魔法少女アメシスタ、あるいは、星屑に懸けた片想いの話。 作:秩序
流れていく日常の小さな粒。ひとつひとつに注目できるほど、私のキャパシティは大きくない。
ふと気が付いたことだけれど、あの四月というのは私の世界の動乱だった。家と高校と魔法少女。それに付随しているアルバイト。荒波の中にいる間は目の前しか見えていなくて、自分がどれほど大きな渦に巻き込まれているかなんて気付けない。
だからこうして、少しの時間が流れた今だからこそ思うのだ。よく倒れず、目を回さず、私は確かに乗り越えたのだと。喫茶店の窓を叩く雨は、結構勢いが強い。
梅雨に入ったという事実はカレンダーをめくる感触ではなく、行き帰りの煩わしさや、ローファーの内側がぐしゃりと濡れる気持ちの悪い雨水。そして、やっぱり微妙に頼りない傘というアイテムへの落胆によって気付かされる。
そんな六月のウェルブムは、いつもよりずいぶん静かだ。
最後のお客さんである、仕事帰りらしいスーツの男の人が、カウンターにコーヒーカップを残して出て行ったのが午後五時半頃。ドアベルがからんと鳴ったらそれっきりの三十分。店内には換気扇の低い唸りと、私が食器を洗う水音だけが残っていた。
「今日はもう閉めるよ」
詩音先輩の声がカウンター越しに飛んできた。いつも通りの感情の読みにくい掠れ気味の、でも優しさが滲んでいる声。それは業務連絡というよりは、何かの前置きだと分かった。
私は蛇口を閉めて、ペーパータオルで手を拭いた。壁にかけたホワイトボードに黒いマーカーで書く。
『まだ六時ですけどいいんですか?』
「今日は紫水の面談があるから」
面談。その単語を聞いて、正式契約のときに先生が言っていたことを思い出した。確か、定期的な心理面談を実施し、必要に応じて休養を取っていただきます……あれの第一回が今日だったらしい。
閉店作業はいつも早い。先輩がホールの椅子を上げている間に、私は厨房の片付けを済ませる。コンロやシンクの掃除をまずは終わらせて、作業台をアルコールで拭いて、冷蔵庫の中身を確認してラップをかけ直す。最初の頃は段取りが分からなくて先輩の三倍くらい時間がかかったけれど、既にこの一連の流れは身体に入っている。
シンクの水切りカゴにカップを伏せ終えた頃、ドアベルが鳴った。
振り返れば、見慣れた長身のシルエットがあった。スリーピースのスーツ。磨かれた革靴。そして首から上は、いつも通りのごつごつとした紫水晶の結晶が、店内の暖色の照明を受けて鈍く輝いている。先生だ。
店にも来るんだ、初めて見た。ウェルブムに先生が立っている図というのは、これだけで非現実的なシュールさがあった。天井が低いから余計に大きく見えるし、なんならホラーっぽさも感じてしまう。
それに不可解な点はまだあって、全く濡れていなかった。傘も持っていないようだった。これについては恐ろしいというより、不気味というより、羨ましいという感想を抱く。あのバリアみたいなやつで雨も防げるのかなとか、ワープで移動してるのかなとか。そういうあたりだ。
「お疲れ様です。お二人とも、閉店作業ありがとうございます」
先生はスーツの前ボタンを一つ外しながら、ごく自然な仕草で店内に入ってきた。革靴の底が木の床板を踏んで、こつ、こつ、と低い音を立てる。
詩音先輩がカウンターに肘をついたまま、先生に振り返りもせずに言った。
「おじさん、たまには自分で閉めなよ。店長でしょ」
店長。私は一瞬、聞き間違えたのかと思った。先輩の横顔を見て、先生の顔もとい結晶を見て、もう一度先輩を見た。
『先生が店長なんですか???』
スマートフォンの画面を先輩に見せると、先輩は小さく頷いた。
「書類上の代表者兼責任者。平たく言えばそう。経営やら給与計算やらはおじさんがやってるけど、現場はほぼ私だよ」
先生が後ろから補足するように口を開いた。いや、口は無いけれど。
「経営管理に店舗運用、行政対応に給与支払い。契約者の活動管理。これらも立派な業務です」
「ほぼ店にいないニート店長の言い訳。紫水は真面目に聞いちゃダメだよ」
「ニートではありません。出勤しないだけです。誤解なきよう」
先輩の声には棘がない。いつものことなのだろう。先生も反論はするけれど、怒っている気配はまったくなくて、紫水晶の表面がほんの少しだけ明滅したのは、たぶん笑っているのに近い何かなのかもしれない。
