魔法少女アメシスタ、あるいは、星屑に懸けた片想いの話。 作:秩序
本日は平和な一日でした。鍵を掛けたお店のドアがそんなことを語ってる気がする。
星側の拠点を兼ねているとは思えないくらい、喫茶店としてちゃんと営業しているこの店で、私はまた仕事を覚えながら働いて、今日は作れるメニューが二つ増えた。コーヒーはまだまだ難しいと学んだ。
あと、改めて氷川さんのことを先輩と呼ぶことに決まったりした。詩音先輩。
「お疲れ様」
『はい、お疲れ様です』
夕暮れの空は本物の空。いつも先生が作り出す結界とは違って、本物の西日と風と香りがする横浜だ。今更だけどと言って、先輩はメッセージアプリの連絡先を交換してくれた。ホワイトボードやカードはあくまで業務中の専用グッズだし、いちいち私がスマホの画面の文字を見せるのも大変だと言ってくれて。
やっぱりこういうところに、安心感を覚えるのだと思う。平然と私を気にかけてくれる。良い先輩だと思う。先輩っていう存在はもっと、こう、上手く言語化ができない威圧感や怖さがあるものだと思っていたから。
方向が近いから、途中まで一緒に帰ろうと提案してくれたのも。
私は相変わらず、高校生だと一目でわかってもらえるからという理由で、今日も制服に袖を通している。スクーリングでもないのに。スカートの裾が時折風で揺れる、もう少し暑い季節になったら半袖にしたいけど、傷跡や包帯が見えてしまうのは嫌だな、なんて考えつつ。
詩音先輩も制服みたいだった。黒を基調に赤の差し色が入ったブレザータイプの制服で、その上から黒くてちょっとオーバーサイズなパーカーを着ている。魔法少女シオニクスの時にそっくりなパーカーだ。たぶんそういうのが好きなんだろうな、実際すごく似合ってて格好良いと思う。
「……そうだ、私謝らないといけないことあるよね」
『?』
『謝るですか? それは、私に?』
「うん。二人きりになる機会がやっと来たから」
商店街からの帰り道。私の少し先を歩く先輩はこちらに振り返り、じっと私の目を見て言う。
あまりにも唐突な申し出で、私の脳内はぐるぐると回って、何か思い当たることがあったかどうか必死に考えている。人が私に謝るなんてこと自体、おかしいことだ。私は人に迷惑をかけてしまう側の人間だから。謝らないといけない側の人間だから。
「黒猫の時。私、間に合わなかったよね」
『黒猫』
『?』
『あ』
「そう。アメシスタとしての初陣。ギリギリで助けたのはおじさんだったし、ごめんね」
それは忘れもしない。私が領域に迷い込んで、大きな影をした黒猫に追いかけられたあの日のこと。
心療内科の帰り道だった。見慣れた商店街の路地が歪んで、音が消えて、足元のアスファルトが湿った泥に変わった。無数の金色の目が闇の中で開いて、私を獲物として見定めていた。走った。走って、走って、袋小路に追い詰められて。
もう駄目だと思って座り込んだところに、先生が現れた。
『あの時は』
「うん。で、本来はそこにいるべきだったのは、私だから」
先輩の足が止まった。夕陽が先輩の横顔を照らしていて、白いメッシュがオレンジ色に染まっているように見える。左耳のピアス達が、きらりと光った。相変わらず表情からは感情を窺えないのに、ひどく悲しそうな目をしているのが伝わってしまう。
「でも、別の場所の対処に回ってた。時間がかかっちゃったんだ。すごく。だから猫が出たとき、現場に駆けつけられなかった」
先輩の声は淡々としていた。いつものボソボソとした喋り方だ。でも、その淡々の下に何かが沈んでいるのが、なんとなく分かった。一緒に働いて、一緒に戦って、少しだけこの人の声の温度を読めるようになってきたから。私は精一杯の声で先輩の謝罪を否定したい気持ちに駆られて、そしてそれは叶わない。今の私に声はない。
