真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

23 / 39
第23話 真祖吸血鬼、死体の解剖を止める

 石鹸の模倣品への対応を終え、偽物を見破るための商会としての運用ルールを定めた、その数日後の早朝。

 

 フィラデルフィアにあるヴァレンタイン商会本店。

 

 自室の分厚いカーテンの向こうでは、まだ太陽も昇りきっていない。

 

 俺は羽毛布団へ深く潜り込み、ようやく訪れた「何も起きない平和な朝」を満喫しようとしていた。

 

 ドンドンドンドン!

 

「……またかよ!」

 

 容赦なく扉を叩く音に、俺は布団の中から叫んだ。

 

「ジェフリーズ! お前からの今月分の質問状は、昨日もう三十一問も届いただろ! これ以上はルール違反だぞ!」

 

 しかし扉の向こうから聞こえてきたのは、若い医師の声ではなかった。

 

「旦那様。申し訳ありませんが、私です」

 

「アーサー? どうしたの、こんな朝早くに」

 

 仕方なく布団から這い出し、扉を開ける。

 

 そこには、いつも以上に深刻な顔をしたアーサーが立っていた。

 

「ハンター支部から、至急の判断要請が届きました」

 

「判断要請?」

 

「はい。数日前から地下の封印室に安置している、あの『人間かどうか確認できない遺体』についてです」

 

 俺は、机の端へ追いやったまま、すっかり後回しにしていた報告書を思い出した。

 

「いつまでも正体不明の遺体一体で、封印室を占有し続けるわけにはいきません。通常の遺体として墓地へ埋葬するのか、危険な怪異として焼却するのか、あるいは医学的調査のために解剖するのか。いずれかを決めていただきたいとのことです」

 

「まだ、何も動いてないんだろ?」

 

「ええ。まったく動いていないからこそ、支部も判断に困っております」

 

 その時、階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。

 

「ヴァレンタイン氏! 私も同行します!」

 

 息を切らしながら現れたのは、ベンジャミン・ラッシュだった。

 

 以前、俺の机の上に置かれていた【人間かどうか確認できない遺体について】という報告書を偶然目にして以来、医師として気になって仕方がなかったらしい。

 

 手には、見慣れない重そうな医療鞄が握られている。

 

「……おい、ラッシュ。お前、なんで鞄の隙間から解剖用の刃物の柄が見えてるんだよ」

 

「死因が外見からまったく分からないのであれば、内部を調べるのは医学的に当然の処置でしょう」

 

「まだ、ただの死体かどうかも確定してないだろ!」

 

「心臓も呼吸も停止し、体温も失われた人間を、一般には死体と呼びます」

 

 容赦のない正論だった。

 

 俺は言い返す言葉を見つけられず、渋々外套を羽織り、ハンター支部へ向かうことになった。

 

 フィラデルフィアのハンター支部は、欧州の古城や巨大な秘密要塞のような、大袈裟な建物ではない。

 

 表向きは、商会の倉庫と薬品取扱所を兼ねた、街並みに溶け込む石造りの二階建てだ。

 

 しかし地下には、強固な扉で守られた危険物保管庫、銀線で囲まれた封印室、負傷者の処置室、そして大量の記録を保管する書庫が存在している。

 

「……俺がボストンへ行ってる間に、ずいぶん地下設備が増えてないか?」

 

 周囲を見回しながら尋ねると、出迎えた支部長代理が恭しく頭を下げた。

 

「旦那様の商会から、良質な建築資材と銀線を安定した価格で購入できるようになりましたので、一気に改修を進めました」

 

「俺の表の商売が、裏で怪異の死体置き場を充実させてるのか……」

 

「社会へ合法的に寄生するとは、こういうことなのだろう」

 

 背後でギデオンが皮肉を言った。

 

「もっと穏やかで平和な寄生を想像してたんだけど!」

 

 地下へ降りるにつれて、空気が一段と冷たくなった。

 

 封印室の重い鉄扉には銀線が張り巡らされ、床の境界には、清められた聖別塩が白く撒かれている。

 

