魔法少女アメシスタ、あるいは、星屑に懸けた片想いの話。   作:秩序

5 / 6
【第5話】その名前がウェルブム

 幕を開けた新しい日常には、早速の脅威が迫っている。

 

「今回の魔物は、なんでしょうねアレは。大きな大きな、蜘蛛でしょうか?」

 

「……う」

 

「まあ、とりあえず、いいでしょう。アメシスタ。好きにやってみてください」

 

「どうしよう、どうしよう」

 

 私を目掛けて振り下ろされた黒く蠢く巨大な足を、大きく後ろに跳ぶ体勢で避ける。そのままビルの壁面に足をつけると、軽く蹴って舞い戻る。蜘蛛にしたって多すぎるくらいに付いている目が私をじっと見ているけれど、そんなことは本当にどうでもいい。

 

 蜘蛛の足の三本を斬り捨てながら、私は軽く大慌てだ。頭を「どうしよう」が埋め尽くす。

 この間、お姉ちゃんに魔法少女の活動のカバーストーリーとして伝えた喫茶店のアルバイト。もちろんあれは嘘なわけで、そんなものは知らない。先生が急遽用意してくれた言い訳だった。そこへ、お姉ちゃんは今度見に行くよと言ってくれた。

 

 自分の目で、私のいる場所を見極めてくれようとするお姉ちゃん。ああ、大好きだって思う。

 でもそれが困ったことなのだ。お姉ちゃんの視察に対応できるくらい、嘘を貫けるくらい準備が整った嘘なのだろうか。早くそれを先生に問い詰めて、もしもダメなら大慌てで工作をしなければバレてしまう。お姉ちゃんに嫌われたくない。

 

 お姉ちゃんに嫌われるのに比べたら、残された蜘蛛の胴体を二つに斬り分けて息の根止めることくらい大した問題じゃないのだ。さくり、と頭に剣を突き刺せば、ようやくその黒い亡骸は消えていく。悩んでいる間に戦いは終わってしまったけど、戦っている間に悩みは終わらなかった。

 

「先生、先生」

 

「アメシスタ、お疲れ様でした。戦闘終りょ……」

 

「お姉ちゃんにバレないようにしないと、先生……っ」

 

 必死なのだ。守らねばならない。私は魔法少女である前にお姉ちゃんの妹なわけで。妹として結んだ約束の方がよっぽど重くて大切なものなのだから。

 

 

 いつも通り、戦った後は先生の作る結界の中にて話し合う。黄昏がどこまでも続くビルの上だ。

 

 作り物の景色だけれど、春の風がコンクリートの縁を撫でて、私の白い毛先を攫っていく。変身を解く前に話しておきたいことがある。声が出るうちに、ちゃんと伝えておかなければ。

 

「あの喫茶店のことです」

 

「えぇ、はい」

 

 先生は屋上の縁に立って、懐中時計を確認していた。紫水晶の頭部が夕陽を受けて、鈍く光っている。そんな宝石の塊が動いてこっちを見て喋っている。いつ見ても不思議な光景だけれど、もう慣れてしまった自分が少し怖い。

 

「お姉ちゃんが、近いうちにあのお店を見に来ると思います。求人サイトも全部見てます。あの人、そういうところは本当に徹底してるので」

 

「なるほど、良いお姉様ですね」

 

「それはもう、ふふ、とっても……ではなくて。あのお店って、本当に大丈夫なんですか。お姉ちゃんが行って、ドアを開けて、中を見て。それでちゃんと喫茶店として成り立っている場所なんですか。それとも本当に偽装用のハリボテみたいな……」

 

 言ってしまってから、失礼だったかもしれないと思った。

 でも仕方がない。先生の異様な見た目を見てしまうと、偽のウェブサイトくらい三十分で作れそうだし、偽のレビューも百件くらい自動生成してそうだし、地図サービスのストリートビューまで差し替えていそうな気がする。とにかく、人智を超えているのだから。

 

 先生は間を置いた。その「間」が、心なしか長かった。

 

「偽装ではありませんよ」

 

「当該店舗は実在します。営業許可も取得済み、雇用実績もあります」

 

「求人情報、ウェブサイト、利用者の評価。いずれも本物です」

 

 無駄のない説明が、立て続けに返ってきた。

 

「……本物」

 

「はい。星側は人間社会で活動するにあたり、複数のフロント企業や協力事業所を運営しています。当該喫茶店はその一つです。一般のお客様も普通にご利用されています」

 

「普通に」

 

「売上も帳簿も実在します。従業員には当地区の契約者。つまり魔法少女がいます。店舗の地下には星側の連絡設備と簡易治療室がありますが、営業エリアからは完全に遮断されています」

 

