真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜 作:パラレル・ゲーマー
夜の帳がすっかり下りた、ハンター支部の地下封印室。
冷たい石壁に囲まれた空間には、張り詰めた緊張感が漂っていた。
俺は壁に掛けられた時計と、ベンジャミン・ラッシュが書き留めている患者の経過記録を交互に見比べた。
男が仮死状態へ入った正確な時刻は不明だ。
しかし、棺が葬儀屋へ運ばれた時刻、エリアスの手紙に書かれた受け渡し予定、棺職人の証言、葬儀屋の帳簿。それらの情報をつなぎ合わせれば、死眠薬が使われてから、すでに四日近くが経過している計算になる。
「安全に解除できるという三日間の猶予は、とっくに過ぎている。……このまま回復を保証できない五日目に入るまで、あと半日もないかもしれないな」
俺の言葉に、ラッシュは患者の胸へ当てていた耳を離し、険しい表情で顔を上げた。
「心臓の収縮間隔が、前日の記録よりも長くなっています。……状態は悪化しています」
「完全に止まったわけじゃないんだろ」
「ですが、昨日より明らかに弱まっています」
俺は彼の報告を否定しなかった。
アーサーに目配せし、壁の記録札へ、
【心臓収縮間隔、僅かに延長】
と正確に追記させた。
ラッシュは、焦燥に駆られたようにエリアスの調合帳の写しを指差した。
「ヴァレンタイン氏。ここに材料は書かれています。私がこの薬を再現しましょう。待っているだけでは、彼は本当に死にます」
「駄目だ」
俺は即座に却下した。
「材料の量、加熱時間、抽出する順番、灰と蝋の処理方法、第一薬と第二薬の正確な濃度。肝心な部分が独自の記号で暗号化されてる。今の状態でお前に作れるのか?」
「……推測で補って作ることはできます」
「成功率は?」
「分かりません」
「失敗した場合はどうなる?」
ラッシュは唇を噛んだ。
「心臓だけが無理に動き始め、呼吸が戻らない可能性があります。あるいは、急激な血流の変化によって全身に痙攣と内出血を引き起こし、そのまま死亡する危険もあります」
「なら、今すぐには使わない」
俺の決断にラッシュが抗議しようとしたが、手で制した。
「判明している材料だけは、大至急揃えておけ。完全な代用品にはならないだろうが、時間切れになった場合の最後の選択肢として準備しておく。だが、本物の薬を探す時間が一秒でも残っているうちは、一か八かの賭けはしない」
患者の監視をラッシュと支部のハンターたちに任せ、俺とアーサー、ギデオンの三人は夜の街へ飛び出した。
向かった先は、ブラックウッド&クレイン海運商会。
夜遅くにもかかわらず、主人のブラックウッドは不安げな顔で商会に残っていた。
俺は挨拶もそこそこに、単刀直入に切り出した。
「ブラックウッドさん。あんたの商会の上級番頭、サミュエル・パイクが自由に使える倉庫や家、荷車、あるいは船の心当たりはないか?」
「彼の自宅以外に、思い当たる場所など……」
ブラックウッドが戸惑う。
「商会の正式な資産帳簿へ載っている場所ではありません。表向きは使われていないことになっている場所です。本当によく考えてください」
アーサーが冷静に追及した。
俺たちは商会の資産帳、修繕費帳、油代の購入記録、荷車の夜間利用記録を机へ並べ、片端から調べ上げた。
やがて、ある不自然な支出の連続に目が止まった。
「……これだ。使われていないはずの古い倉庫に、定期的にランプ用の油代、見回りの警備人への少額の支払い、井戸水の利用料、錠前の交換費用、さらには夜間の荷車の使用料が記録され続けている」
名目はすべて、
【旧倉庫維持費】
として処理されていた。
そして、そのすべての決裁欄には、サミュエル・パイクの署名がある。
「なぁ。誰も使ってないはずの空っぽの倉庫で、どうして毎月ランプの油を燃やす必要があるんだ?」