この二人のやりとりを見ていると、時々不思議な気持ちになる。人じゃない管理者と、どこか退廃的な雰囲気の女の子が、喫茶店の業務で言い合っている。そんな世界の裏側で戦いが行われていて、私たちはその駒。この店はその拠点で。なのに今ここにある空気は、ちょっと変わった個人経営の飲食店みたいに緩くて暖かい。
先生がカウンター席に腰を下ろすと椅子が小さく軋む。懐中時計を開いて時刻を確認し、閉じて、胸ポケットにしまう。それから私の方へ声を向けた。
「さて、紫水様。本日は正式契約後の初回面談です」
スマートフォンにもメッセージが届いた。声と文字の両方で伝えてくれたみたいだ。
「面談の目的は二つあります。一つは契約者の精神状態の確認。もう一つは、紫水様からの質問や相談を受け付けることです。どちらから始めても構いません」
精神状態の確認。
正直に答えるなら、悪くはない。悪くはないけれど、良いとも言い切れない。でもそれは面談で話すようなことではなく、もっと個人的な、自分の中だけで抱えておくべき澱みだった。だからわざわざ自分の口で、心の内を曝け出す気にはなれない。
先生は仮契約の時に、私の中の記憶や感情を見ている。今の不安までは伝わっていないとは思うけれど、それでも、あの時の私を知っている先生ならば。
この不安にも気づいてしまうのではないか。
スマートフォンに打っては消して、取り繕うように答えを送信する。
何か、指摘されてしまうかもな。そんな恐れを抱きながら。
『大丈夫です。体調も良いし、眠れてます。食事もちゃんと取れてます』
先生は数秒間、紫水晶をこちらに向けたまま動かなかった。何かを読んでいるのか、考えているのか。それから小さく頷いた。
「承知しました。では、何かお聞きになりたいことはありますか。どんなことでも構いませんよ。私個人のことでも教えますよ」
◇
質問と言われると。聞きたいことならある。ずっと頭の隅にあったけれど、戦闘の合間や日常の中では聞くタイミングを掴めなかったこと。先生と詩音先輩が向かい合って座っていて、店は閉まっていて、お客さんもいない。今なら聞ける。
私はしばらくスマートフォンの画面を見つめて、それから指を動かした。一つずつ打つのではなく、まとめて。聞きたいことの輪郭は、もうとっくにできていたから。
送信ボタンを押した。
『質問がいくつかあります』
文字を打っては送信。また送信。先生のスマートフォンが、立て続けに震えていく。
「よい質問です。順番にお答えしますね」
先輩がカウンターの端でコーヒーを淹れ始めた。自分用と、たぶん私の分。先生の分はない。今更ながら、先生は飲食をしないしできないんだろう。そんなことを考えていると先生の説明が始まった。
先生の声が、閉店後の静かな店内に低く響く。結晶が反射する照明のせいで、壁に淡い紫の模様がちらちらと揺れている。
『管区とかって、どうのこうの。何ですか。どのくらいの範囲なんですか?』
「まず、横浜管区について。これは私の管理範囲を指します。横浜市全域が、一つの管区です」
スマートフォンにも同じ内容を要約したものが、同時に打ち込まれて送信されていく。メッセージで聞いたのだからメッセージでも答える。ということなのだろう。重要なことは読み返せるし、これはとてもありがたいことだ。
「管区の内部は、実務上いくつかの地区に分けられています。紫水様と詩音様が担当しているのは、そのうちの一地区です」
『じゃあもしかして! 他の地区にも魔法少女がいるんですか?』
「いいえ。現在、横浜管区における星側の契約者は、紫水様と詩音様の二名のみです」
二人だけ。この広い横浜市全域でたった二人。その事実を飲み込むのに、少し時間がかかった。先輩がカウンターの向こうで、フィルターにお湯を注いでいる。細い湯気が、暖色の照明の中をゆっくり昇っていく。先生は続けた。
「魔物一体ごとに発生する領域は、地区の中のさらに局所的な戦場に過ぎません。あなた方が普段戦っているのは、盤面のほんの一マスです」
盤面。チェスや将棋の盤面。先生は以前もその喩えを使っていた。私たちが駒で、魔物も駒で、上位存在がプレイヤーで。
『盤面というのは?』
「星と海が勝敗を争う単位が、盤面です。一つの管区が一つの盤面に対応します」
そこまでは分かる。横浜という街全体が、一枚の将棋盤のようなもの。私たちはその上で戦っている。では、他の盤面は。他の街は。他の国は。先生のメッセージが、その疑問に先回りするように届いた。
