真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第4話 真祖吸血鬼、ヴァージニアの農園主に会う

 フィラデルフィアの地下に構えられたハンター支部。

 

 その執務室の机には、今日もヴァレンタイン衛生用品商会の帳簿が山積みになっていた。

 

 蝋燭の明かりの下、実質的な昼の代理人であるギデオンが、羽ペンを片手に眉間を深く揉み解している。

 

「白箱の注文がまた跳ね上がっている。上等の宿屋どもが、客室の常備品にしたいと追加注文を寄越してきて、きりがない」

 

 俺は部屋の隅の長椅子に寝転がりながら、のんきに答えた。

 

「いいことじゃん。利益率が一番高いんだし、富裕層からどんどん資金を吸い上げよう」

 

「港湾用の普及品が、一部の悪徳商人に買い占められそうになった件を忘れるな。調整するのは私だぞ」

 

「資本主義って、ちょっと目を離すとすぐ貧民から石鹸を奪おうとするんだよな。怖い怖い」

 

「お前がそれを言うと、本物の吸血鬼の言葉として不快な響きになるからやめろ」

 

 ギデオンが冷たい視線を投げてきたその時、支部の連絡員が一通の書状を持ってきた。

 

 差し出し人は、ベンジャミン・フランクリン。

 

 俺たちの秘密をある程度共有し、石鹸の包み紙や啓発文の印刷を請け負ってくれている、この街の顔役だ。

 

 ギデオンが封を切って手紙を読み上げ、やがてその動きをピタリと止めた。

 

「……フランクリンからだ。次なる石鹸の販路として、ヴァージニアの農園主を紹介するとのことだ。軍歴があり、宿泊施設や民兵のネットワークにも通じている名望家らしい」

 

 俺は長椅子から身を起こした。

 

「へえ、フランクリンのお墨付きか。で、その人の名前は?」

 

 ギデオンは手紙の文末に視線を落とし、無感情に読み上げた。

 

「ジョージ・ワシントン、だと」

 

 その名を聞いた瞬間、俺の思考は数秒間、完全にフリーズした。

 

「ジョージ……ワシントン?」

 

「知っているのか?」

 

「知ってる。めちゃくちゃ知ってる。というか、アメリカ建国ガチャを回したら絶対に出てくる最高レアみたいな人だ」

 

「その冒涜的な比喩をやめろ。また未来の有名人か」

 

 ギデオンは心底嫌そうに溜息をついた。

 

 フランクリンの紹介状の文面は、なかなかにスリリングなものだった。

 

『奇妙な欧州貴族だが、持ち込む品物は本物であり、話をする価値は十分にある。ただし、彼の言葉をすべて真に受ける必要はない。そして、彼が持つ奇妙な光る筒は、決して分解しない方がよい』

 

「……フランクリンのおっさん、しっかり俺をいじりつつ紹介してくれてるな」

 

 俺は手紙を覗き込みながら笑った。

 

「ギデオン、行こうぜヴァージニア」

 

「……」

 

「お願い♡」

 

「断る」

 

「でもあんた、昼の商会代理人だろ?」

 

「私は石鹸商会の代理人であって、吸血鬼の物見遊山の観光案内人ではない」

 

「販路拡大のための重要な商談だよ? 立派な商会業務じゃん」

 

「……お前はいつもそうやって私の逃げ道を塞ぐ」

 

 部屋の隅で影のように控えていたアーサーが、鋭い声で口を挟んだ。

 

「支部長。真祖をこの都市の外へ連れ出すのは危険すぎます」

 

「俺、なんか爆発物か荷物みたいな扱いされてない?」

 

「歩く災厄、危険物という扱いだ」

 

「言い直して悪化してるんだけど」

 

 アーサーの懸念ももっともだったが、ギデオンは極めて現実的な判断を下した。

 

 俺をフィラデルフィアに一人放置して勝手に動かれるより、自分が同行して手綱を握った方がはるかに安全だ。

 

 それに、ワシントンという大物への接触は、この先アメリカで事業を展開するならどうせ避けられない道でもある。

 

「……行く。だが条件がある」

 

 ギデオンは俺の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「現地で勝手に吸血鬼だと名乗るな。未来の政治や戦争について語るな。そして——」

 

 彼は少しだけ言葉を区切った。

 

「向こうの『奴隷制』を目の当たりにしても、いきなり現代の倫理観で演説を打つな」

 

「……最後のやつ、なんで俺が言う前に分かったの?」

 

