魔法少女アメシスタ、あるいは、星屑に懸けた片想いの話。   作:秩序

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【第4話】いまからかえります

 ガラスの破片のように砕けて散って消えていく黄昏の空を左手で払い、私は眼前の影に向かう。

 私を獲物ではなく、宿敵であると猫は認識をしたみたいだった。影が持ち上がり、波を打つようにうねり蠢く巨大な体躯で私を睨む。既に瞳は一対ではなく、不規則に大小が並び、全てが私に敵意を見ている。

 

『とりあえず、一人で試しにやってみてください』

 

『危ないようならこちらの判断で助けますので』

 

 二つ鳴り響いた通知音を、私はロック画面のまま確認をして、閉じた。

 この胸の高鳴りはなんだろう、正体を掴めずにいる私にとって、もはや全ての情報は邪魔にさえ感じられた。つまるところ、どうでもよかった。黒猫の化け物も、宝石の紳士も、この悪夢のような街並みも。魔法少女だなんて肩書きも。

 

「お姉ちゃん」

 

 また一言。誰に聞かせるためでも伝えるためでもない。自分が噛み締めて味わうための一言。

 ずっとずっとこの言葉を、私は声帯から出したくて仕方がなかったのだから。

 

 意識が深いところへ沈んでいく。

 降りる駅に着いたのに、ここで降りなければいけないのに、考え事が妙に捗ってしまって席を立てない時のような。そんな気分になりながら私は沈んでいく。黄昏に伸びたその大きくて黒い化け物が、遂に身体をしならせて飛びかかったとしても、私にとっては考え事の方が大事なことだった。

 

『アメシスタ』

 

『回避、あるいは、迎撃を』

 

『アメシスタ』

 

 今度は三度鳴り響いた通知音だ。

 

「……」

 

 意図的に、無視をする。

 

 

 私が何かを成し遂げたことなんて、無い。

 強いて言うなら、お姉ちゃんを守っているというつもりでいた、それだけ。

 

 両親と暮らしていた頃は、叱責も暴力も、全て私だけのものだった。些細なことで、あるいは些細ですらないことで、私は痛い思いを沢山してきた。私にはそれが酷く情けなくて汚れたものに思えた。人の持つ澱みが、紫水という人間に押し付けられていって、やがて少女は澱みの塊になる。

 

 だから、お姉ちゃんにはこちらへ来て欲しくなかった。

 光の当たる場所にいてほしかった。

 

 お姉ちゃんは私とは違った。些細なことで、あるいは些細ですらないことで、褒められた。愛された。その身から溢れるほどの寵愛を受けていた。私はそれが誇らしかった。

 自分が少し息を殺して我慢すれば、あんなにも美しいものを守れるのだ。ならば、たとえアザが増えようと、皮膚が裂かれようと、熱湯を浴びようと、構わなかった。

 

 守っていたつもりだった。本当に守れていたかはわからない。けれど、私がそう信じていなければ、あの家で息をし続ける理由がなかった。

 

 お姉ちゃんの笑顔が曇らないように。お姉ちゃんの白い手が汚れないように。あの人たちの怒りの矛先が、私以外の誰にも向かわないように。私はただ黙って、そこにいた。口を引き結んで、目を伏せて、拳が降ってくるのを待っていた。

 

 守る、というのはきっと本来もっと強くて能動的な言葉だ。私がやっていたのは耐えていただけで、我慢していただけで、それを「守る」と呼ぶのは欺瞞だったのかもしれない。

 それでも、そう呼ばなければ。

 紫水という人間の傷には、何の意味も残らなかった。

 

 あの頃は、痛みに耐えるしかなかった。

 

 自分にできることは歯を食いしばることだけで、何かを終わらせる力なんて持っていなかった。

 拳を振るわれるたびに身体を丸めて、頭の中でお姉ちゃんの顔を思い浮かべて、今この瞬間にも、大好きなお姉ちゃんが安全な場所で笑っているはずだと自分に言い聞かせていた。それが正しかったのかはわからない。お姉ちゃんが本当に心から笑えていたはずもないのに。