『国内外の多くの盤面は、既に終局しています』
終局。将棋で言えば、詰み。勝敗が決まって対局が終わることだったはず。
『現在も決着がついていない盤面は、ここのみです』
指が止まった。コーヒーの匂いがカウンター越しに漂ってきている。詩音先輩が白いカップを二つ、ソーサーに載せて運んできた。一つを私の前に置いて、もう一つを自分の手元に。先輩はカウンターの内側に立ったまま、カップの縁に唇をつけた。聞いているのか聞いていないのか分からない横顔だけれど、たぶん全部聞いているんだろう。真面目な人だから。
私の暮らすこの街だけ。世界中の盤面が終わっていて、ここだけがまだ。
その規模の大きさと、それが今この商店街の喫茶店のカウンターで語られていることとの落差が、うまく噛み合わなかった。窓の外では、商店街のシャッターが一つ、また一つと降りていく音がする。日常だ。どこまでも、日常だ。
『負けたら街はどうなるんですか』
一番聞きたかったこと。一番怖かったこと。打った指が、ほんの少しだけ震えていた。
先生の返答は、思ったより静かだった。
「終局した地域が、勝者の領土になるわけではありません」
声がゆっくりと、言葉を一つずつ置いていくように続く。
「星が勝ったからといって、住民全員が希望に満ちるわけではない。海が勝ったからといって、人間が怪物に変わるわけでもない」
私が最初に仮契約をしたとき、それはお姉ちゃんが、そしておじいちゃんの家が黒猫の魔物が放つ領域に巻き込まれる危険性があったからだ。ただ、あれはあくまで領域の持つ力であって、戦いが本当の意味で終わる時には消えるものなのだと。先生は説明を続けていく。
であれば、何が変わるんだろう。
「終局すると、その盤面における魔物と魔法少女の新規発生が止まります。それだけです。その土地で人間が何を選び、どう生き、どう願い、どう本能に従ったか。その全てが記録されて、一つの完成した棋譜として残ります」
棋譜。記録のようなもの? 一手一手の選択が、全部書き留められて、残る。
私はコーヒーカップに手を伸ばした。まだ熱い。両手で包むように持って、唇はつけずに、湯気だけを吸い込んだ。苦い匂いの中に、ほんの少しだけ甘さがある。先輩が淹れるコーヒーは、いつもこの匂いがする。それが今は、救いだった。
『その棋譜ができると、何かいいことがあるんですか?』
先生が懐中時計を取り出した。文字盤を見るのではなく、銀色の蓋の表面を親指で撫でている。
「棋譜は現在の人類を即座に変えるものではないんですよ」
結晶がわずかに傾いた。天井を見上げるような仕草。目がないのに、どこかを見つめているように感じる。
「いずれ人間という知的構造から、次の知的構造が生まれます。その過程において棋譜は、その形を決める材料になります。大事な実例になるんです」
次の知的構造。人間の次に来るもの。それが何なのか、想像もつかなかった。百年後なのか、千年後なのか、一万年後なのか。あるいはもっと先の、私が名前すら知らない時間の向こう側の話。
「上位存在にとって、これは自然法則の一部です。数式であり、チェスや将棋であり、結果の蓄積です。善悪の問題ではありません。私はこうして皆様と意思疎通もできますが、私より上には日本語も英語も通じないでしょうね」
善悪の問題ではない。その文言が、妙に耳に残った。私たちが毎晩戦っていることは、正義でも悪でもなくて、ただの観測で、記録で、データの一行。淡々とした法則の中の処理に過ぎない。
『横浜が最後の盤面だということは、ここが終わったら、全部、終わるんですか?』
「はい。横浜管区の盤上戦が終局しなければ、すべての盤面を統合した最終的な棋譜は完成しません」
『じゃあそれなら、他の盤面の魔法少女が、横浜に来て手伝ってくれたりは』
「できません。終局済みの盤面に属する契約者が横浜の戦力に加わると、棋譜の整合性が崩れます。横浜の盤上戦は、横浜の駒だけで完結させる必要があります」
二人だけ。やはり、二人だけ。私と、詩音先輩と。横浜という最後の盤面を、たった二人で。
先輩がカップをソーサーに戻した。小さな音が、静かな店内に落ちた。
「前から、多くても二人だったし。別に今更だよ」
先輩の声は平坦だった。いつも通りの、感情を圧縮した、必要最小限の言葉。でもその「前から」の中に、中学一年生から今日までの歳月が全部詰まっている。何年も、この街を……あれ?
