魔法少女アメシスタ、あるいは、星屑に懸けた片想いの話。   作:秩序

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【第9話】願いの結末

 マリナクアの白い輪郭は確かに黄昏の中へ消えた。

 

 夕暮れの空気に薄まって、境目が分からなくなって、気がついた時にはもう何もなかった。夏の湿気を含んだ風が漂っていたことにやっと気付いた。偽物の黄昏はまだ剥がれきっていない。

 私は改めて、もう警戒の必要はないと確認をした。大剣をそっとアスファルトの上に置く。

 

 結晶格子はまだそこにあって、紫色の六角柱が交差して組み上がった幾何学的な檻になっている。その中に今も詩音先輩が膝をついている。

 

「先輩、大丈夫ですか……?」

 

 変身中だから出る声が、何故か妙に遠くに聞こえた。耳の奥で心臓がどくどく鳴っていて、そっちの方がずっと大きい。ちゃんと発声できているかどうかが、自分でもはっきりとは分からない。

 

 何度も呼んだ。格子越しに先輩の顔を覗き込む。左肩から上腕まで服が裂けていて、その下の肌に赤い線が走っている。浅くはない。呼吸が荒い。でも目はちゃんと開いていて、私の方を見た。

 

「……心配しないで。まず、私より慌てないでよ」

 

 掠れた声だった。怒っているのではなくて、声を出すのがしんどいだけだ。いつもの無表情の奥に、痛みをこらえている微かな歪みが見える。

 

 先生が現れたのは、その直後だった。

 いつの間にそこにいたのか分からない。革靴が地面を踏む硬い音がして、振り返ると黒いスーツの長身が立っていた。相変わらず紫水晶の結晶が鈍く光っている。懐中時計を確認して、胸ポケットにしまう、いつもの仕草だ。

 

 何も言わずに格子へ近づいた。結晶の先端から淡い光が走って、格子の柱に触れた瞬間。紫色の構造体が根元から崩れるように砕けて、粒子になって溶けた。檻がなくなる。先輩の身体を遮るものがなくなる。

 

 先生はそのまま屈んで、先輩のそばにしゃがみ込む。

 手のひらに淡い紫色の光が灯る。私も以前受けたことがある、治療の光。それを先輩の肩にそっと近づけると、裂けた傷口がゆっくりと、本当にゆっくりと布を縫い合わせるみたいに塞がり始める。魔法少女である私達よりもよっぽど、魔法らしい魔法を使うのだ。

 

 先輩の呼吸が、少しずつ深くなっていく。

 眉間に刻まれていた皺がほどけて、肩の強張りが抜けていく。

 私はその隣にしゃがんだまま、何もできずにいた。

 

 手のひらを見た。さっきまで剣を握っていた手。

 マリナクアの肩口を浅く裂いた、あの一撃を振り下ろした手。

 小さな手。

 

 あの瞬間、私は先輩のことを忘れていた。先輩が怪我をして、結晶格子の中で動けなくなっていて、すぐそこにいたのに。あの言葉に頭の中を焼かれて、激情のままに剣を振ってしまった。先輩の存在がまるごと意識の外に落ちていた。

 

「先輩」

 

 声が小さくなった。

 

「……ごめん、なさい」

 

 先輩が体ごとこちらを向いた。私は思わず俯いてしまって、その顔をしっかりと見ることができない。もしあと少し大剣の振りがズレていたら。

 

「あの人の言葉で、頭、真っ白になって。先輩がいるのに、私、一瞬忘れて」

 

 言葉が途切れた。続きを言おうとしたのに、喉の奥で何かが詰まった。変身中なのに。声帯は動くはずなのに。こんな時に限って役立たずな私の声が忌まわしい。伝えなければいけないことを伝えられないなら、なんのための声なんだろう。

 

 先輩は私の顔を数秒間じっと見つめてるようだった。

 それから視線を外した。マリナクアが消えていった方面へ。

 

「いいよ。あれに、何か言われたんでしょ」

 

 責める声ではなかった。怒りも失望もない。ただ事実を確認しているだけの、いつもの声。感情を圧縮して、必要な分だけ外に出す。何を言われたか。そうだ。

 

 本当に、願いを叶えようって、願ってる?

