真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第30話 真祖吸血鬼、裁判を海の向こうへ送らせない

 一七七三年一月。

 

 ロードアイランド植民地のニューポートで、英国王の命令によるガスピー号調査委員会が正式に活動を始めたとの知らせが、フィラデルフィアのヴァレンタイン商会へも届いた。

 

 それ以来、商会にはロードアイランド、ボストン、ニューヨークから、連日のように重苦しい手紙が舞い込んでくるようになった。

 

 証人候補への呼出し。

 

 港湾関係者への照会。

 

 船員名簿や、武器と船具の取引記録に関する提出要請。

 

 小舟の所有者についての聞き取り。

 

 そして、真偽不明の匿名告発。

 

 それらを伝える手紙の中には、

 

「聞き取りが威圧的だった」

 

「事件と無関係な者にまで、あまりに広く照会が行われて照会がいる」

 

 と訴えるものもあった。

 

 そして、すべての情報の先には、

 

> 容疑者を英国海軍の管理下へ引き渡し、本国へ移送して裁く

 

 という最悪の可能性が、黒々と横たわっている。

 

 アーサーが、封を切った手紙の束を机の上で仕分けながら静かに言った。

 

「旦那様。前回までの手紙は、ガスピー号で何が起きたかという事件についての情報でした。ですが、今回の手紙に書かれているのは、疑われた人間の名前ばかりです」

 

 俺は、文字で埋め尽くされた紙の山を見て顔をしかめた。

 

「事件の基本情報を集める段階が終わって、今度は犯人候補の名簿を作る段階へ入ったってことだな」

 

「人間一人一人へ、製造番号をつけ始めるわけか」

 

 ギデオンが皮肉を言う。

 

「だからこそ、どこで止めるかの基準が必要なんだよ」

 

 俺は、以前作った《遠隔事件確認票》の上へ、新しい白紙を置いた。

 

     ◆

 

 その日の午前。

 

 商会の営業が始まる前のことだった。

 

 バンバンバンッ!

 

 商会の裏口にある分厚い扉が、割れんばかりの勢いで激しく叩かれた。

 

「なんだ、朝っぱらから」

 

 俺が合図すると、アーサーが警戒しながら扉を開けた。

 

 そこには、一人の若い船員が息を切らして立っていた。

 

 服は乱れ、顔には新しく殴られたような赤黒い痣がある。

 

 彼は扉の隙間から滑り込むように中へ入り、怯えた様子で背後を何度も振り返った。

 

「あんた……」

 

 俺は彼に見覚えがあった。

 

「保存肉の試験船へ乗ってて、膨らんだ容器を鑿で開けようとした奴だな」

 

 俺が指を差すと、若い船員は顔を引きつらせた。

 

「その話は、もう忘れてくれよ! 俺はあの時、開けなくて本当によかったって、後から船長と一緒に神へ感謝したんだからな!」

 

 若い船員の名は、マシュー・カーター。

 

 ロードアイランド植民地のプロヴィデンス近郊で生まれ、小舟の操船にも慣れた男だった。

 

「それで、今度は何をやらかした?」

 

「何もやってねえよ!」

 

 マシューは声を荒らげた後、慌てて声量を落とした。

 

「昨日、港で働いてる知り合いが、こっそり教えてくれたんだ。俺の名前が、ガスピー号の襲撃者として役人へ告発されてるって」

 

「告発状を見たのか?」

 

「いや。そいつも、書類を持ち出したり写したりはできないって言ってた。ただ、書かれてる内容だけ教えてくれた」

 

 マシューが聞かされた内容は、簡潔だが致命的なものだった。

 

> マシュー・カーターはロードアイランド出身である。

> 小舟を操る技能を持つ。

> ガスピー号襲撃に参加した者たちと、過去に酒場で交流がある。

> 事件後、フィラデルフィアへ移った。

> 襲撃に加わった疑いが濃厚である。

 

「俺は参加してない! 誓って言う!」

 

 マシューが必死に訴える。

 

「でも、俺みたいな船乗りの言葉なんか、役人は信じてくれない。誰が俺の名前を売ったのかも分からないんだ。頼む。旦那なら役人にも顔が利くだろ。助けてくれ!」

 