 壁には、温度、日時、異常の有無を記録するための木札が掛けられていた。

 

 そして部屋の中央。

 

 冷たい石台の上に、一人の若い男が横たえられていた。

 

 見た目は、完全な死者だった。

 

 年齢は二十代後半ほど。

 

 皮膚は不気味なほど青白く、唇には一滴の血の気もない。

 

 体温は部屋の空気とほとんど変わらず、胸はまったく動いていない。

 

 瞼は固く閉ざされ、呼びかけにも光にも一切反応しなかった。

 

 しかし、数日間この地下で保管されているにもかかわらず、決定的に不自然な点があった。

 

 腐敗臭が、まったくしない。

 

 死後数日が経過すれば現れるはずの死後硬直もなく、皮膚も極端には乾燥していない。

 

 眼球の白濁も少なく、血液が下へ沈むことで生じる死斑も、背中や腰にほとんど現れていなかった。

 

「人間の死体にしては、まったく腐りません。しかし怪異にしては、銀線にも聖別塩にも一切の反応を示さないのです」

 

 支部長代理が困惑した様子で報告する。

 

「ただの人間でもなく、我々が知る既知の怪異でもない。だから真祖であるお前を呼んだわけか」

 

 ギデオンが遺体を見下ろしながら呟いた。

 

「これまでに、人間側の基準での死亡確認は、どこまでやった?」

 

 俺が尋ねると、支部付きの外科医が進み出た。

 

「手首と首で脈を確認しましたが、反応はありません。胸へ直接耳を当てても心音は聞こえず、鼻と口へ羽毛を近づけても動きませんでした。磨いた金属板を口元へ当てても曇りは生じず、瞳孔は光に反応しません。針で指先を強く刺激しても、痛みによる動きはありませんでした。足元を温めることも試しましたが、自発的な反応は皆無です」

 

 ラッシュも進み出て、自分の目と手で確認を始めた。

 

 手首へ触れ、胸へ耳を当て、瞼を開いて瞳孔を調べる。

 

「……外科医の報告どおりです。結果は同じです」

 

 ラッシュは遺体から手を離した。

 

「彼は、医学的には完全に死亡しています」

 

「医学的には、って前置きするあたり、便利な言い方だな」

 

「断言はしていません。少なくとも、現在の我々が確認できる生命活動は、この肉体には一つも存在しないということです」

 

 俺は、その言い方を内心で評価した。

 

 安易に「死んでいる」と断定せず、「確認できない」と表現した。

 

 ボストンで繰り返した、分からないことを分かったことにしないという考え方が、彼の中にも少しずつ根づいているらしい。

 

 支部付きの外科医が、刃物を包んでいた革を開いた。

 

「原因を調べるため、解剖の許可をいただきたい。胸部を開いて心臓と肺の状態を確認し、腹部では内臓の腐敗や異常を調べます。胃の内容物を見れば、特殊な毒物の痕跡も発見できるかもしれません」

 

 ラッシュも頷く。

 

「外見だけで死因が判断できない以上、内部を確認する価値はあります」

 

 俺はまだ石台へ近づかず、一歩離れた場所から外科医へ尋ねた。

 

「もし胸を開いた結果、実は生きていたと分かったら、どうするんだ?」

 

 外科医は呆れたような顔をした。

 

「心臓も呼吸も止まっているのですよ。そのような事態はあり得ません」

 

「あり得ないかどうかを確かめるために、切るんだろ?」

 

「死因を調べるためです」

 

「生きている可能性を完全に潰さないまま、死因を調べるために胸を開いたら、その瞬間に本当に殺すことになるぞ!」

 

 外科医が残酷だから、遺体を切り刻もうとしているわけではない。

 

 現在の医学と技術では、外側から分からないなら、内部を開いて確認するしかない。

 

 医師としては、極めて合理的な判断だった。

 

 だからこそ、止めるためには、ただ感情的に「切るな」と叫ぶだけでは足りない。

 

「……俺が直接見る」

 