「お前がそういうものを一番嫌悪することは、今までの行動を見ていれば分かる。だが、顔に出すなよ」

 

 *

 

 数日後、俺たちは石鹸の木箱を山ほど積んだ馬車に揺られ、一路南のヴァージニアを目指していた。

 

 積荷の内訳は、富裕層向けの白箱石鹸、港湾・貧民向けの普及品石鹸、農園向けの簡素な粗包装石鹸、手洗い啓発の印刷紙、さらに簡易浄水器の試作品や包帯などの衛生用品一式だ。

 

 ガタガタと内臓を揺らす振動に、俺は早々に音を上げていた。

 

「大西洋の船旅も長かったけど、陸路の馬車も普通に苦行なんだけど……」

 

「贅沢を言うな。吸血鬼の肉体なら疲労などしないだろう」

 

「精神が疲れるんだよ。アスファルトの舗装道路が恋しい……」

 

「ほそう、とは何だ」

 

「未来の民が、馬車酔いを撲滅するために地面を平らに固めた、偉大なる文明の証拠だよ」

 

「お前の言う未来は、時々卑近すぎて嘘くさい」

 

 馬車の窓から外を眺めていると、フィラデルフィアの都市部とは全く違う風景が広がっていた。

 

 都市の悩みは、密集による汚水と悪臭だった。

 

 しかし、ここ農村部には別の問題が渦巻いている。

 

 どこまでも続く泥道。

 

 集落と集落の間の圧倒的な孤立感。

 

 容赦ない自然の距離。

 

 そして、広大な土地にしがみついて生きる者たちの、むき出しの労働と暴力の気配だ。

 

 時折、農地で土まみれになって働く人々の姿が見える。

 

 その中には、明らかに自分の意志ではなく、所有される財産として労働を強制されている『奴隷』らしき人々の姿があった。

 

 俺は窓枠に肘をついたまま、少しだけ言葉を探した。

 

「……あれは」

 

「見れば分かるだろう。目を逸らしたいなら窓を閉めろ」

 

「分かるから、聞きたくないんだよ」

 

 ギデオンは淡々と、しかし静かな声で解説した。

 

 ヴァージニアの経済は、タバコなどの商品作物を栽培する大農園によって成り立っている。

 

 広大な土地から利益を絞り出すためには、膨大で安価な労働力が不可欠だ。

 

 そこには年季奉公の契約労働者もいるが、アフリカから連れてこられ、人間ではなく財産として売買される奴隷の存在が、この社会の根深く、決定的な部分に絡みついているのだと。

 

 俺は何も言えず、ただ黙って窓の外を流れる風景を見つめていた。

 

 *

 

 道中の宿場町で夜を迎えた。

 

 護衛のアーサーが外で警戒にあたる中、俺は軋むベッドに腰掛け、粗末な木の椅子に座るギデオンと向き合った。

 

 部屋には安っぽい油の匂いが漂っている。

 

 俺は、あえて軽い口調を取り繕って切り出した。

 

「なあ、ギデオン」

 

「なんだ。お前がそのトーンで話しかけてくるときは、大抵嫌な予感しかしないのだが」

 

「俺の現代の倫理観からすると、奴隷制って絶対に駄目なシステムだと思うんだけど。君はどう思う?」

 

「……」

 

 ギデオンはすぐには答えなかった。

 

 彼は十八世紀を生きる人間であり、俺のように「すべての人間に基本的人権がある」という現代的価値観を生まれながらに持っているわけではない。

 

 だが、彼は同時に、闇に潜む怪物たちから人間を守るために剣を振るってきたハンターでもあるのだ。

 

「……私がこの道を選んだのは、理不尽な怪物が人間を狩り、蹂躙するのを止めるためだ」

 

 やがて、ギデオンは静かに口を開いた。

 

「人間が人間を鎖に繋ぎ、牛馬のように扱う光景を見て、何も感じないほど私の感覚は鈍くはない」

 

 その言葉に、俺は少しだけホッとした。

 

 だが、ギデオンの言葉はそこで終わらなかった。

 

「だが、お前も見た通り、この社会はあの制度で回っているのだ。農園の経営、ヨーロッパの商人への借金、親から子への相続、土地の開拓。すべてがあの鎖の存在を前提として絡みついている。私がここで『それは悪だ』と大声で叫んだところで、誰の鎖も外れはしない。むしろ、鎖の数を数えて帳簿をつけている者たちから、狂人か敵として排除されるだけだ」

