真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第3話 真祖吸血鬼、合法的な血のために石鹸を売る

 夜明け前。フィラデルフィアの裏通りにある、ハンター支部が押さえた目立たない宿の一室。

 

 分厚いカーテンを閉め切り、わずかな隙間から漏れる朝の光すら徹底的に遮断した薄暗い部屋の中で、俺はチューチューとストローを吸っていた。

 

 手に持っているのは、現代の記憶から能力で引き寄せた『血液パック風の代用品』である。

 

 味は悪くない。鉄分とほのかな甘みがあり、冷えていて飲みやすい。吸血鬼としての基本的な栄養も足りるし、飢えで理性を失うような事態も抑えられる。

 

 だが、どこか満たされない。

 

「腹は膨れる。死にはしない。でもこれ……食事っていうより、カロリーメイトやゼリー飲料だけで生活してる感覚なんだよな……」

 

 ポイと空のパックをゴミ箱に放り投げながら、俺は唇に残った赤い雫を舐め取った。

 

 真祖としての本能が、ほんの少しだけ生々しい『本物』の血を求めて疼く。

 

 とはいえ、直接人間の首筋に噛みついて吸血するのは、現代日本人としての衛生観念が全力で拒否している。病気とか普通に怖い。親のように人間を地下室で飼育して血を絞り取る「人間牧場」など論外中の論外だ。

 

 しかし、不老不死の吸血鬼として今後何十年、何百年と生きるのだ。ずっとこの味気ない代用品だけで我慢し続けるのも、精神衛生上よろしくない。

 

 だからこそ、俺が新大陸で構築すべき最優先課題は明確だった。

 

 ——同意と対価に基づいた、合法的で安全かつ清潔な血液供給の仕組み。

 

 俺は机の上のノートを開き、ペンを走らせる。

 

【合法血液供給への道】

 

 ・人間牧場は絶対に禁止(討伐ルート直行)

 

 ・無差別な辻斬り吸血も禁止(同上)

 

 ・本人の同意と金銭的対価が必要

 

 ・質の良い血を得るには、提供者が健康でなければならない

 

 ・健康な人間を増やすには、街全体の衛生環境の向上が必須

 

 ・公衆衛生の第一歩は、まず「手洗い」と「石鹸」

 

 そこでペンを止め、俺は深い深いため息をついた。

 

「……最強の吸血鬼として転生して、食生活改善計画の第一歩が『石鹸の普及』から始まるのか」

 

 地味すぎる。

 

 だが、論理の筋道は通っている。

 

 何事も基礎が大事だ。まずは宿主を清潔にすることから始めよう。

 

 *

 

 その夜、俺はさっそくフィラデルフィアのハンター支部を訪れた。

 

 表向きは寂れた倉庫だが、地下に降りると頑丈な扉の奥に前線基地が広がっている。そこの一番奥の執務室で、現地支部長のギデオン・ホイットロックは山積みになった書類と格闘していた。

 

 初老の英国系移民である彼は、かつては欧州で名を馳せた凄腕のハンターだったらしい。今は一線を退き、この街での隠蔽工作や情報網の維持を担っている苦労人だ。

 

 俺がドアをノックせずに顔を出すと、ギデオンは露骨に嫌そうな顔をして羽ペンを置いた。

 

「……また来たのか」

 

「やあ。友達のところにちょっと遊びに来ただけだよ」

 

「違う。誰が友達だ」

 

「冷たいなぁ。監視対象と監視者って、ほとんど親友みたいなものじゃん」

 

「絶対に違う。お前と顔を合わせるたびに、私の胃粘膜が削れていく気がする」

 

 ギデオンは眉間を揉み解しながらため息をついた。

 

 俺を心底危険視しているが、下手に手出しをして街を吹き飛ばされるわけにもいかず、かといって未来の知識を持つ俺をただ放置することもできない。彼もまた、板挟みの苦労人なのだ。

 

 俺は持参したノートを彼の机の上に置いた。

 

「ちょっと事業の相談があるんだけど」

 

「帰れ」

 

「まだ内容を一言も言ってないじゃん」

 

「お前の相談は、聞く前から胃に悪いと決まっているからだ」

 

 ギデオンの抵抗を無視して、俺は本題を切り出した。

 

「石鹸を売ろうと思う」

 

 ギデオンは、数秒ほど無言になった。

 

