魔法少女アメシスタ、あるいは、星屑に懸けた片想いの話。   作:秩序

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【第11話】大嫌い

 領域が空気に溶けきる前に、先生が案内する退避ルートで街を抜けていく。

 

 マリナクア。魔物の首元には透明な紫の環が脈打っている。

 結晶格子で編まれた拘束具だ。先生が展開したそれは、遠目には硝子のチョーカーのようにも見えた。武装は封印され、出力は制限され、移動範囲は詩音先輩の半径十メートルに固定されている。

 そしてもし異常があれば即座に結晶格子が起動し、内側から魔物を砕く。

 

 それでも、そんな物騒なこと感じさせないほどに、この瞬間は夏の夕暮れの放課後だった。

 ただの女の子が三人。住宅街を歩いている。

 

 大通りに出たところで、先生とは別れた。

 格子を経由して監視は継続するが、物理的に同行する必要はないらしい。「何かあればメッセージを」とだけ残して、革靴の音が路地の向こうへ溶けた。紫水晶の残光が一瞬だけ街灯に紛れて、それきりだった。

 

 スマートフォンを握る指先に、さっきまで剣を振っていた時の熱がまだ微かに残っている。

 

 マリナクアは詩音先輩の斜め後ろを、ゆらゆらと歩いている。変身は解けて……? いや、魔物に変身も解除もないのだろうけれど、真珠色の衣装は消えて、今は制服を着ていた。透かし編みのサマーカーディガンを羽織っていることを除けば、それは詩音先輩と同じ制服だった。

 

 三人分の影が、アスファルトの上で重なったり離れたりする。

 

 前方にも注意を払いつつ、見つめるのはお姉ちゃんとのトーク画面。

 入力欄のカーソルが、何も打たれないまま点滅を繰り返している。

 伝えなければならない。今夜、家に帰らないということを。

 

 指が動かない。嘘をつくのではない。でも、本当のことも言えない。

 

 先輩が角を曲がる。私も続く。住宅街の細い路地に、エアコンの室外機が低く唸っている。どこかの家から夕飯の匂いがして、それが妙に現実的で、さっきまで戦っていた事実がぼやけていく。

 

『お姉ちゃん。詩音先輩の家に泊まることになりました』

 

 打った。送った。もう取り消せない。

 

 既読がつくまでの数秒が異様に長い。お姉ちゃんは今、家にいるはずだ。夕飯の支度をしているか、机に向かっているか。私が帰ってくるのを待っているはずだ。

 

 既読。

 

『泊まり? 急だね』

 

 短い。お姉ちゃんの文面が短い時は、感情を整理している時だ。

 驚いているのか、心配しているのか、あるいはその両方か。

 

『ごめんなさい急で。先輩に誘ってもらったの』

 

 送信。指が震えている。嘘ではない。嘘ではないけれど、全部でもない。

 間があった。お姉ちゃんが何かを考えている時間、私はその沈黙の重さを知っている。

 

『なるほどね』

 

『そういうことね』

 

 二通、立て続けに届いた。

 

『お泊まり会だったわけね』

 

 え?

 

 足が止まった。先輩とマリナクアが数歩先で振り返る。私は画面に釘付けになったまま、お姉ちゃんのメッセージを三回読み返した。挑戦。あの夜、お姉ちゃんに伝えた大事な決め事。お姉ちゃんはそれを覚えていて、今夜の外泊と結びつけたのだ。

 

 紫水が初めて友達の家に泊まりに行く。お姉ちゃんのいない場所で一晩を過ごす。それが、あの時言っていた挑戦の正体だったのかと。

 

 違う。全然違う。でも、完全な間違いでもない。

 

 お姉ちゃんのいない場所で眠ること。

 お姉ちゃんの声が聞こえない夜を過ごすこと。

 それは確かに、私にとっては途方もなく大きなことだった。あの家から逃げ出して以来、お姉ちゃんと同じ家にいない夜は一度もない。

 

 訂正しようとして、指が止まる。訂正したら、本当の理由を聞かれる。本当の理由は言えないのだ。

 

『直前の報告になってごめんなさい、なかなか言い出せなかった』

 

 嘘ではない。本当に緊張している。ただ、理由が違うだけで。

 

『先輩だけじゃなくてね、先輩のお友達も来るんだよ』

 

『髪が黒い感じの青で、ちょっと派手な感じの人で、話し方が独特で』

 

 打ちながら、マリナクアをちらりと見た。

 

『ちょっとギャルっぽいかもしれない』

 

 あ。これはまずいかも。送信した瞬間、後悔した。

 

 既読。からの一秒。

 

『ギャル!?』

 

