真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第20話 真祖吸血鬼、血を抜かない治療を説明する

 一七七〇年十二月中旬。

 

 ボストンの空は鈍色の雲に覆われ、石畳を吹き抜ける風は、いよいよ本格的な冬の到来を告げていた。

 

 マシュー・キルロイとヒュー・モンゴメリーが、その右手に消えることのない焼印を刻まれて釈放された、まさにその翌日の朝。

 

 ヴァレンタイン衛生用品商会の仮出張所。

 

 その奥にある、分厚いカーテンを閉め切った寝室で、俺は深い眠りの底へ沈み込もうとしていた。

 

 真祖吸血鬼としての肉体は、睡眠を必ずしも必要としない。

 

 だが、精神の摩耗は別だ。

 

 机の上には、四人しか描かれていないリヴィアの版画、プレストン無罪の記録、六人無罪と二人故殺の裁判結果、そして昨日書き殴ったばかりの重苦しい確認メモが、山のように積まれている。

 

「……今日だけは、政治も歴史も裁判も、全部知らない。俺はただの、最高に寝不足な吸血鬼になる」

 

 厚い羽毛布団を頭まですっぽり被り、俺は固く決意した。

 

 数か月に及ぶ精神的な緊張から解放され、ようやく訪れた完全な休息の時間。

 

 邪魔をする者など、誰もいないはずだった。

 

 その直後。

 

 ドンドンドンドンッ!

 

 建物の玄関扉が、親の仇でも討つかのような勢いで激しく叩かれた。

 

 俺は布団の中で身を固くした。

 

「……幻聴だ。きっと風の音だ」

 

 だが、ノックの音はさらに激しさを増し、やがて慌ただしい足音とともに、使用人が寝室の扉の向こうから声をかけてきた。

 

「ヴァレンタイン様! ジョン・ジェフリーズ医師がお見えです!」

 

「帰ってもらって」

 

 俺は布団の中から、くぐもった声で即答した。

 

「パトリック・カー氏の治療について、どうしても本日中に確認したいことがあると仰っておりまして……」

 

「明日!」

 

 すると、階下の扉の向こうから、ジェフリーズ本人の声が直接響いてきた。

 

「昨日も明日と言われました!」

 

「昨日は裁判の最終日だっただろ!」

 

「ですから、今日来ました! 扉を開けてください!」

 

 俺は布団を蹴り飛ばし、天を仰いだ。

 

 裁判という巨大なシステム運用保守が終わったと思ったら、今度は医療の問い合わせ対応かよ。

 

 渋々応接室へ降りていくと、そこには冷気とともに踏み込んできたジョン・ジェフリーズが、待ち構えるように立っていた。

 

 俺の髪は無造作に跳ねており、誰がどう見ても完全に寝起きの不機嫌な男だ。

 

 対するジェフリーズは、凄まじい熱量を持った目を輝かせ、その両腕には分厚い皮張りの帳面を何冊も抱え込んでいる。

 

 カーの治療記録。

 

 脈拍の推移。

 

 発熱の有無。

 

 傷口の状態。

 

 摂取した食事と水分。

 

 使用された薬剤や布。

 

 排泄の回数から、意識状態の微細な変化に至るまで。

 

 彼が几帳面に書き込んだ記録の山だった。

 

「今日は、一体何を聞きたいんだよ」

 

 俺が長椅子へどさりと腰を下ろすと、ジェフリーズは一切の遠慮なく言った。

 

「全部です」

 

「帰れ」

 

「まず、あなたがカー氏へ施した、あの常軌を逸した処置の数々を、最初から順番に、論理的に説明してください」

 

「全部は無理だ」

 

「なぜです?」

 

 ジェフリーズの目が細められた。

 

 秘薬だから教えられないという、この時代にありがちな怪しい詐欺師の口上を警戒しているのだ。

 

 俺は大きな欠伸を噛み殺し、最初に情報の開示基準を明確に宣言した。

 

「いいか。原理を論理的に説明できるものは説明する。この時代の器具と環境で安全に試せる方法も教える。だけど、お前たちには到底再現不可能な薬剤の作り方や、俺個人の……言えない秘密に関わる処置は絶対に教えない。分からないものは、分からないと答える。以上だ」

 

 ジェフリーズは、少し呆れたように息を吐いた。

 

「あなたは医師ではないのでしょう?」

 

「違うよ。ただの石鹸屋だ」

 

「ならば、その処置が有用か否かは、医師である私が判断します。まず話してください」

 

「……この医者、メンタル強すぎだろ」

 