 俺は銀線をまたぎ、石台の横へ立った。

 

 男の顔へ近づき、深く匂いを嗅ぐ。

 

 首筋へ顔を寄せて耳を澄まし、胸へ手を当てる。

 

 手首を取り、皮膚の下にある血管へ意識を集中させた。

 

 しばらくの間、誰も声を発しなかった。

 

 周囲の人間から見れば、青白い死体へ顔を寄せ、身体を触り続ける吸血鬼の姿は、ひどく不気味に見えただろう。

 

「……何を確認しているのです?」

 

 ラッシュが尋ねた。

 

「血だ」

 

「血液は動いていません。循環は完全に停止しています」

 

 外科医が即座に否定する。

 

「人間が感じ取れる速さでは、ね」

 

 俺の感覚には、男の血は、死者のように完全には沈黙していなかった。

 

 普通の人間の血流を勢いよく流れる大河とするなら、この男の循環は、分厚い氷の下を時間をかけて流れる、ごく細い水脈だ。

 

 心臓も完全に止まっているわけではない。

 

 人間の耳では拾えないほど長い間隔を置き、ごく小さく収縮している。

 

 血液も、完全には凝固していない。

 

 そして何より、男の魂が、まだ肉体から離れずに留まっている。

 

 俺の本能は、それを確かに感じ取っていた。

 

 外科医が、胸部を開くための刃物を手にした。

 

 俺は、その手首を掴んだ。

 

「切るな」

 

「しかし――」

 

「切ったら、この人は本当に死ぬぞ」

 

 地下室が、水を打ったように静まり返った。

 

「……生きていると断言できるのですか?」

 

 ラッシュが息を呑む。

 

「人間だ」

 

 まず一つ目。

 

「そして、完全には死んでない」

 

 二つ目。

 

「でも、なぜこんな状態になっているのかは、俺にも分からない」

 

 三つ目。

 

 分かっていることと、分からないことを混ぜない。

 

 ギデオンが顎を撫でながら尋ねた。

 

「怪異が、人間の死体のふりをして潜んでいる可能性は?」

 

「絶対にないとは言わない。でも、少なくともこの肉体自体は普通の人間だ。吸血鬼でもないし、人造された生命でもない」

 

 支部長代理が、安堵したように息を吐いた。

 

「真祖であるヴァレンタイン様が生きていると仰るのでしたら、直ちに解剖を中止させます」

 

「待て。俺の言葉だけで扱いを変えるな」

 

「ですが――」

 

「俺だけに分かる感覚を、ハンター支部の公式な手順にするな。次に俺がこの街にいない時、同じ状態の人が運ばれてきたら、お前たちはまた、人間には分からないという理由で、生きたまま解剖することになるだろ」

 

 先日の偽物石鹸の一件でも、俺は商品の品質を、自分の嗅覚だけで判断する仕組みにはしなかった。

 

 俺の感覚は、疑いを持つきっかけにはなる。

 

 だが、組織の規則として定着させるなら、他の人間にも確認できる証拠を探し、手順へ変えなければならない。

 

 ラッシュは、俺を見る目を僅かに変えた。

 

 俺が真祖という権威で押し切るのではなく、人間の医学の中で確認できる形へ落とそうとしていることに気づいたらしい。

 

「胸や腹を開く解剖はしない。でも、まったく傷をつけないわけじゃない」

 

 俺はラッシュへ向き直った。

 

「命を奪う大きな切開と、命が残っているかを確かめるための小さな検査は分ける。指先を清潔にしてくれ。細い針を用意しろ」

 

 ラッシュが男の指先へ、ごく浅い傷をつけた。

 

 すぐには血は出ない。

 

 だが数秒後、非常に小さな血の粒が、指先へゆっくりと現れた。

 

「これだけなら、死体の内部に残っていた血が、圧力で滲み出した可能性もあります」

 

 外科医は疑いを捨てない。

 

「そうだな。これだけじゃ証拠にはならない」

 

 俺は血の色、粘度、空気へ触れた後の固まり方を観察した。

 

