真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第15話 真祖吸血鬼、運命の鎖から一人だけ奪い返す

 一七七〇年三月五日、月曜日。

 

 まだ夜明け前の冷たい闇が支配する、ヴァレンタイン衛生用品商会の仮出張所。

 

 分厚いマホガニーの机の上には、ボストンの市街地を詳細に描いた大きな地図が広げられていた。

 

 キング・ストリート。

 

 港のすぐそばにある税関施設。

 

 そこから少し離れたメイン・ガード。

 

 植民地議会が開かれるタウン・ハウス。

 

 反英派が集まりやすい酒場。

 

 教会の鐘楼。

 

 兵営。

 

 入り組んだ路地。

 

 地図上には、赤、黒、青の小さな木駒が無数に置かれている。

 

 赤い印は、英国軍の兵士たち。

 

 黒い印は、不満を抱えた市民や職人が集まる場所。

 

 そして青い印は、今日のためだけに俺が手配した、医師、担架、荷車、清潔な布を配置した救護の待機所だ。

 

「事件は今夜起きる。場所はキング・ストリート。死者は五人」

 

 瞬き一つせず地図を睨みつける俺の背後で、ギデオンが腕を組んで低い声を落とした。

 

「……原因は何だ。誰が最初の引き金を引く?」

 

「分からない」

 

 俺の即答に、闇に溶け込むように立っていたアーサーが、怪訝そうに身を乗り出した。

 

「未来の記録には、その詳細な経緯が書かれていないのですか?」

 

「歩哨と市民の口論から群衆が集まって、混乱の中で兵士が発砲した。大枠の筋書きは書かれてる。でも、最初に誰がどんな言葉で挑発したか、何時何分に誰がどこから現れたか、誰が最初に手を出したかまでは、資料ごとに証言が違っててバラバラなんだよ」

 

「ならば、お前が知っているのは事件そのものではなく、事件が終わった後に都合よく整理された物語のあらすじにすぎないということだな」

 

 ギデオンの冷徹な指摘に、俺は両手で頭を抱え込んだ。

 

「そうなんだよ! 未来の歴史書には『一七七〇年三月五日、ボストン虐殺事件』って太字で書かれてる。でも、具体的に何をどう止めればその悲劇が消えるのかっていう、肝心の仕様書がどこにもないんだ!」

 

 歩哨を別の兵士に交代させれば回避できるのか。

 

 街の鐘の緒をすべて切ってしまえばいいのか。

 

 日没と同時にすべての酒場を強制的に閉めさせればいいのか。

 

 キング・ストリートへ通じる道を物理的に封鎖すればいいのか。

 

 だが、そのどれを実行する法的な権限も、俺にはない。

 

 軍隊の配置を変える命令権もなければ、市民を家の中に監禁する権利もない。

 

「未来で人が死ぬから」と喚いたところで、証拠がなければただの狂人扱いされるだけだ。

 

「それでも、今回は待たない。起きてから後悔するのは、もうたくさんだ」

 

 俺は地図の青い駒を指先で弾いた。

 

「何が引き金になるか分からないなら、火種になりそうなものを全部潰す。それでも起きてしまったら、起きた瞬間に全部拾い上げる」

 

 俺は昨夜から一睡もせずに構築した配置を、二人に再確認する。

 

 アーサーには、キング・ストリート周辺の暗がりに潜み、物理的な異常を監視してもらう。

 

 ギデオンは表の代理人として、町の有力者や治安判事への連絡役に回る。

 

 商会が雇っている連絡係たちは、メイン・ガード、鐘楼、税関周辺の主要な交差点に散らせる。

 

 担架と荷車は、キング・ストリートへすぐに駆けつけられる二か所に隠して待機。

 

 清潔な布、止血用の軟膏、傷口を洗うための湯を準備しておく手配も済ませた。

 

 さらに、顔見知りの町医者数名には、

 

「今夜、港の労働者と兵士の間で、かつてない規模の喧嘩が起きる恐れがある。すぐに動けるようにしておいてくれ」

 

 と金を握らせてある。

 

 軍の補給将校にも、

 

「市民との間で組織的な衝突が起きる可能性が高い」

 

 と、あえて匿名の手紙で警告を出しておいた。

 

 アーサーが、僅かに目を細めた。

 

「卿。それは事件の発生を根絶するのではなく、事件が起きてしまった際の被害を減らすための事後対応の準備ですか」

 

「両方やるんだよ。止められるものは全力で止める。でも、どうしても止められなかった時の受け皿も張っておく」

 

「ずいぶんと弱気だな。人知を超える力を持つお前らしくもない」

 

 ギデオンの言葉に、俺は手元の羊皮紙を強く握り締めた。

 

「サイダー少年の時は、止められると思うより先に終わってた。今度は、現場に間に合ったのに助ける準備を何もしてなかったなんて、絶対に言いたくないんだ」

 

 夜が明け、俺は町と軍の双方の責任者たちへ、ギデオンを通じて警告を発した。

 

 町の治安官へは、

 

「ロープ製造所の乱闘の報復が今夜行われる可能性が高い。キング・ストリート周辺の夜間巡回を増やすべきだ」

 

 と。

 

 軍側へは、

 

「非番の兵士と市民の間で報復の噂がある。歩哨へはどんな挑発にも乗らないよう厳命し、予備兵の出動は極めて慎重にすべきだ」

 

 と。

 

 結果から言えば、どちらも俺の警告を完全に無視したわけではなかった。

 

 だが、どちらも歴史を変えるほど大きな決断は下さなかった。

 

 町側の治安官は渋い顔で言った。

 

「最近は毎日のように、同じような血生臭い噂が流れている。いちいち真に受けて特別警備を敷けば、それ自体が市民を刺激して暴動の引き金になりかねん」

 

 軍側の士官は鼻で笑った。

 

「我々の兵士は厳格な規律に従っている。騒ぎを起こしているのは常に市民の側だ。警備を弱めれば、王の税関が襲われるだろう」

 

「……どっちも、全く間違ってないから反論しづらい」

 

 出張所の窓から外を眺めながら、俺は呻いた。

 

「警備を増やしても、市民を刺激すると怒られる。減らしても、防衛線を放棄したと軍内部で咎められる。結果として何もしなくても事件が起きる。クソみたいな仕組みだ」

 