 想像していたのと、だいぶ違った。てっきり、薄暗い空き店舗を無理矢理改装して、入り口だけ取り繕ったようなものを想像していたのに。

 

「一点、補足します。これはメッセージアプリでもお送りしますね」

 

 先生の言葉と、メッセージが同時に続く。

 

『喫茶店における雇用契約と、魔法少女としての活動契約は別です。厨房業務の時給に、魔物との交戦は含まれません』

 

 一拍置いて、もう一通。

 

『当然のことですが』

 

 当然。私がびっくりしているのに、当然のことらしい。

 確かに、戦闘手当と皿洗いの時給を一緒にされたら、さすがに労働基準法に引っかかるのではないだろうか。魔物退治に労基法が適用されるのかは知らないけれど。

 

「じゃあ、お姉ちゃんが来ても大丈夫、ということですか……?」

 

「もう、全く大丈夫です」

 

 ほっと息を吐いた。それなら、何の問題もない筈だ。

 何の問題も、本当に?

 

「……ごめんなさい、もうひとつあります、問題」

 

「問題」

 

「お姉ちゃんには、同級生の子が誘ってくれたって説明したんです」

 

 そうだ。

 最初にメッセージでお姉ちゃんに嘘をついたとき、咄嗟に「アルバイトに誘われた」としか言えなかった。その後、自分から訂正はしたけれど、「同級生に誘われた」と伝え直しただけだ。誰に勧誘されたのか、という部分はまだ曖昧なままになっている。

 

「……先生。あのお店に、私以外の魔法少女がいるって言いましたよね」

 

「はい。当地区には現在、あなたを含めて二名の契約者がいます。もう一名は当該店舗で勤務しています。当然、紫水様にも後ほど顔を出してもらう予定ではありましたが」

 

「その人に、お願いできませんか。私をバイトに誘ったのはその人だ、ということにしてほしいんです。年齢が近い人なら、まだ自然というか……」

 

 先生は数秒間、何も言ってこなかった。

 考えているのか、呆れているのか、紫水晶の表面からは何も読み取れない。

 こんなに面倒くさい辻褄合わせに巻き込んでしまっている私は、なんだか申し訳なくて、本当に申し訳なくて、何を言われるでもないのに萎縮していってしまう。

 

「氷川詩音。十七歳。高校二年生。当該店舗のスタッフであり、あなたの教育担当として配属予定の契約者です。口裏合わせの依頼については、本人の同意が必要ですよ。私からは指示できません」

 

「……じゃあ、その人に、氷川詩音さん……に、直接お願いしに行かせてください」

 

「了解しました。では、変身を解除してください。位置情報を送りますので。氷川は本日シフトに入っていますよ」

 

 

 変身を解いた。声が消えた。

 もう慣れたはずの喪失感が喉を塞いで、私は唇を引き結んでスマートフォンを握り直した。

 

 商店街は、夕方の買い物客でほどほどに賑わっていた。

 八百屋のおじさんが段ボールを潰していて、魚屋の前には海の匂いが漂っている。私はブラウスの袖を指先まで引っ張って、先生に送られてきた位置情報を頼りに歩いた。

 

 商店街の中ほど、クリーニング屋と文房具屋に挟まれた場所に、その店はあった。

 まず目に入ったのは看板だった。木製の、手書きの看板。新しいニスの匂いがしそうな板に、落ち着いた字体で店名が書かれている。

 その名前が、ウェルブム。

 その下にぶら下がった小さな黒板に、本日のおすすめ、固めのプリンとブレンドコーヒーのセットと白いチョークで書いてあった。

 

 偽物の店ではなかった。

 

 ガラスの引き戸の向こうに、カウンター席が見える。二人掛けのテーブルが並んでいて、奥の壁際にはメニューの入った木製のスタンドが立っている。天井の照明は暖色系で、古い木の床板が飴色に光っていた。以前の店舗から受け継いだらしい柱や梁が、新しい内装と混在している。その不揃いな感じが、逆に本物の店の証拠に見えた。

 

 お客さんがいた。窓際の席で、中年の女性が文庫本を読みながらコーヒーを飲んでいる。カウンターの端では、作業服の男性がトーストを齧っている。どちらも、何の変哲もない日常を送っている。

 

 私は引き戸に手をかけて、開けた。

 からん、とドアベルが鳴った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 カウンターの奥から、声がした。低くて、少し掠れていて、抑揚が少ない。愛想がいいとは言えないけれど、不快ではない声。

 顔を上げると、カウンターの向こうに立っている人が目に入った。

 

 黒髪のショートボブ。緩くウェーブのかかった毛先が顎の下で揺れていて、片方の耳が見えている。

 その耳に、ピアスが、いくつも。ロブからヘリックスまで、銀色の小さなリングやスタッドが連なっていて。

 鋭くて冷たくて、研ぎ澄まされたような目をしていた。その瞳は、深い黒をしていた。

 

