魔法少女アメシスタ、あるいは、星屑に懸けた片想いの話。   作:秩序

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【第10話】海の駒

 お姉ちゃんの白くて細くて綺麗な手が、私の頬を挟んでいた。

 

 左右からむにっと押している状態だ。柔らかいのか硬いのか、お姉ちゃんはそれを確かめるように何度か力を加えたり緩めたりして、私の顔をこねくり回した。時々上や下にも力の方向を変えて揉まれてしまう。

 

 抵抗はしなかった。できるわけがないから。

 お風呂上がりの、パジャマの、良い匂いがするお姉ちゃん。それもベッドの上で、至近距離で私の顔を覗き込んでいる。シャンプーの残り香が近い。まつ毛が近いし鎖骨が近い。心臓が騒いでいるけれど、頬を潰されているせいで表情には浮かばないから、たぶんバレていない。たぶん。

 

「ね。最近さ、紫水さ」

 

 お姉ちゃんの藍色の目が据わっている。笑ってはいない。怒ってもいない。観察している目だ。

 

「難しい顔してると思うんだよね」

 

 仕草で応えようと思って、私は首を傾げようとしたけれど、頬を挟まれているので首が動かない。スマホに文字を打つこともせずに、目でちょっと返事をしてみる。別にいつも通り大丈夫だよ、と。

 

「あのねー、何年あんたの顔見てると思ってんの。分かるよ。こう、眉のここが」

 

 お姉ちゃんの右手の親指が、私の眉間のあたりをそっと触れる。くすぐったいのが心地いい。

 

「ちょっとだけ寄ってるー……考え事してる時の紫水は分かりやすいよ」

 

 それだけで胸が熱くなった。私のそんな些細な癖を覚えていて、見ていて指摘してくる。それがどれほど嬉しくて、どれほど苦しいか。お姉ちゃんは知らない。知らないまま、こうして私の顔を両手で包んでいる。あたたかい。

 

 結局、お姉ちゃんへの隠し事はできないわけで。私はスマートフォンを持ち直してメッセージを打ち込んでいく。頬を挟まれたまま打つのは少し大変だったけれど。

 

『私。大事な決心をして、挑戦をしてみようって思ってることがあるの』

 

 お姉ちゃんの手がゆるんだ。頬の圧が消えて、代わりに画面を覗き込む目が近づく。

 

「挑戦〜……?」

 

 頷いた。続きを打つ。

 

『難しくて、失敗するかもしれない。でも決めたの』

 

 お姉ちゃんの眉がほんの少し寄った。さっき私の癖だと指摘したのと、同じ場所に同じ皺。この人も考え事をする時にそうなるのだ。似ている。血が繋がっているのだから当然だけれど、それでも似ているところを見つけるたびに嬉しくなる。そしてその嬉しさは、私たちの間に立ち塞がる壁でもある。

 

「それは……」

 

『自分でやるって決めたんだよ、ほんとう』

 

 お姉ちゃんは画面を読み終えてから、私の顔を見た。

 

『誰かに強制されたとか、そういうのじゃないの』

 

「……紫水がやらないと誰かが困ること?」

 

 少し考えた。嘘はつかない。

 

『ううん。私だけのこと』

 

「誰か手伝ってくれるような人とか、相談できる人はいる?」

 

『います』

 

「紫水はそれをちゃんと成し遂げたら、幸せになれそう?」

 

『それはちょっと難しくて、断言はできない。でも絶対に何か、変わることだと思う』

 

「……じゃあ、もしも、何か途中でトラブルが起きたら。すぐに止めたりできること?」

 

『ううん』

 

 私がどんなに正直に返答をしたとしても、その全てがお姉ちゃんを安心させられるとは限らない。それでもお姉ちゃんは突っ込まなかった。読んで、頷いて、次の質問をする。

 

「紫水自身は……それを本当にやりたいんだね?」

 

 打つ前に、お姉ちゃんの目を見た。藍色の、深い瞳。この目に嘘をつきたくない。つかない。

 

『やりたいです』

 

 送信した。お姉ちゃんは画面をしばらく見つめて、それから小さく息を吐いた。

 