 文字で声が大きい。お姉ちゃんのメッセージから大きな声が聞こえるのは、相当な緊急事態だ。

 

『大丈夫!? お酒とか飲まされたりしない!?』

 

『夜中に連れ出されたりしない!?』

 

 立て続け。以前、詩音先輩の外見を「退廃的」と慎重に表現したお姉ちゃんが、ギャルという未知の属性に対しては一切の遠慮なく警戒態勢に入っている。お姉ちゃん自身、世間知らずってわけじゃないけど、超が付くほどの模範的な優等生だったし。やっぱりチャラチャラしてるものに偏見みたいなものがあるっぽいのだ。

 

 先輩が怪訝な顔でこちらを見た。私はぱっと顔を上げて、微笑みながら首を横に振った。

 

『大丈夫だよ。先輩もその人も私に無茶させるような人じゃないよ』

 

『あとで先輩に確認とって、住所も送るね』

 

『何かあったら絶対連絡する。約束する』

 

 少し間があった。お姉ちゃんが冷静さを取り戻す時間のはずだ。大丈夫かな。

 

 ああそれにしても、私は、泊まりたいのか。

 詩音先輩とマリナクアを、二人きりにしたくない。それは監視としての判断でもあるけれど、それだけではなかった。

 

 この奇妙な夜を、私も見届けたいと思っている。

 

 明日には消える代理体と、その代理体を消す人が、同じ屋根の下で一晩を過ごす。その時間に、私も立ち会いたい。なぜそう思うのか、うまく言葉にできない。ただ、ここで帰ったら、何か大切なものを取りこぼしてしまう気がした。

 

『わかった。おじいちゃんには私から話しておく』

 

『翌朝必ず連絡すること。帰る時間を教えること。困ったら夜中でもいいから連絡すること』

 

 三つの条件。いつものお姉ちゃんだ。信じるけど確認する。止めないけど条件をつける。その線の引き方が正確で、優しい人だ。

 

『約束する』

 

 全力で頷く代わりに、全力で打った。

 最後のメッセージを送ったのは、先輩が集合住宅の外階段に足をかけた時だった。

 

『紫水。初めてのお泊まり会だね。いっぱい楽しんできて』

 

 画面を見つめたまま、足が止まった。

 

 初めてのお泊まり会。

 その言葉が、胸の奥に小さな棘のように刺さった。お姉ちゃんは純粋に、妹の成長を喜んでくれている。友達ができて、その家に泊まりに行けるようになった紫水を、送り出してくれている。

 

 普通のお泊まり会ではない。

 明日には、今夜一緒に過ごす一人が消える予定だ。

 

 それでもお姉ちゃんの言葉は温かくて、その温かさが余計に胸を締めつけた。

 

「紫水、連絡大丈夫そう?」

 

 先輩の声が上から降ってきた。外階段の踊り場に立って、鍵を手にこちらを見下ろしている。マリナクアは先輩の隣で、古びた手すりに指先を触れさせながら、夕焼けに染まった住宅街をぼんやりと眺めていた。

 

 私はスマートフォンをポケットにしまって、階段を駆け上がった。

 

 詩音先輩の部屋は、駅から十分ほど歩いた住宅地の奥にあった。

 築年数の経った低層の集合住宅。鉄製の階段の手すりには錆が浮いている。二階の一番奥。先輩が鍵を回すと、安っぽい金属の擦れる音がして、ドアが開いた。

 

「散らかってるけど、入って」

 

 玄関は狭くて、三人分の靴を並べると隙間がなくなった。

 

 

 全然散らかってはいない。けれど、整理整頓された部屋とも違う。

 

 使うものが使う場所にそのまま置いてある、という表現が一番近い。教科書やノートは机の端に科目ごとの束になって積まれていて、制服のブレザーは椅子の背もたれにかけっぱなしになっている。ベッドの上には読みかけの漫画が、その隣に音楽雑誌が一冊。

 

 壁紙も床も無難な色をしている。そこに置かれた家具は黒、灰色、濃い木目。

 遮光カーテンも暗い色で、夏の夕方はまだ外が明るいのに、部屋の中は少し薄暗かった。先輩がカーテンの端を引くと、西日が一筋だけ差し込んで、埃の粒子がきらきらと光った。

 

 ベッドの横に、空になったエナジードリンクの缶が数本並んでいる。洗って乾かされた状態で、きちんと口を上にして立てられている。まとめて捨てるつもりのものなのだろう。いや、乾かして飾ってるなんて可能性もあるのかな。

 