 

 喉に刺さったまま取れない骨のように、あの言葉がまだそこにある。声にしたら、その問いが本当のものになってしまう気がした。まだ言えない。今は言えない。

 

 首を横に振った。

 答えられませんという意味ではなくて、今はまだというニュアンスを込めて。先輩はそれ以上何も聞かなかった。視線を何もない場所へ向けたまま、治療の光を黙って受けていた。左耳のピアスが、先生の治療光を反射して、ちかちかと瞬いている。

 

 

 先生が立ち上がった。革靴の底から、ごり、と音が鳴る。

 

「一次治療は完了です。動けますか? 痛みは既に消えている筈です」

 

「うん。問題ない。ありがとうおじさん」

 

 先輩が壁に手をついて立ち上がる。左肩の動作に、わずかなぎこちなさが残っている。でもさっきまでの荒い呼吸はもう消えていた。変身も解けているから、服装もいつも通り。怪我を負っていたという事実はもう目では確認できなくなる。

 

「先ほどの存在について、分析結果をお伝えします」

 

 結晶の先端が、私と先輩を交互に向く。

 

「結晶格子が接触した際の反応と、現場に残留した情報を照合しました」

 

 一拍の間。先生が言葉を選んでいる。

 

「結論として、先ほどの相手は人間の契約者ではありません。海側の魔物です」

 

 魔物。あの白い衣装の少女が。あの穏やかな声で私の名前を呼んだ存在が。

 

「現在の来栖茉莉亜本人ではありません」

 

「まあ、そりゃそうでしょ」

 

 先輩は当然のように、気付いているみたいだった。そっけない声色だ。

 

「過去の盤上戦での記録から、かつて存在した魔法少女マリナクアの外見、武器、戦闘技術、記憶の断片、言動や人格の一部を再構成した、ホルメー志向型代理体であると推測されます」

 

 再構成。記録からの複製。つまり……あの少女は本物の魔法少女ではなくて。本物の魔法少女のデータを使って作り上げた模造品ということ。これまで色々な動物の魔物を作っていたのと同じように、今度は人を。いや、正確には魔法少女から作ったと。先生はそう説明している。

 

「ただし、どこまで本人の人格が再現されているかは現時点では不明です」

 

 そこで先輩が口を開いた。壁に背中を預けたまま、淡々と。

 

「衣装は全く違うし、武器も違う。普通の直剣は茉莉亜の得物だったけど、あんな蛇腹剣は持ってなかったから」

 

 一度言葉を切って、空を見上げた。

 

「顔は同じだったし……年齢も。私が中一で、茉莉亜が高二だった頃の。声も、喋り方も。間の取り方も。あのまんまだったよ、だから分かるよ、偽物だって」

 

 先輩の声は最後のほうでほんの少しだけ掠れた。いつもの平坦さを保とうとして、保ちきれなかった振幅。小さな揺れだったけれど、私には聞こえた。

 

 それでも先生は言葉を続けていく。

 

「本人の魂や肉体を利用したものではありません。それは明言しておきます。対処方法は、これまでの魔物と同じです。とはいえ、心理的に躊躇が生まれるのは仕方ないことですが」

 

 その宛先は、私ではなく先輩だったのだと思う。先輩は先生の方を見もしなかったけれど、小さく頷いた。

 言葉では上手く言い表すことのできない何か。詩音先輩と、魔法少女マリナクア。先ほど先輩が茉莉亜と言ったあの人との間にある、言語化のできない何か。私は今この場に満ちる空気からそれを感じ取っていた。それが何なのかわからないけれど、とても大切で、とても、儚い気配が漂っている。

 

 だから私は、何も質問ができずにいた。

 先生が続ける。

 

「……それでも、魔物である以上、討伐対象です。よろしくお願いいたします」

 

 通常通り。つまり、斬る。あの顔を。あの声を。先輩の先輩だった人の姿をした魔物を。

 

「余談ではありますが、考察のひとつとして。恐らく海側は、通常の魔物では紫水様に正面から勝つことが困難であるため、戦術を変更した可能性が高いと見ています」

 

 先生の声は、分析を述べる時のいつもの調子だった。正確で、感情を挟まない。

 

「紫水様に対しては人の姿で戦闘意欲を直接揺さぶること。詩音様に対しては思い入れのある人物を再現することで精神的な動揺を誘うこと。いずれも、盤上戦の土台を崩そうとする手法です」

 

「……もう卑怯な手でもなんでも、選んでいられないってことだよね」

 

「ええ。要するに、魔法少女をパクってきたわけですからね」

 

 パクリ。なんだか砕けた表現に気が抜けてしまったけれど、これは戦況が着実に変わっていることを示唆しているのだと私にもわかった。海側が星側の過去の記録をパクって、私たちの心を揺さぶるための道具に仕立て上げた。正面から殴っても勝てないから、中身を壊しに来たんだ。