 俺は背後に控えるギデオンへ視線を送った。

 

 だが彼は、自業自得だとでも言いたげに肩をすくめるだけだった。

 

 ジェフリーズが最初に開いた帳面の頁には、太いインクで大きくこう書かれていた。

 

【瀉血を行わなかった理由】

 

「カー氏は重い銃創を受け、傷の周囲に熱と強い腫れが生じていました。炎症と血管の過剰な緊張を和らげるため、瀉血を検討すべき状態だった。にもかかわらず、あなたは私たちが瀉血を行うことを、怒鳴りつけてまで強く止めた」

 

「止めたよ」

 

「なぜです?」

 

「腰の近くを撃ち抜かれて、すでに大量の血を失っていたからだよ」

 

 ジェフリーズは一歩も引かず、当時の医学理論を展開し始めた。

 

「傷を受けた部位へは血液が集中します。血管の緊張が高まり、それが熱と炎症を生み、やがて腐敗を招く。適量の血を抜くことで、その過剰な緊張を和らげ、身体の均衡を取り戻す。それが、我々の治療法です」

 

 俺は、彼の言葉をただの迷信として馬鹿にするつもりはなかった。

 

 当時の医学界でも、生活環境や清潔さを重視する考え方は広まりつつあった。

 

 その一方で、炎症性疾患に対して瀉血や排出療法を用いることは、身体の均衡を取り戻すための、説明可能な治療法とされていた。

 

 彼らは彼らなりに、懸命に患者を救おうとしている。

 

 だからこそ、俺は極めて限定的な問いを返した。

 

「ジェフリーズ先生。カーがあの夜、腰脇を撃たれてから、どれくらいの血を失ったと思う?」

 

「正確な量は分かりませんが、服も石畳も濡らすほどの、かなりの量です」

 

「顔色は?」

 

「……蒼白でした」

 

「脈は?」

 

「速く、そして弱かった」

 

「手足の温度は?」

 

「冷たかったです」

 

「意識は?」

 

「途切れかけていました」

 

 俺は、ジェフリーズの目を見つめた。

 

「その状態を見て、本当に身体の中に血が多すぎると考えるのか?」

 

 ジェフリーズは、言葉に詰まり、沈黙した。

 

 俺は机の上に置かれていた水差しを引き寄せ、空のコップをその隣へ置いた。

 

「水が半分以上漏れてしまった樽があるとする」

 

「……人体を、ただの樽に例えるのですか」

 

「分かりやすいから我慢しろ。その樽の中身が減りすぎて、もうポンプが水を上手く吸い上げられなくなってる状態だ。その時に、中の圧力を下げるためだと言って、わざわざ反対側にもう一つ穴を開けるか?」

 

「人体は、ただ水を入れただけの樽ではありません。生きた器官です」

 

 ジェフリーズが反論する。

 

「そうだね。でも、血が圧倒的に足りていない人間から、さらに血を減らせば、もっと致命的に足りなくなることだけは同じだ」

 

「しかし、炎症を放置すれば、傷が腐敗して死に至る危険があります」

 

「炎症の心配をするのは、患者がまず血を失った状態から生き残ってからの話だ。今にも死にそうなほど血を失った患者から、追加で血を抜くような真似はするな」

 

 重要なのは、俺が、

 

「瀉血はすべての病気に対して絶対に無意味な悪習だ」

 

 とは一言も言わなかったことだ。

 

「俺は、あらゆる病気への瀉血療法を、今日ここで全面的に否定するつもりはない。少なくとも、すでに大量の血を失い、脈が弱く、手足が冷たくなっている重度の外傷患者から、さらに血を抜くなと言ってるんだ」

 

 だが、ジェフリーズは簡単には納得しなかった。

 

 彼の中の医師としての矜持が、理屈だけの敗北を拒んでいた。

 

「……カー氏一人が助かったからといって、瀉血をしなかったことが絶対に正しかったという証明にはなりません」

 

 俺は一瞬、目を丸くした。

 

 そして、急に身を乗り出して机を叩いた。

 

「そう! それだよ!」

 

「何がです?」

 

 ジェフリーズが身構える。

 

「一人だけじゃ分からない。カーが助かったのは、瀉血をしなかったからかもしれないし、俺が使った薬が効いたからかもしれない。傷の場所が偶然よかっただけかもしれないし、単に本人の生命力が強かったからかもしれない!」

 

「ならば、結局のところ、あなたにも明確な理由は分からないということですか?」

 