俺の問いに、ブラックウッドは顔を青ざめさせ、答えられなかった。
場所は、港の外れにある古い塩倉庫だと判明した。
以前は輸入塩の保管に使われていたが、海からの湿気がひどく、正式には数年前から使用を中止している物件だった。
その鍵を管理していたのは、パイクだけだ。
「私はてっきり、不要になった古い帳簿や、壊れた道具の切れ端でも置いているのだとばかり……」
「実際にそこへ行って、自分の目で確認したことはあるのか?」
「……ありません」
俺は、ブラックウッドの目を真っ直ぐに見据えた。
「じゃあ、もう一つ聞く。積荷の数が正式な帳簿と合わないことには、本当に一度も気づかなかったのか?」
ブラックウッドは長い沈黙の後、絞り出すように認めた。
「……破損率が不自然に高いと感じたことはあります。申告した数と、実際の売上の辻褄が合わない月もありました。パイクを呼んで問いただすと、彼は『港の荷降ろしで失われた』『質の悪い船員がくすねた』と説明しました。何より、商会全体の利益自体は右肩上がりで増えていたのです。だから、深くは追及しなかった。港の商売では、一部の過少申告や横流しは、よくあることだと思い込んで……」
「殺人の計画までは知らなかったかもしれない」
俺は容赦なく事実を突きつけた。
「でも、自分に都合のいい数字だけを信じて、監督を放棄した責任は残るよ」
「……分かっています」
彼は、闇の組織を率いる悪の首領ではない。
だが、何も知らなかった無実の善人でもない。
見ないふりをした代償が、一人の部下の命を奪いかけているのだ。
俺たちは直ちにハンター支部へ応援を要請した。
しかし、大人数で押しかけて騒ぎを起こすわけにはいかない。
ギデオン、アーサー、支部の熟練ハンター二名、そして俺。
少数だけで向かう。
「私も行きます」
ブラックウッドが申し出たが、俺は即座に拒否した。
「自分の商会で何が起きていたかを見る責任はある。でも、これから修羅場になるかもしれない場所で、戦える人間の足手まといになる必要はない。あんたはここへ残って、商会の全帳簿を保全しろ。パイクの机と自宅も閉鎖して、原本には誰にも指一本触れさせるな」
深夜。
海風が容赦なく吹きつける、港外れの旧塩倉庫。
外から見れば、ただの薄汚れた廃墟だ。
しかし、俺の超感覚とギデオンの熟練した観察眼は、暗闇の中に残された痕跡を見逃さなかった。
窓の隙間から漏れる、ごく僅かなランプの灯り。
地面に残された新しい荷車の轍。
馬の新しい糞。
裏口付近に落ちていた乾いた血痕。
踏み砕かれた薬瓶の破片。
そして、エリアスの薬種店に落ちていたものと同じ、黒い蝋の欠片。
「当たりだな」
ギデオンが短剣の柄を握る。
「まだパイク本人が中にいるとは限らない。エリアスだけが痛めつけられて、置き去りにされてる可能性もある」
俺は最後まで決めつけず、慎重に倉庫の扉へ近づいた。
倉庫の内部へ足を踏み入れる。
そこには塩袋の代わりに、膨大な数の商品が隠されていた。
正式帳簿へ載っていない高級な布地。
破損品として処理され、消えたはずの酒樽。
輸入薬品。
高級食器。
未申告の油脂。
木箱には、はっきりとブラックウッド&クレイン商会の焼印が押されている。
横流し品の決定的な現物証拠だった。
倉庫の奥から、くぐもった声が聞こえてきた。
パイクだ。
彼が、椅子へ縛りつけられた初老の男――エリアス・コールを激しく尋問している。
エリアスは顔を執拗に殴られて腫れ上がり、片足を負傷して血を流している。
だが、命に関わるほどではなさそうだ。
周囲には、パイクが金で雇ったと思われる屈強な男が二人、棍棒を持って立っていた。
「さっさと吐け! あのナサニエルが作った帳簿の写しはどこに隠した! 予備の解除薬はどこだ! ハンターの連中は、あの死体をどこへ持ち込んだ!」