 

「海側が焦っている、というよりは」

 

 先生の結晶がわずかに傾いた。考え込むような角度。

 

「戦いの最適化として、絡め手を選んだのでしょう。合理的な判断ではありますよね」

 

 合理的。あの穏やかな声で、あの眠そうな目で、私の願いの一番柔らかいところを正確に突いてきたのが合理的な判断。私達の感情さえ、合理の上で動いている。

 先生の分析は正しいのだろう。正しいけれど、胸の奥に沈んだ澱は、正しさでは溶けなかった。

 

「あの。あの、先輩……」

 

「うん?」

 

「マリナクアさん……その、茉莉亜さんのこと。教えてくれませんか?」

 

 先輩はしばらく答えなかった。

 

 先生が手を引く。先輩は左肩をゆっくり回して、可動域を確かめるような動きをした。それから空を見上げた。偽物の黄昏はもうすっかり剥がれていて、本物の星がほんの少しだけ見える。

 

「来栖茉莉亜。魔法少女マリナクア」

 

 言葉を一つずつ、地面に置いていくような喋り方だった。いつもの圧縮された短い言葉とは少し違う。丁寧に、慎重に、言葉の重さを量りながら選んでいる。

 

「私が中一で契約した時に、もういた。高二くらいだったと思う。私にとっての先輩」

 

 私にとっての詩音先輩が、そうであるように。氷川詩音にとっての来栖茉莉亜が、そうであったように。先輩にも、先輩がいた。それを以前、教えてはくれなかった。つまりそういうことだ。簡単に他人が触れてはいけない心の領域にいる人。

 私は今、それを聞いている。他でもない詩音先輩の口で喋らせている。その自覚と責任が重く、肩にのしかかるのを感じた。一文字だって聞き落としたらダメだ。

 

「星見を教えてくれた。盤相も星相も軌相も、全部あの人から」

 

 あの戦闘技術。ヤドカリの時に見せてくれた、最小限の動きで攻撃を受け流して、一瞬の居合で斬る。あの洗練された動きの全部が、茉莉亜という人から受け継いだもの。

 

「……それに。あとはね、それだけじゃなくて」

 

 先輩の声がほんの少しだけ柔らかくなった。柔らかいという表現が正しいのか分からない。硬さが抜けた、というほうが近いかもしれない。それは曖昧でいて、確かにいつもと違うのだ。

 

「日常の過ごし方とか。気の抜き方とか。商店街を歩いてて猫を見つけたらどうするかとか。エナジードリンクの種類だとか。くだらないことばっかり教わったよ」

 

 猫。あの商店街の路地で、黒猫が私の足元に寄ってきた日のことを思い出した。あの路地を、先輩も別の誰かと歩いていたのだろうか。猫を見つけて、しゃがんで、顎の下を撫でて。

 

「……一人だった私に、最初に普通の人間として接してくれた人」

 

 先輩の願いは「寂しくなくなること」だった。

 あの夕暮れの帰り道で、先輩自身がそう教えてくれた。親もいない。友達もいない。誰とも喋らない日が何日も続いて、自分の声を忘れそうになる。そう言っていた。

 その寂しさを、最初に埋めたのが来栖茉莉亜。

 

 先輩の指がパーカーのポケットの中で動いている。何かを弄っているのか、ただ落ち着かないだけなのか。以前にも見た癖だ。

 

「ただ」

 

 先輩の一言は重かった。

 

「一緒にいられたのは、一度の夏だけ」

 

 一度の夏。それはほんの、数ヶ月。

 

「夏の終わりに、茉莉亜は魔法少女を卒業した」

 

 ひどく静かに言った。

 感情を排した声。事実の報告だけをするための声。

 でもその平坦さの下に、何かが沈んでいるのが分かった。一緒に働いて、一緒に戦って、帰り道を並んで歩くようになって。この人の声の温度と湿度を、少しずつ読めるようになってきたから。

 

「ねえ。私の願いがさ、殆ど叶いかけてるって話。前に言ったでしょ」

 

 先輩がこちらを見る。白いメッシュが夏風に揺れて、目元にかかった。それを指でそっと片耳にかけると、微笑んだ。初めて先輩は笑って見せた。

 それはとてもとても、悲しい笑顔で。

 

「ほとんど埋まってるんだよ。お店があって、お客さんがいて、おじさんがいて、紫水がいて。寂しいって思う時間が、前よりずっと減った」

 

 前より。中学一年生の、一人ぼっちだった頃より。

 

