真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜 作:パラレル・ゲーマー
一七七〇年三月下旬。
ボストンの街を包む風は、いまだ冬の刺すような冷たさを残していたが、陽光だけは僅かに春の気配を帯び始めていた。
キング・ストリートのあの惨劇から、三週間。
パトリック・カーの命を懸けた治療がようやく峠を越え、俺が久しぶりにヴァレンタイン衛生用品商会の仮出張所で、山積みの帳簿と向き合い始めた頃だった。
バタン、と静かな部屋の扉が開き、ギデオンが戻ってきた。
その手には、折れたり汚れたりしないよう、二枚の分厚い木板に慎重に挟まれた一枚の大きな紙が握られている。
「……街の至る所で、これが売りに出され始めたぞ。印刷が乾くのを待つ間もなく、飛ぶように売れている」
ギデオンが木板を外し、机の上にその紙を広げた。
それは、鮮やかな水色や赤で手彩色された一枚の銅版画だった。
上部には、仰々しい飾り文字で大きくタイトルが刻まれている。
『一七七〇年三月五日、第二十九連隊によってキング・ストリートで行われた血塗られた虐殺』
俺は、その版画を一目見た瞬間、思考のすべてが停止した。
言葉を失い、ただその紙を凝視することしかできなかった。
知っている。
俺は、この絵を死ぬほどよく知っている。
前世の歴史教科書。
博物館のデジタルアーカイブ。
インターネットの歴史解説動画。
ボストン虐殺事件を説明する際、世界中でほぼ必ず出てくる、あまりにも有名なポール・リヴィアの版画が、今、目の前の安っぽい木の机の上に置かれていた。
アーサーが、物陰から足音もなく近づき、その紙を覗き込んだ。
「……卿。それは、あなたが元いた未来の時代にも、形を変えずに残っている記録なのですか?」
「残ってるなんてレベルじゃない。アメリカ独立前史を語る上で、これを見ない年はないっていうくらい、強烈な記号になっちゃってる有名な絵だよ」
俺は版画へそっと手を伸ばしたが、自分の指先が僅かに震えていることに気づいた。
つい三週間前。
俺が血まみれの硝煙の中を駆け回り、人知を超えた速度で銃口を逸らし、倒れた人間の心音を必死に数えていた、あの混沌の夜。
それがすでに綺麗に包装され、値段をつけられた商品として、民衆の前に並べられている。
その事実に、胃の奥が冷たく縮むような奇妙な感覚を覚えた。
「……違う」
俺は版画を指先でなぞりながら、絞り出すように呟いた。
「何がだ。発砲があったことも、人が死んだことも事実だろう」
ギデオンが腕を組み、冷淡な目で俺を見た。
「事実だよ。でも、現場はこんなに綺麗じゃなかった」
俺は版画の右側に描かれた、赤い軍服の英国兵たちを指差した。
絵の中の彼らは、まるで閲兵式でもしているかのように足並みを揃え、ほぼ一直線の見事な銃列を敷き、同じ方向へ整然と銃を構えている。
その背後には、まるで冷酷な悪魔のように剣を高く掲げ、明確な殺意をもって射撃を指揮しているように見える、プレストン大尉の姿があった。
左側には、完全に無抵抗な、哀れな市民たちが描かれている。
何人かが鮮血を流して倒れ、周囲の者はただ恐怖に顔を歪めて逃げ惑うか、倒れた者を悲痛な顔で抱き起こしている。
「兵士たちは、こんなに整然と並んでなんていなかった。雪と泥で足元を滑らせて、群衆に囲まれて、今にも押し潰されるんじゃないかって恐怖で震えてたんだ。市民だって、ただ突っ立って撃たれたわけじゃない。目の前で棍棒を振り回して、凍った氷の塊や石を兵士へ叩きつけてた。プレストンが剣を上げて『ファイア』なんて一斉射撃の命令を下した場面なんて、俺は現場で一瞬たりとも見てないぞ」
「では、これは本国を陥れるための、完全なる虚偽の絵だということですか」
アーサーが短剣の柄に手を当てたまま尋ねる。
俺は、首を横に振った。
「そこが一番厄介なんだよ。四人が撃たれて死んだのは事実だ。英国兵が引き金を引いたのも、市民の血が雪を染めたのも、本当にあったことだ。描かれている個々の要素の多くは、実際に存在した。……でも、その要素の配置の仕方と、描かなかったものによって、現場とはまるで違う事件に見えるよう作られてる」
混沌とした生存競争の爆発が、この一枚の紙の上では、冷酷な国家権力による無抵抗な民衆への一方的な虐殺という、極めて分かりやすい物語へと単純化されていた。
だが、俺の視線は、その構図の歪さよりもさらに下へと吸い寄せられた。
版画の下部に並ぶ、細かな文字の羅列。
そこには、あの夜に殺された者たちの名前が刻まれている。
サミュエル・グレイ。
サミュエル・マーヴェリック。
ジェームズ・コールドウェル。
クリスパス・アタックス。
四人。
何度数えても、そこに並んでいる名前は四つしかなかった。
その下には、事件で負傷した者たちについての短い注記が続いている。
本来の歴史なら六人と記されるはずの負傷者は、この版画では七人。
その中に、小さな文字でこう書かれていた。
『パトリック・カー――重傷を負ったが、現在は回復に向かっている』
俺は、自分の指先をそのカーの名前の上に置いた。
「……版画の死者欄から、カーの名前が消えてる」
「現実の死者は四人なのだから、当然の表記だろう」
アーサーが怪訝そうに首を傾げたが、俺はすぐに万能トランクを開け、中から青白い光を放つタブレット端末を取り出した。
