魔法少女アメシスタ、あるいは、星屑に懸けた片想いの話。 作:秩序
人生で初めて買った便箋。薄紫色の封筒には「お姉ちゃんへ」とだけ書いた。
中身は昨夜のうちに書き終えている。お姉ちゃんが寝静まった後、自分の部屋にこっそり戻って。シャープペンシルではなくボールペンで。消せない文字で書かなければ意味がないと思ったから。
お姉ちゃんが好きです。
妹としてだけではありません。
一人の女の子として、恋をしています。
いつからそうだったのか自分でも分からないくらい、ずっと前から。
呼吸みたいに当たり前にお姉ちゃんのことを想っています。
それが普通の姉妹の形じゃないと気づいた時にはもう手遅れでした。
お嫁さんになりたいと思っていました。
抱きしめられるたびに嬉しかった。誰にも取られたくないと思っていた。
ずっと隣にいたい。朝起きて最初に顔を見たい。
夜眠る時に最後の声を聞きたい。おはようとおやすみの間の全部を、あなたと過ごしたい。
こんな気持ちを抱いてごめんなさい。
でも、好きになったこと自体は後悔していません。
この手紙は渡しません。
これで最後にします。
今まで大好きでいさせてくれて、ありがとうございました。
……最後の一行を書いた時、ボールペンのインクが少し滲んだ。涙が落ちたのか、手汗が紙に移ったのか。どちらでも構わない。どうせ渡さない手紙なのだ。約束の今日、私はこの手紙を持ち歩く。お姉ちゃんの隣で、最後の夏の一日を過ごす。そして夜が終わったら、捨てる。
詩音先輩が言ってくれた。
好きな人と楽しい時間を過ごして、自分が何を好きだったのか最後まで見てから決めた方がいいと。だから今だけは、終わらせることを考えない。最後まで全部楽しんで全部を見届ける。お姉ちゃんの笑顔も、声も、手の温度も、全部。
私はただの妹に戻る。
◇
浴衣レンタルの店は、駅から歩いて数分のビルの二階にあった。
エレベーターを降りた瞬間、染料と糊の混じった独特の匂いが鼻に届く。
店内には浴衣が色別に並んでいて、淡い色から濃い色へ、古典柄から幾何学模様へ、グラデーションのように配置されている。女性客が多いけれど、カップルや家族連れの姿もちらほら見える。店員さんが忙しそうに予約の確認をしていて、夏のイベント当日の慌ただしさが空気に満ちていた。
お姉ちゃんに連れられて、私たちは予約時間の十分前に着いていた。当然のように。
それから予約番号、料金体系、返却時間、ヘアセットの内容、着崩れした場合の対応窓口まで、全部事前に確認済みだろう。お姉ちゃんの脳にはたぶん箇条書きで整理してある。
「紫水、好きな色ある? 先に見ておいで」
お姉ちゃんが受付の手続きを済ませている間に、私は浴衣の並ぶ棚の前に立った。
淡い桜色、深い藍、白地に金魚、黒地に椿。
どれも綺麗だけれど、自分に似合うかどうかは別の話で、鏡を見なければ判断できないし、鏡を見るのはあまり得意ではない。
店員さんが声をかけてくれた。
「お客様。お肌が白いので、淡い色も濃い色もどちらもお似合いになりますよ。瞳が紫色でいらっしゃるので、藤色も綺麗に映えると思います。髪色が柔らかいですから、くすみカラーもよく合いそうです」
目の色のことを褒められると、やっぱりどうしてもカラコンだと思われて嫌だった小学校の記憶が、一瞬だけ頭を掠める。でもお姉ちゃんだけはこの目を好きだと言ってくれた。だから嫌じゃない。
スタッフが数着の浴衣を棚から出してくれたところに、受付を終えたお姉ちゃんが合流した。
そこからが、もう本当に大変だった!
