば、双方の首が飛ぶぞ!」

 

 と怒鳴りつけて、指揮系統を強引に止めさせた。

 

 俺は、人間の目には認識できない速度で、頭を棍棒で割られそうになっていた兵士を引きずり出し、首にロープを巻きつけられそうになっていた職人を救出する。

 

 さらに、乱闘の中央に巨大な荷車を横転させ、双方を物理的に分断した。

 

 町の治安官。

 

 軍の士官。

 

 そして俺たち。

 

 全員が、ここでさらに死人を出したらボストンの街が完全に終わるという強烈な恐怖で動き、なんとか双方を力ずくで引き離すことに成功した。

 

 鼻血、裂傷、骨折などの負傷者は多数出たが、死亡者はゼロ。

 

「……今度は、間に合った」

 

 俺が荒い息を吐きながら言うと、アーサーも短く頷いた。

 

「ええ」

 

「でも、物理的に死者を止めただけだ」

 

 周囲では、引き離された後も、兵士と職人たちが互いを親の仇のように罵り合う声が鳴り響いていた。

 

 *

 

 後に集められた証言によれば、翌三月三日にも、双方は前日の負傷への復讐と面子を懸けて再び仲間を集め、ロープ製造所周辺で衝突したという。

 

 兵士側は、

 

「市民ごときに袋叩きにされたままでは、王の軍隊としての面目が立たない」

 

 と怒り、職人側は、

 

「占領軍の赤服どもが、俺たちの仕事場まで荒らしに来た」

 

 と激昂している。

 

 この日は町も軍も警戒を強めていたため、前日よりは早く引き離され、俺たちの介入もあって、どうにか死者は出なかった。

 

 だが、その乱闘の最中、仕事を奪い合ったあの二人――兵士のトマスと、労働者のイライジャが、ついに棍棒を握って向かい合ってしまった。

 

 二人とも、最初から相手を殺すつもりなどない。

 

 ただ、仲間が傷つけられた怒りと、自分たちの生活を奪う相手に絶対に屈したくないという意地だけで、そこに立っていた。

 

「やっぱり最後は、銃と軍隊の仲間を連れてくるんだな!」

 

 イライジャが棍棒を振りかぶって怒鳴る。

 

「先にこちらの仲間を卑怯に袋叩きにしたのは、そっちだろうが!」

 

「俺たちの仕事場へ、のこのこやって来たのは誰だ!」

 

「家族を食わせるために、休みの日に仕事を探して何が悪い!」

 

 二人が互いに殴りかかろうとした瞬間、俺は二人の間に強引に割って入り、飛んできた棍棒を素手で受け止めた。

 

「二人とも、いい加減にしろ! お前ら、前にも倉庫の前で全く同じことやってただろ!」

 

「……俺たちの現状が、あの時から何一つ変わってないからだ!」

 

 イライジャの悲痛な叫びが、俺の胸に深々と突き刺さった。

 

 俺は二人の殴り合いを物理的に止めることはできる。

 

 しかし、彼らが奪い合っている仕事の数も、少ない賃金も、軍隊の駐留も、何も変わっていない。

 

 根本が解決していない以上、彼らは何度でも同じ場所に戻ってきて、互いの生活を懸けて殴り合うしかないのだ。

 

 *

 

 三月四日の夜。

 

 明日が、歴史に刻まれるボストン虐殺事件の日だ。

 

 俺は仮出張所で、重いペンの音だけを響かせてノートに記録をまとめていた。

 

【輸入拒否運動崩壊・少年射殺・労働衝突確認メモ】

 

 ・輸入拒否運動:我慢比べに耐えきれなくなった商人の足並みが崩れ始めた。

 

 ・反英派の対策:輸入を再開した商人の名前を晒し上げ、客に圧力をかける。

 

 ・セオフィラス・リリー:販売を継続して標的にされる。

 

 ・エベニーザー・リチャードソン:市民から嫌われていた税関への情報提供者。群衆に家を包囲され、散弾を発砲。

 