 身長は私より少し高い。でも華奢で、手首も指も細長い。モデルさんみたいだ。

 黒いエプロンの下に着ているのは白いシャツで、袖は肘の上まで捲ってある。白いインナーカラーとメッシュが、動くたびに黒髪の隙間からちらちらと覗く。

 全体的な印象を一言で言えば、怖い。

 

 いや、怖いというのは正確ではない。かっこいいのだ。

 かっこよすぎて怖いのだ。私の中にある「年上の女の人」のイメージからは完全に逸脱していて、お姉ちゃんとはまったく別の方向に整っている。とにかくそういう種類の人だった。

 

 その人が、カウンター越しに私を見た。切れ長の目が、一瞬細まる。

 

「あ。新人の子だっけ。うん、話聞いてる」

 

 声のトーンは平坦だった。感情が乗っていない、というのとは違う。感情の表現が全部圧縮されている感じ。普通の人が声で十伝えるところを、この人は三くらいで済ませている。

 私は慌てて頷いた。スマートフォンを取り出して、画面に打つ。

 

『はじめまして、今日からお世話になります、よろしくお願いいたします』

 

 画面を見せると、その人は目を落として、すぐに顔を上げた。

 

「返事は頷くだけでいいよ。長い話はあとにしよっか」

 

 初対面で、メッセージアプリでの会話がどれだけ時間がかかるかを即座に理解して、必要最低限のコミュニケーション方法を提示してくれている。

 同情の色は、一切なかった。対等に、どこまでも対等に。

 

「おじさんから聞いたんだよ。強くて、危なっかしい子が来るって。そんなことなさそうでよかった」

 

 おじさん。先生のことだろうか。あの紫水晶の頭を持つ存在を「おじさん」と呼ぶこの人は、きっと相当長い付き合いなのだろうか。

 それより、「危なっかしい」の方が気になった。先生は私のことをそう報告しているのか。最上位の出力と最下位の練度。確かに、危なっかしいという要約は正確だ。正確すぎて少し凹む。

 

 その人はカウンターから出てきて、私の前に立った。私より高い目線が、まっすぐ降りてくる。

 

「氷川詩音。ここのスタッフで、貴女の教育係らしいよ。あ、うん。もちろん魔法少女、弱いけどね」

 

 名乗りも短かった。無駄がない。左耳のピアスが照明の光を反射して、ちかちかと光る。

 

「よろしく」

 

 私は頷いた。頷いてから、スマートフォンに文字を打った。打ちながら、この人に長い文章を見せたら「長い」と言われそうだなと思って、できるだけ短くした。

 

『よろしくおねがいします』

 

「うん」

 

 それだけだった。氷川さんは頷いて、カウンターの奥へと私を案内する。そして棚の下から何かを取り出して、私の前に出してきた。

 ホワイトボードだった。A4サイズくらいの小さなもの。マーカーが二本、赤と黒。そしてその隣に、ラミネートされたカードが五枚。

 

「厨房で使って。スマホは衛生的によくないから、基本はこっちにしよう」

 

 カードを見ると、定型文が印刷されていた。「わかりました」「わかりません」「手伝ってください」「休憩したいです」「危険」。文字の横に、それぞれ色分けされた丸いシールが貼ってある。

 こういうものを、いつ用意したのだろう。先生から私のことを聞いてから、今日までの間に。初対面の、声が出ない後輩のために。私がここに来るのは最初から決まっていたのだとしても。

 

「あとそれから」

 

 氷川さんが、声のトーンを落とした。平坦なまま、でも確実に半音低くなった。

 

「指示出すときは、必ず紫水さんの視界に入ってからやるね。後ろから急に触ったり、死角から声かけたりはしない。約束する」

 

 死角から声をかけない。後ろから急に触らない。

 それが何を意味しているのか、私にはわかった。先生からは、きっと詳しい事情の云々ではなく、配慮事項だけが伝えられていたらしい。でも氷川さんは、私が「急に後ろから何かをされる」ことに対して普通の人より強い恐怖を持つかもしれないと、わかっていてくれている。

 必要な配慮を、必要な分だけ、淡々と。

 

「それだけかな。あとは……思い出したら言うよ」

 

 氷川さんはそう言って、カウンターに戻った。お客さんが呼んでいる。「すみません、お冷のおかわりをお願いします」という声に、氷川さんは「はい」とだけ答えて、水差しを持って席へ向かった。

 愛想はないけれど、丁寧で、優しい所作だった。水を注ぐ手つきが綺麗で、お客さんに軽く会釈して戻ってくる後ろ姿が、なんというか、絵になる。

 