「はぁ……あー、あーあ。ねぇ、あのね」

 

 お姉ちゃんの声が、少しだけ柔らかくなった。

 さっきまでの面接官モードが解けて、優しい姉の声に戻っている。

 

「この家に来たばっかりの頃、私、覚悟してたんだよ」

 

 お姉ちゃんが頬から手を離して、今度は私の手を取った。両手を両手で包むように持つ。指を一本ずつ、確かめるように握る。私の輪郭を丁寧に確かめるように触っていく。二人の体温が混ざり合う。

 

「紫水がさ、新しい生活に慣れるには。もっともっと、それこそ何年もかかるだろうなーって」

 

 お姉ちゃんの顔が私に少し近づいた。吐息が少し頬を掠めていく距離だ。

 

「安全な場所で安心して眠れるようになるまで。三食ちゃんと食べられるようになるまで。それから、一人で外に出たり、高校に通ったり……私以外の人を信頼できるようになるまで」

 

 一つ一つを指折り数えるみたいに、お姉ちゃんは言葉を並べた。

 

「そのひとつひとつを、何年もかけてね。ちょっとずつ。一緒に取り戻していくんだろうなって。私そのつもりでいたの。ゆっくりでいい、紫水のペースで。私はずっと隣にいるからって」

 

 一緒に取り戻す。壊れたものを直す、とは言わない。前からお姉ちゃんはそういう言い方をしない。私を壊れ物として扱わないから。ただ、一緒に、と言ってくれる。

 

「でもさ」

 

 お姉ちゃんの指が、私の指の間をゆっくりと滑った。

 

「紫水。だって数か月だよ? まだ春が終わっただけだよ。心療内科に通って、高校の課題をちゃんと出して、アルバイトを始めて。しかもそこで、氷川さんっていう良い先輩ができて。今日は自分から……挑戦するって言うようになった」

 

 お姉ちゃんの声が、少しだけ震えていく。けれど泣いてはいない。感情が言葉の表面を揺らしているだけだ。不思議な不思議な揺らめきが伝わってくると、その深い愛情の中に落ちていく感覚になる。

 

「想像してたよりずっとはやいの。紫水が自分の世界を広げていくの、思ってたよりずっと……」

 

 嬉しそうだった。嬉しそうで、誇らしそうで、やっぱりほんの少しだけ寂しそうだった。

 

「良いことだと思ってる。止めたいわけじゃない。紫水が一人で歩けるようになるのは、嬉しいよ」

 

 お姉ちゃんが私の手を握ったまま、視線を落とした。私たちの指が絡まっている場所を見ている。

 

「ただね」

 

 小さな声で。

 

「本当はもう少しゆっくりでいいと思ってた。もう少し長く、紫水の手を引いていられると思ってた」

 

 心臓が痛い。締め付けられていく私の胸と指先。一切そこに力は加わっていないのに。

 

「紫水が一人で歩けるようになればなるほど、私だけ同じ場所に立ったままみたいで。気がついたら背中を見送る側になってたみたいで」

 

 お姉ちゃん。

 

「……で。これ。紫水を縛る発言だよね。ごめん。私の勝手な気持ちだから。紫水が背負うことじゃないからね」

 

 違う。違うよ、お姉ちゃん。背負いたい。あなたの寂しさなら全部背負いたい。あなたに必要とされることが、私にとってどれだけ……でもそれは、妹として言うべき言葉だった。一人の女の子として言いたい言葉ではなくて。

 

 お姉ちゃんがぱっと手を離すと再び私の頬を両手で挟んだ。

 さっきより少し強い。むに、と頬が潰れる。

 

「紫水。たまにはさ」

 

 お姉ちゃんの声が、ほんの少しだけ甘えた色を帯びた。この人がこういう声を出すのは珍しい。いつもは凛としていて、しっかりしていて、姉で、王子様なのに。

 

「私の知ってる、小さくて可愛い紫水のままでいてほしいなって思う時がある」

 

 小さくて可愛い紫水。

 それは幼い頃の私のことを指しているだけではないのだろう。お姉ちゃんの手が届くところにいた私。お姉ちゃんを頼って、お姉ちゃんの後ろに隠れて、お姉ちゃんがいなければ何もできなかった私。そういうの全部ひっくるめて、妹としての紫水のことなのだと思う。

