魔法少女アメシスタ、あるいは、星屑に懸けた片想いの話。 作:秩序
目が覚めると、一瞬だけ身体が強張ってしまった。
ここはどこだ、と神経が警報を鳴らしかけて、すぐに昨夜の記憶が追いついてくる。ここは詩音先輩の部屋で、ここは先輩のベッド。そして先輩の枕。初めてのお泊まり会をした事実が一気に湧き上がってきて、無事に心臓は落ち着いた。
カーテンの隙間から朝の光が一筋だけ差し込んでいる。
遮光する布の暗い色に遮られて、部屋の中はまだ薄暗いけれど、隙間を通り抜けた光だけが白く鋭い。埃の粒子がその中をゆっくり漂っている。
身体を起こしながら床を見下ろして、息が止まりかけた。
床の布団の中には二人がいた。
詩音先輩が仰向けに寝ていて、その左腕の中に茉莉亜さんが収まるようにして眠っている。
長い髪が散らばって、朝の微かな光を受けて艶やかに光っている。ブランケットは二人の腰あたりまでずり落ちていて、肩から上は夏の朝の空気に晒されている。
先輩の寝顔を見るのは初めてだ。起きている時のあの無表情とは全然違って、眉間の力が完全に抜けている。口元が少しだけ開いていて、静かな寝息が漏れている。切れ長の目が閉じられていると、睫毛の長さがよく分かる。お姉ちゃんとは違う種類の、でも確かに美しい顔がそこにあった。
昨夜の会話が脳裏をよぎる。
壁際で身を寄せ合う二つのシルエット。湿った声。偽物だと分かったまま、一晩だけそばにいてほしいと願った先輩の、不器用な懇願を。
夢ではなかったのだと分かる。あの後、二人は同じ布団に入って眠ったんだろう。
これは私が起こすわけにはいかない。
私は音を立てないようにベッドを降りて、洗面所へ向かった。
◇
顔を洗って戻ると、茉莉亜さんが起きていた。
先輩の布団の上に座り込んで、長い髪をゆるく手で梳いている。ラベンダー色のパジャマの襟元がずれて、鎖骨の線が覗いている。首元の紫色の結晶が、朝の薄い光の中で静かに脈打っていた。先輩はまだ眠っているみたいだ。
茉莉亜さんが私に気づいて、垂れた目を細めた。
「おはよ、アメシスタちゃん。早いね」
声が小さい。先輩を起こさないようにしているのだ。
私はスマートフォンを持ち上げて、ささっと画面を見せた。
『おはようございます。先輩まだ寝てますね』
「うん。昨日、遅くまで起きてたから」
茉莉亜さんはゆっくりと立ち上がると、台所の方へ歩いていく。冷蔵庫を開けて、中を覗き込む。首元の結晶が、先輩から離れる距離に応じて微かに明滅する。十メートルの制限。この部屋の中なら、どこにいても範囲内ではあるけれど。
「うーん。うん。冷蔵庫からっぽだね。朝ごはんはー……途中のコンビニとかで買お」
私も台所に入った。手持ち無沙汰なところもあって、少し気まずい感じもして、なんとなく昨日使ったお皿を洗うことにした。シンクの端に置かれた、文字の薄れたマグカップが二つと、先輩が私のために出してくれた無地の白いカップが一つ。
スポンジを手に取るその前に、茉莉亜さんへ。
『じゃあせめて。お茶だけでも淹れましょうか』
画面を見せると「ありがと」と小さく頷いてくれた。
先輩が起きてきたのは、ほうじ茶の湯気が三つのカップから立ち上り始めた頃だった。
髪がぐしゃぐしゃで、目が半分しか開いていない。寝起きの先輩は、いつもの鋭さが全部抜け落ちて、ただの眠たげな十七歳に見えた。それが何故かくすぐったいような、嬉しいような。
「……おはよ」
掠れた声。台所に立つ私と茉莉亜さんを順番に見て。
「朝から動いてるの、二人とも」
「アメシスタちゃんがお茶淹れてくれたんだよ? 褒めてあげなよ先輩さん」
「ん。ありがと。紫水」
私たちは昨夜と同じ配置でテーブルを囲む。膝と膝がぶつかりそうな距離。
私はまたスマートフォンをそっと持って、今度はお姉ちゃんにメッセージを送る。
『おはようございます、お姉ちゃん。無事に朝です。遅くても夕方には帰るね』
既読はすぐについた。流石お姉ちゃんは朝に強い。自慢のお姉ちゃんである。
『おはよう。ギャルは大丈夫だった?』
思わず口元が緩んだ。まだ言っている。