 でも。

 

 今は違う。

 私の意思で振るえる力が、確かにここにある。

 誰かに殴られるのを待つのではなく、自分から脅威に向かっていくことができる。お姉ちゃんを。この激情を力にして、本当の意味で守れるのかもしれない。

 その可能性に比べたら、目の前で大口を開けている黒い化け物なんて。

 

 些細なことだ。

 どうでもいい。

 

 

 意識が浮上する。

 

 どれくらい沈んでいたのだろう。数秒か、数十秒か。それすらわからない。

 私はいつの間にか、黒い剣の柄を片手で握ったまま、アスファルトに刃を突き立てた姿勢で立っていた。腕に力を込めた記憶がない。剣を振った記憶もない。

 正確に言えば、振ったはずなのに、そこに注意を向けていなかった。考え事の方が、ずっと大事だったから。

 

 猫は、もういなかった。

 

 さっきまで影を膨らませ、無数の金色の瞳で私を睨んでいたはずの巨体は、ばらばらに寸断されていた。黒い破片が輪郭を失い、砂のように、あるいは夜空から剥がれ落ちた星屑のように、黄昏の空気の中を漂い、溶けていく。

 

 黄昏そのものも剥がれていた。音を失っていた商店街に、少しずつ現実の空気が戻ってくる。シャッターの錆びた軋み。遠くの踏切の警報音。四月の、湿った夕方の匂い。

 

 ショーウィンドウの中に、自分の姿が映っている。

 黒い衣装。白くグラデーションのかかった長い髪。アメシストの輝きが、裾や襟元にちらちらと瞬いている。その中心で剣を地面に突き刺している少女の顔は、自分でも怖くなるほど、凪いでいた。

 息が乱れていない。手も震えていない。汗すらかいていない。

 生まれて初めて化け物と対峙して、生まれて初めて何かを斬って、それなのに私の身体は、まるでお皿を洗い終えた後みたいに平然としていた。

 

 スマートフォンが震えた。

 

『戦闘終了を確認しました』

 

 あの紳士のメッセージだった。それだけ。短い一文が、私の代わりに結果を要約していた。

 

『結果をお伝えします。よろしいですか』

 

 今どこから、私の様子を見ているのだろうか。そんなことを思っていたら、目の前にふと降り立つ。

 先ほどと同じ、何度見ても慣れない異形の紳士だ。鈍い光を放ちながら、不可思議な声が届く。

 

「戦闘のデータを確認しました。まず出力について。あなたの瞬間最大出力は、私の管轄内における観測史上、最高値です。初回としてはもちろん、全契約者を含めた数字です」

 

 意味が脳に届くまでに、奇妙な遅延があった。

 

「加えて、魔物だけでなく侵食領域そのものを斬撃で消滅させている点。現実側への物理的損壊がほぼゼロである点。いずれも初回契約者の水準を大幅に上回ります」

 

「あなたは非常に強い。おそらく、私の管轄内では最上位です」

 

 最上位。私が?

 

 何を成し遂げたこともない。何かの一番になったことも、誰かに選ばれたことも、勉強で良い点を取ったことすらほとんどない。自分だけが取り柄だと思っている紫色の瞳は、努力の結果ですらない。

 

 そんな私が、最上位。

 

 嬉しいとか誇らしいとか、そういう大袈裟な感情ではなかった。もっと静かな、もっと小さな震えだった。確かにそこにある。拾い上げてみたら、手のひらの上で鈍く光っている。

 そんな感触。

 

「ただし」

 

 総評はまだ続く。

 

「戦闘技術は未評価。安全意識は最低評価。私の指示に対する応答率はゼロです。出力が最上位、戦闘者としての練度は最下位。これが現状のあなたの評価です」

 

「……まあ、はい。ごめんなさい」

 

 通知を全部無視して考え事をしていた自覚はある。この人の言うことを聞かなかったのも事実だし、指示をちゃんと聞いていれば、もっと安全に戦えた可能性もある。けれど、あの瞬間だけは。お姉ちゃんの名前を自分の声で呼べることの方が、安全よりずっと大切だったのだ。

