第一刀 海都に流れ着いた黒
海都アーモロードの朝は、潮の匂いから始まる。
夜明け前の港では、漁師が網を引き、商人が木箱を運び、水夫が眠たげな声で罵り合っている。だが、港から少し離れた広場だけは、別の熱を帯びていた。
冒険者ギルド。
世界樹の迷宮へ挑む者達が集まる場所。
その掲示板の前に、朝から人だかりができていた。
「ロイヤルガード、まだ戻ってないのか?」
「四十二階の地図を埋めてるらしいぞ」
「月下猟姫は昨日帰還した。三十九階でFOEを避けて戻ったって話だ」
「大地の記録者は?」
「二十八階の採取場を更新したらしい」
「やっぱり地図屋連中はすげぇな」
掲示板には、海都の有力ギルドの到達階層が記されている。
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Aランク ロイヤルガード 第四十五階層
Aランク 月下猟姫 第三十九階層
Bランク 獣牙旅団 第三十一階層
Bランク 大地の記録者 第二十八階層
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この街では、身分よりも階層がものを言う。
どれだけ深く潜ったか。
どれだけ生きて帰ったか。
それが冒険者の価値だった。
掲示板の一番下。
新規登録者欄には、まだ何も書かれていない。
そこを、リッドはじっと見ていた。
十八歳。
村から出てきたばかりの駆け出し冒険者。
職業はウォーリアー。
革鎧はまだ新しく、腰の剣にも傷が少ない。だが、その目だけは、すでに深層へ届いているかのように輝いていた。
「いつか俺達の名前も、あそこに載る」
隣でファラがため息をついた。
十七歳。
リッドと同じ村で育った幼馴染。
職業はモンク。
拳に巻いた布を締め直しながら、呆れた声で言う。
「まず今日の依頼を取ってから言って。昨日も掲示板を見て終わったでしょ」
「今日は違う!」
「何が?」
「気合いが違う」
「気合いで迷宮は歩けない」
「歩ける!」
「歩けない」
「気合いで魔物も倒す!」
「倒される」
二人が言い合っていると、ギルドの扉が開いた。
海風が入ってくる。
それと同時に、ギルドの喧騒がわずかに鈍った。
五人の異国人が立っていた。
全員が黒を纏っている。
先頭の男は二十ほど。
背は高すぎず、体格も大柄ではない。だが、腰に二振りの刀を差し、静かに立っているだけで、周囲の空気が変わった。
黒蘭。
後に海都でそう呼ばれる男だった。
彼の後ろには、同じく二刀を帯びた少女がいた。
年は十七、八ほど。
背筋はまっすぐで、足取りに無駄がない。腰の刀の柄には長い黒布が巻かれている。冒険者というより、どこかの式典から抜け出してきたような気品があった。
黒華椿。
その名を知る者は、まだ海都にはいない。
三人目は、黒薔薇。
一刀を腰に差し、両腕に大きめの籠手を着けた女。目つきは鋭いが、五人の中では最も人間味があった。面白そうに周囲を見回し、すぐに退屈そうに鼻を鳴らす。
四人目は、黒牡丹。
侍女のような穏やかな物腰の女。腰には短刀。背の荷は他の誰より重そうだが、歩みに揺れがない。
五人目は、黒百合。
短刀を持つ女。
影のようだった。
そこにいるのに、視線を外すと消えそうな気配。彼女の目が一度動くだけで、近くの冒険者が半歩下がった。
ギルド内に囁きが広がる。
「東方人か?」
「黒づくめだな」
「刀だ」
「ショーグンか?」
「ショーグンなんて、海都じゃほとんど見ないぞ」
「東の船が一隻流れ着いたって、港で聞いた」
「亡命者か?」
リッドは口を開けて見ていた。
「……すげぇ」
ファラは小声で言う。
「近づかないでよ」
「なんで」
「見ればわかるでしょ。面倒な人達だから」
リッドは聞いていなかった。
五人は受付へ向かった。
先頭の男、黒蘭が言う。
「冒険者登録を」
