魔法少女アメシスタ、あるいは、星屑に懸けた片想いの話。 作:秩序
朝の六時に目が覚める。目覚ましが鳴るほんの少し前。体が勝手にこの時間を覚えてしまった。
二度寝をする気にもならないので、布団の中で、しばらく天井を見つめる。おじいちゃんの家の天井は木目がむき出しで、節のところが目玉みたいに見える。
越してきた最初の夜、この目玉が怖くて眠れなかった。今はもう平気だ。慣れた。目玉は目玉のまま、何もしないでそこにいる。「見守ってくれてるんだよ」と、お姉ちゃんが言ってくれた。
体を起こすと、左の肋骨のあたりが引きつるように痛んだ。古い痛みだ。
もうとっくに治っているはずなのに、寝起きだけはまだ体が覚えている。骨にひびが入っていたのか、それとも打撲の痕が筋肉に残っているのか、正確なところは分からない。病院には行けなかったから。あの頃は。
パジャマの裾をめくって、左の脇腹に目をやる。うっすらと変色した皮膚。
後で包帯を上から巻くところ。
もう必要ないのかもしれないけれど、何も巻いていないと気になるから、惰性で続けている。
右の前腕にも同じように一巻き。こちらは火傷の痕がまだ少し光沢を帯びていて、むき出しにしておくとお姉ちゃんが黙ってしまうから、隠している。お姉ちゃんが黙る時の横顔を、私は見たくない。あの目に浮かぶのが怒りなのか悲しみなのか罪悪感なのか、確かめるのが怖いから。
立ち上がって、部屋の隅にある姿見の前に行く。行かなきゃいけない。身だしなみを整えるには鏡が要る。分かっている。分かっているけれど、毎朝この三歩が少しだけ重い。
鏡に映る自分を見る。
160cm。数字だけ聞けば平均的なはずなのに、華奢を通り越して骨っぽい体が私を頼りなく見せている。鎖骨が浮いている。手首が細い。
お姉ちゃんは最近ようやくちゃんとご飯を食べるようになったねと言ってくれたけれど、それでもまだ、薄い生地の服を着ると肩のラインが布に負けている気がする。ハンガーに服をかけているみたいだ。要するに中身が足りない。
チャコールグレーの髪が、肩を越えて、胸元のあたりまで伸びている。黒に限りなく近い灰色。
日の光に透かすとようやく色味が分かるくらいの、曖昧な色だ。地毛がこの色なのは、たぶん色素が薄いせいだと思う。肌もそうだ。白いと言えば聞こえはいいけれど、血色がないだけのような気もする。青白い、の方が正確かもしれない。手の甲に静脈が透けて見えるのが、自分ではあまり好きではなかった。なんだかムズムズするような気がして。
髪には緩くウェーブがかかっている。そういう癖毛だ。放っておくと絡まって鳥の巣みたいになるから、お姉ちゃんがいつも、お風呂上がりにブラシを通してくれる。
毛先のダメージが気になると言って、何やらお高いらしいトリートメントもしてくれる。あの時間が好きだ。背中越しにお姉ちゃんの体温を感じたり、頭皮にブラシの歯が触れる感覚がゆっくりと伝わってきて、いつも少し眠くなる。
今日も前髪は長い。目が半分は隠れるくらい長い。お姉ちゃんは切ろうかと聞いてくれるけれど、私はいつも首を横に振る。この長さがいい。前髪の向こう側にいると、少しだけ世界との間に距離ができて楽だから。
でも、朝の支度の時だけは前髪をヘアピンで留める。顔を洗う時に濡れるし、料理をする時に邪魔になるから、実用上の理由だ。それ以外に理由はない。
前髪を持ち上げて、ぱちん、と留めた。
鏡の中で、紫色の瞳がこちらを見ている。
虹彩が紫色なのも、色素が薄いせいだ。理屈は知っている。メラニン色素の量が少ないと、光の散乱で青や紫に見えることがある。極めて珍しいらしい。小学校の頃はカラコンだと思われて嫌だった。中学校の頃はどうだったか。ああ、中学校には、ほとんど行けていなかったから、何も思われなかった。
お姉ちゃんは、この目のことを好きだと言った。
お姉ちゃんだけが言ってくれた。
いつだったか、ずっと幼い頃の思い出だ。お風呂上がりに髪を乾かしてもらっている時に、ふとお姉ちゃんがドライヤーを止めて、私の顔を覗き込んできた。何事かと身構えたら、「紫水の目、やっぱりきれいだね」と言って、何事もなかったようにまたドライヤーのスイッチを入れた。
