真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

36 / 37
第36話 真祖吸血鬼、自分がいなくても帰る船を見る

 十二月十七日、朝。

 

 俺とギデオンは、ボストンを出発した。

 

 俺の衣服や髪には、まだむせ返るような茶葉の匂いが染み付いている。水で洗えばすぐに落ちる匂いだ。だが俺自身の鼻の奥には、ボストン港の黒い海面を分厚く覆い尽くしていたあの茶の匂いが、べっとりとへばりついて離れなかった。

 

 道中、俺は休憩時間を極限まで削り、宿駅で次々と馬を替えながら南へ向かって猛然と急いだ。

 

「……おい、ルカ。馬を殺すつもりか?」

 

 ギデオンが、荒い息を吐く馬の首を叩きながら咎めてきた。

 

「急がないと、フィラデルフィアに次の船が来る」

 

「だからといってここで馬を潰せば、途中で身動きが取れなくなり、かえって到着が遅れるぞ」

 

「……分かってる」

 

 分かっているが、焦りがどうにも抑えきれなかった。

 

 ボストンで最初の一箱を止めなかったあの判断を、フィラデルフィアでもう一度繰り返すことになるのではないか。そんな恐怖が、冷たい風と一緒に背中を叩いてくる。

 

「ボストンでは茶箱を見捨てたが、フィラデルフィアでは茶を守るのか?」

 

 ギデオンが走りながら問うてきた。

 

「帰り道を守る」

 

 俺は前を見据えて答えた。

 

「茶箱ではなく?」

 

「船ごと無事に帰航すれば、結果的に茶は壊れない」

 

「それでも……もしボストンのように群衆が狂乱し、力ずくで壊そうとしたらどうする?」

 

 俺はすぐには答えられなかった。

 

 ボストンで茶を守るためには、群衆を力で叩きのめさなければならなかった。だがフィラデルフィアなら、まだその前段階で、群衆が爆発する前に止められる可能性があるはずだ。

 

「ボストンと同じ場所まで、事態を進ませない」

 

「お前が一人で止めるのか?」

 

「……俺たちが作った『手順』が止める」

 

 俺はそう答えたが、自分自身でもまだその言葉を完全には信じ切れていなかった。

 

 十二月二十三日、未明。

 

 俺たちはようやくフィラデルフィアのヴァレンタイン商会へと帰り着いた。

 

 商会の扉を開けると、そこは緊急事態だというのに、怒号も混乱も全くなかった。

 

 机ごとに書類が整然と積まれ、仕事が完全に分業されている。

 

 水先案内人からの報告書。河口付近の目撃情報。接近中の船舶の識別特徴。町側交渉団の名簿。夜警の配置図。荷受人候補からの返答。帰航用補給物資の価格表。新しい脅迫文の収集。

 

 俺は、自分がいない間にも、対策の書類が膨大に増え続けていることに驚愕した。

 

 奥の机から立ち上がったアーサーは、俺を見て歓喜して駆け寄ってくるような真似はしなかった。

 

「お帰りなさいませ、旦那様」

 

 彼は一礼すると、まるで俺が散歩から帰ってきたかのように、極めて平坦な声で通常の業務報告を始めた。

 

「まず、現在の進行状況をご報告します。茶船ポリー号は、まだ市街地へは入っておりません。現在、河口からチェスターまで監視網を配置済み。水先案内人の連絡所を三か所に設置し、船の識別情報を共有しました。グロスター・ポイントを下流の安全な停泊候補地に設定。船長との接触班も編成済み。夜警二名を船長護衛へ回す準備を完了。補給品を買い集める商人も手配し、町側交渉団は、旦那様がご不在でも直ちに交渉を開始できる状態です」

 

「……ちょっと待て」

 

 俺は報告を遮った。

 

 机の上のリストを見る。

 

「『出港用の水先案内人』? なんだこれは。俺の作った手順書にはこんな項目はなかったぞ」

 

 アーサーは平然と答えた。

 