「でも茉莉亜がいたところだけ、まだ空いてる。未練みたいに。あの人がいなくなったまんまの形で、穴が残ってる。だから私はまだ魔法少女シオニクスになれる」

 

「ぁ……っ……」

 

「だから私は、あの姿を見て、咄嗟に刀を向けられなかった。それだけの話だよ」

 

 それだけ。

 先輩はそう言い切った。でも「それだけ」に凝縮された重さを、私は軽くは受け取れなかった。

 

 

「でも、その。茉莉亜さんの願いは、叶ったんですよね」

 

「ううん」

 

「……え?」

 

「茉莉亜は、願いを諦めた」

 

 空は既に暗くなっている。間違いなく帰宅する頃には、お姉ちゃんから心配の言葉が大量に降りかかるであろう時間帯だ。でも今だけはお姉ちゃんのためにと、先に一人帰る気にはなれなかった。

 私の家に向かう方面の途中にあるコンビニの外で、湿気がたくさん混じった夜の夏の空気の中で、私と先輩は買ったアイスを食べていた。ソーダ味の、棒が刺さっていて、二つ割って分けて食べるもの。

 

 それを先輩は、分け合うのではなくて一人一つで食べる。私もそれを真似した。

 

「願いの結末って、二つあるんだよ」

 

 先輩はこちらに向き直った。目線がまっすぐ私に向いている。

 

「一つ目は、願いが叶うこと。理想と現実の落差がなくなって、力の源が消えて、卒業する。これが普通」

 

 普通の卒業。先生にも教わった。

 願いが満たされて、力を失って、日常に帰る。代償はない。呪いも罰もない。一番幸福な結末。

 

「二つ目は……まあ、想像はつくよね」

 

 先輩の声が、半音だけ落ちた。

 

「願いそのものを、本当の意味で手放すこと」

 

 手放す。

 

「目指してた未来が、自分の中から消える。理想の側がなくなるから、現実との落差もなくなる。そうすると。やっぱり、卒業する」

 

 不思議と、すとんと納得して落ちていった。理屈は分かる。

 落差がエネルギーの源だと、先生は教えてくれた。高いところと低いところがあるから水が流れる。落差が消えれば力は生まれない。願いが叶って落差が消えるか、願いを捨てて落差が消えるか。どちらにしても、結果は同じだ。確かにそうだ。

 

 先生のメッセージが届いた。この場にはいないのに、どこかから見ているんだろう。

 先輩は先生のそんなところを気持ち悪いと言う。私としては、安心できる気がする。

 

『補足いたします。叶わないから我慢する。というだけでは卒業にはなりません。欲しいまま、欲しくないふりをすることも同様です。本人が口で諦めたと言っても、心の底に願いが残っていれば、力は消えません』

 

『システムは本人の自己申告ではなく、真の願いを参照します』

 

 つまり、嘘をついても意味がない。自分に嘘をついても。口先で「もういい」と言っても、心の奥の奥の、自分でも触れない場所にまだ火が残っていたら、卒業にはならない。

 

 先生がもう一通。

 

『以前の説明は一般的な卒業例として、願いの成就を説明しました。そうやって願いが満たされることによる卒業が通常であり、諦めによる卒業は極めて稀なケースです』

 

 その稀なケースを来栖茉莉亜は選んだ。あるいは辿り着いてしまったんだ。先輩がコンビニの窓ガラスに背中を預けると、パーカーのフードが擦れて小さな音がした。

 

「茉莉亜が正しかったかどうかは、分かんない。間違ってたかどうかも」

 

 先輩の声は、どちらにも傾いていなかった。

 

「ただ、あの人は最後まで、自分の結末を自分で選んだ。それだけは確かだと思ってる」

 

 自分で選んだ。誰かに決められたのでも、流されたのでもなく。

 

「だからさ、紫水」

 

「はい」

 

「叶えるにしても、手放すにしても……自分で決めなよ」

 

 先輩の声は低くて、掠れていて、抑揚が少なくて。でもその平坦さの中に、確かな温度があった。

 

「目を逸らしたまま、なんとなく手からこぼれていくのが、一番よくないよ。私みたいにさ」

 

 先輩はそれ以上、何も言わなかった。私の願いの中身を聞こうとはしなかった。あの時、ニセモノのマリナクアに何を言われたのか、私が何故あれほど怒ったのか。気にしていないわけがない。心配していないわけがない。それでも踏み込まなかった。

 ただ、先輩の目が、いつもの無表情の奥で、静かに、確かに、私を見ていた。

 