パイクの怒声に対し、エリアスは血の混じった唾を吐き捨て、何も答えなかった。
「お前が薬の場所を言わなければ、あの生意気な書記は朝までに心臓が止まって死ぬ。そうなれば、お前が毒殺したことになるんだぞ!」
「お前が、私を襲って薬を奪ったんだろうが!」
エリアスが叫び返す。
「誰がそれを証明する? 世間から見れば、怪しい薬師が若者を毒殺しただけだ」
パイクは、ナサニエルの死をすべてエリアスへ押しつけるつもりなのだ。
「それは無理があるだろ」
俺は、暗闇の中から足音を立てずに歩み出た。
パイクが驚愕して振り返る。
護衛の男二人が棍棒を構えた。
「これは、あなたに関係のないブラックウッド商会内部の問題です、ヴァレンタイン氏」
パイクは逃げず、まずは俺を言いくるめようとした。
「不審な死体を一つ拾った時点で、もう関係ができちゃったんだよ」
「ナサニエルは商会の金を盗み、勝手に帳簿を持ち出した紛れもない盗人です。盗人が追及を逃れるために、怪しい薬師へ頼んで、自分で死ぬ薬を使った。ただそれだけのことだ。我々は被害者だ」
「だから、彼を目覚めさせる解除薬を奪って、そのまま本当に死なせてもいいって理屈にはならないだろ」
「私は彼に何もしていない。彼が勝手に眠って、勝手に死のうとしているだけだ」
「人の命を助ける薬を持ってる人間を、椅子へ縛りつけて血まみれになるまで殴っておいて、その言い訳は通らないよ」
パイクは、自分が完全に追い詰められたことを悟った。
懐から小さな木製の薬箱を取り出し、高く掲げる。
「帳簿の写しを渡せ! さもなければ、この薬を壊す!」
中には、エリアスから奪った第一解除薬と第二解除薬の瓶が収められている。
「お前が欲しがってる写しは、俺の手元にはない。ハンター支部で厳重に保管されてる。渡せないものを要求しても意味がないぞ」
俺の言葉に、パイクの顔が絶望と悪意に歪んだ。
彼は躊躇なく、第一解除薬の入った瓶を硬い石の床へ力任せに叩きつけた。
ガシャン!
ガラスが砕け散り、透明な薬液が、塩と埃にまみれた床へ無惨に染み込んでいく。
「あああっ!」
エリアスが絶望の悲鳴を上げた。
パイクが続けて第二解除薬の瓶を投げようとした瞬間、暗闇から飛来したギデオンの短剣が、パイクの手の甲を掠めた。
薬箱が弾き飛ばされる。
アーサーが滑り込むようにして箱を受け止め、第二解除薬の破壊だけは防いだ。
しかし、第一薬がなければ患者の心臓を戻すことはできない。
「やれ!」
パイクが怒鳴る。
雇われた二人の男が、棍棒と短刀を振りかざして襲いかかってきた。
だが、戦闘は数秒で終わった。
パイク本人はただの番頭であり、戦闘員ではない。
雇われた男たちも、ギデオンとハンターたちの敵ではなかった。
俺は、パイクが裏口へ逃げようとしたところへ回り込み、背後から腕を固定して、冷たい床へ押さえつけた。
力任せに骨を折ったりはしない。
ただ、物理的に身動きを取れなくする。
「放せ! あのナサニエルは盗人なんだぞ!」
パイクが、床へ顔を押しつけられたまま叫ぶ。
「そうだね。だから、あいつの命を助けた後で、持ち出した金についても、きちんと調べさせてもらうよ」
アーサーがエリアスの縄を解いた。
顔面の打撲と肋骨の損傷、足の傷があるが、命に関わる状態ではない。
俺は、砕け散った第一薬の破片を見つめた。
「第一解除薬を壊された。予備はどこだ?」
エリアスは、床の染みを見て青ざめていた。
「……予備は、私の杖にあります」
「杖?」
「柄の中です。私が薬種店へ置いてきた、あの折られた杖の……持ち手の中に、もう一組の薬を隠してあります」
ギデオンが、はっとした顔をした。
「薬種店を調べた際、証拠品として持ち帰らせた、あの折れた杖か。今はハンター支部の証拠保管庫にあるはずだ」