「我々で追加いたしました。入港を拒否しても、帰りに川で座礁してしまえば全く意味がありませんので」

 

 俺は反論できなかった。

 

 だが俺は、ずらりと並んだ書類の束に目を通し、細かな点が気になり始めた。

 

 俺が作った原案にはなかった変更がいくつも加えられている。

 

 船長の宿泊場所を秘匿する手順。群衆の前だけでなく、後から船長への個別の意思確認を行う手順。英国へ提出するための受領拒否証明の書式。出港時の高水位の確認。病人がいた場合の治療方針。

 

 どれも極めて合理的だ。

 

 だが俺は、つい口を出してしまった。

 

「アーサー、ここの表現は変えた方がいい。この順序だと相手に誤解される。俺なら最初に――」

 

「旦那様」

 

 アーサーが、ペンを持った俺の手を静かに遮った。

 

「何だ?」

 

「旦那様がいないと動かないような手順にはしておりません」

 

 俺は目を見開いた。

 

「でも、元は俺が作った手順だ」

 

「これは、現場で水先案内人や交渉団が実際に使うための手順です」

 

「だからって、俺の許可なく勝手に変えていいとは――」

 

「では、旦那様がボストンに滞在してこちらと連絡が取れない間、変更の必要が生じても、何週間も許可を待つべきでしたか?」

 

 俺は黙り込んだ。

 

 アーサーは俺に反抗しているわけではない。

 

 俺がボストンへ発つ前、「俺がいないと動かないなら、あの手順は最初から失敗だ」と言った。だから彼は、その言葉を文字どおり完璧に守っただけなのだ。

 

 ギデオンが、横から冷笑交じりに言った。

 

「お前の『自分がいなくても動くようにしろ』という命令に従った結果、現場の人間はお前の許可を取らなくなったらしいぞ。立派なものじゃないか」

 

「……言い方」

 

「間違っているか?」

 

「……間違ってない」

 

 俺は、修正用のペンを静かに机に置いた。

 

 俺はアーサーとアビゲイルへ、ボストンで作成した《ボストン港茶貨物破壊確認票》を渡した。

 

 三隻、三百四十二箱が全数破壊されたこと。船員の死者や重大な負傷、船体への意図的破壊、茶以外の貨物被害はなかったこと。帰航の許可は税関と総督が完全に拒否したこと。そして俺が、茶の破壊を力で止めなかったこと。

 

「すぐに、これを町へ配るための一枚刷りにいたしますか?」

 

 アビゲイルが問う。

 

「待て。これは俺が個人的に見た事実だ。俺一人の報告だけで町全体の空気を変えるような真似はしない。ボストンからの急報か、別経路からの複数の手紙が届くまで待つ」

 

 自分自身の目撃情報を、無条件に絶対の正義として扱うことは避けた。

 

 十二月二十四日。

 

 ボストンからの急報と、それとは別の経路で送られた複数の手紙が、相次いでフィラデルフィアへ届いた。

 

 内容は細部で異なっていたが、事件の骨格は一致していた。

 

 三隻の茶が海へ投棄されたこと。

 

 船員の死者や重大な負傷はなかったこと。

 

 船体や茶以外の貨物へ、大きな被害が出なかったこと。

 

 その報せに、フィラデルフィアの町で鐘が鳴り響き、急進派は歓声を上げた。

 

「ボストンはやったぞ!」

 

「次はフィラデルフィアの番だ!」

 

「我々も、デラウェア川を巨大な茶壺にしてやる!」

 

 俺は、自分がボストンで必死に被害を抑えた結果が、「秩序正しく完璧に茶を破壊できた」という都合のいい英雄譚へと変換されていくのを見た。

 

「……人が死ななかったという部分だけが綺麗に切り取られて、『だから次も安心して茶を壊していい』って話にすり替わってる」

 

「旦那様」

 

 アーサーが淡々と言う。

 

「我々は事実を正確に伝えることはできても、群衆がそれをどう受け取るかまで管理することはできません」

 