 

 だから反省はする。反省はするけれど、後悔はしない。

 

 私は猫が崩れた場所をもう一度見た。黒い粒子はもうほとんど残っていない。風に攫われたのか、空気に溶けたのか。四月の夕暮れの光の中に、最後の欠片がちらちらと舞って、消える。

 

 あの商店街の路地で、私の指に頬を擦りつけてきた黒猫の顔が、ふいに浮かんだ。丸い金色の目。ざらざらした舌の感触。背中を撫でたとき、喉を鳴らしていた振動。

 さっき私が斬ったものにも、金色の目があった。

 

「……殺して、しまったんでしょうか、私は」

 

 声に出していた。それからすぐに、質問の重さが背中に乗った。目の前のこの異形に向かって言ったのか、自分に向かって言ったのか、自分でもわからなかった。

 

「あなたが商店街で触れていた猫ではありません。あの個体から命や魂を抜き取ったものでもない。猫という生き物が持つ狩猟本能を雛型にして構成された、独立した代理体です」

 

 長い説明だった。内容を脳内で反芻しながら呼吸を整える。あの猫じゃない。あの猫を殺したわけではない。それはわかった。でも、言葉は続く。

 

「ただし、活動している間は一個の生命として振る舞っています。無関係だから何も感じなくていい、とは申しません。罪悪感を覚える人もいて当然でしょうね」

 

 安心とも不安ともつかないものが、胸のまんなかに溜まった。何かを壊したことは確かで、壊れたものがほんの少し前まで金色の瞳を持って動いていたことも確かで。それを「仕方なかった」と片付けるには、私はまだ何も知らなさすぎた。

 風が吹いて、白くなった毛先が頬にかかる。私はそれを耳の後ろに挟んで、画面に視線を戻した。

 

「あの猫みたいなのは、何なんですか。あなたも、何なんですか。全部、教えてください。お願いします、私にはそれを知る権利と義務がある筈です」

 

 声に出して言ってから、ぺこりと頭を深く下げた。

 

 

 紫水晶の紳士のことは、便宜上、先生と呼ぶことにした。理由はなんとなく、それっぽいから。

 先生の説明は、丁寧ではあったけれど、わかりやすくはなかった。

 

 曰く。この世界には、二つの大きな意志がある。

 

 ひとつは《星を目指すもの》。

 願い、理想、言葉、知性。未来へ向かおうとする意思を力に変える存在。先生はこちら側の管理者で、私たち魔法少女もこちらに属する。ロゴス志向、と先生は呼んでいた。

 

 もうひとつは《海に還るもの》。

 生存本能、衝動、原初的な生命の力。さっきの猫型の化け物は、こちら側が生み出した代理体。ホルメー志向。

 

 どちらの上位存在も、人間の世界に直接触れることができない。だから代理体を使う。星側は魔法少女を。海側は魔物を。私たちを駒に使ったチェスや将棋、という例えが頭に浮かんだ。先生はその表現を使わなかったけれど、意味としてはそういうことなのだろう。

 

「魔法少女と魔物は対立していますが、根本的にはどちらも『何かへ向かおうとする力』から生まれた存在です。方向が違うだけで、源流は同じです」

 

 源流は同じ。

 それは少し、嫌な言い方だった。さっき私が斬ったものと、今の私は、同じところから生まれている。考えたくない類似だった。

 

「明確で強い願いを持つ人間ほど、星側の魔法少女として高い適性を持ちます。あなたの出力が極端に高い理由は、あなたの願いが極めて強いことに由来します」

 

 願い。

 その一語が耳に入った瞬間、心臓が跳ねた。

 

「契約時に記憶の一部へアクセスさせていただきました。願いの内容についても、概要は把握しています」

 

 血の気が引いた。概要。概要というのは、どこまでのことだろう。お姉ちゃんの隣に立ちたい。胸を張れる人間になりたい。そこまでなら、まだいい。でも、その奥にあるもの。

 お姉ちゃんに対する、妹としての範囲を明らかに逸脱した感情まで、見られていたら。

 指が震えた。メッセージを打とうとしてしまった。今は、声でいいのに。

 