「だからこそ、誰も責任を負う決断などしたがらんのだ」

 

 ギデオンの冷たい言葉が、現実を的確に射抜いていた。

 

 三月五日の昼間。

 

 ボストンの街は、驚くほど普通に動いていた。

 

 どんよりとした雲の下、港では荷揚げの作業員が重い樽を転がし、商人は帳簿の数字を数え、職人は木を削り、子供たちは凍った路地で追いかけっこをしている。

 

 兵士たちは赤い軍服を着て、決められた時間の巡回をこなしている。

 

 市場ではパンが売られ、パン屋の主人が寒さに手をこすり合わせている。

 

 少し離れた場所では、ジョン・アダムズが事務所で依頼人の法律相談に乗り、ジョン・ハンコックが自らの商館で商談をまとめているだろう。

 

 サミュエル・アダムズは、いつもの酒場の奥で反英の会合を開いているはずだ。

 

 ボストン中の誰もが、今日という日が平凡に終わることを疑っていない。

 

 俺だけが、今日の夜、この街の冷たい石畳の上で五人の人間が死ぬことを知っている。

 

 窓の下を通り過ぎていく労働者たちを見るたびに、俺の心臓のない胸が嫌な音を立てる。

 

 あの男ではないか。

 

 あの男が今夜、氷を投げるのではないか。

 

 あの赤い軍服の兵士が、最初の引き金を引くのか。

 

 あの笑いながら走っている子供が、夜に鐘を鳴らすのか。

 

 クリスパス・アタックス。

 

 サミュエル・グレイ。

 

 ジェームズ・コールドウェル。

 

 サミュエル・マーヴェリック。

 

 パトリック・カー。

 

 俺の脳裏には、未来の資料に刻まれた五人の犠牲者の名前が焼きついている。

 

 死ぬ場所は、キング・ストリート。

 

 だが、その五人が今現在、この街のどこで何をしているのかは分からない。

 

「……名前を知っていても、顔が分からなきゃ探し出して保護することもできない。仮に顔が分かっても、今夜キング・ストリートへ向かう彼らの動機まで消し去ることはできない」

 

 俺が呟くと、影からアーサーが問いかけてきた。

 

「手当たり次第にその名前を呼んで探し出し、無理やりにでも軟禁しますか?」

 

「『あなたは未来で死ぬから、今夜は外に出るな』って? 理由を聞かれても答えられないし、仮にその五人を強引に閉じ込めたとしても、別の無名の誰かが同じ場所に立って撃たれるだけかもしれない」

 

 必要なのは、配役の入れ替えではない。

 

 発砲という現象そのものを防ぐこと。

 

 あるいは、撃たれた全員の命を物理的に救い出すことだ。

 

 夕方になり、日が沈み始めると、俺の構築した監視網に小さな異常が引っかかり始めた。

 

 酒場から酔った兵士が千鳥足で出てくる。

 

 路地裏で、ロープ製造所の乱闘の話を蒸し返して息巻く市民たちの声。

 

 通りを歩く赤い軍服を見て、雪玉を握り締める若者。

 

 逆に、市民を肩で小突いて挑発する兵士。

 

 しかし、そのどれもが決定的な事件へ直結するようには見えなかった。

 

 俺の連絡係たちが、息を切らして仮出張所へ次々と駆け込んでくる。

 

「旦那! 港で非番の兵士と船員が言い争ってます!」

 

「酒場で赤服が絡まれて殴られました!」

 

「北側の通りで、少年たちが歩哨へ雪と氷を投げて挑発してます!」

 

「ロープ職人が数人、太い棍棒を持って広場の方へ向かっています!」

 

 報告を受けるたび、俺は即座に人員を動かした。

 

 一件目は俺自身が駆けつけて、強制的に引き離す。

 

 二件目はギデオンが酒場の主人に金を握らせ、兵士を裏口から逃がす。

 

 三件目はアーサーが暗闇から威圧感を放ち、少年たちを散らす。

 

 四件目は、商会と付き合いのある地元の親方を通じて、職人たちを説得して家へ帰らせる。

 

 夕刻から夜にかけての数時間、俺たちはモグラ叩きのように、大小いくつもの衝突の芽を執念深く摘み取っていった。

 

「止めてる。今度は、一つ残らずちゃんと止めてるぞ」

 

 冷たい息を吐きながら俺が言うと、地図の上で報告をまとめていたギデオンが、疲労の滲む声で言った。

 

「街全体が、極限まで乾燥した火薬庫だ。お前が火種を一つ踏み消すたびに、すぐ隣の路地で新しい火花が飛んでいる」

 

「なら、その火花も全部消す」

 

「お前一人でか」

 

「一人じゃない。だからこうして仕組みを作ったんだろ」

 

 それでも、連絡係の走る足よりも、街中に鬱積した怒りの伝播速度の方が、ほんの少しだけ速かった。

 

 夜が深まる。

 

 キング・ストリート。

 

 税関施設の前。

 

 そこには、第二十九連隊の歩哨ヒュー・ホワイトが、マスケット銃を抱えて寒さに耐えながら一人で立っていた。

 

 未来の資料によれば、彼こそが事件の発端に関わる歩哨だ。

 

 しかし、この時点のホワイトは誰を撃つわけでも、誰を殴るわけでもない。

 

 ただ軍の命令に従って、冷たい風の中で勤務しているだけの一人の若い兵士にすぎなかった。

 

 俺はホワイトに近づき、声をかけた。

 

「今夜は、市民から何を言われても絶対に挑発に乗らない方がいい」

 

 ホワイトは警戒心を露わにして俺を睨んだ。

 

「商人が、王の軍隊の軍務へ口を出すのか」

 

「ただの忠告だよ。街全体の空気が、お前たちを殺そうとするくらい悪い」

 

「我々は上陸したその日から、毎日市民から罵られている」

 

「今日は、特別に悪いんだ」

 

 ホワイトは鼻で笑った。

 

「俺は上官の命令どおり、この税関の前に歩哨として立つだけだ」

 

 その言葉は、軍人として完璧に正しい。

 

 正しいからこそ、俺には彼をそこから無理やり引き剥がすことはできなかった。

 