 マシューは、試験航海で俺の保存肉を食べた顔見知りの船員だ。

 

 だが俺は、即座に、

 

「お前は無実だ。俺が何とかしてやる」

 

 と請け負うような真似はしなかった。

 

「落ち着け。最初から順番に話せ」

 

 俺は彼を椅子へ座らせ、アーサーに記録の準備をさせた。

 

「去年の六月九日。ガスピー号が焼かれた夜、お前はどこにいた?」

 

「船の上だ」

 

「どの船だ?」

 

「旦那の商会の保存肉を積んだ、あの試験船だよ!」

 

 保存肉を積んだ試験船は、フィラデルフィアを出港し、メリーランド植民地のボルティモアまで往復する短距離の沿岸航路だった。

 

 事件当夜、マシューはボルティモア港に停泊していた船へ乗っていたという。

 

「誰が、その日にお前を見た?」

 

「船長も、料理番の親父も、一緒に乗ってた船員も全員だ!」

 

「その全員が、お前と同じ船の仲間だから、口裏を合わせていると言われたら?」

 

 マシューは言葉を失い、顔を青ざめさせた。

 

 何十人が同じことを言っても、その話が一つの関係者集団から出たものなら、

 

> 仲間同士で庇い合っている

 

 と退けられる可能性がある。

 

 証言者の人数だけでは、十分な証拠にならないこともあるのだ。

 

     ◆

 

 俺は《遠隔事件確認票》とは別に、マシュー・カーター個人の時系列表を作った。

 

 確認項目は以下のとおりだ。

 

フィラデルフィアを出港した日

船へ乗った日

船員賃金の前払い

寄港地

積荷の受渡し

保存肉を開封した日時

ボルティモアで下船した日時

現地で購入した品

夜間当直の記録

帰路の出港日

フィラデルフィアへ戻った日

 

「六月九日の夜、正確には何をしてた?」

 

 俺が尋ねる。

 

「たしか……南へ着いて二日目か三日目だったはずだ。夕方に飯を食って、その後は船へ戻ったと思う。夜中に当直へ立ったような……」

 

「思う?」

 

「何か月も前のことなんだ。何日だったかまで正確には覚えてねえよ」

 

「なら、覚えてないことを無理に正確に言うな」

 

「でも、正確に答えなきゃ、嘘をついてるって疑われるだろ!」

 

「曖昧な記憶を、正確そうに言う方が危険だ。後で記録と食い違えば、そこだけ取り上げて嘘つき扱いされる。分からないことは、分からないと言え」

 

 俺はアーサーへ指示を出した。

 

「倉庫から、第一回保存肉試験航海の記録を全部持ってこい」

 

 アーサーが、うず高く積まれた書類の束を運んできた。

 

 俺たちは新商品の安全性を確認し、不良品が出た際に確実に追跡できるよう、通常の航海よりもはるかに詳しい記録を船長に残させていた。

 

 航海日誌。

 

 船員名簿。

 

 各船員の健康記録。

 

 保存肉を開封した日時。

 

 食べた船員の名前。

 

 食後の体調。

 

 寄港地での食料購入。

 

 水樽の補給状況。

 

 現地商人からの受領書。

 

 港湾施設の使用料。

 

 船長の署名。

 

 料理番の署名。

 

 現地倉庫番の確認。

 

「まさか、保存肉の安全試験のために、誰がいつ何を食べたかまで記録させていたことが、こんな形で役に立つとは」

 

 アーサーが感慨深げに言う。

 

「食った後に腹を壊した奴を追うための記録が、反逆者扱いされた奴を助ける記録になるとは、俺も思ってなかったよ」

 

     ◆

 

 俺たちは書類をめくり、ガスピー号襲撃が行われた六月九日の記録を探した。

 

 まず、船の所在地を確認する。

 

 船長の航海日誌には、

 

> 六月九日、ボルティモア港へ停泊

 

 とある。

 

 同じ日付の港湾施設使用料の受領書にも、試験船の名称と船長の名が記されていた。

 