画面を表示し、保存されている未来の史実のボストン虐殺画を開く。
画面の中にある絵。
その下部の人名欄には、五人目の死者として明確に刻まれている。
『パトリック・カー、傷がもとで死亡』
そして負傷者は六人。
机の上の、ざらついた現在の紙には、死者四人、負傷者七人。
画面の中の、冷たいガラスの未来には、死者五人、負傷者六人。
上部の詩も、建物の位置も、赤い軍服の列も、プレストン大尉の掲げる剣の角度も、すべてが気味が悪いほど同じなのに、人間一人の名前だけが、死者の列から負傷者の注記へと移し替えられている。
「これだ……」
俺の喉の奥から、乾いた声が漏れた。
「何がだ」
「ギデオン。これだよ。これが、俺が歴史を変えた、明確な物理的証拠だ」
あの夜、カーが寝台の上で細い呼吸を続け、死ぬはずだった三月十四日を越え、家族のもとへ帰った時、俺たちは確かに一つの勝利を得た。
だが、それは未来の知識を持つ俺たちだけが内心で噛み締める、目に見えない差分にすぎなかった。
しかし、今回は違う。
大西洋を渡り、何百年も先の未来に残されるはずの歴史の顔が、今、目の前の銅版画という形で、決定的に食い違っている。
俺は喜ぶというよりも、何か恐ろしい世界の亀裂を見るような面持ちで、机の上の紙とタブレットの画面を何度も見比べた。
「本当に……変わるんだな。一行、書き換わってる」
俺は、すがるような思いでタブレットの画面を何度も指で操作した。
だが、未来の検索結果は変わらなかった。
電子化された歴史書の記述にも、百科事典にも、依然として『ボストン虐殺事件、死者五人』と表示され続けている。
現在のボストンの新聞や教会の埋葬記録、そして目の前の版画が死者四人で確定しているというのに、大未来のデータベースは微動だにしない。
「……現在に合わせて、未来の情報が自動的に書き換わるわけではないのですね」
アーサーが冷静に観察する。
「どうやら、そのようだね」
俺はタブレットを机へ置いた。
「ならば、その光る板は絶対の未来を予言しているのではないな」
ギデオンが、灰色の瞳で俺をじっと見つめた。
「お前がこの時代へ来て、手を出さなかった場合の元の世界の基準線を、ただ保存している鏡のようなものかもしれん」
「それもまだ分からない。時間が枝分かれしたのか、俺の介入前の歴史を固定してるのか、そもそも別の世界の記録なのか……。確かなのは、俺が一度触れた未来については、このタブレットの記述が最新の仕様書としては使えなくなったってことだ」
俺は頭を抱えた。
「未来を知ってるアドバンテージが消えて、ただの改訂履歴のない古い仕様書を渡された状態になっちゃったよ……」
「元運用保守担当としては、一番現場で発狂したくなる状況だな」
ギデオンが、酷く不謹慎な笑みを浮かべてこめかみを叩いた。
「笑えないよ! 仕様書と現実の動作が食い違ってる仕組みなんて、地獄そのものだぞ!」
重苦しい空気の中に、僅かにいつものくだらない掛け合いが戻る。
だが、俺の胸の中のざわつきは消えなかった。
この版画がどうやって作られたのか、その現場を自分の目で確かめなければ気が済まなかった。
俺は外套を羽織り、ギデオンたちを伴って、ボストンの街角にあるポール・リヴィアの金工工房へと向かった。
工房の扉を開けると、そこは強烈な酸の匂いと、金属を削る不快な音、そして独特の油インクの臭気に満ちていた。
作業台の上には、彫刻刀で細かく削られた大きな銅版が置かれている。
その周囲では職人たちが、刷り上がったばかりの紙の山へ、一枚ずつ手作業で水彩の絵の具を入れていた。
兵士の軍服が、鮮やかな、しかしおぞましい赤へと塗られていく。
壁際には、乾燥させるために何十枚もの版画がずらりと並べられ、すでに別の植民地やロンドンへ送る荷物として、麻紐で頑丈に包まれているものもあった。
金工職人であり、反英派の活動家でもあるポール・リヴィアは、インクで汚れた前掛けで手を拭いながら、俺たちの姿を見て誇らしげに胸を張った。
「ヴァレンタイン氏。私の自信作を、すでに街のどこかでご覧になったようだな」
「見たよ、リヴィアさん。だから、直接あんたの顔を見にここまで来たんだ」
俺は作業台の上に並べられた、まだ乾ききっていない版画の一枚を指差した。
「この絵……あんた、あの夜のキング・ストリートの現場を見ながら描いたものじゃないだろ」
「当然だ」
リヴィアは悪びれもせず、むしろ当然のことを聞くなというように肩をすくめた。
「私があの激しい銃撃と混乱の最中、兵士の銃口の真正面に画架を立てて、のんきに写生をしていたとでも思うのかね? そんな命知らずな画家は、この街にはいない」
「なら、どうしてこんな構図にしたんだ」
俺の語調が強くなる。
「兵士が一直線に並んで、統制された一斉射撃をしたなんて事実はない。プレストン大尉が後ろで剣を振って命令した証拠もない。これじゃあ、あの夜に何が起きたかじゃなくて、あんたたちが世間に何が起きたと思わせたいかを伝えてるだけじゃないか!」
リヴィアは彫刻刀を机に置き、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「ヴァレンタイン氏。君は商売人だから、数字や帳簿の正確さにこだわるのだろう。だが、私に答えてほしい。一枚の、こんな小さな紙の中に、あの夜の何百人もの悲鳴と、飛び交った無数の雪玉と、何十件もの矛盾する証言のすべてを、どうやって同時に載せろというんだ?」