 少し離れた暗がりから監視を続けていると、一人の若い職人見習いが税関の前を通りかかり、英国軍士官の支払いについて侮辱的な言葉を大声で放った。

 

 ホワイトがそれに反応し、声を荒らげる。

 

 来た。

 

 俺は、二人が本格的な言い争いから物理的な衝突へ移行する前に、人間の目には認識できない速度で二人の間に割って入った。

 

「はい、そこまで。君、今夜はもう家に帰れ」

 

 若者は突然現れた俺に驚きつつも、反発した。

 

「何だよ! 俺は事実を言ってただけだろ!」

 

「この小僧が、王の士官を泥棒呼ばわりしたんだ!」

 

 ホワイトが銃を握り直す。

 

「口で侮辱されたくらいで骨は折れないだろ。今日は見逃してやってくれ」

 

 ホワイトは不満そうに舌打ちをしたが、俺が軍へ石鹸を大量に納入している商人であることを知っていたため、渋々銃を下ろした。

 

 若者も、騒ぎを聞きつけた仲間に腕を引かれ、その場を去っていった。

 

 事件の発端になるはずだった口論が、一度は完全に消滅した。

 

 俺は安堵の息を吐き出した。

 

「……止めたぞ」

 

 影から現れたアーサーが問う。

 

「これで、未来が変わったのでしょうか」

 

「分からない。でも、このまま何もなければ――」

 

 その直後だった。

 

 数ブロック離れた別の通りから、怒号と何かが割れる音が響いた。

 

「赤服に殴られた!」

 

 そう叫ぶ少年の声が夜の街に響き渡り、別の若者が何かを叫びながら教会の鐘楼へ向かって駆けていくのが見えた。

 

 俺が最初の口論を強引に止めても、ロープ製造所の乱闘から燻り続けていた街の怒りは、全く別の接点からいとも簡単に噴き出したのだ。

 

「……違う場所から来た」

 

 俺が呆然と呟くと、ギデオンが皮肉な笑みを浮かべた。

 

「火種が一つしかないとでも思っていたのか」

 

「火事じゃない! 鐘を鳴らすな!」

 

 俺は全速力で鐘楼へと走った。

 

 しかし、俺が到着する直前、最初の鐘が、カーン、と重く冷たい音を立てて夜空に響いてしまった。

 

 遅れて鐘楼へ飛び込んだアーサーが、続けて鐘の緒を引こうとしていた男を背後から気絶させ、連打は防いだ。

 

 歴史上、多くの人々を狂乱の渦へ巻き込んだ鐘の連打は阻止した。

 

 それでも、あの一回だけの不吉な音が、街の空気を震わせてしまった。

 

 さらに路上では、人から人へ、無責任で熱狂的な伝言が広がっていた。

 

「赤服と市民がやり合ってるぞ!」

 

「場所はどこだ!」

 

「キング・ストリートの税関前だ!」

 

 酒場の扉が乱暴に開かれ、酔客が表へ飛び出す。

 

 家の窓が開き、火事だと思った市民が革のバケツを持って現れる。

 

 ロープ製造所乱闘の報復の時が来たと確信した職人たちが、太い棍棒を握り締めて集まってくる。

 

「兵士が市民を殺したらしいぞ!」

 

 という、根も葉もない誤報まで風に乗って広がる。

 

 鐘を止めても、群衆はうねるように形成されていく。

 

「鐘を止めたのに……」

 

「人間の口の数は、鐘より多いからな」

 

 ギデオンの言葉どおり、キング・ストリートにはあっという間に人が溢れ始めていた。

 

 税関の前に立つ歩哨ホワイトの周囲に、少年や若者たちが集まり始める。

 

 最初は十人ほど。

 

 やがて二十人。

 

 三十人。

 

 五十人。

 

「赤服の犬め!」

 

「本国へ帰れ!」

 

 罵声とともに、雪玉が飛ぶ。

 

 凍った氷の塊が飛ぶ。

 

 足元の小石が投げられる。

 

 棍棒が銃身を叩く。

 

 集まったすべての人間が武器を持っているわけではない。

 

 野次馬もいれば、火事だと思って手伝いに来ただけの善良な市民もいる。

 

 兵士を挑発する若者もいれば、

 

「もう家に帰れ!」

 

 と騒ぎを鎮めようと叫ぶ大人もいる。

 

 異なる目的と感情を持った人間たちが、一つの巨大な群衆という生き物に混ざり合っていく。

 

 ホワイトは恐怖に顔を引きつらせ、税関施設の階段の上へと後退していく。

 

 俺は群衆の前に飛び出した。

 

「みんな帰れ! 今夜ここにいても、誰も得しない! 怪我人が出る前にお開きだ!」

 

 知名度のあるヴァレンタイン商会の主人である俺の声に、一部の市民はハッとして立ち止まった。

 

 だが、群衆の奥から悪意に満ちた声が飛んだ。

 

「軍に石鹸を売ってる商人が、赤服を守ろうとしてるぞ!」

 

「占領軍の犬め!」

 

 俺が介入したこと自体が、反英派の熱狂の中では軍への加担と受け取られたのだ。

 

 飛んできた泥や雪玉が、俺の服を汚す。

 

 俺は一切避けなかった。

 

「俺を殴りたいなら、明日いくらでも殴らせてやる! でも今は帰れ!」

 

 俺の剣幕に押され、数人がその場から立ち去る。

 

 しかし、別の通りから、その倍以上の新しい人間が濁流のように流れ込んでくる。

 

 ホワイトは、自分一人ではこの群衆の暴力を持ちこたえられないと判断した。

 

 彼は背後の税関の重い扉を叩き、必死の形相で救援を求めた。

 

「待て」

 

 俺はホワイトを止めようとした。

 

「これ以上、武装した兵士が増えたら、群衆はさらに興奮する。お前は税関の中へ入れ!」

 

「では、俺一人でこの暴徒どもに殺されろと言うのか!」

 

 ホワイトが血走った目で叫ぶ。

 

 俺は答えられなかった。

 

 彼の恐怖は、被害妄想ではない。

 

 リチャードソン邸の事件では、群衆は実際に家へ突入し、彼を吊るそうとしたのだ。

 

 ここで俺が救援を止めれば、ホワイトという一人の人間を、怒り狂う群衆の暴力へ差し出すことになる。

 