あの時、耳が熱くなった。ドライヤーの熱のせいだと自分に言い聞かせて、飲み込んだ熱だ。
紫色の目。お姉ちゃんが好きだと言ってくれた、唯一のパーツ。鏡を見るのは嫌いだけれど、前髪を上げてこの目が見える瞬間だけは、ほんの少しだけ、自分をましだと思える。ましという言葉すらおこがましいかもしれないけれど、少なくとも嫌いじゃないと思うことくらいは、許してほしい。
でも、やっぱり長くは見ていられなかった。
ヘアピンはそのままに、鏡から目を逸らす。
パジャマを脱ぐ。鏡は見ない。手探りで今日着る服を選ぶ。
お姉ちゃんのお下がりの白いブラウスと、裾が少し長めのカーディガン。前腕の包帯を隠せる袖丈のものを、無意識に選んでしまう癖がついている。ボトムスは紺色のロングスカート。これもお姉ちゃんが選んでくれたもので、ウエストを紐で絞るタイプだから、多少痩せていてもずり落ちない。ありがたい。
身だしなみはこれで終わり。化粧はしない。今日はどこにも出かける予定はないから。
私の通っている通信制高校の、スクーリングの日であったり。お姉ちゃんと一緒に出かける日であったり。そういう時は教わりながらお化粧もちゃんとする。特に後者は大事だ。ただの買い出しでも、遊びでも、私の中ではデートという括りに入っている時間だから。
このデートというのは、勝手に私が定義しているだけなので、間違っても本人には知られてはいけない。優しいお姉ちゃんはドン引きなんてしないだろうけれど、でも恥ずかしいから。
廊下に出ると、おじいちゃんの部屋はもう空だった。布団がきちんと畳まれている。
おじいちゃんは朝が早い。六時前には家を出て、駅前に金物屋を開いている。ひいおじいちゃんの代から続く小さな店で、近所の工務店や、昔馴染みのお客さんが日用品を買いに来る。
大きな商売ではないけれど、開店から閉店までおじいちゃんは一人で店に立つ。七十二歳の足腰でそれをこなすのだから、頑丈な人だと思う。
重い力仕事もあるはずだ。ネジや釘の箱はそうでもないけれど、工具やバケツや、脚立なんかは結構な重さになる。手伝おうかと画面に打ったことがあるけれど、「いい」とだけ返された。おじいちゃんの「いい」には、いくつかの意味がある。この時の「いい」は、お前は気にするなという意味だと、なんとなく分かった。
階段を降りて、台所に入る。六時十五分。
お姉ちゃんが起きてくるまで、あと十五分ある。窓の外はもう明るい。四月の朝の光が、向かいの家の屋根瓦を白く照らしている。狭い路地の向こうに、かすかに海の匂いが混じっているような気がするのは、たぶん気のせいではない。海が近い。
私たち姉妹が新しく生活を始めたこの街は、海が近い街なのだ。
◇
手を洗って、エプロンをかける。おじいちゃんが昔おばあちゃんに買ったものらしい、花柄の古いエプロン。腰紐を二回巻かないと余ってしまうくらい私のウエストは細いけれど、使い込まれて柔らかくなった布の手触りが気に入っている。
冷蔵庫を開ける。卵のパック、豆腐、わかめ、味噌。昨日の残りの小松菜がタッパーに入っている。
まな板を出して、豆腐をさいの目に切る。
包丁を握ると、毎回少しだけ指先が強張る。慣れたはずなのに、刃物を持つという行為そのものに体が反応してしまう。一秒、二秒。深呼吸をひとつ。大丈夫。これはご飯を作るための包丁だ。誰かを傷つけるためのものじゃない。
呼吸が落ち着いてから、豆腐を切り始めた。
「……」
もしも人生が物語なら、私の人生はもう執筆が終わっている。
起承転結の「結」まで済んで、あとはエピローグの余白だけが残されている。そういう種類の人生だと思う。十六年足らずのうち、物語と呼べる部分は既に閉じてしまった。だからこれは後日譚であり、蛇足であり、おまけの日々だ。
それで構わない。おまけには、おまけの幸福がある。
あの場所のことを、両親と共に暮らしていた本当の家のことを、できるだけ具体的には思い出さないようにしている。