 真祖吸血鬼が、夜の闇に紛れてハンターの拠点に現れ、石鹸を売ると言い出したのだ。彼の混乱も無理はない。

 

「……なぜだ?」

 

「健康な血液供給源を確保するため」

 

「言い方を改めろ。討伐するぞ」

 

「冗談だよ。公衆衛生の改善のためさ」

 

「最初からそう言え。そしてそれは冗談ではないだろう」

 

 俺はフィラデルフィアの街の現状を指摘した。

 

 港町特有の悪臭、汚水、泥だらけの道。不衛生な環境で暮らす港湾労働者や移民たち。

 

 彼らにはまだ「見えない汚れを落とす」という習慣がない。いきなり現代医学の細菌理論を語っても、医師や説教師から怪しい妄言扱いされるだけだが、石鹸を使って手を洗うことなら、生活の延長線上で自然に普及させられる。

 

 ギデオンは腕を組み、慎重に言葉を選んだ。

 

「……本当に石鹸を売りたいというなら、現地の職人を雇え。動物の油脂と灰汁を使えば、この街でも作れる。特に珍しい商売ではない」

 

「俺も最初はそう思ったんだけどさ」

 

 俺は昼間にアーサーたちに調べてもらった、現地の石鹸事情を語った。

 

 この時代の石鹸は、作れることは作れる。

 

 だが、致命的に品質が安定していないのだ。

 

 原料の油の質によって出来がバラバラで、匂いもきつい。洗浄力はあっても肌への刺激が強すぎたり、逆にドロドロに溶けやすかったりする。しかも手作業なので、同じ形、同じ品質のものを大量に揃えることが難しい。

 

 なにより、現代の「身体を清潔に保つ」というよりは、「布の頑固な油汚れを落とす」という洗濯用途のニュアンスが強いのだ。

 

「あれじゃあ、日常的な手洗いの入口としては微妙だ。匂いがきついし、手荒れしそうだし、子供や産婦に使わせるには抵抗がある」

 

「贅沢を言うな。石鹸とはそういうものだ。汚れが落ちればそれでいい」

 

「いや、俺の知ってる石鹸はもっと白くて、肌触りが滑らかで、フローラルな匂いがして、泡立ちがフワフワなんだよ」

 

「王侯貴族向けの、馬鹿げた価格の贅沢品の話をしているのか?」

 

「いや、庶民がスーパーで百円で買うやつ」

 

「すーぱーとは何だ。また未知の概念で私を混乱させる気か」

 

 ギデオンが再びこめかみを押さえる。

 

 俺はあっけらかんと言った。

 

「だから、職人に作らせるのは諦めた。完成品を出そうと思う」

 

「……今、なんと言った?」

 

「石鹸を異次元倉庫から出す」

 

「現地の職人に作らせるという話はどこへ行ったのだ」

 

「俺が裏で大量に出すから、それを『工房で作りました』ってことにして流通させる。つまり、石鹸製造偽装事業だ」

 

「それを偽装と呼ぶことくらい、私にも分かる」

 

 *

 

 石鹸の現物は能力でいくらでも用意できる。

 

 だが、最大のハードルは「どうやって販売するか」だ。

 

 俺は致命的な陽光アレルギーという設定である。

 

 実際は日傘があれば平気だが、親の討伐隊に「日光に弱い」と見られている以上、表向きの弱点はそれに合わせた方がいい。

 

 昼間に表通りを堂々と歩いて商談をすることはできない。

 

 出自も不明の怪しい欧州貴族が、突然高品質な石鹸を大量に売り捌き始めたら、怪しまれるに決まっている。

 

 そこで俺は、机越しにギデオンをじっと見つめた。

 

 ギデオンの背筋が、ビクッと跳ねた。

 

「……なぜ私を見る」

 

「お願い♡」

 

「いやだ」

 

「俺、まだ一言もお願いの内容言ってないじゃん」

 

「お前がその気味の悪い笑顔を作った時点で、ろくな話ではないと本能が告げている」

 

「俺の代わりに、昼の代理人になって」

 

「絶対に嫌だ」

 

 ギデオンは即答したが、俺は引き下がらない。

 

「そう言うなよ、友達だろ?」

 

「違うが?」

 

「でも、俺の監視役のトップだろ?」

 

「それはそうだ」

 