 それはできない。

 

 やがて、少し離れたメイン・ガードの方向から、トーマス・プレストン大尉に率いられた伍長と数名の兵士たちが、銃剣を着けたマスケット銃を構え、雪を蹴立てて駆けつけてきた。

 

 その兵士の列の中に、トマスの顔があった。

 

 市民と日雇いの仕事を巡って泥臭く殴り合ってきた彼が、今度は正規の軍務として、冷たい鉄の銃を構えている。

 

 トマスは俺の姿を見て、驚愕に目を見開いた。

 

「なぜ、あなたがここにいる」

 

「それはこっちの台詞だよ」

 

「歩哨の救援命令が出た」

 

「銃を下ろしてくれ、トマス」

 

「……命令なしでは、下ろせない」

 

 彼の声には、軍人としての義務と、群衆への怯えが入り混じっていた。

 

 プレストン大尉と兵士たちは、税関の前で半円を描くように配置された。

 

 背後は壁。

 

 前方と左右は、完全に群衆に包囲されている。

 

 群衆の数は、すでに数百人に膨れ上がっていた。

 

 雪や氷が、雨のように兵士たちへ降り注ぐ。

 

 棍棒が、威嚇するように空を切る。

 

「撃て!」

 

「撃てるものなら撃ってみろ、この腰抜け!」

 

「赤服を叩き出せ!」

 

「お前ら、早く家へ帰れ!」

 

「火事はどこだ!」

 

 無数の声が、キング・ストリートに反響して渦を巻く。

 

 誰が兵士へ「撃て」と挑発したのか。

 

 誰が「撃つな」と警告したのか。

 

 兵士が隣の仲間へ叫んだ声なのか。

 

 大尉の命令なのか。

 

 すべてが混ざり合い、一つの巨大な騒音と化していた。

 

 俺は、未来の資料で何度も読んだ、

 

『誰が最初にファイアと命じたのか、永遠に確定しない』

 

 という一文の本当の意味を、今、この狂乱の現場で肌で理解した。

 

 こんなの、誰の声か聞き分けられるわけがない。

 

 俺はプレストン大尉へ詰め寄った。

 

「大尉! 兵士を下げてください。このままでは必ず発砲が起きる!」

 

 プレストンは額に汗を滲ませながら答えた。

 

「王の歩哨を見捨てろと言うのか!」

 

「税関の扉を開けて、全員中へ退避させるんだ!」

 

「この暴徒どもに背中を向けて退けというのか! 一斉に襲いかかってくるぞ!」

 

「俺が間に立つ! 俺が壁になる!」

 

「あなたは軍人ではない!」

 

「だからこそ、市民も俺の背中越しには、すぐには襲いかからない!」

 

 プレストンは迷っていた。

 

 兵士たちも、極限の恐怖と疲労で銃を握る手が震えている。

 

 群衆も、いつ破裂するか分からない緊張の中で叫び続けている。

 

 ここで俺の提案が通りかけ、プレストンが兵士へ後退を命じようと息を吸い込んだ、その瞬間。

 

 群衆の中から飛んできた巨大な氷の塊か、あるいは投げられた棍棒が、兵士ヒュー・モンゴメリーの身体と銃に激しく命中した。

 

「ぐぁっ!」

 

 モンゴメリーは体勢を崩し、雪と氷で滑る石畳の上に倒れ込んだ。

 

 手からマスケット銃が外れかける。

 

 群衆から、嘲笑とも歓声ともつかない声が上がる。

 

 倒れたモンゴメリーの脳裏に、次は自分が群衆に踏み殺されるという純粋な恐怖が走ったのだろう。

 

 彼は雪まみれになりながら跳ね起き、銃を構えた。

 

 俺の視界が、極彩色に歪む。

 

 真祖吸血鬼の力が、全開に跳ね上がる。

 

 俺は一歩でモンゴメリーの懐へ踏み込み、彼の構えた銃身を真上へと弾き上げた。

 

 轟音。

 

 最初の銃弾が、夜空の冷たい雲へ向かって飛んでいく。

 

 少なくとも群衆へ向けられるはずだった最初の一発を、俺は空へ逸らした。

 

 止めた。

 

 だが、銃声そのものはキング・ストリートの夜空に響き渡ってしまった。

 

 極限の緊張状態にあった他の兵士たちには、モンゴメリーの銃身が上を向いていたことなど見えていない。

 

 彼らには、

 

 発砲命令が出た。

 

 仲間が撃ち始めた。

 

 群衆が襲いかかってきたから撃つしかない。

 

 そうとしか認識できなかった。

 

 隣の兵士が、引き金を引いた。

 

 そこから先は、地獄のような数秒間だった。

 

 二発目。

 

 三発目。

 

 四発目。

 

 複数の銃声が、ほとんど重なるように響き渡る。

 

 俺は群衆の最前列にいた少年の襟首を掴み、雪の中へ突き飛ばす。

 

 別の銃口を下へ叩き落とす。

 

 倒れた市民が後続に踏み潰されないよう、強引に引きずり出す。

 

 興奮して兵士へ棍棒で襲いかかろうとした職人の腕を掴み、その棍棒を握り潰す。

 

 さらに銃声。

 

 硝煙の向こうで、大柄なクリスパス・アタックスが胸を撃たれ、地面へ崩れ落ちた。

 

 サミュエル・グレイの身体が跳ねる。

 

 ジェームズ・コールドウェルが背中から倒れる。

 

 少し離れた場所では、若いサミュエル・マーヴェリックと、革製半ズボン職人のパトリック・カーも血を流していた。

 

 すべての銃撃が、ほんの数秒の間に連鎖した。

 

 俺の異常な体感時間の中では、それは永遠のように引き延ばされて感じられた。

 

 それでも俺の身体は一つしかない。

 

 全員の銃口へ同時に手を伸ばし、すべての弾丸を空へ逸らすことなど不可能だった。

 

 硝煙の向こうで、俺が人間の目には追えない赤い残像となって動き回るのを見た誰かが、

 

「何だ、今のは! 悪魔か!」

 

 と叫ぶ。

 

 だが、悲鳴と混乱がすべてを掻き消していく。

 