『すごくいい人だったよ。あとやっぱりギャルじゃなかったかも』
『かもって何さ。まー。楽しかったならよかった。帰り気をつけてね』
『うん。ありがとう』
画面を閉じる。お姉ちゃんは今日も、私の帰りを待ってくれている。
それは非日常の中で日常に私を繋ぎ止めてくれる、確かな楔に他ならない。
朝のシャワーを順番に浴びることになって。先輩が最初。茉莉亜さんが次で、私が最後。
浴室は狭く、シャワーヘッドが少し古いので水圧が安定しない。でも他人の家のシャワーを使うという行為自体が、私にとっては途方もなく新鮮な体験だった。
部屋に戻ると、制服に着替え終わった茉莉亜さんがベッド下の収納の前にしゃがんでいた。
手にはラベンダー色のスウェット。丁寧に畳んで、引き出しの中に戻そうとしている。
そしてその途中で、手を止めた。
畳んだパジャマをベッドの上に載せて、数秒間そのまま見つめている。指先が布地の端を撫でて、離れて、もう一度触れる。
それから茉莉亜さんはそれを引き出しには戻さなかった。
畳んだまま、ただ、ベッドの上に置いた。枕の横に。先輩の枕の横に。
昨夜までの痕跡は、全部この部屋の中に残されたままだ。洗い終わったたこ焼き機も、壁際の真っ黒なギターも、洗面台のピンクの歯ブラシも。溢れる時間が終わったならそれは思い出になる。
外階段を降りてみれば、夏の朝の光が目を刺した。
どこまでも抜けるような青が広がっている。
◇
横浜港シンボルタワーには、バスを乗り継いで向かう。
朝ごはんは駅前のコンビニで買ったサンドイッチを、バスを待つ間に三人で食べて済ませて。
本牧ふ頭の奥、みなとみらいや赤レンガ倉庫とはまた違う空気の漂う海の近く。観光客で賑わうエリアからは少し離れていて、コンテナのクレーンが海沿いに並ぶ風景の先に、白い塔が建っている。
午前中だからか、人はまばらだった。芝生広場の向こうには港が広がっている。水面が夏の日差しを跳ね返して、白い光の粒をばらまいている。
先生は既にそこにいた。
相変わらず、こんな真夏日にも黒いスーツ。紫水晶の結晶が、真夏の強い光を受けて鈍く、でも確かに輝いている。芝生の上に立つその姿は相変わらず現実離れしていて、こんなに晴れた日の公園でも周囲に溶け込む気配がない。
結晶の先端が私たちの方を向いた。
「おはようございます。本日はよく晴れましたね」
先生の声はいつも通り穏やかに乱反射していて、感情を挟まない業務報告の調子だった。その手のひらから紫色の光が走る。足元の芝生が震えて、空気が変わり始める。
結界が展開されていく。決着をつけるためだけの。
現の真夏が、薄い膜の向こう側へ押しやられる。コンテナ船のエンジン音が遠くなり、道路を走る車の音が消え、人の気配が全部吸い取られて。代わりにそこに現れたのは、また夏だった。
偽物の黄昏ではなく。
どこまでも透き通った、青空が頭上に広がっている。見上げると首が痛くなるほど高い空の向こうに、巨大な積乱雲が白い城壁のようにそびえ立っている。雲の頂上は太陽の光を受けて輝いていて、その輪郭は眩しくて直視できないほど。
先ほどまで見ていた空と、それは大差ないように見えて。どこか違う。
何が違うのかと問われれば、それは過剰なまでに美化されていることだ。
誰もが夢に思い描く、理想的な夏空だった。
風が吹いた。潮と熱が混じった夏の風。遠くで蝉の声がする。頭の上から降り注ぐ日差しが容赦なく肌をじりじり焼いて、こめかみに汗が滲む。
先輩と茉莉亜さんがそっと歩き出した。私と先生から離れて、ちょうどいいその間隔へと。
先輩もこの青を見ている。パーカーのフードが風に膨らんで、白いメッシュの入った髪が光を受けて銀色に輝く。その横顔に、昨夜とは違う何かが浮かんでいるのが見えた。決意とも覚悟とも違う、もっと静かなもの。この場所を知っている人間の、この場所に帰ってきた人間の顔。
「……茉莉亜。そう、だね。私たちってナイスコンビだった」
ぼそりと言った。
茉莉亜さんは目を閉じて、深く息を吸い込んだ。長い髪が風に弄ばれ、陽光の中に立っている。
「ここは日陰、全然ないのが腹立つんだよなぁ」
