真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

29 / 39
第29話 真祖吸血鬼、燃えた税関船の報せを読む

 腐らない肉の製造が軌道へ乗り、商会に活気が戻ったのも束の間。

 

 翌朝、俺はフィラデルフィア本店の自室で、北方のプロヴィデンスにいる取引商人から届いた最初の手紙を、アーサー、ギデオンとともに読み直していた。

 

 そこに書かれているのは、極めて簡潔な速報だった。

 

『ロードアイランド沖にて、英国税関船ガスピー号が座礁。夜間、武装した一団が襲撃。指揮官が負傷。船が焼失。英国側が犯人捜索へ動く』

 

 ところが、昼前に別の商船がフィラデルフィアへ入港すると、二通目の手紙が届いた。

 

『ガスピー号は日頃から非武装の商船を不当に略奪していた。勇敢なる植民地人は、正当防衛として横暴な船を排除したのだ。乗員には一人の死者も出さず、岸へ安全に送り届けた』

 

 さらに午後には、ニューヨークを経由した商人から三通目の手紙が持ち込まれる。

 

『数百人の凶悪な暴徒が国王の軍艦を急襲! 指揮官を容赦なく射殺し、乗組員を夜の海へ投げ込み、船を略奪した上で焼却した!』

 

 俺は三通の手紙を机へ並べ、深くため息をついた。

 

「……なあ。指揮官が、手紙ごとに生きたり死んだりしてるんだけど」

 

「情報が増えれば増えるほど、何が起きたのか、まったく分からなくなっておりますな」

 

 アーサーが冷静に事実を指摘する。

 

「死者蘇生の噂より、死者の増減が激しいな」

 

 ギデオンが皮肉を言った。

 

 俺は羽ペンを取り、三通の手紙の文章から、評価を示す言葉だけを線で消していった。

 

 勇敢な愛国者。

 

 凶悪な暴徒。

 

 横暴な税関船。

 

 正義の報復。

 

 卑劣な反逆。

 

 解放。

 

 略奪。

 

 これら書き手の感情や政治的立場を示す言葉を、すべて別紙へ移す。

 

 残ったのは、非常に短い事実の骨組みだけだった。

 

『船が座礁した。夜間に武装した者たちが接近した。乗船した。指揮官が銃撃を受けた。乗員が船外へ移された。船が焼けた』

 

「まずは、誰が好きか嫌いか、正義か悪かを全部抜いて、何が物理的に起きたかだけを残すんだ」

 

「人間が書いた文章から感情と装飾を抜けば、ずいぶんと短く、無味乾燥になるものですね」

 

 アーサーが感心したように言う。

 

 次に、俺は手紙の書き手を確認した。

 

 一通目のプロヴィデンスの商人は、事件現場を直接見ていない。

 

 港へ戻った船員や住民から聞いた内容を、速報としてまとめただけだ。

 

 二通目のロードアイランドの海運関係者は、ガスピー号が普段どのような取り締まりを行っていたかについては、直接知っている可能性が高い。

 

 だが、夜間の襲撃そのものを目撃したわけではない。

 

 三通目のニューヨークの商人に至っては、ロードアイランドから届いた別の手紙を、さらに自分の言葉で要約して転送しただけだった。

 

「三通あるように見えるけど、三人の目撃者がいるわけじゃない。元をたどれば、同じ港で流れた一つの噂を、別々の人間が自分に都合のいい形へ書き換えてるだけかもしれない」

 

「人数が増えても、証人が増えたとは限らないわけか」

 

 俺は大きな紙を三つの欄へ分け、現在の情報を分類した。

 

【確認度・高】

 

 ガスピー号が座礁した。

 

 武装した一団が夜間に乗り込んだ。

 

 指揮官ウィリアム・デューディングストンが負傷した。

 

 乗員が船から移された。

 

 船が焼失した。

 

【確認度・中】

 

 襲撃者はプロヴィデンス周辺から集まった。

 

 複数の小舟が使われた。

 

 事件前に集合場所があった。

 

 船内の書類や物品が持ち出された。

 

【未確認】

 

 襲撃者の正確な人数。

 

 最初に発砲した者。

 

 発砲の具体的な経緯。

 

 指揮を執った者。

 

 事前計画へ関与した商人。

 

 事件へ参加した全員の名前。

 

 略奪が目的だったのか。

 

 政治的独立を目的としていたのか。

 

「ガスピー号が商船ハンナ号を追跡中に浅瀬へ乗り上げ、その後、武装した一団に襲われたという基本的な経過は、複数の記録で一致している。そこまでは事実として扱おう」

 