 机の上には小さなトレーがあって、ピアスが数組置かれていた。

 銀色のリングやスタッドの色んな種類だ。店でも戦場でも左耳に光っていたあのピアスたちが、こんな小さな皿の上で休んでいる。必要なものだけが、手の届く範囲に集められている。

 

 そして、壁際に真っ黒なギターが立てかけられていた。

 

 楽器のことは何も分からない。

 ギターにも種類があるらしいけれど、私の目にはただ「真っ黒で、少し変わった形をしたギター」としか映らなかった。全部黒くて、どこか先輩に似ている気がした。傍らにヘッドフォン、散らばったピックが数枚。人に見せるための配置ではなく、思い立った時にすぐ手に取れる距離に置かれている。

 

 先輩がギターを弾くなんて、知らなかったな。イメージには、正直合うけれど。

 

「……親は、相変わらずー?」

 

 マリナクアの……ううん。茉莉亜さんの声だった。

 

 部屋の真ん中に立って、ゆっくりと室内を見回している。垂れ気味の目が、一つ一つの物に視線を留めては離れる。ギターを見て、缶の列を見て、机の上の小物を見て。部屋の景色を、確かめるように。

 

「相変わらずで正解」

 

 先輩が短く答える。

 

 茉莉亜さんは数秒間、何か言いたそうに口を開きかけて、閉じた。それから長い髪をさらりと肩の後ろへ流して、壁際のギターの前にしゃがみ込んだ。指先が表面に触れようとして、止まった。

 

「しーちゃんしーちゃんしーちゃん、これ」

 

「触んないでよ、あんた壊しそうだし」

 

 先輩がそれだけ言うと、もう茉莉亜さんはそれ以上聞かなかった。

 寂しそうで、悲しそうで、でもどこか嬉しそうでもある、名前のつかない表情。唇の端だけが微かに持ち上がって、すぐに消えた。

 

「んー。変わったねぇ、部屋」

 

 先輩は答えなかった。カーテンの端を少し直して、エアコンの冷房を点けた。

 

 ウェルブムで皿を洗っている先輩。戦場で刀を振るう先輩。帰り道を一緒に歩いてくれる先輩。

 知っているつもりだったのに、この部屋の中にいる氷川詩音は、そのどれとも少し違っていた。

 

 ここには、一人の高校生の生活が濃く存在している。エナジードリンクの缶を洗って並べる習慣も、ブレザーを椅子にかけっぱなしにする癖も、漫画を開いたまま伏せてベッドに置く隙も。全部が、詩音先輩という人間の輪郭を形作っている。

 

 エアコンが動き始めた。冷気が部屋に広がって、夏の湿気を少しずつ押しやっていく。

 

「紫水。タオルとか洗面所とか、説明するね。茉莉亜は……どうせ、分かってるでしょ」

 

 洗面台は古い型で、蛇口が一つ。鏡の下の棚に、先輩のものらしい黒い歯ブラシと、歯磨き粉と、最低限の洗面用品が並んでいた。

 

 でも。その棚の奥に、もう一本の歯ブラシがあった。

 

 色が違う。先輩の黒い歯ブラシに対して、そちらは淡いピンクだった。キャップがつけられていて、毛先は乾ききっている。長いこと使われていないことが一目で分かった。衛生用品としてはもう役に立たない。それでもそこにある。捨てられないまま、年月だけを重ねて。

 

 視線を動かすと、棚の隅に使いかけのヘアオイルがあった。その横に、髪を結ぶためのヘアゴムが数本。先輩の髪の長さでは使わないものが、先輩の棚に残されている。

 

「タオルはここのを使って。新しいの入ってる」

 

 先輩は何事もなかったように説明を続けた。私は目を逸らして、頷いた。

 

 部屋に戻ると、茉莉亜さんがベッドの脇にしゃがんで、ベッド下の収納を覗き込んでいた。先輩が何か言う前に、その手が引き出しの中に伸びている。

 

「あった」

 

 茉莉亜さんが取り出したのは、畳まれたスウェットだった。

 

 先輩のものとは明らかに違った。先輩の服は黒やグレーばかり、時々白。けれどその部屋着は淡いラベンダー色をしていた。柔らかそうな綿の生地で、長く収納されていた匂いが微かに漂っている。防虫剤と、古い布と、もう一つ。

 名前のつかない匂い。誰かの生活の残り香。

 

 茉莉亜さんの指がそっと撫でた。

 触れ方がどこか他人行儀だった。確かめるように、でも壊さないように。

 

「しーちゃーん? なんで捨ててないのさ」

 

 茉莉亜さんの声は、意外そうだった。

 先輩は少し間を置いた。それと、それを持つ茉莉亜さんの手を見て、視線を一度だけ逸らして。

 