「おじさんが自分で動いたから良かったけど、もし間に合わなかったら、あの路地で」
先輩が言葉を止めた。言い切らなかった。その先にある言葉を、口にしたくなかったのだと思う。
『先輩』
私はメッセージを打った。
『私はいまここにいます。ちゃんと生きてます、先輩が謝ることじゃないです』
先輩は画面を見て、しばらく黙っていた。それから、ふっと息を吐いた。
「優しいね」
先輩がまた歩き出した。私もその半歩後ろを歩く。二人分の足音が、夕暮れの街に落ちていく。先輩のスニーカーの音と、私のローファーの音。
「でも、ごめんねは言わせて。言わないと気持ち悪いから。私の問題」
その言い方が、なんだか先輩らしいと思った。私に許してもらうためではなく、自分のけじめとして抱えていた言葉を置いていく。
『じゃあ受け取ります、ありがとうございます』
「ありがとう、はおかしくないかな」
『おかしくないですよ。先輩が私のことを気にしてくれてたのが嬉しいから』
先輩の歩幅が、ほんの一瞬だけ乱れた。すぐに元に戻ったけれど、見逃さなかった。
「……そう」
その声は、少しだけ温かかった。
坂道を並んで下っていく。この辺りの住宅街は起伏が多くて、坂の上からは遠くに海が見えた。夕暮れの光を受けて、海面が橙色に煌めいている。
先輩と二人きりで歩くのは初めてだ。お店では研修とお仕事で忙しいし、魔法少女のときは現地解散しちゃう。こうやって何でもない道を並んで歩くだけの時間が、不思議と心地よかった。そもそもお姉ちゃん以外の人とこうして二人歩くことなんて、それ自体が私には奇跡みたいなこと。
先輩は無理に話を繋げようとしないし、沈黙を気まずがらない。私が文字を打つのに時間がかかっても、急かさずに待ってくれる。
だから、聞いてみようと思った。
ヤドカリとの戦闘の後、エナジードリンクの缶を取り落としたときのこと。ずっと、胸の奥に引っかかっている棘。私の力は弱まっていない。私の願いは一歩も動いていない。
先輩は、弱まっていると言っていた。自分の力が。つまり、先輩の願いは叶いかけている。
知りたい、と思ってしまうんだ。先輩の願いが何で、どう変わって、どうやって叶いかけているのか。それを知ったら、自分の中のこの混乱に何か手がかりが見つかるかもしれない。見つからないかもしれない。でも、知りたかった。
ただ、これは聞いちゃいけないことだ。
願いは、魔法少女にとって一番内側にあるものだ。
先生も契約のとき、願いの詳細を本人の許可なく口外しないと言っていた。それくらい、個人的で、繊細で、踏み込んではいけない領域。それを聞くのは、相手の人生を覗き見るのと同じくらい無神経で、失礼で、心を傷つけてしまうような行いだろう。
でも指が動いていた。
『先輩』
「ん」
『あの、すごく失礼なことを聞くかもしれないです』
「いいよ。聞いて」
『ほんとうに失礼かもしれません。嫌だったら断ってください。怒ってもいいです』
「前置き長いよ。聞いて」
先輩の声が柔らかい。吐息が混じって柔らかい。どうしてそんなにも、って思えるくらい。そして私は今から私の指先でその柔らかさを奪うのかもしれない。
『先輩の願いってなんですか』
送信してから、心臓が跳ねた。取り消したくなった。でもメッセージは既に先輩のスマートフォンの画面に表示されていて、先輩はそれを見下ろしている。歩く速度が少し落ちた。先輩は画面から目を上げて、前方の坂道を見つめた。夕陽が先輩の輪郭を縁取っていて、パーカーの裾が風に揺れている。
沈黙が落ちた。
先輩は怒らなかった。沈黙は重かったけれど、拒絶の形をしてはいなかった。何かを選んでいる沈黙だった。どの言葉を使うか、どこまで話すか、吟味しているような。
「寂しくなくなること」
先輩が言った。前を向いたまま。
「それが、私の願い」