 ケイレブが、ポリー号を特定するために市中に出回っている一枚刷りの脅迫文を俺に見せた。

 

 そこには、『古い黒い船』『約二百五十トン』『船首像や装飾なし』『船名ポリー』『船長エアーズの体格』などが驚くほど正確に記されている。

 

 そしてその後に、『水先案内をすれば厳罰に処す』『船長をタールと羽根で飾る』という凶悪な脅迫が続いていた。

 

「識別情報だけは、妙に正確だな」

 

 俺が言う。

 

「だから厄介なんです」

 

 ケイレブが苦い顔をする。

 

「この脅迫文を使うのか?」

 

「馬鹿な。脅迫になど乗りません。ただ、船を見分けるための情報だけは利用させてもらいます」

 

 暴力の側の情報網も、手順としては極めて有能なのだ。俺は以前から続くその矛盾を再認識した。

 

 十二月二十五日。クリスマス。

 

 チェスターから、早馬の伝令が到着した。

 

 伝令は、ヴァレンタイン商会の俺のところへは直接来なかった。

 

 最初に水先案内人の連絡所。

 

 そこからケイレブ。

 

 ケイレブからアーサー。

 

 アーサーから町側交渉団。

 

 そして最後に、ヴァレンタイン商会へと報告が回ってきた。

 

「ポリー号と思われる古い黒い船を、チェスター付近で確認」

 

 俺は即座に椅子から立ち上がった。

 

「出るぞ」

 

「旦那様。接触班はすでに一時間前に出発しております」

 

 アーサーが書類から目を上げずに言った。

 

「……は? 俺に報告する前にか?」

 

「旦那様の許可を待たねばならない項目ではありませんので」

 

 俺は一瞬、自分だけが完全に置いていかれたような強烈な寂しさを覚えた。

 

 しかし、これこそが俺の望んだ手順の成功なのだ。

 

 見張りからの報告によれば、ポリー号は正規の水先案内人を確保できていなかった。

 

 周囲の水先案内人たちが、タールと羽根の脅迫を恐れ、あるいは茶法への反対の意思から、船を案内しようとしなかったためだ。

 

 ところがエアーズ船長は、河口やチェスターでただ停泊して待つような男ではなかった。

 

 彼は、前を行く大型商船の航跡を頼りに、自力で冬のデラウェア川をさらに上り始めていたという。

 

「……拒否しただけでは止まりませんね」

 

 ケイレブの仲間が呟く。

 

「自力で来たか。船長も、いつまでも川の途中で漂ってはいられないからな」

 

 俺は言った。

 

「だからこそ、安全に止める役割が必要だったんだ」

 

 翌十二月二十六日。

 

 町側の接触班は、上流へ向かってくるポリー号をグロスター・ポイント付近で待ち受けた。

 

 市街地よりも下流の岸辺から、遠くに古い黒い船体が見えてきた。

 

 船首像なし。華美な装飾なし。

 

 脅迫文の記載と完全に一致する。

 

 俺とギデオンが岸辺に到着した時、ケイレブたちの乗った小舟が、すでにポリー号へと接近していた。

 

 俺は反射的に、自分も船へ飛び移ろうと足に力を込めた。

 

 ギデオンが俺の肩を掴んで止めた。

 

「お前の役目か?」

 

「何かあったら――」

 

「今、何か起きているのか?」

 

「……まだだ」

 

「なら、黙って見ていろ」

 

 ケイレブが一人でポリー号の甲板へと乗り込んだ。

 

 船員たちは極度に警戒し、手斧や短銃、船具を握りしめている者もいる。

 

 エアーズ船長が、鋭い声で問うた。

 

「水先案内人か?」

 

「はい」

 

「今さら何をしに来た? 誰も我々を案内しようとしなかったではないか」

 

「市街地へ案内するためではありません」

 

 船長が激怒する。

 

「なら、船を襲いに来たのか!」

 