「……どこまで、知っていますか? 全て見てしまいましたか?」

 

「願いの詳細な内容を、本人の許可なく口外することはありません。これは管理者の職務規定です」

 

 答えになっていない。

 知っているのか知っていないのか、それが聞きたいのに。でも先生は、知っているとも知らないとも言わなかった。

 

「ですが、ひとつだけ」

 

「個人的な願いであることは、魔法少女としての適性を損なう要素ではありません。むしろ、個人的であるほど願いは強くなる傾向があります。あなたの願いには、十分な価値があります」

 

 十分な価値。

 

 そう言われても、素直に受け取ることなんてできなかった。だって私の願いは、煎じ詰めれば、お姉ちゃんを愛したいという身勝手なものだ。少なくとも私はそう思っている。それに「価値がある」と言われても、嬉しいというより怖い。覗かれている、という感覚の方が先に立つ。

 でも、先生は追及してこなかった。願いの中身をこれ以上掘り返す気配もなかった。ただ事実を伝えて、それ以上は踏み込まない。その距離感が、少しだけありがたかった。

 

 そのとき、メッセージアプリの通知音が、別のトーク画面から鳴った。

 お姉ちゃんからだった。

 

『紫水? まだ帰ってこないの?』

 

 時刻を確認して、全身から血が引いた。午後六時十二分。カウンセリングの帰りに「いまからかえる」と送ったのが午後四時前。二時間以上が経っている。お姉ちゃんの帰宅時間はとっくに過ぎていて、私はまだこんなところに立っていた。

 

『なにかあった?』

 

『お願い、返事だけください』

 

 三つ目のメッセージには、お姉ちゃんの焦りが滲んでいた。普段は絵文字も句読点も省略するお姉ちゃんが、「返事だけください」と丁寧語で打っている。それがどれだけ切迫しているかの証拠だった。

 さっきまで猫の化け物を一撃で消し飛ばした手が、今はスマートフォンの上でおろおろと震えている。世界規模の代理戦争より、お姉ちゃんを待たせていることの方がずっと怖い。

 先生に向かって、声を出した。

 

「ど、どうしましょう。私、私、お姉ちゃんに、なんて言えばいいでしょう!?」

 

「魔物と交戦していたと説明するのが、最も正確です」

 

「言えるわけないじゃないですかぁ……!」

 

 即答だった。声が裏返りかけた。先生のメッセージは淡々としている。

 

「では。アルバイトへの勧誘を受けて、話が長引いた。これなら事実から大きくは外れません」

 

 バイトへの勧誘。それなら、まあ、嘘にはならない。嘘にはならないけれど、お姉ちゃんがどう受け取るかは別の問題で。

 私は震える指でメッセージを打った。

 

『ごめんなさい、アルバイトにさそわれて、話が長くなっちゃった』

 

『心配させてごめんなさい、いまからかえるね』

 

 送信した。既読がついた。三秒と経たずに返事が来た。

 

『アルバイト? どういうこと? どこにいるの?』

 

『誰かといるの? こわいことされてない?』

 

『迎えにいく。場所おしえて』

 

 立て続けに三つ。お姉ちゃんの文面が、一通ごとに短く鋭くなっている。「こわいことされてない?」の一文に、胸が詰まった。お姉ちゃんは今、あの頃のことを思い出しているのだと思った。私が誰かに「こわいこと」をされていた、あの日々のことを。

 

『だいじょうぶ、こわいことはない、だいじょうぶ、ほんとうに』

 

『すぐかえるからまっててください』

 

 必死に打った。ひらがなばかりの文が並ぶ。お姉ちゃんは数秒間、既読のまま沈黙した。私はその数秒間に、先生の方へ振り返った。

 

「帰ります。今すぐ帰ります」

 

「了解しました。仮契約の有効時間は、変身完了から二十四時間と説明した通りです。変身の維持は任意ですが、初回は三十分以内の解除を推奨します。また、正式契約を急がせることはしません。明日、仮契約が切れるまでに答えを聞かせてください」