「じゃあ、考えてもみてよ。あんたが代理人になれば、俺の金の動きも、品物の出入りも、取引相手も、一番近くで全て完全に把握できるんだぜ?」

 

「……」

 

「俺が勝手に怪しい資金洗浄をしたり、変な薬を混ぜたりしないように、帳簿も隅々までチェックできる」

 

「……」

 

「むしろ、監視の手段としては最高に安全で効率的じゃない?」

 

「……なぜ私が、吸血鬼の理屈で逃げ道を塞がれているのだ」

 

 ギデオンの顔が苦悩に歪む。

 

 彼は断りたいのだ。吸血鬼の商売の手伝いなど、ハンターの矜持が許さない。

 

 だが、俺を完全に野放しにして、どこかの商人を取り込んで暴走されるよりは、自分の手元で完全に管理・統制した方が「街の安全」を守れる。そのジレンマを突いたのだ。

 

 さらに、フランクリンという大物政治家・知識人がすでに俺の存在を知ってしまっている以上、彼らだけで勝手に事を進められるのもギデオンとしては避けたいはずだ。

 

 長い、長い沈黙の後。

 

 ギデオンは深く息を吐き出し、敗北を認めた。

 

「……よかろう。だが、条件がある」

 

「おっ、さすが話が分かる」

 

「私の名義は絶対に使わないこと。ハンター支部の名も当然出さない。お前の吸血鬼という正体も完全に伏せる。原料の仕入れと帳簿の辻褄は完璧に合わせる。出荷量を急に増やしすぎない。まずは医師や産婆、理髪師など、確実に衛生を必要とする場所から試験導入する。……少しでも問題が起きれば、即座に事業を停止する。これでいいな?」

 

「完璧だ。じゃあ、商会の名前はどうする?」

 

「私の名前は混ぜるなよ」

 

「じゃあ……『ホイットロック商会』で」

 

「使うなと言っただろうが!」

 

「じゃあ『ヴァレンシュタイン衛生公司』とか」

 

「怪しすぎる。どこの密輸組織だ」

 

「『ホイットロック&ヴァレンタイン衛生商会』」

 

「だから私の名前を混ぜるな! 信用が地に落ちるだろうが!」

 

「えー、でも表の顔になる現地の有力者の名前があったほうが信用されるし」

 

「失うのは私の信用なのだが?」

 

 すったもんだの末、表向きの商号は『ヴァレンタイン衛生用品商会』に決まった。

 

 俺の家名「ヴァレンシュタイン」の響きを少し柔らかく、現地の英語っぽくした形だ。

 

 ギデオンは名義上の顧問であり、監査役。昼の商談や現地の折衝は彼とその部下が担当し、俺は夜にだけ資金と商品を提供する「陽光に弱い欧州の投資家」という扱いになった。

 

「それから、もう一つ言っておくことがある」

 

 ギデオンは声を潜め、真剣な表情になった。

 

「ベンジャミン・フランクリンのことだ。お前はあの男に、あまりにも喋りすぎている」

 

「そう? ちょっと未来の品物を見せて、歴史の話をしたくらいだけど」

 

「それが危険だと言っているのだ。あれほど顔が広く、口も筆も立つ知識人に、なぜ自分が吸血鬼であることまであっさりと明かした」

 

「隠してて後でバレる方が拗れそうだったから。それに、魅了の魔眼で記憶を消したり口止めしたりするのは、そっちが禁止にしたルールじゃん」

 

「……それはそうだが」

 

「じゃあ、適度な情報開示で信頼関係を築いて管理するしかないでしょ」

 

「お前がぺらぺらと未来の歴史について語っているのを見て、その『信頼関係』の運用が危険だと言っているのだ」

 

「まあまあ、大丈夫だって」

 

「良くない。本当に魅了は使っていないのだろうな?」

 

「してないしてない。そんな力で人間を操ったら、親父や母さんと同じになっちゃうだろ。それは俺のプライドが許さない」

 

「……お前にその自制心があることは、こちらとしても認めざるを得ないが」

 

 ギデオンは結論を出した。

 

 フランクリンの存在は危険だが、有用でもある。俺の持ち込む未来の品々を理解し、それを安全な商品や印刷物に落とし込める知見を持つ人間は、この時代にはそう多くない。

 

