近所のドパガキがドーパミン中毒で死んだ

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近所のドパガキがドーパミン中毒で死んだ

 小説投稿サイトとかいうインターネットスラム街でド素人の垂れ流す駄文に設置された賽銭箱に向けて無責任な評価を投げ入れ刹那的なマウントを取りドーパミンを貪るお客様気分のカス(タマー)をドパガキと呼ぶわけだが、なんとこの限界集落、書き手もまた神様気取りのドパガキなのである。

 

 昨今は生成AIを使えばそれなりに読める小説が完成してしまうらしいが、そんな中で駄賃にもならない二次創作のためにわざわざ課金してまでチャッピーとイチャついている連中に関しては疑うまでもなくドパガキ兼お人形遊びガチ勢であるため、より始末に負えない。

 

 喧嘩腰の導入で不快感を覚えたかもしれないが落ち着いて欲しい。要はスマホを娯楽の道具にしている時点で私もお前も同じドパのムジナだと言いたいわけだが、ドパガキは無課金Xの140字すら読みおおせないはずなので、ここまで400字弱の怪文書を読解できた時点で、お前はもうドパガキではない。

 

 で、そうだとしたら今すぐこの文章から離れた方がいい。お前がしあわせホルモンの使者セロトニン紳士を自認するのであれば、現実に帰って図書館で夏目漱石とか借りて読め。

 

 ところで。

 私の家には現在、正真正銘のリアルドパガキが一匹生息している。

 平日の真っ昼間からよそ様の家に上がり込み、電気を盗み、Wi-Fiを吸い、生成AIに小説を書かせてランキングを駆け上がる、義務教育を現在進行形でサボタージュ中のドパガキである。この怪文書は、そいつへの当てつけでもある。

 

 そして一つ、大切なことを伝え忘れていた。

 この物語では、誰も死なない。

 三度の飯よりタイトル回収が大好きな諸君をこのような釣りタイトルで召喚してしまい、本当に申し訳ないと思っている。

 

 

 インナーシャツが湿って肌にまとわりつく。夏の終わりのむわっとした臭いが己の肌から立ちのぼるのを感じて、思わず袖で鼻先の汗を拭った。

 私の肩袖にべっとり滲んだファンデーションの跡を見て、隣で口紅を塗り直していた同僚が呆れたような声を出した。

「あんたね、女は汗を拭うときに小さなハンカチをそっと添えるもんなのよ」

 彼女は今日も口周りが青い。

「うっさいわね。女々しいこと言ってんじゃないわよ」

 私は頭頂部の毛束をがばっと一掴みにし、すっかり禿げ上がった頭皮を一気に外界に露出させた。鏡が曇った。

 

 十三の外れにあるショーパブ「メルシー」は、今年で創業三十四年になるらしい。らしい、というのは開店当時を知る者がママしか残っていないからで、そのママ本人が「三十二年やったかもしれん」と言い出すので、店の歴史は毎年一、二年ほど伸縮する。

 

 私はここで週五日、ジュリアという名前で歌って踊って客の愚痴を聞いている。本名はもう誰も呼ばない。呼ばれても、たぶんもう振り向くのが半拍遅れる。

 隣で口紅を直している青髭がキーコ。私より十下の四十五で、辛辣で、スキンケアマニアである。彼女の口周りが青いのは剃り負けではなく、青が透けるほど白粉を薄く塗る主義だからである。「厚塗りは嘘が厚くなるのよ」というのが彼女の持論だが、私に言わせれば青髭を晒している時点で嘘が薄いにもほどがある。

 

「ジュリア。あんた今日、二部の頭からラヴ・イズ・オーヴァーね」

 楽屋の入口からママの声が飛んでくる。姿は見えない。メルシーのママは声だけで人を正座させられる数少ない生き物である。

「わかったわぁ」

 と、私は語尾を三度巻いて返事をした。

 

 店では標準語を使う。オネエ言葉とは不思議なもので、あれは東京弁でできている。わちきのは訛りを隠す花魁の廓言葉と同じでありんす、なんて言ったら叱られるだろうか。

 アマ生まれガサキ育ち歯のないオッサンは大体トモダチみたいな私が「なのよ」と言うたび、口の中に他人の入れ歯を嵌めたような違和感が消えない。だが、慣れというのは違和感ごと着こなすことをいうのだろう。

 舞台用のヅラを被り直す。茶色の巻き毛。地毛は五十を待たずに店じまいした。ヅラの内側は汗の湿地帯で、頭皮とナイロンの間で今夜も小さな熱帯低気圧が発生している。

 

 一部と二部の間の休憩、差し入れの豚まんが楽屋に届いた。551の袋を見た瞬間、キーコの化粧顔が三ミリ緩む。

「何よキーコ。ニヤけちゃって、知り合いの豚?」

「ジュリアこそ、共食いなんて悪趣味よ」

 二つに割ると、湯気が鏡に向かって立ちのぼった。化粧を直したばかりの顔で食うには危険物だが、この店の人間は誰も豚まんに勝てない。

 

「あんた、まだ塚口から自転車で通ってんの」

 キーコが豚まんの皮を剥ぎながら訊いた。

「今日は天気悪いから電車よ。朝まで店の掃除して仮眠したら帰るわ」

「よくやるわ。あのボロ家、屋根の半分はビニールシートのくせに」

「いつの話してんのよ。地震で崩れた分ならとっくに塞いだわよ」

 土壁にトタン屋根、風呂はさすがに薪ではないが給湯器が仕事を選ぶ。それでも家賃は駐車場より安く、大家は盆暮れに野菜をくれる。五十五の独り身が帰る場所として、あの家は過不足ない。

 

 私も残りの豚まんを口に押し込んだ。

 キーコは深追いしてこなかった。代わりに、自分のポーチから小さなハンカチを出してみせた。掌に収まるサイズの、白地にレースの縁取り。

「いい、ジュリア。女はね、これをそっと添えるの。袖でぐいっとやるなんて工事現場の親方だけよ」

「はいはい」

「はいは一回」

 二部の開演ベルが鳴った。私はヅラの角度を直し、口紅を引き直し、鏡の中の女に「いってらっしゃい」を言わせてから立ち上がった。

 

 