「すべてを載せられないからって、片方に都合のいい事実だけを切り取るのか?」
「長い報告書は、文字を読める一握りの者しか読まない。法律家が作った分厚い証言書は、裁判所の役人しか最後まで目を通さない」
リヴィアは、まだ色の入っていない版画を一枚、高く掲げてみせた。
「だが、この絵は違う。文字の読めない港湾労働者でも、酒場の壁に貼ってあれば一目で理解できる。市場の片隅に置かれても、遠く離れたヴァージニアの農村へ送っても、大英帝国の軍隊が我々に何をしたのかが、瞬時に伝わるんだ」
「その一目で伝わる意味が、現場の事実と違っていても、あんたの良心は痛まないのか?」
「市民が四人、あの場で冷たい屍となった。それは事実だ」
「兵士たちが包囲されて、恐怖に駆られていたことは?」
「それを描けば、死んだ四人の命の重さが軽くなるとでも言うのかね?」
リヴィアの声には、職人としての冷徹な計算と、活動家としての確固たる信念が混ざり合っていた。
「俺は事実を軽くしろとは言ってない。あんたが描かなかったもののせいで、社会全体の目が曇ると言ってるんだよ」
「すべてを描こうとすれば、結局は何も伝わらなくなるのだよ、ヴァレンタイン氏」
俺は、かつてサミュエル・アダムズから言われた、
『すべての事実を同じ大きさで並べれば、責任の所在は霧の中へ消える』
という言葉を思い出していた。
文章を作る者も、銅版を削る者も、根底にある思想は同じだった。
リヴィアにとって、この版画は事件の正確な現場見取図ではない。
平時の市街地へ軍隊を持ち込んだ本国の政策が、最終的にどのような凄惨な暴力を生むのかを世間に知らしめるための、最も強力で洗練された政治的な武器だったのだ。
工房の床には、刷り上がった紙がうずたかく積み上がっていた。
その数、およそ二百部。
「二百枚か……」
俺が呟くと、ギデオンが背後で冷たく補足した。
「二百人が見るだけで終わると思うな。一枚が酒場の壁に貼られれば、毎夜何十人もの男たちがそれを見て怒りを育てる。一枚が印刷業者へ渡れば、その構図はさらに粗末な木版画で何度も模写される。手紙に添えられて他の植民地へ送られれば、そこでも同じ物語が真実として語られる」
現実の事件は、あの三月五日の夜、一度しか起きなかった。
だが、この紙が増殖し、人々の手に渡っていく限り、絵の中の虐殺は、見られるたびに、語られるたびに、新大陸中で何度でも再演され続ける。
複製される怒りの波を前に、俺は眩暈を覚えた。
その時、工房の重い扉が乱暴に蹴り開けられた。
「ポール! 貴様、よくも私の信頼を裏切ってくれたな!」
激昂した声を上げて飛び込んできたのは、若い画家のヘンリー・ペラムだった。
その手には、自分が時間をかけて準備していた事件の細かな図案が握られている。
ペラムは作業台に詰め寄り、リヴィアの鼻先へその図案を突きつけた。
「この泥棒め! 私の図案を勝手に使い、自分の名で先に売り捌くとはどういうつもりだ!」
「参考にしただけだ、ペラム。大袈裟に騒ぐな」
リヴィアはインクを片づけながら、冷淡にあしらった。
「参考だと!? 建物の位置も、兵士たちの一直線の並び方も、手前で血を流して倒れている市民の配置も、すべてが私の描いたものと同じではないか!」
「君が慎重に版を準備している間に、私が自らの手で銅板を完成させ、印刷し、世に送り出した。ただそれだけのことだ」
「それを盗用というんだ!」
俺は、二人が突き合わせている二枚の図案を見比べた。
建物の線も、人間の配置も、驚くほど一致している。
歴史の教科書に載るような崇高な独立運動の象徴の裏側で、現実に起きているのは、先行公開の主導権争いと、図案を盗んだ盗まないという泥臭い喧嘩だった。
この生々しさ。
本当に、ただの人間たちの歴史だ。
「ちょさくけん、とは何の魔術の権利ですか」
アーサーが小声で尋ねる。
「この時代にはまだ、俺の知ってる形では綺麗に整ってない概念だよ。だからこそ、こうして現場で直接怒鳴り合うしかないんだ」
ペラムは顔を真っ赤にして叫び続けた。
「私は、目撃者の証言をもう少し細かく確認してから、慎重に版を完成させるつもりだったんだぞ! それを貴様は!」
「その慎重な時間の間にも、本国の役人どもが、自分たちに都合のいい報告書をロンドン行きの船へ載せているんだぞ、ペラム!」
リヴィアの声が、ペラムの怒鳴り声を圧した。
「だから、他人の図案を使っていいという理屈になるか!」
「私がしたのは、この街に今、最も必要とされている武器を、最も早い時機に世へ送り出したことだ!」
俺はリヴィアに問いかけた。
「……正確さより、速さを選んだってわけか」
リヴィアは俺の目を真っ直ぐに見つめ返し、この日最も重い一文を放った。
「ヴァレンタイン氏。どれほど細部が正確な絵であっても、戦いが終わった後に届いたのでは何の意味もない。正しい絵も、遅ければ何の役にも立たないのだよ」
情報戦の鉄則。
最初に大衆へ届いた絵。
最初につけられた事件名。
最初に刷り込まれた加害者と被害者の構図。
それらは、後からどれほど厳密な訂正が行われても、簡単には上書きされない。
未来の俺は知っている。