受付嬢は一瞬だけ見惚れたように固まり、それから慌てて書類を出した。
「は、はい。新規登録ですね。パーティー名は?」
黒蘭は少しだけ考えた。
「決めていない」
受付嬢が困ったように笑う。
「では、代表者名で仮登録になります。お名前を」
「黒蘭」
「黒蘭様ですね。他の方は?」
二刀の少女が答える。
「黒華椿です」
籠手の女が続く。
「黒薔薇」
侍女のような女が微笑む。
「黒牡丹と申します」
最後の女が短く言った。
「黒百合」
受付嬢の手が止まる。
「皆様、黒……なのですね」
黒薔薇が眉を上げた。
「変か?」
「い、いえ。珍しいお名前だと思いまして」
黒百合の視線が受付嬢へ向く。
受付嬢の顔色が変わった。
黒蘭がわずかに手を上げる。
それだけで、黒百合の視線は外れた。
受付嬢は息を整えるように書類をまとめる。
「登録には試験があります。海都では、どれほど腕に覚えがあっても、最初はFランクからの開始となります」
「構わない」
黒蘭は即答した。
黒薔薇が不満げに横を見る。
「本当にいいのか?」
「上がればいい」
「簡単に言うなよ」
「難しいのか」
黒薔薇は肩をすくめた。
「お前の簡単は信用ならない」
その時、ギルド奥の階段から低い声がした。
「騒がしいな」
降りてきたのは、片目に古傷のある男だった。
四十代半ば。
広い肩。
腰には剣。
冒険者ギルドの長、レオン。
元Aランク冒険者であり、今はこの街の冒険者達を束ねる男。
彼は五人を見回し、最後に黒蘭を見た。
「東方から流れ着いたというのは、お前達か」
「そうだ」
「目的は?」
「世界樹」
「金か。名誉か」
「違う」
「では?」
黒蘭は少しだけ間を置いた。
「探し物だ」
レオンは笑った。
「迷宮に探し物か。冒険者らしい答えだ」
黒蘭は否定しなかった。
レオンは受付の書類に目を落とす。
「黒蘭、黒華椿、黒薔薇、黒牡丹、黒百合。全員が黒か」
黒蘭は何も言わない。
レオンの目がわずかに細くなった。
何かを思い出しかけたようにも見えた。
だが、それ以上は口にしない。
「試験場へ来い。腕を見よう」
その言葉に、ギルド奥の席から椅子の音がした。
白銀の鎧を着た青年が立ち上がる。
ロイヤルガードの一人、アルベルト。
ファランクス。
海都の騎士気取り、と揶揄されることもあるが、その実力は確かだった。
「ギルドマスター。私も立ち会います」
レオンが面倒そうに見る。
「なぜだ」
「最近、身元不明の冒険者が増えています。まして東方から来た武装集団です。街の安全のため、確認が必要かと」
黒薔薇が鼻で笑った。
「監視って言えばいいだろ」
アルベルトの眉が動く。
「礼儀を知らないようだな」
「先に疑ったのはそっちだ」
ロイヤルガードの仲間達が色めき立つ。
黒百合の姿が、ほんのわずかに薄くなる。
次の瞬間、黒蘭の指が彼女の袖を押さえていた。
誰にも見えない速さだった。
黒百合は止まる。
黒蘭はアルベルトを見る。
「立ち会えばいい」
アルベルトは少し意外そうにする。
「随分と従順だな」
「試す者が多いほど、後が楽だ」
「後?」
「侮りが減る」
ギルド内が静かになった。
アルベルトの顔に怒りが浮かぶ。
「大した自信だ」
黒蘭は答えなかった。
レオンが手を叩く。
「では始めよう」
リッドは思わず拳を握った。
「なあ、ファラ」
「何」
「見に行こう」
「嫌な予感しかしない」
「絶対すごいって!」
ファラは深くため息をついた。
「見るだけだからね」
二人は人の流れに乗って、ギルド裏の試験場へ向かった。
試験は、午前の半ばから始まった。
最初は十数人ほどだった観客は、昼前には三十人を越えた。
「東方の黒い五人が試験を受けている」
「ロイヤルガードが立ち会っている」
「刀を持った変な連中だ」
噂はすぐに広がった。
試験場は、砂地の広場だった。
新人冒険者の適性を見るための場所で、周囲には木柵と簡易な治療所がある。