 

「……というわけで、こんなこと言ったら姉失格! 撤回します」

 

 お姉ちゃんが笑った。私は全力で首を横に振った。

 頬を挟まれているから振れる幅は小さかったけれど、思い切り振った。失格なんかじゃない。お姉ちゃんが私を必要としてくれている。それが嬉しい。嬉しくて、嬉しくて、悲しくて。身体が震える。

 

 お姉ちゃんに必要とされるほど、妹という場所に縫い留められていく。その場所を失いたくないから、夏の終わりにこの恋を捨てると決めた。世界で一番離れたくない人の隣にいるために、世界で一番捨てたくないものを捨てる。矛盾だ。知っている。

 

 お姉ちゃんが、額をくっつけてきた。自分の額を、私の額に、こつん。

 

「あんたはすごいよ、たぶん自分で思ってるより百倍は、すごい」

 

 呼吸が触れるほど近い。

 お姉ちゃんの睫毛の一本一本が数えられそうなほど近い。

 鼻先がかすめそうな距離。私は石みたいに固まった。身体中の血液が一斉に顔に集まっている気がする。心臓が壊れそうなくらい暴れている。

 

「あ、何。緊張してる?」

 

 緊張していると思われてしまった。緊張ではない。これは、もっと、別の。でも緊張だと思われていた方がよっぽど都合のいい気持ち。

 

 考えを巡らせる間もなく、お姉ちゃんが私を抱き寄せる。

 

 腕が背中に回って引き寄せられて、お姉ちゃんの肩に顔が埋まった。匂い。布地。鎖骨。首筋の、人肌の温度。これが私が今、愛するあなたに近づける最小の距離。これ以上は近づけない。

 

「大丈夫。大丈夫だよ」

 

 私もお姉ちゃんの腰に腕を回した。しがみつくように。離れたくないと叫ぶように。声が出なくて良かったと思った。出ていたら、妹が姉に言うべきではない言葉が漏れていたかもしれない。

 

「止めないよ」

 

 声が近い。鼓膜に直接触れるような距離。

 

「紫水が自分でやるって決めたなら、信じる」

 

 信じる。その一言が、背骨を通って全身に落ちていく。お姉ちゃんの手が、私の背中の真ん中を、ぽん、と一度叩いた。送り出す手。私はお姉ちゃんの肩に顔を埋めたまま、何度も何度も頷いた。

 

 帰る。必ず帰る。世界で一番帰りたい場所は、ここだから。この腕の中だから。

 

 お姉ちゃんの肩口に、涙が一粒だけ落ちた。パジャマの布地に染みて、すぐに見えなくなった。

 

 

 夕暮れの下で、湿気を含んだ夏の風が、変身したばかりの衣装の裾を攫っていく。

 西日がビルの窓に反射して、街全体が薄くオレンジ色のフィルターを被せられたように染まっている。先生の結界の内側は、いつもなら偽物の空になるはずだけれど、今日は本物の空をそのまま残してあった。ビル群の隙間を流れる夏の雲がちゃんと動いている。

 

 先生が真ん中、私が右、詩音先輩が左。三人で並んでいた。

 

「魔物の領域を捕捉しました。領域中央で静止しています」

 

 淡々と、そこには何の感情も伺えない。先生は更に続ける。

 

「前回より領域が安定しています。また、あなた方の戦闘記録を学習している可能性があります。注意をして臨んでください。念のためにお伝えしますが、あれは魔物です」

 

 私は頷いた。先輩も小さく頷くのが見えた。

 

 先輩が一歩前に出て、屋上の縁に片足をかけた。

 黒いパーカーが風に煽られて、引き締まった腹部がちらりと覗く。白いメッシュの入った髪が揺れて、左耳のピアスがちかちかと西日を弾いている。いつもと変わらないその姿の内側に、きっと今は色々なものを抱えている。

 

「役割、決めとこう」

 

 先輩の声には腹を据えた人間の静けさがあった。

 

「私の方が前で戦う」

 

