舞台は、冷たい潮風が吹きすさぶ寂れた港湾都市。四十年のあいだ、コンテナヤードのクレーン潤滑油の匂いにまみれ、無骨に生きてきた肉体労働者・オブライアン。彼の日常は、一本の人工呼吸器が刻む規則的な機械音によって縛られている。集中治療室に横たわる娘の肺が機能を果たすための猶予は、今月末日までに突きつけられた「四万二千ドル」という非情な現実の数字によって、秒読み段階に入っていた。

一日わずか百二十ドルの日銭では、機械のプラグを引き抜かれるのを待つしかない。絶望の淵に立たされた彼に、街の裏社会を仕切る老人が提示したのは、あまりにも滑稽で、あまりにも残酷な条件だった。
「今夜の地下ストリップクラブのステージで、客を一人残らず椅子から立たせてみせろ。できれば、その場で現金を耳を揃えて払う」
夜、オブライアンはブリキの鏡の前にいた。幅広の毛深い肩を包むのは、安物の白いサテンのレオタード。頭頂部には、針金で固定された黒いウサギの耳。九センチのピンヒールに全体重を押し付け、アキレス腱を引きちぎらんばかりに張り詰めさせた男は、網膜を刺すストロボの光の中へ、一歩を踏み出す。

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第1話

吸い殻の山から昇る、じっとりとした紫煙。揮発性の高い安物の香水。それらが混ざり合い、地下楽屋の天井を走る錆びた配管から、結露となった雫が床のコンクリートに絶え間なく落ちていた。

オブライアンは、ブリキの枠で囲まれた鏡の前にいた。

 

幅広の、毛深い肩が、鏡の中で不自然に白いサテンの生地に包まれている。背中のジッパーは、先ほど衣装係の若い男が力任せに引き上げたものだ。肉が噛み込んだまま固定された背筋が、呼吸のたびに鈍く痛む。胸元は大きくV字に開いており、そこから覗くのは、カミソリで強引に剃り落とした跡が青々とした、厚い胸板だ。皮膚のあちこちがカミソリ負けで赤く腫れている。

頭頂部には、太い針金で固定された黒いウサギの耳が二本、垂直に伸びていた。頭をわずかでも傾けると、その細長い布の塊が、彼の自重とは無関係な独自の周期で小刻みに揺れた。

 

ズボンのポケットから取り出した、折り目の擦り切れた一枚の請求書が、ドレッサーの隅に置かれていた。

『セント・ジュード記念病院。集中治療室滞在費および人工呼吸器管理費、総計四万二千ドル。支払期日、今月末日』

文字の表面には、コンテナヤードのクレーン潤滑油だろう、黒い油染みが小さく付着している。あの油の匂いが染みついた日常から、今夜のこの地下室までは、わずか三キロメートルの距離しかなかった。昼間、港の冷たい潮風の中でコンテナを積み上げても、手に入るのは一日百二十ドルだ。それでは、娘の肺が完全に機能を取り戻す前に、すべての機械が止められる。裏のオーナーである老人が差し出してきたのは、今夜のステージで客を一人残らず「椅子から立たせる」ことができれば、その場で耳を揃えて支払うという、四万二千ドルの現金だった。

緊張のせいか、昼にコンテナの陰でかじった、傷みかけのマヨネーズと冷えたキャベツの匂いが、鼻腔の奥にじっとりと残っていた。

 

「おい、オブライアン。前座のジャグラーが引っ込んだぞ」

戸口から、錆びたチェーンが擦れ合うような声がした。支配人の男が、金の腕時計を指先で叩いている。

オブライアンは何も答えなかった。ただ、大きな手のひらで、腰に巻きついた粗悪なナイロン製のタイツを強く引っ張り上げた。尻の肉を強引に締め付けるレオタードの裾から、太く、無数の切り傷が白く残る脚が伸びている。港のコンテナヤードで、鉄板の角にぶつけ、重油のドラム缶に挟まれるたびに刻まれた、四十年の生活の跡だ。

 

九センチのピンヒールに足を押し込む。

その瞬間、彼の全体重が爪先の一点へと収束した。アキレス腱が限界まで引き伸ばされ、ふくらはぎの筋肉が岩のように硬直する。一歩を踏み出すと、足首が外側へ折れそうになった。彼は奥歯を噛み締め、床のコンクリートを文字通り踏み砕くような感覚で、身体のバランスを強引に垂直へと保った。

 

