梅雨が明けた。
季節は着実に夏へ向かっていて、湿気が多少引いた代わりに遠慮を知らない日差しが肌を焼き始めた。
今日は金曜日だが、祝日で学校は休み。目覚ましを掛けずに眠ったせいか、目を覚ました時には時計の針は八時を少し回っていた。
ベッドの上で大きく伸びをしてから起き上がる。
一人暮らしの部屋は静かで、外からは蝉の鳴き声だけが聞こえてくる。
洗面所で顔を洗い、歯を磨いてから冷蔵庫を開ける。作り置きしておいたBLTサンドを取り出し、電子レンジで軽く温めた。
トマトの酸味とベーコンの塩気を味わいながら、スマホで今日のニュースを流し見する。食べ終えた皿を流しへ置き、麦茶を一杯飲み干すと、小さく息をついた。
もう一杯だけ麦茶をコップに注いで机へ向かう。
「よし」
学生である以上、勉強は毎日の積み重ねだ。
もっとも、苦痛だと思ったことはあまりない。学ぶ内容のほとんどは、前世で一度触れたものだからだ。
それでも、異世界な以上歴史の年表は所々違うし、数学や物理だって公式の一部は覚えていない。だから教科書を読み返し、ノートを整理しながら、曖昧だった知識を一つずつ元の場所へ戻していく。昔読んだ本をもう一度読み返しているような感覚。
数学を一通り確認し、英単語帳をめくり、教科書を流し読んで、今週学んだ範囲をざっと復習する。ノートを閉じる頃には、時計の針は十一時を回っていた。気づけば二時間近く机に向かっていたらしい。
少し痛む肩を軽く回して立ち上がる。
「汗やば……お風呂入ろ」
そう呟いて洗面所へ向かい、棚を開けてクレンジングバームを取ろうとして手が止まる。
「あ」
容器は、見事に空だった。
「……化粧水も少ない……まとめて買うか」
思わずため息が漏れる。梅雨が明けたばかりの夏だ。外に出るのはなかなか根気がいる。
簡単にメイクをした後は肩幅をごまかせる程度にゆったりした服へ着替え、財布とスマホをエコバッグに入れて日傘とともに家を出る。
「暑っ……」
まだ昼前だというのに、真夏の日差しは容赦がない。足早に歩いて見慣れたドラッグストアへ入り、冷房の涼しさに小さく息をつく。
買い物籠を手に取った後は化粧水、乳液、洗顔料に除毛剤。その他必要なものを順番にカゴへ入れながら店内を歩いていると、少し先に見覚えのある後ろ姿が目に入った。
いつもの制服ではなく私服姿だが、見間違えるはずもない。なぜ彼女がここに。
「……彩葉さん?」
◇ ◇ ◇
ドラッグストアのベビー用品売り場は、意外と人が多かった。新婚らしき夫婦が紙おむつを見比べ、小さな子どもを連れた母親が粉ミルクを籠へ入れていく。
そんな日常の光景の中で、私は一人、買い物カゴを抱えていた。
紙おむつ、粉ミルク、おしりふき。その他もろもろカゴの中の赤ちゃん用品は、必要だから買っているだけ。
それでも高校生がそんな買い物をしていれば、どう見ても浮く。事情を知らない人から見れば、どう映るかなんて考えたくもない。
私は小さく息を吐き、棚へ視線を戻した。
「えっと……保湿クリームも買っといた方が」
「……彩葉さん?」
背後から聞こえた声に、肩が大きく跳ねて全身が凍り付く。
聞き間違えるはずがない。昨日まで毎日のように学校で聞いていた声だ。
「……千草?」
恐る恐る振り向けば、予想通りの人物が買い物カゴ片手に立っていた。
「彩葉さん。昨日ぶりですね」
いつも通りの穏やかな声で、いつも通りの落ち着いた笑顔。頭の中が一瞬で真っ白になる。
なんで、どうして。よりにもよって今。
いや、待て落ち着け。この角度ならカゴの中身はギリ見られていないかもしれない。
「な、な、なんでここにいるの……?」
焦りすぎて声が裏返った。我ながら酷い。
「クレンジングが切れてたので」
千草はカゴを少し持ち上げた。中にはクレンジングの他にも、化粧水、乳液、洗顔料、除毛剤。
「いろいろ、買ってるけど……」
「この機会にまとめて補充しようかと」
「あ……そうなんだ」
「………ん?」
千草の視線がゆっくりと下へ落ちる。
正確には、私の買い物カゴへ。