「フランクリンには、必要最小限の情報だけを渡すこと。石鹸の商品説明や啓発のための印刷物で協力してもらうだけに留めろ。独立だの未来の政治だのという話題は、二度と口にするな。もし彼が誰かに漏らそうとした形跡があれば、私の情報網で必ず察知する。いいな?」

 

「了解。未来政治のネタバレは封印する」

 

「絶対に守れよ」

 

「たぶん」

 

「その『たぶん』という言葉を、今すぐお前のその石鹸で洗い流してこい」

 

 *

 

 こうして、壮大な『原料買い占め偽装作戦』が始まった。

 

 石鹸を売るからには、それを製造したという痕跡が帳簿上に必要だ。

 

 ギデオンの部下たちが昼間、フィラデルフィアの市場や業者から大量の物資を買い集める。

 

 動物の脂、植物油、灰、木桶、鍋、香草、香料、包み紙、麻紐、木箱、そして郊外の小さな工房と倉庫。

 

 俺が金貨を出し、彼らが現物を買い付け、それらは夜の間に俺の異次元倉庫へと吸い込まれていく。

 

 表向きは「郊外の工房で、欧州秘伝の製法を用いて試作を繰り返している」ということになっている。

 

 実際には、俺が夜中に一人でこっそり未来品質の石鹸をドサドサと引き寄せているだけだ。

 

 しかし、現代の石鹸をそのまま出すわけにはいかない。

 

 プラスチックのフィルム包装に、バーコードが印字され、「殺菌成分配合!」なんてポップな未来のフォントが踊っているパッケージを出せば、オーパーツすぎて魔女裁判にかけられる。

 

 そこで俺は、現代の石鹸を無地に近いプレーンな状態で引き寄せ、現地の薄紙で一つ一つ丁寧に包み直すことにした。

 

 そして、その上に木版画風のレトロなラベルを貼る。

 

 商品名は『ヴァレンタイン清潔石鹸(Valentine Clean Soap)』。もう少し格調高く『Valentine Sanitary Soap』とする案も出た。

 

 このラベルの文言作成には、印刷業者でもあるフランクリンに知恵を借りた。

 

「清潔、という言葉は良い」

 

 フランクリンは俺が書いた文案を見て、羽ペンでいくつか線を引いた。

 

「だが、効能を過剰に謳いすぎるな。これを使うだけで『病を完全に防ぐ』とか『傷が癒える』などと書けば、街に溢れる怪しい万能薬の詐欺師と同じに見られる。信用を落とすだけだ」

 

「なるほど。魔法の薬としてじゃなくて、あくまで『日常の習慣』として売るわけか」

 

「そうだ。商業において、商品は客に約束しすぎてはならない。約束を果たせなかった時の反動が大きいからな」

 

 フランクリンの指摘は的確だった。

 

 俺たちは議論を重ね、説明書きの文案を練り上げた。

 

『手を洗うための石鹸

 

 食事の前に

 

 傷の手当ての前に

 

 出産の介助の前に

 

 幼子に触れる前に

 

 汚れた仕事の後に』

 

 俺は文案を見ながら口を挟んだ。

 

「このリスト、『排泄の後に』も入れたいんだけど。一番大事でしょ、そこ」

 

「直接的すぎる」

 

 フランクリンが渋面を作る。

 

「だが必要なことだ」

 

 ギデオンが珍しく俺に同意する。

 

「ほら、支部長もそう言ってるし」

 

「では、少し婉曲な表現にしよう」

 

 フランクリンがペンを直し、書き加えられた最終文はこうなった。

 

『不浄な用を済ませた後に』

 

「……だいぶぼかしたなぁ」

 

「人は正論だけでは動かないのだよ、ヴァレンシュタイン卿。少しの奥ゆかしさが、商品を上品に見せるのだ」

 

 さすが未来の建国の父、大衆の心理を知り尽くしている。

 

 *

 

 準備が整い、いよいよ『石鹸の初披露』の日が来た。

 

 ハンター支部の地下室に、ギデオンの細いコネクションを通じて、フィラデルフィアの現場で働く少数の試験協力者が集められた。

 

 現地の医師、血を扱う理髪師、産婆、宿屋の女主人、そして港に出入りする船長。

 

 表向きは「欧州の投資家が持ち込んだ、新しい衛生用品の試作品発表会」という体裁だ。夜なので、俺も同席している。

 