 

「……分かる。構造として組み込まれてるのは、分かる。でも、だからって納得はできない」

 

 ギデオンは鋭い視線を俺に向けた。

 

「お前は欧州で、親が人間を地下で飼育する『牧場』を見た時、激しく嫌悪したそうだな」

 

「当たり前だろ。あんなの倫理の完全崩壊だ」

 

「それは当然の感情だ。では、ヴァレンシュタイン卿。上位存在である吸血鬼が人間を家畜として扱うことと、人間が同じ人間を財産として所有することの、本質的な違いは何だ?」

 

 俺は、言葉に詰まった。

 

 歴史的背景も、経済的合理性も、制度の成り立ちも全く違う。

 

 同一視して語れるほど単純な問題ではない。

 

 でも、俺の中で渦巻く嫌悪感の根っこは、ひどく似通っていた。

 

 人間を、人間として見ないこと。

 

 所有可能な『モノ』として扱い、その命と尊厳の決定権を奪うこと。

 

 ……沈黙が重くなりすぎた。

 

 俺は両手を上げて、わざとらしく笑った。

 

「いやまあ、そんな重たい政治哲学の話をしに来たわけじゃないし! 俺、ただ石鹸を売りに来ただけの、しがない吸血鬼投資家だし!」

 

「……逃げたな」

 

「逃げたよ。今の俺には、この問題を抱えきれない」

 

「無理だと自覚して引けるなら、まだマシだ。その分、余計に始末に負えんがな」

 

 俺はノートを開き、小さく一行だけ書き込んだ。

 

『人間を財産として扱う制度。要調査。危険。精神的にかなりきつい』

 

 *

 

 翌日、俺たちはついに目的の地、マウントヴァーノンに到着した。

 

 ポトマック川を見下ろす高台に建つ、白亜の美しい屋敷。

 

 その周囲には、広大な農地、数々の作業場、倉庫が整然と配置されている。

 

「うわ……めちゃくちゃ綺麗に運営されてるじゃん」

 

「大農園主の屋敷だ。これくらいでなければ経済は回らん」

 

「いや、フィラデルフィアの泥と悪臭の港を見た後だと、空間がきちんと管理されてるって事実だけで感動するんだよ」

 

 だが、その美しい風景の裏側で、畑や作業場で黙々と働く奴隷たちの姿が目に入った瞬間、俺の顔からスッと表情が抜け落ちた。

 

 隣を歩くギデオンが、すかさず小声で釘を刺す。

 

「顔に出すなと言っただろうが」

 

「出てる?」

 

「かなりな」

 

「無理だって。現代人の俺からすれば、綺麗に整った箱庭の中で人間が部品みたいに扱われてるの、異様すぎて鳥肌が立つ」

 

「げんだいじん、という言葉を外で使うな。ほら、主が来たぞ」

 

 屋敷の玄関から、一人の男が歩み出てきた。

 

 ジョージ・ワシントン。

 

 背が高く、背筋がピンと伸び、歩く姿には一切の無駄がない。

 

 まだアメリカ独立の英雄と呼ばれる前の、三十代の若き農園主。

 

 だが、その落ち着いた声と眼差しには、すでに多くの人間を率いてきた者特有の『威厳』のようなものが備わっていた。

 

「ヴァレンタイン卿。遠路はるばる、ようこそマウントヴァーノンへお越しくださいました」

 

「夜分遅くに失礼します。生まれつき、陽光に極端に弱い体質でして」

 

「フランクリン氏からの手紙にも、そのように記されておりました。珍しい体質をお持ちのようですな」

 

「ええ、欧州でもかなり珍しい血筋なもので」

 

 横に立つギデオンが「余計なことを言うな」という目で俺を睨んでいる。

 

 ワシントンは鋭い観察眼でこちらを値踏みしていた。

 

 若く見えるが、夜にしか現れない謎めいた欧州貴族。

 

 フランクリンという大物の紹介状。

 

 そして、背後に控えるハンターのような空気を纏った男たち。

 

 怪しい。

 

 誰がどう見ても怪しい。

 

 だが、彼は決して礼節を崩すことはなかった。

 

 *

 

 客間に通され、俺はさっそく石鹸のプレゼンを始めた。

 

 ワシントンは、フランクリンのように「未知の技術」そのものへの科学的な好奇心は示さなかった。

 

 懐中電灯を見せても、それを分解して原理を解明しようとはしない。

 

