真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜 作:パラレル・ゲーマー
フィラデルフィアのハンター支部地下、ヴァレンタイン衛生用品商会の仮設事務所。
執務机の上には、地獄を乗り切るために編み出した膨大な『紙』の山が築かれていた。
現金払いを促すための各種通貨・物納換算表。
ワシントンの要望で作った民兵向け使用指示書。
産婆や港湾労働者に配る手洗い説明紙。
高級品『白箱』のラベル。
普及品『港用』の簡素な包み紙。
そして山ほどの契約書と信用手形の控え。
ギデオンは、その紙の雪崩に埋もれながら、血走った目で帳簿の数字を追っていた。
一方の俺は、部屋の隅の長椅子で熱い紅茶をすすりながら、かなり機嫌が良かった。
「いやー、前回はどうなることかと思ったけど、案外何とかなるもんだね!」
現金払い割引のおかげで、わずかではあるが金貨や銀貨の回収率が上がった。
物納も、魚のような足の早いものは断固として拒否するルールを徹底し、タバコや木材は現地の商人に流す換金ルートが開拓されつつある。
ワシントン経由の民兵向け石鹸は支払いのサイクルこそ遅いが、信用度は極めて高い。
そして何より、赤字覚悟で回している産婆や診療所向けの普及ラインが、現場の衛生環境改善に確かな効果を上げ始めていた。
「商会の経営も安定してきたし、このままいけば俺の『健康な血液供給源確保計画』も軌道に乗りそうだよ」
俺がニコニコしながら言うと、ギデオンが羽ペンをピタリと止め、怨霊のような声を出した。
「……お前がそうやって調子に乗った発言をするたびに、必ず新しい災厄が降ってくるのだが」
「失礼な。俺の商会運営は今度こそ完璧なはず……」
その時だった。
地下室の扉が乱暴に叩かれ、フランクリンの印刷所からの急使が飛び込んできた。
息を切らした少年は、一枚の紙切れをギデオンに渡し、こう叫んだ。
「フランクリンの旦那から伝言です! 『紙が死んだ』と!」
「……紙が、死んだ?」
俺が首を傾げると、ギデオンは嫌な予感を顔全体に貼り付けて立ち上がった。
「行くぞ、ヴァレンシュタイン。お前の言う完璧な運営が、また一つ燃えたようだ」
*
フランクリンの印刷所に到着すると、普段は知的で温厚な顔つきの彼が、見たこともないほどの真顔で立ち尽くしていた。
巨大な印刷機の横には、刷り上がったばかりの新聞、契約書の雛形、広告、暦、商用のフォーム、そして俺の商会の石鹸の説明紙がずらりと並べられている。
「……ロンドンから、新たな法律の知らせが来た」
フランクリンは、低く重い声で言った。
「印紙法だ」
「いんしほう?」
俺は首を傾げた。
「名前の響きは可愛いけど、絶対に可愛くないやつだよね、それ」
「ああ、可愛さの欠片もない。要するに、植民地内で流通する法律文書、公的文書、新聞、パンフレット、広告、暦、証書、契約書、そして各種の商用書類……あらゆる『紙』に、本国が発行する王室の印紙を貼らねばならなくなったのだ。当然、そこには重い税がかかる」
俺は数秒間、完全に固まった。
「……紙に、課税?」
「そうだ」
「えっと……うちが配ってる石鹸の手洗い説明紙は?」
「内容によっては広告やパンフレットと見なされ、対象になり得る」
「……商品のラベルは?」
「その表示方法や流通の扱いによっては、間違いなく揉めるだろうな」
「……商会で結ぶ売買契約書は?」
「当然、課税対象だ」
「……回収を待ってる信用手形は?」
「当然だ。印紙がなければ法的な効力を失う」
「……前回必死に作った、通貨と物納の換算表は?」