 短い。先輩はいつだってそうだ。必要な情報を、必要な分だけ。

 

「茉莉亜の、いや。あの魔物の戦い方は、私が一番知ってる。どこで間合いを切るか、軌相のタイミング。教わった通りのはずだから」

 

 教わった通り。先輩に戦い方を教えた人の、戦い方の模造品。先輩がそれを止める。私にどんなに力があったってできないこと。

 先輩がこちらを振り返った。パーカーのフードが風で少しだけ膨らんでいる。

 

「ただ」

 

 声のトーンが落ちた。大切なことの中でも、更に大切なことを告げる合図。

 

「私がまた止まるかもしれない。前みたいに。あの顔を見たら、刀を向けられなくなるかもしれない」

 

 先輩が自分の弱さを認めている。

 この人がそれを口に出すということの重さを、私は知っている。氷川詩音は弱さを隠す人ではない。でも、わざわざ言葉にして差し出す人でもない。それを今、こうして声にしているのは、私に預けているのだ。自分の弱点を。

 

「私が止まったら、呼んで。それでも返事がなかったら、無理やり下がらせて。殴ってもいいからね」

 

 私は頷いた。それから。

 

「先輩。私も、同じことをお願いしたいです」

 

「うん」

 

「前みたいに、挑発されて頭に血が上ったら止めてください。私を。剣を振る前に」

 

 先輩は即答した。

 

「止める」

 

 一語。迷いがなかった。一秒もかからなかった。私が自分の弱さを差し出した瞬間に、先輩はもう受け取っていた。互いの弱点を、互いに預けるそれは信頼という言葉より具体的で、約束という言葉より切実な何かだった。

 

 そして私は目を閉じる。星を見る。

 先輩に教わった、魔法少女の根幹にある技術。願いを見つめて、力に変える。

 

 攻める時は、願いの先にある景色を焦がれる。星相。

 

 お姉ちゃんの隣に立っている自分を思い描いた。今だけは何よりも強く、何よりも具体的に。

 お姉ちゃんの足音がする。振り返って、おはよう、と言う。声が出る。自分の声で。お姉ちゃんが笑う。二人はどこまでも続く空の下で結ばれている。身に付けるもの全てをお揃いにして。

 

 その未来が眩しくて、胸の奥が焦げるように熱くなっていく。これだ。

 

 出力が身体の中で膨れ上がるのはいつも通り。衰えていない感覚。一瞬だけ、違和感が胸を掠めた。夏の終わりに手放すと決めた願いを、今こうして全力で燃やしている矛盾。捨てると決めたものを燃料にして戦おうとしている。でもそんなことは考えるな。今は。

 

 勝って帰る。お姉ちゃんに「ただいま」を伝える。それだけでいい。

 

 目を開けた。

 

 隣で先輩も目を開けるところだった。先輩の衣装の、黒い布の折り目に白い光が走っている。先輩もまた、自分の願いを燃やしたのだと思う。ウェルブムのこと。常連のお客さんのこと。先生のこと。私のこと。もう一人じゃないという、今の自分のこと。

 

 そして、その中にまだ残っている、茉莉亜さんの形をした空白のこと。

 

 先輩が縁を蹴った。黒い影が夕空に飛び出して、風を纏って降下していく。

 

 私も蹴った。茜色の空から領域へ落ちていく。

 

 

 足が水面を踏んだ。アスファルトの上を、くるぶしの少し下くらいまでの浅い水が覆っている。

 

 透明ではない。少し濁っていて、底に沈んだビル街の路面がぼんやりと見える。

 建物は立っているけれど、輪郭が水中から見上げた時みたいに揺らいでいて、空は黄昏と群青が混ざり合った色。言い表せない色。その水面だけはゆっくりと呼吸するように揺れていて。

 

 その中央に。

 

 真珠色の衣装に二刀流。

 深いブルーブラックの長い髪。薄水色に笑う瞳。

 半透明の袖が腕の動きより少しだけ遅れて揺れている。

 