思い出す必要もない。固く閉じたドアの向こう側から降ってくる怒声、部屋中に染みついた煙草の匂い、物置の隅で膝を抱えて朝が来るのを待つ夜、そういったものを一つ一つ丁寧に拾い集める趣味は、私にはない。漠然とした輪郭だけで十分だ。
あそこは地獄だった。それ以上の描写は要らない。
大事なのは、その地獄に王子様がいたということだ。
王子様は私の手を引いてくれた。私を庇って流れた血を気にもせず、廊下を走って、玄関を蹴り開けて、振り返りもしないで走った。つないだ手が汗で滑りそうになるたびに、王子様は握り直してくれた。何度でも。何度でも。息が切れても、足がもつれても、私の手だけは絶対に離さなかった。
その王子様の名前を、碧という。
私の、たった一人のお姉ちゃん。
あの地獄の中でだけ、私はお姉ちゃんのお姫様だった。
守られて、手を引かれて、連れ出されるだけのお姫様。自分の足では何もできなくて、泣くことしか知らなくて、ただお姉ちゃんの背中にしがみついていた。あの時のお姉ちゃんの背中は細くて、それでも私にはこの世で一番頼もしいものだった。
物語として見れば、あれは完璧な筋書きだったと思う。地獄があって、囚われのお姫様がいて、王子様が現れて、二人で脱出する。
ハッピーエンド。
めでたしめでたし。
だから私の物語は、あの瞬間に完結した。あとはただ、幸せなおまけが続いているだけ。
そんなことは、もちろん顔には出さない。
台所に立って、卵を割る。殻がボウルの中に落ちたので、箸の先で丁寧に拾い出す。こういう細かいところでいつも失敗する。お姉ちゃんだったらもっと上手に割れるのに。
砂糖を大さじ一杯と少し。お姉ちゃんは甘い卵焼きが好きだ。ここ最近はとくにそうで、砂糖を控えめにした日は箸が少しだけ遅くなるから分かる。口では何も言わないけれど、食べる速度が正直すぎるのだ。
卵液をフライパンに流して、薄く広げる。じゅう、という音。換気扇の回る音。冷蔵庫のかすかな唸り。この家の朝は静かだ。あの家とは違う。怒声もなければ物が割れる音もない。あるのはただ、古い日本家屋がときどき思い出したように軋む音と、庭の方から聞こえてくる雀の声だけ。
お味噌汁はわかめと豆腐。お鍋の中をかき混ぜながら、ちらと壁の時計を見る。
お姉ちゃんが降りてくるまであと十分くらい。目覚ましはかけているけれど、いつも鳴る前に自力で起きてくる。几帳面な人だと思う。そういうところも好きだ。
二階の方で、床が軋む音がした。ああ、起きた。足音の間隔で、まだ少し眠たいんだなと分かる。
覚醒している時の足音はもっとてきぱきしている。寝起きのお姉ちゃんの足音は、少しだけ間延びして、ぺた、ぺた、と素足が廊下を叩く音がゆっくり近づいてくる。
階段を降りてくる。私は火を止めて、卵焼きを皿に移す。断面がちょっと歪だけれど、味には影響ないはず。台所の入口に目をやると、お姉ちゃんが現れた。
碧。片桐碧。十七歳。私より二つ上の、高校二年生。
真っ直ぐな黒髪が肩甲骨のあたりまで流れていて、それが寝起きだからか少しだけ右側に偏っている。前髪は眉の下で揃えられていて、その奥にある切れ長の目がまだ半分くらい閉じかかっていた。
制服は着ているけれど、ネクタイがまだ結ばれていなくて、シャツの襟元はだらんと開いている。背は私より少し高くて、165cm。華奢だけれど姿勢がいいから、実際よりも背が高く見える人だ。
お姉ちゃんは台所に入ってくると、テーブルの上に並んだ朝ごはんを見て、それからこちらを見た。
「ん……おはよ、紫水」
少しかすれた寝起きの声。ほんの少しだけ唇の端が上がっている。
私はスマホを持ち上げた。画面にはもう打ってある。準備万端だ。
『おはようございます、お姉ちゃん』
お姉ちゃんは画面をちらっと読んで、小さく頷いた。この一連の所作にも、もうすっかり馴染んでいる。最初の頃はお姉ちゃんもぎこちなかったけれど、今では私がスマホを掲げるタイミングと、お姉ちゃんが画面に目をやるタイミングがぴたりと合う。呼吸みたいに自然なやりとりになった。
お姉ちゃんが椅子に座る。私も向かい側に座る。
いただきます、とお姉ちゃんが手を合わせて、私も同じようにする。声は出ないけれど、唇だけは動かす。お姉ちゃんがそれを見て、微かに笑った。