「商業配布物として問題視される可能性が極めて高い」
「……じゃあ、ワシントンの要望で作った民兵向けの使用指示書は!?」
「軍関係の文書であっても、それが印刷された『紙』である以上、税関吏の解釈次第でどうとでもなる」
「紙だ、じゃないんだよ!!!」
俺は両手で頭を抱え、印刷所の床に崩れ落ちた。
「おのれブリカスゥゥゥゥゥッ!!!!!」
魂の底からの絶叫が、フィラデルフィアの空気にこだました。
ギデオンが怪訝そうな顔をする。
「なんだその呪文は」
「未来のイギリスに対する、世界共通の熱い悪口だよ!」
背後でアーサーが真剣な顔で尋ねてくる。
「未来でも、英国はそのように恨まれているのですか?」
「嫌われる時はだいたい嫌われてるよ! あいつら三枚舌だからね! 中東とかでどんだけややこしい火種を……あっ」
「三枚舌とは何だ?」
「未来でイギリスがやる伝統的な外交芸。いや、今は言わない方がいいな。歴史のネタバレになりすぎる」
フランクリンが、あきれたようにため息をついた。
「君は時折、まるで後世の裁判官か歴史学者のような顔で我々の時代を見るな」
「ごめん、未来をサラッと言うなっていつも怒られてるんだけど、英国絡みだと前世の記憶が刺激されてつい口が滑るんだ……。ちなみに、大英帝国の本当の全盛期はまだ先で、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけてもっとヤバいことになるからね」
「……今ですらこれほど面倒だというのに、まだ全盛期ではないのか?」
ギデオンが絶望的な顔をした。
「そこが一番怖いところなんだよ」
*
一頻り騒いだ後、俺たちは印刷所の奥のテーブルで対策会議を開いた。
フランクリンはただ感情的に怒っているわけではなかった。
この時期の彼は、まだ完全な独立論者ではなく、あくまで帝国内での植民地の権利回復と、本国との調整を望む理性的な政治家としての顔を保っている。
だからこそ、彼の表情はひどく苦かった。
「……本国には本国の理屈があるのは分かる。七年戦争の膨大な借金、北米を守る駐屯軍の維持費、そして我々の間にはびこる密輸の横行。その費用と責任を、植民地にも負担させたいのだろう」
「理屈は前回の砂糖法と通貨法で耳にタコができるほど聞いたよ。でも、今回のやり方はエグすぎる。紙だよ? 商売も、裁判も、新聞も、契約も、人間の社会インフラは全部『紙』で動いてるんだぜ?」
「だからこそ、最も網羅的に課税しやすいのだ。紙は記録であり、証明であり、商売の血管そのものだ」
フランクリンの言葉に、ギデオンが低い声で頷く。
「なるほど。血管を直接押さえ込めば、社会の全身から逃さず税を吸い上げられるというわけか」
「ちょっと待って! 吸血鬼の俺でも、そこまで下品でえげつない血の吸い方はしないんだけど!?」
俺が抗議すると、フランクリンは苦笑しつつも静かに頷いた。
「彼らは、この植民地を本気で絞り上げる気だ」
「ブリカスゥ……」
「頼むからその奇妙な言葉を気に入るな」とアーサー。
フランクリンはテーブルの上にある新聞の束を見つめた。
「問題は、課税による経済的打撃そのものだけではない。最も重要なのは、『誰がその税を決めたか』ということだ」
「植民地議会じゃない。ロンドンの議会だよね」
「その通りだ。我々は英国王陛下の臣民である。ならば、本国の人間と同じ権利を持つはずだ。自ら代表を送っていない遥か彼方の議会が、我々の財産に直接手を伸ばし、税を課すのなら、それは……」
「代表なくして課税なし、でしょ?」
俺が先回りして言うと、フランクリンがハッとして俺を見た。