食い違うものがある。
詩音先輩は、魔法少女シオニクスは、一人きりで戦っていたんじゃなかったっけ。
私はコーヒーを一口飲んだ。苦い。舌の奥がじんわりと痺れる。でも嫌な苦さではなかった。
先生との一問一答をすぐ打ち切ってまで、先輩に詳しく聞く気にはならなかった。きっとまた機会があればすぐに聞けることだ。一旦私は本筋に意識を戻していく。そっと手を添えるように。
話の規模が大きすぎて、正直なところ、全部は飲み込めていない。
上位存在。棋譜。次の知的構造。数式。そんなものを背負って剣を振っているのだと言われても、私は大きな鳥や蜘蛛やヤドカリを斬っていただけだし、苦戦しているのはプリンのクリームを真っ直ぐ絞る練習の方だった。
負けても、明日から街が滅びるわけではない。勝っても、みんながすぐ幸せになるわけでもない。
けれど、自分たちの選択というものが。私が剣を振ること、先輩が居合で攻撃を受け流すこと、先生がこの店を維持すること、その全部が、人類の先に生まれる何かへ向けて記録される。その事実だけが、遠い星のように頭上へ置かれた。
見上げても届かない。手を伸ばしても届かない。ただそこにあるのだと知った。知っただけだ。それ以上でも以下でもない。先生が懐中時計を胸ポケットにしまった。結晶がこちらを向く。
「以上が、現時点でお伝えできる範囲の回答です。他に何かありますか?」
あった。本当は、もう一つだけあった。
私の出力が一切落ちていないこと。
願いと現実の落差が縮まっていないこと。それが何を意味しているのか。指がスマートフォンの画面の上で止まった。入力欄のカーソルが点滅している。打とうと思えば打てる。私の内側を覗き見ている先生なら、きっと答えそのものではなくても、何かを答えてくれる。
打たなかった。
その質問は、答えを聞くのが怖いのではなくて、質問を文字にした瞬間に、自分の中で曖昧にしていたものの輪郭がはっきりしてしまうのが怖かった。まだ見たくない。もう少しだけ、見ないでいたい。
『ありません。ありがとうございました』
送信して、スマートフォンを膝の上に伏せた。画面の光が消えて、代わりに店内の暖かい照明だけが残る。
先生は数秒だけ沈黙して、それから静かに頷いた。
「承知しました」と、声とメッセージの両方で。
◇
自分が最後の盤面にいると知っても、当然ながら日常は急には変わらなかった。
魔物には今のところ苦戦していない。先生は信頼できるし、詩音先輩という頼れる人もいる。ウェルブムでの仕事も少しずつ覚えて、プリンの盛り付けはもう先輩に見本を見せてもらわなくてもできるようになった。サンドイッチの野菜を並べる順番も、コーヒーフィルターの折り方も、閉店作業の段取りも。
そして家に帰れば、お姉ちゃんが待っている。「おかえり」とお姉ちゃんが言って、私がスマートフォンに『ただいま』と打って見せる。その一連のやりとりが、毎日毎日同じように繰り返される。同じように温かい。
世界規模の盤上戦という言葉に反して、私の周囲は正直なところ、平穏だった。
ただ一つ。それはずっと胸の底に沈んでいる。
前へ進んでいるはずなのに。アルバイトを始めて、先輩ができて、先生と話せるようになって、お姉ちゃんに将来の夢を伝えて。片桐紫水という人間の人生は、確実に前に進んでいるはずなのに。
願いは叶っていない。面談で先生に聞けなかった。聞けなかったことを、先輩にも言えなかった。お姉ちゃんにはもちろん。誰にも。
夜、お姉ちゃんの部屋で並んで眠る。隣から聞こえる静かな寝息。手を伸ばせば届く距離。なのにその距離は、魔物の領域よりもずっと深く、ずっと越えられない。そのことだけが、変わらないまま積もっていく。
◇
数日後の、日が沈む頃。
その日はお姉ちゃんの朝ごはんに甘い卵焼きを作って、見送った。レポートを片付けて、ウェルブムで皿を洗って、パンを切った。そして先輩はこのあと低危険度の魔物を一体処理する予定が入ってると言って、少し先に退勤した。どうやら観測された規模なら一人で十分らしく、私まで行く必要はないと先生が判断したらしい。