 

 土曜日の朝。ウェルブムは、まだ開店前。

 

 入口のガラス戸には「準備中」の札がかかっている。カウンターの照明だけが点いていて、テーブル席の椅子はまだ下ろされていない。換気扇も回っていない。コーヒーの匂いもしない。普段のウェルブムから生活音を全部抜いたような、がらんとした静けさだった。

 

 今朝も先輩はいつも通りの格好で、いつも通りに左耳にピアスを連ねて。カウンターの内側に立っている。元気だった。少なくとも、見た目は。

 

 先生は領域の残留反応を調査するために、朝から別の場所へ向かったらしい。マリナクア型の魔物が使った領域の痕跡を追う、と先輩が短く説明してくれた。

 

 二人きりだった。

 

 私はカウンター席に座って、スマートフォンを手元に置いていた。

 画面は点いている。先輩とのメッセージ画面が開いたまま。入力欄のカーソルが、何も打たれないまま点滅を繰り返している。

 ホワイトボードも手の届くところにある。黒いマーカーのキャップを外して、もう一度つけて。外して、つけて。それを三回繰り返した。何も書けなかった。

 

 先輩は何も言わなかった。カウンターの向こう側で、開店準備の続きをしていた。グラスを棚から出して、一つずつ布巾で拭いている。急かさない。「どうしたの」とも聞かない。ただそこにいて、グラスを拭いている。

 

 その音だけが、静かな店内に落ちていく。きゅ、きゅ、と布がガラスを擦る音。規則正しくて、穏やかで、急いでいない音。

 あの夜から三日が経っている。

 

 三日間、普通に暮らした。お姉ちゃんの朝ごはんを作って、見送って、レポートを書いて、ウェルブムで皿を洗って。夜はお姉ちゃんと隣で並んで眠った。いつもと同じ日常を、いつもと同じ顔で過ごした。でも、ずっと考えていた。

 

 マリナクアの言葉を。先輩の話を。二つの卒業を。叶えても失う。諦めても失う。

 

 それなら私はどうすればいい。

 どうすれば、お姉ちゃんの隣にいられる。どうすれば、この熱を抱えたまま壊れないでいられる。

 

 三日間、答えは出なかった。出なかったけれど、一つだけ決まったことがある。

 

 誰かに話さなければ、このまま潰れる。

 

 先生は知っている。契約の時に、全部見られた。でも先生に話すのは違った。あの人は管理者で、私の感情を職務上把握しているだけだ。私が自分の口で選んで伝えたわけではない。当然、お姉ちゃんには絶対に言えない。カウンセラーの先生にも言えなかった。おじいちゃんにも。

 

 だから。だから。残ったのは、この人だった。

 

 先輩がグラスを棚に戻した。次のグラスを取る。きゅ、きゅ。

 

 マーカーのキャップを外した。四回目。今度は、書いた。

 

『先輩』

 

 ホワイトボードを持ち上げて、見せた。先輩が手を止めて、こちらを見る。切れ長の目。無表情。でも、聞いている目。消して、書き直す。指が震えている。文字がいつもよりずっと下手だ。

 

『話したいことがあります』

 

 先輩はグラスと布巾をカウンターに置いた。それから私の正面まで歩いてきて、カウンターの端にもたれかかった。腕を組まない。ポケットにも手を入れない。ただまっすぐ立って私を見ている。

 

「うん」

 

 それだけ。続きを待っている。

 

 ホワイトボードの文字を消した。新しく書こうとして、止まった。マーカーの先端が白い面に触れたまま、動かない。これを文字にしたら、もう取り消せない。ホワイトボードは消せる。でも、先輩の記憶からは消えない。

 

 手が震えている。朝ごはんはちゃんと食べた。体調は悪くない。これは寒さでも疲労でもなくて、ただ怖いだけだ。

 

 ぱっと、スマートフォンに切り替えた。ホワイトボードの文字は大きすぎて、こんなことを書くのに向いていない。画面の小さな文字の方が、まだ少しだけ楽だった。指が動き出すまでに、たぶん一分くらいかかった。先輩は何も言わなかった。一分の沈黙を、まるごと受け止めて立っていた。

 

『私のお姉ちゃんのことです』

 

 送信した。先輩のスマートフォンが、ぽこん、と小さく鳴った。画面を見る。

 

「うん。碧さん。何かあった?」

 

 先輩の目が、ほんの僅かに細くなった。次の言葉を待っている。

 