 血は暗い。

 

 しかし完全な死者の血のようには淀んでいない。

 

 ラッシュも顔を寄せた。

 

「数日が経過した遺体の血液としては、凝固が少なすぎます」

 

 次に、男の爪を強く押した。

 

 一時的に血の気を失い、白くなる。

 

 生きている人間なら、指を離せば血が戻り、すぐに元の色へ戻る。

 

 この男の場合、非常に長い時間がかかった。

 

 だが、完全ではないものの、ゆっくりと色が戻っていく。

 

「……変化しています」

 

 ラッシュが驚きの声を漏らした。

 

「室温による影響では?」

 

 外科医が食い下がる。

 

「その可能性もある。だから、これ一つだけで生きているとは決めつけない」

 

 小さな所見を、一つずつ積み重ねていく。

 

「急に全身を温めるのは危険だ。片手だけを、温めた布で包んでくれ」

 

 片方の手だけを温め、もう片方はそのままにする。

 

 数十分後。

 

 温めた方の手だけ、皮膚が僅かに赤みを帯びた。

 

 指先の傷から滲む血の量も僅かに増え、関節も反対側より柔らかくなっている。

 

「死体の組織が、外部の温度によって物理的に変化しただけとも考えられます」

 

 今度はラッシュが慎重に反論した。

 

「そうだね」

 

 俺は頷いた。

 

「でも、これら全部を見てもなお、生きている可能性を完全に捨てて、死因を調べるために胸を開くと決められるほど、自信を持って死んでいると言えるか?」

 

 ラッシュは答えなかった。

 

「解剖を止めるには、十分すぎる疑問だろ」

 

 生きていることを完全に証明できていなくてもいい。

 

 死んでいると断定できないなら、取り返しのつかない処置は止めるべきだ。

 

「最後に、心臓の間隔を測る。全員、息を潜めて静かにしろ」

 

 時計を用意させた。

 

 通常のように一分間だけ脈を探すのではない。

 

 もっと長い時間をかけて観察する。

 

 俺は男の胸へ手を置き、目を閉じた。

 

 五分。

 

 十分。

 

 十五分。

 

 重苦しい沈黙が続く。

 

「……本当に動くのか」

 

 途中でギデオンが小声で尋ねた。

 

「黙ってろ」

 

 さらに数分が経過した。

 

 俺の指先へ、ごく僅かな収縮が伝わってくる。

 

 さらに長い間隔を置いて、二度目。

 

 人間の感覚では確認できないほど微弱な動きだ。

 

 俺はその間隔を計算し、次の収縮を予測した。

 

「ラッシュ。胸のここへ耳を当てろ」

 

 男の胸の一部を指差す。

 

「次に来る。三、二、一……」

 

 三度目。

 

 ラッシュが弾かれたように顔を上げた。

 

「……今、かすかに何かが」

 

 完全な確信ではない。

 

 しかし、何もないとは言い切れない。

 

 その小さな疑問が、医師たちにメスを止めさせるには十分だった。

 

「封印室の記録札を書き換えろ」

 

 俺は支部長代理へ命じた。

 

 これまでの記載は、

 

【正体不明遺体・処分保留】

 

 新たな記載は、

 

【正体不明男性・極端な仮死状態の可能性あり・解剖禁止】

 

「まだ、生存が完全に証明されたわけではありません」

 

 支部長代理が念を押す。

 

「だから可能性ありと書くんだよ」

 

 ラッシュが尋ねた。

 

「外科医が最初に死亡と判断した記録も、消すべきでしょうか」

 

「消さない」

 

 俺は即答した。

 

「誰が、いつ、何を根拠に死亡と判断したのかは残す。その下に、後から見つけた新しい所見を追加するんだ」

 

 最初の判断が誤っていたからといって、記録そのものを消してはいけない。

 

 なぜそう判断したのか。

 

 何が足りなかったのか。

 

 それを残してこそ、次に同じ誤りを防げる。

 

「生きていると分かったのなら、すぐに部屋を暖め、薬を飲ませて起こせばよいのでは?」

 