声のトーンはいつもと変わらなかった。ボソボソと、低くて、掠れていて、平坦で。
でも、言葉の選び方がいつもより丁寧だった。一つ一つの音を、大事に発しているみたいに。
「中一で契約したとき、私は一人だった。家が荒れてたとか虐められてたとか、そういう派手な理由じゃないよ。ただずっと一人だった。親も家にいないし、友達もいなかった。誰とも喋らない日が何日も続いて、自分の声忘れそうになることもあった」
先輩が、ちらりとこちらを見た。声の話をしたから。だろうか。
私は首を横に振った。比べようとも思わない。寂しさは寂しさだ。理由が違っても、胸の底に溜まる冷たさは違う形をしていると思う。どちらが重いとかじゃない。
「寂しかった。すごく。だから、寂しくなくなりたいって思った。それだけ」
先輩の指が、パーカーのポケットの中で動いている。何かを弄っているのか、ただ落ち着かないのか。私は先輩が紡ぐ言葉を大切に大切に拾う。一粒たりとて落としてはいけない。
「で、ん。それ叶いかけてるんだよね」
先輩の口角がほんの少しだけ上がる。少し強めの春風が私達の髪を大きく靡かせる。
先輩は顔にそのショートヘアがかかったまま言葉を続けていく。
「お店があって。毎日お客さんが来る。常連の人とか、仕事帰りの人とか。学生とか。名前は知らないけど、顔は覚えてて、向こうも私を覚えてくれてる」
信号のある交差点に出た。赤信号だ、二人で立ち止まる。
「おじさんのことは、いまだに信用しきれてないけどね」
「でも、あの人が私を放り出さなかったのは事実だし。面倒見てくれてるのも事実。感謝してないとは言わない」
信号が青に変わった。先輩が先に歩き出して、私がついていく。
「それと」
先輩の声が、ほんの少しだけ小さくなった。
「大事な後輩ができた」
足が止まった。先輩は振り返らなかった。半歩先をそのまま歩き続けている。ピアスの冷たい黒色が、耳の肌の上でやけに際立って色が映えた気がした。
「友達が百人欲しかったわけじゃない。千人に囲まれたかったわけでもない。私が本当に欲しかったのは、こういうことだったんだと思う」
先輩が立ち止まった。ここが道の分かれるところだった。先輩はまっすぐ。私は右に曲がる。
「だから、弱くなってるんだよ。私の力」
その顔を、私は見つめていた。あっという間に夕陽が沈みかけていて、街灯がぽつぽつと点き始めている。オレンジ色の光と白い光が混じり合う時間帯。先輩の顔はいつもの無表情で、でも目だけがまっすぐ私を見ていて、その奥に温かいものが灯っているのが見えた。
寂しくなくなること。
その願いが、叶いかけている。
先輩が寂しくなくなった理由の一つに、私がいる。
そのことが嬉しくて、同時に、胸の奥が軋んだ。
先輩の願いは叶いかけている。
私の願いは一歩も動いていない。
先輩には帰り道を一緒に歩く人ができた。小さなものを一つずつ積み上げて、寂しさの輪郭を少しずつ溶かしていった。私は、お姉ちゃんの隣に立ちたい。毎日朝ごはんを作って、一緒に暮らして、すぐ隣にいるのに。なのに。あの夕方のパニックが、足首を掴むように蘇りかけた。
『先輩』
指を動かした。震えて止まらないように。
『教えてくれてありがとうございます』
それだけ打って。先輩はそれを読んで、小さく頷いた。
「じゃ、ここで。気をつけて帰ってね」
先輩が手を上げた。ひらひらと、力の抜けた手の振り方。格好つけない別れ際。私も手を振り返した。声が出ない代わりに、精一杯、大きく。
先輩の背中が、街灯の光の中を歩いていく。黒いパーカー。白いメッシュの入った黒髪。左耳に光るピアス。その後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで。それから私は右の道を歩き出した。おじいちゃんの家に向かって。お姉ちゃんが待っている家に向かって。