 薄暗い部屋のテーブルの上に、木箱が開けられ、白く滑らかな石鹸がずらりと並べられた。

 

 全員が、息を呑んで黙り込んだ。

 

 この時代の、茶色くてゴツゴツした、獣臭い手作り石鹸とは明らかに異質だったからだ。

 

 まるで大理石を切り出したかのように形が均一に揃っており、表面は滑らかで、仄かに上品な香りが漂う。水をつければきめ細かい泡が立ち、洗い流した後の肌のつっぱりも少ない。

 

 最初に声を上げたのは、恰幅の良い宿屋の女主人だった。

 

「……信じられない。これを客室に置くことができたら、うちの宿はフィラデルフィアで一番の上等宿に見えるわ」

 

 理髪師がそれに続く。

 

「髭剃りの前にこれを使えば、肌を傷つけにくくなる。客が絶対に喜ぶぞ」

 

 産婆の老婆が、石鹸を大事そうに撫でる。

 

「産室で手が洗えるのはありがたい。血や羊水はどうしても汚れが落ちにくいからね。……だが、これほど美しい品は、どうせ高価すぎて私たちには手が出ないのだろう?」

 

 医師は腕を組みながら、真剣な表情で言った。

 

「傷の処置前にこれで手を洗う、か。理論はともかく、指先の汚れが落ちるのは悪くない」

 

 船長は興奮気味に身を乗り出した。

 

「船に積みたい。あの閉鎖された船室の最悪な臭いが少しでもマシになるなら、俺は喜んで金を払うぞ!」

 

 彼らの反応は上々だった。

 

 だが、フランクリンは石鹸そのものの効果よりも、別の点に注目していた。

 

「……この均質さが、何よりも奇妙だ」

 

 彼は木箱の中の石鹸を一つ一つ手に取りながら呟いた。

 

「どれも同じ重さ、同じ色、同じ香り。職人が一つずつ手作業で作ったものではない。だが、商品としては圧倒的に強い」

 

「王侯貴族向けの特注品みたいに見える?」

 

「それ以上だ。王侯貴族の財力をもってしても、これほど寸分違わぬ品質のものを箱単位で揃えるのは至難の業だろう。一体どういう工房の管理をしているのだ?」

 

 俺はギデオンの陰に隠れ、小声で呟いた。

 

「……これ、現代のスーパーだと三つセットで安売り棚に積まれてるレベルの普及品なんだけどな」

 

「黙れ。余計なことを言って聞かれたら、説明に困るのは私だ」

 

 ギデオンに足を踏まれた。

 

 次に揉めたのは「価格設定」だった。

 

 これだけの高品質だ。高く売れば間違いなく大儲けできる。富裕層や高級宿屋、船長たちは喜んで高値を払うだろう。

 

 しかし、それでは肝心の「公衆衛生の改善」に繋がらない。産婆や港湾労働者、貧困層に手が届かなければ、街全体の衛生レベルは上がらないのだ。

 

 かといって安く売りすぎれば、怪しまれるし、既存の職人の反発も強くなる。

 

「じゃあ、二種類出そう」

 

 俺が提案すると、ギデオンが嫌そうな顔をした。

 

「……また面倒を増やす気か」

 

「いや、簡単な話だよ。高級品と普及品でラインを分けるんだ」

 

 一つ目は『ヴァレンタイン清潔石鹸・白箱』。

 

 富裕層や高級宿、医師、理髪師向け。香料を少し強めにし、包装も高級な紙を使う。価格は相場よりもかなり高めに設定し、ここでしっかりと利益を出す。

 

 二つ目は『ヴァレンタイン清潔石鹸・港用』。

 

 港湾労働者、産婆、診療所、孤児院、貧民街向け。香りは極力抑え、包装は簡素な薄紙のみ。価格はギリギリまで安くし、利益はほぼ度外視する。

 

「つまり、高級品で金持ちからたっぷり利益を吸い上げて、その金で赤字スレスレの普及品を作って庶民に衛生を流す仕組みだ」

 

 俺がドヤ顔で説明すると、ギデオンがこめかみを押さえた。

 

「……金持ちから吸う、という言い方をやめろ。お前の正体を知っている身としては笑えない」

 

「商業の基本戦略としては極めて正しい」

 

 フランクリンが感心したように頷く。

 

「正しいが、言い方は最悪だ。品がない」

 