 ハンターの一人が提案した。

 

「駄目だ」

 

 俺は即座に止めた。

 

「今のこの人は、心臓、呼吸、消化、腎臓、体温調節、すべての働きが極端に落ちている。ここで一気に生命活動を戻せば、心臓が負荷に耐えられないかもしれない。呼吸だけ戻って、循環が追いつかない可能性もある。口から薬や水を入れれば、喉へ詰まらせるかもしれない。それに、この状態を作っている薬や術と反応する危険もある」

 

 生きていると分かったからといって、無理やり揺さぶり起こせば助かるとは限らない。

 

「では、どうします?」

 

 ラッシュが問う。

 

「まず、この状態にした方法を調べる。解除法があるなら、それを見つけるのが先だ」

 

 ハンター支部は、男が怪異である可能性を考え、銀線と聖別塩で封印していた。

 

 俺は封印が肉体へ与えている影響を慎重に確認した。

 

 男の血液や身体には、銀や聖別塩に対する拒絶反応がない。

 

 少なくとも、吸血鬼、悪霊憑き、既知の不死者、呪われた死体である可能性は低い。

 

 ただし封印が、男にかけられた術を意図せず安定させている可能性も捨てられない。

 

 銀線を一本だけ遠ざける。

 

 変化なし。

 

 足元の聖別塩を一部だけ離す。

 

 変化なし。

 

「少なくとも、封印に力ずくで押さえ込まれて動けない怪物じゃない」

 

「それは朗報か?」

 

 ギデオンが尋ねた。

 

「普通の人間なら朗報だよ」

 

 解剖を中止し、衣服を外して、全身を外側から詳しく調べる。

 

 戦闘による傷はない。

 

 首を絞められた痕も、銃創も、大量出血もない。

 

 手首に拘束された痕もない。

 

 足裏は柔らかく、長距離を歩いた形跡もなかった。

 

 右手の中指には、長年羽ペンを握った者にできる硬いたこ。

 

 親指と人差し指には、インクの染みが深く残っている。

 

 背中も、長時間机へ向かって座る者らしく、僅かに丸まっていた。

 

 港湾労働者や船員のような、肉体労働者の身体ではない。

 

「兵士でも船員でもない。帳簿仕事をしてる人間っぽいな」

 

「書記か、どこかの商会の会計係でしょうか」

 

 アーサーが推測する。

 

 その時、男の髪の生え際を調べていたラッシュが声を上げた。

 

「小さな傷があります」

 

 首の後ろ。

 

 細い針で刺したような、一点の傷。

 

 周囲には黒い薬剤の残りかすと、蝋のような薄い膜。

 

 さらに、灰を混ぜたインクで描かれた、小さな記号が残されていた。

 

 血で描かれた派手な魔法陣ではない。

 

 小指の爪ほどの、ごく小さな印だ。

 

 ギデオンが顔を寄せ、低く唸った。

 

「怪異を封じるための印ではない。人間の生命反応を覆い隠す、古い隠蔽術に似ている」

 

「分かるのか?」

 

「似たものを見たことがあるだけだ。これが同じ術だとは断定できん」

 

「薬だけじゃないな」

 

 俺が言うと、ラッシュが問い返す。

 

「呪術だけでもない?」

 

「おそらく両方だ。薬で身体の働きを極限まで落とし、術で生命反応をごまかして、死者に見せている」

 

 俺たちは、現段階で分かったことを黒板へ整理した。

 

【確認できた事実】

 

 男は普通の人間の肉体を持つ。

 

 明確な腐敗がない。

 

 ごく微弱ながら循環反応がある。

 

 血液は完全には凝固していない。

 

 首筋に小さな刺し傷がある。

 

 刺し傷の周辺には薬剤と、術式らしき痕跡が残っている。

 

 外傷によって死亡した形跡はない。

 

 銀や聖別塩へ反応しない。

 

【推測】

 

 人為的に生命活動を低下させられた。

 

 薬と術を併用している。

 