 片足に重心を預けて、もう片方の足を少し前に出して立つ姿勢に、力みがない。右に直剣、左に蛇腹剣を下げたまま、こちらを見ている。微笑んでいるのだ。

 剣を構える前の、ただ立っているだけの姿なのに、舞踊の一場面のように完成されていた。柔らかくて女性的でしなやかで。私の黒い衣装の硬質さとも、先輩の鋭さとも違う種類の美しさが、そこにあった。

 

 マリナクアの垂れ気味の目が、さらに少しだけ細まる。

 

「よーし」

 

 間延びした声。急ぐ理由を失った人間の話し方。前回と同じ。声も、間も、温度も湿度も。

 

「しーちゃん。アメシスタちゃん。やろ」

 

「今日は逃がしません」

 

 マリナクアは首を少し傾けて、長い髪がさらりと肩から滑り落ちた。

 

「うん。今日は逃げないよ。代理体のあたしが生き延びてもいいことないしね」

 

 両手の剣の切っ先が、ゆっくりと下がって水面に触れた。ちゃぷ、と小さな音がして波紋が生まれて、円を描きながら広がっていく。波紋が私の足元に届いた瞬間。

 

 水面に薄水色の光が一瞬だけ走った。

 戦闘が、始まる。

 

 マリナクアが動いた瞬間、それは滑るように二つの刃が迫り来る。

 

 右の剣が私の胴を狙い、左の剣が先輩の足元を薙ぐ。一人に二本の刃を同時に振るのではなく、二人にそれぞれ一本ずつ。

 

 大剣の腹で直剣を受けた。咄嗟の盤相。防御には成功しても、軌相と呼べるほど滑らかではない。

 金属と金属が擦れ合う音が水面に散って、一拍遅れて反響が返ってくる。隣で先輩も箱型の鞘で蛇腹剣を受け止めて、角度を変えて水面へ逸らしていた。白い光が鞘の表面を走る。

 

 流せた。二人とも。でもマリナクアは攻撃を途切れさせなかった。

 直剣を引き戻す反動で身体ごと回転して、その遠心力で左の蛇腹剣を横薙ぎに振る。弧を描いた刃が水面を裂いて、私と先輩の間を切り裂くように通り抜けた。水飛沫が上がる。二人の間に一瞬の空白ができる。

 

 そこへ、マリナクアが割り込んだ。

 

 受ける瞬間は盤相。願いの根深さを胸に置く。この想いだけは誰にも砕けないと信じる。衣装の奥で紫色の光が脈打つ。攻める瞬間は星相。お姉ちゃんの隣に立てた未来を焦がれる。紫の光が刃に集まって、鋭くなる。切り替える瞬間が軌相。呼吸一つ分の間で入れ替える。

 

 先輩も同じだった。箱型の鞘と刀で直剣を受け流す度に、黒い衣装の折り目に白い光が走って、攻めに転じる度に光が刀身へ集まる。

 

 マリナクアの光は薄い水色。アクアマリンの残り香みたいな、褪せた青。

 攻防のたびにその色が衣装の縫い目や剣の表面を走って、水面に三色の光が散った。紫と、白と、薄水色。刀身が触れ合うたびに、色が混じり合って弾ける。

 

 先輩が居合を放った。

 箱型の鞘から白い刃が閃いて、水平に走る。マリナクアは半歩だけ身体を沈めて刃の下をくぐり抜けた。すれ違いざまに直剣を返す反撃を、先輩が鞘の腹で受ける。硬い音と水飛沫。

 

 そこへ私が横から大剣を振った。

 マリナクアは剣を斜めに出して、刃の面で触れさせるようにして流す。しかし流しきれなかった。

 完全には受けきれなくて、右の直剣の刃に亀裂が入った。ぴしり、と音がして、真珠色の表面にひび割れが走る。

 

 やはり出力では、私が圧倒的に上。

 先生にもマリナクア本人にも言われたことだ。私の一撃を正面から受ければ武器が砕ける。だからマリナクアは受けない。触れて逸らす。角度を変える。力ではなく技で捌かないといけないのだ。

 

 

 戦闘の合間に、マリナクアの声が飛んできた。

 

「星が変わったね」

 

 水面を蹴って距離を取ったところだった。私と先輩が並び直す前に、間延びした声が水の領域に響く。

 