 俺は最後に、兵士たちの銃列の真正面へ立ち塞がり、両腕を大きく広げた。

 

「もう撃つなァァァッ!!」

 

 その声には、意図せず真祖としての絶対的な威圧が混じっていた。

 

 兵士たちの身体が、まるで目に見えない巨大な手に押さえつけられたように硬直する。

 

 プレストン大尉も、群衆も、一瞬だけ時が止まったように動きを止めた。

 

 追加の発砲が、ぴたりと止む。

 

 俺が介入していなければ、再装填が完了し、さらに多くの弾丸が群衆へ撃ち込まれていたかもしれない。

 

 だが、俺の足元の雪は、すでに複数の人間の真っ赤な血で染まっていた。

 

「兵士を殺せ!」

 

 我に返った市民の一部が、殺意を剥き出しにして前へ出ようとする。

 

 兵士側も、撃ち尽くした銃の先端にある銃剣を前へ突き出し、防御の構えを取る。

 

 一斉射撃の後に、今度は群衆の棍棒と兵士の銃剣による、血みどろの直接的な殺し合いが始まろうとしていた。

 

 俺は市民側へと振り返り、血走った目で怒鳴りつけた。

 

「下がれ! これ以上前へ出たら、今度は銃弾じゃなくて銃剣で腹を割かれて死ぬぞ!」

 

「赤服が俺たちの仲間を殺したんだぞ!」

 

「だからって、今ここで全員死んでどうするんだ! 怪我人を運ぶのが先だろ!」

 

 影から飛び出したアーサーが、群衆の中で刃物を振り回そうとしていた男の手首を打ち据え、無力化する。

 

 ギデオンが町の有力者たちを前線へ引っ張り出し、

 

「負傷者を運べ! これ以上兵士と戦うな!」

 

 と大声で指揮を執らせる。

 

 プレストン大尉も、硬直から解けた兵士たちへ、

 

「撃つな! 再装填するな!」

 

 と必死に命じた。

 

 俺は、軍と市民の境界線に立ち続けた。

 

 両方から裏切り者として憎まれる位置。

 

 両方から背中を刺される可能性がある位置。

 

 それでも、一歩も退かなかった。

 

 やがて群衆は、倒れた人々を運ぶために、少しずつ、じりじりと後退を始めた。

 

 事件は、さらなる市街戦へと拡大することなく、強引に終息させられた。

 

 硝煙が薄れ、冷たい風が血の匂いを運んでくる。

 

 雪の上に広がる、黒々とした温かい血溜まり。

 

 俺の真祖としての吸血本能が、一斉に警鐘を鳴らし、甘い誘惑を囁き始めた。

 

 大量の血。

 

 恐怖で脈打つ心臓。

 

 極上の食事。

 

 しかし、サイダー少年の時に一度本能に負けかけた俺は、奥歯を噛み砕くほどの力でその衝動を完全に封じ込めた。

 

 俺は、地面に倒れた人々の心音だけに全神経を集中させた。

 

 クリスパス・アタックス。

 

 胸に二発。

 

 一発は右肺と肝臓を大きく破壊している。

 

 心音は、すでに完全に止まっていた。

 

 助けられない。

 

 サミュエル・グレイ。

 

 頭部への銃撃。

 

 即死。

 

 助けられない。

 

 ジェームズ・コールドウェル。

 

 背中に二発。

 

 俺が手を伸ばした時には、最後の細い心音が消えようとしていた。

 

 助けられない。

 

「……駄目だ。全部、急所だ」

 

 俺の手は血にまみれ、震えていた。

 

 次。

 

 サミュエル・マーヴェリック。

 

 十七歳の若者。

 

 弾丸が腹部を貫き、背中側まで達している。

 

 心音はある。

 

 だが損傷が深く、口から血の泡を吹き、呼吸が急速に弱まっていた。

 

 次。

 

 パトリック・カー。

 

 三十歳の革製半ズボン職人。

 

 銃弾は腰の近くから入り、脇腹へ抜けている。

 

 出血は激しい。

 

 それでも心音は、まだ比較的強く保たれていた。

 

 今すぐ死ぬ状態ではない。

 

 だが、未来の歴史では死ぬ。

 

 俺は、未来の資料に刻まれていた五人の名前と、目の前の血まみれの身体を、ここで初めて明確に結びつけた。

 

「この人が……パトリック・カー」

 

 俺は立ち上がり、周囲に叫んだ。

 

「担架と荷車を回せ! 清潔な布と湯を持ってこい! 町医者を全員起こせ!」

 

 商会が待機させていた人員が、一斉に動き出す。

 

「所属や身分を見るな! 心音が弱い者から運べ!」

 

 俺の指示に、市民の一人が反発した。

 

「赤服の怪我人まで俺たちに治療させる気か!」

 

「怪我人に軍服も政治思想もあるか! 文句がある奴は自分の手で運べ! 動けるなら黙って働け!」

 

 俺は軍の士官へも怒鳴りつけた。

 

「軍医を寄越せ! 市民の医者だけじゃ手が足りない!」

 

 この瞬間、俺は歴史を観測する傍観者ではなく、完全に現場の救命責任者と化していた。

 

 その夜のうちに、三人の死亡が公式に確認された。

 

 クリスパス・アタックス。

 

 サミュエル・グレイ。

 

 ジェームズ・コールドウェル。

 

 俺は仮出張所の暗い部屋で、血まみれになった自分の手をじっと見つめていた。

 

 未来資料に記されていた、事件当夜の犠牲者たちと同じ名前だった。

 

「卿」

 

 アーサーが静かに声をかけてきた。

 

「……三人だ」

 

「はい」

 

「俺は、最初の一発を夜空へ逸らしたんだ」

 

「見ていました」

 

「他にも何発か銃口を叩いた。何人かは突き飛ばして助けた。再装填も力ずくで止めた」

 

「ええ」

 

「なのに、未来資料に書かれていた三人が死んだ」

 

 俺には、自分の行動が本当に何かを変えたのか、分からなくなっていた。

 

 俺が逸らした弾丸は、本来は誰かに当たるはずだったのか。

 

 それとも、未来の歴史でも誰にも当たらなかった外れ弾だったのか。

 

 俺が突き飛ばして救った少年は、本来の歴史でも無傷で逃げ延びていたのではないか。

 