 午前九時。阪急塚口駅の南改札を出ると、赤十字のボランティアが献血への協力を呼びかけていた。

 数年前すっかり綺麗になった駅前広場を横目に駐輪場に向かうと、そこは広場と隣接しているにも関わらずどこかヤニ臭い。手前にあったタバコ屋は駅前開発の賜物でもある新築ビルにちゃっかりテナントとして収まっているが、私は煙草を吸わないので店に入ったことはない。

 駐輪場で管理者のおっさんと目を合わせた後、自分の自転車を回収した。石綿にしか見えない耐火被覆材が天井で剥き出しになっている。どこか別の町の駐輪場ではポスターに「これはアスベストではありません」と書かれていたので、知らんけど恐らくここもそうなのだろう。

 

 出入口付近で自転車にまたがると、おっさんは忍たま乱太郎聖地巡礼マップと書かれた黄ばんだポスターをしわくちゃの手で柱に貼り直していた。

「兄ちゃん、今から帰りか」

 おっさんは私を兄ちゃんと呼ぶ。五十五を兄ちゃんと呼べるのは、このおっさんが恐らく八十近いからである。

「へぇ。夜まで泥のように寝ますわ」

「ほうか。気ぃつけや」

 何に気をつけるのかは言わない。おっさんの「気ぃつけや」は挨拶であって警告ではない。

 

 私の目の前を女子高生の二人乗り自転車が横切った。「ごめんなサムギョプサル、ごめんなサムギョプサル」と念仏を唱えるポニーテールは、蛇行運転しながらクレープ屋の前で止まった。「まだ開いてない!」当たり前だ。

 数年前——いやもう二、三十年は経つのかもしれない——私に「今日は暴力団の抗争があるから早く帰れ。室内にいろ」と忠告してくれた警察官は、あの日の駅前の風景ごと整備されてどこかに消えた。町は綺麗になった。

 

「おかえり」

 住み慣れた土壁トタン屋根のボロ家に帰ると、そいつは私に目もくれずスマホを片肘に預け、右手の親指ですいすいとそれを弄んでいた。

 

 おかえり、ではない。ここは私の家である。他人の家に上がり込んだ側が言う台詞ではない。が、指摘したところで「ただいまって言うんが礼儀やろ」と返されるのが目に見えている。

 

「何しとん」

「AIで小説書いてんねん」

「書かせるの間違いやろ。なに?」

「ソシャゲのメスガキがわからせられる話」

「リアルの雌餓鬼が朝ッぱらから何やっとんねん」

「でもランキング上位やで。ホレ」

 突き出された画面には、ランキングと題した一覧表が表示されていた。三位。作品名は伏せるが、タイトルだけで内容が全部分かる仕組みになっている。つまり読者はタイトルの時点で読み終わっており、本文は答え合わせである。タイパの極北がここにあった。

「三位て。お前、上に二人おるやん」

「明日抜くわ。今、続き生成しとるとこ」

 雌餓鬼は真剣な顔で親指を動かしている。生成しとるとこ、を執筆活動と呼んでいいのかについては、議論を差し控える。

「俺やったら自分で原稿用紙に書くけどな」

「紙? 誰が読むねん」

 

 こいつが初めてうちに湧いたのは今年の三月である。縁側に見知らぬ中学生が座り込み、スマホを握りしめて遭難者のような顔をしていた。事情を訊くと「Wi-Fiを探しとった」と言った。うちにあると答えた私を、私は今でもたまに恨んでいる。

 以来、平日の昼前になると湧く。学校のことは訊かない。向こうも私の仕事を訊かない。互いの昼と夜に触れないことで、この縁側の外交は成立している。

 

「なんか食うか」

「クレープ」

「素麺しかない」

「つゆ濃いめな、ネギはいらん」

 注文までつけてきた。私は台所に立ちながら、換気扇の羽根越しに縁側を見た。雌餓鬼のスマホから、白いケーブルが一本、柱のコンセントまで伸びている。

「おい。また盗電しとるやん」

「充電や。人聞き悪いこと言わんとって」

「おうち帰り、この電気泥棒」

「うぃーっす」

 うぃーっす、と言いながら、雌餓鬼は動かない。ケーブルも抜かない。湯が沸くまで、あと二分。

 

 

 木造家屋の内壁が崩れると黄色い断熱材が見えるらしいが、土壁のボロ家で内壁が剥がれたときに見えるのが何かというと、今日のように晴れた昼であれば、主に空の青と草の緑だ。

 隙間から漏れた光が床板を照らしている様子をぼんやり観察していると突如、壁の隙間を埋めるように、小さな前足が飛び込んできた。

「レンゴクや!」

 雌餓鬼が靴も履かずに玄関を飛び出し、レンゴクと呼ばれた獣を抱えながら部屋に戻ってきた。

「うちに会いに来たんや。なぁ?」

「散歩のついでやろ」

「ちがうわ。なぁレンゴク?」

 レンゴクはおとなしく腕に抱かれている。短く薄茶色の体毛に覆われたその猫は、鋭く吊り上がった瞳で雌餓鬼を見上げて「ナァ」と鳴いた。ほぼ地域猫と化しているド雑種の駄猫だが、これでも近所で飼われている猫らしい。

「大体なんやねんレンゴクて。物騒な名前やな」

「煉獄さんに似てるやん。メシ食うてる時うまいうまいって言うし」

「誰やねん」

 誰や、と訊いた私に、雌餓鬼は世界の終わりを見る目を向けた。国民的少年漫画(後でキーコに聞いた)すら履修していないカマジジイは、彼女の中で原始人に分類されたのだろう。

 

 レンゴクの飯は煮干しである。雌餓鬼がいつからか台所の隅に煮干しの袋を常備しており、レンゴクが来ると小皿に三匹並べる。三匹と決めたのは雌餓鬼で、根拠は「多かったら次から来る理由がなくなる」だそうだ。餌付けの理論としては悪魔的に正しい。私はこの理論を、柱のコンセントに挿さりっぱなしの白いケーブルを見ながら聞いた。

 レンゴクは煮干しを噛むたび、喉の奥で「ンマ、ンマ」と音を立てる。

「ほら、うまいうまい言うてる」

「言うてへん。咀嚼音や」

「夢ないなあ、カマジジイは」

 雌餓鬼は畳に腹這いになり、レンゴクの咀嚼を眺めている。スマホは珍しく、手の届かない座卓の上に置かれたままだった。ランキング三位の続きよりも煮干しを噛む音の方が強い刺激であるらしい。ドーパミンの矛先というのは、案外ちょろい。