 現地倉庫から荷を受け取った記録にも、同じ船の名がある。

 

 少なくとも試験船そのものが、六月九日にボルティモアへいたことは、三つの異なる記録で確認できる。

 

 次は、マシュー本人が、その船とともにいたかだ。

 

 保存肉の記録には、六月九日の夕食時に、保存肉三個を開封したことが記されている。

 

 その喫食者一覧の中に、

 

【マシュー・カーター】

 

 の名前があった。

 

 マシューは字を書けないため、署名の代わりに、自分だけの印を残している。

 

 その印を船長と料理番が確認し、さらに現地倉庫番も、

 

> 同日の夕刻、マシューが保存肉の箱を倉庫から船へ運んだ

 

 と記していた。

 

 別の記録も見つかった。

 

 夕方、マシューへ支払われた陸上作業手当。

 

 港近くの樽職人から、船の修理へ使う鉄輪と栓を受け取った際の受領書。

 

 そして夜間当直の記録。

 

 六月九日の深夜から十日の明け方まで、マシューは船上の見張り役として記録されていた。

 

 当直交代時には、前後の当直者が印を残している。

 

 船がボルティモア港にいたこと。

 

 マシューが夕刻に現地の倉庫で荷を運んだこと。

 

 夕食時に保存肉を食べたこと。

 

 その後、深夜から明け方まで船上で当直へ立ったこと。

 

 複数の記録によって、六月九日の夕刻から十日の明け方までの行動が途切れず繋がった。

 

「ギデオン。前回、手紙が三通あっても、元が同じ噂なら、証人は一人と変わらないって言ってたよな」

 

「ああ」

 

「今回は違う」

 

 俺は机の上へ、記録を並べた。

 

 一つ目。

 

 保存肉の喫食記録。

 

 目的は食品安全の確認。

 

 二つ目。

 

 港湾施設の使用記録。

 

 目的は港への料金支払い。

 

 三つ目。

 

 修理部材の受領書。

 

 目的は職人との売買の証明。

 

 四つ目。

 

 荷役手当と夜間当直の記録。

 

 目的は船員の賃金と勤務の管理。

 

「作った目的が違う。書いた人間も、船長、港役人、職人、会計を担当した者と、それぞれ違う。マシューを庇うために、後から同じ話を書き写した紙じゃない」

 

 俺はマシューの目を見た。

 

「船がボルティモアにいたことを示す記録と、お前本人がそこにいたことを示す記録が、別々に残ってる。しかも、六月九日の夕方から十日の明け方まで途切れてない」

 

 ボルティモアと、ガスピー号が襲撃されたロードアイランド沖は、何百マイルも離れている。

 

 マシューが事件当夜、ガスピー号へ乗り込んだという匿名告発は、ほぼ成立しなくなった。

 

 マシューは大きく息を吐き、安堵の涙を浮かべた。

 

「じゃあ、俺は助かるんだな? 無実だって信じてもらえるんだな!」

 

「襲撃へ参加したという告発を崩す、かなり強い記録にはなる」

 

 俺は頷いたが、すぐに釘を刺した。

 

「でも、俺がお前を無罪だと決めるわけじゃない」

 

「まだ疑うのかよ!」

 

「そうじゃない。俺は裁判官じゃない。俺にできるのは、記録をまとめて、お前を拘束しようとする側へ示すところまでだ」

 

 俺は、自分が私的に判決を出すことはしないという原則を守った。

 

     ◆

 

 その日の夜。

 

 商会はすでに閉まっていたが、裏口から一人の男が密かに訪ねてきた。

 

 男の名は、エフライム・ウォード。

 

 急進派の活動に関わり、各地の商人や船員を繋ぐ仲介人だった。

 

 彼は、マシューが商会へ逃げ込んだことを知っていた。

 

 そして俺が、ガスピー号に関する帳簿を調べ始めたことも察していた。

 

「ヴァレンタイン氏。カーターの身の潔白を確かめ、彼を助けることには反対しない。だが、ほかの帳簿は処分してほしい」

 

「ほかの帳簿?」

 