 私はホワイトボードとカードを胸に抱えたまま、しばらくその場に立っていた。

 

 ああ、ここは本物の場所だ。

 

 先生が作った偽物でも、映画のセットでもない。ここにはお客さんがいて、コーヒーの匂いがして、人が働いている場所。そして私は、ここで働く。魔物を斬るためじゃなくて、お皿を洗ったり、プリンを盛り付けたりするために。

 

 スマートフォンが震えた。先生からのメッセージだった。

 

『口裏合わせの件、自分で頼んでください』

 

 ですよね。

 

 私は氷川さんがカウンターに戻ってくるのを待って、ホワイトボードにマーカーで書いた。初めて使う。黒いマーカーのキャップを外すと、まだ新品で尖ったインクの匂いがした。

 

『おねがいがあります』

 

 氷川さんが振り返って、ボードを見た。

 

「うん」

 

 続けて書く。文字がホワイトボードの上で震えた。

 

『お姉ちゃんに、私をバイトに誘ったのは氷川さんということにしてほしいです』

 

 氷川さんは数秒間、ボードを見つめていた。それから視線を上げて、私の顔を見た。

 

「事情は聞かない方がいい?」

 

 私は頷いた。氷川さんは少しだけ首を傾けて、それからふっと息を吐いた。笑ったのかもしれない。口元がほんのちょっと動いた気がするけれど、一瞬すぎて確信が持てない。

 

「いいよ。おじさんに話は聞いてるし、こういうの、家族とか友達がいると面倒くさいよね。変な嘘ついて辻褄合わせないといけないしさ」

 

 ボードを消して、新しく書いた。

 

『ありがとうございます』

 

「じゃあ今日は、とりあえず見学ね。書類を家の人に確認してもらってから、研修にしよう」

 

 私は全力で頷いた。

 

 

 その日の夜。

 

 家の二階、お姉ちゃんの部屋。

 六畳の和室に布団を二組敷いて、私たちは並んで寝る。おじいちゃんの家の二階には部屋が三つあって、私にも自分の部屋はあるのだけれど、夜はだいたいお姉ちゃんの部屋に転がり込む。お姉ちゃんも追い出さない。

 

 最初の頃は「自分の部屋で寝なよ、せっかく部屋あるんだし」と言っていたのに、いつの間にか私の寝具がお姉ちゃんの部屋に定住していた。

 甘えだとわかっている。高校生にもなって、姉の布団の隣でないと眠れないなんて、子供だ。でもお姉ちゃんの寝息が聞こえる場所にいると、世界が少しだけ安全になる気がするのだ。これは理屈ではない。誰かに問われたら、愛だって答えたいものだ。

 

 晩ごはんを食べ終えて、お風呂に入って、髪を乾かして。

 お姉ちゃんがドライヤーで私の髪を乾かしてくれている間に、私はスマートフォンの画面を見つめていた。

 

 言わなければならないことがある。

 

 ドライヤーの音が止まった。お姉ちゃんがヘアブラシを手に取って、癖がつかないように整えてくれる。長い髪。お姉ちゃんは私の髪の手入れを自分の仕事だと思っている節がある。

 

「はい、おわり」

 

 お姉ちゃんの声が頭の上から降ってきた。私は振り返って、スマートフォンを差し出した。画面には、さっきから何度も打っては消して打ち直した文章が並んでいる。

 

『ごめんなさい』

 

 お姉ちゃんの目が、画面に落ちた。

 

『この前伝えたアルバイトの話、誘われたって話をしたと思う』

 

『誘われたのは、お店の前で、お店の人に、です』

 

『同級生の子が誘ってくれたっていうのは嘘です、ごめんなさい』

 

 お姉ちゃんはしばらく画面を見つめていた。表情は読めなかった。

 怒っているのか、悲しんでいるのか。お姉ちゃんの藍色の目は、こういうとき本当に静かになる。水の底みたいに深くて、何も映さない。

 

「……そっか」

 

 お姉ちゃんの声は落ち着いていた。

 

「怒ってないとは言わない」

 

 心臓が縮んだ。

 

「でも、先に教えてくれてありがとう」

 

 お姉ちゃんは怒鳴りもしなかったし、問い詰めもしなかった。ただ事実を受け止めて、嘘をついたことを見逃さず、自分から訂正したことは認めてくれた。

 お姉ちゃんは何でも許す人ではない。嘘を許す人でもない。でも、謝ったことを踏みにじる人でもない。

 その線の引き方が、いつだって正確で、優しくて、少し怖い。

 

「お店には、ちゃんと見に行くから」

 

 私は頷いた。

 