卵焼きを一切れ口に入れたお姉ちゃんの箸が、今日はちゃんと速い。よかった、砂糖の量は正解だ。こっそり安堵しながら自分のご飯にも箸をつける。
お姉ちゃんが通っている高校は、ここから電車で四十分ほどの場所にある。
実家にいた頃と同じ学校だ。引っ越してからも転校せず、時間をかけて通い続けている。
最初は周囲の大人たちも心配したらしいけれど、お姉ちゃんは一度も揺るがなかった。友達がいるから、と一言だけ言って、毎朝四十分の電車に乗る。往復で一時間二十分。その間に単語帳を開いているのを知っている。一度、電車の席に置き忘れたとショックを受けていることがあったから。
私の方は通信制高校に通うことになった。
おじいちゃんの家に越してきたタイミングがちょうど年度替わりに近かったから、新しい学校を一から選ぶことができた。全日制に通うことも選択肢としてはあったけれど、正直に言えば、あまり現実的ではなかった。
声が出ない。それだけで学校生活の大半に支障が出る。先生に当てられても答えられない。グループワークで意見が言えない。友達との雑談にも入れない。筆談やアプリで補えなくはないけれど、それを毎日、毎時間、何ヶ月も続けることを考えると気が遠くなった。
通信制なら自分のペースで進められる。レポートを書いて提出して、月に数回のスクーリングに出席すれば単位がもらえる。スクーリングの日はさすがに少し緊張するけれど、あの教室は不思議と居心地が悪くなかった。色々な事情を抱えた人が来る場所だから、声が出ない子が一人いたところで、誰もいちいち気にしない。
だから私の朝は、基本的にほとんどは、お姉ちゃんを送り出すところから始まる。
食器を洗い終えて、お姉ちゃんが洗面所で髪を整えている間に、玄関に靴を揃えておく。
お姉ちゃんのローファーは左の踵がほんの少し擦り減っている。そろそろ新しいのを買った方がいいんじゃないかと、先週メッセージで伝えたら、『まだまだいけるよ』と返ってきた。お姉ちゃんは自分のものにはお金を使いたがらない。そういうところ、昔から変わらない。
洗面所からお姉ちゃんが出てきた。髪はきれいに整えられて、ハーフアップに編み込んである。寝起きの顔とはまるで別人だ。背筋が伸びて、目がしっかり開いて、碧という人間が完成する。私はこの変化を見届けるのが好きだった。私だけのお姉ちゃんが皆の知るお姉ちゃんになっていく過程を、私だけが知っている。
「行ってきまーす、早く帰ってくるからね」
玄関でお姉ちゃんが言う。
私はスマホを掲げる。
『いってらっしゃい』
『もっと友達とかと寄り道したり、遊んできていいのに』
「いーや、しばらくは早く帰ってくるよ。紫水のこと心配だから」
お姉ちゃんはドアを開ける。
春特有のぼんやりとした、眠気を誘う朝の光が廊下に差し込んで、逆光の中でお姉ちゃんの輪郭が一瞬だけ白く光った。
ドアが閉まる。足音が遠ざかっていく。砂利道を歩く音が、角を曲がったあたりで聞こえなくなる。
静かになった玄関で、私はしばらくそのまま立っていた。スマホの画面には、さっき送ったメッセージ達がまだ表示されている。その下の入力欄に打ち込む。送信はしない。
『だいすき』
読み返して、消した。
物語は終わった。私はそれでいい。
おまけの日々がこうして穏やかに続いていること、朝ごはんを作れる台所があること、お姉ちゃんの寝起きの顔を見られること、「行ってきます」と「いってらっしゃい」が交わせること。おじいちゃんが何も聞かずに私たちを置いてくれていること。
そのすべてに、心の底から感謝している。頭が上がらないなんて言葉では足りないくらい、ありがたいと思っている。帰ってきたおじいちゃんにお茶を出すとき、ありがとうございますと画面に打つとき、おじいちゃんは「ん」とだけ言って茶を啜る。多くを語らないところも、お姉ちゃんに少し似ている。血は繋がっているんだなと思う。
台所に戻って、お茶を急須に用意して、湯呑みを添えておく。あとは今日のレポートに取りかかるだけだ。課題の封筒をテーブルに広げて、シャープペンを持つ。
静かな朝だ。雀が鳴いている。冷蔵庫が低く唸っている。窓の外では四月の光が庭木の若葉を透かしている。
