魔法少女アメシスタ、あるいは、星屑に懸けた片想いの話。 作:秩序
氷川さんと協力して戦う。そんな機会は思いの外、すぐにやってきた。
氷川さんと呼ぶのは相応しくないのかもしれない。今この場において私達は魔法少女であり、変身をし、いつもの自分ではなくなっていて。気持ちひとつで戦う私達にとっては、やはり気持ちというのは大事なものなのだろうから。私がアメシスタであるように。
「……魔法少女、シオニクス。それが名前」
「改めて、よろしくお願いいたします……っ」
「うん。良い声してるんだね」
変身前から変わらず、シオニクスの髪は緩いウェーブをまとって風に靡き、その黒の隙間から白や銀に見えるメッシュやインナーカラーが覗いている。私は髪の色も変わったけれど、この先輩はどうやら違うらしい。
服装についてもつい気になってしまう。魔法少女と呼ぶにはやっぱり真っ黒だ。私と同じ。
ただ、私のように鮮やかな紫色の光は無かった。黒の中に際立つ白いラインが入っていて、それが時折煌めくのが分かる。黒と白のまだら模様をした石の名前を、何と言ったっけ。
形状についても、私と一見すると似ているかなと思ったけれど、よく見てみれば全然違う。
まずスカートではなくてパンツスタイルだし、それも左右で長さが違っていて、スラリと長い足がよく目立っている。上半身を覆う大きめのパーカーは、なんならブカブカなくらいのサイズ感で、すっぽりと華奢な体躯を隠している。
その内側は随分と風通しが良さそうな格好をしていて、お腹が見えている。引き締まった身体つきがぱっと見で分かるようになっていた。一般的な物理法則から外れているであろう私達にとって、防御力がどうとか耐久性がどうだとかはナンセンスな疑問なんだろう。私だって、事実ひらひらのワンピース姿で戦場にいるわけで。
ただ、それにしたってこの服装がどう決まっているのか、少し邪推のニュアンスを込めて先生を見つめてしまう。何でシオニクス先輩はお腹を出しているんですかって、聞きたい。聞きたい。
「というわけで、本日はお二人で一緒に戦ってもらいますよ。別に魔物が強大であるとか、そういった理由ではありませんのでご安心ください」
「え、そうなんですか……?」
「ええ。今日は先輩による後輩への指導を中心に、お二人の仲を深めてもらいたいと思っています」
なるほど。喫茶店で私がキッチンの仕事を教えてもらうのと一緒で、何かを学ぶにはやはり現場で先輩と一緒にというのがセオリーなのだろう。私自身、人見知りだし内向的な性格だけれど、そこに大きな抵抗はなかった。
「……」
それは、目の前で無表情のままエナジードリンクの缶を取り出して飲み始めたこの先輩が。
魔法少女シオニクス先輩が。氷川詩音さんが。
第一印象の怖さとは裏腹にとっても優しくて、良い人だとよく実感しているからなのだと思う。お姉ちゃん以外の人と関われていること自体が、私としては大きな一歩でもある。その高揚感と達成感もまた、私の前向きな気持ちを押してくれているんだろう。
けれど。何の疑問も無いわけではなくって、口にするには少し失礼なそれを。
先生は平然と探り当てた。
「ところでアメシスタ、貴女はきっとこう思っているでしょう」
「……?」
「こんなにも強い私が、何か教わるべきことなどあるのかと」
「えっ、あ、いや。それは、えーっと。その」
先輩が言葉と、身体で遮った。
「おじさん。新人いじめるのやめなよ」
「あの、でも、先輩……? 私、何を教わればいいんでしょう……」
「死なない方法、生き延びる方法、安全に立ち回る方法……まあ、なんでもいいよ、言い方は」
いつもと変わらない黄昏の幻影が包み込むビルの屋上で、風に吹かれるままに先輩は告げる。
「弱くなった後の戦い方だよ」
◇
その言葉の意味を、私はすぐには飲み込めなかった。弱くなる。この力が。この、魔物を一撃で切り裂いて消し飛ばしてしまう力が。でも、先輩の声にはいつもの平坦さしかなくて、冗談や比喩で言っているのではないと分かった。
屋上のフェンスを越えて、隣のビルへ跳ぶ。先輩が先導して、私がついていく。
先生は別ルートで移動しているらしい。今更だけれど、あの人は本当に色々と謎だ。
魔物がいる地点までは、ビルの屋上を三つ渡った先だという。変身中の身体は嘘みたいに軽くて、四階建てのビルの間を跳び移るくらいなら息も切れない。風を切る感覚が心地いい。晴れた横浜の街並みが眼下に広がっていて、この景色だけは何度見ても慣れなくて、それが良い。