 

「なあ、聞いて。今日な、感想付いてん」

 腹這いのまま、雌餓鬼が言った。

「AIの小説にか」

「AIちゃう。うちの小説や」

「書いたんはAIやろ」

「発注したんはうちや。設定考えたんもうちや」

 彼女の理論では、現代の文豪とは発注者のことなのである。私は座卓のスマホを顎で指した。

「ほんで、なんて書いてあったん」

「続き楽しみにしてますって!」

「ほう」

「ほう、て。二文字で流すなや。こっちは十文字やで」

 雌餓鬼は指を折って数え直し、それが十二文字であることに気づいて、折る指を二本増やした。それから、レンゴクの背中に顔を埋めた。

「……学校よりおもろいわ、こっちのほうが」

 学校、という単語がこいつの口から出たのは、三月からの半年で初めてだった。

 

 夕方、レンゴクは来た時と同じ壁の隙間から出ていった。雌餓鬼は縁側に立って、薄茶色の尻尾が雑草の向こうに消えるまで見送った。

「また明日な、レンゴク」

 明日も来るとは限らない。散歩のついでなのだから。

 そしてこの猫の本名を、私たちは二人とも知らない。

 

 

 柱のコンセントに、白い充電ケーブルが一本挿さっている。

 いつからあるのか、正確には思い出せない。四月にはまだ、雌餓鬼は毎回鞄からケーブルを出して、帰りに巻き取って持って帰っていた。五月のある日、「巻くのめんどい」と言って挿しっぱなしにして帰った。私は抜いて玄関に置いた。翌日、雌餓鬼はそれをまた挿した。私は抜いた。挿した。抜いた。挿した。

 六月に入る頃、私が先に折れた。以来、ケーブルは柱の根元に挿さったままである。三歩進んで二歩半下がるような攻防の末、残りの半歩分だけ、あいつの陣地がうちの柱に残った。

 

「なあ、これ読んでみ」

 その日、雌餓鬼はスマホを私の顔の前に突き出してきた。例のランキング三位——本人いわく現在二位——の最新話である。読め、ではなく読んでみ、なのは、感想を要求する助走である。私は老眼の距離まで画面を遠ざけて、音読した。

 

「そこまで言うなら、実力を見せてもらおうか。俺は静かにそう言った。彼女の顔から、みるみる余裕が消えていく。ここからが本当のわからせの始まりだった——」

「どうよ」

「どうよて。この男、一話前にも同じこと言うてたで。何回実力見せなあかんねん」

「AIはたまに記憶が飛ぶねん。認知症のおじいちゃんやと思って読むんや」

「読者に要求する介護レベルが高すぎるやろ」

 この「わからせ」というのは、誰が何をどう分からせられているのか、最後まで読んでも分からなかった。

 わからせを謳って、読者に何も理解させ(わからせ)ない。看板に偽りありだがランキングは二位らしい。わからぬ。

 

「感想、あれから増えたんか」

 訊くと、雌餓鬼の親指が一瞬止まった。呼吸一回分。それから、何でもない顔で再開した。

「ぼちぼちな」

「ぼちぼちて何件や」

「……一件のまま」

 雌餓鬼はスマホを座卓に伏せて、天井を見た。

「言うとくけどな、前はもっとあってん。感想」

「ほう」

「AIに書かせとってん。感想も」

「なんや。自演しとったんか」

 自分の小説をAIに生成させ、その感想もAIに生成させる。書くのは借り物、褒めるのも借り物。それで廻る水車はある意味で永久機関である。

「うちのこと、アホやと思う?」

「思わんで」

「嘘つけ」

「ほんまや。思てへんで。……ほんまやで」

 本当に嘘ではなかった。私は毎晩、金を払った客に「ジュリアちゃん今日も綺麗ね」と言わせている人間である。褒め言葉に純度を求め出したら、水商売は今夜から全滅する。褒め言葉は出どころで採点するものではなく、それで明日も起きられるかどうかで採点するものだ。

「ほんでな、AIの感想、途中でやめてん。全部消した」

「なんでや」

「あれ読んでも、明日になったら忘れとんねん。人間の『続き楽しみにしてます!』は、三日経ってもまだ覚えとんのにな」

 雌餓鬼は伏せたスマホを裏返して、例の十二文字を表示した。画面の光が、畳の上に小さな四角を作った。

 

「なあカマジジイ、あんたもAI使うんやろ。仕事で」

「使うで。新しいショーの構成案とか、衣装の発注文とか」

「ほな一緒やん」

「一緒ちゃうわ。俺のは道具や」

「うちのも道具や」

「お前のは玩具や」

「道具と玩具の違い、言うてみ」

 言葉に詰まった。沈黙が三秒。雌餓鬼は勝ち誇った顔で煮干しの袋を開け、来てもいないレンゴクの皿に三匹並べた。

 

 道具と玩具の違い。仕事中にも考えたが、綺麗な答えは出なかった。

 出なかったが、一つだけ分かったことがある。あの家の柱にケーブルが挿さっているのを見ると、私は換気扇の下でほんの少し安心する。あれはもう、あいつの道具でも玩具でもなく、うちの設備の一つである。

 

 

「ジュリア。その話、もう三回目よ」

 キーコが口紅を塗る手を止めずに言った。

「あんたんとこに入り浸ってるガキの話」

 私は鏡の中の自分と目が合った。つけまつげの角度を直すふりをして、視線を外した。

「……そんなに話してないわよ」

「してるわよ。あんた、その子の話するとき、口紅がよく動くの」

 口紅がよく動く、という日本語は初めて聞いたが、意味は分かってしまった。

 

 メルシーの楽屋は二畳半に鏡が三面。ママの鏡、キーコの鏡、私の鏡。金曜の夜は他に日替わりの子が入るが、水曜の今夜は二人きりで、こういう夜のキーコは決まって刃物になる。

「言っとくけどね、ジュリア」

 キーコは口紅の蓋をかちりと閉めた。

「あんた、その子の親じゃないのよ」

「分かってるから」

「中学生の女の子が、五十五のおっさんの家に平日入り浸ってる。世間がそれをどう見るか、あんたが一番よく知ってるでしょ」

 その切れ味に、私も黙った。楽屋の換気扇だけが回っている。

 