「安全に止まっていただくためです」

 

「同じことだろうが!」

 

「違います」

 

 ケイレブは落ち着き払って答えた。

 

「あなたの船を冬の浅瀬へ乗り上げさせず、船員を暴徒へ渡さず、無事に帰れる場所へ止めるためです」

 

 エアーズ船長は、彼らを全く信用していなかった。

 

「積荷を奪うのか?」

 

「奪いません」

 

「船を押収するのか?」

 

「しません」

 

「船員を拘束するか?」

 

「しません」

 

「では、何を要求する!」

 

「この先へ進まず、ここで錨を下ろしてください。その後、町の意思と荷受人の意思を確認します。もし茶を降ろさず帰ると決めた場合、我々は帰航用の水、食料、水先案内を提供します」

 

 船長が冷笑した。

 

「それと一緒に、タールと羽根もか?」

 

 ケイレブは脅迫文の存在を否定しなかった。

 

「あなたを脅した連中と、我々は同じではありません」

 

「同じフィラデルフィアの人間だろう」

 

「だからこそ、同じではないと行動で示す必要があるのです」

 

 ケイレブの交渉は順調ではなかったが、破綻もしていなかった。

 

 俺なら、威圧で船員を静め、船長の心音から嘘を見抜き、霧化して船内を確認し、船を力ずくで安全に停泊させることができる。

 

 それでも、俺は動かなかった。

 

「苛立っているな」

 

 ギデオンが横から言う。

 

「俺なら、もっと早く話をまとめられる」

 

「そうだろうな。お前の力なら一瞬だ」

 

「だったら――」

 

「早いことと、正しいことは同じか?」

 

 ギデオンは、俺がボストンで彼に向かって言った言葉をそのまま返してきた。

 

「できるからといって、やっていいことにはならないのだろう?」

 

 アーサーが小舟で近づき、船長へ《船長安全保証》の文書を渡した。

 

 船長と船員へ危害を加えない。

 

 群衆を船へ乗せない。

 

 茶を船内に残す。

 

 荷受人との面会を保証する。

 

 町の大集会で意見を聞く。

 

 帰航を選ぶ場合は補給と水先案内人を付ける。

 

 英国への報告用の記録を作る。

 

 その文書の署名者は、俺ではなかった。

 

 町側交渉団、水先案内人代表、夜警代表、商人代表。

 

 俺の名前はどこにもない。

 

 船長の許可を得て貨物目録を確認した。

 

 積荷の茶は約七百箱。箱は未開封。

 

 まだフィラデルフィア市街地へは入っていない。

 

 税関への正式な入港報告も、貨物申告も行われていない。

 

 ボストンで帰航を完全に阻んだ、港内進入、税関申告、二十日期限、出港許可、総督の通過許可という地獄の鍵が、ここではまだ一つも回っていないのだ。

 

「……止める場所が一つ違うだけで、必要な鍵の数が全然違う」

 

「今回は、扉の向こうへ入る前に立ち止まれたわけだ」

 

 ギデオンが言う。

 

 エアーズ船長は臆病者ではなかった。

 

「町が帰れと言うから、はいそうですかとただ帰れるわけではない」

 

 彼は冷静に帰航の必要条件を並べ立てた。

 

 荷受人が受領しないこと。

 

 茶を降ろさなかった証明。

 

 船と船員へ危害を加えない保証。

 

 英国までの水と食料。

 

 川を下る水先案内。

 

 帰国後に契約違反を問われた際に提示する記録。

 

 船員への給金。

 

 彼は無計画に逃げて、船員を別の危険へ連れる気はなかったのだ。

 

 ポリー号は下流に停泊し、船員の大半は船へ残った。

 

 船長だけが、少人数の護衛とともにフィラデルフィア市街地へ向かう。

 

 俺はまたしても船長の隣へ立とうとしたが、アーサーが冷たく言った。

 

「旦那様は少し離れてください」

 

「なぜ?」

 