 指が画面の上で止まった。打ちかけて、消して、打ち直して、消して。何度もやった。お姉ちゃんへのメッセージでいつもやっていることだ。打っては消す。打っては消す。でも今日は、送る。お姉ちゃんじゃないあなたへ。

 

 今日だけは、送らなければならない。

 

『実は違うんです』

 

 送信。

 

『妹としてとか、家族としてとか、そういうのとは違くて』

 

 送信。

 

 指が止まった。心臓がうるさい。魔物と戦っている時の百倍うるさい。耳の中で血管が脈打っている。先輩はスマートフォンの画面を見つめていた。視線を上げない。私が打ち終わるのを、待っている。

 

『私はお姉ちゃんのことが好きです。恋をしています』

 

『姉妹なのに。おかしいと思います。自分でも思います。でもずっとそうでした。気がついた時にはもうそうで、やめ方が分からなくて』

 

 一息に打った。途中で見返さなかった。見返したら消してしまう。誤字があるかもしれない。句読点がおかしいかもしれない。どうでもいい。そんなことは今はどうでもいい。

 画面が滲んだ。涙だった。

 

 いつの間にか泣いていた。声は出ていない。

 変身していないから声は出ない。でも出ていたとしても、言葉にはならなかっただろう。喉の奥が詰まっていて、呼吸すらままならない。指だけが動いた。

 

『知られたら嫌われます。お姉ちゃんを困らせたくないんです』

 

『あの人はあんなに優しい人なのに、妹にこんなことを思われてるなんて知ったら、どんな顔をするか、考えるだけで怖くて』

 

 送信。

 

『こんな気持ち最低だって分かってます。醜いって思ってます。それでも好きなんです。ずっと好きなんです。やめられないんです』

 

 送信。

 涙がスマートフォンの画面に落ちた。指で拭ったら、上手くキーボードが反応しない。

 

『お姉ちゃんの隣に立ちたかった』

 

『対等な一人の女の子として。守られるだけじゃなくて、何かを返せる人間になって』

 

『でもそれが一歩も叶ってないんです。何をやっても、どれだけ頑張っても近づけない。多分、間違いなく、それが私の願いの正体で、それが魔法少女の力の全部で』

 

 送信。

 

 もう止まらなかった。堰が切れるというのは、こういうことなのだと思った。声の代わりに指が走る。いつもそうだ。声が出ない代わりに指だけはよく回る。画面を見つめたまま、涙を袖で拭うと、ブラウスの袖が濡れる。こんなにも水分を含んでいることに驚く。

 

 先輩は、ずっと黙っていた。

 

 私が打ち終わるまで。

 泣き終わるまで。

 呼吸が落ち着くまで。一言も発さず、カウンターの端にもたれたまま、ただそこに立っていた。

 

 どれくらい経っただろう。一分か、五分か。涙が止まって、鼻を啜って、目元をもう一度拭って、ようやく顔を上げた。

 

 先輩の顔が見えた。無表情だった。

 いつもの無表情。怒ってもいない、呆れてもいない、驚いてもいない。

 ただ静かに、確かに、私を見ている。

 

「話してくれて、ありがとう」

 

 先輩の声は低くて、掠れている。いつもと全く同じ声だった。何も変わっていない。私がこんなにも醜いものを全部吐き出したのに、先輩は変わっていなかった。

 

 それが、泣き止んだはずの涙をもう一度引き出した。

 

「その恋が正しいかなんて、私には決められないよ。紫水以外の誰かが勝手に決めていいことでもないでしょ」

 

 続く。

 

「ただ、聞いただけ。私は。紫水が自分で話してくれたことを、聞いた」

 

 それだけだった。肯定も否定もなかった。正しいとも間違いだとも言わなかった。ただ、受け取った。私が初めて自分の指で、選んで差し出したものを、そのまま受け取ってくれた。

 

 ただ、そこに立っている。近すぎない距離。息が詰まらない距離。この人はいつだってそうやって、私が壊れない場所を正確に選んでくれる。

 

「紫水。一つ、聞いてもいい?」

 

 先輩の声が降ってきた。

 平坦だ。でも、一語一語の間に時間がある。言葉を量っている時間。

 

 私は頷いた。泣いた後の頬がまだひりひりする。それがエアコンの風に当たって冷たかった。

 

 先輩が息を一つ吐いた。吐息のほうが言葉より先だった。

 

「その想いを、自分から降ろしたいの?」

 

 降ろしたい。手放すとか諦めるとか、そういう大きな言葉ではなくて。降ろす。背中に背負っているものを、自分の意思で地面に置く。先輩はそういう言い方を選んでくれた。

 