後世の世界でボストン虐殺の象徴として残されるのは、盗用だと責められているこのリヴィアの版画の方だ。
ペラムの図案も残る。
だが、歴史の記憶を獲得したのは、速度を選んだリヴィアだった。
正しさではなく、先着順で歴史の顔が決まっていく。
その残酷な瞬間を、俺は目の当たりにしていた。
「図案の権利についての見苦しい争いは、後で当事者同士、法律家を挟んで解決してください」
冷ややかな声とともに、工房の奥からサミュエル・アダムズが現れた。
彼は刷り上がった版画の部数と、他の植民地へ送るための出荷状況を確認しに来たのだ。
ペラムの抗議を事務的に切り分けると、彼は机の上の四人しかいない死者一覧へ目を落とした。
俺はサミュエルに歩み寄った。
「アダムズさん。あんた、この絵を見て本当に何とも思わないのか? 現場とは、あまりにもかけ離れてる」
「非常に効果的な、素晴らしい仕事だと思いますよ」
サミュエルは表情を変えずに答えた。
「現場の混乱を正確に再現することなど、この絵の目的ではありません」
「じゃあ、本当の目的は何なんだよ」
「平時の市民社会へ軍隊を駐留させた結果、最終的にどのような悲劇が起きるのか。その本質を、遠く離れた人々へ一目で理解させることです」
「本質って便利な言葉だな。その本質を語るために、兵士側の恐怖も、群衆側の暴力も、全部消し去ったのか?」
「絵の中に雪玉をあと数個描き加えれば、冷たくなった四人の命が生き返るとでも言うのですか?」
サミュエルの鋭い問いに、俺は言葉を詰まらせた。
「そういう問題じゃない。俺が言ってるのは――」
「では、どの程度の数の雪玉と、どれほどの太さの棍棒を描き加えれば、君の言う正確な真実とやらになるのです、ヴァレンタイン氏」
俺は、何も答えられなかった。
全体を描くことなど、絵であれ文章であれ不可能なのだ。
どこかを削り、どこかを強調した時点で、それは必ず製作者の意図を孕んだ物語になる。
俺はサミュエルの目をじっと覗き込み、ずっと引っかかっていた懸念を口にした。
「……パトリック・カーが生き残ったこと、本当は少し不都合だったんじゃないのか? 死者が五人の方が、本国を告発する宣伝としてはきりがよかったんじゃないか?」
工房の空気が、一瞬で氷点下まで凍りついた。
職人たちの手が止まり、ギデオンが鋭く息を呑む気配がした。
サミュエルの顔に、あからさまな、そして激しい不快感が浮かび上がった。
「……ヴァレンタイン氏」
サミュエルの声は、これまでに聞いたことがないほど低く、怒りに震えていた。
「君は、私が一人の同胞の生存を本気で惜しんでいると、そのような下劣な邪推をしているのですか?」
「……すまない。言いすぎた」
俺は素直に目を伏せた。
「四人でも、四人多すぎるのです」
サミュエルは版画の犠牲者欄を静かに指差した。
「私が必要としているのは、より多くの棺ではありません。すでに存在する四つの棺が、なぜ作られなければならなかったのか。その政治的責任の所在を、新大陸のすべての人々に理解してもらうことです。パトリック・カー氏が生きて家族のもとへ帰れたことは、神の慈悲であり、素直に喜ぶべきことです。だが、彼が生き残ったからといって、大英帝国の兵士が市民へ向けて銃を放ったという事実の重さが、僅かでも軽くなるわけではない」
サミュエルは、死者数を増やしたがる非情な怪物などではなかった。
彼はカーの生存を、人間として本気で喜んでいる。
だが同時に、政治家として、この事件の持つ意味を薄めさせるつもりも毛頭なかった。
その揺るぎない姿勢に、俺は圧倒されるしかなかった。
数日後。
まだ足取りはおぼつかないものの、杖を使いながら自力で歩けるまでに回復したパトリック・カー本人が、治療費の精算と今後の経過観察のために、ヴァレンタイン商会の仮出張所へやってきた。
彼は、俺の机の上に置かれていたあの版画を見つけると、足を止め、黙ってそれを眺め始めた。
整列した兵士。
倒れる市民。
四人の死者の名前。
そして負傷者の注記にある、自分の名前。
「気分が悪いなら、片づけるけど」
俺が言うと、カーは少しだけ苦い笑みを浮かべて首を振った。
「いや、いいさ。自分が撃たれて死にかけたあの最悪な夜が、他人の手でこんな綺麗な絵にされてるなんて、妙な気分だと思ってね」
カーは、絵の中の無抵抗な市民たちを指先で叩いた。
「俺たちは、あの夜、こんなに大人しくはしていなかったぞ」
「やっぱり、そう思うよな」
「ああ。俺のすぐ横にいた奴は、兵士の頭へ凍った氷を本気で投げつけてた。別の男は銃身を棍棒で叩いていた。兵士たちを囲んで『撃てるものなら撃ってみろ』と煽り立ててた連中の声も、はっきり聞こえてたよ」
「でも、あなたは武器を持たずに立っていて、撃たれたんだ」
「そうだ」
「カーさん。もしあんたがこの絵を描くなら、どっちを大きく描くべきだと思う?」
カーは深くため息をつき、杖に寄りかかった。
「俺は絵描きじゃないから分からんよ。ただ、あの夜には両方あったとしか言えん。兵士たちの理不尽な銃撃も、俺たちの側の度を越した暴力も、全部が同じ場所に、同じ時にあったんだ」
生きた当事者というものは、政治家や新聞屋が望むような、都合のいい綺麗な象徴にはなってくれない。
彼らは常に、矛盾に満ちた現場の記憶を、そのまま生々しく抱えて生きている。