「……昼だけよ。縁側と、茶の間だけ。夜は上げたことない」

「あっそ。なら、いいけど」

 キーコはそれ以上詰めなかったが、ポーチから飴を二つ出して、一つを私の鏡の前に置いた。彼女の説教はいつも飴ちゃんで終わる。切り傷に軟膏を塗るように、ここまでが彼女の作法である。

 

「で。その子、なんて名前なの」

「知らないわよ、そんなの」

「は? 半年も家に上げてて、名前も知らないの」

「訊くタイミングを逃したの。最初に『おい』で通じちゃったから」

「おい、て。犬じゃないんだから」

「向こうも私を『カマジジイ』って呼ぶんだから、おあいこでしょ」

「カマジジイ?」

 キーコは三秒静止したのち、化粧が崩れる勢いで笑った。ママが「うるさいわよ」と声だけで顔を出した。

「あはは……いいわねえ、その子。物事の本質を掴んでるわ」

「どこがよ」

「あんた、カマでジジイじゃない。過不足のない呼び名よ。あたしなんか未だに『お姉さん』って呼ばれると背中が痒いもの」

 キーコは笑いながら目尻を小指で押さえた。青髭の上の目尻には、笑った分だけ皺が寄る。この人の皺は綺麗だと、私はたまに思う。嘘の薄い顔に寄る皺だからかもしれない。

「で? かわいいの、その子」

「めんどくさいわよ。世界で一番めんどくさい雌餓鬼よ」

「ママ聞いた? 親バカのノロケよ、これ」

 のろけではない。事実の報告である。

 

 

 九月最初の水曜、開店前のメルシーにスタッフ全員が集められた。ママが全員を集めるのは年に二回、正月の挨拶と、誰かが辞める時だけである。九月に正月は来ない。

「単刀直入に言うわね」

 ママは煙草に火をつけて、一口だけ吸って、消した。

「このビル、取り壊しが決まったの。十月いっぱいで、メルシーは閉めます」

 楽屋がしんとなった。換気扇の音だけが残った。

 老朽化、耐震、再開発。ママの説明は簡潔だった。築五十年のビルは現在の環境に勝てず、地主は建て替えを選び、新しいビルのテナント料は今の三倍で、三十四年(あるいは三十二年)の看板はその勘定に勝てなかった。

「補償金は出るから、お給料と退職金はちゃんと払います。次の店の世話も、できる範囲でするわ。……以上。何か質問は」

 誰も手を挙げなかった。キーコが一度だけ口を開きかけて、閉じた。

 

 その夜の営業は、いつも通りだった。いつも通りすぎて、常連の誰一人、何も気づかなかった。私は一箇所だけ音を外し、それも誰にも気づかれなかったと思っていたのだが、袖でキーコに背中を一回だけ叩かれた。

 

 

 自転車で帰ると、郵便受けに封筒が一通入っていた。大家からではなく、知らない社名の入った、角の立った白い封筒だった。

 

 拝啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

 さて、貴殿が賃借中の下記物件につきまして、このたび当社が土地所有者より一帯の土地を取得いたしました。つきましては、老朽化に伴う建物解体および区画整理のため、誠に勝手ながら令和九年三月末日を目途に建物の明渡しをお願いいたしたく、ご通知申し上げます。

 立退料等の条件につきましては、後日改めてご相談させていただきます。

 

 三回読んだが、三回とも同じことが書いてあった。

 大家に電話をすると、老いた声が申し訳なさそうに「すまんなあ」を五回言った。土地を売った。もう固定資産税が払えない。あんたんとこの家賃だけでは、どうにもならんかった。すまんなあ。すまんなあ。

 私は「ええ家でしたわ」とだけ言って、電話を切った。

 

 縁側に座った。朝の光が、壁の隙間から床板に細い線を引いていた。

 勘定してみる。五十五歳。店が消えるのが十月。家が消えるのが三月。舞台と寝床、五十五年かけて確保した領土が二つ、同じ夜に取り壊しの札を貼られた。偶然である。再開発というのは町の意思であって、私個人への言及ではない。分かっている。分かっているが、封筒の角というのは、どうしてこう、人の急所ばかり正確に突くのか。

 柱の根元で、白いケーブルが所在なげに丸まっていた。

 あの雌餓鬼は、今日も来るのだろう。この家が半年後に更地になることを、あいつはまだ知らない。

 言えばいいのだ。三月で立ち退きやと。その一言を私は口の中で転がして、飲み込んだ。

 

 

 店が休みの月曜、夜の十時に縁側の戸が鳴った。

 レンゴクは戸を鳴らさない。壁の隙間から入る。この家の戸を鳴らす生き物など、塚口には一種類しかいない。だが、そいつは夜には来ないはずだった。半年間、一度も来たことがないのだから。

 

 戸を開けると案の定、そいつが立っていた。

「充電切れた。貸して」

 部屋着のスウェットに、サンダル。

「なんかあったんか」

「なんもない」

「なんもないやつは、夜十時にサンダル左右違いでけぇへん」

 雌餓鬼は自分の足元を見て、それから愛想笑いを浮かべようとしたが、口の右端を少し上げたきり、それも止めてしまった。

「ママの彼氏が来とんねん。今日、泊まるんやって」

「……」

「別に何もされてへんで。ただ、あの人おったら、家の空気が全員他人になる。うちな、他人の家で寝るん、嫌いや」

 自分の家のことを他人の家だと言い切った雌餓鬼は、赤の他人の家であるはずのこのボロ家の縁側に、いま立っている。

 

 上げてやりたかった。茶の間に布団を敷いて、朝までテレビでも点けておけばいい。それだけのことだが、それはできない。

 五十五の独身男の家に、女子中学生が泊まる。事実がどれだけ白くても、世間はその文字列だけで黒にできる。そして世間は間違っていない。それは本当に危ない目に遭いそうな子どもを守るための、出来の悪い、それでいて必要な網でもある。

「入れへんで」

 私が先に言った。

「夜はあかん。それだけは、あかんのや」

「なんでなん」

「お前を守るため、と言いたいとこやけどな。これは俺を守るためや。かっこ悪い話やろ」

 雌餓鬼は黙った。呼吸二回分。三回。四回。

「……また、おうち帰りって言うんか。この電気泥棒って」

 それから、消えたスマホの画面を見て、小さい声で言った。

「なんやねん。お前警察か。今さら世間体かクソババア。あ、いや、ちゃうわ。カマクソジジイ」

「無茶苦茶言いよる」

 