 彼が徹底して見極めようとしたのは、ただ一つ、『実用性』だった。

 

「この石鹸は、広大な農園の作業現場でも使えるのですか?」

 

「ええ、泥汚れから油汚れまで、幅広く対応できます」

 

「どの程度の量を、どれほどの期間で安定して供給できる? 輸送中に熱で溶けたり、悪臭を放ったりはしないか?」

 

「包装と保管条件さえ守っていただければ、品質は長期間保証します」

 

「……水の少ない野営地でも使用は可能か?」

 

「少量の水でも十分に泡立ち、汚れを落とせます」

 

 俺は内心で舌を巻いた。

 

 この人、商品を見る目が商人じゃない。

 

 完全に農園の管理者であり、軍人のそれだ。

 

 ワシントンは石鹸の木箱を指先でなぞりながら、低い声で言った。

 

「軍隊というものは、敵と交戦する前に、病によって半数が倒れるような組織です。長い行軍では、わずかな汚れ、小さな傷、そして腹の病が兵士を容赦なく弱らせていく。もしこの品が、本当に兵の身体を清潔に保ち、病を防ぐ助けになるのなら……それには莫大な価値がある」

 

 俺は一瞬でプレゼンの方向性を切り替えた。

 

 富裕層向けの香りの強い高級品を推すのをやめ、実用品としての側面にフォーカスする。

 

「ヴァージニアでの展開にあたっては、香りを抑えた安価で実用的なラインを用意できます。農園の作業場、民兵の訓練時、野営の地、そして何より『傷の処置』を行う現場に向けたパッケージです」

 

 ワシントンは、明確に興味を惹かれたようだった。

 

 会談が進むにつれ、話題は自然と「西部への土地問題」へと移っていった。

 

 彼はフレンチ・インディアン戦争を前線で戦い抜いた男だ。

 

 オハイオ川流域の土地の重要性も、血を流して得たものの価値も知っている。

 

 フランスという強大な脅威は消え去った。

 

 だが、勝利したはずのイギリス本国は、今度はアパラチア山脈より西への入植を制限する『王室宣言線』を敷こうとしている。

 

 ワシントンは、言葉を慎重に選びながら語った。

 

「本国の言い分も分かります。彼らは秩序を求めている。新たな先住民との激しい衝突を避け、財政を安定させたいのでしょう」

 

「でも、現場の人間はそうは思わない」

 

「ええ。命を懸けて戦った者、新たな土地に希望を抱いた者、そして巨額の資金を投資した者たちは、簡単には納得しません」

 

 俺は相槌を打つ。

 

「土地は、この新大陸では未来そのものなんですね」

 

 ワシントンは俺の目を真っ直ぐに見た。

 

「その通りです。土地は我々の財産であり、信用であり、次の世代へ残すべきすべてです。そして、多くの者にとって……ここより西にしか、もはや切り拓くべき未来はないのです」

 

 重い台詞だった。

 

 税金だけじゃない。

 

 土地への渇望と、それを理不尽に制限する本国への不満。

 

 植民地側は未来を奪われたと感じ、先住民は自分たちの生存権を懸けて抵抗する。

 

 どの立場の理屈も、彼ら自身の中では完全に正当化されている。

 

 だからこそ、最悪の形で衝突するのだ。

 

 うわぁ……これ、完全に火薬庫じゃん。

 

 俺の顔が引き攣ったのを察したのか、ギデオンがテーブルの下で俺の足を軽く蹴った。

 

 *

 

 商談が一段落した後、ワシントンは夜の農園を少し案内してくれた。

 

 月明かりに照らされた作業場、倉庫、そして広大な農地。

 

 そこには、夜遅くまで働き、あるいは休息をとる奴隷たちの姿があった。

 

 ふと、一人の若い奴隷と目が合った。

 

 ほんの一瞬のことだ。

 

 名前も知らない。

 

 言葉も交わさない。

 

 だが、その疲弊しきった視線を受け止めた瞬間、俺の胃の底にドロリとした鉛のような不快感が沈み込んだ。

 

 脳裏にフラッシュバックする、欧州の古城の地下。

 

 親が構築した人間牧場。

 

 鎖。

 

 血統管理の帳簿。

 

 人間を所有するという狂気。

 

 そして、それに疑問を抱かない冷酷な笑顔。

 

 俺の足が、ピタリと止まった。

 

 数歩前を歩いていたワシントンが振り返る。

 

「……何か?」

 

「……いえ」

 

 俺は必死に感情を飲み込もうとした。

 