「……その言葉を、なぜ君が知っている?」
「あっ」
ギデオンが思い切り俺の脛を蹴った。
「また未来を漏らしたな、この阿呆が」
*
ハンター支部に逃げ帰り、俺とギデオンは改めて被害リストの整理を始めた。
「まずは手洗い説明紙だ。産婆や診療所、港湾に無料で配っているものだが、これに印紙税がかかるとなれば、普及ラインのコストが一気に跳ね上がる」
「貧民街に配る手洗い啓発の紙に税金をかけるなよ! 公衆衛生の妨害だぞ!」
「紙だからだ」
「紙だからで全部済ませるな!」
ギデオンは一度、面倒くさそうに眉間を揉んだ。
「正確には、すべての紙片が同じ扱いを受けるわけではない。だが、税関吏や役人の解釈次第で、商業文書や広告扱いにされる余地がある。それが問題なのだ」
「余地がある時点で終わってるんだよ!」
「次に商品ラベル。白箱、港用、農園用。どこからが『広告・商業文書』と見なされるか、税関吏のさじ加減一つで決まる」
「じゃあ何? ラベルまで狙われたら、木箱に直接手書きで『石鹸』って書くしかないの?」
「手書きでも、それが紙の包装であれば課税対象になり得る」
「紙アンチかよ英国政府!」
「そして、信用手形と契約書だ。前回、通貨法で手形決済の比重を整理したばかりだが……」
「今度はその手形そのものに印紙が必要になるんだろ? 知ってる! ブリカスゥ!」
「さらに、通貨・物納換算表。商会の決済を円滑にするための表だが、商業配布物として目をつけられる可能性が高い」
「商会の地獄をちょっとでも整理するための表が課税対象になるとか、運用改善に対する罰ゲームでは?」
「最後に、ワシントン経由の民兵向け使用指示書だ」
ギデオンはここで、一段と声を落とした。
「民兵組織への支給物資に、印刷物を添えて流す。……見る者が見れば、立派な『政治的煽動文書』として検挙の口実にされるぞ」
「食事前に手を洗えって書いてるだけなんだけど!」
「税を逃れるための暗号だと疑われれば終わりだ。そして何より……」
ギデオンは深く息を吐いた。
「フランクリンの印刷業そのものが、最大の直撃を受けている。新聞、広告、パンフレット、契約書。彼の商売も、政治的発言力も、すべてが揺らいでいる」
「これ、俺の石鹸商会だけじゃなくて、フランクリンのおっさんの急所を完全に刺しに来てるじゃん……」
「だからこそ、あの男があれほど苦渋に満ちた顔をしていたのだ」
そこへ、さらに胃を痛めつけるような知らせが届いた。
ヴァージニアのジョージ・ワシントンから、ギデオン宛て、実質的には俺宛ての手紙である。
相変わらず流麗で礼儀正しい筆致だったが、その文面には明確な『硬さ』があった。
『ヴァレンタイン卿。ご手配いただいた民兵向け石鹸と使用指示書は、兵の規律維持と衛生管理に極めて有用でした。
しかしながら、先般の印紙法により、紙文書の扱いが不透明となり、我々の農園経営における証書、契約、土地の権利書類に至るまで甚大な影響が出ております。
本国の方針は理解しようと努めております。しかし、現地の実務と生活に対する負担はあまりにも重すぎる。西部の土地問題に続き、今回もまた、我々植民地の事情が致命的に軽視されていると言わざるを得ません。
本国の議会は、我々が紙によって土地を測り、契約を結び、負債を記し、命令を伝え、商売を動かしていることを、本当に理解しているのでしょうか。
もし、それを完全に理解した上で、意図的にこの税をかけたのだとすれば……なおさら厄介な事態と言わざるを得ません。』
俺は手紙をテーブルに放り投げた。
「……ワシントン、静かにブチギレてるじゃん」
「お前が分かるほどか」