「船長の護衛が不死身の吸血鬼だと町中に知られる方が、後々大問題です」

 

「……それはそうだけど」

 

「夜警が護衛します。普通の人間の夜警が、船長を守ります」

 

 フィラデルフィアへの道中、急進派の小集団が現れた。

 

 彼らの手には樽、羽毛袋、縄、松明。

 

 本当に実行するつもりか、威嚇のためかは分からない。

 

 俺の指がピクリと動いた。

 

 視線だけで全員を気絶させることもできる。

 

 しかし、アーサーが俺より先に出た。

 

「船長は町の求めに応じ、交渉へ向かっている! 退け!」

 

 夜警が盾となって道を塞ぐ。

 

 ケイレブの仲間が群衆へ叫んだ。

 

「船を帰す者を辱めて、一体何の得がある! ボストンの真似事をして暴徒になりたいのか!」

 

 小集団は不満を口にしながらも、渋々道を譲った。

 

 俺は、ただ見ているだけだった。

 

 町へ入ったエアーズ船長は、壁に貼られた自分への一枚刷りを見た。

 

 太った男。

 

 頑固者。

 

 首へ縄を掛ける対象。

 

 タールを浴びせ、羽根を付けて見世物にする対象。

 

「これが、お前たちの言う安全保証か?」

 

 船長が吐き捨てるように言う。

 

 アーサーが答えた。

 

「それを書いた者と、保証書へ署名した我々は別です」

 

「私には区別できない」

 

 俺はたまらず口を出した。

 

「だから、区別できる結果を作るんだ」

 

 船長が俺を睨む。

 

「言葉ではなく?」

 

「ああ。あなたが明日、何も浴びず、何も奪われず、船へ戻れたなら、初めて違うと証明できる」

 

 夜。

 

 船長との個別面談が行われた。

 

 群衆はいない。

 

 町側交渉団も必要最低限。

 

「本当はどうしたい?」

 

 俺は船長に問うた。

 

「茶を降ろす契約を果たしたいと答えれば、安全に帰れると思うか?」

 

「思わない」

 

「なら、これは自由な質問ではないな」

 

 俺は素直に認めた。

 

「そうだ。完全に自由な選択じゃない。圧力はある。でも、あなた自身の判断も残っているはずだ」

 

 船長はしばらく考え込んだ。

 

「……荷受人が拒否し、町が茶を買わず、船員が暴徒の危険に晒されるなら、茶を降ろす利益はどこにもない。食料と水と水先案内が保証されるなら……帰航が船長として最も損失の少ない選択だ。私は帰る」

 

 ここで初めて、群衆の前で強要された返答だけではなく、脅迫や現実的な損失も含めて検討した、船長自身の実務判断としての帰航意思が確認された。

 

 俺はすぐに文書を作ろうとしたが、机の上にはすでにアーサーたちが準備した書類の山が並んでいた。

 

 受領拒否証明案。

 

 補給品一覧。

 

 水先案内人割当表。

 

 出航時刻候補。

 

 船長保護経路。

 

 高水位表。

 

 英国向け経過報告書案。

 

「……旦那様がボストンへ発たれた後から、準備しておりました」

 

 アビゲイルが微笑む。

 

 俺には、今夜やるべき新しい仕事が一つもなかった。

 

 俺は全く眠れなかった。

 

 何度も書類を読み返し、誤字、順序、責任者、予備案にどこか不備があるはずだと粗探しをした。

 

「……失敗してほしいのか?」

 

 ギデオンが呆れる。

 

「そんなわけないだろ」

 

「なら、なぜ成功する理由より、失敗する理由ばかり血眼になって探す? お前が見落としても、他の者が見て修正するための手順ではなかったのか?」

 

 俺は黙って書類を閉じた。

 

 十二月二十七日、朝。

 

「茶船が到着した。アメリカの自由を守ろうと望むすべての住民は、午前十時、州議事堂へ集まり協議せよ」

 

 そう記された一枚刷りが出た。

 