カーは、版画の犠牲者一覧を見つめながら、ふと呟いた。
「もしあの夜、あんたが俺の傷を必死に処置してくれず、俺がそのまま死んでいたら……俺の名前も、この四人の横に並んでいたのだろうな」
「……そんな言い方はやめてくれ」
「死者というものは、便利でいいな」
カーの声には、自嘲の響きがあった。
「死んでしまえば、自分が何を見たか、何を感じたか、自分の口で喋って訂正することができない。周りの生きてる人間たちが、自分の死に自由のためだの圧政の犠牲だの、好きな意味をいくらでも与えてくれる」
「生きた証人は、時に都合の悪い事実を勝手に喋るから、政治的には扱いづらい存在なのだよ」
ギデオンが横から淡々と言葉を添えた。
「悪かったな。期待に応えず生き残ってしまって」
「謝るな!」
俺は、自分でも驚くほどの強い大声で叫んでいた。
カーが、驚いたように目を見開く。
「絶対に、そんなことで自分を卑下するな。あんたが生き残って、今ここでその足で立って、家族と一緒に飯を食えてる。……それ以上に価値のあることなんて、この世のどこを探したってないんだからな!」
強く言いすぎた俺の言葉に、カーは少しだけ目元を緩め、静かに頷いた。
「……ああ。分かっているよ、ヴァレンタインさん。感謝している」
俺にとって、この男の生存こそが、あの四人の死の絶望の中から、辛うじて力ずくで奪い返した唯一の成果なのだ。
本人にさえ、その生存の価値を否定することなど、絶対に許したくなかった。
だが、サミュエル・アダムズやボストンの調査委員会は、生存者であるカーの貴重な証言を求めていた。
カーは嘘をつかなかった。
自分が体験したことを、そのまま語った。
鐘を聞いて外へ出たこと。
群衆の側から雪や氷、硬い物が飛んでいたこと。
兵士たちも完全に包囲され、怯えているように見えたこと。
それでも彼らは市民へ向けて銃を撃ち、自分も撃たれて死にかけたこと。
委員会の人間たちは、カーへ虚偽の証言を強要することはしなかった。
嘘の告発は、いざ裁判が始まった時に本国側の反撃を許す、致命的な隙になるからだ。
しかし、彼らの質問の順番には、明確な意図と悪意なき計算が働いていた。
「発砲が起きた時、あなた自身は何か武器を持っていましたか?」
「いいえ。持っていません」
「兵士に対して、直接の暴力を振るいましたか?」
「いいえ。ただ立って見ていただけです」
「つまり、あなたは武器を持たない状態のまま、王の兵士によって撃たれたのですね?」
「……そうなるな」
彼らは、カーの無辜の被害者としての事実を最初に引き出し、それを調書の冒頭へ置いた。
そして、その後にようやく、
「群衆の側から氷や石を投げていた者はいましたか?」
という、兵士側の事情に繋がる質問を置く。
俺は、その調書の作成過程を横で見ていて、寒気がした。
書かれている文言には、一つの嘘もない。
すべてがカーの口から出た、事実の言葉だ。
だが、何を最初に聞き、何を後へ置くかによって、読者が受け取る物語の印象は大きく変わる。
サミュエルは、カーへ向かって静かに言った。
「カー氏。君が見た事実を隠す必要はありません。我々は真実を求めています」
「なら、兵士たちが可哀想なくらい怯えていたことも、同じ大きさで書いてくれるのか?」
「……四人の同胞が死亡したという決定的な事実を、まず世界へ伝えます。その上で、現場の混乱を記述します」
「彼らの恐怖を最初に書く気はないんだな」
サミュエルは、俺の目を一瞬だけ見てから、カーに答えた。
「それを最初に置けば、四人の人間が死亡したという凄惨な結末が、あたかも現場の状況からして当然だったかのように読まれる恐れがあるからです。我々が問題にしているのは、現場の兵士一人一人の恐怖だけではありません。彼らをこの街へ送り込み、市民社会と軍隊を衝突させた帝国の政策そのものです」
正しい証言であっても、並べ方と光の当て方によって、別の鋭利な武器へ変わる。
俺はサミュエルの論理の前に、沈黙するしかなかった。
三月十二日、ボストン町民集会によって選出されたジェームズ・ボウディン、ジョセフ・ウォーレン、サミュエル・ペンバートンらの調査委員会は、凄まじい速度で目撃者や負傷者からの供述を収集していた。
その数、九十件以上。
彼らはそれを、
『ボストンにおける恐るべき虐殺の短い物語』
という冊子へまとめ、植民地側の正当性を本国や他の地域へ訴えるため、急いで印刷と発送の準備を進めていた。
だが、カーが自分の口で詳細な証言を行えるまでに回復した時には、最初に集められた供述の整理と、英国へ送る初回の冊子はすでに大きく進んでいた。
そのため、本作の世界では、カー本人の供述は初回の九十件以上の中へ無理に差し込まれることはなかった。
代わりに、回復したパトリック・カー本人の署名が入った、独立した追補供述書が作成された。
それは後続の英国便へ載せられ、来たる裁判の資料にも加えられることになる。
未来の史実では、カーの言葉は彼を看取ったジェフリーズ医師を通じて伝わった。
だがこの世界では、生きた本人が署名した一次資料として残る。
最初の冊子そのものは大きく変わらない。
しかし、その周囲に存在する史料の束へ、小さな、けれど消えない新しい一枚が加わった。
俺は委員会の許可を得て、集まった供述の草稿をいくつか読ませてもらった。