     ◆

 

 商会の外へ出ると、通りで少年たちが新しい歌を歌っていた。

 

「暴君の船を燃やした! 海の自由を取り戻した! 国王の犬を追い払った! 名もなき自由の勇士たち!」

 

 ガスピー号焼却を題材にした勇ましい歌や印刷物が流れ始め、事件を植民地側の抵抗の象徴として語る者が増えていた。

 

 若い店員が、興奮気味に俺へ言ってきた。

 

「旦那様、格好いいじゃないですか! 横暴な税関船を、市民が自分たちの手で追い払ったんですよ!」

 

「格好いい歌かどうかと、何が本当に起きたかは別の話だ」

 

「でも、英国側が先にひどい取り締まりをしていたのでしょう?」

 

「だからといって、裁判も法的手続きもなしに、夜中に武装して人を撃ち、船を燃やしていいことにはならない」

 

 店員は、俺の反応に不満そうに唇を尖らせた。

 

 翌日。

 

 今度は英国寄りの保守的な商人が、別の一枚刷りを商会へ持ち込んできた。

 

 そこでは襲撃者が、

 

『反逆者』

 

『海賊』

 

『暗殺者』

 

『国王に弓を引いた暴徒』

 

 と激しく非難されている。

 

「ヴァレンタイン氏。このような無法行為を許せば、十三植民地全体が無法者の集まりだと本国に思われます。ロードアイランドの港を直ちに閉鎖し、関係商人を全員拘束するべきでしょう!」

 

「全員?」

 

「犯人を匿っている町全体が同罪です」

 

「一つの町に犯人がいるからって、町全体を犯人扱いするのか?」

 

「本国の捜査へ協力しなければ、当然でしょう」

 

「その理屈を認めたら、次はフィラデルフィアで誰か一人が暴れただけで、俺たち全員が反逆者扱いされるんだぞ」

 

 保守的な商人は言葉を詰まらせた。

 

 やがて、急進派の若者と英国寄りの商人が、商会の前で同時に俺へ迫ってきた。

 

「ヴァレンタイン氏は、自由を守ったロードアイランドの人々を支持するのですか!?」

 

「それとも、国王の法を支持し、反逆者を非難するのですか!?」

 

 俺は両方を交互に見て、静かに答えた。

 

「ガスピー号の横暴な取り締まりが事実なら、それは法の下で調べるべきだ。そして、武装して乗り込み、人を撃ち、船を焼いたことも、法の下で調べるべきだ」

 

「両方を同列に扱うのですか!?」

 

 急進派が怒る。

 

「同列とは言ってない。別々の問題として、それぞれ扱うと言ってるんだ」

 

「つまり、立場を明らかにしないと?」

 

 英国寄りの商人が眉をひそめる。

 

「事実は、攻撃した側が英国か植民地かで変わるものじゃない」

 

「便利な答えではないな」

 

 ギデオンが背後で呟く。

 

「便利な答えを出すために確認してるんじゃないんだよ」

 

     ◆

 

 フィラデルフィアの海運商人たちが、不安を抱えてヴァレンタイン商会へ集まってきた。

 

 彼らの最大の関心は、政治的理念や正義ではなかった。

 

 ロードアイランド方面の航路は安全か。

 

 英国海軍の検査が強化されるか。

 

 商船まで報復的に差し押さえられるか。

 

 船員が容疑者扱いされるか。

 

 海上保険料が上がるか。

 

 港への入港が遅れるか。

 

 英国軍艦が増派されるか。

 

 密輸と正規交易が、一緒に規制されるか。

 

「ヴァレンタイン氏。誰が正義かより、明日、次の船を出していいのかが知りたいんだ」

 

「その判断をするためにも、噂と確認済みの情報を分ける必要がある」

 

 俺は商人たちへ、新しい統一書式を提示した。

 

 アーサーが帳面を用意しながら尋ねる。

 

「旦那様。今度は政治事件用の帳票ですか」

 

「政治用じゃない。遠方の事件で、不確定な噂のせいで商売を止めないための確認票だ」

 

「政治用の帳票を作った人間は、皆そう言うのかもしれんな」

 

 ギデオンが言う。

 

 俺が作った《遠隔事件確認票》。

 

 項目は以下のとおりだ。

 

 一、文書が書かれた日。

 

 二、商会へ届いた日。

 

 三、書いた人物。

 

 四、書いた人物の立場。

 

 五、本人が直接見たこと。

 

 六、他人から聞いたこと。

 

 七、複数の資料で一致する事実。

 

 八、一つの資料にしかない主張。

 

 九、別の資料と食い違う部分。

 