「資本主義的吸血って呼んでよ」

 

「頼むから本当に黙ってくれ」

 

 *

 

 こうして、石鹸の販売が小規模からスタートした。

 

 卸す先は、ギデオンが信頼できると見込んだ薬種商、理髪師の店、宿屋、産婆のネットワーク、医師の診療所、そして港湾労働者向けの無料配布所だ。

 

 商品には必ず、フランクリンの印刷所で刷ってもらった小さな『説明紙』を添えた。

 

 そこには、難しい医学的見解は一切書かれていない。

 

『目に見えない汚れがあること』

 

『水だけでは落ちにくい汚れがあること』

 

『食事の前、傷の手当ての前、赤子に触れる前、不浄な用の後には、石鹸で手を洗うこと』

 

『それは体を洗い、家を健康に整える助けになること』

 

 細菌や感染経路といった概念は、この時代にはまだ早すぎる。

 

「本当はさ、細菌がどうやって繁殖して、どうやって傷口から入るのかとか、図解入りで説明したいんだけどね」

 

 印刷物を眺めながら俺が言うと、フランクリンが首を横に振った。

 

「そこまで踏み込めば、顕微鏡という未知の道具の証明、既存の医学教育との対立、神学論争、そして医師たちの猛反発がセットで押し寄せてくる。社会が混乱するだけだ」

 

「ならば、まずは理屈抜きで『習慣』を根付かせることからだ。手洗いを当たり前の行為にすればいい」

 

 俺が言うと、ギデオンが珍しくまともな相槌を打った。

 

「お前にしては、珍しくまともで現実的な判断だ」

 

「でしょ? もっと褒めていいよ」

 

「嫌だ」

 

 販売を開始して数週間。

 

 石鹸は売れた。というより、売れすぎた。

 

 最初に食いついたのは、やはり富裕層だった。「香りが上品」「手が荒れにくい」「客間に置くと見栄えが良い」「欧州の貴族の間で流行している品らしい」という噂があっという間に広まったのだ。

 

 高級宿も船長もこぞって買い求め、産婆は「もっと試供品が欲しい」と押し寄せてきた。医師たちも、効果を半信半疑に思いながらも、傷の処置前の手洗いに関心を持ち始めた。

 

 だが、事業が波に乗れば、当然のようにトラブルも発生する。

 

 問題その一。買い占め。

 

 一部の金持ちや商人が、高級品だけでなく、安価な『港用』の普及品まで大量に買い占めようとし始めたのだ。

 

「金持ちって、時代が変わってもこういう時本当にえげつない金持ちムーブするよな……」

 

 俺が呆れていると、ギデオンが冷ややかな視線を向けてきた。

 

「お前も欧州の貴族だろうが」

 

「俺は庶民派の合法寄生貴族だから」

 

「区別がつかん」

 

 対策として、高級品と普及品の販売経路を厳格に分け、普及品は診療所や産婆、港湾配布所への直接納品を優先することにした。

 

 問題その二。偽物の出現。

 

 ヴァレンタイン石鹸の人気に目をつけ、粗悪な手作り石鹸に似たようなラベルを貼って売り歩く業者が現れたのだ。

 

「印刷が粗い。紙の質も最悪だ。だが、本物を知らない貧しい者は騙されてしまう」

 

 フランクリンが偽物のラベルを見て憤慨していた。

 

「商標問題、もう来ちゃったか。現代の特許庁が恋しいよ」

 

 対策として、フランクリンの技術でラベルに特殊な透かし風の模様を入れることにした。そして、裏の対策としてギデオンの情報網を使い、偽物業者を特定して警告に向かわせた。

 

「……なぜ私は、吸血鬼や魔物ではなく、偽石鹸を作っている小悪党を追跡しているのだ」

 

 報告書を書きながら、ギデオンが虚無の顔になっている。

 

「平和でいいじゃん。誰も死んでないし」

 

「私の心が死にかけている。これは平和ではない」

 

 問題その三。既存職人の反発。

 

 地元の石鹸職人や油脂業者が、「欧州の得体の知れない品が市場を荒らしている!」と抗議の声を上げ始めたのだ。彼らは「製法を明かせ」「価格が不自然だ」「材料をどこから仕入れているのか」と詰め寄ってきた。

 

 これに対し、昼の代理人であるギデオンが表に立って対応した。

 