 だが、完全には飲み込めなかった。

 

 少し歩いた後、俺は立ち止まったまま、ワシントンの背中に向けて問いを投げた。

 

「失礼を承知で伺います。彼らは……あなたの財産として、帳簿に数えられているのですか」

 

 空気が一気に凍りついた。

 

 ギデオンが鋭く息を呑み、アーサーが影の中でいつでも動けるように態勢を低くする。

 

 ワシントンは、すぐには答えなかった。

 

 見知らぬ異邦人の無礼な問いに怒ることも、無視して歩き出すこともできたはずだ。

 

 だが、夜の農園に虫の声だけが響く長い沈黙の後、彼は振り向かずに言った。

 

「……この植民地では、そのように扱われています」

 

「あなた個人の信念としての答えではなく、社会制度としての答えですね」

 

 ワシントンがゆっくりと振り返った。

 

 その表情は、先ほどまでの穏やかな名望家のそれではなく、少し硬く、警戒を孕んでいた。

 

 彼は奴隷制を正当化する大演説を打つわけでもなく、かといって進歩的な廃止論者のように振る舞うわけでもない。

 

 彼はこの制度の中にどっぷりと浸かり、それを前提として育った人間なのだ。

 

 しかし、俺の問いに含まれた不快なトゲには、確実に反応していた。

 

「ヴァレンタイン卿。あなたはこの植民地の外から来た方だ。こちらの農園経営の複雑な事情を、すぐには理解しがたいでしょう」

 

「理解はできるかもしれません。経済や歴史の必然として。……でも、納得するのは難しい」

 

 ワシントンは黙った。

 

 俺も、これ以上は踏み込まなかった。

 

 彼をこの場で断罪したところで、何一つ解決しないことくらい分かっている。

 

 ギデオンが進み出て、低い声で場を取り成した。

 

「……卿。石鹸の輸送手順の確認に戻りましょう」

 

 俺はわざとらしく、いつもの軽い笑い声を上げた。

 

「そうだね。いや、こんな重い哲学の話をしに来たわけじゃないんだよ。俺、ただの石鹸売りの投資家だし!」

 

 空気は少しだけ緩んだが、完全には元に戻らなかった。

 

 ワシントンは、俺の軽薄さが意図的な逃げであることに気づいている。

 

 そして俺も、彼の沈黙が単なる無関心や冷酷さから来るものではないことに気づいていた。

 

 *

 

 会談の締めくくりに、ワシントンは俺と二人だけになった一瞬を突いて、短く言った。

 

「……あなたは、あの制度を不快に思われたようだ」

 

 俺は誤魔化すのをやめた。

 

「ええ。かなり」

 

「率直ですな」

 

「顔に出やすい性分らしいので」

 

 ワシントンは屋敷の窓から外を見つめた。

 

 農園のあちこちに灯る小さな明かりが、暗闇の中に点々と浮かんでいる。

 

 彼の背負う責任。

 

 家族、財産、借金、広大な土地、そして膨大な労働力。

 

 それらすべてが、あの鎖の制度と不可分に結びついている。

 

「この地の人間は、矛盾の上に家を建てています。それを矛盾と呼ぶ者は少なく、直視する者はさらに少ない。……私も、その見ないふりをしている一人なのかもしれません」

 

 彼の中に、時代の限界を超えようとする苦悩の種がわずかに見える。

 

 俺は小さく息を吐いた。

 

「俺も、偉そうに他人の倫理を責められる立場じゃありません。俺の血筋は、人間をもっとひどい形で、家畜として扱っていましたからね」

 

 ワシントンがわずかに眉をひそめる。

 

「それは、どういう……」

 

「今のは、欧州貴族特有の悪趣味な暗い冗談ってことで」

 

 背後でギデオンが「冗談としても最悪の部類だ」と心底嫌そうに呟くのが聞こえた。

 

 ワシントンは、その言葉を深く刻み込むように黙り込んだ。

 

 商談自体は、見事なまでに成功した。

 

 ワシントンは大量の石鹸を購入した。

 

 ただし、彼の関心はあくまで農園と野営で使える実用品に向けられていた。

 

「香りは弱くて構わない。包装も簡素でよい。だが、湿気と輸送の揺れに耐えること。そして、使用法を明確にすること。作業場と台所、傷の処置を行う場所に常備させます」

 

 俺は即座にノートにメモを取る。

 