 十、書き手自身の意見。

 

 十一、商取引や航海への具体的な影響。

 

 十二、後から訂正された箇所。

 

 そして、書式の最上部には、極太の字でこう書いた。

 

【原文を捨てない】

 

 要約を作っても、元の手紙は絶対に保存する。

 

 転記者が文章を変えた場合は、変更した箇所と、誰が変更したのかを残す。

 

 手紙一通ごとに番号も付けた。

 

【ロードアイランド事件・第一報・プロヴィデンス商人・六月十二日付】

 

「手紙にも、保存肉と同じような番号を?」

 

「どの情報がどこから来て、どの文章へ使われたか追えないと、後から訂正できないだろ」

 

     ◆

 

 最初に訂正されたのは、

 

『指揮官デューディングストンが射殺された』

 

 という誤報だった。

 

 ロードアイランドから新たな手紙が届き、指揮官は銃撃を受けたものの、その場では死亡せず、事件直後に手当てを受けていたことが分かった。

 

 俺は、先に届いていた死亡と書かれた第三報を破棄しなかった。

 

 余白へ、

 

【指揮官死亡との記述は誤り。後報により生存を確認】

 

 と追記した。

 

「間違った手紙を燃やさないのですか?」

 

「どうしてその誤報が広がったのかを調べる時に必要になるんだ」

 

 事件から一か月ほどが過ぎた頃、プロヴィデンスの取引商人から個人的な追伸が届いた。

 

『町では、誰が事件に参加したかを知っている者が多い。しかし、公の場では誰も名前を口にしない。酒場では武勇伝が語られるが、役人が来れば、皆が何も知らないと言う』

 

「では、地元住民が犯人を組織的に隠しているのですな」

 

 アーサーが推測する。

 

「そうかもしれない。でも、この一通の追伸だけでは断定できない」

 

「皆が知っていて、法廷だけが知らないわけか」

 

「町で広く信じられている話と、証拠として使える事実は別だ」

 

 急進派の若者は、この話を自分に都合よく解釈した。

 

「誰も証言しないのだから、犯人など最初から存在しなかったのです!」

 

「証言がないことと、事件がなかったことは同じじゃないぞ」

 

 一方、英国寄りの商人は、逆の解釈をした。

 

「誰も証言しないのだから、町全体が反逆の共犯だ!」

 

「証言がないことと、全員が犯人であることも同じじゃない」

 

「両側とも、沈黙を自分に都合よく使っているな」

 

「証拠が足りないなら、足りないと書くしかないんだ」

 

     ◆

 

 やがて、ロードアイランド総督ジョセフ・ウォントンが、事件関係者に関する情報へ百ポンドの懸賞金を提示したとの布告が届いた。

 

 フィラデルフィアの商人たちの間では、

 

「百ポンド欲しさに、無関係な商売敵まで売られるのではないか」

 

 という懸念が出た。

 

 俺は確認票へ、新しい欄を加えた。

 

【情報提供者が得る利益】

 

 金銭。

 

 恩赦。

 

 政敵への報復。

 

 商売上の競争相手の排除。

 

「報酬があるから、証言が嘘だとは限らない。でも、報酬があることは必ず記録する」

 

 ほどなく、ヴァレンタイン商会へ匿名の手紙が届いた。

 

『フィラデルフィアのある商人が、ガスピー号襲撃者へ武器を売った。その商人は英国への反逆を企んでいる』

 

 名指しされたのは、俺と競合している商人だった。

 

「真偽を調べますか?」

 

 アーサーが身構える。

 

「まず、この手紙だけを根拠に、本人へ疑いを向けるのはやめよう」

 

 匿名文書には、直接目撃した内容がない。

 

 日付がない。

 

 武器の種類がない。

 

 購入者の名前がない。

 

 引き渡した場所も書かれていない。

 

 俺たちは、名指しされた商人へ事情を聞いた。

 

 彼が直近の契約を巡り、複数の商人と争っていたことは分かった。

 

 だが、匿名の手紙を書いた人物そのものは特定できなかった。

 

 俺はその手紙を確認度最低として保管し、

 

【裏づけなし・私的な利害による告発の可能性あり】

 

 と記した。

 

     ◆

 

 第26話の騒動で協力した印刷屋が、俺へ相談に来た。

 

 二種類の見出し案を持っている。

 

 一つ。

 

【自由の勇士、暴君の船を焼く!】

 

 もう一つ。

 

【国王の軍艦を焼いた反逆者たち!】

 

「ヴァレンタイン氏。どちらが売れると思います?」

 

「両方売れるだろうな」

 