スマートフォンを握ったままぼんやり思っている。
先輩の願いは「寂しくなくなること」で、それは小さな積み重ねで叶いかけている。
私の願いは「お姉ちゃんの隣に立つこと」で、それは一歩も動いていない。
嫉妬ではないと思う。先輩の願いが叶いかけていることは、純粋に嬉しい。あの人が寂しくなくなったのは良いことだ。
ただ。
私の願いと先輩の願いの間にある違いが、夕闇の空気の中でじわじわと輪郭を持ち始めていた。私の願いは、日常をどれだけ積み重ねても、たぶん届かない場所にある。お姉ちゃんの隣にいるのに、お姉ちゃんの隣に立てていない。
その矛盾の正体を、私はもう知っている。知っているのに、直視できない。
お姉ちゃんからメッセージが届いた。
『平気ー?』
『何もないよ、大丈夫。今帰ってるところ。すぐ着くよ』
少し早歩きになったまま先輩の言葉を反芻していた。
大事な後輩ができた。
あの一言を思い出すと、胸の奥がじんわりと温かくなる。先輩にとっての私は、寂しさを埋める一欠片になれたのだ。なら私は、お姉ちゃんにとっての何になれるだろう。家が見えた。玄関の引き戸の向こうに、いつもの明かり。
速度を少しだけ落として、息を整えた。お姉ちゃんに心配な顔を見せたくない。何でもない顔でいつもどおりの紫水でいなければ。私はスマートフォンに慣れた手つきで、一瞬で打ち込む。
『ただいま』
毎日毎日、同じ四文字。でも毎日毎日、同じように温かい。
この声を、いつか自分の声で。ただいま、って。そして、おかえりも。
それだけのことが、こんなにも遠い。
◇
お姉ちゃんの部屋は、いつだって清潔で、静かで、ほんの少しだけ甘い匂いがする。
シャンプーの残り香だろうか。それとも制汗剤か、あるいは名前のない、お姉ちゃんという人間そのものが空気に溶けた匂いなのか。どれだとも断言できないし、どれでもあるような気がする。私にとってこの匂いは安全を意味し、世界で一番信じられる居場所だった。
お姉ちゃんは机に向かっている。数学の参考書を開いて、シャープペンシルを回しながら問題文を睨んでいる。お姉ちゃんは本当によく勉強をする超優等生だ。ノートに数式を書くとき、手首が少し浮いて数字を刻んでいく。その仕草を後ろから眺めるのが好きだった。きれいな手だと思う。指が長くて、爪の形が揃っている。
一方の私はお姉ちゃんのベッドの上にいた。
お姉ちゃんの枕を、胸の前に抱え込んでいる。横向きに寝転がって、枕に顎を埋めて、お姉ちゃんの背中を見ている。枕カバーは淡い水色の綿で、そこにお姉ちゃんの匂いが染みついているので、平然と鼻先を押しつける。
これが他人に見られたら異様と思われるかもしれない。高校生の妹が、姉の枕にしがみついて、匂いを嗅いでいる。客観的に見れば相当かもしれない。でもお姉ちゃんは何も言わない。振り返りもしない。この光景はこの部屋ではとっくに日常になっていて、おかしいと思うのは外の世界の基準でしかない。そして二人きりになったとき、内と外は隔たれる。そこは別の世界だから。
スマートフォンの画面をぼんやりと見つめてみる。
メッセージアプリの入力欄が、カーソルを点滅させたまま空白でいる。
考えていることがあった。
ヤドカリを割った後、エナジードリンクの缶を取り落としたあの瞬間のことを。私の力は弱まっていないこと。願いと現実の落差は一ミリも縮まっていないこと。料理を覚えても、アルバイトを始めても、魔物を倒しても。何をしても、この断崖は埋まらない。
でも、今日の帰り道で詩音先輩の話を聞いて、ひとつだけ思い当たったことがある。