エリアスは、万一、予定していた薬を奪われた場合に備え、第一解除薬と第二解除薬の予備を杖の柄へ仕込んでいたのだ。
杖は襲撃の際に折られていた。
だが、薬を入れたのは先端ではなく、中空になっている太い持ち手の部分だった。
「厚い革と黒い蝋で包み、衝撃から守ってあります。ですが……折られた時の衝撃で割れていないかは、開けてみなければ分かりません」
俺たちはパイクと、雇われた男たちを拘束した。
旧倉庫に山積みになっている横流し商品と帳簿には誰も触れないよう、ハンターを一人、見張りとして残す。
アーサーが、箱の数、商会印、商品名、封印状態、発見時刻を素早く帳面へ記録した。
「商品を全部細かく数えてる時間はない。場所を封鎖して、今見たままの状態を保存しろ」
今は、すべてを調べることよりも、患者の命が優先だ。
深夜。
俺たちは馬車を飛ばし、ハンター支部へ急いだ。
揺れる馬車の中で、傷の手当てを受けたエリアスが、事の経緯を語り始めた。
ナサニエルは、以前、エリアスの薬種店で帳簿整理の小間使いとして働いたことがあった。
エリアスは片足が悪く、細かい計算や仕入れ帳の整理に困っていたため、彼を雇ったのだ。
その縁で、二人の間には信頼関係があった。
「ナサニエルは、商会の帳簿不正を偶然発見してしまったのです」
エリアスが苦しげに言う。
「彼は最初、ブラックウッド氏へ直訴しようとした。だが、自分の知らない間に、自分の署名が不正な書類の確認印として使われていることに気づいた。パイクは、不正が露見した際に、すべての罪をナサニエルへ押しつけて切り捨てる準備をしていたのです。さらに、彼の下宿の周辺を、見知らぬ男たちが監視し始めました」
このまま通常の告発を行えば、先に横領犯として捕らえられ、牢獄で口封じに殺される。
そう恐れたナサニエルは、エリアスへ相談した。
「そこで、まず彼を生きたまま安全に街から出し、別の植民地から証拠の帳簿を公表する計画を立てたのです」
だが、エリアスの計画には致命的な誤算があった。
パイクはすでに、エリアスの薬種店をも監視していた。
エリアスが、ナサニエルの入った棺を葬儀屋へ運んだ直後、パイクの手下たちに襲撃され、解除薬を奪われた。
予備の薬は杖へ隠していたが、連れ去られる際の抵抗で杖を折られ、店へ残されてしまったのだという。
「……どうして、ハンター支部へ相談しなかった?」
俺は低い声で尋ねた。
「支部の内部に、ブラックウッド商会と繋がっている人間がいる可能性を恐れたのです」
「根拠は?」
「ありません」
「じゃあ、確認もせずに全員を疑って、素人だけで勝手に抱え込んだのか?」
エリアスは答えられなかった。
「あんたが彼を助けようとした善意は否定しない。でもな、失敗すれば死ぬ劇薬を使って、解除の責任まで一人で抱え込んだ結果……あの人は今、本当に石台の上で死にかけてるんだぞ」
「……私の傲慢な判断です。責任は取ります」
「死んだら、取れない責任もあるんだよ」
ハンター支部へ到着するなり、アーサーが証拠保管庫から、あの折れた杖を持ってきた。
俺たちは息を呑み、柄を覆う厚い革をナイフで切り開いた。
中から、黒い蝋で何重にも密封された、細長い金属の筒が出てきた。
筒の蓋を開ける。
中には、親指ほどの小さなガラス瓶が二本、布に包まれて収まっていた。
【第一】
【第二】
インクで印が書かれている。
瓶は、割れていなかった。
エリアスが光へ透かし、薬液の色と沈殿物を確認する。
「……大丈夫です。薬効は失われていません」
封印室へ飛び込むと、患者の状態は限界に近づいていた。
心臓の収縮はさらに弱く、間隔は絶望的に開いている。
自発呼吸は完全に停止し、体温は室温と変わらないほど冷たい。
「五日目の限界まで、あと数時間といったところです」
ラッシュの顔は蒼白だった。
エリアスが解除手順を説明し始めた。