 死者へ見せかけることが目的だった。

 

 本来は安全な解除方法が存在する可能性がある。

 

 長期間この状態を維持する想定ではなかった可能性が高い。

 

 支部付き外科医が首を傾げた。

 

「殺すことが目的なら、普通に致死性の毒を使えばよいのでは?」

 

「だから、死なせることが目的じゃなかった可能性がある」

 

「死んだように見せること自体が目的だった……?」

 

 ラッシュの言葉により、偽装死の可能性が浮かび上がった。

 

 次に、衣服と持ち物を一つずつ調べる。

 

 服は上質ではないが、貧民が着るほど粗末でもない。

 

 下級書記か会計係、商会員といったところだろう。

 

 所持品は、銅貨数枚、使い古した羽ペン、小さな鉛筆の破片、折り畳まれた白紙、錆びていない小さな鍵、無地のハンカチ。

 

 薬瓶や、身元を示す手紙は一切ない。

 

「財布の中身が不自然に少ないな」

 

「強盗被害なら、服や靴まで残っているのはおかしい」

 

 ギデオンが指摘する。

 

「偽装死なら、身元を示す物を意図的に持たせなかった可能性がある」

 

 男が収められていた棺には、安っぽい木札が打ちつけられていた。

 

【ジョサイア・ウォード】

 

【年齢二十九】

 

【冬季熱病により死亡】

 

【親族なし】

 

【埋葬費用支払い済み】

 

 だが上着の内側を調べていたアーサーが、僅かな修繕跡を見つけた。

 

「旦那様。古い刺繍を抜き取り、別の糸で縫い直した痕があります」

 

 慎重に糸を解くと、生地の奥から、元の頭文字が現れた。

 

【N・R】

 

 棺札の名前とは一致しない。

 

 ジョサイア・ウォードなら、J・Wのはずだ。

 

「名前まで偽物か」

 

「服を別人から借りた可能性もあります」

 

「そうだね。まだ、このN・Rが本人の頭文字だと決めるのは早い」

 

 すぐに答えへ飛びつかず、候補として残す。

 

 棺そのものにも違和感があった。

 

 作りは安物だが、蓋を打ちつけた釘だけが新しい。

 

 さらに蓋は一度閉じられた後、強引に開け直された痕がある。

 

 内側にも外側にも土はついていない。

 

 墓地から掘り返された棺ではない。

 

 棺底には、薄い布が不自然に二重に敷かれていた。

 

 アーサーが布をめくると、その下から小さな紙片が出てきた。

 

【B・七】

 

【一四日】

 

【第三倉庫】

 

【夜半】

 

 数字と短い言葉だけで、意味は分からない。

 

 だが商業上の記録か、何らかの待ち合わせの指示に見える。

 

「埋葬する前に、どこかへ運び出す予定だったのではありませんか」

 

 アーサーが推測した。

 

 俺は支部長代理へ、男が運ばれてきた経緯を改めて説明させた。

 

「三日前、市内の葬儀屋が、身寄りのない熱病患者として、この棺を引き取りました。依頼人は顔を深く隠した男で、埋葬費用は前払いされていたそうです。しかし教会の埋葬記録に本人の名前がありませんでした」

 

「それで怪しんだのか?」

 

「加えて、棺を一晩保管しても腐敗臭が出ない。死後硬直もない。近所の猫が棺を避ける。蓋の内側から引っ掻くような音が聞こえた気がすると、葬儀屋が恐れまして、我々へ連絡してきました」

 

 引っ掻き音については、気温の変化による木材の収縮音だった可能性もある。

 

「怖い話を勝手に足すなよ!」

 

「葬儀屋の証言を、そのまま記録しただけです」

 

 ラッシュが棺札の死因を指で叩いた。

 

「冬季熱病という表現は、医学的には曖昧すぎます。誰が診察したのか。どのような症状があったのか。いつ、どこで死亡したのか。その記録がありません。医師の署名もない」

 

「お前、最初に医学的には死亡してるって言ってなかったか?」

 