レオンが説明する。
「試験は三つ。魔物への対応、探索技能、模擬戦。まずは魔物だ」
鉄格子が上がる。
水を含んだ低い音とともに、魔物が現れた。
魚だった。
ただし海で泳ぐ魚ではない。
湿った体を跳ねさせ、鰭を足のように動かしながら砂地を這う。大きな口には牙が並んでいた。
かみつき魚。
第一階層で新人をよく傷つける魔物だ。
続いて、巨大な蛙が二体。
膨らむ喉。
ぬめった皮膚。
太い後脚。
トノサマガエル。
新人試験には、少し厄介な組み合わせだった。
黒薔薇が籠手を鳴らす。
「魚が陸で跳ねてるぞ」
黒牡丹が穏やかに言う。
「世界樹では珍しくないのでしょう」
黒華椿が一歩前に出た。
腰の刀を一本抜き、地面に突き立てる。
柄に巻かれていた黒布がほどけた。
風もないのに、旗のようになびく。
椿の声が通った。
「薔薇、魚を。百合、右の蛙。牡丹、毒は浅く。黒蘭様、左をお願いします」
短い指示だった。
しかし五人は迷わなかった。
かみつき魚が跳ねる。
黒薔薇が前に出る。
盾はない。
両腕の籠手だけ。
牙が迫る。
黒薔薇はそれを受け止めなかった。
籠手の角度をわずかに変える。
牙が滑る。
魚の体勢が崩れる。
そこへ一刀。
深くは斬らない。
動きを止めるだけ。
右の蛙が跳ぶ。
黒百合の姿が消えた。
次の瞬間、蛙の喉に短刀の柄が叩き込まれている。
鳴き声が潰れた。
黒牡丹の針が後脚へ刺さる。
蛙は着地に失敗し、砂へ沈む。
黒蘭は左の蛙へ歩いていた。
走らない。
焦らない。
蛙が舌を伸ばす。
黒蘭は二刀を抜かない。
鞘のまま、舌の軌道を軽くずらす。
次に前脚を払う。
蛙が崩れる。
最後に柄頭が急所の手前で止まった。
終わり。
殺していない。
だが、魔物は動けなかった。
観客が静まり返る。
「今の、抜いてないよな」
「鞘だけで?」
「いや、女の方もおかしい」
「盾なしでかみつき魚を流したぞ」
「毒針? いや、あれは何だ?」
レオンは腕を組んだまま見ていた。
アルベルトは何も言わない。
黒蘭は刀を抜いてすらいなかった。
第一試験が終わったのは、開始から半刻ほど経った頃だった。
本来ならここで十分合格。
だがレオンは次の檻を開けさせた。
奥から低い唸り声。
観客がざわめく。
「おい、あれは試験用じゃないだろ」
「オオヤマネコか?」
「新人に出す相手じゃない」
大型の豹に似た魔物が姿を現した。
しなやかな体。
鋭い爪。
低い姿勢。
オオヤマネコ。
第一階層でも、中堅冒険者を傷つけることがある獣だった。
黒薔薇が笑う。
「今度は少し速そうだ」
レオンが言う。
「棄権してもいい」
黒蘭は答えた。
「不要だ」
オオヤマネコが動いた。
リッドには、影が走ったようにしか見えなかった。
黒薔薇が受ける。
いや、受けない。
爪を籠手で触れ、力を横へ流す。
オオヤマネコの体がずれる。
しかし魔物は空中で身をひねり、黒華椿へ向かった。
椿は動じない。
地に刺した刀の黒布が翻る。
「百合」
「はい」
黒百合が影から現れ、短刀の柄で進路を変える。
牡丹が砂地に粉を撒く。
オオヤマネコの足が一瞬だけ鈍る。
その一瞬で、黒蘭が前に出た。
二刀はまだ抜かない。
鞘の先で爪を誘い、足元を払う。
獣の体勢が崩れる。
そして黒薔薇の一刀が首筋の手前で止まった。
終わっていた。
黒蘭ではなく、黒薔薇が止めを取る形になった。
黒蘭はただ、獣の動きを崩しただけ。
それでも、誰も見逃せなかった。
あの男が動いた瞬間、戦いの形が変わった。
黒蘭は一歩下がる。
「殺す必要はない」
その声は静かだった。
強さを誇る声ではない。
必要と不要を分けただけの声。
レオンが言った。
「第一試験は合格だ」
観客はしばらく沈黙していた。
やがて、誰かが小さく呟いた。
「……あれでFから始めるのかよ」
昼。
試験は一度中断された。