「店員さん。すみません。この子、顔色が悪く見えやすいんです。白地が多すぎると、少し寂しい印象になりませんか」
お姉ちゃんの声が、店員さんの横から割り込む。
「でも濃紺だと、髪まで暗く沈んで見えそうで……それは嫌なんです」
店員さんが見渡して、もう一着を出す。お姉ちゃんが首を傾げる。
「あーでも。帯に紫を入れた方が統一感が出ると思うんですけど。花柄は大きすぎない方が紫水には合う気がします。可愛いだけじゃなくて、少し落ち着いた感じにしたいんですが」
店員さんとお姉ちゃんが、私の前で真剣に議論を始めた。浴衣を当てては外し、帯の色を合わせては首を捻り、二人の間で布地が行き来する。私は試着室の前に立たされたまま、完全に置いてきぼりだった。じっとしてるわけにもいかなくなって、慌ててスマートフォンを取り出して見せる。
『お姉ちゃん、そんな本気で会議しなくていいよ!?』
画面を見せる。お姉ちゃんはちらりと読んで、すぐに浴衣の棚に視線を戻す。
『店員さん困ってるよ……?』
もう一度見せる。お姉ちゃんは読んで、首を横に振る。困っていないと判断しているらしい。実際、スタッフの方はお姉ちゃんの意見に頷きながら新しい組み合わせを提案していて、むしろ楽しそうに見える。
『私。どれでも大丈夫だから。ね?』
三度目。今度はお姉ちゃん、明確に振り返った。
「どれでもいいわけないでしょ」
真顔だった。完全に真顔で、浴衣選びに真剣で、妹の着る物に一切の妥協を許さない姉の顔。テスト前の予習をしている時と同じ目をしている。店員さんも笑っている。声を押し殺す種類の笑いではなく、自然な微笑みだった。
「いえいえ。いいんですよ。お姉さんがすごく妹さんのことをご存じなので、助かります」
お姉ちゃんが頷く。真顔のまま。
「毎日見ていますから」
心臓が跳ねた。何気ない一言。姉が妹を毎日見ている。それだけのこと。お姉ちゃんにとっては、私の顔色や体調や気分の変化を把握しているという、ただの事実の報告。
毎日見ている。その毎日の中に、私がいる。
これからも妹でいる限り、ずっと見てもらえるかもしれない。
だからこそ、この恋を終わらせるのだ。妹の場所を失いたくないから。毎日見てもらえる距離にいたいから。恋を捨てて姉妹に戻る。
結局、三十分近くかけて選ばれた私の浴衣は、薄い藤鼠色の地に白い撫子と小さな桔梗が散っているものだった。裾と袖に銀色の流水模様が細く入っていて、角度によって光の筋が走る。帯は深い葡萄色。帯締めに白銀の紐を通して、帯飾りには小さなアメジスト色の硝子玉が揺れている。
派手ではない。かといって地味でもないと思う。
紫色の目と薄い肌を、静かに引き立てるような色合わせ。お姉ちゃんとスタッフが三十分の議論の末に辿り着いた結論。
一方のお姉ちゃんの浴衣は深い紺青の地で、白と淡い水色の朝顔が肩から裾へ流れるように描かれている。帯は薄い灰青色で、帯締めにごく細い金の紐が一本。大人っぽくて、凛としていて、碧という人間そのもののような浴衣だった。
二人で並んでみる。鏡は苦手だけれど、試着室の前に立った時。少しだけ見えてしまった。
私が淡い夜明け前の紫で、お姉ちゃんが深い夏の夜空のように。
ヘアセットは一番高いプランをお姉ちゃんが予約時に決めていたらしい。編み込みとコテを使った本格的なアレンジ。普段は自分の見た目に必要以上のお金を使いたがらないお姉ちゃんが、今日だけは迷いなくそれを選んでいる。
椅子に座ると、ヘアアレンジ担当の人が私のチャコールグレーの髪に手を入れ始める。
緩いウェーブのかかった癖毛を丁寧に梳いて、左右から編み込んでいく。普段はお姉ちゃんがお風呂上がりにブラシを通してくれるけれど、プロの手つきはそれとは違って、速くて正確で、逆にそれが少し緊張する。
後頭部の低い位置で柔らかく纏められて、毛先を細く巻いた数束が肩へ流される。白い花と、紫色の硝子の髪飾りが差し込まれる。
美容師が前髪に手をかけた。
普段は目が半分隠れるくらい長い前髪。この長さがいい。前髪の向こう側にいると、少しだけ世界との間に距離ができて楽だから。