だが、読めば読むほど、俺の頭は混濁していった。
ある者は、
『兵士たちはプレストン大尉の明確な命令を受けて、統制された射撃を行った』
と証言する。
別の者は、
『あまりの騒音で、誰が発砲を命じたのか全く聞き分けられなかった』
と語る。
ある者は、
『群衆は平和的に抗議の声を上げていただけだった』
と言う。
別の者は、
『棍棒や氷の塊が兵士たちへ激しく投げつけられていた』
と証言する。
同じ夜。
同じキング・ストリート。
同じ月明かりの下にいたはずの人間たちの記憶が、見事なまでに食い違っている。
目撃した位置が数ヤード違うだけで。
騒音の中で耳に届いた単語が一つ違うだけで。
事件に遭遇する前から抱いていた政治的立場が違うだけで。
彼らの脳内では、全く別の真実が完成してしまう。
「……ギデオン。俺は、証言を九十件も集めれば、モザイクを合わせるみたいに、あの夜の一つの純粋な真実が完成すると思ってたんだ」
俺は書類の山を前にして、虚しい声を上げた。
「実際はどうだった、ヴァレンシュタイン」
「真実が完成したんじゃない。自分の結論に合わせて選べる、事実の部品が九十個以上に増えただけだった。これなら、どんな物語だって組み立てられる」
「人間というものは、最初から自分の信じたい結論に合わせて、部品を組み立てる生き物だからな」
委員会の人間たちは、露骨な嘘の書類を偽造しているわけではない。
彼らは自分たちが重要だと信じる部品を選び、自分たちの理解の体系に従って並べているだけだ。
だからこそ、その書類は強い説得力を持つ。
一方、軍や王党派の側も黙ってはいなかった。
第二十九連隊の関係者や、本国側の法律家たちは、別の目撃者を集め、別の供述書を作成していた。
群衆は暴力的だった。
兵士たちの生命の危険は明白だった。
計画的な虐殺ではなく、混乱による発砲の連鎖だった。
そうした三十一件の証言を収録した報告書。
それは後にロンドンで、
『ボストンにおける不幸な騒乱についての公正な報告』
という題名で出版されることになる。
俺は二つの報告書の題名を並べて見て、盛大に頭を抱えた。
「片方は『恐るべき虐殺の短い物語』。もう片方は『不幸な騒乱についての公正な報告』。……同じ事件の報告書なのに、題名だけで結論を両極端に決めるのをやめてくれよ!」
「同じ夜の出来事について書かれているはずなのに、題名一つで別世界の歴史に見えるな」
アーサーが感心したように呟いた。
二冊の報告書は、どちらも真実を書いていた。
そして、どちらも自分たちに不都合な真実を小さく扱っていた。
両方を重ね合わせて、初めて現場の混沌とした立体像が、ぼんやりと浮かび上がる。
だが、大西洋のこちら側とあちら側で、それぞれの人間が読むのは、自らの陣営が用意した片方の一冊だけなのだ。
社会は、真実を深めるためではなく、自らの正当性を武装するために、二つの異なる歴史の基盤を作り上げていた。
だが、二冊の分厚い報告書が、校正や供述の整理に時間を取られている間にも、あのポール・リヴィアの四人しかいない虐殺画は、圧倒的な速度で世界へ広がり始めていた。
行商人がその紙を荷車に詰めて新大陸の奥地へ旅立つ。
船員がニューヨークやフィラデルフィアの港へ持ち込む。
印刷業者たちが、その構図の模写と再版を検討する。
ロンドンへ向かう帆船の荷物にも、版画が忍ばせられる。
分厚い文字の報告書を読むには、知性と時間が必要だ。
だが、あの版画は広げられた一瞬で、見る者の脳内に強烈な結論を叩き込む。
赤い軍服の兵士が整列した。
プレストンが虐殺を命じた。
無力な市民が殺された。
英国軍は、我々の敵である。
「……裁判の審理すら始まってないのに、この一枚の絵の中では、もう兵士たちへの有罪判決が確定してるじゃないか」
俺が仮出張所の窓から街を眺めて呟くと、通りがかったサミュエル・アダムズが冷淡に言った。
「ヴァレンタイン氏。傷つき、激怒している民衆が本国を告発するのに、なぜ裁判所の正式な許可が必要なのですか?」
「怒ることと、法的な事実を確定することは別の問題だろ!」
「現実の人間社会においては、その二つを綺麗に切り離すことなど不可能なのですよ」
街の人々は、あの版画から事件のすべてを学び取っていた。
酒場の薄暗い灯りの下。
あの夜にキング・ストリートへいなかった男たちが、壁に貼られた版画を囲んで拳を握り締める。
「やっぱり赤服どもは、最初から俺たちを撃つつもりで並んでたんだ!」
「見ろ、このプレストンの剣の上げ方を。こいつが人殺しを命じたんだ!」
彼らは、自分たちが現場を見ていないという事実すら忘れていた。
絵を見たことで、まるで自分自身がその場で虐殺を目撃したかのような、強固な臨場感を獲得してしまっていた。
市場では、母親が怯える子供の手を引きながら、店先に置かれた版画を指差していた。
「よく見ておきなさい。あの赤い服を着た兵士たちには近づいてはいけません。あの人たちは、私たちを平気で撃つのです」
子供の脳内では、街ですれ違う一人の疲れ切った兵士の姿が、絵の中の冷酷な赤い殺人者の記号へと上書きされていく。
港では、船員が版画を丸めて荷物へ押し込んでいた。
「ニューヨークの連中にも見せてやる。ボストンの街で、俺たちが大英帝国から何をされたのかをな!」
現場の泥臭い摩擦の記憶は、ボストンの冷たい石畳の上に留まる。