「文句言いながら歩いてたよね、茉莉亜」
「だって、アイス食べたくてさー?」
「言ってた。アイス食べようって三回くらい言った」
「ね。二つに割るやつ。でも分けるんじゃなくて一人一個丸ごとね」
先輩の口元が、ほんの微かに動いた。それは微笑みとは呼べないかもしれない。でも、唇の端に生まれた微かな弧は、確かにそこにあった。もはや言葉にすることすら許されない揺らぎであり、綻びであり、心の隙間。
先生が結晶の先端をマリナクアへ向けると、首元の紫色の結晶が反応した。光の脈動が速くなる。
「では戦闘制限を一部解除します。武装の展開を許可。ただし、領域外への逃走、および私とアメシスタへの攻撃は引き続き封じられています」
茉莉亜さんは結晶環に指先で触れて、小さく頷いた。「りょうかい」と、いつもの間延びした声で。
私は一歩後ろに下がって、変身した。黒い衣装が身体を包む。髪の毛先が灰色から白へ滲んでいく。手の中に大剣の重さが戻る。今。抑止力として、ここにいる。先輩が動けなくなったら、先生が戦闘を停止する。マリナクアの処理が必要だから、私がとどめを刺すのだ。
私はただ、そうならないことを祈っている。
先輩がこちらを振り返った。無表情のまま、でも目だけが確かに私を見ている。
「ありがとう。紫水のおかげだよ」
「先輩」
「……大丈夫。負けないから」
変身が始まった。
黒い光が先輩の身体を包み込む。
衣装の折り目に沿って白い線が走り、黒い布とソリッドな装飾が身体を覆っていく。箱型の鞘が左手に現れる。大きなパーカーに引き締まった腹部が覗くあの衣装。それが夏風に煽られる。
魔法少女シオニクス。
これが最後の変身になるかもしれないこと。
私にはそれが分かっていた。先輩にも、きっと。
続いて、マリナクアの姿も変わった。
薄水色の粒子を纏い、真珠色の衣装が全身を包む。長いスカートの裾が揺れている。半透明の袖が腕を覆い、その布地もゆらゆらと揺れている。その白は青の下でよく映えていて、優雅だった。海流に身を任せる海月のように。
右手に細身の直剣が一本。蛇腹剣はそこに無かった。
きっとこれは、かつてのマリナクアの戦い方なのだろう。
構えや重心、剣先の高さ。星見も。
積乱雲は水平線の上で白く輝いている。海面を渡る風が二人の髪を攫って、黒と紺が入り混じる。蝉の声が遠くなっていく。世界が二人の間に集約されていくような感覚に陥る。
ここから始まる一瞬を私は見逃したらいけない。見届けなくてはいけない。そしてきっと、夏が来るたびに私は思い出すのだろう。
「しーちゃん、やろう」
マリナクアが剣を構えたまま、呼んだ。
「うん」
◇
マリナクアの直剣が横薙ぎに走る。シオニクスは鞘で受けて、触れた瞬間に角度を変えて流す。白い光が鞘の表面を走り、衝撃を吸い込んで消す。盤相。何度も見た、あの最小限の動きでの受け流し。
今度は先輩が踏み込む。鞘から白い刃が閃く、居合い。
横一文字に走った刀身を、マリナクアが半歩だけ身を沈めて躱す。刃の下を潜り抜けて、すれ違いざまに直剣を突き返す。先輩はそれを刀の腹で逸らして、もう半歩。間合いが入れ替わる。
互いの動きを、互いが完全に読み切っている。踊るように。
けれど、マリナクアの根底にあるのはあの夏の先輩に過ぎない。中学一年生の、まだ星見を教わったばかりで、戦いの技術を使い始めた頃の先輩。踏み込みの癖や呼吸の間、力の入れ方。
今の先輩は違う。
あの後、一人で何年も戦い続けて、技術を自分のものに変えながら生きてきた人だ。先生と協力して、ウェルブムで働いて、私に星見を教えてくれた。マリナクアから受け継いだ基礎の上に、先輩だけの歩幅と呼吸が積み重なっている。
そして何よりも、昨夜を終えた今の先輩だけは、まだその記録のどこにも存在していない。
出力はやはりマリナクアの方が上に見える。
先輩の力は、願いが叶いかけている分だけ弱まっているはずだから。
それでも、先輩の刀は揺るがない。
マリナクアが大きく前方へ跳びながら、直剣の切っ先が先輩の胴を狙う。先輩は鞘の角度をほんの数度だけ変えて、剣先を横へ逸らす。すれ違いざまに先輩が鞘から刀を抜き放つ。