前髪を持ち上げようとする手に、身体が反応した。肩が強張って、首が微かに引ける。自分では制御できない、反射的な防御。前髪の奥にある紫色の目を晒すことへの根深い抵抗。
そこでお姉ちゃんが即座に口を開く。
「全部上げなくて大丈夫です。少し隠れるくらいには、残してください」
髪を触っていた手が止まって、柔らかく頷いたみたいだった。「分かりました」と短く答えて、片側だけ流す形に切り替えてくれた。紫色の目がいつもより少し多く見えるけれど、反対側には前髪が残っている。両目を一度に晒さなくていい。それだけで呼吸が一気に楽になった。
胸が熱くなった。こういうところが好きなのだ。大袈裟に心配するのではなく、私が不安にならない最小限の介入を、正確に、素早く、当たり前みたいにやってくれるところが。
今度はお姉ちゃんのヘアセットが仕上がるのを、少し離れたところで待つ。でも視線は釘付けだ。
肩甲骨までの黒髪が全体的に緩く巻かれて、両脇を編み込み、襟足の低い位置でシニヨンに纏められていく。細い後れ毛が耳元と首筋に残されて、銀と淡い青の簪が差し込まれた。
普段より首筋がはっきり見える。
あんまり食いつくように見てはいけない。見てはいけないのに、目が離せなかった。白い首筋の線。耳の後ろの産毛。長い睫毛が伏せた目の下に落とす影。浴衣の襟元から覗く鎖骨の影。
全部が美しくて、全部が愛おしくて、全部を焼きつけておきたかった。今日で最後だから。
この目でお姉ちゃんを「好きな人」として見られる最後の日だから。
「紫水?」
慌ててスマートフォンを構える。心臓がうるさい。顔が熱い。浴衣の襟元が首に張り付いている気がする。
『お姉ちゃん、すごくきれい』
画面を見せる手が少し震えてしまった。
『似合ってるよ』
お姉ちゃんの頬がほんの微かに色づいた。耳の先が赤くなっている。お姉ちゃんが照れている。あの冷静で理性的なお姉ちゃんを照れさせることに成功してしまった。
「ありがと。紫水もすごく可愛いよ」
可愛い。妹に向けた言葉。姉が妹の浴衣姿を見て可愛いねと褒める。それだけ。分かっている。分かっているのに嬉しい。この嬉しさを今日の終わりに手放すのだ。
鏡の中に、浴衣を着た姉妹が並んでいる。藤鼠色と紺青。淡い紫と深い紺。夜明け前と夏の夜空。誰が見ても仲の良い姉妹。それが今日一日、続く。それだけでいい。それだけで十分なのだと、自分に言い聞かせる。
店を出ると、更なる夏が待ち構えていた。
レンタル店のあるビルの自動ドアが開いた瞬間、空調で冷やされた肌に湿気がまとわりつく。アスファルトの照り返しが下駄の足裏から伝わってきて、日傘を差しても首筋が焼けそうだった。八月の横浜、午後四時。太陽はまだ容赦なく街を照らしている。
気付いたことだけど、浴衣姿は私たちだけではないものの、多数派でもなかった。
普段着の家族連れ、仕事帰りらしいシャツ姿の人。大きなカメラを首から下げた男性。折り畳み椅子やレジャーシートを小脇に抱えた大学生くらいのグループ。その中にちらほらと、色とりどりの浴衣が混じっている。
誘導看板があちこちに立っていて、交差点には交通整理の警備員がいる。街全体がイベントの気配を帯びていて、空気に祝祭の浮き足立ちが混じっていた。
お姉ちゃんの鞄には朝のうちに全部揃えたらしい装備が詰まっている。ペットボトルの飲み物、汗拭きシート、ウェットティッシュ、小型のレジャーシート、虫除けスプレー、モバイルバッテリー、絆創膏。私の分まで含めて、二人分。
「紫水、下駄で足痛くなったらすぐ言ってね」
お姉ちゃんが私の足元を確認しながら言う。私は頷く。まだ全然大丈夫だ。レンタルの下駄は鼻緒が柔らかくて、思ったより歩きやすいのだと知る。
「無理しないでね。途中で辛かったら休もう」
頷く。もう一回頷く。お姉ちゃんが納得するまで頷かないと、次の一歩が踏み出せない。
みなとみらいの大通りを、赤レンガ倉庫の方面へ歩く。