 

 先生は引き止めなかった。世界規模の代理戦争の話をしていたはずなのに、「帰ります」の一言で話を切り上げてくれた。先生なりの誠実さなのだろう。あるいは、お姉ちゃんを怒らせることの方が魔物より怖いと、私の顔に書いてあったのかもしれない。

 

『力を得た直後は、それを必要以上に好ましく評価する傾向があります。今のあなたに即決を勧めることはできません。よく考えて、できれば信頼できる方に相談してください』

 

 最後に一つ、送られてきたメッセージを読んで、画面を閉じた。

 お姉ちゃんのトーク画面に戻ると、新しいメッセージが一つ増えていた。

 

『待ってる、気をつけて帰ってくること』

 

 いつものお姉ちゃんの文体に戻っていた。

 

 変身を解かなければ。

 胸の中心に意識を集中させる。灯っている光を、そっと手放す。掴むのではなく、開く。指を一本ずつ。

 

 剣が消えた。手の中から重さが溶けて、アメシストの粒子が指先から零れ落ちた。黒い衣装が端から砂のように崩れて、その下から通信制高校の白いブラウスと藍のジャンパースカートが現れる。髪が白から灰色に戻っていくのを、視界の端で見た。

 

「……」

 

 声を出そうとした。お姉ちゃん、と。

 

 音は出なかった。

 

 蓋が戻っていた。わかっていた。先生にも言われていた。それでも、喉が詰まる感覚は、毎回新しい痛みのように襲ってくるのだろうと思った。たった数十分だけ取り戻していたものが、また元の場所に帰っていく。

 手が震えた。四月の夕暮れの、冷たい風のせいだと思いたかった。でも本当は、失ったものの温度がまだ喉の奥に残っているから震えている。

 

 お家まで、ここから二十分。急げばもう少し早い。

 私は鞄の紐を握り直して、走り出した。

 

 走って、走って、走った。四月の夜風が頬を切る。変身を解いた身体は思ったより重くて、太腿の裏がじんわりと痺れていた。信号が赤に変わるたびに足をついて、お姉ちゃんのトーク画面を確認する。新しいメッセージはない。最後の一通を表示したまま、画面は静かだった。

 

 それが逆に怖い。怒っているときのお姉ちゃんは、黙る。

 

 おじいちゃんの家の門灯が見えたとき、玄関の引き戸の向こうに、明かりが灯っている。いつもなら温かいだけのその光が、今日は面接室の蛍光灯みたいに見えた。

 引き戸を開ける。

 

 お姉ちゃんが、玄関に立っていた。

 

 靴下のまま。制服のリボンだけ外して、ブラウスの第一ボタンを開けた格好。つまり、帰ってきてからほとんど着替えもせずに待っていたのだ。

 

 怒っている顔ではなかった。泣きそうな顔だった。けれど泣いてもいなくて、唇をきゅっと結んだまま、まっすぐ私を見ていた。お姉ちゃんの目は、私と違って深い藍色をしている。それに、お姉ちゃんの目は切れ長で鋭くて、びっくりするほどまつ毛が長い。その目が今、ひどく静かに光っていた。

 

 私はスマートフォンを取り出した。

 

『ただいま』

 

『ごめんなさいおそくなって』

 

 画面を見せた。お姉ちゃんは画面に目を落として、それから私の顔を見て、それからもう一度画面を見た。

 

「……怪我は、してない?」

 

 声が低かった。いつもの柔らかいお姉ちゃんの声より、ずっと低い。

 

『ないですぜんぜんないです』

 

 画面を見せながら、両手を広げて見せた。ほら、傷なんてどこにもない。袖を捲って、包帯の巻かれた腕を。いや、それは古い古い傷だ。今日のものではない。今も心因的な安心材料に巻いている、特に意味のない包帯。お姉ちゃんはそれをわかっていて、でも一瞬だけ視線がそこに引っかかったのが見えた。

 私は慌てて袖を戻した。

 

「話、聞かせて」

 