 俺の介入という異物まで含めて、未来のボストン虐殺事件は最初から成立していたのではないか。

 

 確かめる方法は、どこにもない。

 

 翌、三月六日の朝。

 

 徹夜で処置を続けていたサミュエル・マーヴェリックの容態が急変した。

 

 清潔な布で圧迫する。

 

 身体を温める。

 

 止血を続ける。

 

 必死に呼吸を助ける。

 

 それでも、内部の臓器の損傷が大きすぎた。

 

「待て。まだだ。まだ行くな」

 

 俺は彼の胸を押し、真祖の魔力を僅かに流し込んで、止まりかける心臓を動かそうとした。

 

 しかし、サイダー少年の時と同じ、絶望的な音がした。

 

 心臓が、完全に停止した。

 

 四人目。

 

 未来の歴史と同じ名前。

 

 俺は寝台の横で、膝から崩れ落ちた。

 

「結局、俺は何も変えられてない」

 

「まだ、すべてが終わったわけではありません」

 

 アーサーが慰めるように言う。

 

「五人目も死ぬ。歴史では、そうなってるんだ」

 

 隣の部屋からは、パトリック・カーが苦しみながら熱にうなされる呼吸音が聞こえていた。

 

 カーはすぐには死なない。

 

 銃撃から一日。

 

 二日。

 

 三日。

 

 熱が出る。

 

 傷口が赤く腫れ上がる。

 

 呼吸が浅くなる。

 

 未来の歴史では、彼は三月十四日に、傷がもとで死亡する。

 

 俺には、これから彼に何が起こるのかが痛いほど分かっていた。

 

 急性の出血は乗り切った。

 

 だが、傷口へ入り込んだ服の繊維や泥、体内に残った汚れが原因となり、致命的な感染と化膿が始まる。

 

 当時の医師たちの技術では、それを完全に防ぐことは難しい。

 

「……この人は、今すぐ死ぬ傷じゃない」

 

 俺が呟くと、ギデオンが静かに言った。

 

「だが、未来の記録では死ぬのだろう」

 

「だからこそ、ここから先が俺と歴史の勝負なんだ」

 

 俺は決断した。

 

 サイダーの時には使えなかった。

 

 内部が破壊されすぎており、俺には外科手術の知識も設備もなかったからだ。

 

 マーヴェリックにも間に合わなかった。

 

 だが、カーにはまだ時間がある。

 

 俺は万能トランクの奥底から、表には絶対に出せない未来の医療用品を取り出した。

 

 無菌の包帯。

 

 傷口を洗浄するための生理食塩水。

 

 消毒薬。

 

 抗生物質。

 

 体温と脈拍を確認するための小型器具。

 

 現代的な大病院の無菌室もなければ、傷ついた臓器を再建する神の手もない。

 

 傷の処置そのものは、ジョン・ジェフリーズ医師をはじめとする現地の医師たちが行う。

 

 俺にできるのは、本来なら感染と衰弱で死ぬ人間が、自分の力で回復するまで、徹底した洗浄、無菌管理、投薬、保温、栄養で支え続けることだけだ。

 

 俺は治療にあたるジェフリーズ医師たちに、すべての正体を明かすことはしなかった。

 

「ヴァレンタイン商会が極秘に研究している、傷の腐敗を抑える特別な薬と清浄な布だ。使わせてほしい」

 

 ギデオンが眉をひそめた。

 

「一人の人間に、そこまでするのか。歴史を変えれば、どんな副作用があるか分からんぞ」

 

「一人だからやるんだよ。四人死んで、残った一人だからやるんだ」

 

「他の負傷者はどうする」

 

「同じように診てるし、支援もしてる。でも、この人だけは未来で死ぬと明確に分かってるんだ。見殺しにはできない」

 

「歴史へ復讐するつもりか」

 

「そうかもしれない」

 

 そこからの日々は、俺にとって狂気のような時間だった。

 

 街は政治的に激動していた。

 

 事件は血の虐殺として新聞で大きく報じられ、プレストン大尉と兵士たちは逮捕された。

 

 市民の町民集会が開かれ、総督に対して英国軍の市内からの撤退が要求され、軍は市外へ移されていく。

 

 反英派は事件を描いた版画を準備し、葬儀を整え、誰が「撃て」と命じたかを巡る証言集めに奔走している。

 

 だが俺は、それらの政治的対応をギデオンへ任せ、パトリック・カーの寝台の横からほとんど動かなかった。

 

 朝。

 

 昼。

 

 夜。

 

 真祖だから、眠らなくても耐えられる。

 

 薬の量を慎重に調整し、傷を徹底的に清潔に保つ。

 

 汚れた包帯を即座に交換する。

 

 身体を冷やさないよう保温する。

 

 飲み込めるものを少量ずつ与え、衰弱を防ぐ。

 

 医師が当時の慣習に従い、

 

「熱を引かせるために瀉血を行うべきではないか」

 

 と提案した時には、俺は本気で怒鳴りつけた。

 

「この人はもう、弾丸で血を失いすぎている! これ以上抜いたら死ぬ!」

 

「しかし、熱を鎮めるには悪い血を――」

 

「熱の原因は血が多すぎるからじゃない! 傷の中で腐敗が起きてるからだ!」

 

 根拠を完全に説明することはできなかった。

 

 だが、傷口を清潔に保ち、薬を使うことで、カーの容態が少しずつ安定していく。

 

 その事実を前に、医師たちも俺の強引な方針へ従い始めた。

 

 事件から数日後。

 

 反英派の新聞には、当初、

 

『三人死亡。複数の重傷者』

 

 と書かれた。

 

 翌日には、

 

『四人死亡』

 

 へと変わった。

 

 俺のタブレットに残っている未来の資料には、今も冷酷に、

 

『五人死亡。パトリック・カーは三月十四日、傷がもとで死亡』

 

 と表示されている。

 

 一七七〇年三月十四日。

 

 未来の記録では、今日、パトリック・カーが死ぬ。

 

 俺は朝から、寝台の横でカーの胸の動きを見つめ続けた。

 

 朝。

 

 カーは呼吸している。

 

 昼。

 

 熱は下がりつつある。

 

 夕方。

 

 傷口の腫れは、前日よりも僅かに引いている。

 