海風が時折ビルの隙間を吹き抜けてきて、浴衣の裾をふわりとさらっていく。お姉ちゃんの紺青の浴衣に描かれた朝顔の白い花弁が、風を受けて揺れるたびに、まるで本物の花が揺れているようで。
流石に人も増えてきた。
歩道の密度が変わっていく。ベビーカーを押す家族、手を繋いだカップル、浴衣の集団、外国語の飛び交う観光客。肩と肩がぶつかりそうな距離を、みんなが同じ方向に流れていく。
お姉ちゃんが手を差し出した。
「混んでんね。はぐれると困るから。手、繋ご」
その手を見て、一瞬だけ指が止まる。
この手を。今日の終わりに。恋愛的な意味で求めることを、やめるのだ。姉の手を握る妹として、これからはこの手に触れる。それだけの関係として。でも今は、まだ。
お姉ちゃんの指が私の指の間に滑り込んで、ぎゅっと握られる。少し汗ばんでいる。人混みと夏の暑さのせいだ。浴衣の袖と袖が触れ合って、藤鼠色と紺青がさらさらと擦れ合う音がする。
人波に押されるたびに、お姉ちゃんが私を自分の側へ引き寄せる。肩が触れるとそのまま腕が密着する。お姉ちゃんの体温が、浴衣の薄い生地を通して伝わってくる。
最後だから、この温度を覚えておこう。指の形と、握る強さと湿り気と。全部。
でも本当は分かっている。
最後じゃなくたって、この手を差し出されたら絶対に取った。明日も、明後日も、十年後だって。お姉ちゃんが手を差し出してくれる限り、私はその手を掴む。それは恋を捨てたところで変わりようがない。妹として繋ぐ手と、恋人として繋ぎたい手の違いなんて、握った感触からは区別がつかないのだから。
キッチンカーが並ぶ区画に辿り着いた。ケバブ、タコス、ロングポテト、クラフトソーセージ。
普通の夏祭りの屋台よりも少しお洒落で、その分値段も張る。メニューの看板を見上げていると、お姉ちゃんが財布を取り出した。
「今日は私が出すよ。せっかくだし」
私は自分の財布を巾着から出した。ウェルブムの給料が入った、小さな二つ折り。お姉ちゃんのお下がりではない、自分で選んで自分で買った財布だ。
『自分で払うよ』
画面を見せる。
『私もちゃんとお給料もらってるから』
お姉ちゃんの目が一瞬だけ見開かれた。驚き、というより、何か別の感情が混じった顔。妹が自分の稼ぎで食事代を出すと言い出したことへの、嬉しさと寂しさが入り混じったような、あの複雑な表情。以前もウェルブムのプリンの時に似たものを見た気がする。
「いや、でも。紫水の給料は紫水のために使いなよ」
『これが私のためだよ?』
指が勝手に動く。
『お姉ちゃんと食べたいものを、自分のお金で買いたいよ』
お姉ちゃんの眉が下がって、口元がきゅっと結ばれて、反論したいのに反論の材料が見つからない時の顔。申し訳ないが私はここで引き下がるわけにはいかない。
「そういう言い方されたら、止めづらいじゃん」
『おねがい』
「じゃあ……今日は紫水に甘える。次にどこか行く時、私が奢る」
次。
その一文字が、胸の真ん中を通り抜けていった。次がある。恋を捨てても姉妹としての「次」はあるのだ。次の外出も、次の食事も、もちろん次の夏も。お姉ちゃんの隣で過ごす時間は、これからも続いていくのは約束されているし、そこは疑うことじゃない。
そのことが嬉しくて。同時に、この幸福の形だけでは足りないと叫ぶ自分がまだ胸の奥にいることが苦しかった。
お姉ちゃんが笑う。私の好きな笑顔。
その後はケバブを半分ずつ分けあったり、たこ焼きを買ったりした。
たこ焼きの舟皿を受け取った瞬間、先輩の部屋で三人で焼いた不格好な丸い塊のことを思い出しかけて、意識して押し戻した。今日はお姉ちゃんとの一日だ。そんな逡巡のうちにお姉ちゃんがたこ焼きを一つ、そのまま口に放り込もうとするのを、私は全力で腕を掴んで止めた。
「大丈夫大丈夫、いけるって」
『いけないよ! ふーふーして!』
お姉ちゃんは言うことを聞かずに頬張って、案の定「あふっ」と目を白黒させた。
口の中で熱いたこ焼きを右へ左へ転がしながら、涙目で私を見る。笑ってしまった。声は出ないけれど、お腹の底から笑いが込み上げてきて、肩が震えた。お姉ちゃんもたこ焼きを必死で冷ましながら、目尻に浮かんだ涙をそのまま笑いに変えている。