 私は鞄から、紺地に白い縁取りのハンカチを出した。

「ほれ」

「なんなん、これ」

「汗を拭くもんや」

「汗かいてへんし」

「ほな、かいた時に使い」

 雌餓鬼はハンカチを受け取って、目元をぐちゃぐちゃに拭って、たたみもせずにそれをポケットにしまった。

「……あんな、女はな」

 私は言った。楽屋の借り物の台詞を、換気扇の下の言葉に訳しながら。

「汗拭くときは、小さいハンカチをそっと添えるもんやで。袖でぐいっとやるんは、工事現場の親方だけや」

「なにそれ」

「尊敬する後輩からの教えや」

「先輩が教わんなや。情けない」

「せやな」

 

 それから私はキーコに電話をかけた。キーコは車で二十分で来て、助手席に雌餓鬼を乗せ、「あんたはええから」と私を家に残し、彼女を家まで送っていってくれた。

 私の家には車なんて贅沢品はない。自転車で子どもを送るわけにもいかないし、夜道を二人で歩くわけにもいかなかった。

 現れたキーコは女装姿で、暗闇の中では青髭も目立たず、ぱっと見、本物の女性に見えないこともない。私のような化け物じみた不審者が送り届けるよりは、母親もきっと安心したことだろう。

 

 縁側の戸を閉める前に、柱の根元を見た。白いケーブルが、誰にも挿されないまま丸まっていた。

 電気泥棒に入られない家というのは、こんなに静かだったのかと思った。

 

 

 レンゴクが消えた。

 三日間、壁の隙間から前足が入ってこなかった。煮干しの小皿は三匹並んだまま乾いていき、四日目の朝、雌餓鬼が縁側で「捜索や」と宣言した。あの夜以来、少しぎこちなかった声に、久しぶりに芯が通った。

 

 近所では先週から、二軒先の空き家の解体が始まっていた。例の白い封筒の会社である。重機の音は朝八時から夕方五時まで規則正しく続き、地域猫たちの縄張り地図を、たぶん根こそぎ書き換えていた。

「レンゴク、工事の音、嫌いやもん。絶対どっか隅っこで固まっとる」

「猫は隠れるんが仕事や。三日くらい現れんのは普通やで」

「もう四日目や。明日は工事も止まるし、探しに行こ」

 

 翌日、二人で近所を回った。今日は解体用の重機は動いていない。昨今の工事現場は週休二日制を遵守しているのだ。

 雌餓鬼は煮干しの袋を、私はスマホのライトを持った。塀の下、室外機の裏、自販機の隙間。雌餓鬼は猫の通り道を全部知っていた。平日の昼を全部この町で過ごしてきた人間の、これが財産だった。

 道中で女子高生とすれ違った。

「なあ、薄茶色の猫、見かけへんかった?」

 雌餓鬼が訊いた。知らない相手に自分から話しかけるところを、私は初めて見た。

「見てへんなあ。迷子なん?」

「迷子ちゃう。猫や」

「猫でも迷子は迷子や」

 女子高生はそれだけ言って、どこかに去っていった。雌餓鬼はしばらく黙って、それから歩く速度を上げた。名前を呼びながら。レンゴク。レンゴク。普段より二割高い声で。

 

 駅前まで足を延ばして、駐輪場のおっさんにも訊いた。おっさんは「猫は見とらんなあ」と首を振ってから、隣の雌餓鬼をしわの奥の目でしげしげと眺めた。

「兄ちゃんとこの子か」

「ちゃうわ」「ちゃう」

 否定の声が重なった。おっさんは何がおかしいのか、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして笑い、忍たまのポスターを五センチずらして、「ねこ、さがしてます」の貼り紙を貼る場所を空けてくれた。貼り紙はまだ作ってもいないのに、場所だけが先に確保された。

 

 見つけたのは、解体現場の隣、ブルーシートの掛かった資材置き場の床下だった。雌餓鬼が懐中電灯を突っ込むと、暗がりの奥で目が二つ、緑に光った。

「おった! レンゴク!」

「待て、引っ張り出すな。狭いとこにおる猫は引っ張ったら奥入るで」

「ほな、どうすんの」

「餌で釣る。それしかない」

 煮干しを一匹、床下の入口に置いた。レンゴクは動かない。二匹目。動かない。雌餓鬼が袋ごと逆さにしようとしたので、手首を掴んで止めた。

「多かったら出てくる理由がなくなるんやろ。お前の理論や」

「使用料取るで」

 三匹目を置いて、二人で三歩下がって、しゃがんで待った。日が落ちて、資材置き場の照明が逆光になり、床下の入口だけが黒い四角になった。

「……なあ。レンゴク、死んどったらどうしよ」

 雌餓鬼が言った。膝を抱えて、黒い四角を見たまま。

「死なへん」

「なんで分かんねん」

「俺の話ではな、誰も死なんことになっとんねん」

「なんやそれ」

「ええから見とき」

 しばらくして、黒い四角から、小さな前足が出た。鼻、髭、薄茶色——レンゴクは煮干しを一匹目から順に回収し、三匹目を噛みながら「ンマ」と鳴いた。

「うまいうまい言うてる!」

 

 騒ぎを聞きつけて、二軒先の路地から婆さんが一人出てきた。レンゴクを見るなり、婆さんは言った。

「みたらし! あんた、こんなとこおったんかいな」

 みたらし。

 私と雌餓鬼は同時に婆さんを見た。婆さんは事もなげに、この子はうちの猫で、名前はみたらしで、団子に似とるから、と言った。十三の駅前の団子屋、美味いやろ。それや、と。今度買うてきたるわ、とも。

 レンゴク——もといみたらしは、婆さんの足元に体を擦り付けてから、我々の顔を一瞥し、悪びれもせず路地の奥に消えた。

 