「全部が完璧に分かるわけじゃない。だからこそ、記録するんだよ」

 

 俺は、机の端に積まれたままになっていた、重々しい裁判記録を指差した。

 

「つい昨日まで行われていた、あの裁判でやったのと同じことだ」

 

「裁判?」

 

「証人が、兵士は撃てと命じられたと思うと法廷で言った。でも、ジョン・アダムズはそれを、見たのか、聞いたのか、推測したのかに切り分けただろ。人間の曖昧な確信を、事実の部品へ分解したんだ」

 

 俺は、ジェフリーズの分厚い帳面を指先で叩いた。

 

「医療も同じように分けろ」

 

「分けるとは?」

 

「治療前、患者はどんな状態で、どんな傷を負っていたか。お前がどんな処置を、どれくらい行ったか。その直後、患者の脈や熱はどう変化したか。翌朝はどうなったか。三日後、七日後には生きていたか。助かった患者の自慢話だけじゃない。死んだ患者の記録も全部だ」

 

 俺の言葉に、ジェフリーズの表情が険しくなる。

 

「治療したら助かった、だけじゃ足りない。その治療をしなくても、自然に助かったかもしれないだろ。逆に、お前が良かれと思って行った治療のせいで、患者が死期を早めた可能性だってある」

 

「……医師が、自分の手で患者を死なせたとでも言うのですか」

 

 ジェフリーズの声には、明確な怒りが混じっていた。

 

「治そうとして死なせることはある。だからこそ、治そうとした医師の善意と、その治療が実際に効いたかどうかという結果を、冷酷に切り離して記録しろ」

 

 俺は、法廷で見た分解の思想を、そのまま医療という現場へ接続した。

 

 ジェフリーズはしばらく黙り込み、やがて羽ペンを握った。

 

「……分かりました。では、何を記録すべきか、具体的な項目を提示してください」

 

 俺とジェフリーズは机に向かい合い、試験的な記録の形式を作り始めた。

 

【患者の基本情報】

 

 年齢。

 

 性別。

 

 体格。

 

 普段の健康状態。

 

【傷病】

 

 傷の位置。

 

 傷を受けた時刻。

 

 出血の程度。

 

 意識の有無。

 

 脈の速さと強さ。

 

 手足の温度。

 

 呼吸。

 

 発熱。

 

 痛みの度合い。

 

【治療】

 

 瀉血の有無。

 

 抜いた血の量。

 

 傷口を洗ったか。

 

 弾丸や異物を取り除いたか。

 

 使用した薬。

 

 食事と水分の内容。

 

 使用した布と器具の種類。

 

【結果】

 

 翌朝の状態。

 

 三日後。

 

 七日後。

 

 一か月後。

 

 生存または死亡。

 

 死亡した場合、直前に見られた具体的な症状。

 

「抜いた血の量を書く時は、少ない、多いじゃなくて、できるだけ同じ規格の容器を使って量って書けよ」

 

「患者の状態は一人ずつ違います。数字だけで測れるものではありません」

 

「だから、年齢も傷の種類も細かく書くんだ。指先に小さな切り傷を負った若者と、胸を深く撃ち抜かれた老人を、同じ怪我人として比べたって意味がないだろ」

 

 数値を用いて治療結果を比較するという発想は、この時代にもすでに芽生え始めている。

 

 だからこそジェフリーズも、俺の要求を完全な異端として切り捨てず、真剣な顔で書き留めていた。

 

 俺が彼へ渡しているのは、誰も考えたことのない神の知恵ではない。

 

 すでに人間たちが辿り着きかけている方向へ、少し早く、体系化された足場を置いているだけだった。

 

 その日は、それで終わった。

 

 ようやく休めると思い、俺はベッドへ倒れ込んだ。

 

 しかし翌朝。

 

 まだ朝日も昇りきらない時間から、再び扉が激しく叩かれた。

 

「今日は何だ!」

 

 俺が応接室へ降りていくと、ジェフリーズが当然のように立っていた。

 

「手と器具を洗う理由についてです」

 

「昨日の話をまとめて記録するんじゃなかったのかよ!」

 

「夜のうちに書き終わりました」

 

 見れば、使用人がすでにジェフリーズ用の椅子と、温かい紅茶を用意している。

 

「なんでこの人専用の席ができてるんだよ!」

 

「連日お越しですので」

 

 使用人が事もなげに答える。

 

「今日は長くなると思いますよ、ヴァレンタイン氏」

 

 ジェフリーズが椅子へ座りながら言う。

 

「帰れ!」

 