この人を好きでいることを、どうやって終わらせるのだろう。
でも笑う。今日だけは全部楽しむと決めた。全部目に焼きつけると決めた。だから笑う。
◇
観覧エリアは赤レンガ倉庫とワールドポーターズの間に広がる芝生の一帯。
私たちが着いた時にはもう半分ほど埋まっていた。
有料エリアの方が海に近くて正面から花火が見えるらしいけれど、値段を調べた時に私が画面を見て全力で首を横に振ったので、無料エリアになった。有料席のチケット代で浴衣のレンタルがもう一着借りられる。
お姉ちゃんが小さなレジャーシートを芝生に敷く。二人分。肩が触れる距離でないと収まらないサイズ。座ると浴衣の裾が崩れそうになって、帯の位置を確認してから自分も腰を下ろす。
「帯、苦しくない?」
首を横に振る。
「足、痛くない?」
もう一度振る。
「ちゃんと水分取ってる?」
さすがに三連続は多い。心配し過ぎだよと、スマートフォンを出す。
『お姉ちゃんこそ大丈夫?』
画面を読んで、少し目を細めた。
「私は大丈夫。紫水が楽しそうだから」
楽しそう。私の顔を見てそう言う。毎日見ているからこそ、今日の私がいつもと違うことにも気づいているのだろう。いつもより少し目が開いていること、前髪の隙間からいつもより多く紫色の瞳が覗いていること、唇の端が上がっていること。全部、この人には見えている。
日が傾いていく。空の青が刻一刻と濃さを増して、西の方から橙色が滲んでくる。赤レンガ倉庫の煉瓦壁に照明が灯り始めて、遠くの観覧車がゆっくりと色を変えている。ビルの窓が一つ、また一つと白く光っていく。海の街が昼の顔から夜の顔へ移り変わる時間。
会場のBGMが切り替わった。軽いポップスから、落ち着いたクラシックへ。場内アナウンスが注意事項を読み上げている。通路の確保、喫煙は所定の場所で、お子様の迷子にご注意ください。協賛企業の名前が連なって、聞き慣れない社名が空気に溶けていく。
周囲の話し声が徐々に小さくなっていく。開始が近い。
指先が触れた。便箋の角。まだそこにある。
「何か気になる?」
首を横に振る。早く。自然に。
『花火楽しみ』
お姉ちゃんは「うん、楽しみだね」と返して、空を見上げた。
十、九、八。会場全体が声を揃え始める。七、六、五。お姉ちゃんは声を出さないけれど、唇が数字の形に動いている。四、三。私も心の中で数える。二、一。
暗い空へ、最初の一発が昇った。
白い光の柱が夜空を貫いて、頂点で弾ける。遅れて腹の底を叩く破裂音。衝撃波が芝生を揺らして、私の浴衣の裾をばたりと震わせた。
続けて金色と青の小さな花火が左右に展開する。華やかなオープニング曲が始まって、電子音と金管が混じり合うテンポの速い旋律に合わせて、短い花火が連続して夜空を叩く。
会場から歓声が上がる。どこかで子供が叫んでいる。スマートフォンの光が無数に持ち上がって、光の粒が地上にも散らばる。
最初の破裂音で、肩が震えた。反射的に。大きな音、突然の衝撃、予測できない方向からの刺激。身体が覚えている恐怖の回路が、一瞬だけ火を噴く。
お姉ちゃんの手が、すぐに私の手を握った。
「大丈夫?」
頷く。大丈夫。ここはあの家ではない。この音は怒声ではない。これは花火だ。誰かを傷つけるための音ではなく、誰かを笑顔にするための音。それでもなお、お姉ちゃんの手は離れなかった。私も離さなかった。繋いだまま空を見上げる。
ポップソングに切り替わって、ピンクや橙や緑の花火が音楽に合わせて次々と咲く。低い位置の演出は前の人の頭や建物の輪郭に遮られて見えないけれど、高く打ち上がった大玉は空いっぱいに広がって、視界の端から端まで色が走る。
スマートフォンを持ち上げー画面の中に花火を収めようとして、やめた。
画面越しではなく、自分の目で見たい。この紫色の瞳で。お姉ちゃんが好きだと言ってくれた、この目で最後まで。
また曲が変わった。
ピアノの旋律が、遠く、静かに流れてくる。音響は鮮明ではなくて、低音だけが芝生越しに身体の奥へ沁みてくる。連続の花火が止まって、間が生まれる。