観客は酒場へ流れ、試験の話を広げた。
「魚と蛙を一瞬で止めた」
「オオヤマネコを殺さずに抑えた」
「黒い女の声で全員が動いた」
「先頭の男はほとんど抜いていない」
「ロイヤルガードのアルベルトがずっと黙ってた」
噂は尾ひれをつけて広がる。
リッドとファラも酒場の隅で簡単な昼食を取っていた。
リッドは興奮していた。
「見たか、ファラ!」
「見た」
「すげぇだろ!」
「すごいけど、真似したら死ぬからね」
「わかってるって」
「絶対わかってない」
リッドは自分の剣を見る。
あの男は、鞘だけで魔物を崩した。
黒薔薇は盾も持たずに爪を流した。
椿の声だけで全員が動いた。
自分とは違いすぎる。
それでも、リッドは目をそらせなかった。
「俺も、ああなりたい」
ファラは少しだけ表情を柔らかくした。
「まず今日の依頼、ちゃんと受けてからね」
「……それはそう」
午後。
探索技能の試験が始まった。
場所はギルド地下の訓練用小迷宮。
罠、偽の通路、隠し扉、採取場所、毒草。
新人に迷宮の基本を覚えさせるための場所だった。
黒牡丹は入口で足を止めた。
「右は罠です。左は足跡が多すぎますので誘導路。正面は湿気がありますが、地下水ではなく蛙の通り道ですね」
案内役の職員が目を丸くする。
「まだ何も説明していませんが」
牡丹は柔らかく笑った。
「説明される前に見るのが探索です」
黒百合は天井を見る。
「上に一つ」
黒薔薇が尋ねる。
「標識か?」
「はい」
百合は壁を蹴り、音もなく天井近くへ跳んだ。
短刀の先で小さな札を引っ掛けて戻る。
牡丹は隠し扉を見つけ、毒草と薬草を分け、罠を解除した。
椿は進路を記憶し、地図を補正する。
黒蘭は口を出さなかった。
ただ見ていた。
試験官が何度も時計を見る。
終わったのは、予定の半分ほどの時間だった。
しかも牡丹は標識を三つ並べたあと、薬草を職員へ渡した。
「新人の方が触れるには危険な草が混じっていました。管理を見直された方がよいかと」
職員は言葉を失った。
レオンの笑みが少しだけ深くなる。
「第三試験だ」
模擬戦。
本来なら試験官が相手をする。
だが、アルベルトが前に出た。
「私が相手をします」
黒薔薇が一歩出る。
「盾持ちなら私だな」
黒蘭が止めた。
「俺が行く」
「なんでだよ」
「向こうは俺を見ている」
アルベルトは中央に立った。
槍と盾。
正統派のファランクス。
黒蘭は向かい合う。
アルベルトが言った。
「一つ聞く。貴様らは何者だ」
「漂流者だ」
「ふざけるな」
「事実だ」
「その力で、なぜ海都へ来た」
黒蘭は少しだけ沈黙した。
「負けたからだ」
その一言で、空気が止まった。
アルベルトも返答を失う。
黒蘭はそれ以上説明しなかった。
ただ、刀に手を置いた。
模擬戦が始まる。
アルベルトは強かった。
盾の構えは堅く、槍の間合いは正確だった。
海都で上位にいる理由は明らかだった。
黒蘭の初手を盾で受ける。
二手目を槍で弾く。
三手目を半身でかわす。
観客から歓声が上がる。
だが黒蘭は表情を変えなかった。
一撃。
二撃。
三撃。
四撃。
すべて違う場所を叩いているようで、盾の重心だけが少しずつずれていく。
アルベルトの呼吸が乱れた。
「何を……」
黒蘭が踏み込む。
アルベルトの槍が脇腹をかすめる。
血が滲む。
黒蘭は避けなかった。
リッドが息を呑む。
ファラも拳を握る。
黒蘭の左手が動く。
今度は刀を抜いた。
だが一太刀だけ。
盾の縁を叩く。
右手はまだ鞘。
槍を弾く。
足を止める。
首元へ刃が止まる。
模擬戦は終わっていた。
あまりにも静かに。
アルベルトは荒く息を吐く。
「なぜ避けなかった」
黒蘭は答えた。
「避ければ一手遅れた」
「傷を負ってまで?」
「浅い」
「浅いかどうかではない!」
黒蘭はアルベルトを見た。
「良い盾だ」
アルベルトの顔が強張る。
「侮辱か」
「違う」