 だが結局、俺は彼を追い返すことができず、向かいの席へ座った。

 

 ジェフリーズの疑問は鋭かった。

 

「あなたは、カー氏へ触れる前に、私や看護する者たち全員の手を何度も洗わせましたね」

 

「洗わせたね」

 

「手が目に見えて汚れていない者にまで、です。傷口に泥がついているならともかく、なぜそこまで?」

 

「見えない汚れがあるからだ」

 

「それは、沼地から発生する腐敗した空気が、手へ付着しているという意味ですか?」

 

「空気だけじゃない」

 

「では、何が手についているのです?」

 

 俺は言葉を選んだ。

 

 細菌。

 

 微生物。

 

 感染。

 

 そうした未来の知識を、十分な証明手段もないまま断定的に教えることは危険だ。

 

「……目には見えないほど小さな、傷を腐らせる原因となるものが付いている」

 

「それは、生き物なのですか?」

 

「その可能性が高い。でも今の段階で、俺の言葉だけを信じろとは言わない」

 

「では、なぜ洗うのです?」

 

「洗った場合と、洗わなかった場合で、傷がひどく腐る数がどう変わるか、自分で記録して比べろ」

 

 ジェフリーズは少し苛立ったように言った。

 

「また記録ですか。あなたが未来を見通すような真理を知っているのなら、なぜはっきり断言しないのです?」

 

「俺の説明を理解できないまま、ただ俺を盲信したら、それはもう医学じゃなくて信仰になるからだよ」

 

「信じることで患者が一人でも多く助かるのなら、それでも構わないでしょう!」

 

「俺がいなくなった後、俺の言葉を間違った形で暗記した奴が、それを絶対の規則にして別の患者を殺すことになる。だから断言しないんだ」

 

 俺が最も恐れているのは、未来知識が形だけ模倣され、暴走することだ。

 

「いいか。手を洗えば必ず助かるという魔法じゃない。手を洗うことで、患者が死ぬかもしれない余計な危険を一つ減らす。ただそれだけだ」

 

 この慎重な線を、俺は決して崩さなかった。

 

 話題は、器具の洗浄へ移った。

 

「あなたは鋏、針、鉗子などの金物を、煮えた湯の中へ入れさせましたね」

 

「熱い湯な」

 

「刃の切れ味が鈍り、鋼が傷みます」

 

「患者の肉が腐るよりましだろ」

 

「強い酒で拭うのでは足りませんか?」

 

「何もしないよりはいい。でも、前の患者の血や膿がついた器具を、布で軽く拭いただけで次の患者へ使い回すようなことだけはするな」

 

 俺が教えるのは、現代の完璧な無菌室の作り方ではない。

 

 この時代の診療所でも実行できる、最低限の防衛線だ。

 

 患者へ触れる前に手を洗う。

 

 血や膿が付いた器具を洗う。

 

 可能なら熱湯を使う。

 

 一人に使った汚れた布を、洗わずに別人へ使わない。

 

 傷へ当てる布は、清潔な水で洗って乾かしたものを使う。

 

 寝具を乾燥させる。

 

 部屋の換気を行う。

 

 傷を必要以上に素手で触らない。

 

「すべてを洗えば、傷は腐らないのですか?」

 

 ジェフリーズが食い下がる。

 

「腐る時は腐るよ」

 

「……やはり、断言はしないのですね」

 

「身体の奥深くに服の繊維や弾の破片が残ってるかもしれないし、最初から傷へひどい汚れが入ってるかもしれない。患者の身体が弱りきってる場合もある。手を洗うだけで全部解決するなら、後の時代の医者だって苦労してない」

 

 ジェフリーズは、俺の何気ない言葉に反応した。

 

「……後の時代?」

 

「言ってない」

 

「言いましたね」

 

「治療技術がこれから発展していった後って意味だよ!」

 

 背後でギデオンが顔を覆う気配がした。

 

 俺は、自分の口の軽さを心底後悔した。

 

 三日目。

 

 ジェフリーズは、カーの銃創の様子を描いたスケッチを持参してきた。

 

「次の質問です。あなたは、カー氏の体内にある弾丸を、積極的には取り除こうとしませんでしたね」

 

「簡単に取れる位置じゃなかったからな」

 

「体内に鉛の弾を残しておく方が、危険なのでは?」

 

「危険な場合もある。でも、見つからない弾を無理やり探して、傷口をいじり回し、健康な肉や血管まで切り刻む方が、結果的に致命傷になる場合もある」

 

 銃創治療において、異物の除去は重要だ。

 