「あ」
しまった。隠すより早く見られた。
紙おむつ。粉ミルク。哺乳瓶。赤ちゃん用保湿クリーム。どこからどう見ても、育児用品一式だ。言い逃れなんてできない。
終わった。学校生活が終わった。噂になる。絶対になる。
せめて何か言わなきゃと口を開こうとした、その瞬間。
千草が籠の中と私の顔を見比べ、静かに頷いた。
「……高校生が赤ちゃんプレイは、その、流石に……やめたほうが」
「違うわっ!!」
店内中に響きそうな声が出たので慌てて口を押さえる。
対する千草は、相変わらず涼しい顔をしていた。口元にはうっすら笑みまで浮かんでいる。
「ではお目出度い話ですか?どうぞ、ご祝儀です」
「そんなんする相手おらへん!!財布取り出すんやない!!」
私が慌てて押し戻すと、千草は小さく吹き出した。
「冗談ですよ」
「絶対楽しんでたでしょ……」
「はい」
ひとしきり笑った千草は、周囲へゆっくりと視線を巡らせる。さっきのやり取りを気にしてか、こちらをちらちら見ている客もまだいた。
「ここだと少し目立ちますね……こっちに来てください」
千草は私の袖口を軽く引いて歩き出す。そして人通りの少ない売り場の端で足を止めた。買い物客の声は聞こえるものの、さっきまでいた通路よりずっと人目は少ない。千草は少し汗で張りついた前髪を指先で整え、小さく息をつく。
そこでようやく私へ向き直った千草からは、先ほどまでの笑みは消えている。
「私に、話してくれますか?」
小さく息を吸う。
「ごめん、無理」
千草なら、聞いても笑わないだろうし、否定もしない……と思う。それでも話せない。だって私だって理解できてない。
学校からの帰り道で七色に光るゲーミング電柱を見つけて?中から人間の赤ちゃんが現れて?そのまま家に連れて帰った?
最初から最後まで荒唐無稽なそんな話。千草が万が一信じてくれなかったら、その時は本当に私だけになってしまう。そう思うだけで、喉が締め付けられる。だから話せるはずがなかった。
「犯罪に巻き込まれている、とかでは?」
「……違う」
「手助けは?」
「いらない」
「……そうですか」
私の返事を聞いた瞬間、千草の表情がほんの少しだけ曇った――気がしたけど、顔を上げた時にはいつもの穏やかな笑みに戻っていた。
「秘密にしておきます。諌山さんや芦花さんにも」
「……ごめんね、ありがとう」
「いいえ。話せるようになったら、その時に」
千草はそう返して、それで話は終わると思った。けれど彼はその場を離れないまま、何かを考えるように小さく視線を落とす。
珍しい。普段の千草なら、話が終わればそれ以上踏み込まない。そういう距離の取り方が上手い千草が、何か言いかけては飲み込むような仕草を続ける。
彼が言葉を選んでいるのが伝わってきて、私も黙って待つしかない。
千草は一度だけ私の買い物カゴへ目を落とし、何かを決めたように小さく息を吐いた。
「……そういえば、あと一週間で夏休みですよね」
ようやく顔を上げた千草がそう切り出す。
もうすぐ夏休み、そういえばそうだ。それは学校へ行かなくていい、バイトを思いっきり入れられたはずの長い休み。でも私はあの子の世話をすることになる。
沈んだ気持ちのままそんなことを考えていると、千草が言った。
「勉強を教えてもらう代わりに、お昼ご飯は私が作る約束でしたよね」
「……うん?」
「なので、夏休みに入ったら予定どおり伺います。もし都合の悪い日があれば、その時だけ連絡してください」
「え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
明日の天気を言うような自然な口調で、そんな気軽な調子で言われたものだから、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
軽く手を振って、千草はそのまま歩き出す。
「それじゃあ、また学校で」
呼び止める間もなく、商品の棚の向こうへ消えていった。
一人残されて買い物籠を抱えたまま立ち尽くす。
「……え?」