「別に。わざわざ捨てる理由がなかっただけ」

 

 先輩の声はいつも通り平坦だった。嘘ではないのだろう。でも、それが全部でもないことを、私はもう感じ取れるようになっていた。先輩は少し迷った末に、無言でそれを渡し直す。

 

「ありがとね」

 

 茉莉亜さんは静かにそれを胸の前に抱えて、少しだけ顔を伏せた。長い髪が頬にかかって、表情が見えなくなった。

 

 ああ。そうだ。この部屋の一部は、止まっているのだ。そういうことなんだ。

 

 先輩は前へ進んでいる。お店があって、お客さんがいて、先生がいて、私がいる。寂しいと思う時間が前よりずっと減ったと、あの夕暮れの帰り道で教えてくれた。

 けれど歯ブラシも、ヘアオイルも、部屋着も。この部屋の中のいくつかの場所だけは、茉莉亜さんと過ごしたひと夏の終わりで、時間が止まったままになっている。

 

 使われず、捨てられず。年月だけを重ねて。

 

 

「……ソーセージ、チーズ、卵。あとウェルブムから持ってきた余りのパン。以上」

 

 先輩が冷蔵庫の中身を読み上げる声は、メニューの発表というより在庫報告だった。エナジードリンクの缶が棚の半分を占めていて、食材と呼べるものは残りの隙間に申し訳程度に詰め込まれている。

 

 私はスマートフォンに打った。

 

『何か簡単なもの作りましょうか。卵とソーセージがあれば炒飯とか』

 

 画面を先輩に見せようとした時、茉莉亜さんが台所の奥へするりと入っていった。いつの間にか先ほどの部屋着を着ていて、狭い台所の棚の前にしゃがみ込む。迷いのない手つきで、一番下の引き出しを開けた。

 

 奥から出てきたのは、古いたこ焼き機だった。

 先輩の動きが止まった。冷蔵庫のドアを持ったまま、たこ焼き機と茉莉亜さんを交互に見ている。

 

「まだあるかなーと思ったら、まだあった」

 

 茉莉亜さんはたこ焼き機を両手で持ち上げて、間延びした声で笑った。垂れ気味の目が細まる。

 

「……よく場所覚えてるね」

 

「記録にあるもん。しーちゃんが全然丸くできなかったり、あたしが具を山盛りにしたり」

 

 二人きりの記憶の中にある出来事。二人がきっと使ったたこ焼き機。

 

「タコ、ないけど」

 

 先輩がぼそりと言う。

 

「なくていいよ。生地焼けるでしょ」

 

 茉莉亜さんは当然のようにたこ焼き機をテーブルに置いた。ほこりを布巾で拭いて、プレートの穴を一つずつ確認していく。その仕草が、記録を辿っているのか、今この瞬間の魔物自身のものなのか、私には判別がつかなかった。

 

 先輩が冷蔵庫からソーセージとチーズとパック入りの卵を出す。調味料の棚から薄力粉を引っ張り出す。出汁の顆粒もあった。

 

 私は台所に入ろうとした。三人分の食事を作るなら、段取りを考えて、手の空いている人から具材を……と。

 

『私が切りますね、ソーセージとチーズ』

 

 画面を見せる前に、茉莉亜さんが振り返った。

 

「アメシスタちゃんひっくり返せる?」

 

 画面を見せていないのに、私が何をしようとしていたのか察したらしい。垂れた目がこちらを向いている。敵意はない。戦闘の時とは全く違う、ただの誘いの目だった。

 

「一人一本。はい」

 

 配られてしまった。たこ焼きをひっくり返す用の串が、私の手の中に一本。先輩の手に一本。茉莉亜さんの手に一本。

 

 私は黙って台所に入った。まな板を出して、ソーセージを小さく刻む。チーズも同じくらいの大きさに切り分ける。家で毎朝やっている動作の延長だから、手は迷わない。先輩が隣でボウルに粉を入れて、出汁と卵と水を混ぜている。泡立て器の代わりに箸でかき混ぜていて、少しダマが残っている。

 

 混ぜすぎに気を付けているようで、先輩は素直に箸を動かし続けた。茉莉亜さんが横から覗き込んで、「もっとガッて混ぜなよ」と言う。先輩が「ガッってなに」と返す。

 

 三人の腕がぶつかりそうになる。台所は狭い。一人暮らし用の設計に三人が入ると、誰かが動くたびに誰かの肘が当たってしまうのだ。なんだかこれは、初めての体験で悪くなかった。

 

 たこ焼き機に火が入って、プレートが温まるまで少し待つ。油を塗ったら生地を流し込む。穴の中に生地を注いで、刻んだソーセージを落とす。生地がじゅわりと音を立てて、三人で覗き込み。そろそろ、そろそろかな、とタイミングを伺っている。