暗幕をくぐると、そこは視界を真っ白に塗りつぶす光の壁だった。

天井のストロボが、交互に青と白の閃光を放ち、オブライアンの網膜を強く叩く。カクテルグラスが重なり合うカチカチという高音、葉巻の煙が肺を圧迫する。耳の奥の鼓膜を直接、大きなハンマーで殴りつけるような、ベースの重低音が床から這い上がってきた。

ステージの中央には、一本の真鍮製のポールが、天井の梁から床の鉄板へと真っ直ぐに突き刺さっていた。スポットライトの熱を浴びて、それは鈍い黄金色の光を放ちながら、微かに陽炎を立ち上がらせている。

 

客席の通路では、脂ぎったフライドポテトや生温いローストビーフの皿が、気怠げなウェイトレスの手で忙しなく運ばれていた。

オブライアンは歩き出した。右、左。爪先から着地し、膝をわずかに外側へ逃がしながら、腰の関節を強制的に回旋させる。深夜、クレーンの影にある倉庫の壁で、誰もいない時間帯に一人で繰り返した歩行(ウォーク)だ。足首の靭帯が、引きちぎれるような摩擦音を脳内に響かせる。

客席から、最初のノイズが届いた。

それは言葉ではなく、胃の底からせり上がってきたような、濁った笑いだ。最前列の丸テーブルに陣取った、首筋にトカゲの刺青がある男が、持っていたバーボンのグラスを揺らしながら、隣の女の肩を叩いて指をさしている。男の口が「熊が化けて出た」と動いたのが見えた。

 

その喧騒のさらに奥、壁際の最も深い闇の中に、異様な影があった。店が用意したはずのない、純白のドレスのようなバニー衣装を纏った女が、微動だにせず座っている。いや、座っているのに、その頭頂部は天井の剥き出しの配管に届きそうだった。二メートルを遥かに超える細長い肢体。白いサテンの生地に包まれた肉体は、薄暗がりの中で発光するかのように艶めかしく、豊満な胸元が異様に長い呼吸に合わせてかすかに上下している。その女は、ステージ上のオブライアンの太い四肢のしなりを、値踏みし、呪うような、悍ましい嫉妬の眼差しでじっと凝視していた。スピーカーの重低音の隙間を縫うように、客席のどこかから「ぽ、ぽ、ぽ」という、乾いた、だが腹に響く奇妙な破裂音が漏れ聞こえ、オブライアンの鳥肌を立たせた。

 

オブライアンはそこから視線を逸らした。彼の視界は、正面にある冷たい金属の棒、その一点だけに絞られていた。四万二千ドル。その数字だけが、網膜の裏側で白く明滅している。

 

ポールの前に立ち、右手を伸ばす。

手のひらが真鍮の表面に触れた。昼間の鉄板とは違う、どこか粘り気のある冷たさが、指先の皮膚に吸い付く。

イントロが始まった。歪んだエレキギターの低音が、スピーカーの振動となって、彼の足の裏から内臓へと突き抜け、オブライアンは地を蹴った。

 

左足を軸にして、身体を大きく外側へと投げ出す。

遠心力が、彼の九十キログラムを超える巨体を引っ張った。サテンのウサギの耳が、風圧で完全に後ろへと水平に折れ曲がる。

彼はポールを右手一本だけで支え、肉厚の身体を床から浮かせた。

客席の笑い声が、ふっと消えた。ただの悪ふざけの巨漢ではない。その動きに伴う風の音が、最前列のテーブルの紙ナプキンをかすかに揺らしたからだ。それは、鉄を扱い、重力と戦ってきた男の、無骨な質量そのものの移動だった。

 

だが、次の瞬間、彼の身体が外側へ滑った。

衣装の白いサテン生地だ。合成繊維の滑らかな表面が、真鍮の金属面に対して一切の摩擦を生まない。ずるりと、右手の握力が遠心力に負けそうになる。

オブライアンは、即座に両手でポールを掴み直した。そして、滑るサテンの生地を無視するように、自らの剥き出しの内腿、前腕の皮膚を、直接真鍮の棒に叩きつけた。

ギュゥゥ、という、肉と金属が激しく擦れ合う鈍い音がステージに響く。

摩擦の熱が、一瞬で彼の皮膚の第一層を焼き切った。熱い。火を押し付けられたような痛みが走る。だが、オブライアンはその痛みを、ホールドの「楔」として利用した。皮膚が剥け、そこから滲み出た体液が、真鍮の表面で固着し、わずかなグリップを生み出す。手のひらは摩擦熱で強烈に爆ぜ、皮膚の裏で水膨れが次々と潰れて血が滲み始めたが、指の骨がミシミシと悲鳴をあげるのを、ただ無視した。