 夜。

 

 心音は、まだ止まらない。

 

「運命が、強引に帳尻を合わせに来るかもしれない」

 

 俺が呟くと、アーサーが怪訝な顔をした。

 

「運命が、物理的に人を殺すというのですか」

 

「分からない。ただ、今まで全部、知ってる歴史どおりの結末になったから」

 

 夜が深まる。

 

 三月十四日が終わる。

 

 やがて窓の外の闇が薄れ、三月十五日の朝日が部屋へ差し込んだ。

 

 カーの心音は、まだ力強く続いている。

 

 俺はタブレットの日付と、寝台の男を交互に見た。

 

「……越えた」

 

「何をだ」

 

 ギデオンが問う。

 

「この人が死んだと、未来の歴史に書かれている日を」

 

 アーサーがカーの首元に指を当てる。

 

「生きています」

 

「まだ分からない。今日、容態が急変して死ぬかもしれない」

 

「なら、今日も看ろ」

 

「明日死ぬかもしれない」

 

「明日も看ろ」

 

「その次の日に死ぬかもしれない」

 

「その次の日も看ろ」

 

「いつまで?」

 

「死ななくなるまでだ」

 

 さらに数日後。

 

 パトリック・カーが、はっきりと目を開けた。

 

 意識が戻ったのだ。

 

 彼は自分がどこにいるのか分からない様子で、周囲を見回した。

 

「気分はどうだ?」

 

 俺が声をかけると、カーは掠れた声で答えた。

 

「……最悪だ」

 

「それだけ憎まれ口を叩けるなら、かなり良い状態だ」

 

 カーは、自分が撃たれた夜のことを断片的に覚えていた。

 

 鐘を聞いて外へ出たこと。

 

 群衆についてキング・ストリートへ向かったこと。

 

 兵士へ氷や硬い物が投げられていたこと。

 

 銃声。

 

 焼けつくような痛み。

 

 その後は覚えていないという。

 

「お前、本当に死ぬところだったんだぞ」

 

 俺が言うと、カーは苦笑した。

 

「そうらしいな」

 

「……それだけか?」

 

「生きてるなら、他に何を言えばいい」

 

 カーには、自分が歴史上の五人目の死者になるはずだったことなど、知る由もない。

 

 彼にとっては、重傷を負ったが運よく助かったという、ただそれだけの出来事なのだ。

 

 俺だけが、その運が本来存在しなかったことを知っている。

 

 事件から十分な日数が経過し、街の公式な死者数が確定した。

 

 四人。

 

 クリスパス・アタックス。

 

 サミュエル・グレイ。

 

 ジェームズ・コールドウェル。

 

 サミュエル・マーヴェリック。

 

 パトリック・カーは、重傷者として記録された。

 

 新聞も、四人の犠牲者と書き立てる。

 

 葬儀も四人の棺で行われた。

 

 それでも規模は巨大で、悲しみは深く、街はこれを虐殺と呼んだ。

 

 反英派は事件を象徴化する。

 

 軍隊は撤退を要求される。

 

 プレストン大尉と兵士たちは逮捕される。

 

 やがてジョン・アダムズが、彼らの弁護を引き受けることになる。

 

 五人が四人になっても、独立へと向かう歴史の大きな流れは、ほとんど変わらなかった。

 

「……四人でも、事件は同じ名前で呼ばれて、同じように進んでいくんだな」

 

 俺の呟きに、ギデオンが答える。

 

「死者の数が一人減ったからといって、街の怒りも、これまで積み重なった軍への不満も消えるわけではないからな」

 

「歴史の大きな形は、残った」

 

 俺はタブレットの画面を見た。

 

 そこには今も、五人死亡と表示されている。

 

 だが目の前の新聞には、四人死亡と書かれている。

 

 初めて、未来の資料と現在の歴史が、明確に食い違った。

 

 だが、俺は素直に喜べなかった。

 

 四人の名前が書かれた紙を見つめ、歯を食いしばる。

 

「四人死んだ」

 

「はい」

 

 アーサーが答える。

 

「結局、俺は事件を防げなかった」

 

「はい」

 

「俺は日付も場所も知ってた。準備もした。鐘も止めた。弾も逸らした。それでも四人死んだんだ」

 

「それでも、五人ではありません」

 

 ギデオンの言葉に、俺は顔を上げた。

 

「だから何だよ」

 

「一人、生きている」

 

「四人が死んだんだぞ!」

 

「四人が死んだことを理由に、五人目が生きた価値まで、お前が勝手に消すつもりか」

 

 俺は言葉に詰まった。

 

「お前は歴史全体には勝てなかった。街の怒りも、軍隊の恐怖も、銃撃も止められなかった。だが、一人の運命には勝った」

 

「一人だけだ」

 

「一人も、だ」

 

 アーサーが優しく付け加える。

 

「卿。四人の死を深く悲しむことと、一人の生還を喜ぶことは、決して矛盾しません」

 

「……俺が、喜んでいいのかな」

 

「死者の前で笑えとは言わん。だが、自らの手で救った命を数えることまで拒むな。それは、生き残った者への侮辱だ」

 

 回復したカーは、事件の事情を尋ねられた。

 

 彼は反英派が期待するような、

 

『兵士が、無抵抗の市民を一方的に虐殺した』

 

 という証言だけはしなかった。

 

「群衆の中に、氷や硬い物を投げた者がいた。兵士の銃へ、何かが当たる音を聞いた」

 

 そう正直に語った。

 

 カー自身は、兵士を完全に許すとは言わない。

 

 撃たれて死にかけた怒りはある。

 

 だが、現場に群衆側の暴力もあったことを隠さなかった。

 

 後の兵士たちの裁判では、彼は死に際の言葉を医師へ伝えてもらうのではなく、生きた証人として法廷に立つことになるだろう。

 

 群衆側から氷や硬い物が飛び、兵士たちが現実に恐怖していたという彼の証言は、ジョン・アダムズが兵士たちの正当防衛や、少なくとも計画的な殺人ではなかったことを示す材料になる。

 

 カーが生きても、プレストン大尉と兵士たちの裁判が行われるという歴史の大枠は変わらない。

 

「死ななかったせいで歴史が変わるかと思ったけど、生きたまま同じ事実を証言して、似た結末へ繋がっていくのか」

 