だが俺は、口頭説明だけで作業を始めさせなかった。
「アーサー! 手順を一項ずつ紙に書け!」
一、部屋を僅かに暖める。
二、患者の身体を急激に温めない。
三、首筋の蝋膜を温布で柔らかくする。
四、隠蔽印の特定の一線だけを切る。
五、第一薬を三滴、舌の下へ垂らす。
六、心臓の反応を待つ。
七、嚥下反応が戻るまで、第二薬を与えない。
八、第二薬を水で薄め、少量ずつ飲ませる。
九、痙攣が出た場合は中止する。
十、呼吸が戻っても、固形物を与えない。
「途中で何が起きたら、どこで止める?」
俺が厳しく問うと、エリアスは停止条件と、危険な兆候についても説明した。
口頭の説明だけに頼らず、実施する順番と、処置を止める条件を明文化する。
命がかかった現場だからこそ、焦りに任せて手順を飛ばしてはならない。
ラッシュが温めた布で首筋の蝋膜をゆっくりと柔らかくし、エリアスが細い器具で慎重に剥がした。
下から、灰と薬液で描かれた、小さな呪術的な印が現れた。
「この印をすべて消せば、押さえ込まれていた身体の機能が、一度に戻ってしまいます。弱り切った心臓が耐えきれません。……切るのは、この一本だけです」
エリアスの指示に従い、ラッシュが細い刃で、印の一部に小さな切れ目を入れた。
男の胸が、ごく僅かに震えた。
しかし呼吸は戻らない。
心臓の収縮間隔が、ほんの少しだけ短くなった。
「第一解除薬を」
エリアスが小瓶の蓋を開け、細い管を使って正確に三滴、男の舌の下へ垂らした。
すぐには何も起こらない。
一分。
二分。
三分。
「……反応がありません!」
ラッシュが悲痛な声を上げる。
「待ってください。薬が回るまで、時間がかかります」
エリアスが祈るように言う。
俺は全神経を集中させ、真祖の感覚で男の体内の血流を感じ取った。
完全に止まりかけていた、氷の下の細い水脈。
それが薬へ反応し、少しずつ、少しずつ動き始めている。
「まだ薬を追加するな。……血が、動いてる」
五分後。
男の胸の奥で、心臓が一度、大きく収縮した。
次に、前よりも明確に短い間隔で二度目。
ラッシュにも、その胸の動きが目で確認できた。
だが、心拍は戻り始めたものの、自発呼吸は一向に戻らない。
男の顔色が、青白さから危険な暗い紫色へ変わり始める。
血が巡り始めたのに、空気が入ってこないのだ。
「呼吸を戻さなければ窒息します!」
ラッシュが焦り、第二薬の瓶へ手を伸ばした。
「駄目だ! まだ飲み込めない!」
俺がその手を止めた。
喉の反射を確認するが、嚥下反応はない。
この状態で無理に薬を口へ流し込めば、気道へ入って肺を塞いでしまう。
「舌の根元を刺激してください。喉が動いて、飲み込む準備ができるまで待つしかありません」
エリアスの言葉に、ラッシュとエリアスが、舌と喉へ最低限の刺激を与え続ける。
俺は血流を監視し、アーサーが秒数と身体の変化を記録していく。
永遠にも思える数十秒後。
男の喉仏が、ごく僅かに上下へ動いた。
次の瞬間。
「カハッ……!」
男の胸が大きく持ち上がった。
しかし、うまく息を吸えず、喉の奥から詰まったような音が鳴る。
ラッシュが即座に頭部の位置を変え、口内を確認し、少量の粘液を布で拭い取った。
「ヒュー……ッ……」
男が初めて、自力で空気を肺へ吸い込んだ。
非常に浅く、苦しげな呼吸。
一度。
長い間隔。
そして二度目。
「呼吸は戻った。でも、まだ第二薬を一気に入れるなよ」
第二薬を水で大きく薄める。
ラッシュが嚥下反応を確かめながら、ごく少量ずつ慎重に与えていく。
数分後。
患者の身体が、ビクッと大きく痙攣した。
「止めてください。ここからは、薬が全身へ馴染むのを待ちます」
心拍が一時的に、危険なほど速くなる。
俺は真祖の感覚で、血流、心臓の強さ、手足の末端への循環を監視し続けた。