 

 最初に茉莉亜さんが串でひっくり返そうとする。これが得意だったらしい。

 

「あたしが一番うまいはず」

 

 言いながら、串を差し込んで、回す。半分だけがめくれて、残りの半分はプレートにくっついたまま引きちぎれた。

 

「……あれ」

 

「記憶通りにはいかないんだ」

 

 先輩が淡々と指摘する。茉莉亜さんは「うるさいなぁ」と唇を尖らせた。表情が妙に人間くさくて、その首の格子が無ければ、魔物であることを一瞬忘れそうになる。

 次は私の番だった。串の先端を生地の端にそっと差し込んで、手首を返す。くるんと綺麗に回った。丸い。ウェルブムでプリンのクリームを絞る時よりずっと簡単だった。

 

「上手」

 

 先輩が小さく言った。

 

 先輩は自分の分を回そうとして、半分も回らないうちにプレートの縁に引っかけた。中からチーズが溶け出して、隣の穴の生地と合体した。二つ分の大きさの不格好な塊ができあがる。

 

「……まあ、食べれば同じ」

 

 先輩は何事もなかったように次の生地を注いだ。

 

 そうやって焼き続けるうちに、具が足りなくなった。ソーセージもチーズも底をついて、最後は生地だけを穴に流し込む。何も入っていない、ただの丸い焼き生地。これはこれで、ということらしい。

 ソーセージ入り、チーズ入り、両方入り、具なし、焦げたもの、形が崩れて原型を失ったもの。統一感は皆無だった。

 

 私は最初、少し離れた位置に皿を持って座ろうとした。テーブルは小さくて、二人が向かい合って座れば丁度いいくらいの大きさ。私がいたら邪魔だろう。先輩と茉莉亜さんの時間に割り込む第三者なのではないかと。

 そんなことを思っていると、不意に先輩の手が私の袖を引いた。

 

「どこ行くの」

 

 先輩の声は短かった。でも、有無を言わせない種類の短さだった。

 茉莉亜さんも首を傾げてこちらを見ている。

 

「アメシスタちゃん、こっちおいでよー。三人で食べないと意味ないじゃん」

 

 結局、小さなテーブルに三人が膝をくっつけるようにして座った。たこ焼きの皿がテーブルの真ん中に置かれて、ソースとマヨネーズがその横に並ぶ。マヨネーズの蓋が固くて、茉莉亜さんが力任せに開けたら中身が飛び出して机についた。先輩は無表情ながらも、ため息をついた。

 

 焦げたやつは外側がカリカリで、中は意外ともちもちしている。

 具なしのものは出汁の味がちゃんとして、何もないのに妙に美味しい。チーズ入りは中が熱くて、口の中を火傷しそうになった。

 

 茉莉亜さんが先輩に何か話しかけるたびに、その会話の端に私も自然に混ぜてもらえた。

 私がスマートフォンに文字を打つのを待ってくれるから。画面を見せると、きちんと最後まで読んでから返事をくれる。そして急かさない。茉莉亜さんの記録の中にそうした習慣があるわけではないはずだから、これは。

 今ここにいる茉莉亜さん自身が、私に合わせようとしてくれている。

 

 楽しい。

 

 不思議なことに、不思議と、楽しくて仕方がない。

 

 初めて友達の家に泊まって、三人で食事を作って、失敗したものを笑いながら食べる。

 お姉ちゃん以外の人とこんなふうに過ごす日が来るとは思っていなかった。声が出なくても、文字を打てば会話ができて、画面を向ければ二人とも読んでくれて、返事が返ってくる。

 

 茉莉亜さんの首元には紫色の結晶環が脈打っている。今も変わらず。

 明日にはこの人を、先輩が斬る。先輩が動けなくなったら、私が代わりに。今、同じたこ焼きを食べている相手を、翌日には消滅させる。

 

 その事実は頭では理解できているのに、現実味がなかった。

 三人で過ごす時間はどこか輪郭が薄くて、指で触れたら滲んでしまいそうで。ずっと醒めない夏の夢を見ているような気分で。

 

 具なしのたこ焼きの最後の一つを、三人で譲り合って、結局茉莉亜さんが食べた。ソースもマヨネーズもつけずに、そのまま口に放り込んで、「出汁が美味しい」と笑った。

 

 

 寝る場所を決めなければならない。

 

 先輩がクローゼットの奥から引っ張り出してきたのは、薄い敷布団とブランケットの一式で、畳んだシワがくっきりとついている。長いこと使われていなかったのが一目で分かる布団。茉莉亜さんが泊まりに来ていた頃の、来客用だったりするのかな。