先輩の願いは「寂しくなくなること」だった。それが叶いかけているのは、先輩の日常の中に、人との繋がりが少しずつ増えていったから。お店があって、お客さんがいて、おじさんがいて、後輩ができた。先輩は大きな奇跡を待ったわけではなくて、小さな関係を一つずつ編んでいった結果として、願いの箱が満たされていっている。
なら、私も。
お姉ちゃんの隣に立ちたい。その願いに一歩でも近づくには、今ある関係を一段だけ進めればいいのではないか。成長した自分を知ってもらうこと。弱いだけの妹ではなくなった自分を、お姉ちゃんの目に映してもらうこと。
大それた告白なんていらない。ただ、少しずつでいいから、自分の気持ちをほんのちょっとずつ伝えていくこと。一言ずつ、一欠片ずつ。そうすれば、いつかお姉ちゃんの中の私が「守るべき弱い妹」から変わっていくかもしれない。
そう思って、今夜はいつもより少しだけ勇気を持ってここにいる。
「紫水、また私のことずっと見てるの?」
お姉ちゃんが椅子を回して、こちらを見た。シャープペンシルを机に置いて、膝の上で手を組んでいる。私は枕から顔を上げて、スマートフォンに打った。
『お勉強おわった?』
「一区切りついたとこ。明日の予習だから、あとは朝でいい」
お姉ちゃんが椅子の背もたれに身体を預けた。首を左右に傾けて伸ばしている。長時間同じ姿勢で座っていたから凝っているんだろう。首筋の白い肌が、デスクライトの光を受けてうっすら光っている。それから鎖骨の影。パジャマの襟元。
視線を逸らした。逸らさなければいけなかった。
『お疲れ様、お姉ちゃん』
「ん。紫水こそ、今日のアルバイトお疲れ様だね」
『うん、メニュー覚えた。プリンのクリームもまっすぐしぼれるようになった』
「そうなんだ」
お姉ちゃんの目が少しだけ細くなった。笑っている。
「ちゃんと頑張ってるんだ」
頑張ってる。その評価は嬉しい。嬉しいけれど、そこに含まれている響きが分かる。「ちゃんと」の中に、「心配していたけれど」が隠れている。大丈夫かな、無理していないかな、という監視と保護の視線がどうしたって混じっている。
仕方がないことだと分かっている。お姉ちゃんにとって私は、あの狂った家から連れ出した妹だ。
声を失って、身体に傷を抱えて、心療内科に通って、通信制高校でどうにか学業を続けている妹。守らなければならないもの。壊れやすいもの。その認識はたぶん間違っていない。事実として私はそういう人間だ。それを否定できるほどの強さは私にはないと自覚している。
だけど。だけど。
それだけではなくなりつつあるということを、お姉ちゃんはまだ知らない。
魔物を一撃で切り裂ける手を持っていることも、変身すれば声が出ることも、魔法少女として最上位の出力を持っていることも。そんなことは当然知らない。
知ってほしいわけではない。魔法少女のことはそもそも話せないし、話すつもりもない。ただ、魔法少女としての私ではなく、紫水としての私が変わりつつあることを、もう少しだけ見てほしかった。
『今日は先輩と一緒に帰った』
「先輩? ああ、あの……氷川さんか」
『うん。途中まで同じ方向だから』
「ふうん」
お姉ちゃんの声の温度が、ほんの微かに変わった。変わったような気がした。
「氷川さん、さ」
お姉ちゃんがデスクライトのアームを少し動かした。手持ち無沙汰なのだろう。
「すごい良い人だとは思うんだけど」
『うん』
「最初に会ったとき。正直ちょっと、見た目が」
言いかけて、お姉ちゃんは口を噤んだ。それから、わざとらしくないくらいの自然さで言い直した。
「いや、もう見た目で判断はしないって決めたんだけどね。話してみて、紫水のことちゃんと考えてくれてるのは分かったから」
私は枕に顔を半分埋めて、笑いを堪えた。お姉ちゃんの言いたいことは分かる。
『ピアス?』
「……ピアスも、そうだし」
『髪?』
「あの白いのね。あれも」
『ぱっと見ちょっとこわかった?』