 帰り道、雌餓鬼はしばらく黙って歩いた。

「なんやねん、みたらして。レンゴクのほうが強そうやのに」

「せやな」

「まあええわ。うちらの中では煉獄さんや。真名は、飼い主だけが呼んだらええ」

 真名という語彙は間違いなくソシャゲ由来だが、使い方は間違っていないと思う。呼び名というのは呼ぶ側の都合でできている。都合の数だけ、あの猫は名前を持てばいい。

 私は歩きながら、隣の頭に掌を乗せた。乗せてから、どうしていいか分からなくなり、二回だけ、不揃いなリズムで叩いて引っ込めた。子どもの頭を撫でるのは五十五年で初めてで、信じられないほど下手だった。

「なに? キショい。犯罪者」

「知らん。忘れ」

 

 

 十月最後の土曜、メルシーの千秋楽は昼の部から始まった。

 昼の部などという制度は三十年前後の歴史に一度もなかったらしいが、ママが「最後くらい、夜に来られへん人にも見せたるわ」と言い出した。

 酒は出さない。中学生なら会費は九百円、仕出し弁当付き。値付けはママである。

 集まったのは近所の喫茶店のママ、クリーニング屋の夫婦、車椅子の元常連、そして、阪急に乗って来た、うちの近所の雌餓鬼である。

 塚口から十三は乗り換えなしの十数分だが、あいつが一人で梅田方面の電車に乗るのは、きっと初めてに違いない。

 招待したのは私ではない。キーコである。あの夜以来、キーコと雌餓鬼は連絡先を交換しており、私の知らないところで「カマジジイの晴れ舞台、見に来なさいよ」という話がまとまっていた。カマジジイの晴れ舞台? 醜い日本語だ。

 

 楽屋で、私は五十五年で一番丁寧に化粧をした。

 下地、ファンデーション、コンシーラー。肌は特に念入りに。瞼に色を乗せ、眉を整えて。つけまつげを乗せ、頬紅。最後に口紅を引き、ヅラを被る。茶色の巻き毛。そこまでやるとジジイは消え、鏡の向こうに、ジュリアという宇宙人が現れる。

「客席、見た?」

 キーコが幕の隙間を指した。覗くと、最前列のパイプ椅子に雌餓鬼が座っていた。借りてきた猫のように背筋を伸ばし、膝の上に、スマホではなく会費のお釣りの百円玉を握って。

 あいつのスマホがポケットから出ていない。それがどれくらいの異常事態か、たぶんこの客席で私だけが知っていた。

 

 舞台に立つ。

 スポットライトというのは逆光である。客席から見れば私が光の中にいるが、私から見れば客席が光の向こうの暗がりで、誰の顔も見えない。

 私はずっと、この暗がりに向かって歌ってきた。正体の見えない闇が、私に拍手をくれる。この瞬間が快楽でなければ、何を快楽と呼ぶのだろうか。

 手拍子が起きる。喫茶店のママの手拍子は昔から半拍遅い。クリーニング屋の旦那は二番のサビだけ声を出す。車椅子の元常連は、右手が動かなくなってからは左手を膝に打ち付ける。全部知っている。同じ曲で、同じ場所で、同じようにずれる手拍子たち。

 

 ドーパミンは新しい刺激の物質であるらしい。それなら、この手拍子はもうとっくに新鮮な刺激ではないはずだった。何十年も繰り返して、擦り切れて、何も新しくない。なのに、どうしてこれは、毎回こんなに効いてしまうのか。

 新しさで効くものと、繰り返しで効くもの。人間の脳には、たぶん別々の口座がある。前者は引き出すたびに残高が減る。後者は、積み立てたことすら忘れた頃に、満期が来る。

 

 ラヴ・イズ・オーヴァー。

 前奏で客席がしんとなった。二番の頭で、最前列から洟をすする音がした。暗がりでも分かった。あの雌餓鬼が、紺地に白い縁取りのハンカチを、そっと目に添えていた。汗を拭くもんや、と言って渡したハンカチである。あいつは今日も拭く場所を間違えている。

 だけどまぁ、それでいい。私は最後のサビを歌い切った。

 

 

 終演後、弁当を広げた客席で、雌餓鬼が寄ってきた。

「……カマジジイ」

「なんや」

「あんた、ほんまもんやったんや」

 ほんまもん。批評としては短いが、これ以上の言葉を私は客から貰ったことがない。

「せやろ」

「うん。あと、化粧しとるほうが、しゃべり方やさしいな」

「そら営業中やからな」

「ふうん」

 雌餓鬼は弁当の唐揚げを口に放り込んだ。冷めた唐揚げだが、実に美味そうに咀嚼する。冷めた唐揚げは、なぜか揚げたてと別種のうまさがあるようだ。

 

 夜の部が終わり、片付けの途中、ママが煙草をくわえたまま私の隣に立った。

「あんた、家、決めたの」

「探してますわ。できたら、今の近所で」

「ふうん。近所ねえ」

 ママは煙を吐いて、それから何も言わずに、看板の電源を落としに行った。

 メルシー最後のネオンが、十三の夜に静かに溶けていった。

 

 

 十一月の縁側は、アイスには少し寒い。

 それでも雌餓鬼が「食う」と言ったので、冷凍庫に入っていたアイスを半分に割ってやった。

「ほれ、チューペット半分こ」

「何それ?」

「夏の定番やろ。知らんのか」

 後で知ったことだが、チューペットなる商品はとっくの昔に販売終了していたらしく、私の家にあるのは業スーで買った類似の別物だ。

「なあ」

 雌餓鬼はアイスを受け取ったまま口に含まず、静かに呟いた。

「ジジイ、引っ越すんやろ」

 アイスを持つ私の手も止まった。

「駐輪場のおっちゃんに聞いてん。兄ちゃん、ええ家見つかったか、って訊いてきたわ。うちに訊くなや。うち、何も知らんかったのに」

「いつ聞いた」

「先週。この家、三月で壊すんやろ。メルシーの閉店も、引っ越しも、全部人から聞いたわ。ジジイからは一回も聞いてへん」

 雌餓鬼はアイスを頬張った。「いった、何これ、口に貼り付く。冷た」と言いながら、それでも口から離さない。

「なんでなん。うちが泣くとでも思たんか」

 図星である。私は黙った。

 

「あんな」

 しばらくして、雌餓鬼が切り出した。

「うちの小説な、わからせってタイトルついとるやろ」

「どうしてん、急に」

「あれほんまは何がええんか分からんまま書いてて。ずっと考えとってん。わからせって何やろって」

「あぁ。それは読んでて伝わったわ。こいつ何したいねんって話やったからな」

「AIが書くわからせはな、最初は強い立場におる生意気なガキが、最後逆転されて大人に負けんねん。で、泣いて縋って曇って終わり。毎回や。何回生成しても、だいたいそうなる」