 お姉ちゃんが布団に入って、枕元の明かりだけになった部屋で、私はしばらく天井を見つめていた。古い木の梁が、影をつくっている。

 嘘は、もうつきたくない。

 でも、魔法少女のことは言えない。この矛盾は、たぶんこれからずっと続く。

 

 

 喫茶店での研修が始まる。

 

 スタッフルームで着替えた。エプロンは黒い無地のもので、紐の結び方が下手で解けかけてしまったのを、氷川さんが無言で後ろに回って直してくれた。背中に回る前に、ちゃんと私の視界に入って「直すよ、ひも」と声をかけてくれたのが、昨日の約束を覚えていてくれている証拠だった。

 

 ホワイトボードはキッチン入口の壁に固定し、触った後は必ず手を洗う決まりになった。

 

 厨房は狭かった。二人が並んで立つとぎりぎりの幅。

 二槽式シンクと、小型の食洗機。コンロが二口、作業台が一つ。業務用の冷蔵庫が壁際に鎮座していて、その上に調味料の瓶が並んでいる。換気扇の低い唸りと、お客さんの話し声。コーヒーの匂いと、トーストが焼ける香ばしさ。

 

「まずは洗い物から」

 

 氷川さんがシンクの前に立って、食器の洗い方を見せてくれた。スポンジの持ち方、洗剤の量、すすぎの水の温度。カップの取っ手の裏側まで丁寧に洗うこと。水切りカゴに伏せるときの向き。

 一度見せてもらえれば、覚えられる。家で毎朝やっていることと、そんなに変わらない。ただ、数が違う。家では二人分か三人分だったけれど、ここでは次から次へとカップや皿が運ばれてくる。

 

「次は……カトラリーを拭こっか」

 

 洗い終えた食器を布巾で拭く。フォークの先、ナイフの刃、スプーンの裏。一本ずつ丁寧に。

 これも家でやっていることの延長だけれど、人に出すものだと思うと自然と手に力が入る。

 

「トースト用のパンを切ってみる? 厚さはこのくらい、大体でいいよ、私は大体でやってる」

 

 氷川さんが見本を切って見せてくれた。四枚切りよりほんのちょっと薄い、でも六枚切りよりは厚い、絶妙な厚さ。パン切り包丁の刃を前後に動かす感覚が慣れなくて、最初の一枚はやや斜めになった。

 

「もう一回やってみる?」

 

 二枚目。今度はまっすぐ切れた。氷川さんが小さく頷いた。それだけ。大袈裟に褒めもしないし、叱りもしない。できたらできた、できなかったらやり直し。その淡白さが、私にはちょうどよかった。

 

 一番緊張したのは、プリンの盛り付けだった。

 

 この店の看板商品は固めのプリン。カラメルソースが別添えで、プリンの上にはホイップクリームと季節のフルーツを添える。今の季節は苺。クリームを絞り袋で絞って、苺を半分に切って、プリンの横に立てかける。

 氷川さんが手本を見せてくれた。絞り袋の先から、白いクリームがくるりと渦を巻いて、完璧な山を作った。苺の断面が上を向いて、クリームの白と苺の赤が、小さな皿の上でぴたりと調和している。

 

「やってみて」

 

 絞り袋を受け取った。先端に力を入れて、クリームを押し出す。出た。出たけれど、渦を巻く前に袋の先がぶれて、白い山が左に傾いた。ほんの少し。気にしなければ気にならないくらいの傾き。でも、氷川さんの見本と並べると、その差は歴然だった。

 

 私は深刻に落ち込んだ。

 魔物を一撃で切り裂ける手が、クリーム一つまっすぐに絞れない。最上位の出力が、ここでは何の役にも立たない。剣を振る手と、クリームを絞る手は、まったく別のものだった。家でやってる家事の中には、こんな作業は存在しないから、力加減もよく分からない。

 

 氷川さんが私の手元を見て、言った。

 

「百点じゃなくていい。お客さんが食べて美味しいのが正解。傾いたクリームでも、味は変わらない」

 

 それから、わずかに声のトーンが柔らかくなった。

 

「でも、気になるなら練習すればいい。賄い分で」

 

 賄い分。つまり、失敗したプリンは自分で食べていいということだ。

 私は黒いマーカーでホワイトボードに書いた。

 

『練習します』

 

「うん」

 

 午後の営業時間が過ぎていく。洗い物、パン切り、サンドイッチの野菜を並べる、注文票を確認する。どれも派手なことではない。魔物を倒すこととは何の関係もない、地味で、小さくて、繰り返しの仕事。

 でも、カウンター越しにホールが見える。窓際の席で、おばあさんがプリンを食べている。私が盛り付けたプリンではないけれど、いつかは私が盛り付けたものを食べてもらえるのかもしれない。

 その人がスプーンを口に運んで、少し微笑んだのが見えた。

 