なので閉店作業を私が一人で終わらせていく。いつもと同じ一日がいつもと同じように終わろうとしていた。
一人で帰り道を歩いていると、スマートフォンが震えた。先生からのメッセージ。画面を見た瞬間、足と呼吸が止まった。
『緊急出動要請です。シオニクスが単独で魔物と交戦後、未確認の反応により負傷しました。至急合流してください。位置情報を送ります』
心臓が一拍だけ跳ねて、次の瞬間にはもう指が動いていた。お姉ちゃんのトーク画面を開く。
『バイトで急なヘルプが入っちゃった。帰りが遅くなるかもしれない』
送信する。入力欄にカーソルが点滅する。『大丈夫だから心配しないで』と打ちかけて、指を止めた。大丈夫かどうか分からない。分からないことを大丈夫と書くのは嘘だ。お姉ちゃんには嘘をつかないと決めた。安全かどうかについてだけは、嘘をつかない。
文字を消した。送らなかった。鞄の紐を握り直して、走った。位置情報が示す場所は、ここから十分ほどの距離にある倉庫街の一画だ。
領域に踏み込んだ瞬間、空気が変わっていく。それを肌で感じ取る。
夕暮れの街並みが薄い膜の向こうに押しやられて、音が遠くなる。足元のアスファルトが湿った土に変わりかけている。見上げた空は、あの時と同じ茜と紫の入り混じった、動かない夕暮れだった。黄昏色の偽物の空。何度潜っても慣れない。けれど、もう足は震えない。
変身は走りながら済ませておいた。黒い衣装が身体を包んで、髪の毛先が灰色から白へ滲んでいく。手の中に剣の重さが戻る。先端が四角くて平たいいつもの大剣。
倉庫と倉庫の間の狭い通路を抜けた先に、それはあった。
紫色の結晶格子。
六角形の柱が交差して組み上がった幾何学的な檻が、地面の上に展開されている。あの黒猫の時と同じ。先生の緊急防壁だ。私もかつては守られた、先生の使う謎の魔法のひとつ。
その中に先輩がいた。膝をついていた。
左肩から上腕にかけて、黒い布が裂けて、その下の肌に赤い線が走っている。浅くはない。呼吸が荒い。パーカーの裾は汚れていて、いつも手提げ鞄みたいに持っているあの箱型の鞘が離れた場所に転がっていた。刀は鞘の中に収まったままだ。既に武器は、先輩の手の届かないところに。
「先輩っ」
走り寄ろうとして、本能的に足を止めてしまう。
結晶格子の外側に、誰かが立っていたから。そしてそれは黒くもなければ、巨大でもなく。
白い。
それが最初の印象だった。光を柔らかく返す真珠色の白い衣装。前が短く後ろが長いスカートの裾が、風もないのにゆるゆると揺れている。水中で流れに引かれているみたいに。腕を覆う半透明の布が、動くよりわずかに遅れて追いかけてくる。
私たちと同じ年頃の、変身した少女だった。
深いブルーブラックの長い髪が、肩を越えて背中に流れている。ストレートだけれど作り込みすぎない、少しだけ寝癖のような緩さが残る髪。前髪は片方を耳にかけて、もう片方の目に少しかかっている。その目は、やや垂れ気味で、眠そうに細められている。長いまつ毛の向こうで薄水色の瞳がこちらを見た。
両手にそれぞれ一振りずつ、細身の剣を持っている。右手の剣は白銀に近い真珠色の直剣。左手の剣は、刀身の途中に不自然な節のようなものが見える。
結晶格子の向こうの先輩が、掠れた声で呟いた。
「……魔法少女マリナクアの、偽物。人じゃない。躊躇しないで、敵だよ」
その名前に、白い少女が反応した。ゆっくりと。本当にゆっくりと、首を巡らせて今度は先輩を見る。片方の目にかかった前髪の隙間から、確かに先輩をじっと見ていた。
「しーちゃん、弱くなったね。よかったね」
声は低すぎず高すぎず、話す速度が遅くて、間が長かった。言葉と言葉の間に独特の呼吸がある。
先輩の唇が一文字に引き結ばれて、何かを言いかけて、何も言わなかった。
状況を理解しようとした。先輩は魔物と交戦していた。その魔物は処理できたはずだ。でなければ、奥に魔物の残骸が既に真っ二つにされて転がっていることの説明がつかない。魔物を倒した後に、このマリナクアという魔法少女が現れた。もしかすると、魔物に紛れて潜んでいた?