「欧州秘伝の特殊な製法であり、詳細は商会の機密である。価格は企業努力だ」と突っぱねた。

 

 職人たちは納得しなかったが、ギデオンの元ハンターとしての凄みのある威圧感に押され、ひとまず引き下がったらしい。

 

 俺は地下室でギデオンを労った。

 

「まあ、製法の秘密は『俺の異次元倉庫』だから、絶対に明かせないもんね」

 

「絶対に外で言うなよ。本気で魔女裁判になるぞ」

 

 問題その四。教会関係者の疑念。

 

 石鹸に添えた説明紙に『清める』という言葉を使ったため、一部の厳格な説教師からクレームが入った。

 

「人を清め、罪を洗い流すのは神の御業であり、石鹸の役割ではない。これは宗教への冒涜ではないか」

 

 という主張だ。

 

「……マジか。そんなとこに引っかかるの?」

 

 俺がドン引きしていると、フランクリンが助言をくれた。

 

「宗教的な言葉の響きを持つ単語は避けるべきだ。『清める』ではなく、単に『洗う』『整える』『汚れを落とす』という表現に留めよう」

 

 俺は深く学んだ。

 

「言葉選び一つで、政治的・宗教的な問題が飛んでくる……。国家の運用って、本当に面倒くさいな」

 

 *

 

 トラブル対応が重なるにつれ、ギデオンは完全に「商会の実務担当」、つまり胃痛代理人としての地位を確立してしまった。

 

 帳簿の管理、出荷量の調整、販売先との折衝、偽物への対応、苦情処理、医師や産婆への試供品の配布、フランクリンへの印刷依頼。

 

 昼間はそれらに追われ、夜は俺の監視と報告会だ。

 

 ある夜、ギデオンは執務机に突っ伏したまま動かなくなっていた。

 

「私は……怪異を狩るために、欧州からこの新大陸へ来たはずだ……」

 

「今もちゃんと、一番ヤバい吸血鬼を監視してるじゃん」

 

「なぜ、監視対象の商会の運営実務を私がやっているのだ……」

 

「友達だから?」

 

「違うが?」

 

「じゃあ相棒?」

 

「絶対に違う」

 

「昼間の俺?」

 

「この世で最悪の表現をするな」

 

 ギデオンが顔を上げて睨みつけてきた。

 

 俺は真面目なトーンで言った。

 

「でも、本当に助かってるよ。俺は昼間に動けないし、この街での信用もゼロだ。ギデオンがあれこれ立ち回ってくれなかったら、たぶん一週間で詐欺師か悪魔の使い扱いされて、また討伐隊が来てたと思う」

 

 ギデオンは一瞬だけ黙り込んだ。

 

 少しだけ、俺を見る目が「怪物」から「厄介な身内」くらいには変わった気がする。

 

 だが、すぐに彼は顔をしかめた。

 

「……分かっているなら、もう少し私の胃を労わってくれ」

 

「石鹸、いる?」

 

「……いる」

 

「いるんだ」

 

「腹立たしいことにな。お前の持ってくる石鹸は、本当に品質が良いからな」

 

 石鹸を配り始めても、すぐに劇的な奇跡が起きるわけではない。

 

 フィラデルフィアの街から病人が突然消えるわけでも、街の悪臭が一夜にして消散するわけでもない。

 

 だが、夜の街を散歩していると、小さな変化の兆しを感じることができた。

 

 宿屋に泊まる旅人が、食事の前に水差しと石鹸で手を洗うようになった。

 

 理髪師が、客の顔に触れる前にしっかりと石鹸の泡を立てるようになった。

 

 産婆が、出産を控えた家に入る前に、小さな紙包みから白い石鹸を取り出すようになった。

 

 港湾労働者たちは「石鹸なんて女子供の使うものだ」と笑っていたが、それでも手の油汚れがスッキリ落ちる感覚に負け、こっそりと使う者が増え始めていた。

 

「……石鹸を一個売ったくらいで、国は変わらない」

 

 街角の暗がりに立ちながら、俺は独り言を呟いた。

 

「でも、食事の前に手を洗う人間が一人増える。その小さな習慣が何千、何万と積み上がっていけば……たぶん、何かが変わる」

 

 少し感傷的な気分になったが、すぐに自分で照れ臭くなり、頭を振った。

 