「分かるよ。この人、文章が丁寧になればなるほど、内面で煮えくり返ってるタイプだ」
まだ彼は、反乱軍の司令官でも独立の旗手でもない。
だが、本国への不信感は着実に、地層のように降り積もっている。
「俺の石鹸の指示書が、『民兵の規律』と『政治的文書』の境界線上に落ちちゃったな……。石鹸売ってるだけなのに、どんどん政治のど真ん中に引きずり込まれてる」
*
印紙法の知らせが広まるにつれ、フィラデルフィアの世論は瞬く間に荒れ狂った。
酒場、印刷所、港、商人の会合。
どこに行っても怒号が飛び交っていた。
新聞屋が怒る。
法律家が怒る。
商人が怒る。
港湾労働者が怒る。
文具商、紙商、印刷職人が怒る。
トランプや暦といった娯楽・生活用品にまで税がかかると知り、普段は政治に関心のない庶民までもが怒り狂った。
「紙って、こんなに社会の全部の階層に刺さってるインフラだったんだな……」
街の喧騒を遠巻きに眺めながら、俺は戦慄した。
「文明とは、記録の積み重ねだからね。その記録に重税をかければ、社会全体がアレルギー反応を起こすのは当然だ」
同行していたフランクリンが、苦々しく言った。
噂によれば、すでに他の都市——特にボストンあたりでは——印紙販売人の人形が木に吊るされ、暴徒の脅迫によって辞任に追い込まれる事件が起きているらしい。
のちの『自由の息子たち』へと繋がる、過激な示威行動の芽だ。
「やばい。石鹸の偽物業者と縄張り争いしてる場合じゃなくなった。今度は本物の政治運動だぞ」
「お前の商会の販路が、植民地の政治の血管と完全に重なり始めている証拠だな」
ギデオンが冷ややかに言った。
そして、その政治運動の波は、最悪の形で『ヴァレンタイン商会』を巻き込んだ。
商人たちの会合で、一つのスローガンが叫ばれ始めたのだ。
「英国製品を買うな!」
「本国からの輸入品を締め出せ!」
「我々の金が本国の国庫を潤すのを止め、経済的圧力をかけるのだ!」
後に『非輸入協定』と呼ばれる経済的抵抗の空気が、商人たちの間で形を取り始めていた。
ここで、致命的な問題が発生した。
俺の石鹸は、表向き『欧州秘伝の製法を用いた、欧州貴族による投資事業』というブランド戦略を取っていた。
実際に英国本国から輸入された品かどうかなど、怒りに火のついた群衆には関係ない。
欧州貴族の名と、上等な白箱と、港を通る品物というだけで十分に疑われる。
当然、反英・反輸入の熱狂の中で、ターゲットにされる。
「ヴァレンタイン石鹸は、欧州の貴族が持ち込んだ品ではないのか?」
「本国からの贅沢品であるなら、即座にボイコットの対象にすべきだ!」
商人たちが怪しみ始めた。
一方で、港湾労働者や産婆たちは反対する。
「馬鹿野郎、あの港用石鹸がどれだけ安くて俺たちの役に立ってるか知らねえのか!」
「あれの供給が止まったら、お産や怪我の処置で困るのはこっちなんだよ!」
高級宿屋の主人たちも頭を抱えている。
「白箱は客に大人気だ。だが、英国製品として暴徒に目をつけられたら、宿ごと焼き討ちにされかねん……」
地下室に戻った俺は、絶望的な気分で机に突っ伏した。
「……石鹸に、原産地問題が発生した……」
「表向き『欧州秘伝』と言って高級感を煽ってきたツケだな」
「国家運用以前の問題だぞ! 商標と関税と政治的ボイコットで商会が死ぬ!」
*
緊急の『原産地表示会議』が開かれた。
メンバーは俺、ギデオン、そしてフランクリン。
議題は一つ。
ヴァレンタイン石鹸のブランド・ポジションをどうするか。
「案A。今まで通り『欧州秘伝の輸入品』を貫く」