「人間が生き残ったからといって、その人間が見た事実まで変わるわけではないからな」

 

 数週間後。

 

 パトリック・カーが、自分の足で歩けるまでに回復した。

 

 まだ足取りは不安定で、傷の痛みも残っている。

 

 だが、一人で外へ出られる。

 

 俺たちは少し離れた場所から、彼の帰宅を見送った。

 

 家の扉が開き、彼を待っていた家族が転がり出るようにして駆け寄ってくる。

 

 生きて帰ったカーを見て、家族は声を上げて泣いた。

 

 カーは少し照れたように笑い、

 

「ただいま」

 

 と告げ、家族を強く抱き締めた。

 

 近所の者たちは彼を、

 

『虐殺で撃たれたが、奇跡的に助かった男』

 

 として祝福している。

 

 医師たちは、

 

「本人の身体が強かった」

 

「運が良かった」

 

「ヴァレンタイン商会の清潔な布と傷薬が効いたのだろう」

 

 と考えている。

 

 ただ一人、ジョン・ジェフリーズだけは、瀕死だったカーが重い感染を起こさず回復したことへ、医師として強い関心を抱いているようだった。

 

 それが将来、何を引き起こすのかはまだ分からない。

 

 だが今だけは、その小さな火種を考えないことにした。

 

 誰も、カーが本来なら三月十四日に死に、棺に入って帰ってくるはずだったとは知らない。

 

「……ご覧ください、卿」

 

「見てるよ」

 

「あなたが、変えたものです」

 

「俺一人じゃない。医者もいた。看護した人もいた。本人の生きる力があった」

 

「それでも、あなたがいなければ、あの帰宅はなかったのでしょう」

 

 夜。

 

 俺は仮出張所の机で、ノートを開いた。

 

【一七七〇年三月五日・キング・ストリート銃撃事件確認メモ】

 

 ・未来資料上の名称:ボストン虐殺事件。

 

 ・既知の未来:英国兵が群衆へ発砲。死者五人。

 

 ・事前介入結果:複数の喧嘩、歩哨との口論、鐘の連打を阻止。

 

 ・発砲:最初の銃口を空へ逸らし、複数の銃口と再装填を妨害。それでも銃撃は発生。

 

 ・死亡者:

 クリスパス・アタックス。

 サミュエル・グレイ。

 ジェームズ・コールドウェル。

 サミュエル・マーヴェリック。

 

 ・死亡者数:四人。

 

 ・未来資料との明確な相違:未来資料では五人。

 

 ・パトリック・カー:

 革製半ズボン職人。

 腰の近くから脇腹へ抜ける銃創。

 未来資料上では三月十四日に死亡。

 傷口の洗浄、無菌管理、抗生物質、保温、栄養管理、医師による治療によって生存。

 三月十五日の朝を迎えた。

 現在は回復し、家族のもとへ帰宅。

 

 ・歴史全体への影響:

 事件は虐殺と呼ばれた。

 反英派は政治的象徴として利用。

 軍の撤退要求。

 兵士とプレストン大尉の逮捕。

 裁判の発生。

 独立へ向かう政治的流れ。

 いずれも大きく変化せず。

 

 ・カーの生存による変化:

 死に際の証言ではなく、生きた証人として兵士側の恐怖と群衆側の暴力を証言できる。

 裁判の大枠は維持される可能性が高い。

 

 ・確定できないこと:

 俺が歴史を上書きしたのか。

 俺の存在が最初から運命に織り込まれていたのか。

 未来資料の歴史が、俺の介入しなかった別の流れなのか。

 俺が逸らした弾丸や救った人間が、本来どうなるはずだったのか。

 

 ・確定していること:

 未来で死者だった男が、今は生きている。

 四人は死んだ。

 一人は帰った。

 

 最後に、ページの真ん中へ大きく書く。

 

【結論:歴史の大きな流れは変わらなかった。それでも、死ぬはずだった一人は家へ帰った】

 

 夜の闇の中、俺はカーの家の向かいにある屋根の上に座っていた。

 

 窓の向こうには、家族と一緒に温かい食卓を囲むカーの姿がある。

 

 まだ身体が痛むのか、時折顔をしかめる。

 

 それでもパンをちぎり、家族と話し、笑い合っている。

 

 誰も知らない。

 

 新聞にも書かれない。

 

 未来の歴史書にも存在しない。

 

 後世の人間は、パトリック・カーが死んだ歴史しか知らない。

 

 現在のボストンの人々も、彼が死ぬ運命だったとは知らない。

 

 俺だけが知っている。

 

 このありふれた食卓は、本来なら存在しなかった。

 

「……四人死んだ」

 

 背後に立つギデオンが答える。

 

「ああ」

 

「一人しか救えなかった」

 

「ああ」

 

「事件も止められなかった。大きな流れは何も変わってない」

 

「それでも、一人は帰った」

 

 俺は窓を見た。

 

 カーの家族が笑っている。

 

「歴史を変えたのかな、俺」

 

「知らん」

 

「俺がここにいることまで、最初から運命に織り込まれてたのかな」

 

「知らん」

 

「役に立たないな」

 

「だが、あの男が生きていることだけは知っている」

 

 アーサーが静かに言う。

 

「四人の死を悲しんでください。ですが、一人の生還まで悲劇の中へ埋めないでください」

 

「……喜んでいいのかな」

 

「少しくらいは」

 

 ギデオンが腕を組む。

 

「歴史全体を相手にして、一人を奪い返したのだ。真祖の報酬としては小さいが、人間一人分の重さはある」

 

 俺は笑えなかった。

 

 笑えないまま、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 

 窓の向こうで、死ぬはずだった男が家族からパンを受け取っている。

 

 四人は帰らなかった。

 

 その事実は永遠に消えない。

 

 ボストン虐殺の記憶も消えない。

 

 だが、一人だけは帰った。

 

 誰も知らない。

 

 歴史にも記録されない。

 

 それでも、その夜、一つの家庭からは間違いなく葬儀が消えた。

 

 運命という強固な鎖は、壊せなかった。

 

 ただ、その鎖から一人分の輪だけを、真祖吸血鬼が力ずくで引きちぎったのだ。

 




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