「では、どちらを刷れば?」

 

「事実だけをまとめた三枚目を刷れ」

 

「一番売れなさそうな物を?」

 

「最初の二枚を刷るなら、その隣に置け」

 

 俺が作成した一枚刷り。

 

 見出しは、

 

【ロードアイランド沖にて英国税関船焼失――現在までに確認された事実】

 

 本文を三つに分ける。

 

【確認されたこと】

 

 追跡中の税関船が座礁。

 

 夜間に武装した者たちが乗り込んだ。

 

 指揮官が負傷。

 

 乗員は船外へ移された。

 

 船が焼失。

 

【確認されていないこと】

 

 全参加者の身元。

 

 最初に発砲した人物。

 

 指揮系統。

 

 襲撃前の計画範囲。

 

 政治的目的。

 

 略奪された物品の全容。

 

【今後予想される実務上の影響】

 

 税関検査の強化。

 

 ロードアイランド航路の遅延。

 

 船員への聞き取り。

 

 懸賞金目当ての告発増加。

 

 英国海軍と植民地商船の緊張。

 

 この刷り物を読んだ急進派は、

 

「英国の横暴を批判していない!」

 

 と怒った。

 

 英国寄りの者は、

 

「反逆者を明確に断罪していない!」

 

 と怒った。

 

 商会の壁には、

 

【ヴァレンタインは腰抜け】

 

【英国へ媚びる夜の商人】

 

【反逆者を庇う吸血鬼】

 

 などと落書きされた。

 

「英国へ媚びてるのか、英国へ反逆してるのか、どっちかに統一してくれないかな!」

 

「両方から嫌われている点だけは、情報が完全に一致しているな」

 

 ギデオンが落書きを消しながら言う。

 

     ◆

 

 夜。

 

 アビゲイルが俺へ尋ねてきた。

 

「旦那様は……船を焼いた人たちを、悪人だと思われますか?」

 

 俺は少し考えた。

 

「一人ずつ違うと思う」

 

 ガスピー号の横暴へ、本気で怒っていた者。

 

 商売を邪魔されていた密輸商人。

 

 仲間に誘われ、断れなかった者。

 

 英国へ反抗したかった若者。

 

 酒と勢いで参加した者。

 

 船を燃やすつもりまではなかった者。

 

 最初から破壊を計画していた者。

 

「同じ舟へ乗っていても、同じ理由じゃない。だから、集団へ一つの名前をつけただけで、全員の責任を決めることはできないんだ」

 

 俺はボストンの法律家、ジョン・アダムズへ書簡を送った。

 

 質問は、犯人捜しではない。

 

 一、英国税関船への武装襲撃は、植民地法と英国法でどのように扱われ得るか。

 

 二、ロードアイランドで起きた事件を、どの法廷が扱うべきか。

 

 三、容疑者を英国本国へ送る法的根拠はあり得るか。

 

 四、証言だけで本国移送を決められるのか。

 

 五、植民地の陪審を経ない裁判は、臣民の権利と両立するのか。

 

「船を焼いたことが悪いかだけじゃない。悪いことをした疑いがある人間を、どう裁くかも同じくらい重要なんだ」

 

     ◆

 

 時間は流れた。

 

 六月。

 

 事件の速報が広がった。

 

 七月。

 

 懸賞金と告発が飛び交い始めた。

 

 八月。

 

 英国側が事件を重大な反逆として扱うらしいとの報道が増えた。

 

 夏が終わる頃には、事件そのものよりも、英国がどのような方法で関係者を捜し、裁こうとしているのかが問題になり始めていた。

 

 ボストンでは、植民地の権利を各町へ伝えるための政治的な通信の仕組みを作ろうとする動きも始まっていた。

 

 一方で、俺の確認票は、それとは別に、ロードアイランド、マサチューセッツ、ニューヨーク、ペンシルベニアの商人たちの間で複写されていた。

 

 原文。

 

 直接見聞。

 

 伝聞。

 

 現地の布告。

 

 航路への影響。

 

 後日の訂正。

 

 それらを同じ書式で書き足し、返送する者が増えていく。

 

「ヴァレンタイン式の事件確認票で送ってくれ」

 

 そう指定する商人まで現れ始めた。

 

「旦那様。これは、もはや商会同士の取引連絡だけではありません」

 

「分かってる」

 

「複数植民地の商人たちが、政治事件について、出所と確認度を追える形で情報を交換するための共通書式になりつつあります」

 

「作ろうと思ってない物ほど、勝手に大きくなるんだよな……」

 

 ただし、これは政治家たちが作る正式な通信委員会ではない。

 