 

彼はそのまま、身体を反転させた。頭を下にし、両脚をV字に開いて天井へと伸ばす。

レオタードの股布が引き千切れそうに張り詰め、彼の太い内腿の、ボルトのように硬い筋肉が、ライトの下で赤黒く浮き出た。皮膚の表面を、大粒の汗が滝のように流れ落ちていく。汗は剃り残した胸毛を濡らし、白いサテンの生地を、じわじわと透き通った灰色に変えていった。

倒立した状態のまま、重力が彼の顔の肉を下へと引っ張る。剥き出しの歯茎、血が滲むほどに食いしばった奥歯。彼の視界は、完全に上下が逆転し、観客たちの歪んだ無数の顔が、床に敷き詰められた石のように見えた。

 

ポールの金属と、彼の内腿の皮膚が擦れ合う音が、さらに高くなる。

彼は両腕の力だけで、その巨体をさらに上方へと押し上げた。サテンのウサギの耳が、天井のスポットライトの傘に触れそうになる。上空の空気は、ランプの熱で干上がっており、息を吸い込むたびに喉が焼けるように熱い。

ここで曲の繋ぎ目のドラムが止まり、一瞬、劇場の音が完全に遠のいた。

耳を澄ますと、聞こえるのは自分の「ヒュー、ヒュー」という、喉の奥から絞り出すような呼吸音だけだった。

その秒間の静寂を縫うように、暗がりの奥から「ぽ、ぽ、ぽ」という音が聞こえた気がした。あの異常に長い首の影が、粘つくような目でこちらをまだ見つめている。

 

そこから、彼は一気に滑り降りた。

両脚のホールドをわずかに緩め、真鍮の棒を滑落する。生身の皮膚が擦れる摩擦で、熱が走る。だが、彼は床のわずか五センチ手前で、全身の筋肉を硬化させ、ピタリと静止した。

ドン、と、ポールの基部が固定された床の鉄板が鈍い音を立てる。その強い衝撃波が内臓を直接突き上げた瞬間、昼間のマヨネーズの強烈な酸っぱさが、逆流した胃液とともに一気に関門を抜けて口元までせり上がってきた。ゲロを吐いたらすべてが台無しになる。オブライアンは口を割らず、強引にそれを喉の奥へと飲み下した。

天井の配管から冷たい水滴が一つ、彼の額に落ちて、汗と混ざりながら頬を伝った。オブライアンは一瞬だけ、その冷たさをただ皮膚の表面で感じながら、次の動きへのタメを作った。

 

間髪を入れず、彼は腰を突き出し、床に両手をついて這うような姿勢をとった。

バニーの短い尾――白い化学繊維の塊が、彼の大きな尻の上で、汗に濡れて重く揺れる。滑稽なはずのその動きに、観客の誰も笑わなかった。彼らは、男の背中を走る脊柱起立筋が、まるで一本の太い綱のように波打つのを、ただ見つめていた。

客席の空気が、じりじりと張り詰めていくのが、オブライアンの肌に伝わってくる。それは、怒号や歓声の手前にある、巨大な質量を持った沈黙だった。

 

音楽のテンポが、一段と加速した。ドラムの連打が、彼の心臓の鼓動を強引に追い抜いていく。

オブライアンは再び立ち上がり、ポールに背中を預けた。

首を大きく後ろへ反らせる。頭についたウサギの耳が、舞台の床を掃くようにして、飛び散った自らの汗を吸い込んでいく。

彼の喉仏が、激しい呼吸に合わせて激しく上下した。顎の先端から滴り落ちた汗が、鎖骨の深い窪みに溜まり、そこからレオタードのV字の隙間へと溢れ落ちていく。

 

握りしめた手のひらの水膨れが完全に破れ、真鍮を握るたびに、ぬるりとした血の感触が肉の奥から滲み出してくる。滑る。金属の表面に、彼の赤い血が薄く引き伸ばされ、ライトの光を反射して光っている。

オブライアンは、その血を、さらに強く握りつぶした。滑るなら、より強い握力で、締め付けるしかない。前腕の静脈が、皮膚を突き破らんばかりに太くのたうち回っている。

 