跳びながら、先輩に言われたことと、先生に説明されたことを反芻していた。
魔法少女の力は、永遠ではない。
それを理解するには、まずエネルギーの話をしなければならない……と。先生が先ほど口頭で説明してくれた内容だ。先輩も横に並んで「それ、もっと簡単に言ってあげなよ」と何度か口を挟んでいた。
この世の中のエネルギーは、高低差から生まれる。
温度の高い場所と低い場所があるから熱が流れる。水圧の高いところと低いところがあるから水が動く。電圧の差があるから電流が走る。高いところから低いところへ、何かが流れ落ちる。その落差こそがエネルギーの源だ。ひとりで理科の教科書で読んだ話とそう大きくは変わらない。
星側は、その原理を人間の内面に適用した。
願い。こうなりたい、こうありたい、こうしたいという理想の姿。そして、その願いがまだ叶っていない現状。この二つの落差が、魔法少女の力の源になる。
願いと現実の距離が大きいほど、落差が大きいほど、エネルギーは強くなる。私の出力が異常に高い理由も、突き詰めればそういうことだった。私の願いと、今の私の現実との間には、途方もない断崖がある。
逆に言えば。
願いが叶えば落差は消える。高いところと低いところが同じ高さになれば、水は流れない。エネルギーは生まれない。魔法少女の力は失われる。
願いが満たされたとき、魔法少女は卒業する。
卒業してしまう。
先生はそう呼んでいた。力を失って、日常に帰る。代償はない。呪いも罰もない。
ただ、願いが叶ったという事実だけが残って、普通の人間に戻る。変身もできなくなるし、声が魔法で戻ることもなくなるけれど、その代わりに願いが叶っている。それはある意味では最も幸福な結末なのかもしれない。
もちろん、魔法少女として戦うことそのものが願いを叶えるわけではない。魔物を百体倒したら願いが成就する、なんて都合のいいシステムではない。願いは願いとして、現実の中で少しずつ叶っていくか、あるいは叶わないままでいるか。
魔法少女の活動と願いの成就は、直接には結びついていない。
先生は例え話をしてくれた。
億万長者になりたいという願いを持つ魔法少女がいたとする。
現実の貯金残高と理想の資産額の間には、おそらく天文学的な落差がある。その子はとんでもなく強い魔法少女になるだろう。現実と理想が絶望的なまでに離れているから。
先生は続けた。
願いというのは、一枚岩ではない。
表面に浮かんでいる願いの下に、もう一層ある。さらにその下にも。二重、三重、ときにはもっと深い階層になっている。自分で自覚している願いと、本当の願いが一致しているとは限らない。むしろ、一致していないことの方が多い。
億万長者になりたいと思っている子の本当の願いは、もしかしたら生活がほどほどに安定して、そこそこの収入を得て、将来の不安なく暮らせることかもしれない。月々の家賃を心配しなくていい程度の生活。贅沢はできなくても、食べたいものが食べられるくらいの余裕。
もしその子が、お仕事を始めて、貯金が少しずつ増えて、来月の家賃を気にしなくてよくなったとしたら……それでも、表面上は億万長者には程遠い。けれど、真の願い。本当に求めていたものは、静かに満たされている。そのとき、落差が消える。力が失われる。卒業が訪れる。
本人は納得できないかもしれない。まだ億万長者じゃないのに、と思うかもしれない。
でもエネルギーの法則は自覚している願いではなく、真の願いに準拠する。自分が思い描いている理想と、心の底が本当に求めているものとの間にはズレがある。
だからですよ。と、先生は言った。自分の本当の願いが何なのかよく知っておくこと。それが強さを維持するためにも、いつか訪れる卒業に備えるためにも大切なことだと。
先輩が「弱くなった後の戦い方」と言ったのは、つまりそういうことだった。願いが少しずつ叶って、力が少しずつ弱くなっていく。その過程で魔物と戦い続けなければならないなら、出力だけに頼った戦い方では立ち行かなくなる。技術がいる。判断力がいる。仲間との連携がいる。
今の私は最上位の出力を持っている。でもそれは、私の願いと現実の間にある断崖が途方もなく高いということの裏返しでもある。強いことは、幸せから遠いということだ。先生も先輩もそうは言わなかったけれど、私にはそう聞こえた。