 だが、探索や切開そのものが追加の損傷や大出血を生むというジレンマは、この時代の外科医たちも経験的に気づき始めている。

 

「明確に見えて、安全に取れる物は取る。衣服の切れ端や、砕けた骨の欠片も必要なら取り除く。でも、見つからない物を探すために、闇雲に傷を広げ続けるな」

 

「どこで止めるべきか、どう判断するのです?」

 

「患者の出血量。痛み。呼吸。傷の位置。指や器具が何へ触れてるか。その全部だ」

 

「あまりにも曖昧です」

 

「外科ってのはそういうものだろ。人体に、ここを切れば正解なんて親切な線は引いてないんだから」

 

 四日目。

 

 話題は膿の扱いへ移った。

 

「良質な白い膿が出ることは、傷が適切な治癒へ向かっている徴ではないのですか?」

 

 ジェフリーズが、当時の医療常識をぶつけてくる。

 

「膿が出ても治る人はいる。でも、膿が出たから治ってるわけじゃない。そこを混ぜるな」

 

「違いが?」

 

「傷の周りが赤く広がる。熱を持つ。痛みが強くなる。膿が悪臭を放つ。脈が速くなる。患者の意識がぼんやりする。寒がって震える。そうなったら、傷だけじゃなく身体全体が危ない」

 

「では、膿を止めるのですか?」

 

「出口を塞ぐな。中へ溜まってるなら出す。でも、膿を作ることを治療の目的にするな」

 

 ジェフリーズは帳面へ慎重に書き込んだ。

 

【膿の存在と、治癒を同一視しない】

 

「断言じゃなく、まず疑問符をつけろ」

 

 俺の言葉に、彼は末尾へ疑問符を追加した。

 

 五日目。

 

 六日目。

 

 ジェフリーズは毎朝やってきた。

 

 発熱時の寝具。

 

 傷口を閉じるか開けておくかの判断。

 

 水と食事の与え方。

 

 阿片の量と、呼吸への影響。

 

「だからもう、ここに住めよ!」

 

「空き部屋はございます」

 

 アーサーが即座に答える。

 

「用意しなくていい!」

 

「医師が定住すれば、我々が怪我をした時の診察代が浮くぞ」

 

 ギデオンが真顔で言う。

 

「俺は病気にならないし、怪我は自分で治す!」

 

「その治癒能力についても、いずれ詳しく伺いたいのですが」

 

 ジェフリーズが帳面を開く。

 

「絶対に答えないからな!」

 

 そして七日目。

 

 ついにジェフリーズは、俺が触れられたくない核心へ踏み込んできた。

 

「……カー氏の傷へ使用した、あの見慣れない薬剤は何です?」

 

 俺は黙った。

 

「薬草を砕いたものには見えませんでした。臭いもほとんどない。あれが、傷の腐敗を防いだのでは?」

 

「可能性はある」

 

「何から作られているのです?」

 

「説明しても、今の技術では作れない」

 

「薬草ですか。鉱物ですか」

 

「単純にどちらかとは言えない」

 

「では何です?」

 

 俺は、できるだけ誤解の少ない言葉を選んだ。

 

「傷の中で腐敗を広げる原因を抑える薬だ。元になった成分の中には、目に見えないほど小さな生物が作るものもある。だが、そのまま使えるわけじゃない。分離して、加工して、濃さと純度を揃えなければ薬にはならない」

 

 ジェフリーズの筆が止まった。

 

「微小な生物が、薬の元を作る……?」

 

「今はそこまでだ。原料を間違えれば毒になる。濃さを測れなければ効かないか、患者を傷つける。汚れた環境で作れば、別の病気を傷口へ入れることになる」

 

「同じ薬を、少しでいい。分けていただけませんか」

 

「駄目だ」

 

「なぜです!」

 

「数が限られてるからだ。いつでも供給できない未知の薬へ治療の根幹を依存させたら、その薬がなくなった瞬間に、お前の医術は破綻する」

 

 俺は、未来の薬を魔法の奇跡としてばら撒く気はなかった。

 

 代わりに、今の時代でも再現可能な、泥臭い基礎だけを渡している。

 

 ジェフリーズは食い下がった。

 

「では、カー氏の生存は、結局その薬のおかげだったのかもしれない」

 

「そうかもしれない」

 

「瀉血をしなかったことでも、手を清潔にしたことでもなく?」

 

「その可能性もある」

 

「分からないのですか!」

 

「だからこそ、その薬がなくても試せる部分を、一つずつ記録して確かめろと言ってるんだよ!」

 