「それとも、降ろさなきゃいけないって、追い詰められてるの?」

 

 私の中でそれは同じことのはずだった。でも先輩の口から二つ並べられると、それが全然違うものだと気づいてしまう。だからすぐには答えられなかった。そんなの、今決められるわけがない。

 

 スマートフォンを両手で握ったまま、画面の光を見つめている。入力欄は空白。カーソルが点滅している。打てばいい。打って送ればいい。いつもそうしてきた。声が出ない代わりに、指で話してきた。なのに今、指が凍っている。

 

 本当は。

 

 本当のことを言えば、降ろしたくなんかない。

 

 お姉ちゃんが好きだ。好きで仕方がない。朝、卵焼きを焼いている時に階段を降りてくる足音が聞こえるだけで胸が鳴る。おはよう、と言われるだけで一日分の勇気が湧く。夜、隣の布団でお姉ちゃんの寝息が聞こえると、この世界に安全な場所があると心の底から信じられる。あの人の全部が好きだ。全部が愛おしい。この気持ちを手放すのは、自分の心臓を胸から抉り出して道端に置いていくのと同じだ。

 

 でも。

 

 姉妹なのだ。

 

 お姉ちゃんは私の姉で、私はお姉ちゃんの妹で、それはどう足掻いたって書き換えられない。この恋に未来はない。叶う道がない。叶う道がないのに願い続ければ、ずっと苦しい。毎日隣にいて、毎日好きだと思って、毎日言えなくて。

 お姉ちゃんが誰かと笑っているのを見て胸が焼ける日はいつか来る。でも笑顔で見送らなければならなくて。だって私は良い妹なんだから。

 

 そしてその間ずっと、魔法少女としての私は強いままだ。願いが消えない限り、出力は衰えない。幸福から遠いまま最強でいるということは、お姉ちゃんのすぐ隣にいながら永遠に辿り着けないということだ。その矛盾に、もう耐えられなくなっていた。

 

 指がようやく動いた。

 

『諦めなければいけないと、思っています』

 

 送信した。

 先輩のスマートフォンが、ぽこん、と鳴る。先輩は画面に目を落として、読んで、しばらくそのままだった。沈黙が三秒。五秒。

 

「……そっか」

 

 それから先輩は画面から目を上げて、私の方を見た。止めないよ、と言うのだろうと思った。先輩はそういう人だ。人の決断に踏み込まない。でも。

 

「止めはしない。紫水の気持ちだから」

 

 やっぱり、そうだった。分かっていたのに、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく軋んだ。止めてほしかったのかもしれない。「諦めなくていいよ」と、誰かに言ってもらいたかったのかもしれない。そんな都合のいい救いを求めている自分が、また少し嫌になった。

 

「ただ」

 

 先輩の声が、もう一段だけ低くなった。

 

「一個だけ。これだけは、持って帰って」

 

 先輩が私の目を見た。無表情の奥に、確かな熱があった。怒りでも悲しみでもない。もっと静かで、もっと確実な何か。

 

「それが本当に自分の言葉なのか、ちゃんと確かめて。最後の最後まで」

 

「……」

 

「怖いから蓋をするのと、全部見たうえで手を離すのは、同じ形をしてるけど、中身が全然違うよ」

 

 先輩の声が、ウェルブムの壁に吸い込まれていった。

 

「感情を黙らせることと、願いに別れを告げることは、似てるようで別のものだから」

 

 黙らせることと、別れを告げること。先輩はそう言った。来栖茉莉亜のことを考えているのだろう。

 ひと夏だけ一緒にいた先輩。願いを手放して、魔法少女をやめていった人。あの人は感情を殺したのか、それとも本当の意味で手を離したのか。先輩にとっても、その答えはまだ分からないのかもしれない。

 

 口が動いた。音にはならなかった。変身していないから。

 

 スマートフォンに打つ。

 

『はい。最後まで、確かめます。自分で』

 

 先輩は小さく頷いた。

 

 

 窓の外が明るくなっていた。土曜日の朝の陽射しが、ガラス戸を透かしてカウンターの木目を白く照らしている。開店まであと三十分もない。椅子を下ろさなければ。テーブルを拭かなければ。カトラリーを並べて、看板を出して、メニューのチョーク書きを確認して。

 

 でも、その前に。

 

『先輩』

 

 送った。先輩が画面を見る。

 

『今、お姉ちゃんのこともう好きじゃないです。って自分に言うことはできません。言ったら嘘になる。自分に嘘をついたら、先輩の言う「蓋をする」になっちゃうから』

 