「そうか」

「そんなん八百長の試合やん。大人が子ども泣かして何がおもろいねん。で、考えたんやけど。ほんまのわからせ、てな」

 雌餓鬼は、寒空の下、頭がキーンとくるのを堪えるような顔で、それでも言い切った。

「自分が目ぇ背けてることを、相手に認めさせられてまうことなんかなって。で、その……な」

 そう言って、アイスの残りを一気に吸い込んでから、雌餓鬼は続けた。

「カマジジイがおらんようなったら寂しいって、うちが認めてまうこと。これ、わからせってやつ、なんかなって」

 

 自称ランキング上位の作者様は、伊達に何百回も生成を回していない。日々学習しているのは生成AIだけではなく、目の前の十代の若い脳みそもまた、然り。

「……アホなやっちゃ」

「あぁ?」

「わからせ小説ばっか書いとったら、最後に自分がわからせられたんか。アホ丸出しやん」

「うっさいわ。てかな、なに格好つけて一人で夜逃げ企てとんねん。ジジイかてうちがおらんと寂しいくせにな? どうや、わかったか」

「せやな」

 今、わからせられたメスガキに、カマジジイがわからせられている。

「俺もな、色々と、わかったわ」

 

 それにしても、わからせとかいうやつは、本当にこういう静かな会話のことなのだろうか。こんな地味な話でドーパミンを出せる人間など、きっと塚口中のどこを探してもいない。

「行き先は決まっとる。ここから歩いて七分の文化住宅。メルシーの常連が大家さんでな、ママが口きいてくれた。家賃は今より八千円高い」

 アイスの棒を咥えたまま、私は白状した。

「徒歩七分」

「お前の健脚やったら五分」

 雌餓鬼は指を折って何かを計算した。たぶん、自分の家からの距離である。折った指が四本で止まって、それから、どうでもよさそうな顔を作り直した。

「ふ、ふうん。まあ、別にうちはどこでもええけど」

「せやな」

「ケーブル挿すとこある?」

「コンセントくらいあるわ。ただし日当たりはこっちより悪いし、縁側もない」

「縁側ないんかい」

「その代わりベランダがある。物干し竿の下で、猫が昼寝できるくらいの広さや」

「レンゴク、来るかな」

「知らん。本人に訊け」

 

 雌餓鬼は空になったアイスをちゅうちゅう吸いながら言った。

「学校。もう半分終わってもうたけど、冬休みの後は、ちょっとは行こかなって思とる」

「ほう」

「キーコさんがな、『中卒のあたしが言うんだから説得力あるわよ、行けるなら行っときなさい』って。だから行けたら行くわ」

 行けたら行く。この世で最も信用ならない言葉であるが、雌餓鬼の語尾が、いつもより一ミリだけ上を向いているのを、私は聞き逃さなかった。

 

 

 引っ越しは三月なかばの日曜だった。明渡しの期限より半月早いのは、月末は何かと料金が高いというキーコの入れ知恵である。

 五十五年生きた男の全財産は、借りてきた軽バン一台に収まった。私は車もないのにゴールド免許を保有しており、これはこの十年で三回しか運転していないが故の勲章である。

 助手席にはママの餞別の観葉植物。荷台には布団と鏡台と衣装ケースが三つ。ヅラは膝の上に乗せた。このヅラだけは、荷物と呼ぶ気になれなかった。

 

 文化住宅の新居は、一階の角部屋だった。畳は青く、給湯器は若く、壁に隙間はない。隙間がないので、レンゴクの入る穴がない。この致命的な欠陥に最初に気づいたのは雌餓鬼で、「窓、普段は網戸にしとき。あいつ網戸は開けよるから」と対策まで指示してきた。

 

 荷解きの最初に、雌餓鬼は茶の間の東側のコンセントに、白い充電ケーブルを挿した。

「儀式や。一番大事なもんから運び入れるんが、引っ越しの作法やろ」

 全財産が軽バン一台の男の新居で、一番最初に設置されたのは、私の物ですらないケーブルだった。

 

 夕方、段ボールが半分残ったところで、雌餓鬼が「今日はもう働かん」と宣言し、スーパーの袋を掲げた。豚バラの塊、サンチュ、キムチ、そしてホットプレート。ホットプレートは雌餓鬼の家から無断で持ち出してきたらしい。「どうせ誰も使ってへん」とのことである。

「サムギョプサルや。引っ越し蕎麦はもう古い。令和は引っ越しサムギョプサル」

「世も末やな。何でもええけど」

 畳に新聞紙を敷き、ホットプレートを置き、豚バラを並べた。脂が跳ね始めた頃、雌餓鬼が思い出したように、手を合わせて唱えた。

「ごめんなサムギョプサル、ごめんなサムギョプサル」

「なんやねんそれ。流行っとんのか」

 二人で唱えながら焼くと、豚に謝る行為はなぜか食欲を増進させた。焼けた肉をサンチュで巻き、キムチを乗せ、頬張る。うまい。うまいうまいと声に出して言った。レンゴクの咀嚼音を笑えない。うまいものを食っている時、生き物はうまいうまいと言うのである。

 

 食い終わって、雌餓鬼が鞄から何かを出した。紺地に白い縁取りのハンカチ。洗濯されて、几帳面に四つに畳まれて、ただしアイロンの当たりは甘かった。

「返す」

「やったもんや。持っとき」

「洗ってもうてん。返すんが筋やろ。……ほんで、そのう」

 雌餓鬼はハンカチを差し出したまま、視線を斜め下に逃した。

「新しいの、自分で買うてん。同じくらいのサイズの。せやからこれは返す。おそろいは、その、キモいから。色違いにした」

 言い訳の情報量が多い。私はハンカチを受け取った。受け取る時、指先が一瞬触れて、あいつの手が私の掌の半分もないことに、今さら気がついた。

「ほな、うちそろそろ帰るわ。明日も学校やし」

 あの日の「行けたら行く」は、年が明けてから「行っとるわ」に変わっていた。皆勤とは程遠いらしいが、週の過半は制服を着ているらしい。

 玄関で靴を履く背中に、私は言った。

「おう。きばりや」

 戸が閉まった。ホットプレートの上で、最後の一枚の豚バラが、誰にも巻かれないまま静かに冷めていった。あれは明日の、私の朝飯である。冷めた豚バラには、冷めた唐揚げと同じ種類のうまさがあるはずだ。