「怖いというか……」
お姉ちゃんが言葉を探している。慎重に、人を傷つけない言い方を選んでいる。それがお姉ちゃんらしかった。人の外見を悪く言うことに、本能的な抵抗がある人だ。
「退廃的な感じが、少し」
『そういうの「不良っぽい」っていうんだよ』
「ちがう。不良とは言ってない。退廃的って言った」
真面目な顔で言い張るお姉ちゃんが可愛かった。お姉ちゃんは真面目な人だ。
『大丈夫だよ。詩音先輩はすごくやさしい、私のことちゃんと見てくれてるよ』
お姉ちゃんが何か言いかけて、やめた。デスクライトの光がお姉ちゃんの睫毛に影を落として、表情が読みにくかった。会話が途切れた。静かな夜の時間が、六畳の和室に満ちていく。遠くでおじいちゃんが台所の水を使う音がする。
お姉ちゃんが椅子から立ち上がって、ベッドの端に腰を下ろした。マットレスが少し沈んで、その傾斜で私の身体がほんのわずかにお姉ちゃんの方へ滑った。
「紫水、最近ちょっと変わったね」
不意に、お姉ちゃんが言う。
『変わったかな?』
「うん。なんだろう。うまく言えないけど、少し遠くなったような。いい意味で」
遠くなった。いい意味で。いい意味で、か。
「前は、私がいないと不安そうだったのに。最近は、一人でどこかに行って、何かをして帰ってくる。帰ってきたときの顔がちょっと違う。前より、しっかりした顔してる」
お姉ちゃんの声は穏やかだった。嬉しそうでもあり、同時に、微かな戸惑いが混じっている。
「良いことだと思ってる。紫水が自分の世界を持つのは、良いことだと思う」
良いことだと思う。お姉ちゃんは自分にそう言い聞かせるように繰り返した。それが本心の半分であり、残りの半分が「少し寂しい」であることを、私はなんとなく知っている。お店でプリンを食べたときに、お姉ちゃんは確かにそう言った。
でも、今のお姉ちゃんの目に映っている私は。しっかりした。遠くなった。自分の世界を持った。
それは全部、成長を認める言葉だ。喜ぶべき言葉だ。わかっているのに、私にはどうしてもその言葉の裏側に、「でもまだ心配」が透けて見えてしまう。成長した紫水を見ているのではなく、「成長しつつある、けれどまだ危うい妹」を見ている。守る対象が少しだけ遠ざかったことに安堵しながら、それでもまだ手を伸ばせば届く距離にいてほしいと思っている。
ああ、そう。結局私は妹のままだ。
お姉ちゃんの中で、私はあの家から連れ出した女の子のままだ。手を引いて、傷を庇って、朝ごはんを一緒に食べて、夜は隣で寝てあげる。そういう存在。違うものになりたいのに。もっと別の場所に立ちたいのに。
枕を抱きしめる腕に、力がこもった。もう少しだけ、伝えてみよう。
小さなことでいい。直接的でなくていい。ただ、お姉ちゃんの中の私の像に、ほんの一筋でも新しい線を加えたかった。
『お姉ちゃん』
「ん?」
『話変わるんだけどさ。私の将来の夢』
「将来の夢?」
お姉ちゃんが少し驚いた顔をした。それはそうだ。私は将来の話をほとんどしない。通信制高校のレポートと、心療内科と、家での暮らし。半径数メートルの世界を維持することで精一杯だった人間が、将来の夢を語り出すのだから。
『うん、決めたの。さいきん』
「聞きたい。教えて」
お姉ちゃんが身体ごとこちらに向き直った。ベッドの上で、私と向き合う形になる。真剣な目だった。妹の将来の夢を聞く姉の目。まっすぐで、温かくて、少し身構えている。
私は画面に、震えを止めながら大胆に打ち込んで、送信してやった。
『お嫁さん』
一拍の沈黙。
お姉ちゃんの表情が、凍った。
凍った、というのは比喩ではなく、本当に筋肉の動きが一瞬止まったのだ。瞬きが止まり、唇が微かに開いたまま閉じず、深い藍色の瞳がまん丸になっている。
「お嫁さん」