 先輩は何も言わない。読んでいる。待っている。

 

『だから、期限を作ります』

 

 指が震えていた。

 でも止まらなかった。止めたくなかった。これは蓋ではないと、自分に証明するために。

 

『この夏の終わりまで。残りの夏の間、ちゃんと向き合います』

 

『お姉ちゃんへのこの気持ちと。私自身の願いと。逃げないで。見ないふりをしないで。全部ちゃんと見ます』

 

『夏が終わったら、この想いを全部言葉にして書き残します』

 

『一文字も省略しないで、全部。それから、それを自分の手で捨てます。お姉ちゃんの妹として、これからを生きていくために』

 

 涙を袖で拭った。もう泣き終わったと思っていたのに、まだ残っていた。しつこい涙だ。いつまでも出てくる。最後のメッセージを打った。震える指で。一文字ずつ。

 

『それまでに、あのマリナクアは必ず倒します。先輩と一緒に。約束します』

 

 送信して、一呼吸。

 

『でも夏が終わった後は、たぶん私、力を失います。想いを手放すってそういうことだから。変身もできなくなると思います。先輩を一人にしてしまうこと、本当に』

 

『』

 

 それ以上は打てなかった。打てなかったから、カウンター席を離れて立ち上がった。先輩の前に歩いていって、正面に立って。

 

 深く、頭を下げた。

 

 声にならない謝罪だった。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ダメな魔法少女でごめんなさい。

 

 あなたの後輩でいられたことが、どれだけ嬉しかったか。あなたの隣で剣を振れたことが。ホワイトボードを用意してくれたこと。死角から声をかけないと約束してくれたこと。傾いたクリームでも味は変わらないと言ってくれたこと。全部。全部が。

 

 頭を下げたまま、動けなかった。

 

 長い沈黙だった。商店街の方で、八百屋のおじさんが木箱を積む音がした。クリーニング屋のドアが開く音。誰かの自転車のベルの音。日常が、もうすぐそこまで来ている。もう待ってはくれない。

 

「顔、上げて」

 

 先輩の声がした。顔を上げた。先輩の目が、そこにあった。

 

 切れ長の、深い黒。いつもの無表情。でも違う。唇がほんの僅かに、本当に僅かに。引き結ばれていて、何かを堪えているように見えた。怒りではない。悲しみとも違う。もっと複雑な、名前のつけられない何か。

 

「覚えておく」

 

 先輩が言った。

 

「紫水が、自分で決めたこととして」

 

 「分かった」とは言わなかった。「大丈夫」とも「頑張って」とも。ただ、覚えておく。私の決断を、私のものとして。否定も承認もせず、ただ記憶に留める。

 

 それは「分かった」よりもずっと重くて、ずっと誠実な受け取り方だった。

 

「開店準備、始めよ。あと二十分しかないからね」

 

 先輩がカウンターの内側に戻っていく。棚からコーヒー豆の袋を取り出して、ミルのスイッチを入れる。がりがりと豆が砕ける音が、静かだった店内を塗り替えていく。日常の音に。仕事の音に。二人きりの時間は終わりを告げる。

 

 私はエプロンを手に取った。腰紐を二回巻いて結ぶ。使い込まれて柔らかくなった黒い布。手を洗う。水が冷たい。指先の感覚が戻る。

 

 決めた。

 

 この夏の終わりに、お姉ちゃんへの恋に別れを告げる。

 全部を言葉にして書いて自分の手で捨てる。そうして碧の妹として、ただの妹として、生きていく。それまでにマリナクアを倒す。先輩を一人にしてしまう前に、やれることを全部やる。

 

 これで決着がつく。つくはずだ。

 決められた。ちゃんと、自分で決めた。先輩の前で、言葉にした。覚えておくと言ってもらえた。

 

 お姉ちゃんの声が頭の中で響いている。今朝の、「行ってきます」の声。少し掠れた、寝起きの名残がまだ抜けきっていない、柔らかい声。あの声を聞くたびに、胸の真ん中で何かが灯る。小さくて、熱くて、消し方を知らない火。それはまだ、燃えていた。

 

 あの人の笑顔を思い浮かべただけで、こんなにも胸が熱いのに。

 

 大好きな。大好きな。大好きな、大好きな? 大好き、だいすき。

 

『本当に?』

 

 砂糖が溶けて、液体が少しだけ透明に近づいていく。私はそれをじっと見つめて、一度だけ深く息を吸って、また手を動かした。

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