 

「さて」

 雌餓鬼が去った後、私は引き出しから紙と鉛筆を取り出した。

「仕上げるか」

 

 

 塚口とかいう関西のどっかにある地区のボロ家に突撃し刹那的な煮干しと素麺を要求するお客様気分のカス(タマー)をメスガキと呼ぶわけだが、なんと、家主もまた餌付け師気取りで餌付けされていたカマジジイなのである。

 

 意味の分からない文章で退屈したかもしれないが落ち着いて欲しい。ここまで読み進めた読者諸君はとっくに気づいているだろう。この怪文書もまた、冒頭のあの怪文書と同じ場所に——つまり小説投稿サイトとかいうインターネットスラム街に、掲載されているのである。

 

 白状する。

 ここまでの文章は、去年の秋から、私が投稿サイトに上げてきた連載作品である。タイトルは「近所のドパガキがドーパミン中毒で死んだ」。流行りの言葉をどうしても使ってみたかった。

 当然だがAIには書かせていない。暇になった深夜の時間を全部注いで原稿用紙に下書きし、スマホで清書し、ここにアップした。

 現在の成績を報告しておく。ランキング、圏外。ブックマーク、ゼロ。感想、長らくゼロ。

 ゼロが一になったのは、新居に越してふた月近くが経った五月の連休明けである。通知のベルが一つ灯り、私の脳の報酬系は久しぶりにジュッと焼かれた。感想欄には、こうあった。

 

 ユーザーネーム:セロトニン紳士

 続き楽しみにしてます! あと素麺のつゆは濃いめ言うたのにこないだの薄かったです。作者は反省してください。

 

 何がセロトニン紳士じゃ。やはり最近のドパガキはネットリテラシーが足りていない。

 

 

 先に、身の上の報告を済ませておく。

 金曜と土曜の夜だけ、私は十三で客の愚痴を聞いている。ママが年明けに再開した、カウンター八席の小さい店。看板は下ろすけど廃業とちゃう、転居や——あの日、ママはそう言っていた。新しい店の名前は「めるしぃ」。ひらがなにした分、家賃が安いらしい。

 週二日のジュリアと、週五日の無職。退職金とひらがなめるしぃの給料で今はどうにか回っているが、さすがに他にも仕事を探さなければならない。

 キーコは女装をやめて、今は別の仕事をしているらしい。若くて嘘の薄い彼女なら、きっとどこでもやっていける。

 

 その日の夕方、玄関のチャイムが二回連続で鳴った。そんな荒い鳴らし方をする来客は一人しかいない。もう一種類の客は、チャイムではなくベランダの網戸を開けるからだ。

「おい、コラ。ジジイ」

 ただいまもなく、文句が部屋に入ってきたかと思うと、雌餓鬼はスマホの画面を突きつけてきた。

「うちを勝手にコンテンツにしたな」

「気づくの遅かったな。半年上げとったで」

「圏外の作品なんか誰が気づくねん! たまたまや。塚口で検索してん、たまたま!」

 雌餓鬼はスマホを畳に置いて、あぐらをかいた。

「使用料を請求する。あとうちの台詞、二割くらい盛っとるやろ。うちはあんな、お涙ちょうだいみたいなこと言うてへん」

「言うたで。全部言うた」

「言うてへん!」

 いや、言った。二割盛ったのではなく、八割を削ったのである。現実のこいつは創作の三倍うるさい。

 交渉の結果、さっそく検閲が入った。さっそく台詞が三行消されることになった。どの三行かは教えない。ネットに置いておく話と、我々だけが持っておく話の仕分けは、監修者の専権事項である。

 

 ひとしきり抗議を終えると、雌餓鬼は鞄から大学ノートを一冊出した。表紙に、油性ペンの手書きでタイトルが書いてあった。『近所のジジイがアドレナリン過多でまだ生きてる』。

「なんやこれ」

「対抗作や。うちもあんたの話を書く。それが筋やろ」

「ほぉん。またAIか」

「手で書いたわ。見たら分かるやろ」

 確かに見れば分かる。マス目を無視した鉛筆の字が、消しゴムの跡と一緒に、ページの上でのたうっていた。生成には一秒もかからないはずの文字が、一文字ずつ、時間の跡を残していた。

 一年前に私が突きつけられて答えられなかった宿題——道具と玩具の違い、言うてみ——の答えは、そこに転がっていた。使い終わったあとに時間の跡が残るのが道具で、残高だけが減るのが玩具。

「こんなんランキング圏外や。流行りとちゃうし。ホレ」

 そう言って、雌餓鬼はノートをこちらに突き出した。ランキングどころか、紙面の世界はウェブの圏外から更に外にある。

 小説の中身は、ここには書けない。使用料を取られるからだ。だが一箇所だけ引用の許可を貰ったので、書き出しだけここに記しておく。

 

 ——うちの近所のジジイは、オカマで、へんな家に住んでいた。かべにすきまが空いていて、そこから空と、草と、ネコが入ってきた。

 

 

 さて。諸君、そろそろ話を畳まなければならない。

 平日の昼間からよその家で盗電し、AIに小説を書かせてランキングを駆け上がっていた近所のドパガキは、今はもういない。今ここにいるのは、週の過半は制服を着て、猫に餌をやり、ネットの外で鉛筆を握る、ただの近所の子どもである。

 名前はもちろん知っている。だが教えない。真名など、家族と学校が呼べばいい。呼び名は呼ぶ側の都合でできていて、私の都合は一年前から変わっていない。

 

 この物語では誰も死ななかった。死んだのは近所の子どもに付いてたドパガキとかいう肩書きが一つ……うわ、無理やりタイトル回収しようとしてスベッた。だいぶ苦しいけど、あんまり君らに申し訳ないとかは思ってない。

 

 網戸の向こうで、ベランダに薄茶色の獣が着地する音がした。茶の間の東側では、白いケーブルが今日も設備として機能している。

「あ! ジジイ、煮干し三匹!」

 台所から、私は返事をする。

「もうちょい静かにせえ、このクソガキが」

 

 

 

(了)


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