 お姉ちゃんはそれだけ言って、奥に引っ込んだ。台所からカレーの匂いがする。作ってくれていたのだ。私が帰ってくるのを待ちながら、約束どおり晩ごはんを作って、それから玄関に立っていた。

 

 靴を脱ぐとき、お姉ちゃんのローファーが目に入った。かかとの左側だけすり減っている。毎日片道四十分の通学路を、この靴で歩いている。私があの家から逃げ出したせいで、おじいちゃんの家から遠い学校へ通うことになったのに、お姉ちゃんは一度も文句を言わなかった。

 

 胸が痛い。物理的に、鳩尾のあたりと指先がきゅっと締まる。

 

 

 居間の卓袱台に、二人分のカレーライスが並んでいた。私の分にはゆで卵が乗っている。お姉ちゃんは、私がゆで卵を好きだと知っている。おじいちゃんの分は台所にラップをかけて置いてあった。おじいちゃんは今夜も金物屋のお仕事で遅い。

 向かい合って座る。お姉ちゃんはスプーンを持ったまま、食べない。私も食べられない。

 

「アルバイトって、なに」

 

 お姉ちゃんの声は落ち着いていた。怒鳴るでもなく、詰めるでもない。ただ、事実を確認しようとしている声。私はスマートフォンを卓袱台の上に置いて、打った。

 

『前に、スクーリングの時に、誘われたんだよ、同級生の子』

 

「へぇ」

 

『今日、その見学をしていたの、担当の人、と』

 

 指が止まった。鉱物の紳士、先生。紫水晶の結晶が頭の代わりに生えている、190cmのスーツの人。そんなことを説明できるわけがない。

 

 先生から、仕事の偽装に使える情報をもらっていたことを思い出した。仮契約中に届いたメッセージの中に、「必要であればカバーストーリー用の資料を送付します」とあった。帰りの全力疾走の中で慌てて確認したとき、求人サイトのURLとチラシのPDFが添付されていた。

 

 軽作業、キッチンスタッフ募集。商店街に新しく開いた喫茶店。週二~三日、短時間可。連絡先と住所まで載っている。検索すれば、ちゃんとそれらしいウェブサイトも出てきた。先生が用意した偽装だった。手際が良すぎて逆に怪しいが、少なくともお姉ちゃんに見せられる形にはなっている。

 

 チラシのPDFを画面に表示して、お姉ちゃんに見せた。

 どうかどうか、バレないでください。

 そして、最愛のあなたに嘘をつく私を、嫌いにならないでください。

 

「へぇ」

 

 お姉ちゃんはスマートフォンを受け取って、画面を凝視した。指でスクロールして、住所を確認して、求人サイトのリンクをタップした。ページが開く。それっぽいデザインの、それっぽい求人ページには、レビューまである。先生、どこまで作り込んだのだろう。

 お姉ちゃんの眉が、ほんの少し寄った。

 

「……紫水。これ、大丈夫なやつ?」

 

 当然の疑問だった。今時、会ったばかりの同級生から声をかけられてお仕事に誘われました、なんて、そういうダメなバイトの入口としか思えない。お姉ちゃんはニュースをちゃんと見る人だ。

 私は必死に画面を打った。

 

『心配はわかってる、でもちょっとだけきいてほしい』

 

「うん、聞くよ」

 

『わたしにもできることがあるかもしれないの』

 

 指が震えた。お姉ちゃんの顔を見られなかった。画面だけを見て、打ち続けた。

 

『ずっと守られてばかりだった、おじいちゃんにもお姉ちゃんにも何も返せてない』

 

『だけどこのお仕事をしたら、誰かの役に立てるかもしれない』

 

『お姉ちゃん、私、もう守られてるだけじゃダメだと思ったんだよ』

 

 お姉ちゃんは、しばらく黙っていた。私のメッセージを全部読んで、スマートフォンを卓袱台の上にそっと置いて、それから口を開いた。

 

「紫水」

 

 名前を呼ぶ声が、震えていた。

 