お姉ちゃんの声が上擦った。平静を保とうとして保てていない声。あ、ちょっとこれは、面白い。
「お嫁さんって。紫水、それは。相手が、いるの……?」
『ひみつ』
「秘密って。ちょっと待って。紫水、あなた入学したばっかりでしょう。高校一年生の春で、もう、そんな!」
お姉ちゃんの声が珍しく乱れていた。問い詰めたいのに問い詰めるべきではないという理性が、ぎりぎりのところでせめぎ合っているのが見えた。何度も何度も体勢を変えている。最終的に体育座りになってしまった。
「通信制はスクーリングでしか人と会わないよね。バイト先? まさかお客さん? いやそれは……でも他に……えーっと……?」
お姉ちゃんの推理がぐるぐると明後日の方向へ走っていく。お姉ちゃんは頭の良い人だけれど、こういうとき妹のことになると途端に冷静さを失う。
『お姉ちゃん』
「なに」
『落ち着いて』
「落ち着いてる!」
落ち着いていない。全然落ち着いていない。顔が天井を見上げて、限界まで首を反らしている。
『相手は秘密だよ。お姉ちゃんにはいわないよー』
「言わないって。紫水、あのね、恋愛というのは」
『お姉ちゃん』
「何!」
『ないしょ』
お姉ちゃんの口がぱくぱくと開閉した。金魚みたいだった。お姉ちゃんのこんな顔は、初めて見るかもしれない。あの冷静で理性的で、「信じるけど確認もする」のお姉ちゃんが、妹の恋愛の気配ひとつでここまで取り乱す。可愛い、と思った。
それから、ほんの少しだけ胸が疼いた。お姉ちゃんが動揺しているのは、妹に恋人ができるかもしれないという危機感からだ。妹を誰かに取られるかもしれないという不安からだ。それは姉としての心配であり、独占欲の一種であり、でもどこまでいっても姉と妹の間の感情であって。
私が欲しいものとは、少しだけ形が違うんだろうな。これはきっと、長年一緒に過ごしてきた妹として、なんとなくそうわかってしまう。
お姉ちゃんが深呼吸をした。一回。二回。胸が上下するのが見える。それからゆっくりと、取り乱す前のお姉ちゃんを組み立て直すように、表情を整えた。
「……そう。秘密なんだ」
『うん』
「分かった。聞かない。紫水が言いたくなったら聞く」
それでもお姉ちゃんの目は揺れていた。大丈夫、私はどこにもいかない。本当はあなたのそばにいたいだけなのだと、全部言ってしまいたかった。言えるわけがなかった。お姉ちゃんがベッドの上で姿勢を直して、ふぅ、と長い息を吐いた。
「お嫁さん、か」
呟くお姉ちゃんの横顔。私の愛しているその横顔。長い睫毛が影を落として、薄い唇が一文字に引き結ばれている。何かを考えるときの愛しい顔だ。
「紫水がそういうこと考えるようになったんだ」
独り言のような声だった、私に向けているような。でも自分自身に向けているような。お姉ちゃんが立ち上がり、机の上のマグカップの緑茶を一口飲んで、デスクライトをぱちりと消した。それからベッドに戻ってくる。抱えていたお姉ちゃんの枕をパスしてあげる。
「今日は……もう寝る。電気消すね」
リモコンの操作で照明が消えた。月明かりだけが、カーテンの隙間から差し込んでいる。
隣に、お姉ちゃんの体温があって、お姉ちゃんが横たわっている。呼吸の音が聞こえる。静かで規則正しくて、少しだけ早い。
「おやすみ、紫水」
暗がりの中で、お姉ちゃんの手が伸びてきた。私の頭に触れて、髪を一度だけ撫でた。
その指先が離れていくとき、私は声にならない声で思った。
おやすみ、お姉ちゃん。
あなたのお嫁さんになりたいのです。
言えない。言えない。言えない。言えるわけがない。枕に顔を埋めて、お姉ちゃんの匂いを吸い込んで、目を閉じた。心臓がうるさい。こんな近くにいるのにこんなに遠い。となりにいるのにとなりにいない。
思い知る。ああ、なるほど。これは。確かに、落差は、一ミリも縮まっていなかった。