「もし民兵や遠征隊にこの石鹸を配るのなら、使い方は短く、命令の形で書くべきです。兵士は長い能書きなど読みはしない」

 

「軍人の現場感ですね」

 

「説明よりも、規律です」

 

 言葉と習慣で人を動かそうとしたフランクリンとは違う、組織と規律で行動を徹底させるワシントンのアプローチ。

 

 俺は二人の建国の父の役割の違いを、はっきりと理解した。

 

 *

 

 マウントヴァーノンを後にし、フィラデルフィアへ戻る馬車の中。

 

 俺はずっと窓の外を眺めたまま、珍しく口を閉ざしていた。

 

 向かいの席で、ギデオンが忌々しそうに言う。

 

「お前が黙っていると、嵐の前の静けさのようでひどく不気味だ」

 

「ひどくない? 俺だって静かに考え事くらいするよ」

 

 馬車が大きく揺れ、俺は天井を仰いだ。

 

「……俺さ、ジョージ・ワシントンっていう『未来の偉人』を観察しに来たつもりだったんだよ」

 

「また未来の話か」

 

「でも、そこにいたのは、時代の中にどっぷり浸かっている普通の農園主だった。礼儀正しくて、頭が良くて、軍人としての規律もあって、たぶん責任感も強い。……でも、奴隷を所有してる」

 

 ギデオンは目を閉じ、腕を組んだ。

 

「人間は、一つの言葉や一面だけで片付くほど単純ではない」

 

「分かってる。それが面倒くさいんだよ。分かりやすい悪人なら、ハンターみたいにぶっ飛ばして終わりにできるのに」

 

「悪人だけが、悪い制度を支えるわけではないのだ」

 

 その言葉の重みに、俺は黙り込んだ。

 

 重すぎる。

 

 俺は軽口で逃げることにした。

 

「やめろ、支部長がまた名言みたいなこと言うな。これ以上フランクリン枠が増えたら俺の胃が保たない」

 

「茶化すな」

 

「茶化さないと重くて潰れるんだよ」

 

 御者台の方から、アーサーの声が聞こえた。

 

「ならば、その重さを忘れなければよいのです」

 

「……忘れないよ。たぶん」

 

「その『たぶん』だけは、今回に限っては言うなよ」

 

 ギデオンの鋭い声に、俺は少しだけ笑った。

 

「分かった。忘れない」

 

 フィラデルフィアに戻った俺は、ノートを開き、新たなページに記録を書き込んだ。

 

【ヴァージニア訪問記録】

 

 ・ジョージ・ワシントン接触。礼儀正しい。背が高い。そして、静かな圧がある。

 

 ・商品を見る目が農園主兼軍人のそれ。フランクリンの学者肌とは全く違う。

 

 ・石鹸は農園・野営・傷の処置向けに展開可能。

 

 ・長い説明文より、短い命令文が必要(ワシントン談)。

 

 ・西部土地問題は危険な火薬庫。土地は彼らにとって財産であり、信用であり、未来そのもの。

 

 ・奴隷制は、現代人の感覚ではやはり耐え難い。

 

 ・しかし、この社会の帳簿、土地、労働、相続のすべてに絡みついている。

 

 ・悪人だけが悪い制度を支えるわけではない。

 

 ・要調査。即時解決は不可。この不快感を、忘れるな。

 

 最後に、ページの真ん中に大きく書き殴った。

 

【結論:都市は臭い。農園は重い】

 

 俺はペンを置き、背もたれに寄りかかって息を吐いた。

 

「未来の超大国、どこを見ても要メンテの欠陥だらけじゃん……」

 

 すると、ギデオンが新たな書類を手に執務室へ入ってきた。

 

「報告だ。ワシントンからさっそく追加の注文が入ったぞ」

 

「早くない? まだ数日しか経ってないのに」

 

「農園用ではない。彼が関わる民兵組織向けの、携帯用小型石鹸と短い使用指示書が大量に欲しいそうだ」

 

「……完全に軍需品化してる」

 

「たかが石鹸だろう。大袈裟な」

 

「石鹸でも軍需に乗るんだよ。国家のインフラ運用ってマジで怖いな」

 

 石鹸は、ただ手洗いを啓発するための道具だった。

 

 だが、それは容易に補給品へと姿を変える。

 

 そして補給品は、いつか軍隊の歯車に乗る。

 

 石鹸ですら、いずれ戦争の帳簿に載る。

 

 俺はその事実の重さを、ヴァージニアの若き農園主から嫌というほど学んだのだった。

 




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