 その日の朝に告知されたにもかかわらず、午前十時には数千人の群衆が州議事堂の庭と広場へ溢れ返った。

 

 商人、職人、労働者、急進派。

 

 ボストンの破壊に興奮する者。

 

 船長への私刑を望む者。

 

 フィラデルフィアの市民がボストンより善良だから平和なわけではない。

 

 同じように怒り、同じように暴力の可能性を持っている。

 

 違うのは、まだ船を帰せるということだけだ。

 

 町側の人物が、俺へ演説を頼んできた。

 

「ボストンの惨状を見た者として話してほしい」

 

 俺は断った。

 

「俺がボストンで茶を止めなかった話をしたら、全員が同じ破壊を再現したくなる。帰航案の説明は、この町の交渉団がするべきだ」

 

 俺は広場の端へ下がった。

 

 アーサーがしゃしゃり出ることもない。

 

 手順を準備した実務者と、公開の決議を行う住民は明確に分ける。

 

 集会では、七つの決議が順に採択された。

 

 茶を一箱も陸揚げしない。

 

 税関へ入港報告しない。

 

 直ちに英国へ持ち帰る。

 

 帰航用の水先案内人を送り、次の適切な潮でリーディ島へ向かわせる。

 

 船長に物資を整える猶予を与える。

 

 準備完了後、速やかに退出する。

 

 実行確認のための委員を置く。

 

 これは処罰の決議ではない。

 

 船を無事に帰すために必要な作業順序そのものだった。

 

「船長が拒めば、我々もボストンにならえ!」

 

「茶を投げろ!」

 

 という危険な声も上がったが、議長が冷静に、

 

「まず、船長の返答を聞く」

 

 と進行を戻した。

 

 俺の威圧など必要なかった。

 

 エアーズ船長が呼び出され、数千人の視線の中で答えた。

 

「町の要求に従い、茶を降ろさず、船を英国へ戻す」

 

 歓声が上がる。

 

 だが俺は共に喜ばなかった。

 

 これは数千人に囲まれた状況での返答だ。

 

 集会後、人のいない部屋で俺は船長へ再確認した。

 

「今なら群衆はいない。本当に帰るのか?」

 

 船長ははっきりと答えた。

 

「帰る。脅迫されたことも判断材料だが、補給と水先案内が保証されるなら、帰航が最善の選択だ」

 

 ジェームズ&ドリンカー商会側との面談でも、彼らはポリー号の茶を受領せず、そのまま英国へ返すことを書面で確認した。

 

 さらに、ほかの荷受人や協力商人たちとともに、船長の帰航用の食料、水、帆布、航海費用の一部を提供した。

 

 善意だけではない。

 

 問題を町から遠ざけるための、現実的な判断だ。

 

 だが、ここで問題が起こった。

 

 脅迫文は水先案内人へ、

 

「ポリー号を案内するな」

 

 と命じていた。

 

 ところが集会決議は、

 

「帰航用の水先案内人を直ちに送れ」

 

 と要求している。

 

 一部の案内人が、

 

「船へ乗れば茶法への協力者と見られる」

 

 と尻込みする中、ケイレブが前に出た。

 

「町へ茶を運び込む案内はしない。だが、川から茶を運び出す案内まで拒んだら、船は帰れない。必要なら俺が乗る」

 

 俺は代わりに自分が船を導こうとは言わなかった。

 

 普通の水先案内人が、普通の技能で船を帰すのだ。

 

 午後から夜にかけ、ポリー号へ送る飲料水、保存食、薪、蝋燭、帆布、医薬品などの物資が次々と準備され、誰が提供したかが細かく記録されていった。

 

 俺が箱を運ぶ手伝いをしようとすると、アビゲイルが言った。

 

「旦那様は確認役です。荷運び人がおりますので」

 

 俺には、本当にすることがなかった。

 

 帰航時刻表を見る。

 

 潮。

 

 風。

 

 川の流れ。

 