「私がこの場で、自分の目と手で確認した所見と、この出所不明の札の信用性は別問題です」

 

「そういうところは、本当にぶれないな」

 

 解剖を提案した外科医は、自分が生きた人間を切るところだったという事実に、深く動揺していた。

 

「私は、殺すところだったのか……」

 

「今まであんたたちが確認してきた方法では、完全に死体へしか見えなかったんだろ」

 

「しかし――」

 

「次からは、腐敗していない、硬直していない、血が完全に固まっていない死体が運ばれてきたら、胸を開く前に、もう一段階だけ確認する。それでいい」

 

 記録や手順は、間違えた医師を罰するためにあるのではない。

 

 同じ誤りを繰り返さないためにある。

 

 俺はハンター支部とラッシュに協力させ、新しい仮死確認手順を作らせた。

 

 腐敗していない正体不明の遺体に対し、解剖前に確認する項目。

 

 一、死亡したとされる日時。

 

 二、発見時の温度。

 

 三、死後硬直の有無。

 

 四、死斑の有無。

 

 五、血液の凝固状態。

 

 六、爪床の色が戻るか。

 

 七、局所的に温めた際の反応。

 

 八、長時間の心音と脈拍の確認。

 

 九、薬物を投与した痕の有無。

 

 十、術式や呪物の有無。

 

「全部やっても分からないことはある。でも、いきなり胸を開くよりは、ずっとましだ」

 

「通常の死体すべてに行うのは、現実的ではありません」

 

 ラッシュが実務上の問題を指摘する。

 

「だから、腐敗せず、死後硬直もなく、死因が曖昧な遺体に限ればいい」

 

 制度は細かくしすぎても動かない。

 

 本当に必要な対象へ絞る。

 

 次に、この男をどこで治療するかが問題になった。

 

 本店へ運べば、設備も清潔な布も温水も人手もある。

 

 しかし、男の正体も、追っ手がいるかどうかも分からない。

 

 商会本店へ運べば、一般の従業員や客を危険へ巻き込む可能性がある。

 

 一方、ハンター支部には警備と封印設備がある。

 

「当面はここで保護する。ただし、扱いを遺体から患者へ変える」

 

 室温を急に上げない。

 

 数時間ごとに皮膚と血液の反応を確認する。

 

 口から無理に水や薬を入れない。

 

 血が一か所へ滞らないよう、身体の向きを定期的に変える。

 

 首筋の刺し傷や印へ、素手で触れない。

 

 無断で印を消さない。

 

 当然、解剖、焼却、埋葬は禁止。

 

 ラッシュが医学的な経過観察を行い、ハンター支部が警備と術の監視を担当する。

 

 俺は定期的に訪れ、血流の微細な変化を確認することになった。

 

 封印室へ二人きりになった時、ラッシュが静かに尋ねてきた。

 

「ヴァレンタイン氏。あなたは最初から、彼が生きていると分かっていたのでしょう?」

 

「感じただけだよ」

 

「ならば、なぜあれほど多くの確認を、我々へさせたのです?」

 

「俺の感覚が正しいと証明するためじゃない。次に俺がいない時、あんたたちが同じ人を助けられるようにするためだ」

 

「自分の特別な能力を、信用していないのですか」

 

「信用してる。でも、それを組織の制度にはしない」

 

 俺の感覚は、俺がいなければ使えない。

 

 それでは仕組みにならない。

 

 全員が退出の準備を始めた時だった。

 

 石台の上にある男の右手の指が、ごく僅かに動いた。

 

 本当に一度だけ。

 

「今、動きました」

 

 ラッシュが声を上げる。

 

「術式の拒絶反応かもしれません」

 

 支部長代理が警戒する。

 

 俺はすぐに血流を確認した。

 

 先ほどより、心臓の収縮間隔が僅かに短くなっている。

 

 室温の変化か。

 

 指先への刺激か。

 

 銀線を動かした影響か。

 

 時間の経過か。

 

 それとも、誰かの声へ反応したのか。

 

 まだ分からない。

 