黒蘭は刀を納めた。
「正面から守る力は高い」
アルベルトは言葉を失う。
褒められた。
そう理解するまでに少し時間がかかった。
だが黒蘭は続けた。
「ただ、止まる時間が長い」
「盾とは止まるものだ」
「そういう戦いなのだろう」
「……どういう意味だ」
黒蘭は少しだけ周囲を見る。
海都の試験場。
冒険者達。
盾を構える者。
術を詠む者。
支援を待つ者。
「ここは、そういう土地だ」
それ以上は言わなかった。
アルベルトには意味が分からない。
だが椿だけは、わずかに目を伏せた。
戦場で止まれば、矢が来る。
火が来る。
毒が来る。
足元を崩される。
人は弱い。
弱いからこそ狡猾だ。
だが、迷宮の敵は違う。
巨大で、硬く、時に急所すら分からない。
止めることで大きな一撃を作る戦い方は、この土地で磨かれたものなのだろう。
黒蘭はそれを見ていた。
見下しているのではない。
学んでいた。
レオンが深く息を吐く。
「試験は合格だ」
受付嬢が金属札を持ってくる。
「仮ギルド、代表者黒蘭一行。Fランクとして登録完了です」
黒薔薇が顔をしかめる。
「結局Fかよ」
黒蘭は札を受け取る。
「問題ない」
「あるだろ」
「上がればいい」
リッドは観客席で震えていた。
恐怖ではない。
興奮だった。
「あれが……本物の冒険者……」
ファラは隣で小さく言った。
「冒険者っていうより、別の何かでしょ」
リッドは黒蘭の背中を見ていた。
「俺、話しかける」
「やめなさい」
だがリッドはもう走り出していた。
「おい!」
黒蘭一行が振り返る。
黒百合の視線がリッドへ向いた。
リッドの足が止まる。
本能が告げる。
近づくな。
それでもリッドは拳を握って踏みとどまった。
「俺、リッド! 冒険者だ!」
黒蘭は彼を見る。
「そうか」
「さっきの、すごかった!」
「そうか」
「俺もいつか、あんたみたいに強くなる!」
周囲から笑いが起きた。
Fランクの新人が、東方の化け物に何を言っているのか。
黒百合が低く言う。
「気安い」
ファラが慌ててリッドの腕を掴む。
「すみません! この馬鹿、すぐ突っ走るんです!」
黒蘭はリッドを見ていた。
若い。
弱い。
何も知らない。
目だけが真っ直ぐだ。
黒蘭が最も危ういと思う種類の人間だった。
「何階まで潜った」
「一階!」
「魔物は」
「かみつき魚を一体!」
ファラが小声で言う。
「倒したのは別の人でしょ」
「手伝った」
「見てただけ」
黒蘭は少し黙った。
そして言った。
「強くなりたいなら、まず生き残れ」
リッドは目を瞬かせる。
「え?」
「理想は死者には語れない」
それだけ言って、黒蘭は歩き出した。
リッドはその背中へ叫ぶ。
「また会えるか!」
黒蘭は振り返らない。
「生きていればな」
五人は試験場を去った。
夕方の光が、海都の石畳を赤く染めていた。
その日、掲示板の最下段に新しい札が掛けられた。
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Fランク 黒蘭一行 未到達
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誰かがその下に小さく落書きした。
「あれでFなら俺達は何だ」
別の誰かが、さらにその下に書き足した。
「規則は規則」
レオンは少し離れて、それを見ていた。
彼は笑っていた。
だが目は笑っていない。
あの五人は危険だ。
強いからではない。
目的を隠しているからでもない。
利用できると思わせて、利用されることまで計算に入れている。
特に黒蘭。
あれは冒険者ではない。
小さな軍を率いて迷宮へ入ってきた将だ。
海都に流れ着いた五人の黒。
まだ誰も、その意味を知らない。
そして彼ら自身もまた、世界樹という迷宮が、自分達の知るどの戦場とも違うことを、まだ知らなかった。
第一話 了