 ・最初の引き金:意図的な威嚇だったのか、単なる不発だったのか、証言が食い違っており確定不能。

 

 ・死亡者:クリストファー・サイダー、十一歳。

 

 ・俺:第一報を「いつもの嫌がらせ」と判断し、到着が遅れた。止血はしたが、内臓の損傷は治せず救命失敗。

 

 ・確認事項:未来を知っていることと、すべての事件に居合わせられることは同じではない。

 

 ・確認したくないこと:それでも、目の前の命を救えなかった。

 

 ・死後の検視:ジョセフ・ウォーレンが遺体から十一個の散弾を摘出。

 

 ・二月二十六日:大規模な葬儀。

 

 ・政治的変化:彼は普通の少年から、自由のための最初の殉教者へと変質した。

 

 ・サミュエル・アダムズをはじめとする反英派:少年の死を無意味にしないため、政治的な意味づけを推進。

 

 ・三月二日および三日:ロープ製造所で、非番兵士と職人が雇用問題を火種にして大乱闘。

 

 ・結果:負傷者多数だが、俺たちの早期介入で死者はゼロ。

 

 ・根本原因:何一つ解決していない。

 

 ・現在のボストンの状態:少年の死。大規模な葬儀。兵士の面子。職人の怒り。報復の噂。軍の銃。市民の棍棒。……そして、鳴れば人を呼び寄せる鐘。

 

 最後に、大きな文字で書き殴る。

 

【結論:子供が一人死んだ。街は、その死を旗に変え始めた】

 

 ボストンの街は、一見すると嵐の前の静けさを取り戻しているように見えた。

 

 ロープ製造所の乱闘はひとまず収まり、死者が出なかったことに人々は胸をなで下ろしている。

 

 だが、路地裏には乱闘で折れた棍棒が転がり、酒場では「赤服が月曜日に市民へ報復するらしいぞ」という噂が亡霊のように囁かれている。

 

 兵営でも「市民が軍を襲撃する準備をしている」という疑心暗鬼が頂点に達していた。

 

 双方が、

 

『次は、絶対に相手が先に仕掛けてくる』

 

 と信じ込んでいるのだ。

 

 俺は、雪と氷が残るキング・ストリートを歩いていた。

 

 税関施設。

 

 その前に立つ歩哨。

 

 閉ざされた酒場。

 

 タブレットに表示されている未来の記録を確認する。

 

 一七七〇年三月四日。

 

「……サイダーが死んで、あんな葬式をやって、ロープ製造所で二日続けて血みどろで殴り合った。それでも街の人間は、明日も普通に日常が続くと思ってるんだな」

 

「普通に日常を続ける以外に、人間に何ができるというのだ」

 

 ギデオンが横で短く言う。

 

「……明日だ」

 

「何がです?」

 

 アーサーの問いに、俺は夜のキング・ストリートを見渡して答えた。

 

「明日の夜、この通りで、五人の市民が死ぬ」

 

 少年の銃撃には間に合わなかった。

 

 ロープ製造所では、なんとか死者だけは防いだ。

 

 今度は、日付も、場所も、結果も完全に知っている。

 

 それでも俺には、一体何を止めれば、このボストン虐殺事件という歴史的悲劇が消滅するのか、全く分からなかった。

 

 税関の前の歩哨を立たせないようにするのか。

 

 市民を通りへ出さないようにするのか。

 

 教会の鐘を鳴らさせないのか。

 

 兵士の銃を奪うのか。

 

 群衆の棍棒を全部へし折るのか。

 

 どれか一つを止めたところで、すでに臨界点に達した別の場所から、同じ熱量の怒りが流れ込んでくるだけだ。

 

 昨日までは、俺は安全な場所から未来の歴史を知っているだけだった。

 

 だが明日からは、その知っている未来の絶望的な濁流を、俺自身の手で止められるかどうかを試されることになる。

 

 クリストファー・サイダーの死は、すでにこの街の消えない旗印となった。

 

 ボストンは、もう次の致命的な衝突へ向かって、不可逆の歩みを進めてしまっていた。

 

 明日は、三月五日だった。

 




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