「勝手に起こすな。変化があった時刻だけを記録しろ」

 

 試しに、棺札へ書かれていた名前を呼んでみる。

 

「ジョサイア・ウォード」

 

 反応はない。

 

 衣服の頭文字から、N・Rとも呼びかけてみる。

 

 当然、それだけでは名前にならない。

 

 アーサーが、Nで始まる男性名をいくつか挙げた。

 

「ニコラス。ナサニエル。ノア……」

 

「ナサニエル」

 

 そう呼んだ瞬間。

 

 男の青白い瞼が、ごく僅かに震えた。

 

 ただの偶然かもしれない。

 

「今の反応だけで、本名をナサニエルだと決めるなよ」

 

「ですが、調べる候補には加えられます」

 

 さらに、男の所持品にあった小さな鍵。

 

 アーサーが確認したところ、一般的な家屋の鍵ではなかった。

 

 貸し金庫。

 

 倉庫内の小箱。

 

 商会の重要書類箱。

 

 そうした物へ使われる形だという。

 

 鍵には、小さく数字が刻まれていた。

 

【七】

 

 棺底の紙片にも、B・七と書かれている。

 

 第三倉庫。

 

 十四日。

 

 夜半。

 

 何らかの受け渡しが予定されていた可能性が高い。

 

「この人は、埋葬される予定じゃなかったんだ」

 

 俺が言うと、ギデオンが頷いた。

 

「棺へ入り、どこかへ秘密裏に運び出される予定だったのだろう」

 

「それなら、迎えが来なかったため、葬儀屋へ放置された?」

 

 ラッシュが推測する。

 

「あるいは、迎えに来るはずだった人間が、何らかの理由で来られなくなった」

 

 俺は支部の記録台へ向かい、現時点での結論を書き込んだ。

 

【対象】

 

 二十代後半と推定される人間男性。

 

【状態】

 

 極端に低下した生命活動あり。

 

 死亡とは断定できない。

 

 解剖、埋葬、焼却を禁止する。

 

【身元】

 

 棺札にはジョサイア・ウォード。

 

 衣服内側にはN・Rの頭文字。

 

 両者が同一人物を示す証拠はない。

 

【死因】

 

 冬季熱病との記載あり。

 

 医師の署名、診察記録なし。

 

 自然死とは断定できない。

 

【推測】

 

 薬物および隠蔽術による、人為的な仮死状態の可能性。

 

 最後に、一文を書き加えた。

 

【この男は、死んだのではない。意図的に死んだことにされた可能性がある】

 

「誰に?」

 

 ギデオンが尋ねる。

 

「それを、これから調べる」

 

「目覚めさせるのが先ではありませんか?」

 

 ラッシュが言う。

 

「解除方法が分からないまま無理に起こしたら、本当に殺すかもしれない。まず鍵と棺の記録を追う」

 

 偽物の石鹸は、帳簿を辿って製造元まで戻った。

 

 今度は、偽造された死を、元の生者まで遡る。

 

「人を商品みたいに言うなよ」

 

 その時。

 

 石台の上から、ごく小さな音が聞こえた。

 

「……う……」

 

 声なのか。

 

 肺から空気が漏れただけなのか。

 

 分からない。

 

 全員が振り返る。

 

 男の唇は動いていなかった。

 

 ただ、固く閉じた右目の端から、一筋だけ涙が流れている。

 

 意識があるのか。

 

 長い夢を見ているのか。

 

 身体が刺激へ反応しただけなのか。

 

 まだ、何も分からない。

 

 俺は石台へ駆け寄った。

 

 しかし無理に起こしたりはしない。

 

 血流を確認し、身体がこれ以上冷えないよう、毛布を一枚だけ追加する。

 

「大丈夫だ。まだ誰にも切らせない」

 

 聞こえているかどうかも分からない相手へ、静かに告げた。

 

 そして、ラッシュへ振り返る。

 

「この人は、もう死体じゃない」

 

 俺は、石台に横たわる男を指差した。

 

「今日から、お前の患者だ」

 




ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。