「前はもっと、誰かに触れたそうな光だったのに」

 

 マリナクアが直剣を下げたまま、垂れ目を少しだけ細めてこちらを見ている。前回と同じだ。戦いながら問いかけてくる。刃ではなく言葉で切り込んでくる。

 

「今は少し切ない。諦めに似てる」

 

 剣先が揺れた。一瞬だけ。

 

「未来を見るの、やめたの?」

 

 心臓が軋んだ。夏の終わりに手放すと決めた願いを、今まさに燃料にして戦っている矛盾を、この魔物は正確に読み取っている。星相に乗せた光の色が変わったと。焦がれる熱の中に、切なさが混じっていると。

 

 答えを出すのは今ではない。お姉ちゃんへの想いをどうするかは、夏の終わりに自分で決める。今は、そのための今日を生き延びることだけを考える。先輩と一緒に勝って、帰る。それだけでいい。

 

「やめていません、今はまだ……でも。心を決めました」

 

 私は声に出して言った。剣を構え直す。揺れた剣先が、止まった。

 

 心は傷ついたままだった。マリナクアの言葉は正確で、否定できなくて、胸の奥に刺さったまま抜けない。でも戦闘判断を手放さなかった。前回は手放した。今回は、手放さない。

 

 先輩が視界の端で動いた。

 マリナクアとの間合いを詰め直す。私も半歩前に出る。

 

 

 ぶつかり合う金属音が変わった。

 

 それは、先輩がマリナクアの直剣と鍔迫り合いに入った瞬間だった。刀と直剣が噛み合って、二人の力が拮抗して、水面に衝撃の波紋が広がる。その中で先輩の目が一瞬だけ見開かれた。

 

 何かに気づいた目だった。

 

 ほんの半歩。でも戦闘中のそれは致命的な隙になる。マリナクアはその反応を見て、垂れた目を僅かに細めた。何かを確認するような、あるいは予想通りだったとでも言うような、微かな表情の変化。

 

 私にはその意味が分からなかった。

 先輩が何に気づいたのかも、マリナクアがなぜそれを見て目を細めたのかも。でも異変だけは捉えた。先輩の身体に走った、あの一瞬の硬直を。

 

 考えている暇はなかった。

 

「アメシスタ!」

 

 戦闘の最中に、先輩は声を張り上げる。

 

「合わせて」

 

 完全には理解できなかった。でも頷いた。先輩が見えているものを、先輩を信じて受け取る。それだけでよかった。

 

 先輩がわざと距離を詰めていく。自分からマリナクアの懐へ踏み込んで、更に右手の刀で直剣を押さえにかかる。鍔迫り合いが更に近づいていく。力と力がぶつかって、水面が二人の足元で爆ぜた。

 

 マリナクアが左手の蛇腹剣を解放した。刀身が節に分かれて、半透明の膜で繋がったまま、鞭のようにしなって先輩の背後を狙う。前回はこれで先輩が傷ついたのだ。それは途中で曲がる。うねる。死角から回り込む。

 

 先輩は避けなかった。

 

 左手で箱型の鞘を持ち上げて、鞘口を。

 蛇腹剣の切っ先の、その軌道の先に合わせた。

 力で止めるのではない。盤相。そのものを、鞘の中へ導く。

 

 蛇腹剣の先端が鞘口に吸い込まれた。がちん、と最初の節が噛み合う音。続いて二節目、三節目。連続した金属音が、水面の上を駆け抜けていく。がちがちがちがちがち。節が一つずつ、鞘の内側へ飲み込まれていく。

 

 先輩が鞘を捻りながら大きく後ろへ跳んだ。鞘の内部で白い光が走って、鞘の中に噛ませた節を固定する。蛇腹剣が途中から張り詰めて、弛んでいた鎖が一気にピンと引かれたように一本の長い直線になった。

 

 マリナクアの左腕が強く引かれている。

 蛇腹剣の根元を握ったまま、鞘に固定された先端に引っ張られて。

 

 先輩の声が聞こえた。低くて、掠れていて、いつも通り平坦で。

 でもその中に、確かな熱が一つだけ灯っていた。

 

「よろしくね」

 

 私の身体はそこにあった。

 

