寝坊助さん改め、“彩葉さん”はゆるゆると顔を上げた。
ネイビー色の綺麗な前髪は机へ突っ伏していたせいで好き放題に跳ね、右へ左へと自由に散らかっている。
「お昼、食べよう」
もう一度声を掛けると、彼女は眠たげに頷きながら目をこする。その拍子に乱れた前髪がさらに目元へ垂れた。
「ああ……」
髪が邪魔だろう。私も毎朝似たような目に遭っているだけに放っておけない。制服のポケットから携帯用の櫛を取り出す。
「ちょっと失礼」
一声掛けてから、そっと前髪へ櫛を入れる。絡まった毛先を無理に引っ張らないよう、少しずつ梳かして整えていく。前世では妹や姪の髪を整えたこともあったし、自分の髪も毎朝手入れしていた。だから髪を整えるのは慣れている。
数回櫛を通せばハネは自然と落ち着いて目立たなくなった。これでよし。
「うん、綺麗になった」
櫛を畳んでポケットへ戻す。
彩葉さんは何度か瞬きを繰り返し、自分の前髪へ手をやった。そして、私と目が合う。
草葉色、と言うのだろうか。少し霞んだ黄緑色の両目が私を写す。まだ夢の中にいるように微睡んでぼんやりとしていた。どうせなので微笑んでおこう。
反応に困った時は笑う。前世で培った処世術だ。
「…………」
みるみるうちに耳まで赤く染まっていく。
……もしや熱中症だろうか。今日の天気は快晴とはいえ、梅雨半ばな今日は湿気で蒸し暑い。塩飴か……せめて水でも飲ませるべきだ。
そんなことを考えているうちに、彼女の身体からふっと力が抜けた。
「え、ちょっ」
机へ突っ伏すように崩れ落ちたので、慌てて肩を支える。
危ない。顔面から机へ突っ伏していたら、せっかく整えた前髪が大変なことになるところだった。いや今重要なのはそこじゃない。
「彩葉さん……?」
返事はなく、すぅ、すぅ、と規則正しい寝息だけが聞こえてくる……寝た。え、寝た!?せっかく起こしたのに!?
彩葉さんを支えたまま、おそるおそる二人を見る。その二人——芦花さんと真実さんが揃って額へ手を当てていた。
「彩葉さんなんで寝たの………?」
「言わな〜い」
「またやってるよこの人」
二人は揃ってため息をつくばかりで、彩葉さんが倒れた理由は最後まで教えてくれなかった。
……
◇ ◇ ◇
数分後。
結局、彩葉さんは五分ほど眠っただけで何事もなかったように目を覚ました。本人いわく、ちょっと寝不足だっただけだそうだ。
ただでさえ苦学生の彼女が体調を崩せば無理が効かなくなる。体調にはぜひ気をつけて欲しいものである。
そんなこんなで昼休みの時間も少し押してきた。
「彩葉様、今日の分のお弁当です。お納め下さい」
「はいどうも。………毎回その言い方何?」
「気分です」
四人揃って机を寄せ、弁当箱を広げる。渡した弁当箱の中を見た彩葉さんが目を見開く。
「うわ、ハンバーグだ」
芦花さんが覗き込む。
「豪勢だね。作ったの?」
「流石に冷凍ですよ。一から作るのは面倒ですし」
四人で「いただきます」と手を合わせる。
どうせなのでハンバーグへ初めに箸を伸ばした。
一口大に切り分け、口へ運ぶ。噛んだ瞬間、じゅわりと肉汁があふれ出し、濃厚な旨味が口いっぱいに広がった。冷えた状態でもパサパサになっていないのは企業努力だろう。
「……!」
隣で食べていた彩葉さんも、ぱちり、と目を見開いた。それまで眠たげだった表情が一変し、何度も咀嚼しながら味を確かめている。
「これ……すごく、おいしい」
「えー?」
芦花さんが興味津々といった様子で身を乗り出す。
「そんなに?」
「少し食べる?」
「食べる〜」
「あ、じゃあ私も」
彩葉さんが箸で二欠片を切り分けて、それぞれの弁当の中に置いた。
「じゃ、遠慮なく」
「いただきます」
二人はそれぞれ口へ運び――。
「……美味っ。最近の冷凍食品すご」
「ね~、これに舌が慣れたらやばそう」
芦花さんが感心したようにぼやき、真実さんも頷く。
「まぁ一個千円超えるやつなんで、美味しくなきゃ困るんですけど」
「んぐっ……!」
彩葉さんの肩がびくりと跳ねた。危うく吹き出しかけ、慌てて両手で口を押さえる。
隣の芦花が椅子を引き寄せながら、慌てて声を上げた。
「戻すな彩葉。せっかくの肉が無駄になる」
「止めるのそこ?……いやまぁそこなんだろうけど」
彩葉さんはハンバーグを無事飲み込めたようだ。水筒を傾けている。
私ももう一口ハンバーグをぱくつく。