「富裕層へのブランド力は維持できるが、確実に非輸入運動の標的になって燃やされるな」
「却下。売れた理由が、そのまま燃やされる理由になってるの理不尽すぎる。じゃあ案B。完全に『植民地製』だと言い張る」
「ボイコットは回避できるし、愛国的な商品として売れる。だが、今までの『欧州貴族の投資』という設定と完全に矛盾する。どこで、誰が、どの原料で製造したのか、さらなる大規模な偽装工作が必要になるぞ。……これ以上、私の胃を壊す気か」
ギデオンが胃薬の瓶——彼が自作した怪しい煎じ薬だ——を握りしめた。
「じゃあ案C。折衷案だ。『欧州式の製法を用いた、植民地製』にする」
フランクリンが、顎を撫でながら頷いた。
「言葉を慎重に選ぶべきだ。『欧州から輸入した品』ではなく、『欧州の進んだ衛生知識を参考に、このフィラデルフィア近郊の工房で整えられた品』とするのだ。これなら嘘ではない……嘘ではないが」
「実態は、俺の異次元倉庫から未来の石鹸をドサドサ出してるだけなんだけどね」
「黙れ。本当に魔女裁判にかけるぞ」
最終方針が固まった。
ヴァレンタイン石鹸は、『フィラデルフィア近郊で製造された植民地製衛生用品』である。
欧州秘伝というのはあくまで『製法の由来』であり、雇用も利益も植民地内に還元されている事業である、と主張する。
これに合わせて、商品のコピーも変更することになった。
旧:『欧州秘伝の清潔石鹸』
新:『フィラデルフィアで整えた清潔石鹸。家と身体を洗い、健康な暮らしを支えるために』
「……原産地表示で政治的炎上を回避するため、ブランド戦略を変更します」
「言葉は未来の商人のようで腹立たしいが、判断としては正しい」
ギデオンが渋々承認した。
しかし、ブランド変更には当然『新しいラベルや説明紙』が必要になる。
「ちょっと待って。紙の税金対策で苦しんでるのに、原産地表示を変えるために新しい紙を大量に刷り直さなきゃいけないの、完全にシステムのバグじゃない!?」
「社会とは、しばしばそういう矛盾に満ちたものだ」
フランクリンが悟りきった顔で言う。
「笑えないんだけど」
対策として、紙への依存を極限まで減らすことになった。
白箱のラベルは親指大まで小さくする。
港用の紙包みは廃止し、大きな木箱で納品してバラ売りにする。
手洗い説明紙は一枚のポスターにまとめ、口頭での説明を徹底する。
産婆や医師、宿屋の主人たちに『説明役』を担ってもらうのだ。
ワシントン向けの民兵用石鹸は、木箱に直接使用指示を『焼印』で入れることにした。
「……紙への課税から逃げるために、木札と焼印に退化する。技術後退に見えて、実は立派な運用改善だ!」
「お前は本当に、理不尽な制約を課されると楽しそうに動き回るな」
「全然楽しくない! ブリカスに理不尽に殴られてるのを必死に避けてるだけだよ!」
*
原産地表示とラベルの変更を伝えるため、俺とギデオンは販路を一つ一つ回った。
そこで気付かされたのは、俺の作った『石鹸の流通網』が、完全に『政治の情報網』と同期してしまっているという恐ろしい事実だった。
高級宿屋には、各植民地から情報を求めてやって来る商人や法律家が集い、夜通し本国への批判を語り合っている。
産婆たちは、各家庭の奥深くに立ち入り、生活の苦しさや世論の空気を拾い集める。
理髪師の店は、男たちが髭を剃られながら政治の噂話を交換する集積所だ。
港湾の無料配布所には、税関に恨みを持つ密輸商人や荒くれ船乗りが集まり、不穏な計画を練っている。
医師は有力者の家に出入りし、民兵組織への納入は地域の武装の緊張感に直結している。
そしてフランクリンの印刷所は、言うまでもなく言論と煽動の中心地だった。