でも。忠告について正直に言えば、私にとっては愚問だった。
自分の願いが何かを知っておくこと。二重三重の構造の奥にある、本当の願いを見つめること。先生の助言は正しいのだろう。
でも、私には迷いがない。
お姉ちゃんと一緒にいたい。いつまでもどこまでも。命果てる時まで。
胸を張って、堂々と。守られるだけの妹ではなく、お姉ちゃんに何かを返せる人間になって、隣で。
その願いは一度だって揺れたことがない。
表面も二層目も三層目も、たぶん全部同じだ。少なくとも私はそう信じている。億万長者の例え話みたいに、本当は別のものを求めていたなんてことはない。私の願いは一つで、明確でぶれない。
だから弱くなることなんて、想像できなかった。
でも先輩は備えろと言う。
その言葉を軽く見るほど、私は愚かではないつもりだ。先輩は中学一年生から魔法少女をやっているらしい。その歳月をコツコツと孤独に戦い続けてきた人だ。その人が「弱くなった後の戦い方を教える」と言っているのだから、それは必要なことなのだ。
たとえ今の私には、実感がなくても。
「着いたよ」
先輩の声で、思考が途切れた。
先輩は隣のビルの縁に片足をかけて、眼下を見下ろしている。夕陽に照らされた髪の白いメッシュが光っていて、左耳のピアスがちかちかと揺れていた。パーカーの裾が風に煽られて、引き締まった腹部が覗く。やっぱり先生に聞きたい。なぜお腹が出ているのか。
先輩が指さした方向を見た。
三つ先の交差点のあたりに、濃い、泥のような暗さが路面から立ち上っている。領域の境目だ。あの中に魔物がいる。
「今回はね。一撃で終わらせるのは禁止だよ」
先輩がこちらを振り返った。無表情のまま。そこにはただ情報を伝えるという意図だけがある。
「私の指示どおりに動いて。言われたことだけやって。余計なことはしないで、よろしくね」
私は頷いた。先輩の目をまっすぐ見て、はっきりと。
「はいっ、やります」
「行こう」
先輩がビルの縁を蹴った。黒い影が青い空に飛び出して、風を纏って降下していく。
私はその背中を追って、跳んだ。
◇
空気が変わった。
泥の底に沈んだみたいに音が遠くなる。街の喧騒も車の音も全部が膜一枚の向こうに押しやられて、ここには私たちと魔物だけが存在している。交差点のアスファルトがめくれ上がっていた。正確には、めくれた先が砂利と砂に変わっている。潮の匂い。磯の匂い。
それは、交差点の真ん中にいた。
ヤドカリだ。
体高は二メートルを超えている。普通のヤドカリなら掌に乗る大きさだけれど、目の前のそれは重機くらいある。真っ黒に蠢く表面はざらざらとした岩肌に似ていて、ところどころに藤壺のようなものがこびりついていた。
二本のハサミが前方に突き出されている。左右で大きさが違う。右の方が明らかに大きい。シルエットでしか判別できないけれど、確かに目が二つ、細長い先でぐるりと回って私たちを捉えた。
正直に言えば、一撃で終わる。たぶん。殻ごと叩き割って、中身を断てばいい。剣を振り下ろすだけだ。今までと同じ。
でも今日はそれが禁止されている。
「アメシスタ。下がって、見てて」
先輩の声が、前方から飛んできた。先輩は既に交差点の中央に降り立っていて、いつのまにか左手に武器を提げていた。
異様な形だった。
大きな横長の箱。長方形で、先輩の身長そのままくらいの長さがある。
黒い表面に白のラインが走っていて、ソリッドな装飾が控えめに施されている。真ん中あたりに取っ手がついていて、先輩はそれを片手で持っている。手提げ鞄みたいに。
ただ、箱の前方の側面から、何かが突き出していた。
突起物のような棒のような。いや、刀の柄に近い。柄糸が巻いてあるような意匠が見える。あれを引き抜いたら、中から刀身が出てくるのだろうか。鞘なのだろうか、あの箱は。想像を巡らせる。
ヤドカリが動いた。
速い。巨体から想像できない俊敏さで、右のハサミが横薙ぎに振られた。地面を削りながら、先輩の胴体めがけて。空気を裂く音がした。アスファルトの破片が飛び散る。
先輩は半歩だけ下がった。たった半歩。
そしてあの箱を、ハサミの軌道の前に差し出した。