 数日後。

 

 ジェフリーズではなく、パトリック・カー本人が、経過観察のために仮出張所を訪れた。

 

 ジェフリーズはカーの傷痕を確認しようとし、俺も横から状態を覗き込んだ。

 

「……俺の身体を挟んで、医者でもない男と医者が、ああでもないこうでもないと言い争うのはやめてくれ」

 

 カーが迷惑そうに言うと、ジェフリーズは真剣な顔で返した。

 

「あなたの回復の記録は、今後の患者を救う可能性があります」

 

「俺は人間であって、医学書じゃない」

 

「その通りだ」

 

 俺が相槌を打つ。

 

「本人の許しもなく、身体の状態や名前を勝手に症例として使うなよ」

 

 ジェフリーズが、理解できないという顔をした。

 

「医学の発展に役立つ記録です」

 

「正しい目的なら、本人を無視していいことにはならない」

 

 ジェフリーズは、俺の言葉の意味を測りかねたように沈黙した。

 

 患者本人の了承を得てから記録を扱うという考え方は、彼にとって当然の手続きではない。

 

 俺がまた一つ、この時代には十分に形を持っていない考え方を持ち込んでいる。

 

 やがてジェフリーズは、カー本人へ向き直った。

 

「あなたの治療経過を、他の患者の治療へ役立てるため記録してもよろしいでしょうか」

 

 カーは渋々、条件付きで認めた。

 

「俺の具体的な名前は出すな。俺を奇跡の生還者だの、神に救われた男だのと大袈裟に書くな。ただの、名もない銃創患者の一例として書け」

 

 俺は小さく笑った。

 

 カーはここでも、自分へ余計な意味や物語が与えられることを拒否したのだ。

 

 カーは俺とジェフリーズを交互に見た。

 

「待て。俺があの夜、この医者の言うとおりに血を抜かれていたら、どうなっていた?」

 

「分からない」

 

 俺が答える。

 

「死んでいたかもしれないのか?」

 

「可能性はある」

 

「瀉血によって助かった可能性も、理論上は否定できません」

 

 ジェフリーズが意地を張る。

 

「……俺の身体で結論が出ていないのに、あんたたち二人とも、何日も熱くなって口論していたのか」

 

 俺とジェフリーズは、同時に答えた。

 

「一人では結論を出せないからです」

 

 カーは、呆れたように息を吐いた。

 

「そこだけは、妙に仲がいいな」

 

 ジェフリーズの追及は、やがて俺の正体そのものへ向かった。

 

「ヴァレンタイン氏。あなたは、どこでこれほどの知識を学んだのです?」

 

「色々さ」

 

「どこの大学です?」

 

「大学じゃない」

 

「高名な軍医からですか?」

 

「違う」

 

「では、これまでに何人の銃創患者を、その手で治療してきたのです?」

 

「俺自身は、ほとんど治療してない」

 

 ジェフリーズが眉をひそめた。

 

「自分で治療した経験も乏しく、医師でもない。それなのに、なぜ治療が失敗する形をこれほど詳しく、まるで見てきたかのように知っているのです?」

 

 俺は言葉に詰まった。

 

「……人間が、何百年もかけて何度も失敗を繰り返した後に、積み上げた知識を知っているだけだ」

 

「何人が、その失敗で死んだのです?」

 

「数えきれないくらいさ」

 

「ならば!」

 

 ジェフリーズが初めて声を荒らげた。

 

「その失敗を、私たちにも一から繰り返させるつもりですか! すべてを教えれば、今すぐ救える命があるかもしれないのに!」

 

 二人の視線がぶつかり合った。

 

 ジェフリーズは、目の前で次に死ぬかもしれない患者の顔を見ている。

 

 俺は、未来知識の暴走が歴史全体へ与える、取り返しのつかない波及を恐れている。

 

 どちらも間違ってはいない。

 

「全部教えれば、全部綺麗に救えると思うか?」

 

 俺は静かに言い返した。

 

「教えなければ、救えない者はいます」

 

「今の技術じゃ作れない薬の名前だけ教えてどうする。理解できない理論だけを暗記させて、傷へ毒を塗る医者が出たらどうする。量を測れない薬を作って、一人を救う裏で百人を殺したら、誰が責任を取るんだ」

 

「だから、何も教えないと?」

 

「教えられるものから、教えてるだろ」

 

「遅すぎます!」

 

「速すぎても、人が死ぬんだよ」

 

 俺は、自分の介入の線引きを言語化した。

 