だが、綺麗に単純化された虐殺の物語は、紙の翼を得て、容易に海を越えていく。
そして、その影は、市内から追い出された駐留軍の家族の生活をも、容赦なく侵食していた。
ボストン虐殺後、市民の強い要求を受け、駐留していた連隊は市街地を離れ、港内のキャッスル・ウィリアムへ移されていた。
海上の石造要塞。
街から隔離された兵士たちは、冷たい海風に晒されながら、自分たちが守るはずだったボストンの街を、遠くから眺めることしかできない。
そのキャッスル・ウィリアムへ生活物資を運ぶ小舟の荷物の中に、一枚の版画が紛れ込んでいた。
兵士の家族へ食料や手紙を届けに来た者から、第二十九連隊の若い兵士トマスの妻、メアリーがそれを受け取った。
石造りの兵舎の一室。
夜の軍務を終え、泥のように疲れて戻ってきたトマスの前へ、メアリーはその紙を静かに広げた。
そこには、夫と同じ赤い軍服を着た男たちが、冷酷な顔で市民を銃撃する姿が描かれている。
「……あなたも、あの夜、あの場所にいたのですよね?」
トマスは、インクの臭う紙を見つめたまま、答えるまでに長い時間を要した。
「……いた」
「本当に、この絵のように、無抵抗な人たちを並んで撃ったのですか?」
「違う」
トマスは激しく頭を振った。
「では、本当はどうだったのです?」
「分からないんだ……」
トマスは、自分の大きな手を顔に押し当てて呻いた。
「俺にも、何が起きていたのか、今でも分からないんだよ。怒鳴り声と鐘と群衆の罵声が響いて、暗闇の中で氷や石が飛んできた。誰かが倒れて、誰かが撃った。その銃声を聞いた瞬間、周りの仲間も恐怖で引き金を引いた。……それだけなんだ」
だが、あの版画には、兵士たちの何が起きているか分からなかった恐怖の余白など、一平方インチも残されていなかった。
ボストンの街から追い出され、海上の要塞へ移された後でさえ、彼らを殺人者として描いた絵だけは、海を越えて追いかけてくる。
メアリーの目にも、夫の生々しい困惑の言葉より、一枚の完成された絵の方が、はるかに分かりやすく見えてしまっていた。
トマスは、紙の中で自分と同じ服を着て、冷静に引き金を引いている兵士たちを睨みつけた。
「……この絵の兵士たちは、まるで自分が何をしているのか、全部分かっている顔をしてやがる」
「あなたは、違ったのですか?」
「俺たちは、何も分かっていなかった。ただ……死ぬほど怖かったんだ」
彼の掠れた声を受け止めるものは、キャッスル・ウィリアムの石壁を叩く冷たい海風の音だけだった。
一方で、日雇い労働者のイライジャは、酒場の壁に貼られたその版画を見て、深く、強く頷いていた。
「これが、俺たちがずっと言ってきたことの、全部の真実だ」
彼にとっては、兵士が安い賃金で仕事を奪ったこと。
仲間がロープ製造所で袋叩きにされたこと。
平時の街を銃剣で威圧されたこと。
サイダー少年が撃たれたこと。
そしてキング・ストリートの流血。
その理不尽のすべてが、この一枚の版画によって一本の線へ接続されていた。
「赤服の連中は、最初から俺たちの生活をぶち壊すために、このボストンへ送り込まれてきたんだ。この絵が、その証拠だ」
「イライジャ。一人一人の兵士は、そんな大層な目的でここへ来たわけじゃない。彼らだって、家族を食わせるために生きてるただの人間なんだよ」
俺の言葉に、イライジャは冷たい拒絶の視線を向けた。
「俺たちの生活を現に壊したという結果の前じゃ、そいつら一人一人の事情なんて意味がないんだよ、ヴァレンタインさん。結果として、奴らは俺たちの同胞を撃ち殺した。なら、この絵に描かれていることは、本質的な意味で嘘じゃない」
俺は、彼の言葉を完全には否定できなかった。
現場の細部は、歪められている。
だが、二年間の軍事駐留によって仕事や尊厳を奪われ、屈辱に耐え続けてきたイライジャの人生の視点から見れば、この版画こそが、世界の真実を最も正しく切り取った表現なのだ。
「……これは、裁判にとって極めて危険な劇薬です。司法の正統性を根底から腐らせかねない」
仮出張所を訪れたジョン・アダムズが、俺の机の上の版画を見て、険しい顔で吐き捨てた。
「やっぱり、これだけ現場と違って誇張されてるから?」
「それだけではありません。ボストンの街の市民たち、つまり今後開かれる裁判で陪審員になる可能性のある人々が、審理が始まるはるか前に、この強烈な有罪判決の絵を脳内へ刷り込まれているのです」
アダムズは、版画を鋭い指先で叩いた。
「法廷でどれほど多くの証人を呼び、当時の状況を論理的に尋問しても、この一枚が民衆に与えた最初の印象を、人々の記憶から消すことは難しいでしょう。絵の中ではすでに、プレストン大尉は人殺しを命じ、兵士は冷酷に市民を虐殺したという結論が確定していますから」
「じゃあ……あの兵士たちは、この街で公正な裁判を受ける権利すら与えられないのか?」
「受けさせなければならないのです」
アダムズは毅然と胸を張った。
「殺された四人の同胞への怒りが強く、空気の熱狂が激しい事件だからこそ、被告人の法的な権利は厳格に守られなければならない。そうでなければ、裁判は証拠を確かめる場ではなく、この一枚の版画に描かれた結論を読み上げるだけの、私刑の儀式に成り下がります」
「まるで、もう弁護を引き受けるって決めてるみたいな言い方だな」