甲殻と金属がぶつかる轟音。火花が散った。でも先輩の身体はほとんど揺れなかった。半歩下がった足が地面に根を張ったみたいに動かない。箱の表面でハサミを受け止めて、そのまま横に流す。力で押し返すのではなく、角度を変えて逸らす。
ヤドカリのハサミが明後日の方向に流れて、勢い余った巨体が前のめりに傾いだ。
「アメシスタ。攻撃しないで。見て、考えて」
先輩の声は息一つ乱れていない。
ヤドカリが体勢を立て直す。左の小さい方のハサミが今度は上から振り下ろされた。
先輩は右に半歩。また半歩だけ。最小限の動きで軌道から外れて、振り下ろされたハサミが空を切る。地面に叩きつけられ、アスファルトに亀裂を走らせた。
その隙に、先輩は口を開いた。戦いながら、淡々と。
「いつも何を考えて戦ってた?」
何を考えて。戦闘の最中に。
お姉ちゃんのことだ。頭の中はいつもお姉ちゃんのことでいっぱいで、戦闘の細部なんてほとんど覚えていない。
「……お姉ちゃんのこと、です」
「そう。合ってるよ」
先輩が箱を構え直した。ヤドカリが距離を取って様子を窺っている。
「魔法少女の力は願いから来る。だから戦ってる最中に、戦いのことだけ考えてても駄目だよ。願いに意識を向けないと、力が乗らない」
ヤドカリが突進してきた。体当たりする気だ。
先輩は動かなかった。箱を身体の前に構えて、正面から受け止める体勢を取った。
「ただし、がむしゃらに想えばいいってものでもない。コツがあって……」
殻と箱が激突した。今度の衝撃は先ほどの比ではなくて、先輩の足元のアスファルトにひびが入った。それでも先輩は下がらない。箱の表面に紋様のような白い光が一瞬だけ走って、衝撃を吸収していた。
「守るとき。願いの強度を想うこと」
先輩の少し掠れているあの声が、衝突の残響の中を縫って届いた。
「自分の願いが、他の何にも負けないって自覚。何を差し出されても、何と引き換えにしても、これだけは手放せないっていう確信。それを胸に置いて、受け止める」
ヤドカリが引いて、またハサミを振る。先輩は箱で弾く。さっきよりも軽い音だった。
「《盤相》。受ける技術の名前。覚えなくてもいいけど」
ヤドカリが後退した。殻の中に完全に引っ込んで、防御態勢に入っている。ハサミだけが外に出ていて、こちらを警戒している。先輩にダメージはない。そして、ヤドカリにもダメージはない。先輩はただ受け流しているだけだ。まだ一度も攻撃していない。
先輩がゆっくりと箱を下ろした。
片手で提げたまま、もう片方の手が箱の側面に伸びる。あの刀の柄に指がかかった。
「次。攻めるとき」
先輩の声は変わらない。ずっと平坦なまま。
「願いが叶った後の自分を想う。叶ったらどうなるか、叶ったら何が見えるか。その景色を、焦がれるように」
痺れを切らしたのか、ヤドカリが殻から身体を出した。右のハサミを振りかぶる。先輩めがけて。
先輩の指が、柄を掴んだ。
「焦がれるほど力が強まる。《星相》」
ぱちん。
箱の中から、白い刃が抜き放たれた。腰を落とし、柄を引き、鞘走りの一瞬で刀身が閃く。
視認できなかった。先輩の腕が動いたのは分かった。でも刀身が空を切る軌跡は、目が追いつかなかった。既に刀は、あの箱みたいな鞘の中に収まっている。私の耳に届いたのは鞘に収める音だった。
ヤドカリのハサミが落ちた。
根元から切断されていた。断面は滑らかで、切り離されたハサミが地面に落ちてから一拍遅れて、ヤドカリが甲高い悲鳴のような音を上げた。体液が噴き出す。真っ黒でドロドロの液体がアスファルトの上に広がっていく。
一瞬だった。構えてから納刀まで、息を一つ吐く間もなかった。
「すごい……」
出力は私の方が高いと、先生も先輩も言っていた。でも、今の攻撃に込められていたのは出力の大きさではなかった。最小の動作で最大の効果を。必要な場所に、必要な分だけ。正確に。
ヤドカリはハサミを一本失って、後ずさりしている。
「《盤相》で受けるとき、願いの根深さを想う。《星相》で攻めるとき、願いの先にある景色を想う」
先輩がこちらを向いた。切れ長の目が、優しく私を見つめている。
「で、流れの中で切り替えるの。想いの方向性を、一瞬で入れ替える」
箱を手提げ鞄のように揺らしながら、先輩は淡々と説明を続ける。私に必要な情報を、必要なだけ届けるように。その声に乗る。
「それが《軌相》。切り替えの技術。これができると、力が弱くたって戦える。緩急がつくから」