先輩はこの少女を前にして、負けてしまった? 武器を弾かれて、負傷しているのは確かだ。
事情は分からない。分からないけれど、先輩が傷ついている。先輩の武器が手元にない。
それだけで十分だった。
私は剣を握り直して、白い少女の前に立った。先輩と少女の間に、割って入る形で。
少女の細い目が、ゆっくりと私に向いた。
「あー、はじめまして。アメシスタちゃん。会いたかったんだ」
間延びした声だった。敵意がない。殺意もない。品定めをしているわけでもなくて、ただ確認しているような、ひどく平坦な声。今はそれが不気味で仕方がない。
「遠くから見るより、ずっと華奢で儚げだね。かわいいよ? なんだかんだ言って、みんなアメシスタちゃんみたいな子が好きだし。もっと自信持って?」
「先輩から離れてください」
その左手の剣の切っ先が、ほんの少しだけ持ち上がった。私は無意識に半歩下がって、大剣を正面に構えた。想いは星相。お姉ちゃんの隣に立ち、微笑んで手を握っている未来。春風の吹き抜ける青空の下へと想いを馳せる。
「そんなに警戒しないでね、あたし今日は倒しに来たわけじゃないから」
「いいから、離れてください……!」
嘘か本当か分からない。分からないけれど、先輩を傷つけた相手だ。言葉を信じる理由がない。
「離れなかったらどうするのかな」
「それは……私があなたを止めます」
「りょうかい」
左手にある、節のある剣。その刀身が解けたかと思うとと、鞭のように大きくしなりながら、それは私ではなく結晶の格子を今にも貫こうと向きを定めた。
踏み込んだ。一歩目で間合いを詰めて、二歩目で剣を振り上げる。魔物を相手にする時と同じようにはいかない。全力の一撃を、その武器へと狙って叩き込む。
するりと剣と共に、白い少女は避けた。
横に半歩。たった半歩。詩音先輩がヤドカリを半歩で躱したのと同じ最小限の動作。私の剣が空を切って、切っ先がアスファルトに叩きつけられ、地面に亀裂が走った。
追撃する。横薙ぎ。少女は右の直剣を斜めに出して、刃が触れた瞬間に角度を変えて逸らした。力で受け止めるのではなく、流す。これも先輩と同じだ。同じ技術。同じ動きの質。
「しーちゃんの教え方、雑じゃなかった? 大丈夫?」
少女の声が、剣と剣が擦れる金属音の向こうから聞こえた。
「……優しくて、丁寧でしたよ」
「あら、そう。よかったね」
左手の剣が動いた。半透明の膜で繋がったまま鞭のようにしなる。軌道が読めない。
途中で曲がる。
死角から回り込む。
咄嗟に剣の腹で弾いたけれど、衝撃が手首を痺れさせた。
強い。出力では私が上回っているはずなのに、攻撃が届かない。一撃が入れば終わるはずなのに、その一撃を許してくれない。間合いを詰めれば躱され、振り下ろせば流され、追い詰めたと思えば鞭のような剣が横から飛んでくる。
盤相、星相、軌相。私がまだ覚えたばかりの技術を、この人は知り尽くしている。先輩に教わったそれを完全に把握しているのだ。けれど私の心に絶望が灯らないのは、当たりさえすれば倒せるという確信が深く根を張っているから。
コンクリートの地面を蹴り飛ばして大きく飛び込む。大剣の間合いに入った瞬間、少女が小さく身体を沈めた。私の剣の軌道の下をくぐり抜けて、背後に回る。振り向きざまの斬撃を直剣で受け止めて。その向こうに、結晶格子の中の先輩が見えた。
振り切れない。全力で振り抜けば、格子ごと先輩を巻き込む。少女はそれを分かっている。先輩や結晶格子を射程に含む位置に自分を置いて、私の最大出力を封じている。