その動きもまた、読まれていた。
直剣を斜めに出して、剣の腹で触れさせるように受ける。力で止めるのではなく、角度を変えて逸らす。先輩に教わった技術を、先輩に使い返している。
金属と金属が擦れ合う音が、夏の空に散った。
白と青。黒と青。先輩の刀から走る光と、マリナクアの剣に宿る薄水色の光が、触れ合った瞬間に弾けて混じり合う。綺麗だ。
戦闘を美しいと思ったのは初めてかもしれない。二人の動きには無駄がなくて、互いを知り尽くしているからこその呼応があって。
でも最後には、どちらかの刃が、どちらかの身体を裂いて終わる。
先輩が一気に間合いを詰めた。マリナクアの剣が先輩の刀を弾き返す。その反動を利用して先輩が半回転し、遠心力を乗せた逆袈裟の一撃を放つ。マリナクアが後方に跳んで躱す。着地の瞬間に先輩がもう一歩踏み込む。
再度鞘から抜き放たれた白い刃が、真夏の光を一瞬だけ吸い込んで、それから全部を吐き出すように煌めいた。
マリナクアの直剣は根元から断たれた。
真珠色の破片が宙に弾けて、日差しの中をきらきらと舞い落ちていく。雪のように。星屑のように。
先輩の刀は止まらなかった。
直剣を断った勢いのまま、そのまま大きく。マリナクアの胸を、深く、裂いた。
真珠色の衣装の下まで黒い線が一本走って、そこから薄水色の粒子がこぼれ始める。
マリナクアは仰向けに倒れた。
芝生の上に長い髪が広がる。ブルーブラックの髪が、真夏の緑の上で扇のように開いて、その間に薄水色の光の粒が混じっていく。身体の輪郭がゆっくりと薄れ始めている。砂浜から波が引いていくように、存在そのものが世界から引き剥がされていく。
先輩が、倒れたマリナクアに跨るように立った。
刀の切っ先を首元に添える。そこにある結晶環の紫色の光がまだ脈打っている。その結晶が、それこそが。この魔物の存在を最後まで繋ぎ止めているもの。刃を通せば、完全に終わる。
先輩の手はもう震えていなかった。
青。積乱雲の白。蝉の声。薄水色の瞳に映したまま。視線がゆっくりと動いて、先輩の顔を捉えた。
「しーちゃん、もう寂しくない?」
先輩の呼吸が、一拍だけ止まった。
刀を持つ手はそのまま。姿勢もそのまま。ただ、目の奥で何かが揺れて、揺れて、やがて静まった。水面に落ちた石が底に沈むまでの、あの長い静けさだった。
それでも。
「寂しいよ」
「……」
「でも、私もう、一人じゃなくなったから」
マリナクアが、笑った。
「よかったねぇ」
先輩の刀が首を貫く。
硝子が砕けるような澄んだ音が一つ。紫色の環が割れて、破片が光に溶ける。同時に、マリナクアの全身から薄水色の粒子が溢れ出した。芝生の上に散らばっていた長い髪が、先端から光に変わっていく。真珠色の衣装が端から崩れて、薄水色の粒子になって、夏の風に攫われて、空へ。
舞い上がっていく。
薄水色の光の粒が、真夏の青空へ昇っていく。積乱雲の白い壁面を掠めて、陽光の中に溶けて、やがて見えなくなる。
最後に残ったのは、芝生の上の何もない場所。何事もなかったように夏が続いている。
先輩が刀を鞘に戻そうとした。
その途端に白い刀身が手の中でほどけた。
粒子になって、指の間からこぼれ落ち、白い光が掌から溢れては同じように夏の空気に溶けていく。刀身だけではない。鞘も、黒い衣装も、順番に先輩の身体から剥がれていくのだ。
先輩と力の接続そのものが、静かに、確かに。消えていった。
パーカーが白い粒子に変わり、腹部を覆っていた黒い布が風化して。
残されたのは、十七歳の女の子。
先輩が右手を持ち上げた。指を開いて、閉じて。もう一度開く。そこには何もない。刀も鞘もない。さっきまで確かにそこにあった重さが、跡形もなく消えている。胸の中心に意識を集中させて、力を呼び起こそうとしている。私にはその仕草が分かる。変身を試みて……何も起こらなかった。
衣装は現れない。武器も戻らない。先輩の身体は先輩の身体のまま、夏の日差しの中に立っている。
先生が一歩前に出た。懐中時計を開いて文字盤を確認する。それから。
「結果を報告します」