 誰かの役に立つために、傷つく必要はなかった。ここでは。

 

 まだ言葉にはできない。言語化するには、経験が足りない。でも、身体のどこかがそれを感じていた。丁寧に皿を洗って、きれいに拭いて、棚に戻す。それだけのことが、確かに誰かのためになっている。痛みも、傷も、必要ない。

 

 

 ドアベルが鳴った。からん、といういつもの音。私は厨房でサンドイッチ用のレタスを並べていたところで、反射的にカウンターから入り口を覗いた。誰が来るか、事前に分かっていたから。

 ちょうど、このお店がガラガラに空く時間帯。他のお客さんがほぼいなくて、結構な余裕が生まれる午後の今に、お姉ちゃんに来て欲しいと伝えておいたから。

 

 お姉ちゃんが立っていた。

 

 制服姿。紺のブレザーに白いブラウス、灰色のスカート。肩にかかるくらいの黒髪がきっちり整えられていて、いつも通りハーフアップを編み込んである。鞄を両手で前に持っている。姿勢がいい。背筋がまっすぐ伸びていて、入口に立っているだけで空気が変わった。

 

 お姉ちゃんは、美しい人だ。「整っている」という言葉がぴったり合う。切れ長の目、すっと通った鼻筋、薄い唇。冷たい印象を与えかねない顔立ちだけど、笑うと全部が柔らかくなる。でも、今は笑っていない。観察している目だった。

 

 私は顔を伏せた。心臓がばくばくしている。魔物と対峙しているときより確実に脈が速い。

 

 氷川さんの声がした。

 

「いらっしゃいませ。お一人様ですか」

 

「はい……いえ、あの。片桐碧と申します。妹の、片桐紫水がこちらでお世話になっていると聞きまして」

 

 お姉ちゃんの声だ。丁寧で、落ち着いていて、でも有無を言わせない芯がある。

 

「ああ、はい。話は聞いてます。どうぞ、お掛けください」

 

 氷川さんがお姉ちゃんをカウンター近くの二人掛けテーブルに案内している。お姉ちゃんは座る前に、店内を一周見回した。天井、壁、非常口の表示、厨房への動線、他のお客さんの様子。全部を三秒くらいで確認している。

 お姉ちゃんは、こういう人なのだ。雰囲気だけで安心しない。自分の目で見て、自分の頭で判断する。そういうところが、かっこいい。

 

「紫水をアルバイトに誘ってくださったのは、貴女ですか」

 

「はい。氷川です。この店のスタッフをしています」

 

「保護者……祖父にも話しています。今日は、妹が働く環境を確認させていただきたいです。責任者の方とお話ししたいのですが……」

 

 お姉ちゃんは鞄からメモ帳を出した。メモ帳。質問を書いてきたのだ。準備してきている。

 氷川さんはカウンターの椅子に軽く腰をかけて、お姉ちゃんと向かい合った。私は厨房の小窓から、二人の様子を見守った。

 

「あー、店長、不在なので。私が代理で説明しますね」

 

「不在……そうですか」

 

 お姉ちゃんの顔に少し警戒が浮かんだ。不安だ、大丈夫だろうか。怖い。

 

「紫水のシフトは何時くらいを予定していますか?」

 

「基本は夜七時までです。それより遅い時間のシフトには入れません」

 

「それでも、帰宅が遅くなることは……?」

 

「ありません。シフトの終わり時間は固定です。原則として延長はありません」

 

「じゃあ、お客様への対応が必要になることは。紫水は声が出せませんから、急にホールに出されると困ります」

 

「ホールには出しません。キッチン専任です。配膳も、声での応答が必要な業務も、させません」

 

 お姉ちゃんの質問は鋭くて、的確で、でも失礼ではなかった。相手を疑っているのではなく、確認している。その違いを、氷川さんもわかっているようだった。

 

 その後も、時給や勤務日数、試用期間中の扱い、緊急連絡先などなど。質問は続いた。書類で既に読んだ内容を、再確認するような内容も多い。本当に念入りだと思う。

 

 私の声についての話になった頃、氷川さんがカードの実物を見せた。あらかじめ、説明用にと渡しておいたものだ。お姉ちゃんがそれを手に取って、じっと見つめた。カードの文字を一枚ずつ読んでいる。「わかりました」「わかりません」「手伝ってください」「休憩したいです」「危険」。

 お姉ちゃんの目が揺れた。妹のために用意されたそれらを見て、何を思ったのだろう。

 

「……紫水のことを、ちゃんと考えてくださっているんですね」

 

「当たり前です。うちのスタッフなので」

 

 氷川さんの返事はそっけなかった。でも、「当たり前」の一言が、お姉ちゃんの目の揺れを少し鎮めたように見えた。

 