「俺……合法的な血液供給のために、清潔な手洗いインフラを作っただけなのに……なんでいつの間にか、反英世論の巨大な流通ネットワークに片足突っ込んでるの?」
「習慣を売るということは、人々の生活そのものの奥底に入り込むということだからね」
フランクリンが、事も無げに言った。
「生活に入り込めば、当然、政治からは逃げられない。諦めろ」
ギデオンも無慈悲に宣告する。
「生活と政治の接続、誰か強制的に切断してくれないかな……」
「無理ですね」
アーサーの即答が胸に刺さる。
一七六五年十月。
ニューヨークで『印紙法会議』が開かれるという知らせが入った。
九つの植民地の代表が集まり、本国議会への権利宣言と苦情申し立てを採択するという。
俺は頭を抱えた。
「あーあ……植民地同士が、共通の敵である本国に向かって完全に横で繋がり始めちゃった」
「それは危険なことなのか?」
「国家になる前段階のムーブメントとしては、めちゃくちゃ重要で決定的な一歩だよ」
「……未来をサラッと言うなと何度言えば分かる」
フランクリンはまだ慎重な姿勢を崩していない。
「不満は当然だ。だが、我々はまだ英国臣民だ。望むべきは無秩序な反乱や独立ではなく、あくまで権利の回復と、本国への理性的な訴えによる関係修復であるべきだ」
俺は内心で、そこからあと十年で泥沼の独立戦争なんだけどなぁ、と呟き、胃薬を飲み込んだ。
同時に、フィラデルフィアの夜の闇にも不穏な影が落ち始めていた。
印紙販売人への圧力、脅迫、夜の秘密集会。
ギデオンは、商会の業務の合間を縫って、ハンターとしての警戒レベルを引き上げていた。
「人間の怒り、恐怖、憎悪、復讐心。それらが街に満ちれば、必ず闇に棲む怪異を引き寄せる。群衆の怒りに寄生する小型の魔物や、暴徒を背後から煽る者が紛れ込んでいる可能性もある」
「政治的な怒りまで、怪異の餌になるの?」
「なる。人間の負の感情は、すべて奴らの養分だ」
アーサーが剣の柄に手を置きながら言った。
「これはもはや商売の範疇を超えています。政治であり、戦場です」
「……俺、ただの石鹸屋なんだけどな……」
*
支部に戻り、机を囲んでの最終会議。
ギデオンは淡々と状況を整理し、フランクリンは苦渋に満ちた顔で印紙法会議の推移を予測し、アーサーは怪異の気配に警戒を尖らせている。
俺は、ついに限界を迎えてブチギレた。
「おのれブリカスゥゥゥゥッ!!!!!」
「……落ち着け」
「落ち着けるか! 砂糖に課税して港の物流を荒らし、通貨を縛って帳簿をめちゃくちゃにし、今度は紙にまで税をかけて社会インフラを止める!? どんだけ植民地の首を絞めれば気が済むんだよ!」
机をバンバンと叩く俺を見て、フランクリンが目を丸くした。
「君は、普段は未来人ぶって冷めているくせに、怒りの対象が『自分の商会』に近づいた時だけ、ずいぶんと感情的になるな」
「だって俺の運用範囲が燃えてるんだもん! 一生懸命整備した手洗い説明紙が政治文書扱いにされて、石鹸のラベルに原産地問題が発生して、非輸入運動の炎上リスクに晒されてるんだぞ! 怒って当然だろ!」
俺は抽象的な独立思想や自由の権利のために怒っているわけではない。
自分が整えたシステムを、現場を知らない上層部である本国の理不尽な仕様変更によって破壊されているからキレているのだ。
ギデオンが呆れたように言った。
「お前、そのままだと立派な反英主義者の活動家に見えるぞ」
「なる気はない! ないけど、俺の石鹸事業を物理で殴ってくるロンドンの上層部は嫌いだ!」
「それが『政治的立場』というものでは?」
「やめろ、アーサー! 俺を政治に接続するな!」