ヤドカリが殻の中で身じろぎしている。残った左のハサミがこちらを威嚇するように開閉している。先輩はそれを横目で確認しながら、私に向き直った。
「でね、アメシスタ」
「はいっ……」
「実はもうやってたんだよ、半分くらい」
「……えっと?」
「いっつもお姉ちゃん……つまり、何かしら願いのこと考えて戦ってたんじゃないかな。それを無意識に、ぐるぐる考えながら剣を振ってた」
心臓が跳ねた。見透かされている。
「異常な出力はたぶんそれ。漠然と願いへの想い一色で塗り潰してたから、切り替える必要もなかった。力が有り余ってるから、最大出力のまま殴って終わりだったんだよ」
反論できない。その通りなのかもしれない。思い当たる。ずっとお姉ちゃんのことばかり考えて、あっという間に戦いは終わってしまっていたから。
「ただ、それだとやっぱり駄目なんだよ」
先輩の声が、少しだけ柔らかくなった。
「力が落ちてきたとき、全部を想いの強さで押し切れなくなる。想いの配分を自分で操れないと」
先輩がヤドカリの方へ視線を戻した。
「だから今日から練習。一撃で壊さないで、受けて、見て、必要な分だけ斬って」
先輩は交差点の端まで下がった。場所を空けてくれたのだ、私のために。
「おいで、アメシスタ」
「全部ひっくるめて、《星見》って呼ぶ。星を見るように、自分の願いを見つめて戦う技術……こういう名称全部、別に覚えなくていいけど」
私は剣を握り直した。大きくて不格好で、先端が四角いヘラみたいな大剣を。いつもなら何も考えずに振り下ろしていた。今日はそれが許されない。
お姉ちゃんのことを考える。それはいつもと同じだ。でも、ただ考えるだけじゃなくて、どう考えるかを選ぶ。受けるときは、この想いが絶対に揺るがないと信じる。攻めるときは、お姉ちゃんの隣に立てた未来を焦がれる。そして、その二つを切り替える。
流れの中で。一瞬で。
ヤドカリが、残った左のハサミを振りかぶった。
私は息を吸って、踏み込んだ。
◇
結論から言えば、あっけなかった。
ヤドカリの残ったハサミを受け止めた。剣の腹で弾いた。
先輩の言うとおり、お姉ちゃんへの想いの深さを胸に置いて。他の何にも負けないという確信を、刃の代わりに盾にして。硬い甲殻がぶつかる衝撃は、確かに腕に伝わった。でも揺るがなかった。この想いは揺るがない。それだけは、練習するまでもなく知っていた。
そして。
攻めに転じるとき、想いを入れ替えた。お姉ちゃんの隣に、胸を張って立っている自分。声を出して、お姉ちゃんの名前を呼んでいる自分。朝ごはんを作って、いってらっしゃいと言える自分。愛し合って、見つめ合って、想い合える毎日。その景色を思い描いた瞬間、胸の奥が焦げるように熱くなった。
一太刀。
殻が割れた。殻の内側に潜んでいた本体が露出して、そのまま柔らかい腹を剣が断ち切った。ヤドカリは声もなく崩れて、黒い粒子に還っていった。砂のように、星屑のように。いつもと同じ消え方だった。
するとすぐに領域が剥がれ始める。泥のような空気が薄れて、本来の街の音が遠くから染み込んでくる。上手くいったのかいってないのか微妙なラインだと思う。結局一撃ではあったのだから。
「戻ろう」
先輩の声がした。一撃で倒しちゃったことを叱られるかと思ったけど、そんなことは一切無くて。私は頷いて後を追った。結界の残滓が揺れている方へ。先生が維持してくれている安全な結界の中へ。領域が完全に解ける前に、私たちの姿が一般人の目に触れないように。
ビルの屋上に戻った。先生の結界の中では黄昏色の空が広がる、いつもの場所。もう慣れてきたのだろう、確かな安心感を覚えている。先輩が変身を解かないまま、パーカーの内側からエナジードリンクの缶を取り出した。どこに入っていたのだろう。
「はい、お疲れ」
先輩が缶を差し出してくれた。
受け取れなかった。
指が、缶に触れた。握れなかった。表面は結露で濡れていて、滑って、缶が指の間をすり抜けて落ちた。コンクリートの屋上に、からん、と音が転がった。
「あ」
先輩が声を上げた。私は咄嗟にしゃがんで缶を拾おうとした。
手が震えていることに気付いた。
嘘だ。嘘だ。戦闘中は震えていなかった。剣を振るとき、ハサミを受け止めるとき、殻を断つとき、指は一度も震えなかった。なのに今、エナジードリンクの缶ひとつ握れない。何故?