「おいしいですよね、買ってよかったです」
「いやいや、この弁当一個で月の食費超えるんですけど!」
「代わりに勉強見てもらってますし。私に教えられるレベルの
男はこういう所が面倒だ。
社会には男性が優遇される制度も少なくない。行動の自由が利く場面も多いし、補助金なども受けやすい。
だけどその分、
だから、勉強を教えてもらえる相手というだけでも、彩葉さんは十分に貴重だ。
「勉強って言っても、千草学年2位じゃん」
芦花さんが怪訝な顔を浮かべる。
「まぁ1位彩葉だけど僅差だし。教えてもらう必要ある?」
「ん~……彩葉さんってたぶん、自分が納得できない手助けって嫌いですよね」
「嫌いというか……苦手ではあるけど」
弁当を箸で突きながら言葉をまとめる。
「同年代で自分より勉強できる人、彩葉さんが初めてだったんです」
私より才能のある人はざらにいるだろう。しかし前世という高い下駄を履いて過ごしてきた私は、そこらの人間にそうそう負けない。数十年の人生経験というのはそれだけ反則だ。
なのに彩葉さんには負けた。彼女の才能と努力は、その下駄ごと私を追い越した。
「……私より頭いい人なんて結構見つかると思うけど?」
「だまらっしゃいこのバカ彩葉。あんたみたいなのが何人もいてたまるか」
芦花さんがぷりぷり怒っている。私もそう思う。
「それで、こんな頑張ってる人が潰れるのは、納得いかなくて……ずっと元気で、いてほしいって……思った、のかな?」
上手く言葉に出来ないけれど、これが一番近い。
「だから……勉強の代わりって建前でも、支えられたらって……まぁ、多分そんな感じです」
「……なにこれ同情すればいいのか嫉妬すればいいのかわかんない」
「真実は彼氏いる分マシじゃん。私なんて脳が壊れそうだよ」
「あ、勘違いしてほしくないですけど」
改めて彩葉さんを見る。
「半分は建前ですけど、もう半分は本気ですよ。いつか一位譲ってもらいますから。楽しみに待っててください」
彩葉さんの頬がじわりと赤く染まり始めて、耳まで真っ赤になったかと思えばそのまま机へ突っ伏した。
「え?」
「ごめん……私も無理。死ぬ」
「え!?」
芦花さんも倒れた!やっぱり熱中症か!?
「違うわあんたのせいだ!この爆弾私1人に対処させる気かおいてくな!」
彩葉さんは机に突っ伏したまま動かないし、芦花さんも戻ってくる気配がさっぱりないし、真実さんに至っては額を押さえて小声で叫んでいる。器用ですね。
昼休みの喧騒だけが、妙に遠く聞こえる。
「………私、何か変なこと言いました?」
「言ってないけど反則……あ~もう彼氏に会いたくなってきた」
「反則……?」
ますます意味がわからない。
首を傾げながら弁当の隅に残っていたコーンを口へ運ぶ。
……あ、これも美味しい。
小話
「あの人本当になんなの!?」
「どうどう、どうどうだよ彩葉」
芦花が宥めるように手を振る。
「私は馬じゃないっ!!」
彩葉は机をばん、と叩いた。
「アレ全部素で言ってるし……」
「そこが一番たち悪いよねぇ」
真実がうんうんと頷く。
「てかさ」
芦花が思い出したように彩葉を見る。
「彩葉と千草の初対面ってどんな感じだったん?高校で初めましてだよね」
「あ〜、えっとね——」
◇ ◇ ◇
『初めまして酒寄彩葉さん』
『へっ?男?』
『貴女のお昼ご飯を作るので、代わりに勉強教えてもらっていいですか?』
『いや何のはな』
『彩葉さんは私とご飯食べるの嫌ですか?』
『イヤジャナイデス』
◇ ◇ ◇
「——みたいな?」
「展開が早い!出会って五秒で落ちてる!!」
「しょうがないじゃん捨てられたチワワみたいな顔してたんだから!!」
「しかも翌日には弁当持ってくるし」
「千草の距離感ほぼ女友達だよね?」
「もう最近、周りの女子から『かわいそう』って目で見られるようになってきたの!」
彩葉は頭を抱えた。
「このままじゃ今後まともな恋愛できる気がしない!」
「もう千草に貰ってもらったら?」
「無理だよ。私を奥さんに、とか全く考えてないもんあの人。だからこっちからも手出せないし」
「うわぁ、生殺しだねぇ」
「頑張れ彩葉、恋愛は押せ押せだよ」
「芦花どんな心境で言ってんの?目死んでるよ」
芦花は静かに目を逸らした。
まぁ結局のところ。
「なんなの、あの人」
「「それは分かんな〜い」」
三人は同時にため息をついた。