「昨年の春から夏にかけて、あなたの商会がロードアイランドやマサチューセッツ方面へ輸送し、あるいは取引を仲介した火薬、鉛玉、火打石、銃器、それに小舟用の船具類の記録だ。帳簿には、荷主や受取人の名前が残っているはずだ」

 

「残ってる」

 

「燃やしてくれ」

 

 エフライムの主張はこうだった。

 

 英国の王命調査委員会は、最初から公正な裁判などするつもりはない。

 

 目的は、植民地側の不穏分子を狩り集め、見せしめとして本国へ移送することだ。

 

 もしヴァレンタイン商会の帳簿が渡れば、襲撃に無関係な購入者までが、

 

> 武器を供給した反逆の共犯者

 

 として吊るし上げられる。

 

「自由を守った者たちを、商人の帳簿のせいで殺すべきではない。不当な権力から人命を守るためなら、記録を消すことも正当な行為だ」

 

 扉の奥で話を聞いていたマシューも、不安そうに俺の顔を見つめていた。

 

 だが、俺ははっきり拒否した。

 

「帳簿は燃やさない」

 

 エフライムが声を荒らげる。

 

「仲間の命や植民地の自由よりも、商会の紙切れの方が大事だと言うのか!」

 

「その紙切れがあったから、マシューがロードアイランドにいなかったと示せたんだぞ」

 

「ならば、彼を助けるのに必要な部分だけ残し、残りは燃やせばいい!」

 

「都合のいい頁だけ残し、都合の悪い頁を抜き取った帳簿に、証拠として何の価値があるんだよ。そんな物を見せたら、残った記録まで後から作ったと疑われるだけだ」

 

「英国の役人へ渡さなければいいだけの話だ」

 

「渡すかどうかと、消すかどうかは別だ」

 

 俺は譲らなかった。

 

     ◆

 

 エフライムが去った後、マシューが小声で言った。

 

「でも旦那。もし、ほかの奴の名前がその帳簿にあるなら、燃やしてやった方がいいんじゃないか? 俺みたいに不当に疑われる奴が出るかもしれないんだろ?」

 

「お前を助けた頁だけ残して、他人に都合の悪い頁を消すのか?」

 

「俺は本当に無実だ」

 

「だから?」

 

「俺を、本当に船を焼いた奴らと同じように扱わないでくれよ」

 

 俺はマシューをまっすぐに見据えた。

 

「いいか。お前が襲撃へ参加していないと分かったのは、俺がお前を最初から信じたからじゃない」

 

 マシューが黙る。

 

「犯人だろうが無実だろうが、全員を証拠と記録で判断すると決めたからだ。お前だけを特別扱いして記録を歪めれば、お前を助けた証拠の価値まで死ぬんだよ」

 

 マシューは押し黙った。

 

     ◆

 

 翌日。

 

 今度は英国寄りの法律実務家、エドマンド・ハーコートが、フィラデルフィアの税関関係者からの書簡を携えて商会へやって来た。

 

 ハーコートは露骨な悪人ではない。

 

 重大な王室船襲撃事件を解明するには、広く資料を集める必要があると、本気で考えている男だった。

 

「ヴァレンタイン氏。ガスピー号事件に関する調査へ、任意の協力をお願いしたい」

 

 彼は要求書を俺の机へ置いた。

 

「昨年五月から七月までの記録です。ロードアイランド出身船員の名簿。ニューイングランド行き船舶の乗員名簿。火薬、銃器、鉛玉、火打石の輸送および仲介記録。小舟や櫂などの船具に関する取引記録。ロードアイランド商人との取引記録。そして、事件関係者と接触した可能性のある人物の一覧を提出していただきたい」

 

「何人を、何の理由で疑ってるんだ?」

 

「それを調べるために記録が必要なのです」

 

「誰を探すかも、何の容疑かも決めないまま、先に全員の名前を集めるのか?」

 

 ハーコートは顔をしかめた。

 

「国王の武装税関船が襲撃され、焼かれたのです。無実の者なら、記録を調べられて困る理由はないでしょう」

 

「無実なら恐れる必要はない、か。匿名の手紙一枚で、うちの若い船員は反逆者扱いされて怯えてるんだぞ」

 