声が、青空の下に落ちる。
「詩音様の願いと現実の落差が消失したことを確認しました。契約は終了です」
一拍の間。結晶が、ほんの少しだけ傾いた。
「魔法少女シオニクスは、今この瞬間をもちまして、卒業です」
蝉の声が、急に大きくなったような気がした。
「ここからは少し個人的な言葉になってしまいますが。シオニクス。おめでとうございます」
業務報告の調子が消えていた。代わりにそこにあるのは、名前のつかない温度。何年もの時間を共有してきた者だけが発することを許される、重くて、温かくて、少し震えている声。
「貴女は本当に、長い間……ずっと、よく頑張ってくれましたね」
紫水晶の結晶が、朝の光を受けて淡く輝いている。目がないはずの先生の顔が、この瞬間だけは、確かに先輩の瞳を見つめているように思えた。
「改めて。氷川詩音様。本当に、ありがとうございました」
先輩は自分の手を見つめたまま、しばらく黙っていた。
開いた掌。閉じた指。もう一度開いて、光にかざす。何もない。あるはずのものが何もない。何年もそこにあった重さが、たこ焼きを食べていた時にはまだ確かにあった重さが消えている。
軽いのか、空っぽなのか。それは先輩自身にも分からないようだった。
「……ん」
先輩が出した声は、それだけだった。低くて掠れていて、普段と何も変わらないはずの一音なのに、どうしてこんなに胸が詰まるのだろう。
私は変身を解いた。黒い衣装が粒子になって、制服のブラウスとスカートに戻る。声が消えて大剣の重さが手から溶けていく。
先輩の前に立って、スマートフォンを取り出した。
画面を見せるより先に、涙がこぼれた。
ダメだ。泣いている場合ではない。先輩の方が辛いに決まっている。先輩の方がずっとたくさんのものを失ったのに、私が泣いてどうする。でも止まらなかった。
『先輩』
画面が涙で滲む。拭って、打ち直す。
『よかった』
送信する。送ってしまってから、なんて身勝手なことを言っているんだろうと思う。卒業したばかりの先輩に、置いていかれる側の不安をぶつけるなんて。
先輩は画面を読んで、それから私の顔を見た。泣いている顔を。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの、みっともない顔を。
「卒業、私が先にしちゃって、ごめんね」
『いいえ。いいえ。そんなこと』
「でも紫水を一人にするつもりはない」
先輩の声はいつも通り平坦で、感情表現も必要最低限の言葉遣いで。でもその奥に、今まで聞いたことのない種類の確かさがあった。
「作戦が必要なら一緒に考える。戦闘後の確認もする。紫水が帰ってきたら話聞く」
一つずつ、指折り数えるように。自分にできることを並べていく。
「私、お店は続けるから。もともとおじさんと決めてたことだし。魔法少女シオニクスがいなくなっても、氷川詩音はウェルブムのスタッフ。で、紫水の先輩」
先輩が、ほんの少しだけ首を傾けた。
「魔法少女は卒業した。でも、先輩まで卒業するつもりはないから」
私は袖で涙を拭った。拭っても拭っても出てくる。しつこい涙だ。完全には安心できない。戦場に先輩がいないことの重さは、これから嫌というほど知ることになるのだろう。
でも、先輩が消えるわけではない。ウェルブムに行けば、カウンター越しに先輩がいる。コーヒーを淹れてくれる。ホワイトボードに書けば読んでくれるし、タイミングが合えばまた、帰り道を一緒に歩いてくれるかもしれない。
それは戦友を失うこととは違う種類の、続いていく関係だった。
最後にもう一度、涙を拭いた。今度は止まるようにと願って。
◇
先輩がウェルブムの鍵を開ける。普通の手で、普通の鍵を。シオニクスの武器はもう出せないけれど、店の鍵は今まで通り持っているから。
がちゃり。ドアが開いて、かろん。ドアベルが鳴る。
椅子はまだ上がっていて、テーブルは拭かれていなくて、開店前の静けさが満ちている。
カウンターの奥にコーヒーミルがあって、壁にホワイトボードがかかっていて、その横に定型文のカードが並んでいる。全部、残っている。日常がここにはある。