 今のところは、商人たちが航路と取引を守るために使う、民間の連絡書式にすぎない。

 

 だが、商人たちはすでに、植民地の境界を越えて同じ事件の原文と訂正を交換し始めていた。

 

     ◆

 

 十二月半ば。

 

 ロードアイランドへ王命による調査方針の文書が到着したとの知らせと、その内容を書き写した手紙が、ニューヨーク経由でフィラデルフィアへ届いた。

 

 そこには、極めて強い指示が並んでいた。

 

『ガスピー号襲撃の全容を調査せよ。

 

 実行者だけでなく、計画者や指揮者も特定せよ。

 

 必要なら容疑者を拘束し、北米の英国海軍司令官の管理下へ引き渡せ。

 

 調査結果を王室へ報告せよ』

 

 アーサーが書類から目を上げた。

 

「海軍へ引き渡すということは……」

 

「植民地の外へ運ぶ準備があるってことだ」

 

 英国寄りの商人は言った。

 

「国王の船を焼いた者です。当然、英国本国へ送って厳正に裁くべきです」

 

 急進派は言った。

 

「英国へ送られるくらいなら、誰一人として証言するべきではない!」

 

 俺は両方を否定した。

 

「船を焼いた者へ裁判が必要なのは分かる。でも、だからといって、植民地の法廷も陪審も飛ばして、海の向こうへ送っていいことにはならない」

 

「なら、犯人を守るのですか?」

 

 急進派が問う。

 

「違う。裁判を守るんだ」

 

「反逆者にも権利を認めると?」

 

 英国寄りの商人が問う。

 

「嫌いな相手にも残らない権利は、権利じゃない」

 

 俺は、かつてボストンで見た裁判を思い出した。

 

 市民を撃った英国兵にも、弁護人、証言、陪審、判決が用意された。

 

 憎まれていた兵士たちを、怒りだけで処刑しなかった。

 

 だからこそ、その判決には意味があったのだ。

 

「ボストンの市民は、自分たちを撃った兵士にさえ法廷を残した。それなのに英国が、植民地人から法廷を取り上げるなら、何を正義と呼ぶんだ?」

 

     ◆

 

 夜。

 

 俺の机の上に、ガスピー号事件の最新確認票が置かれていた。

 

 最上部には、二つの大きな欄がある。

 

【事件そのもの】

 

 武装した植民地人が英国税関船へ乗り込んだ。

 

 指揮官を負傷させた。

 

 船を焼いた。

 

 実行者の全容は未確認。

 

【事件後の手続き】

 

 懸賞金による情報募集。

 

 王命による調査委員会。

 

 海軍管理下への容疑者引き渡しの可能性。

 

 植民地外で裁かれることへの懸念。

 

 俺は羽ペンへ赤いインクを含ませ、二つの欄を別々に囲んだ。

 

「どちらが、より危険だ?」

 

 ギデオンが問う。

 

「分からない」

 

「船を焼いた方ではないのか?」

 

「船を焼いた者を正しく裁けないなら、次は誰でも適当な理由で反逆者にできる。だから、どっちも放置できない」

 

「では、旦那様はどちらと戦うのですか?」

 

 アーサーが問う。

 

「事件を正義の英雄譚だけにする奴と、事件を口実に手続きを捨てる奴。その両方だよ」

 

 ガスピー号を焼いた炎は、一晩で消えた。

 

 だが、その事件を書いた手紙は、消えた炎よりも速く、複数の植民地へ広がっていった。

 

 ある手紙では、襲撃者は自由の英雄だった。

 

 別の手紙では、血に飢えた反逆者だった。

 

 ある者は、誰も証言しないことを無罪の証明と呼んだ。

 

 別の者は、誰も証言しないことを町全体の有罪の証明と呼んだ。

 

 だが、沈黙は無罪でも有罪でもない。

 

 分からないことは、分からないまま残さなければならない。

 

 机の上には、二つの欄があった。

 

 一つは、武装した市民が国王の船を焼いた事件。

 

 もう一つは、その容疑者を海の向こうへ連れ去って裁こうとする手続き。

 

 片方の誤りは、もう片方の誤りを正しくしない。

 

「……また、両方から嫌われそうだな」

 

 俺が呟くと、ギデオンが静かに頷いた。

 

「その点についてだけは、この街の急進派と国王支持派が、珍しく意見を一致させているようだ」

 

 机の横には、各地から届いた手紙が積み上がっていた。

 

 腐らない肉の注文書よりも、今度は訂正の必要な政治文書の方が、速い勢いで増え始めていた。

 




ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。