ただし、自分の血を与えたり、超常の力で身体を無理に治したりはしない。
あくまで状態の観察と、いつ処置を止めるべきかの判断にのみ使う。
長い時間をかけて。
呼吸が安定し、体温が少しずつ上昇する。
冷たかった指先の色が、赤みを取り戻していく。
瞳孔が光へ微弱に反応し始め、心拍が人間の医師の耳にも確認できる強さになった。
そして、男の瞼がゆっくりと開いた。
ナサニエルは、焦点の合わない虚ろな目で、石造りの天井を見つめた。
彼が喉から絞り出した第一声は、
「……埋葬は……?」
だった。
「されてないよ。危うく、生きたまま解剖されるところだったけどな」
俺が言うと、ナサニエルの目に、明確な恐怖の色が浮かんだ。
彼は視線を巡らせ、傷だらけのエリアスの姿を見つけた。
「エリアス……」
「生きてる。彼も生きてるし、あんたも生きてる」
その言葉を聞き、ナサニエルは深く安堵したように息を吐き、再び意識を失った。
「気を失っただけです。心臓も呼吸も、続いています」
ラッシュが疲労困憊の顔で、それでも確かな達成感を滲ませて報告した。
少なくとも、目覚めさせることには成功した。
患者が眠っている間、俺たちは別室で、拘束したパイクから事情を確認した。
俺一人で密室の尋問にはしない。
支部長代理、アーサー、商会主のブラックウッド、そして後日の手続きに備えて、市の治安判事の書記を立ち会わせた。
パイクは、最後まで強気だった。
「ナサニエルが商会の金を盗んだのです! 私は彼を捕まえようとしただけだ!」
「その可能性は高いね」
俺は素直に認めた。
パイクは、自分の主張が通ったと安堵の顔を見せる。
だが、俺は続けた。
「でも、彼が金を持ち出したことと、あんたが帳簿を長年にわたって改竄し、商品を横流ししていたことは、まったく別の問題だ」
旧倉庫で発見した商品の記録。
正式帳簿と控えの数字の差。
パイクの署名がある旧倉庫維持費。
エリアスの証言。
薬を破壊した場面を目撃した者たちの証言。
一つずつ机の上へ並べていく。
パイクは、ナサニエルが逃亡した後、
「金を盗んで逃げた会計係」
として、すべての不足分の責任を押しつけるつもりだった。
だが、ナサニエルが偽装死を選んだため、パイクは解除薬を奪い、仮死状態のまま本当に死なせようとした。
商会主のブラックウッドは、青ざめた顔で弁明した。
「私は、殺すつもりまでは本当に知らなかったのです……!」
「それは認める。でも、不自然に膨れ上がる利益と、異常な破損品の数を見なかったことにはならないよな」
俺は、ヴァレンタイン商会との取引を再開するかどうか検討する最低条件として、
商会の全帳簿の開示
横流し品の回収
不足分の精算
不正取引先の一覧提出
ナサニエルへ押しつけられていた不足分の訂正
を要求した。
「そして、当面の間、ヴァレンタイン商会との取引は完全に停止させてもらう」
「取引を切られるのですか……!」
「今すぐ永遠に切るとは言わない。でも、自分たちでも数字を信用できない商会に、俺の大事な商品は預けられない」
それは法律上の処罰ではない。
取引相手として、信用を失ったという話だ。
さらに俺は、ブラックウッド商会の記録制度を改めるための条件を示した。
「パイク一人が、入庫数、破損数、倉庫移動、売却先、帳簿確認のすべてを支配できたことが、この不正の最大の原因だ」
入庫数は、荷役責任者と会計係が別々に記録する。
破損品は一人で処分せず、必ず二名以上で確認し、現物か処分記録を残す。
倉庫移動には、移動元と移動先、双方の署名を入れる。
商品を売った記録と、倉庫から減った数を、別の担当者が照合する。
そして何より、
「損が増えた時だけ調べるんじゃない。理由の分からない利益が増えた時も、必ず理由を調べろ」
と釘を刺した。
二日後。
ナサニエルの意識が、はっきりと安定した。