先輩がカウンターの内側に回って、コーヒー豆の袋を棚から出した。ミルのスイッチを入れる。がりがりと豆が砕ける音が、静かな店内を塗り替えていく。日常の音に。仕事の音に。
私はカウンター席に座った。先輩がコーヒーを注いで、私の前に置いてくれる。いつもの動作。いつもの距離。何も変わっていない。コーヒーを淹れる手つきだって。先輩は自分のカップにも注いで、一口飲んだ。それからカウンターに肘をついて、私の方を見た。
「紫水」
名前を呼ばれて。
先輩の目が、まっすぐ私を見ている。無表情のまま。でもその奥に、昨日までとは少し違う光がある。力を失った後に残った光。重さがなくなった後に、それでもそこにある光。
「ありがとう」
短い言葉。先輩らしいな。それはコーヒーの湯気と一緒にカウンターを越えて、私の胸に届く。
「昨日の夜も。今日の朝も。全部見届けてくれて」
私はスマートフォンに打った。
『先輩こそ。ありがとうございました』
先輩が画面を読んで、小さく頷いた。それから少し間を置いて、自分のスマートフォンを取り出した。何かを検索しているようだ。なんだろう。
「紫水。夏の終わりに、自分の気持ちに決着つけるって言ってたよね」
心臓が跳ねた。
忘れていたわけではない。忘れられるわけがない。でも、今日だけは、先輩のことで頭がいっぱいで。先輩は画面をスクロールしながら言う。
「何を選べとも言わない。叶えろとも、諦めろとも。それは紫水が決めること」
先輩の声は淡々としている。感情的な助言ではなく、情報の提供をしようとしている。
「ただ、一つだけ」
画面を私の方に向けた。
夏のイベントのページ。赤レンガ倉庫周辺、みなとみらいエリア。屋台の写真、ステージの写真、そして海面に映る花火の写真。
「暗い部屋で一人きりになって全部終わらせるより。好きな人と楽しい時間を過ごして、自分が何を好きだったのか最後まで見てから決めた方がいい。と、私は思う」
先輩の声が、最後だけほんの少し柔らかくなった。不器用な助言。感情より先に実務的な注意を並べてしまう人が、最後の最後にやっと本音を差し出すような。
「花火上がるよ。人は多い。帰りの電車は混む。飲み物とかは先に買っといた方がいい」
実務的な注意が続いた後に。
「お姉さんと行ってきなよ」
私はスマートフォンの画面を見つめた。花火の写真。夏の夜のみなとみらい。海面に映る光の粒。並んで歩く人々の影。
ああ。お姉ちゃんと行きたい。
その気持ちが、胸の奥で痛いほど鳴っている。夏の終わりに手放すと決めた想いが、まだこんなにも強く脈打っている。
先輩の決着を、今日、見届けた。茉莉亜さんの姿をした存在と向き合って、自分の手で一度きりの夏を終わらせて、前に進んだ。大切な想いに自分で別れを告げたから、先輩は卒業できた。
先輩は茉莉亜さんへの想いを捨てたのだろうか。あの「大嫌い」の中に詰まっていた年月を、あの一晩で全部清算したのだろうか。枕の横に置かれたラベンダー色のパジャマは、まだあの部屋にある。洗面台のピンクの歯ブラシも。文字の薄れたマグカップも。
分からない。まだ、分からない。
でも私は、先輩と同じことをしなければならないと思った。自分の手で、自分の想いに、決着をつける。お姉ちゃんのトーク画面を開く。
『お姉ちゃん。夏の終わりに、お祭りがあるんだって。花火も上がるみたい。一緒に行かない?』
送信した。指が震えていない自分に驚く。
既読。三秒。
『行きたい!!!』
『いつ? どこ?』
感嘆符が三つ。お姉ちゃんのメッセージで感嘆符が三つ並ぶのは、本当に嬉しい時だ。ギャルで動揺した時は二つだったから、それを上回っている。
嬉しい。嬉しくて、苦しい。お姉ちゃんが喜んでくれることが嬉しくて、この時間がもうすぐ終わると分かっていることが苦しい。夏祭りに行って、花火を見て、お姉ちゃんの隣を歩いて。自分が何を好きだったのかを、最後まで目に焼きつけよう。
そして夏が終わったら。
私は、お姉ちゃんへの恋を。願いごとを、自分の手で終わらせる。
先輩と同じように。先輩がそうしたように。
私は卒業をする。