「あのね。紫水が誰かの役に立ちたいって思うこと、私は止めない。紫水が自分で何かを始めたいなら、それは紫水が決めていいこと」

 

 でも、とお姉ちゃんは続けた。

 

「誰かのために傷つくのは、駄目」

 

 真っ直ぐだった。お姉ちゃんの目が、いつもの柔らかさをかなぐり捨てて、私を射抜いていた。

 そう、何を言っているのか私にはよく分かった。お姉ちゃんは今私を通して、あの両親の下にいた私を見ているんだ。

 

「紫水が傷ついたら、私は送り出して良かったなんて思えない。紫水が痛い思いをして、それで家にお金が入ったとしても、全然嬉しくない。そういうの、もう見たくない」

 

 もう見たくない。

 その一言が、胸の奥に刺さった。お姉ちゃんも、見ていたのだから。あの家で。私が痣を増やしていくのを。新しい包帯が巻かれていくのを。そしてそのたびに、お姉ちゃんは「守られている」なんて思っていなかった。

 守っていたつもりだった。

 さっきの回想が、不意に重なった。

 

「当然おじいちゃんにも相談するし、労働条件通知書もちゃんと見せてもらう、それはお姉ちゃんとしての責任だから、やらせて」

 

「だから、紫水も、約束して」

 

 お姉ちゃんが人差し指を立てた。

 

「怪我したり、体調悪くなったりしたら、隠さないこと」

 

 中指が加わる。

 

「怖くなったら、いつでも辞めていいこと」

 

 薬指。

 

「その同級生の子含めて、誰かのためだけに、続けないこと」

 

 お姉ちゃんの指は細くて白くて、爪の形がきれいだった。私はその指を見つめながら、スマートフォンに『約束する』と打った。お姉ちゃんは画面を見て、それから私の目を見て、小さく頷いた。

 

「……ん。じゃあ、ごはん食べよ。冷めちゃった」

 

 お姉ちゃんがスプーンを取り上げた。私もスプーンを持った。カレーはぬるくなっていたけれど、仕上げのチョコレートの甘さがちゃんとルーに溶けていて、玉ねぎは飴色で、ゆで卵の黄身は半熟だった。美味しかった。声に出せないから、「おいしい」と画面に打ってお姉ちゃんに見せた。お姉ちゃんはふっと笑った。いつもの、ちょっとだけ呆れたような、でも嬉しそうな笑顔。

 

「紫水のごはん食べるとこ、見るの好き」

 

 その一言で、鼻の奥がつんとした。

 

 食べ終わった後、お姉ちゃんが居間のソファに座って私を手招きした

 

「触ってもいい?」

 

 こくりと頷く。隣に座ると、お姉ちゃんの手が私の髪に伸びてきた。毛先を指に巻いて、ゆっくりと梳いていく。いつもの週末の習慣を、今日は水曜日にやっている。特別な理由はない。ただお姉ちゃんが、今、私に触れていたかっただけだと思う。

 

「……アルバイト、頑張ってね。あ、初日は私も一緒に見に行ってもいいかな、すぐ帰るからさ」

 

 お姉ちゃんの声が、頭の上から降ってきた。

 

 私は頷いた。声の代わりに、お姉ちゃんの腰にそっと手を回した。

 きっとあそこまで用意周到な先生なら、多少お姉ちゃんに見られても大丈夫だ、きっと大丈夫だ。

 

 約束した。怪我を隠さない。怖くなったら辞める。誰かのためだけに続けない。

 三つとも、ちゃんと守るつもりだった。守るつもりだったけれど、心のどこか底の方で、小さな声がまだ囁いている。

 それでも。お姉ちゃんの役に立てるなら。

 その声を、私はまだ消せなかった。

 

 命より、それは重い。

 

 

 翌日の午後。仮契約の残り時間が三時間を切った頃、先生から指定された場所に向かった。駅からバスで数分の、海沿いの小さな公園。ベンチに座ると、先生がそこにいた。

 

「昨日、スマホにて送付した正式契約書、活動条件、解除手続。その他諸々について不明な点はありませんか?」

 

『はい、ありません、大丈夫です』

 