 俺なら風を僅かに操作し、より安全に送り出せる。

 

 しかしそれを実行すれば、ポリー号は真祖が風を動かさなければ帰れなかったことになる。

 

「今、風を見たな」

 

 ギデオンが言う。

 

「見ただけだ。動かさない。普通の船が、普通の風で帰るんだ」

 

 十二月二十八日の朝。

 

 エアーズ船長が宿を出る。

 

 町の人々が集まっていたが、夜警と交渉団が完璧な通路を確保していた。

 

 俺は離れた場所から監視した。

 

 もし人命の危険があれば介入する。

 

 だが、船長はタールも羽根も浴びず、誰にも殴られず、無傷で波止場へ到着した。

 

「無事に帰れ」

 

「二度と来るな」

 

 という声が飛ぶ中、船長は謝罪もせず、

 

「私は船長として船へ戻る」

 

 とだけ言って去った。

 

 俺も和解の握手など演出しなかった。

 

 補給品が積まれ、ケイレブたちが乗船し、茶箱の封印が確認される。

 

 錨が上がり、帆が開く。

 

 ポリー号が川を下り始める。

 

 俺は岸からそれを見た。

 

 船を押さない。

 

 風を動かさない。

 

 ただ、自分以外の人間によって帰っていく船を見た。

 

 俺はアーサーたちと《ポリー号帰航完了確認票》を作った。

 

【市街地港内への進入:なし】

 

【貨物申告:なし】

 

【茶箱の破壊:なし】

 

【船員負傷:なし】

 

【船体損傷:なし】

 

【群衆との物理的衝突:なし】

 

【超常的介入:なし】

 

【手順起動時のルカ:ボストンから帰還途中】

 

「ボストンでは三百四十二箱が壊れた。ここにはその倍の約七百箱があったが、一箱も壊れなかった」

 

 ギデオンが言う。

 

「人間が違ったからじゃない。条件と手順が違ったからだ」

 

 アーサーが報告書への署名を求めてきた。

 

「俺の名前を一番上に書くな。責任者欄はお前たちだ。俺は確認者でいい」

 

「ですが、この手順を作ったのは旦那様です」

 

「動かしたのは俺じゃない。誰の手柄でもなくていいんだ。船が帰れば、それで手順は成功だ」

 

 ポリー号が川の向こうへ小さくなっていく。

 

 ボストンでは、壊れた茶箱と海を覆う茶葉が残った。

 

 フィラデルフィアでは、無傷の茶箱を載せて出港した船の航跡だけが残った。

 

「お前がいなくても帰ったな」

 

「……俺がいなくても帰れるようにしたかったんだ」

 

「では、なぜボストンから急いで戻ってきた?」

 

 俺は少し考えて答えた。

 

「手順が失敗しないようにするためだと思ってた。でも、多分……俺がいなくても成功するのを見るのが、怖かったんだ」

 

「自分が必要ないからか?」

 

「俺が必要なくても動くなら、いつか俺がいなくなっても続く。……それが、作ろうとしてた仕組みのはずなのにな」

 

 ボストンでは、俺が現場にいても、三百四十二箱の茶は壊された。

 

 フィラデルフィアでは、俺がいない間に手順が始まり、俺以外の人間たちによって進められた。

 

 水先案内人が船を止めた。

 

 夜警が船長を守った。

 

 荷受人が茶を拒んだ。

 

 商人が帰りの食料を用意した。

 

 船長が帰ると決めた。

 

 そして約七百箱の茶は、一箱も壊されないまま川を下っていった。

 

 俺が何もしなかったから、船が帰ったわけではない。

 

 俺以外の人間たちが、それぞれ自分の仕事をしたから帰ったのだ。

 

 自分がいなくても帰る船を見送りながら、俺はようやく理解した。

 

 仕組みが完成した証拠は、作った者が褒められることではない。

 

 作った者がいなくても、誰も死なず、何も壊れず、無事に船が帰っていくことだった。




ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。