私の人生の物語は、もう終わっている。
でもこのおまけの日々を、私はとても大切にしている。
◇
お姉ちゃんが帰ってくるまでの時間は、長い。
レポートを片付けて、掃除機をかけて、洗濯物を取り込んで畳んで、おじいちゃんの夕飯の下ごしらえまで済ませると、もうすることがなくなる。
通信制高校の課題は自分のペースで進められるのが利点だけれど、裏を返せば、終わらせてしまえばその分だけ空白の時間が生まれる。
居間の座布団に座って、ちゃぶ台の上にスマホを置く。通知欄は空のまま。お姉ちゃんからのメッセージは来ていない。授業中だから当然だ。分かっている。分かっているのに、三十分に一度くらいの頻度で画面を確認してしまう自分がいる。
きっとこれは依存と呼ばれる感情なんだろうな。
この言葉を、私は自分に対して正確に使っている自覚があった。お姉ちゃんの存在に依存している。お姉ちゃんの声に、笑顔に、「おはよう」と「おやすみ」に、あの手の温度に。それがなくなったら、生きていく理由の大部分が消えてしまうだろうという予感はある。
それが健全ではないことくらい、分かっている。
カウンセラーの先生にも言われた。お姉ちゃんが探してくれた場所、月に一度通っている心療内科で、穏やかな声の女性のカウンセラーが、
「紫水さんにとって、お姉さん以外の安心できる場所も少しずつ見つけていけるといいですね」
と言った。
画面に『はい』と打って見せた。正しい助言だと思った。
だけど心の中で、別の声がした。要らない、と。お姉ちゃんがいれば他に何も要らない。
お姉ちゃんのことが好きだ。
姉として。家族として。王子様として。片桐紫水という人間の中を、お姉ちゃんでいっぱいのままにしておきたい。私が死んで、メスでお腹を開いたその時、そこにお姉ちゃんが詰まっていて欲しい。
この気持ちがいつから芽生えたのかは、自分でもよく分からない。気がついた時にはもうそうだった。呼吸みたいに当たり前にお姉ちゃんのことを想っていて、それが普通の姉妹の形じゃないと理解した時にはもう手遅れだった。
あの家にいた頃、暗い物置の中で、お姉ちゃんが助けに来てくれるのを待つ夜が何度もあった。
そのたびに、お姉ちゃんの手の感触を思い出して、胸の奥が熱くなった。安心とは少し違う何か。もっと切実で、もっと苦しい何か。
お姉ちゃんは私を命がけで守ってくれた人だ。あの地獄から二人で逃げ出して、今こうして穏やかに暮らせているのは、全部お姉ちゃんのおかげだ。その恩人に対して、妹が抱いていい感情の範囲をとっくに越えてしまっている。
分かっている。分かっていて、やめられない。
だから、せめて。
この気持ちは絶対に悟られてはいけない。お姉ちゃんの前ではいい妹でいなければいけない。手のかからない、心配をかけない、感謝を忘れない、まともな妹。お姉ちゃんが安心して友達と遊びに行けるような、お姉ちゃんの人生の足枷にならないような、そういう妹。
それなのに。お姉ちゃんが「早く帰ってくる」と言った時、嬉しいと思ってしまった。
友達と遊んできていいのにと打ったのは本心だ。本心だけれど、本心の下にもうひとつ本心がある。帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。この家に、この台所に、私の目の届くところに。
ずっと。
スマホの画面が、通知の光で白く灯った。
『今日のお昼、購買のメロンパンにした。紫水は何食べた?』
お姉ちゃんからだ。そうだ、昼休みに入る時間だ。たったそれだけのメッセージに、心臓が跳ねる。
みっともない。みっともないけど、指が勝手に動いている。
『昨日の残りの小松菜でパスタを作りました』
『えらいね、流石じゃん、写真撮ってないの?』
『撮るの忘れちゃった』
『えー残念』
「……あぁ」
声にならない声が漏れてしまう。私は、あなたの妹は、こんなにもあなたに夢中なんです。
だいすき。その四文字は、送信しない限り、どこにも届かない。
どこにも届かない言葉は、存在しないのと同じだ。
誰が何と言おうと、同じなのだ。