まだ寝台から起き上がることはできず、温かい水と薄いスープを少し口にできる程度だが、言葉は話せる。
ラッシュが付き添う中、俺は彼へ尋ねた。
「話したくないことは、今すぐ話さなくていい。でも、命に関わることと、他の人間が危険になる事実だけは教えてほしい」
ナサニエルは、途切れ途切れに証言を始めた。
パイクの帳簿不正を発見したこと。
最初はブラックウッドへ告発しようとしたこと。
だが、自分の署名が不正な帳簿へ勝手に使われているのを見つけ、先に横領犯として仕立て上げられると悟ったこと。
下宿を監視され、エリアスへ相談して、偽装死で街を出る計画を立てたこと。
棺を自分で注文したこと。
トーマス・ヘイル名義の紹介状と雇用証明を作ったこと。
「そして……逃亡費用と、証拠を安全な場所から送るための資金として、商会の現金を無断で持ち出しました」
彼は、十八ポンドを持ち出したと告白した。
その一部は箱の中へ残っており、まだ使われていない。
「私は、正しいことだけをしたわけではありません」
ナサニエルは、力のない声で言った。
「商会の金を持ち出した」
「はい」
「偽の紹介状と雇用証明も作った」
「はい」
「他には?」
ナサニエルは、自分が逃亡する時間を作るため、同僚の帳簿へ一部の確認作業を押しつけたことも告白した。
無関係な同僚を犯人に仕立てるほどではなかった。
しかし、結果的に、その同僚へ疑いが向く可能性はあった。
「怖かったのです。殺されるか、盗人として一生牢獄へ入れられるか、その二つの道しか見えなかった……」
「怖かったことは記録する。でも、恐怖があったからって、やったことの全部が許されるわけじゃないぞ」
「……分かっています」
ナサニエルが、不安げに尋ねてきた。
「私を、市の役人へ引き渡すのですか?」
「身体が回復したらね」
ナサニエルの顔が強張る。
「いいか。俺があんたを助けたのは、あんたが完全に無実の善人だからじゃない。何をしたのかを調べる前に、ただの死体として冷たい台の上で切られていい人間じゃなかったからだ」
「……はい」
「帳簿不正の重要な証言者として、身の安全を守るよう求める。でも、持ち出した金と、偽の書類については、あんた自身が自分の口で説明しろ」
命は助ける。
だが、彼がしたことまで消すわけではない。
エリアスもまた、支部で治療を受けながら、今回使った薬と術について説明を求められていた。
俺は彼に、
死眠薬の調合法
第一解除薬と第二解除薬の処方
隠蔽術の構造
使用量
危険性
禁忌事項
解除時の停止条件
を、ハンター支部へすべて提出させた。
以後は単独での使用を禁止する。
使用前に記録を残す。
解除薬を二組準備する。
対象本人の同意を記録する。
医師か支部員が立ち会う。
使用後も、一定期間の経過観察を行う。
「二度と使うな、とは言わないのですか」
エリアスが驚いて尋ねた。
「正しく管理して使えば、致命傷を負った人間を、安全な場所まで運ぶために役立つかもしれない。でも、今回みたいに危険な技術を一人で抱え込むのは絶対に禁止だ」
危険な技術を、ただ恐れて焼却するのではない。
危険性と使用条件を記録し、管理できる形へ変える。
それが運用保守だ。
パイクと雇われた男たちは、市の治安当局へ引き渡された。
その際に提出した記録には、
商会財産の横領
帳簿の改竄
商品の横流し
エリアスの拘束と暴行
証拠を隠そうとした行為
ナサニエルを死亡させる意図で解除薬を破壊した行為
を、それぞれ分けて記した。
どの行為をどのように裁くかは、治安判事と、その後の手続きへ委ねる。
パイクは連行される直前まで、
「ナサニエルも盗人だ!」
と叫び続けていた。
「そうだね。だから、あいつがしたことも別にちゃんと調べるよ」
俺がそう答えると、パイクは言葉を失った。