「大丈夫……?」
先輩の声が聞こえている。心配してくれている。でも返事がうまくできなかった。声は出る、変身中だから、声は出る。出るんだ。でも喉が詰まったみたいに言葉にならない。怪我はしていない。どこも痛くない。身体は無事だ。問題は、そこじゃない。
気付いてしまった。目を背けきれなかった。
力が、弱まっていない。
さっきの戦闘ではっきりとわかってしまった。受けるとき、想いの強度を確認した。揺るがなかった。攻めるとき、願いの先にある景色を焦がれた。焦げるほど熱かった。出力は落ちていない。初戦闘のときから、一ミリも。
あの説明が頭の中で巡る。願いと現実の落差がエネルギー。願いが叶えば、落差が消えて、力は弱まる。弱まっていくのが普通で、だから弱くなった後の戦い方を学ぶ。力は弱まっていない。
一切。
つまり。
つまり、私の願いは。
前進しているはずだった。
あの家を出て、おじいちゃんの家で暮らし始めて、高校に通って。心療内科にも通って。レポートもちゃんと出して。お姉ちゃんの朝ごはんを作って、アルバイトを始めて、氷川さんという人と出会って。先生がいて、魔法少女になって。
片桐紫水という人間の人生は、間違いなく前に進んでいるはずだった。前の自分と今の自分を比べたら、別人みたいだ。声は出ないままだけれど、世界はずっと広くなった。
お父さんとお母さんに殴られて蹴られて、うずくまって泣いている自分はもういない。
なのに、力は一歩も動いていない。
落差が縮まっていない。
お姉ちゃんとずっと一緒にいたい。隣に立っていたい。そんな私の願い事。
それは何一つ、叶っていないということだ。
どれだけ前に進んでも、どれだけ強くなっても、どれだけ頑張っても。この願いは動かない。私の中にあるお姉ちゃんへの想いは、何をしたって埋まらない。だってお姉ちゃんの隣に立つというのは学校に通うことでも料理を覚えることでもアルバイトをすることでも魔物を倒すことでもなくてそうじゃなくて本当はほんとうはほんとうは
ほんとうは
お姉ちゃんに触れたいお姉ちゃんの名前を呼びたいお姉ちゃんの隣で眠って朝一番にお姉ちゃんの顔が見たい、お姉ちゃんの手を握ってどこにも行かないでって言いたいお姉ちゃんの唇にお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん
『本当に?』
缶が、冷たかった。
拾い上げたエナジードリンクの缶。
結露で濡れたアルミの表面。その冷たさだけが、ぎりぎりのところで私を引き留めていた。思考が散り散りに崩れていく中で、たった一つの物理的な感覚。冷たい。缶が冷たい。今、私は缶を持っている。ビルの屋上にいる。先輩がそばにいる。先生もいる。
大丈夫。大丈夫。
「……ありがとう、ございます。すみません、落としちゃって」
声が出た。ああよかった、ちゃんと言葉の形をしていた。先輩を見上げると、先輩はしゃがんで私の目を覗き込んでいた。無表情のまま。でも眉の角度がほんの少しだけ下がっていて、心配しているのだとわかった。
「……別にいいけど。大丈夫?」
「大丈夫です」
大丈夫じゃない。でも、ここで崩れるわけにはいかない。先輩の前で、先生の前で、パニックを起こすわけにはいかない。顔に出さない。言動に出さない。紫水は昔からそうしてきた。あの家で。痛くても笑って、怖くても黙って、何もなかったみたいにしていた。
その技術だけは、まだ錆びていなかった。
「ちょっと、手が滑っただけです」
缶のプルタブを引くと炭酸の抜ける音がした。溢れる前に一口飲んだ。甘くて苦い、トゲトゲしていてパチパチしている。ケミカルな味が喉を通っていった。冷たい。その冷たさだけを頼りに、私は笑った。