 張り詰めた蛇腹剣の上に足を載せる。真珠色の節が水面の上に一本の橋のように伸びていて、その上を走る。盤相で重心を制御する。想いの根深さを足裏に置いて、細い節の上でバランスを取る。

 一歩。二歩。三歩。一歩ごとに、真珠色と紫色の火花が足元で弾けた。

 

 マリナクアが初めて、大きく目を見開いた。

 垂れ気味でいつも眠そうに細められていた目が、まんまるに開く。

 

 最後の一歩で自分を蹴り飛ばす。両手で大剣を振り上げる。

 星に焦がれた想いの力の方向を、武器だけへ限定する。身体全体で殴るのではなく、刃の一点に全てを集める。必要な場所に必要な分だけ。正確に、だ。

 

「……」

 

「あぁ」

 

 真珠色の破片が宙に舞って、水面へ降っていく。

 雪みたいだった。光を含んだ、きれいな破片だった。

 

 刃は直剣を打ち砕き、衝撃ごと全てはマリナクアの全身を打って、白い衣装の少女が水面へ叩きつけられる。水飛沫が大きく上がり、雪は雨ヘと変わった。

 浅い水の中に。

 魔物の武器は両方とも砕けて、真珠色の破片が水面に浮かんでは沈んでいく。領域の空は既にヒビ割れ、茜と群青の継ぎ目から現実の夜空が覗いている。崩壊が始まっていた。

 

 私は大剣の切っ先を、仰向けに倒れたマリナクアの首筋に添える。そっと。

 

 垂れ気味の目は不思議なことに、恐怖の色をしていなかった。負けた人間の顔というより、用事がひとつ終わっただけ。やはり魔物なのだ。どこまでいってもこれは魔物でしかない。代理体という、生き物によく似せて作った駒。

 

「負けちゃったか、残念」

 

 穏やかな声だ。

 間延びした、急ぐ理由のない声。

 

「討伐を完了してください」

 

 どこからか届く先生の声は事務的で、いつもの声。感情を挟まない、業務報告の声。

 

 私は剣に力を込めた。このまま大きく振り下ろせば終わる。何度もやってきたように魔物は消える。先輩を傷つけた存在が消える。私の願いを抉ってきた存在が消える。戦いはまた一歩終わりへと。

 

「ねー。一つお願いしてもいい?」

 

「え?」

 

 マリナクアは唐突に、私を見上げながら。

 

「明日、しーちゃんと一騎打ちがしたいなーって」

 

 一騎打ち?

 今から。ではなく、明日?

 

 近くに立っている先輩の呼吸が変わったのが分かった。先輩の足が水面を踏む音が一つだけ鳴って、止まった。この魔物が何を言っているのかよく理解ができないのだ。私たちには。

 

「今日の勝敗を覆すつもりはないよ。海の駒としてのあたしは、完全に負けたもん」

 

「せ、先輩、先輩」

 

「アメシスタ。無視して。早くやって」

 

「アメシスタちゃんと、おじさんも同席してくれていい。拘束もできるでしょ? 変なことしたら、その場で斬ってくれていい」

 

「アメシスタ……!」

 

「っ……」

 

 命乞いなんて聞いたことも見たこともない私だけど、それとは違うと直感が告げる。

 そしてこれは取引の声でもない。もっと静かな、もっと個人的な、最後の望みを口にする声だ。

 

「今日のあたしは、海の駒として負けた。逃げて生き延びる術はもうないよ」

 

 マリナクアが先輩の方へ視線を向けた。穏やかに先輩を見ている。

 

「明日は、しーちゃんの知ってる形で、しーちゃんと終わりたいな」

 

「必要ない……!」

 

 いつもの圧縮された声。感情を全部内側に押し込んでいる。

 今はそれが酷く無理矢理に見えた。

 

「あんたは茉莉亜じゃない。ここで終わり」

 

「……」

 

「斬って、アメシスタ」

 

 先輩はマリナクアと目を合わせていなかった。視線が少しだけ逸れている。何もない場所を見ている。私は剣を構えたまま動けなかった。

 

 冷静に考えれば魔物の申し出を受ける必要なんてどこにもない。一切ない。意味もなければ得もなく、先生と先輩の合理的指示に従って私は剣を振り下ろせばそれでいい。仕事は終わって家に帰る。今日の目標を達成して帰る、帰る。終わりなんだ。

 

 そんな合理を先輩の言葉が蘇っていた。

 あの土曜日の朝、ウェルブムで。私が泣きながら全部を打ち明けた後に、先輩が言ってくれた言葉。

 

 怖いから蓋をするのと。

 全部見たうえで手を離すのは。

 

 ねえ先輩?