「だからこそ、帳簿で確かめるべきなのです」

 

「マシュー・カーター一人の六月九日の行動を確かめるのに、どうしてニューイングランド出身者全員の名簿が必要なんだ?」

 

「そこから、別の関係者の名を辿れる可能性があります」

 

「それは疑いを確かめる調査じゃない。名簿を眺めてから、疑う相手を選ぶやり方だ」

 

「国王の武装船が焼かれたのですぞ!」

 

「だからって、法の手続きを雑にしていいとはならない」

 

 俺は、調査への協力そのものを拒むつもりはなかった。

 

「具体的な人物の名前と、疑っている行為と、必要な期間と資料を文書で示せ。それなら確認する」

 

「一人ずつ、疑いの理由を添えて要求書を作れと?」

 

「人間を一人ずつ反逆罪で疑い、身柄を遠くへ送ろうとしてるなら当然だろ」

 

 俺は、商会が帳簿を開示するための条件を提示した。

 

対象者の氏名

疑われている行為

対象となる日時

必要な文書の種類

文書を必要とする理由

資料の受取人

資料の返却期限

閲覧または転記した文書の一覧

 

 さらに原本を商会外へ持ち出す場合は、

 

原本の写しを商会へ残す

商会側の立会人をつける

受取証を発行する

返却時に欠落や書き換えがないか確認する

 

 ことを条件とした。

 

 そして、俺は新しい分厚い帳簿を用意した。

 

【帳簿閲覧・受渡記録】

 

 記入する項目は、

 

閲覧を求めた者

所属と立場

閲覧の目的

対象人物

対象期間

閲覧した帳簿名

閲覧した頁

転記した箇所

原本持出しの有無

受取人

返却期限

立会人

返却時の状態

 

 だ。

 

 アーサーが呆れたように言った。

 

「旦那様。商会の帳簿を調べる人間を記録するために、また新しい帳簿を作られたのですか」

 

「誰がいつ、誰の名前や取引を見たか分からない状態が、一番危ないんだよ」

 

「帳簿を守るための帳簿か。武器よりも厄介な代物だな」

 

 ギデオンが呟く。

 

 ハーコートは不満そうだった。

 

 だが俺が調査そのものを拒絶したわけではない以上、俺を公然と、

 

> 反逆者を匿う妨害者

 

 と非難する口実も得られなかった。

 

 彼は渋々、最初の対象として、匿名告発で名指しされたマシュー・カーターについてのみ、具体的な照会書を作成した。

 

 六月九日の所在地。

 

 試験船への乗船記録。

 

 ボルティモアでの作業記録。

 

 ロードアイランドへ立ち寄った形跡の有無。

 

 俺は、照会に関係する記録だけを提示した。

 

 関係のない他の船員の名前や賃金、取引内容は渡さない。

 

 必要な部分だけを別紙へ正確に転記し、原本と照合したうえで、複数人が、

 

【原本と相違なし】

 

 と署名する方法を採った。

 

     ◆

 

 数日後。

 

 マシューは、いきなりロードアイランドの当局へ身柄を送られるのではなく、まずフィラデルフィアの治安判事の前で、予備的な事情確認を受けることになった。

 

 正式な裁判ではない。

 

 現時点の証拠でマシューを拘禁し、ロードアイランド側へ身柄を引き渡すだけの根拠があるかを判断する場だ。

 

 ハーコートは、税関関係者のもとへ届いた匿名告発の内容を記した文書を提出した。

 

 対して俺たちは、

 

船員名簿

航海日誌

保存肉の喫食記録

港湾施設使用料の記録

修理部材の受領書

作業手当と夜間当直の記録

船長と料理番の供述書

ボルティモアの倉庫番による確認書

 

 を束にして提出した。

 

 治安判事は、匿名告発の内容をしばらく眺め、静かに言った。

 

「ハーコート氏。この告発には、書いた者の名がない。自ら目撃したとの記述もない。事件の具体的な時刻も、カーター氏がどの小舟へ乗ったかも、誰と行動していたかも書かれていない」

 

「しかし、ロードアイランド出身で、小舟を操り、関係者と面識が――」

 