自分以外の者にも責任があるという主張は、彼自身の責任を消す理由にはならない。
ナサニエルは、しばらくハンター支部の患者として療養を続けることになった。
回復後は、治安判事の前で証言を行う。
箱の中へ残っていた現金は、治安判事の書記が立ち会う中で全額を数え、封をした。
正式な返還先と扱いが決まるまで、事件に関係する金として支部の保管庫へ預ける。
すでに使った分についても、ナサニエル本人に金額と用途を申告させる。
「回復したら、ヴァレンタイン商会で働かせていただけませんか。帳簿仕事なら、誰よりも正確にできます」
ナサニエルが申し出てきた。
俺は即座に却下した。
「商会の金を持ち出して、偽の紹介状まで作ったと告白したばかりの人間に、いきなりうちの帳簿を触らせるわけないだろ!」
「……当然ですね」
「まずは完全に回復して、持ち出した金について説明して、自分の口で全部証言しろ。話はそれからだ」
完全に見捨てはしない。
だが、即座に信用するほど甘くもない。
事件から数日後。
ヴァレンタイン商会本店。
俺の机の端に置かれ続けていた、
【人間かどうか確認できない遺体について】
という報告書。
俺はその表紙を消さず、その下へ追記した。
【訂正】
対象は人間男性。
氏名はナサニエル・リード。
本人の証言および複数の記録によって照合済み。
薬物と隠蔽術による、人為的な仮死状態。
解除処置に成功。
現在は治療中。
旧判断および旧名称は、経過確認のため削除せず保存する。
「報告書を閉じますか?」
アーサーが尋ねる。
「遺体としての報告は、これで終わりだ。患者の医療記録と、商会不正の調査記録、治安事件の記録、薬術の管理記録は、それぞれ別に続ける」
一冊の怪異報告が、複数の記録へ分かれた。
問題を一つの箱へ押し込めず、必要な種類ごとに分解したのだ。
ハンター支部。
ナサニエルはまだ弱々しいものの、寝台の上で自力で水差しを持ち、水を飲めるようになっていた。
ラッシュが、その様子を細かく記録している。
エリアスは折れた杖を修理しながら、解除薬の処方と使用手順を書き直していた。
支部長代理は、新しい仮死確認手順と、死眠薬の管理規則を壁へ掲示している。
俺はナサニエルへ尋ねた。
「なぁ。名前は、本当にナサニエル・リードでいいんだよな?」
「はい。少なくとも、それだけは私の本当の名前です」
「よかった。そこまで偽物だったら、また最初から、お前の生まれた町の帳簿を遡るところだったよ」
ナサニエルが、初めて僅かに声を出して笑った。
「笑わせないでください。まだ呼吸が安定していません」
ラッシュが、すかさず厳しい声で注意する。
「やっぱり、医者が一番怖いな」
俺は肩をすくめた。
最後に、壁へ掛けられた記録札が目に入った。
旧札。
【正体不明遺体・処分保留】
新札。
【ナサニエル・リード・回復中】
旧札も捨てられることなく、新札の裏へ保存されていた。
死者の帳簿を遡った先にいたのは、死んだ男ではなかった。
自分の棺を注文し、自分の死を準備し、別人の名前で街から消えようとした、一人の追い詰められた会計係だった。
何から逃げていたのか。
誰を信用し、誰を恐れていたのか。
持ち出した帳簿の数字は真実なのか。
それらを調べるためにも、まず彼に生きていてもらわなければならなかった。
命を救うことは、罪を消すことではない。
だが、罪を正しく調べるためには、生きた証言者が必要なのだ。
机の端を占領し続けていた、
【人間かどうか確認できない遺体について】
という報告書は、ようやく閉じられた。
代わりに、新しい患者記録が一冊増えた。
少なくとも、この街から死体が一つ減り、生きた人間が一人増えたのだから、大いなる進歩ということにしておこう。
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