 

「紫水はベッド使って」

 

 声は出ない。でも口が動いた。

 驚きすぎると、声の有無に関係なく口が開くらしい。慌ててスマートフォンを構える。

 

『先輩のベッドですよね。私が床で寝ます』

 

「客だから。今回はただでさえ、私のわがままに巻き込んでる」

 

『客じゃなくて後輩ですし。巻き込まれてません。先輩が自分のベッドで寝てください』

 

「後輩だから譲ってる。年上の指示だよ」

 

『横暴です!』

 

 感嘆符を打ってしまった。先輩相手に感嘆符なんて初めてだ。画面を見せると、先輩は無表情のまま一瞬だけ目を細めて、それから布団を床に広げ始めた。譲る気がない。明らかに譲る気がない。

 頑固だ。

 

 茉莉亜さんはと言えば、壁際でクッションを抱えながら、この攻防を眺めている。

 

「しーちゃんの言うこと聞いた方がいいと思うよー。アメシスタちゃん、そんなに細いのに床で寝たら折れちゃいそうだし」

 

『折れません。それに昔は、もっと硬いところで寝てたので全然平気です』

 

 打ってから、少しだけ後悔する。「昔」の中身を詳しく聞かれたくはない。けれど茉莉亜さんはそこに踏み込まず、ただ「ふうん」と頷いて、先輩の方を見た。

 

「ね、しーちゃん。折れはしないって」

 

「折れない保証がないでしょ」

 

「いや、保証の問題なの?」

 

「うん。心配。以上」

 

 先輩の口調は業務連絡と変わらない。以上、と言い切られると反論の隙間がない。私はスマートフォンの画面を握りしめて、もう一度打つ。

 

『先輩だって戦って疲れてるのに床で寝たら身体に悪いです』

 

「慣れてるよ」

 

『慣れてるで済ませないでください。なら私も慣れてますもん』

 

「紫水の方が身体小さいでしょ。ベッドの方が合う」

 

『体格で寝床を決めるのはおかしいです』

 

「おかしくない。合理的」

 

 茉莉亜さんが私と先輩を交互に見ている。垂れた目が、面白くて仕方ないという光を帯びていく。唇の端だけが持ち上がって、ようやく声を出す。

 

「良い子ちゃん同士さぁ? じゃんけんにしなよ。じゃんけん。それなら文句ないでしょ、二人とも」

 

 先輩と私が同時に茉莉亜さんを見た。

 

「……まあ、それなら平等か」

 

『平等ならいいです。勝負します』

 

 茉莉亜さんがくすくす笑っている。声を押し殺すようにクッションに顔を埋めて、肩が震えている。笑い方が妙に人間くさくて、首元の紫色の結晶環がなければ、本当にただのお姉さんにしか見えない。

 

「……」

 

 じゃんけんの結果なのだから仕方がない。

 

 平等な勝負に負けた以上、これ以上ごねるのは潔くない。潔くないけれど、先輩のベッドに寝るということは、先輩の枕に頭を載せるということで、先輩の布団にくるまるということで。

 

 先輩は布団を床に敷き終えている。茉莉亜さんは壁際のクッションで構わないと言い出すけれど、先輩はそれも許さず、毛布と枕を押しつけるように渡す。

 

「床で寝るなら最低限これ。風邪ひいても知らないから」

 

「はいはーい。しーちゃん相変わらず世話焼きだねぇ」

 

 先輩は聞こえないふりをして、エアコンの温度を一度だけ下げた。

 

 照明が消えて、先輩がリモコンを机に置いて、床の布団に横たわる。ーさんは壁際に毛布をかぶって丸くなっている。ラベンダー色のパジャマの裾が毛布の端からはみ出していた。

 

 ここは、先輩の匂いがする。

 

 シャンプーとか柔軟剤とか、そういう名前のつくものではない。

 もっと曖昧で、もっと確かなもの。枕の布地の奥にこの部屋で過ごされてきた夜の数だけ、氷川詩音という人間の輪郭が染み込んでいる。

 

 お姉ちゃんの枕の匂いとは違う。あの甘くて安全な、世界で一番信頼できる匂いとは。

 でもここにあるのも安全だと思う。種類の違う安全。言葉にするのが難しい。お姉ちゃんの隣で眠る時の、溶けるような安心とは別の。もっと乾いた、でも確実にそこにある信頼の温度。

 

 そっとスマートフォンの画面を開いた。お姉ちゃんのトーク画面を開いて、おやすみのメッセージを打つ。こっそりだ。もう寝る時間なのだから。

 