「それは人間の属性であって、襲撃へ参加した証拠ではない」

 

 判事は文書を机へ置いた。

 

「この匿名情報は、追加の確認を始めるきっかけにはなり得る。だが、これだけを根拠にカーター氏を拘禁し、他植民地の当局へ引き渡すには足りない」

 

「調査を続けるために、一時的に身柄を――」

 

「調査を始めるために、人を先に拘禁するのではない。拘禁するだけの根拠があるから、その状態で調査を続けられるのだ」

 

 俺は内心で、

 

> 当たりの判事だ

 

 と深く安堵した。

 

 判事は次に、俺たちの提出した記録を確認した。

 

「これらの書類は、すべて同じ事実を証明する物ではない」

 

 俺は頷いた。

 

「はい。港湾使用料と航海日誌は、船がボルティモアにいたことを示します。保存肉の記録、作業手当、部材の受領書、夜間当直の記録は、カーター本人が船とともにいたことを示します」

 

「作成者も目的も異なる」

 

「食品の安全、港の料金、売買、賃金、当直。それぞれ別の仕事のために残された記録です」

 

 判事は一枚ずつ確認していく。

 

「保存肉の記録だけなら、商会が後からカーター氏を庇うために作ったと疑う余地もある。だが、ボルティモア側の港湾記録、現地職人の受領書、倉庫番の確認、当直記録まで一致している」

 

 判事はハーコートへ向き直った。

 

「これらがすべて偽造であると主張するなら、フィラデルフィアとボルティモアの複数の商人、船員、職人、港湾関係者が、事件直後から共謀してカーター氏のアリバイを作っていたことになる。その可能性を示す証拠はありますか?」

 

 ハーコートは答えられなかった。

 

 結論として、

 

> マシュー・カーターがガスピー号襲撃へ参加したと疑い、拘禁してロードアイランド側へ引き渡すだけの根拠はない

 

 と判断された。

 

 身柄引渡しの申立ては退けられ、マシューはそのまま商会へ戻ることを許された。

 

     ◆

 

 商会へ戻るなり、マシューは崩れ落ちるように安堵した。

 

「助かった……本当に、向こうへ送られずに済んだんだな。旦那が俺を信じてくれたからだ」

 

「違う」

 

「え?」

 

「お前の話と記録が一致したからだ。俺が個人的にお前を信じたかどうかで決まったんじゃない」

 

 マシューは、しばらく黙った後で真剣な顔をした。

 

「もし、旦那の帳簿に、本当に襲撃へ参加した奴の名前があったら、どうするんだ?」

 

「具体的な証拠があり、植民地内の正規の裁判へ出すためなら、隠さない」

 

「英国本国へ連れていくためなら?」

 

「渡さない」

 

「何が違うんだ?」

 

「罪を調べることと、人間を正当な手続きから切り離すことは、別の問題だ」

 

「本当に船を焼いた奴も守るのか?」

 

「犯人を守るんじゃない」

 

 俺は答えた。

 

「犯人にも、犯人だと決めつけられる前の人間にも、同じ法廷を残すんだ」

 

     ◆

 

 ほどなく、ボストンのジョン・アダムズから、俺が送った法的質問への返書が届いた。

 

『ガスピー号への武装襲撃は、重大な犯罪になり得る。

 

 犯人の捜査や裁判そのものを否定すべきではない。

 

 証拠を隠し、破棄することは、植民地側の正当性を損なう。

 

 しかし、犯罪が起きた土地の法廷と陪審を飛ばし、被告人を英国本国へ運んで裁くことには、極めて重大な問題がある。

 

 被告人は証人と向き合い、その言葉へ反論し、自らに有利な証拠を示し、適切な弁護人を得られなければならない。

 

 嫌悪される重大な罪ほど、法の手続きは簡略にされるべきではない。

 

 疑いが重大であるほど、法は短くなるべきではない。より長く、より明瞭であるべきだ』

 

 これは、どこかの法律書から写した文章ではない。

 

 ボストンで、自分たちを撃った英国兵の弁護を引き受けた男が、自らの経験から書いた言葉だった。

 

     ◆

 