「紫水を呼んでもらっても、いいですか?」

 

 氷川さんが厨房に向かって声をかけた。

 私はペーパータオルで手を拭いて、厨房から出ていく。お姉ちゃんが私を見た。エプロン姿の私を。お姉ちゃんの表情が、また揺れて、すぐに戻った。

 

「紫水。お仕事、どう?」

 

 お姉ちゃんの声が柔らかかった。さっきまでの面接官の声ではなく、家での声に近い。

 

「この仕事を続けたい? 紫水の気持ちを教えて」

 

 私はスマートフォンに答えを打った。

 

『続けます』

 

「どうして?」

 

『誰かの役に立てる紫水になれるから』

 

 お姉ちゃんが何かを言いかけた。でもすぐに、唇がきゅっと引き結ばれた。反発。それが一瞬だけ目に浮かんで、でもすぐに消えた。お姉ちゃんは数秒間黙って。

 

「……紫水。役に立たなくたって、紫水は紫水なんだよ」

 

 私は首を横に振った。お姉ちゃんは間違ってない。私を思ってくれているだけだ。

 お姉ちゃんはメモ帳を膝の上に置いて、深く息を吸った。氷川さんの方へ向き直る。

 

「紫水が自分でやりたいと言ったことは尊重します。でも、安全かどうかは別に確認します。それは、わがままではなくて、姉として、です」

 

 氷川さんが小さく頷いた。

 

 お姉ちゃんが考えを巡らせているのが、手に取るように分かる。その横顔が、本当にきれいだった。真剣に何かを思うお姉ちゃんの横顔が、私は好きだ。睫毛が長くて、伏せた目の下に小さな影が落ちる。

 

 それから、私はお姉ちゃんに一つだけお願いをした。

 

 厨房に戻って、プリンを一つ、盛り付けた。練習した成果だ。

 クリームを絞る。渦を巻かせて、てっぺんをちょんと尖らせる。苺を半分に切って、断面を上にして立てかける。カラメルソースを別の小さな器に注ぐ。

 まだ氷川さんの見本には及ばない。でもまっすぐ絞れるようになった。

 お姉ちゃんの前に、そっと置いた。

 

『お姉ちゃんには特別に、私から配膳します』

 

『ホールにはふつう出ないから、大丈夫だよ』

 

 お姉ちゃんがプリンを見つめた。それからスプーンを取り上げて、クリームと一緒に一口。

 吸い込まれるように、止まった時間の中で、私はそれを見ていた。スマートフォンを両手で握りしめて、感想を待つ。心臓がうるさい。魔物と戦っているときの百倍うるさい。

 

 お姉ちゃんがスプーンを置いた。

 

「おいしい」

 

 まず、それだけを。それから少し間を置いて。

 

「ちゃんと、お仕事してる顔だったね」

 

 お姉ちゃんが笑っていた。いつもの、ちょっとだけ困ったような、でも嬉しそうな笑顔。

 

「少し寂しいけど、格好よかったよ」

 

 寂しい。

 その一語が、胸の真ん中に落ちた。お姉ちゃんも寂しいのだ。私が自分の知らない場所に立っていることが。私が、お姉ちゃんの手の届かないところで何かをしていることが。

 紫水だけがお姉ちゃんに依存しているのだと、ずっと思っていた。でも違った。お姉ちゃんも、私を手元に置いておくことに、安心を感じていたのだ。それを手放すのが怖いのだ。

 それでもお姉ちゃんは、「格好よかった」と言ってくれた。寂しさを飲み込んで、私の選択を認めてくれた。

 

 こんなにも、愛おしい人が、私のお姉ちゃんだ。

 

 

 お姉ちゃんが帰る前に、客席の隅で二人きりになった。

 

「店はちゃんとしてると思う」

 

 お姉ちゃんの声は穏やかだった。

 

「小さいお店だし、従業員も少ないけど……氷川さんは、紫水を子ども扱いしすぎてないね。あの人、いい人だと思う」

 

 それから、少しだけ声のトーンが変わった。

 

「でも、この前の嘘までなかったことにはできない」

 

 わかっている。私はスマートフォンに打った。

 

『言えないことは、私にもあります、どうしても生まれてしまいます』

 

『でもそれはお姉ちゃんを信じていないからじゃない』

 

 お姉ちゃんは画面を読んで、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。

 

「分かった。全部話して、とは言わない。紫水にも、私に言わないことがあっていいと思う」

 

 そこで一度、言葉を切った。

 

「でも、安全かどうかについてだけは、嘘をつかないで。危ないのに危なくないって言うのだけは、絶対にやめてね」

 