最終的に、商会としての対応策が決定した。
一つ、石鹸のブランドは『フィラデルフィア製の植民地衛生用品』に完全移行。英国輸入品ではないことを口コミで強調する。
二つ、紙依存からの脱却。木札、焼印、口頭説明を活用する。
三つ、非輸入運動に対しては中立を装う。表向きは「我々は衛生を売る商会であり、政治団体ではない」と主張する。
誰も信じてくれないだろうが。
四つ、フランクリンの印刷所への支援。紙の使用量を減らしつつも、必要な印刷物はすべて彼に発注し、印紙法対応のコストと負担を裏で共有する。
「……印刷所が潰れたら、いざって時に俺の説明紙を刷ってくれるところがなくなるしね」
俺がそっぽを向いて言うと、フランクリンが微笑んだ。
「素直に友人の窮地を助けたいと言えばよいのに」
「言うわけないじゃん。吸血鬼だぞ俺」
五つ、情報収集。商会の販路ネットワークを通じて、各地の世論や怪異の噂を拾い上げる。
「ただし、情報を集めるだけだ。絶対に自分から煽動して動くなよ」
ギデオンが厳しく釘を刺す。
「分かってるよ。見てるだけ、再び、だよ」
「だが今回は、お前の商会の足元まで火が来ていることを忘れるな」
*
夜更け。
俺はいつものようにノートを開き、記録を書き殴った。
【ヴァレンタイン衛生用品商会・印紙法対応メモ】
・印紙法:紙に税をかける悪魔の法律。名前は軽いが中身は凶悪。
・対象:契約書、証書、新聞、広告、手形、換算表、ラベル、そして俺の手洗い説明紙。
・フランクリン印刷所:直撃。おっさんの顔が死んでいた。
・ワシントン:丁寧な文章で静かにブチギレている。怖い。
・石鹸商会:紙依存が高すぎた。運用改善が完全に裏目に出た。
・問題:反英ボイコットに巻き込まれる。
・原産地表示:欧州秘伝から、フィラデルフィア製へブランド変更。英国輸入品ではないと必死にアピール。
・紙対策:焼印、木札、口頭での説明役の育成。
・政治リスク:石鹸の販路が、いつの間にか反英世論の巨大な情報網と重なってしまっている。
・俺:おのれブリカス。
最後に、ページの真ん中に最大フォントの勢いで書き込んだ。
【結論:手洗い説明紙に税をかけるな】
ペンを置くと、背後からギデオンが覗き込んできた。
「またノートに汚い言葉を書いているな」
「ブリカスは未来の地球でも通じる普遍的な概念だから」
「英国の悪口を未来基準で語るな」
俺はノートを閉じ、深い溜息をついた。
「でもさ、考えてもみてよ。砂糖、通貨、そして紙だよ? どんだけ身近なものから税金取ろうとするんだよ。次は何? 呼吸する空気?」
すると、部屋の隅で休んでいたフランクリンが、ふと呟いた。
「あるいは、誰もが飲む『茶』かもしれないな」
——ピタリ、と。
俺の心臓、止まっているが、跳ね上がった。
全身が硬直する。
「……」
「どうした、ヴァレンシュタイン。急に黙り込んで」
ギデオンが怪訝な顔をする。
「……いや、なんでもない。ただ、巨大な未来のネタバレ地雷を全力で踏み抜きそうになっただけ」
石鹸は、ただ手を洗い、病を防ぐための道具だった。
だが、それを包む紙が、使用法を説明する言葉が、売買するための契約が、すべて帝国の税制という蜘蛛の糸に絡め取られていく。
俺はただ、清潔な手と、合法的な血液供給のインフラを求めていただけなのに。
気づけば、ヴァレンタイン衛生用品商会は、十三植民地を飲み込もうとする『反英世論』という巨大な激流の浅瀬に、足首までどっぷりと浸かっていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!