 スマートフォンに打って、送信した。

 

「紫水様は紫水様の原動力となる願いの核を、認識していますか?」

 

 指が止まった。昨夜のお姉ちゃんの言葉が蘇る。お姉ちゃんのためだけに続けないこと。三つ目の約束。嘘をつくこともできた。もっと立派な理由を並べることもできた。でも、先生は記憶を読める人だ。たぶん、嘘は意味がない。

 

『少なくとも、今は』

 

 打って、少し考えて、続けた。

 

『私はお姉ちゃんと一緒にいたい、いつまでもどこまでも、ずっと』

 

 完全な本心でありながら、ただ、それが私の願いの全てでもなかった。身体だけは無意識に覚えているらしい、昨日剣を振ったときの手応えがある。自分の声でお姉ちゃんの名前を呼んだときの震えがある。あの数十分間だけは、ただ守られるだけの私ではなかった。

 

『了解しました。正式契約を受理します』

 

 メッセージが届いた瞬間、胸の中心で何かが脈打った。昨日の仮契約より深い位置で、紫水晶に似た冷たい光が根を下ろすのを感じた。

 

『魔法少女アメシスタ。本日付で正式稼働とします』

 

 巻き込まれた少女ではなく、自分で選んだ魔法少女になった。それだけのことが、公園のベンチの上で、波の音を聴きながら、ひどく静かに起きた。

 

 

 正式契約から、四日が経った。

 

 夕方。横浜のビルの屋上。

 スマホの画面には先生のメッセージが並ぶ。

 

『本日の対象は鳥類型魔物です。領域の半径は約百五十メートル。翼による広域移動が特徴で、まず上空の動きを観察してから行きましょう』

 

 説明が終わる前に、変身を済ませていた。黒い衣装が身体を包み、髪の毛先が白く変わる。手の中に、空気を裂く重さが戻ってくる。

 黒く、四角く、重たい剣のような武器。私はそれを何故か軽々と、片手で振り上げることができる。剣の構え方なんて知らないから、そっと剣先というには鈍く平たい先端を下に向けて手に下げた。

 

 ああ、確かに鳥がいた。

 屋上の向こう側、電波塔の影に、翼を広げた黒い影が蟠っている。大きい。猫のときより二回りは大きい。けれど。

 

 ビルの屋上の縁を大きく蹴って跳び出した。

 宙返りするように、風が私を大きく包むような体勢から、目をそっと閉じる。

 敵の無防備な姿に羽ばたき迫る黒い影が、その全貌が、私の眼前に迫った三秒とその後の二秒。

 

 空気が割れた。身体全身を大きく捻って、縦に一閃を斬り開いて、切り捨てた。

 黒い鳥が、翼ごと、領域ごと、断ち切られた。粒子が弾けて、夕陽の中に溶けていく。私の髪が風で舞い上がって、白い毛先がオレンジ色の光を受けて光った。

 呼吸は乱れていない。汗もかいていない。

 

 先生からのメッセージ。

 

『……』

 

 三点リーダーが二つ。先生が言葉に詰まっている。初めて見た。こんなメッセージは。

 

『作戦説明は不要だったようですね。戦闘終了です』

 

 それだけだった。

 

 私は剣を消して、スマートフォンの時刻を確認した。お姉ちゃんとの約束は六時半までに帰ること。ここからなら二十分で帰れる、余裕で間に合うということだ。

 お姉ちゃんのトーク画面を開いて、メッセージを打った。

 

『いまからかえります』

 

 送信して、少し考えた。指を動かして、もう一通。

 

『きょうも私、大活躍したんだよ? 帰ったら、えらいねって褒めて、お願い』

 

 そちらの方が、きっと大事だった。

 魔法少女は、スマートフォンをポケットにしまって、屋上の扉を開けて、階段を駆け下りた。

 そうすると、もうそこに魔法少女はいない。

 

 何の取り柄もない、ろくに会話もできない。そんな私のミッションはただ一つ。

 お姉ちゃんの作ったご飯を冷ますわけにはいかないのだ。

 

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