彼はポールを両手で握り締めると、自らの身体を一本の軸として、高速で回転させ始めた。

遠心力で、彼の顔の皮膚が横へと引っ張られ、視界は赤と青のライトが混ざり合った濁流へと変わる。

耳の奥で、娘の入院室の、あの人工呼吸器が刻む規則的なプシュー、プシューという機械音が、幻聴のように響いていた。あの音を止めてはならない。その思いだけが、彼の剥がれかけた手のひらを、ポールに繋ぎ止めていた。

 

曲が最後のコーラスへと突入する。

オブライアンは、血と汗で完全にコーティングされたポールを、腕力だけで最上部まで再び這い上がった。天井の排気口から吹き出す生温い風が、彼の顔を包み込む。

彼は上空で、ポールを片脚の膝の裏だけでホールドし、両腕を大きく左右に広げた。

サテンの衣装は汗で完全に肌に張り付き、男の背中の、大きく盛り上がった僧帽筋の動きを、まるで解剖図のように克明に浮かび上がらせている。

 

そして、最後の爆音とともに、彼は真っ逆さまに落下した。

頭から床へ突っ込む軌道。

床面まであとわずか、わずか三十センチの真空。

オブライアンは右手を突き出し、全体重と落下の全エネルギーを、その一手の平だけで真鍮の棒へ叩きつけて完璧にロックした。

ガツン、と、金属と肉体が衝突する凄まじい衝撃が走り、その摩擦の極限の制動によって、彼の右手のひらの皮膚が音を立てて完全にベロリと剥ぎ取られた。肉が露出し、真鍮のポールに鮮血の帯がべっとりと焼き付く。ステージの床が、そして地下室の壁全体が激しく揺れた。

 

完全な静止。

オブライアンは、床に片膝をついた姿勢のまま、激しく肩を上下させていた。頭のウサギの耳は、片方が根本から折れ、だらりと前に垂れ下がって彼の視界を遮っている。

額から流れた血の混じった汗が、右目に入って激しく染みた。だが、彼はその目を瞑ることさえしなかった。ただ、目の前の床に滴り落ちる、自らの血の雫を見つめていた。

 

一秒の、真空のような沈黙。

最前列の、トカゲの刺青の男が、持っていたグラスを指から滑り落とした。ガラスが床で砕ける高い音が響く。男は口元を押さえ、吐き気を催したかのように、あるいは信じられないものを見たかのように、ただ圧倒されて動けなくなっていた。隣の女は、声を出すことも忘れ、テーブルにしがみついたまま固まっている。

 

次の瞬間、その静寂を切り裂くように、地下室の床が底抜けたかのような地鳴りが、彼の鼓膜を直撃した。

「おおおおおおおッ!」

一人の男が叫び、それに引きずられるようにして、周囲の人間が次々と声を炸裂させた。

口笛、野太い怒号、何十人もの人間が手のひらを打ち鳴らす乾いた音が、狭い地下室のコンクリート壁に跳ね返り、何倍にも膨れ上がってステージへ降り注ぐ。

ネクタイを緩め、椅子の上に立ち上がって拳を突き上げる男たち。バーテンダーはシェイカーを床に落としたまま、カウンターの上に身を乗り出し、喉を震わせている。

ステージの端には、無数の人間が押し寄せ、その差し出された手が、ライトの光の中で波のように揺れていた。誰もが、その滑稽で、血まみれのウサギの耳をつけた男に向かって、自らの身体を投げ出すようにして叫んでいた。

 

オブライアンは、ゆっくりと立ち上がった。

九センチのピンヒールが、観客たちの足踏みによる床の振動で、小刻みに震えている。

彼はその歓声の渦を、見回すことはしなかった。ただ、目の前にある、自分の剥がれた皮膚と血で赤黒く汚れた真鍮のポールを、もう一度だけ見つめた。

彼はだらりと垂れ下がったウサギの耳を揺らしながら、胸のサテン生地を大きく膨らませて、光と怒号の渦巻く通路へと、一歩を踏み出した。

 

暗幕を抜け、楽屋へと戻る細い白熱灯の廊下。その突き当たり、薄暗い角の天井近くに、やはりあの影がまだいた。二メートルをゆうに超えるドレス姿のバニー。その長い、異常に白い指先が、壁のコンクリートをゆっくりと引っ掻く。

オブライアンは立ち止まらなかった。ただ、すれ違いざま、剥き出しになった彼女の長い首の皮膚が、まるで古い蛇の抜け殻のようにカサカサと乾いた音を立てるのを、耳の裏側で聞いていた。

「ぽ、ぽ、ぽ……」

それは祝祭の終わった地下室に、ねっとりと張り付くような音だった。


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