今度は一発ずつ、青白い花火が高く昇る。光が頂点で開いて、銀色の尾を引きながらゆっくりと垂れ下がっていく。星が降ってくるような演出に思える。夜空から糸を垂らしたように、光の筋が長く長く伸びて、やがて闇に吸い込まれて消える。
気づけば私。花火ではなく、お姉ちゃんを見ていた。
花火の光がお姉ちゃんの横顔を照らしている。
青、白、紫、金。
色が変わるたびに頬の輪郭に違う影が落ちて、まるで何枚もの絵が重なって動いているように見えた。
お姉ちゃんは花火を見上げている。普段の冷静な表情ではなかった。目をいつもより少し大きく開いて、唇が微かに開いている。理性で全部を制御しているお姉ちゃんではなくて、ただ美しいものに驚いて、ただ光を追いかけている、一人の女の子の顔がそこにあった。
好き。
努力している横顔だけが好きなのではない。私を守ってくれる時の強い目だけが好きなのではない。妹を心配して眉を寄せる顔だけが好きなのでもない。
片桐碧が好きだ。
ただ花火を見ているだけの碧が好きだ。朝、寝起きで髪が乱れてる碧も好きだ。たこ焼きを口に入れて火傷して涙目になる碧も好きだ。ギャルという単語に過剰反応する碧も好きだ。浴衣選びで店員と真剣に議論する碧も好きだ。全部が好きで、どれか一つだけを選ぶことなんてできなくて、この感情を王子様への憧れだけで説明するのは、とっくの昔に無理だった。
お姉ちゃんが視線に気づいた。花火から目を離して、私の方を向く。
「ちょっと紫水、私じゃなくて花火見なよ」
慌てて視線を空へ戻す。銀色の花火が一つ、ちょうど開いたところだった。光の粒が夜空に散って、静かに落ちていく。
見てるよ。花火も。あなたも。全部。今日が最後だから、全部見ておきたいんだ私。この目に焼きつけて、明日からの日々を生きるための燃料にする。妹として生きていくための、最後の支えだから。
扇状に開く金色の花火。左右から交差する銀色の軌跡。巨大な菊花型が夜空の中央で展開して、その内側にもう一つ青い輪が浮かぶ。何層にも重なるスターマインが連続して放たれて、爆発音が個々の音を区別させないほどの轟音になる。煙が風に流される。花火の光が煙を赤に染め、金に変え、次の花火がまた別の色を塗り重ねていく。
魔物との戦闘で味わう衝撃とは違う。剣を振る時の手応えとは違う。あの紫色の光とは違う。これは誰も傷つけない光だ。誰かを笑顔にするためだけに打ち上げられた、途方もない量の光と音。
お姉ちゃんの手を握る力が強くなっていた。自分でも気づかないうち。
握り返してくる。同じくらいの力で。
最後は白と金。空を埋め尽くすほどの連続打ち上げ。破裂音が一つの轟音になって、地面と身体が震える。周囲から大きな歓声。子供の叫び。拍手が波のように広がる。
最後の花火が尾を引きながら消える。
光の残像がまぶたの裏にちらついて、目を開けた先には煙だけが夜空に漂っている。音楽も止まる。余韻の中で、会場のどこかから拍手がぽつりと始まって、それが波紋のように広がっていく。
数十分前まで確かにそこにあったものが、もうどこにもない。あれだけの光と音と熱が、夜空から跡形もなく消えている。残っているのは煙と、火薬の匂いと、それを見ていた記憶だけ。
花火が終わると、世界が急に現実に戻った。
周囲が一斉に動き出す。
レジャーシートを畳む音、立ち上がる際に膝を叩く音、帰路を確認するスマートフォンの画面の光。さっきまで空を見上げていた顔が一斉に地上へ戻って、通路の方向を確かめ始める。子供を抱き上げる父親、撮影した動画をさっそく再生し始めるグループ、混雑を見越してまだ座ったままの年配の夫婦。スタッフが通路確保を呼びかける声がスピーカーから繰り返されている。
お姉ちゃんは急いでは立ち上がらなかった。
「少し待とう。今動くと混むから」
頷いた。焦らない。判断が冷静で、でもそれは冷たさではなくて、二人のための最善をいつも考えてくれている。人波がある程度はけるまで、芝生の上で二人だけの時間がもう少しだけ続く。