『おやすみなさい、お姉ちゃん。今日はたのしかったよ』

 

 送信。既読がすぐにつく。お姉ちゃんはまだ起きていた。もしかすると私からの連絡を待ってソワソワしていた可能性だって十分にある。うん、やっぱりとても可愛い。

 

『ギャルの人は大丈夫だった? 変なこと勧められたりしてない?』

 

 思わず口元が緩む。暗闇の中で、誰にも見えない笑顔。

 

『大丈夫だよ。すごくいい人だった。あとそんなにギャルじゃないかも、たぶん』

 

『たぶんって何。まあいいけど。楽しめてるならよかった』

 

『うん。本当に楽しいよ』

 

 送信する。嘘じゃない。本当に楽しかった。たこ焼きの焦げた匂いも。じゃんけんに負けちゃったことも。全部。全部だ。

 

『じゃあ。おやすみ紫水。明日の朝もちゃんと連絡してね』

 

『うん。おやすみなさい』

 

 画面を伏せる。明かりが消えて、暗闇が戻る。

 

 天井に、カーテンの隙間から漏れる街灯の光が細い線を引いている。おじいちゃんの家の天井にある木目の節とは違う模様。ここはお姉ちゃんの隣ではない。

 眠れるだろうか。

 

 

 目が覚めたのは、話し声のせいだった。

 身体が先に反応する。瞼が開くより前に呼吸が止まり、全身の神経が音の方向と距離を測り始めている。ドアの向こうの足音。壁を隔てた怒声。暗い廊下を近づいてくる気配。

 

 違う。ここはあの家じゃない。あの家じゃない。

 心臓が喉元まで跳ね上がっている。指先が冷たい。こめかみに汗が滲む。

 

 数秒かけて、自分がどこにいるのかを取り戻す。先輩のベッド。先輩の部屋。夏の夜。あの家ではない。声は壁際から聞こえていた。低くて、静かな声。二人分。

 

 目を開ける。

 部屋の照明は消えたまま。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、天井と壁の境目に淡い線を引いている。暗さに目が慣れるまで、少しだけ時間がかかる。

 

 床の布団は空だった。先輩がいない。

 壁際に、二つの影が寄り添っているのに気付いた。

 

 輪郭しか見えない。先輩の短い髪のシルエットと、茉莉亜さんの長い髪のシルエット。身長はあんまり変わらない二人。どちらがどちらに近づいたのか分からない。ただ、肩と肩の間に隙間がない。

 

 自分が入り込んではいけない空気が、暗がりの中に満ちている。

 盗み聞きをしている罪悪感が腹の底で重く渦を巻くのに、身体が硬直して動かない。あの家で覚えた癖。物音を聞いたら動くな、息を殺せ、見つかるな。身体に染みついた防衛本能が、今この瞬間を生き延びるための姿勢を勝手に選んでいる。

 

 目を閉じた。閉じたまま、耳だけが二人の声を拾っていく。

 

「使ったのは私の記憶も。違う?」

 

 先輩の声だ。いつもの平坦さとは違う。低くて、湿っている。掠れてはいるけれど、抑えているのではなく、抑えきれないものが滲み出ているような声。

 

「海が何を参照したかは、あたしには分かんないけどー……まあ、そうだね、そう」

 

 茉莉亜さんの声は変わらない。間延びして、急ぐ理由のない声。

 

「分かるでしょ。あんたの中にあるのは、私が覚えてたものばっかり」

 

 先輩の言葉が、暗闇の中でひとつずつ落ちていく。石を水底に沈めるように。

 

「戦い方も。私の部屋も。たこ焼き機の場所だって全部、私の側にある記憶だよ。今のあんたからじゃない。私の、私の中を勝手に漁って……私が覚えてた茉莉亜を組み立てた。違う?」

 

 布が擦れる音がした。先輩が動いている。さらに近づいたのか。

 

「たぶん、正解なんじゃないかな。ながーい間戦ってたシオニクスの情報は、たっぷりあるからね」

 

「それで言葉で紫水を揺さぶって、私の前にその顔で立って……」

 

「ごめんて。でも、あたし茉莉亜じゃないから、魔物だもん」

 

「……魔物だから。とか、じゃない」

 

 声を荒らげてはいない。怒鳴ってもいない。低く、湿った声だ。

 

「本当に、大嫌い」

 

「そっか」

 

「大嫌い」

 

 その三文字に、何年分もの歳月が詰まっているのが、暗闇の中でも分かった。

 身体は離れていない。大嫌いだと言いながら、先輩は茉莉亜さんの傍から動かない。

 