 この時代の人間が、自分たちの器具で再現できること。

 

 結果を、自分たちの目で観察できること。

 

 失敗した時に、理由を自分たちで調べられること。

 

 その範囲なら教える。

 

 それ以上は渡さない。

 

「瀉血を控える。手と器具を洗う。患者を冷やさず、細かく記録する。……まずはそこからだ」

 

 俺の言葉に、ジェフリーズは唇を噛み締めた。

 

 だが最後には、深く頷いた。

 

 数日後。

 

 ジェフリーズが、真新しい一冊の分厚い帳面を持参してきた。

 

 表紙には、堅苦しい文字でこう書かれている。

 

【外傷および銃創患者における処置と経過の観察】

 

 最初の頁には、

 

【大量の血液を失った患者に対する、追加の瀉血の必要性について】

 

 という見出しがあり、その下には俺と一緒に作った記録項目が整然と並んでいた。

 

「……本当に全部、表を作ったの?」

 

「あなたが記録しろと言ったのでしょう」

 

「いや、言ったけどさ。これ、大変だぞ」

 

「まず、私自身の患者の記録から始めます。過去の手記も、可能な範囲で整理し直します」

 

「都合の悪い、自分の治療で死んだ死亡例も消すなよ」

 

「あなたこそ、医師というものを何だと思っているのです」

 

 俺は即答した。

 

「不完全な人間」

 

 ジェフリーズは反論できなかった。

 

 俺は彼の帳面を取り上げ、表紙の裏へ、さらに一つの注意書きを加えた。

 

【治療が成功したと思われる患者だけを記録しないこと】

 

「当然のことです」

 

 ジェフリーズが言う。

 

「当然ならいい。でも人間は、助かった患者の顔や成功体験はよく覚えて、死んだ患者のことは、あの傷では最初から助からなかったんだって、自分に都合よく記憶を変えやすい」

 

「医師の誇りを疑っているのですか」

 

「誇りがあるからこそ、自分の治療が間違ってたと思いたくないだろ」

 

 ジェフリーズは黙り込んだ。

 

「医者が悪人だからじゃない。善人でも、自分に都合よく記憶を組み立てる。……ついこの間の裁判で、嫌というほど見た」

 

 俺の言葉に、ジェフリーズは裁判で食い違った証言を思い出したのか、重く頷いた。

 

 彼が書いた仮説の頁を見る。

 

【瀉血は外傷患者に有害である】

 

 俺は即座に線を引いた。

 

「主語が広すぎる」

 

「なぜです?」

 

「俺たちはまだ、大量出血した患者の話しかしてないだろ。他の病気や外傷全体にまで話を広げるな」

 

 俺は、より限定した文章へ書き直させた。

 

【すでに著しく血液を失い、脈が弱く、四肢が冷たい外傷患者への追加の瀉血は、回復を妨げる可能性がある?】

 

「疑問符は忘れずにな」

 

「今は、これでいいのですか?」

 

「結論を急ぐな。まずはここからだ」

 

「結果がまとまれば、公表します」

 

 ジェフリーズが言った。

 

「俺の名前は出すなよ」

 

「なぜです?」

 

「医師でもない外国の石鹸商人が、医療について妙なことを言い出したと書かれたら、内容より俺の怪しい正体の方が問題になるからだ」

 

「では、この知識を私のものとして発表しろと?」

 

「お前が記録して、お前が確かめた結果なら、それはもうお前の知識だよ」

 

「発想を与えたのはあなたです」

 

「発想だけで患者は救えない。確かめた人間の責任で世に出せ」

 

 ジェフリーズは完全には納得していなかった。

 

 だが、俺の名を不用意に表へ出さないことだけは約束した。

 

 ジェフリーズが帰った後。

 

 机の上には、試作中に書き損じた一枚の記録用紙が残されていた。

 

「……薬そのものを渡さず、記録用紙という考え方を渡したか」

 

 ギデオンが、背後から声をかけてきた。

 

「未来の薬を渡す方が、歴史への影響は少なかったかもしれないな」

 

「なぜだ」

 

「薬は使い切ればそこで終わる。でも、自分たちの治療を疑って、記録して比べるという方法は、銃創以外の別の病気にも使える。……俺、とんでもない箱の鍵を渡しちゃったかも」

 

「では、今すぐ追いかけて取り戻しますか?」

 

 アーサーが影から現れる。

 

 俺は紙を見つめ、少し考えてから首を振った。

 

「いや」

 

 患者を救えなかった時。

 