 俺はフィラデルフィアの商人、船主、法律家、印刷屋たちを商会の応接室へ集め、会議を開いた。

 

 議題は、

 

> ガスピー号事件に関する資料照会へ、フィラデルフィアの商人たちは、どのような条件で協力するのか

 

 だ。

 

 会議は、三つに割れた。

 

 英国強硬派。

 

「国王の武装船への襲撃は反逆だ。帳簿はすべて提出し、本国での裁判もやむを得ない。協力しない商人は、犯人を庇っていると見なすべきだ」

 

 急進派。

 

「調査委員会は最初から不公正だ。証言も帳簿も一切出すな。記録は破棄しろ。容疑者を守ることが、植民地の自由を守ることだ」

 

 そして、俺たち。

 

「捜査そのものには協力する。ただし、対象と理由を明示させる。記録の無差別提出は拒否する。証拠の破棄も拒否する。植民地内での陪審裁判を要求し、本国移送には反対する」

 

 両側から、凄まじい言葉の矢が飛んできた。

 

「帳簿を英国側へ一頁でも渡せば、仲間を売ることになるぞ!」

 

 急進派が叫ぶ。

 

「だからって帳簿を燃やせば、マシューのような無実の人間を助ける証拠も一緒に消えるんだよ!」

 

「資料を選別する権利が、一介の商人にあるとでも?」

 

 英国強硬派が冷笑する。

 

「誰を何の理由で疑っているかも示さず、何の関係もない全員の名簿を持っていく権利が、役人にあるのか?」

 

「ヴァレンタインは、国王に逆らう反逆者を庇う夜の吸血鬼だ!」

 

 英国寄りが罵る。

 

「いや、英国へ媚びる腰抜けの犬だ!」

 

 急進派が怒鳴る。

 

「せめて交互に言え! 同時に違う悪口を叫ぶな!」

 

 俺は頭を抱えながらも、一枚の意見書を机へ置いた。

 

【調査協力の七条件】

 

 第一条件。

 

【疑われている人物の氏名を明示する】

 

「ニューイングランド出身者全員」といった集団指定を認めない。

 

 第二条件。

 

【疑われている具体的な行為を示す】

 

 襲撃への参加。

 

 武器の提供。

 

 小舟の貸与。

 

 計画場所の提供。

 

 それぞれを区別する。

 

 第三条件。

 

【対象期間と必要資料を限定する】

 

 事件に関係しない年月や取引まで、無制限に調べさせない。

 

 第四条件。

 

【原本と写しの所在、閲覧者を記録する】

 

 誰が、いつ、何を見たかを残す。

 

 第五条件。

 

【匿名告発だけを根拠に身柄を引き渡さない】

 

 匿名の情報は確認を始めるきっかけにはなっても、拘禁や引渡しの根拠にはしない。

 

 第六条件。

 

【植民地内で法廷を開く】

 

 事件が起きた地域、または被告人が生活する植民地で、証人と記録を調べる。

 

 第七条件。

 

【陪審、弁護、反論の機会を保証する】

 

 被告人が証人の言葉へ反論し、自らに有利な証拠を提出できるようにする。

 

 会議が静まり返る中、俺は宣言した。

 

「記録は、消さない」

 

 急進派が殺気立つ。

 

「だが、理由も示さず、丸ごと渡しもしない」

 

 英国寄りの者たちが反発する。

 

「具体的に誰を、何の行為で疑っているのかを示せ。必要な記録だけを、受取人と返却期限を残して確認しろ」

 

「それでも、罪を示す証拠が出たなら、どうするのだ?」

 

「裁判へ出す」

 

「英国本国へ送るのか?」

 

「ここで裁け」

 

 俺は分厚い帳簿の束を、ドンッと叩いた。

 

「罪を犯した場所で、目撃した証人のいる場所で、被告人が自分の言葉で反論できる場所で裁け」

 

 全員の顔を見渡す。

 

「裁判を、海の向こうへ送るな」

 

     ◆

 

 全員が賛成したわけではない。

 

 だが商人たちの中には、

 