押し負けてはいない。でも決定打を与えられない。一撃で終わらせられるはずの力が、どこにもぶつけられない。マリナクアが距離を取った。鞭のような剣を元の直剣の形に戻して、二本の剣を下げたまま、私を見つめている。息が切れている様子はない。垂れ気味の目が、変わらず眠そうに細められている。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
戦闘の最中に。この人は、問いかけてくる。
「あなたの願いって何なのかな? すっごい気になってるんだよね。だってだって、超強い」
「言いません」
心臓が跳ねた。構えた剣の切っ先が、一瞬だけ揺れた。
「願いが叶うほど魔法少女は弱くなる。最後には力を失ってハッピーエンド。あなたもそれは知ってるよね」
「……」
知っている。
先生に教わった。先輩に教わった。願いと現実の落差がエネルギーで、落差が消えれば力も消える。
「じゃあ願いが叶った後は、もう役に立てる人間じゃなくなっちゃう……ね?」
答えられなかった。口は開いたのに、声が出なかった。変身中なのに。声帯は動くはずなのに。少女は首を傾げた。長い髪がさらりと肩から滑り落ちる。
「あなたの力は、願いというより飢えに近いのかな。あなた頑張ってるのにちっとも弱くならない」
飢え。その単語が、胸の奥に刺さった。鋭くて冷たい、氷の破片みたいに。なのに声は穏やかだった。敵意がなければ殺意もない。
駄目だ。聞くな。耳を塞ぐんだ。
この言葉は毒だ。甘くて冷たくて、喉の奥をするりと通り抜ける類の毒だ。
「それとも……」
少女の垂れ目が、ほんの少しだけ見開かれた。
「本当に、願いを叶えようって、願ってる? まずそこが怪しいかな?」
血が沸騰した。
頭の中が真っ白に灼けて、次の瞬間には剣を振り下ろしていた。盤相も星相も軌相もなかった。ただの激情が、刃に乗った。それは何故だろう。思い描いてしまった光景は、願いの叶わない未来の私。片桐紫水。
にも関わらずその一撃は何よりも強くて。マリナクアの持つ右手の方の剣を打ち砕いた。これは星相とは呼べないだろう。願いの先に焦がれたわけでもないのに。何よりも強い。
白い衣装の肩口が裂けた。浅い傷。真珠色の布の下から覗いた肌に、黒くどろりとした線が一本。少女はわずかに目を見開いて、それから笑った。ほんの微かに、唇の端だけで。満足した、そんな表情。
「おー、えぇ、なるほど?」
少女が後ろに下がった。折れた直剣も鞭のような剣も下げて、戦闘の意志を解く仕草だ。
「確かめたかっただけだよ。今日はもうおしまい。先発の魔物がもう負けちゃってるからね」
踵を返す。白い衣装の後ろ裾が、水中を揺蕩う海月のようにゆっくりと揺れた。去り際に、少女が振り返った。片方の目にかかった前髪の向こうで、垂れた目が私を捉えている。
「本当のお願い事を、忘れないようにしてね」
それだけ言って、少女の輪郭が領域に溶けた。
否定する。否定しなければならない。私は星側だ。お姉ちゃんの隣に立つために、願いを叶えるために、ここにいる。出力が落ちていないこと。願いが叶えば力を失うということ。大切な人を守れなくなるということ。そして、あの最後の一言。
全部が、胸の中で一つに繋がって、大きな濁りになって、沈んでいく。
私は何をしている?
「っ、あ……先輩、先輩」
全てを見ないふりをして結晶の格子へと駆け寄っていく。
今はそれよりも。今はそれよりも。そういった優先順位の下の方へ、私は黒く膨らんだ何かを押し込んで見えないようにする。それが海の底から湧き上がってきたとき、それは、何かを壊してしまう予感がしたから。