 沈黙が数秒。茉莉亜さんが何かを飲み込むような間を置いてから、口を開く。

 

「嫌われちゃったか」

 

「嫌い」

 

「じゃあさー、こうやってくっついてるの、変じゃない?」

 

「変だよ。変に決まってる。分かってる」

 

 先輩の声が震えた。震えを殺そうとして、殺しきれなかった残骸みたいな揺れ。

 

「分かってるから、明日、自分で終わらせる。だから今だけ。一晩。偽物だって分かったまんまで、いいから。少しくらい」

 

 そこから先の言葉が、喉の奥で詰まったように途切れた。続きを言おうとして、言えなくて、代わりに布の擦れる音がもう一度した。額か、肩か。先輩が茉莉亜さんの身体のどこかに、自分の重さを預けている。突き放さず、引き寄せもせず、ただそこにいる。

 

 やがて茉莉亜さんが、低い声で話し始める。

 

「……あたしは、今もこの街にいるの?」

 

「たぶん。大学生にでもなってるんじゃないの。どこかは知らない。連絡先も繋がらない」

 

「変えちゃったのかなぁ連絡先」

 

「分かんない。意図的に切られたのかもしれない。普通の人生を選んだあんたに、私がそこに勝手に踏み込むことはできない」

 

 先輩の声から、湿り気が少しずつ引いていく。代わりに、乾いた諦めに似た温度が入り込んでくる。事実を述べている声。何度も頭の中で繰り返して、角が取れるまで転がした言葉を、暗闇の中に置いていく声。

 

「笑えるよね、いつまでも縋って」

 

 笑っていない。笑えない。

 

「きっと何もかも変わってるよ。髪型も、服も、喋り方も、好きなものも。それで……私のことなんか覚えてないかもしれない。今の茉莉亜はもう、知らない女の人になってる」

 

 先輩の声がそこで止まった。一拍分の空白。

 

「で、あの夏の茉莉亜のままでいるのは」

 

「しーちゃん」

 

「……それが、残酷だって言ってるんだよ。本物は変わったのに。偽物のあんただけが、私の覚えてる茉莉亜の顔と声で目の前に立ってる」

 

 沈黙が落ちる。長い沈黙。エアコンの低い唸りだけが、部屋を満たしている。

 茉莉亜さんが問いかけたのは、その沈黙の底からだった。

 

「あたしたちって、ナイスコンビだったよねぇ」

 

 先輩の呼吸が変わる。吸って、吐いて。吸って、長く吐いて。

 

「……急に何」

 

 短い否定。

 二人の不器用な言葉が、暗がりの中に積み上がっていく。一つずつ、慎重に。壊さないように。

 

「しーちゃんしーちゃん。まだ空いてる?」

 

「空いてるよ。ずっと」

 

「でも、もう一人じゃないんでしょ?」

 

「……うん。一人じゃない。お店がある。お客さんが来る。おじさんがいる。紫水がいる」

 

 先輩が名前を挙げていく。声はまだ低いけれど、そこに確かな手触りがある。一つずつ指折り数えるような、積み重ねてきた日々の重さ。

 

「でもずっと、茉莉亜のための席なんだよ」

 

 布が擦れる音。今度は茉莉亜さんの方から。先輩の髪か、背中か、肩か。手が伸びて、そっと触れる気配。先輩はそれを拒まなかった。

 

 私は布団の中で目を閉じたまま、声を出さずに泣いた。

 

 こんなにも残酷な話。あんまりだと思った。

 同じ街に本物がいるのに会えなくて、偽物だけが覚えている顔で目の前に立っていて、その偽物に縋ることを許してくれと頼んで、明日にはその手で終わらせなければならない。

 

 お姉ちゃんのことを考えた。

 

 あの人はここにいない。でも同じ街に、同じ家に、確かにいる。明日帰れば会える。声は出ないけれど、画面に打てば伝わる。手を伸ばせば届く距離に、まだいてくれる。

 

 先輩の茉莉亜さんは、もういない。本物はどこかで別の人生を歩んでいて、偽物は明日消える。先輩の手が届く茉莉亜さんは、今夜を最後にこの世界からいなくなる。それでも先輩は、一人じゃないと言えた。空いている場所がまだあると認めた上で、それでも一人ではないと。

 

 大切な人への想いに、自分の手で別れを告げること。先輩はそれを、明日やるのだ。

 涙が枕に染みていく。先輩の匂いがする枕に、私の涙が混じっていく。

 

 ごめんなさい先輩。枕、汚してごめんなさい。

 そして、私が貴女にしてしまった提案は、とても酷いものだったみたい。

 

 声にならない謝罪を、天井に向けて唇だけで呟いた。

 

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