「いやいや、俺の最終目的は『健康で美味しい血液供給源の確保』だからね。忘れるなよ、俺」

 

 影の中からついてきている護衛兼監視役のアーサーが、呆れたように言った。

 

「……そこでわざわざ、邪悪な目的に自分を言い聞かせるな」

 

 翌日、フランクリンが最近の売れ行きと反応を聞くために支部を訪れた。

 

 彼は新しく刷り上がった説明紙を満足そうに眺めながら言った。

 

「ヴァレンシュタイン卿。君は、商品そのものよりも『習慣』を売っているのだな」

 

「習慣?」

 

「そうだ。ただ石鹸を買わせるだけなら、それは商売だ。だが君は、いつ、どんな時に手を洗うべきかという行動規範を一緒に配っている。これはただの物品の売買ではない。行動の普及だ」

 

 なるほど、と俺は納得した。

 

「つまり、俺は石鹸じゃなくて『手洗いプロトコル』を売ってるわけか」

 

「ぷろとこる?」

 

「あー、手順書とかルールみたいな意味」

 

「なるほど。それなら分かる」

 

 現代の品物をポンと出すだけでは、社会は変わらない。

 

 その使い方を広め、人々の習慣にし、説明を添え、販売網を構築し、偽物を潰し、苦情を処理する。

 

 それら全てをひっくるめたものが「社会実装」なのだ。

 

「……国家運用って、石鹸一個売るだけでもう十分に面倒くさいんだけど」

 

 俺が本音を漏らすと、フランクリンは静かに笑った。

 

「国というものは、そういった無数の小さな面倒の積み重ねで出来ているのだよ」

 

「やめろ。政治家っぽく名言みたいにまとめるな」

 

 *

 

 その夜。

 

 宿の部屋に戻った俺は、いつものようにノートを開いて一日のまとめを書き込んだ。

 

【ヴァレンタイン衛生用品商会・初期報告】

 

 ・昼の代理人:ギデオン・ホイットロック(本人は全力で否定しているが、実質的に商会運営の要)

 

 ・商号:ヴァレンタイン衛生用品商会

 

 ・表向きの顔:欧州秘伝の製法で作られた高級衛生石鹸

 

 ・実態:俺の倉庫から出した未来品質の普及品石鹸を、現地風に包み直している

 

 ・偽装工作:現地の油脂や灰、紙を買い集めて工房を作ったフリをしている。

 

 ・協力者:フランクリン(印刷と商品コピーの考案)

 

 ・販路:宿屋、理髪師、医師、産婆、港湾の無料配布

 

 ・直面した問題:富裕層の買い占め、粗悪な偽物、地元職人の反発、教会からのクレーム、そしてギデオンの胃痛。

 

 ・成果:手洗い習慣の入口としては機能し始めている。

 

 最後に、大きな文字で結論を書き加える。

 

【結論:石鹸を一つ売るだけで、社会は死ぬほど面倒くさい】

 

 俺はペンを置き、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。

 

「……最強の真祖吸血鬼として新大陸に上陸して、最初に始めた本格的な事業が『石鹸の製造偽装』と『手洗い啓発運動』って……どうなんだこれ」

 

 部屋の隅で気配を消して監視していたアーサーが、ぼそりと言った。

 

「……お前の親がやっていた人間牧場に比べれば、はるかに有益で良いことだ」

 

 俺は天井を見つめたまま答える。

 

「その比較対象のひどさが、ずっと俺の精神的な救いになってるの、普通に嫌なんだけどな」

 

 窓の外では、フィラデルフィアの夜が静かに息づいている。

 

 港のどこかで、荒くれ者の船乗りが食事の前に初めて石鹸で手を洗っているかもしれない。

 

 宿屋の女主人が、新しい客室に自慢げに白い石鹸を並べているかもしれない。

 

 産婆が、新しい命を取り上げる前に、小さな紙包みから石鹸を取り出して祈るように手を洗っているかもしれない。

 

 偽物業者がラベルを真似ようとして、ギデオンの放った情報屋に見つかって首根っこを掴まれているかもしれない。

 

 そして俺の異次元倉庫の中には、まだ山ほどの『現代の石鹸』が積まれているのだ。

 

 未来の超大国に寄生するための俺の第一歩は、独立の扇動でも、軍備の拡張でも、金融の支配でもなく、小さな石鹸の包み紙から始まった。

 




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