 胸が痛かった。物理的に。鳩尾の奥がきゅうっと締まる。だって、魔法少女の仕事は危険だ。魔物と戦うことは、どう言い繕っても安全ではない。でもそれを正直に言ったら、お姉ちゃんは全部を止めるだろう。

 「絶対に安全です」とは、言えなかった。言わなかった。今度はその嘘だけはつかない。だから私は、画面にこう打った。

 

『やっぱり全部話せないかもしれない』

 

『でも、怪我をしたことや、体調が悪いことは隠さない』

 

『危険があるのに、安全だとは言いません』

 

 お姉ちゃんは画面を読んで、ちょっとだけ目を細めた。

 

「……手、握ってもいい?」

 

 私は頷いた。お姉ちゃんの手が、私の右手を包んだ。細くて白い指。でも握る力はしっかりしていて、温かくて、汗ばんでいた。緊張していたのだ、お姉ちゃんも。この視察の間ずっと。

 

「働くの、やってみていいと思う。ただし、私とおじいちゃんは、見てるから。信じるけど、確認もする。それは許して」

 

 お姉ちゃんらしい、と思った。信じるけど確認する。それは矛盾しているようで、矛盾していない。信じることと、確かめること。お姉ちゃんにとっては、どちらも同じくらい大切なのだ。

 

 お姉ちゃんが立ち上がって、鞄を持った。

 

「じゃあ、帰るね。帰る時間は守ること」

 

 私は全力で頷いた。お姉ちゃんがドアベルを鳴らして出ていくのを、入口まで見送った。ガラスの扉越しに、お姉ちゃんの後ろ姿が商店街に消えていく。紺のブレザーの背中。あの後ろ姿。

 

 

 戻ると、氷川さんがカウンターの中でグラスを拭いていた。

 

「厳しいお姉さんだね」

 

 振り返りもせずに、ぼそっと言った。

 

「でも、あれは止めたいんじゃなくて、ちゃんと知りたい人の質問だったと思う」

 

 グラスを棚に戻して、次のグラスを取る。

 

「いいお姉さんだと、私は思ったよ」

 

 私は全力で頷いた。それからスマートフォンを取り出して、画面に打ち始めた。お姉ちゃんがどれだけ素晴らしい人か。朝ごはんを毎日食べてくれること。私の髪を毎晩梳いてくれること。笑うと目が三日月みたいになること。嘘は許さないけど秘密は許してくれること。カレーにチョコレートを入れること。

 

 氷川さんが私のスマートフォンをちらりと見た。

 

「……そこまで聞いてないんだけど」

 

 手を止めた。でも消しはしなかった。だってお姉ちゃんの素晴らしさは、このスマートフォンの画面一枚に収まるようなものではないのだ。

 

 氷川さんがカウンターに肘をついて、こちらを向いた。ピアスが照明を受けて光る。

 

「店の仕事は私が教える。魔法少女の仕事も、今後は一緒にやることもあるかもね」

 

 一緒に。自分以外の魔法少女と、一緒に戦うということだろうか。

 

「出力だけなら、たぶんあんたの方がずっと上。私は弱いよ。おじさんがびっくりしてたから、相当でしょ」

 

 氷川さんの声にはお世辞の色がなかった。事実を述べているだけのトーン。

 

「でも、強いことと、上手に戦えることは別だから……死なないやり方くらいは教えられる」

 

 クリームの話と同じだ、と思った。最強の出力を持っていても、クリームはまっすぐ絞れない。最上位の力を持っていても、戦い方は最下位。先生にも同じことを言われたし、氷川さんにも言われる。

 でも、この人にそう言われると、不思議と落ち込まなかった。氷川さんの言葉には、余計な感情が無い。ただ、「だから教える」という続きが聞こえる。

 

 スマートフォンが震えた。お姉ちゃんからのメッセージだった。

 

『さっきのプリン、超美味しかった』

 

『紫水! 格好良かったよ!』

 

 メッセージを、私は五回読み返した。六回目を読もうとしたところで、氷川さんの視線に気づいた。カウンター越しに、こちらを見ている。

 

「……すごく嬉しそうだね」

 

 否定しなかった。だって本当に、嬉しかったのだ。最強だと言われるより、お姉ちゃんに格好よかったと言ってもらえることの方が、何倍も嬉しい。

 

 私はメッセージに返信した。

 

『はい』

 

『今日帰ったら、もう一回褒めてね』

 

 送信して、画面を胸に当てた。

 

 最強と言われても、まだよくわからない。最上位ですと言われても、実感がない。魔物を一撃で倒せることだけが、自分の価値なのだとは、以前ほど思えなかった。

 けれど、お姉ちゃんが格好よかったと言ってくれた。

 ならば今日の私は、格好よかったのだ。

 

 私はそのメッセージを、星に願うみたいに何度も読み返した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。