無関係な自分の帳簿まで持っていかれたくない

自分の船員を匿名告発だけで拘禁されたくない

証拠の破棄へ加担し、反逆の疑いを向けられるのも避けたい

英国との取引を完全に断つつもりもない

 

 と考える者が多かった。

 

 俺の意見書は、

 

> 調査へ協力しつつ、無制限な照会は拒否する

 

 という、実務的な防衛線として支持を集め始めた。

 

「反逆者を守るためではない。正規の商人まで無闇に巻き込まれないための条件なら、署名できる」

 

「本国移送を防ぎ、植民地の陪審を守るという目的なら、我々も署名しよう」

 

 意見書には、国王支持派と植民地権利派の双方の名が並んだ。

 

 完全な意見一致ではない。

 

 だが、

 

> 無制限の帳簿提出と、証拠の破棄のどちらも認めない

> 本国移送ではなく、植民地内での裁判を求める

 

 という最低限の線では、結束できたのだ。

 

 意見書は、

 

ペンシルベニア植民地の有力者

ロードアイランド総督

ガスピー号調査委員会の関係者

ボストンとニューヨークの法律家

ロンドンの取引商人

 

 へ送られた。

 

 ただし、これはヴァレンタイン商会一社の要求ではない。

 

 フィラデルフィアの商人、船主、法律家有志による意見書だ。

 

 俺は条件と書式を作っただけで、署名欄には多くの人間の名が並んだ。

 

     ◆

 

 数日後。

 

 マシューは、再び試験船へ乗って出港することになった。

 

 タラップを登る前、彼は俺を振り返った。

 

「旦那。次からは、膨らんだ容器を見つけても、絶対に勝手に開けようとはしないからな」

 

「そこから反省してたのかよ!」

 

「あと、航海記録もちゃんと残してもらう。自分の名前も、字が書けなくても印だけは絶対に忘れない」

 

 一度は危険な注意書きを軽く見た若い船員が、

 

> 記録と手順が、自分の命と未来を守った

 

 ことを理解した瞬間だった。

 

     ◆

 

 夜。

 

 商会の事務室で、俺は机の上に並べられた二つの書類を見ていた。

 

 左側には、マシューが事件当夜にボルティモアへいたことを裏づけた記録の束。

 

 保存肉試験票。

 

 港湾施設使用料。

 

 作業手当。

 

 受領書。

 

 当直記録。

 

 航海日誌。

 

 右側には、ハーコートが提出した、極めて広範な帳簿要求書の写し。

 

【ニューイングランド出身者の名簿】

 

【火薬・銃器類の輸送記録】

 

【ロードアイランドとの取引記録】

 

 同じ商会の帳簿が、ある時は一人の襲撃参加の疑いを崩す盾となり、ある時は数百人の名を、根拠の薄い疑いへ巻き込む名簿にもなり得る。

 

「……面倒な物を作りましたね」

 

 アーサーが静かに言う。

 

「俺が作ったのは、帳簿そのものじゃないぞ。帳簿なんて昔からある」

 

「その帳簿を、誰へ、どこまで、どの理由で見せるかという規則です」

 

「……そっちか」

 

 ギデオンが剣の柄を撫でながら言った。

 

「武器よりも、扱いが難しいな」

 

「帳簿で人を撃ち殺すことはできないだろ」

 

「だが、海の向こうへ送る名前を選ぶことはできる」

 

 俺は、その言葉に答えられなかった。

 

 記録は、正義ではない。

 

 帳簿も、船員名簿も、受領書も、それ自体では誰も守らない。

 

 使い方によっては、無実の疑いを晴らすことができる。

 

 使い方によっては、何の関係もない人間を、反逆者の名簿へ載せることもできる。

 

 だから、記録を消してはいけない。

 

 だから、理由もなく、すべてを差し出してもいけない。

 

 不良品の番号を追う時は、すべての記録を開いて調べればよかった。

 

 だが、人間を追う時には、開いていい記録の範囲そのものを、厳密に決めなければならない。

 

 どうやら国家の運用保守とは、ただ便利だからと帳簿を増やすことではないらしい。

 

 権力が、その帳簿をどこまで開けるのかを、最初に決めておくことだった。

 




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