煙の向こうに、普通の夜空が戻っていた。さっきまで何百発もの光が咲いていた空間に、今は何もない。星が見えるかと思ったけれど、みなとみらいの街の明かりが強すぎて、夜空は灰色がかった黒のまま。花火の残り香が、潮風に乗って鼻先を掠めていく。
「すごかったね」
花火の余韻を含んでいた。
いつもの理知的なトーンではなく、まだ少し高揚が残っている声。
『うん。お姉ちゃんと見られてよかった』
画面を向けると、お姉ちゃんはそれを読んで、ほんの一拍だけ間を置いた。
「私も。誘ってくれてありがとう。紫水、大好き」
胸が痛い。物理的に、ぎゅっと絞られている。
嬉しさの中に、もうすぐ手放さなければならない熱が溶けている。手紙を捨てたくない。底にある手紙を取り出して、今ここで渡してしまいたい。「お姉ちゃんへ」と書かれた封筒を差し出して、中身を読んでもらって、「好きです」と。声は出なくても、文字にしたから。全部書いたから。受け取ってくれるかどうかは別にして、少なくとも届けることはできる。
お姉ちゃんはどんな顔をするだろう。驚くだろうか。困るだろうか。あの夜、「お嫁さん」と画面に打った時みたいに、目をまんまるにして固まるだろうか。それとも、もう少し深い場所の表情を見せてくれるだろうか。
詩音先輩は、大切な想いに自分の手で別れを告げたから前に進めた。茉莉亜さんへの未練を断ち切ったから、願いと現実の落差が消えて卒業できた。私も同じようにしなければならない。
お姉ちゃんへの恋心を手放す。手紙を捨てる。そうすれば私の中の落差も消えて、いつか卒業できる日が来るかもしれない。先輩と同じように。
進まなければ。
◇
レジャーシートを小さく畳んで鞄にしまった。飲みかけのペットボトルの蓋を確認して、巾着の紐を締め直す。帰り支度。さっきまで花火を見上げていたお姉ちゃんの横顔に、もう既に日常の表情が戻りつつある。
こっそり、私は巾着の中に手を入れた。
封筒の角が、指先に触れる。角の尖った感触。便箋の厚み。昨夜、ボールペンで書いた文字の重さが、紙を通して指先に伝わってくるような気がする。
一度だけ、封筒を取り出しかけた。巾着の口から白い角がほんの数ミリだけ覗いて、「お姉ちゃんへ」の「お」の字の上半分が、街灯の光を受けて見えた。
すぐに中へ押し戻す。お姉ちゃんへスマートフォンの画面を向ける。
『ちょっと捨てるものあるから、待ってて』
画面を読んで、私の顔を見た。
「うん。人多いから、あんまり遠く行かないでよー?」
仮設のゴミ回収所は、芝生エリアの出口付近に設置されていた。
分別用の表示が貼られた大きなゴミ箱が四つ並んでいる。燃えるゴミ、ペットボトル、缶、ビン。イベント終了直後の燃えるゴミの箱は、もう縁のあたりまで溢れかけていて、次から次へと人が立ち寄っては紙皿やカップを押し込んでいく。
甘い匂い、油、肉、ソース、汗、湿った紙の匂い。
花火の美しい余韻とは似ても似つかない、祭りの後始末の匂い。
巾着から手紙を取り出した。
白い封筒。表に書かれた文字。「お姉ちゃんへ」。
手紙の中身が頭の中で再生される。昨夜、一文字ずつボールペンで書いた言葉たち。消せないインクで、消す必要がないように。
お姉ちゃんが好きです。
妹としてだけではありません。
一人の女の子として、恋をしています。
……
今まで大好きでいさせてくれて、ありがとうございました。
破ることはできなかった。便箋を引き裂くことは、あの言葉そのものを裂くことで、自分の胸を自分で切り開くことで、それだけは怖くてできない。だから、くしゃくしゃに丸めた。
両手で封筒を握る。
残念ながら一度では小さくならない。もう一度握って紙が軋む。爪が封筒の表面に食い込んで、「お姉ちゃんへ」の文字が折れ目の中に沈んでいく。便箋が中で折れ曲がる感触が、掌を通して伝わってくる。くしゃくしゃに。ぐしゃぐしゃに。折り込んで折り込んで丸めて丸めて固めて固めていく。
そしてそれをもう一度。
紙の塊になった。