俺がそう言うと、アダムズは僅かに目を伏せた。
「決めているのではありません」
「じゃあ、まだ迷ってる?」
「私は、すでに引き受けています」
「……は?」
俺は間の抜けた声を上げた。
「いつ?」
「事件の翌朝です」
「翌朝!? まだキング・ストリートの血も乾いてない時に!?」
アダムズは静かに頷いた。
三月六日。
キング・ストリートで四人目の犠牲者が息を引き取った、その日の朝。
タウン・ハウスの階段近くにあるアダムズの法律事務所を、一人の男が訪ねた。
ロイヤリストの商人、ジェームズ・フォレスト。
彼は憔悴しきった顔で、牢獄に入れられたプレストン大尉からの依頼を伝えた。
「大尉と兵士たちは、街中から殺人者として憎まれています。誰も弁護を引き受けようとしません」
フォレストは涙を流しながら訴えたという。
他の法律家たちも、ジョン・アダムズが加わるなら弁護へ参加すると話している。
アダムズは、自分が受任すれば、ボストン中から裏切り者と罵られることを理解していた。
依頼人を失うかもしれない。
家族に危険が及ぶかもしれない。
政治的な将来を失うかもしれない。
それでも、彼は断らなかった。
「自由な社会で、被告人から最後まで奪われてはならないものがあります。それは、自らを弁護する権利と、そのための弁護人です」
アダムズは、事件翌日の朝、ほとんどその場で受任した。
俺は、目の前の男を呆然と見つめた。
「まだ街中が血と怒りで沸騰してる翌日に、もう引き受けてたのか」
「怒りが冷め、誰もが公正を語れるようになってから受けたのでは、法律家として何の意味がありますか」
「石を投げられるぞ」
「でしょうね」
「仕事も減る」
「その可能性はあります」
「家族まで裏切り者の家族って言われる」
「……それが一番、心苦しい」
「それでも、やめないの?」
アダムズは、机の上の四人しかいない虐殺画を見つめた。
「この街の言論と、この一枚の絵が、法廷の前にすでに彼らを縛り首にしているからこそ、法律家がその天秤を中央へ戻さなければならないのです」
彼の瞳には、恐怖を越えた、法律家としての狂気的な義務感が燃えていた。
版画が兵士たちを有罪にするため街へ広がり始めた時には、アダムズはすでに、その有罪判決へ法廷で抗う準備を始めていたのだ。
その夜。
誰もいなくなった仮出張所の机の上。
蝋燭の炎が静かに揺れる中、俺は二つの虐殺画を並べて置いていた。
左側には、今日ポール・リヴィアの工房から手に入れた、この世界の物理的な銅版画。
右側には、未来の歴史を表示するタブレットの画面。
絵の中では、同じ英国兵が冷酷に銃を撃ち、同じ市民が無抵抗に倒れ、同じ赤い血が白い雪の上へ広がっている。
誰がどう見ても、ほとんど同じ歴史の光景だ。
俺がどれほど血の中を走り回ろうとも、独立へ向かうアメリカの巨大な流れは、大きく変わっていない。
だが、絵の下部に記された人間の名前だけが、明確に違っていた。
未来の画面。
『パトリック・カー――傷がもとで死亡』
現在の紙。
『パトリック・カー――重傷を負ったが、現在は回復に向かっている』
「……本当に、ここだけなんだな」
俺がぽつりと呟くと、背後の暗闇からギデオンが歩み寄ってきた。
「お前が歴史という巨大な怪物の口から、力ずくで奪い返した、たった一行の差分だ」
「一行だけだよ。あんな巨大な事件の中で、俺が変えられたのは、この紙の隅に書かれた、小さな文字の一行だけだ。……歴史の重さに比べたら、あまりにも軽すぎる」
「紙の上ではな、ヴァレンタイン」
ギデオンは、パトリック・カーと家族が暮らす夜の街の方角へ視線を向けた。
「だが、あの街の片隅にある本物の肉体は、今日の一人分の食事を摂り、明日の仕事の話をし、一つの家族の真ん中で息をしている。その人生の重さは、紙の上の記述の軽さとは、全く別のものだ」
俺は何も言わず、現在の四人しかいない版画を、傷まないように二枚の木板で丁寧に挟んだ。
そして商会の最も頑丈な金庫の奥深くへと仕舞い込む。
未来のタブレット画像とともに、この世界で俺が確かに生き、確かに一人を救った証拠として保管するために。
「ただの政治宣伝の絵を、そこまで大事に保管するのですか?」
アーサーが不思議そうに尋ねる。
「宣伝画だからじゃないよ、アーサー」
俺は金庫の鍵を重く閉めながら、静かに答えた。
「これから何年、何十年と時が経って、自分が本当に歴史を変えられたのか、全部ただの吸血鬼の都合のいい白昼夢だったんじゃないかって、自分自身の記憶を疑いたくなった時……この四人しかいない絵と、五人いる未来の差を見るんだ」
俺は閉じた金庫へ手を置いた。
「そうすれば、俺が確かにあの夜、一人の人間を救ったって、自分に証明できる。……運命を変えた唯一の証拠が、よりによって歴史を歪めて伝える最悪の宣伝画だってのが、最高に皮肉なバグだけどね」
窓の外では、夜の霧を切り裂いて、リヴィアの版画を積んだ荷馬車が、次の植民地へ向かって暗い街道を走っていく。
現場の複雑な真実は、紙の上で容赦なく削ぎ落とされた。
だが、その同じ歪んだ紙の上には、俺が運命の鎖を引きちぎって残した、一人の生存者の名前もまた、確かに刻み込まれていた。
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