 先輩もまた、蓋をしようとしているのかな。

 

 戦闘中に先輩の目が見開かれた瞬間を、私は見ていた。何かに気づいて、半歩足が止まった瞬間を。その意味はまだ分からない。でも、あの動揺を見なかったことにして、今ここで私が斬ってしまったら?

 茉莉亜さんの形をした空白は、先輩の中に永遠に残るのではないか。

 

「先輩は。あの。本当に、今ここで終わらせたいんですか?」

 

 先輩の目がこちらに向いた。無表情の奥に、微かな亀裂が走っているのが見えた。

 

「それは、自分で決めたことですか? それとも……今すぐ終わらせなきゃいけないと、思ってるだけですか?」

 

 その唇が引き結ばれた。

 

「……同じ、じゃない。相手は魔物だよ、私たちを動揺させる、そうデザインされてるだけの」

 

「分かってます」

 

 分かっている。危険なのは分かっている。一騎打ちを強制するつもりもない。でも。

 

「今ここで終わらせるのが先輩の本当の答えなら、私が斬ります。でもそうじゃないなら、先輩自身の手で、終わらせた方がいいと思います」

 

 先生が降り立った。懐中時計を開いて、マリナクアへ結晶の先端を向ける。

 何かをずっと考えているような素振りに見えるけれど、もはや何も分からない。

 

「自力での逃走および干渉は不可能です。放置した場合、魔物は数分ほどで自然崩壊します。ただし、結晶格子で保存すれば翌日まで魔物の維持は可能でしょう。もっとも、こんな使い道は想定していませんでしたがね」

 

 先生は続けた。

 

「武装封印、出力制限。常時監視、移動制限。抑止力となるアメシスタの同席。これらを条件に、保存は可能と判断します。ただし申し出を受けるかは、シオニクスに委ねます」

 

「は、おじさんまで……あのさ。何言って」

 

「理由は明確に二つあります。ひとつは今述べた通り、消え去るのを待つだけの魔物ですから。勝敗は既に決まっていること。もうひとつは、少なくとも……私は、貴女が魔法少女であり続ける理由と無関係ではないと判断しました」

 

 長い沈黙。呼吸するように揺れて、崩壊しかけた空から夏風が吹き込んでくる。

 

 私は先輩のことを、結局は何も知らない。何を思ったのかも。何を抱えているのかも。今もずっと先輩の無表情は崩れないままだ。でもその無表情の向こう側で、何かが静かに動いたのだと。私には、感じられた。

 

「……二人揃って、正気じゃないよ」

 

 マリナクアが、少しだけ笑った。唇の端だけで。

 垂れた目が細まって、髪が水に濡れた頬に張り付いたまま。

 

「しーちゃん。ありがとうねぇ」

 

 私は剣を手放した。紫色の光と共に刃は消えていく。

 

 先生がマリナクアに近づいた。手のひらから紫色の光が走って、マリナクアの首元に輪状の結晶格子が展開された。透明な紫の環が首を囲んで、微かに脈打つ。拘束具だろうか。出力と動作を制限する鎖のようなもの。

 

 あるいは、いざという時に即座にその命を奪えるような。

 

 私は自分の提案と判断を疑い続けていた。

 これでよかったと思える、そんな結末が来ると、何故私は思えたのか。確証もなく。

 

 自分の願いに焦がれて苦しみ続けた私がこんなことって、滑稽な話じゃないか。それでも今ここで斬ることだけが本当に正しいとはどうしても思えなかったんだ。夏の空の下へと、私たちは連れて帰るのだ。

 

 倒すはずだったこの魔物を。

 

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