角も文字も見えない、ただの白い球。中にはまだ、あの言葉が全部残っている。くしゃくしゃにしたところで、インクは消えない。でも形がなくなれば、手紙ではなくなる。手紙でなくなれば、これはゴミだ。捨てることができるものだ。世間一般的に見ても捨てることができる分類のものになった。
燃えるゴミの箱へと投げた。
手紙は放物線を描いて飛んで、ゴミ箱の縁に当たった。こつん、と小さな音。紙の塊はシワの部分が縁に引っかかってしまって、内側にも外側にも落ちずに止まった。
ああ、手を伸ばせばまだ届く、拾える。広げれば文字はまだ読める。もう一度巾着に入れて持ち帰ることもできる。何事もなかったことにすることもできる。今日じゃなくたっていい、またいつかの日に覚悟を決め直して捨てることだってできるはずだ。
次の瞬間、隣に立った誰かが紙皿を投げ入れた。
ソースの残った茶色い紙皿が、手紙の紙の塊の上に重なる。ソースが封筒の表面に触れて、茶色い染みが一つ、広がった。紙皿の重さで手紙がずれる。縁から内側へ傾いて、そのままゆっくりと沈んでいく。ケバブの油が染みた包み紙と、たこ焼きの舟皿と、マヨネーズのついた割り箸の隙間に挟まれて。白い紙の塊が、祭りの残骸の中へ消えていく。
ケバブの包み紙から染み出した油が、隣の紙ナプキンに茶色い輪を広げている。タコスのソースがこびりついた紙トレーと、焼きそばの汁が底に溜まった透明容器とか。たこ焼きの舟皿に残ったソースとマヨネーズに、丸められた紙ナプキンも。飲み残しのカップから垂れた液体が、ゴミ箱の側面を伝って地面に小さな水溜りを作っている。
見えなくなった。
立ち尽くしていた。ゴミ箱の前で。両手は体の横に下がったまま、指先からは封筒の角の感触が抜け落ちて、代わりに何もない空気だけが掌を撫でている。
◇
お姉ちゃんは同じ場所に立っていた。帰り始める人波がその周りを流れていく中で、動かずに待っている。私の姿を見つけると少しだけ首を傾けた。
「どうしたの。ゴミ、そんなに沢山あった?」
浴衣に映える綺麗に結われた黒髪。簪の銀色が街灯の光を返している。花火の余韻がまだ瞳の奥に淡く残っていて、藍色の目がいつもより少しだけ柔らかい。
世界で一番好きな人はずっとそこにいる。
『ううん。もうないよ』
お姉ちゃんの目が画面を読む。もう捨てるゴミはない。それだけの意味で受け取って、「そっか」と小さく頷く。疑わない。当然だ。
「じゃあ帰ろっか! ああ、楽しかったぁ」
お姉ちゃんは手を差し出す。自然に。
当然のように。はぐれると困るからって理由で妹の手を繋ぐ姉の、いつもの動作だ。
お姉ちゃんの指が私の指の間に入って握られる。汗ばんでいる、さっきまでと同じ手。一時間前も、二時間前も、今日の最初に繋いだ時も、この温度と湿度は変わっていない。
恋を捨ててもこの手は残る。妹である限り、お姉ちゃんは手を差し出し続けてくれる。
帰りの動線は混雑していた。
駅へ向かう人の流れに乗って、歩道が一方通行のように規制されている。スタッフの誘導。横断歩道での入場規制。なかなか進まない列。下駄で歩き疲れた人が列の端で足を揉んでいる。浴衣の帯が崩れかけている人。眠った子供を抱いた父親。花火の動画をスマートフォンで見返しながら歩く人、屋台の匂いが服にも髪にも染みついていて、人波全体が油とソースと潮と火薬の残り香を纏って流れている。
「足、痛くない?」
今日何度目だろう。五回か六回か。そのたびに心配されて、そのたびに嬉しい。
『ちょっとだけ』
正直に答えた。
お姉ちゃんが歩幅をさらに小さくする。私に合わせて。半歩ずつ、半歩ずつ、人の流れより少しだけ遅く。私のためのペース、私のための時間。
恋を捨てたとしても、お姉ちゃんは優しいまま歩幅を合わせてくれる。足が痛くないかと何度でも聞いてくれる。恋を捨てたことで失われるものなんて何もないのだ。元から私の手の中にはなかったのだから。片桐碧という女の子の恋人の座は、最初から私のものではなかっただけ。
『ねぇ、本当に?』
風の温度が変わった気がした。
八月の蒸し暑さの中に、ほんの一瞬だけ、乾いた涼しさが混じる。
秋の予兆。
夏が、終わっていくんだ。