 神の意志や病気の重さのせいだけで終わらせず、自分の処置が悪かった可能性を一度でも考えるようになるなら。

 

 たぶん、渡してよかった。

 

 ふと気になり、俺はタブレットを取り出し、未来の資料でジョン・ジェフリーズという名を検索してみた。

 

 表示された経歴を見て、俺は目を剥いた。

 

 医師。

 

 科学的観測。

 

 気球飛行。

 

 さらに後年、彼は英仏海峡を気球で横断する人物として、歴史へ名を残すことになるという。

 

「……この医者、あとで空を飛ぶの?」

 

「医者なのだろう?」

 

 ギデオンが眉をひそめる。

 

「医者だけど、気球に乗って海を渡ってるんだよ!」

 

「好奇心が、並外れて旺盛なのですね」

 

 アーサーが感心したように言う。

 

「旺盛って範囲じゃないだろ! 俺、こんな行動力お化けみたいな面倒な人間に、記録と比較の考え方を教えちゃったのか!?」

 

 俺は、パトリック・カーの死者数が変わっているタブレットの画面を思い出した。

 

「……俺が教えなくても空を飛んでいる未来なんだろうけど、今も全く同じ未来になる保証はないんだよな……」

 

 俺は新しい頁を開き、確認メモを書き殴った。

 

【一七七〇年十二月・ジェフリーズ医師への回答範囲】

 

 ・回答したこと

 

 大量出血した患者へ、安易に追加瀉血を行わない。

 

 まず出血を止める。

 

 手と器具を洗う。

 

 熱湯を用いる。

 

 汚れた布を使い回さない。

 

 傷を必要以上に探らない。

 

 明確に取れる異物だけを取る。

 

 膿を治癒そのものと考えない。

 

 治療前、治療内容、治療後を分けて記録する。

 

 死亡例を消さない。

 

 似た状態の患者同士を比較する。

 

 ・回答しなかったこと

 

 未来薬の具体的製法。

 

 現在の設備で安全に再現できない処置。

 

 真祖の性質に関わる治療。

 

 ・重要な注意

 

 瀉血のすべてを否定したわけではない。

 

 一人の生存例だけで結論を出さない。

 

 俺の言葉を権威にしない。

 

 最後に大きく書く。

 

【結論:答えを教えるより、間違っているか確かめる方法を教えた】

 

 その下へ追記。

 

【これ、もしかして薬を渡すより歴史への影響が大きいのでは?】

 

 さらに小さく。

 

【ジェフリーズ医師、明日も来るらしい】

 

 翌朝。

 

 まだ日の出前の、暗く冷たい時間。

 

 ドンドンドンドンッ!

 

 俺は布団の中で、絶望とともに目を開いた。

 

「今日は何だよ!」

 

 扉の向こうから、ジェフリーズの元気な声が響く。

 

「昨日の記録表に、尿の量と色を加えるべきか相談があります!」

 

「勝手に加えろ!」

 

「患者の全身状態を判断する上で、重要なのでしょうか!」

 

「重要だよ!」

 

「では、その理由について詳しく説明してください!」

 

 俺は枕へ顔を埋め、深く呻いた。

 

「俺、裁判が終わったらゆっくり休めると思ってたんだけど……」

 

 隣室から、ギデオンの冷酷な声が届いた。

 

「事件は終わった。医者が始まっただけだ」

 

 俺は渋々起き上がり、応接室へ向かった。

 

 机には、昨日ジェフリーズが置いていった記録帳の見本がある。

 

 その最初の頁には、

 

『大量の血液を失った外傷患者へ、さらに瀉血を行う必要はあるか?』

 

 という一つの問いが書かれていた。

 

 パトリック・カーは、歴史から一人分の死者を消した。

 

 その生存は、起訴状から一件の殺人を消し、死者の証言を生者の証言へ変えた。

 

 そして今度は、一人の若い医師の帳面に、

 

「自分たちの医療は、本当に患者を救っているのか」

 

 という、ジェフリーズ自身にとって最初の疑問符を書き込もうとしていた。

 

 俺は重い扉を開け、帳面を抱えて目を輝かせるジェフリーズを睨みつけた。

 

「今日は昼までだ。昼になったら、何があっても絶対に帰れよ」

 

「承知しました。では最初に、傷病者の尿が減少する理由についてですが――」

 

「朝っぱらから質問が重いんだよ!」

 

 裁判後の最初の小休止は、真祖吸血鬼と未来の気球医師による、終わりの見えない泥臭い医療問答で幕を開けた。

 




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