亡国の黒将と世界樹の迷宮   作:清海深々

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第十刀 傷なき戦利品

 

黒華五刀が暫定Bランクへ昇格してから、十二日が過ぎた。

 

海都来訪三十日目。

 

黒華五刀は、毎日のように迷宮へ潜っているわけではなかった。

 

二十階磁軸から第二階層へ入る。

 

半日から二日かけて水林を調べる。

 

帰還する。

 

地図を清書する。

 

素材を処理する。

 

海都側の記録と照合する。

 

補給を整える。

 

そしてまた潜る。

 

その繰り返しだった。

 

急速に踏破階数を伸ばしている、という噂は半分正しい。

 

だが、実際の進み方は派手ではない。

 

二十一階。

 

二十二階。

 

二十三階。

 

二十四階。

 

黒華五刀は、進める速度よりも遅く進んでいた。

 

それでも速い。

 

海都の冒険者達はそう言う。

 

黒蘭は、それを聞いて首を傾げた。

 

「遅い方だ」

 

薔薇は笑った。

 

「それ、外で言うなよ」

 

「なぜだ」

 

「嫌味に聞こえる」

 

「事実だ」

 

「だからだよ」

 

---

 

第二階層、海嶺ノ水林。

 

第一階層とは、戦場の質が違った。

 

水の中に森がある。

 

木々の根は海水を吸い、白い珊瑚が幹に絡みつく。

 

浅い水路の底には砂があり、その下に泥がある。

 

音は反響し、足音は消え、匂いは塩に紛れる。

 

うずまきフグは腹を膨らませて水中から飛び出し、毒を含んだ棘で足を狙う。

 

アカトビヒトデは水底に張り付き、踏み込んだ者の脚へ吸いつく。

 

人食いサンゴは植物のように見える。

 

だが近づけば、花弁に見えた触手が一斉に閉じる。

 

ハイオンネプは、魚でも獣でもない妙な姿で水路を跳ね、硬い頭部で前衛を弾き飛ばす。

 

黒華五刀は、それらを倒す。

 

だが、倒し方が違う。

 

薔薇が受ける。

 

椿が位置を整える。

 

百合が急所を止める。

 

牡丹が素材の傷む箇所を避ける。

 

黒蘭が最後に切る。

 

必要なら一瞬で終わる。

 

だが、毎回そうしない。

 

観察する。

 

切る場所を決める。

 

売れる部位を残す。

 

次に同じ敵と遭った時、誰が倒しても同じ品質で素材を取れるようにする。

 

黒華において、戦利品は兵糧だった。

 

兵糧を粗末にする軍は、勝っても痩せる。

 

---

 

この日、彼らは二十四階の水路でFOEと遭遇した。

 

深海の殺戮者。

 

海嶺ノ水林に出る強大個体の一つ。

 

巨体。

 

硬い外皮。

 

水中からの加速。

 

そして、低ランク冒険者を一撃で潰す顎。

 

通常なら避ける。

 

少なくとも、初めて出会ったBランクが狩りに行く相手ではない。

 

だが黒華五刀は、避けなかった。

 

「来ます」

 

百合の声。

 

水面が割れる。

 

巨大な影が、薔薇へ突っ込む。

 

薔薇は笑った。

 

「おう」

 

籠手で受ける。

 

受ける、というより逸らす。

 

真正面から止めれば腕が折れる。

 

だから、力の向きを変える。

 

巨体が根の上へ乗り上げる。

 

その瞬間、椿の声が飛ぶ。

 

「右脚」

 

百合が短刀を入れる。

 

殺すためではない。

 

動きを止めるため。

 

牡丹が後ろへ回る。

 

毒ではなく、細い刃で膜を切る。

 

売れる部位を裂かないためだった。

 

薔薇が顎を押さえ、黒蘭が歩く。

 

刀は抜いている。

 

だが、斬るまでに数秒待った。

 

鱗の重なり。

 

呼吸の開き。

 

筋の動き。

 

「そこか」

 

一刀。

 

二刀。

 

三刀。

 

深海の殺戮者は暴れる間もなく沈んだ。

 

黒蘭の斬撃は、外皮を砕いていない。

 

鱗の継ぎ目を抜いた。

 

心臓に近い動脈を断ち、素材価値の高い外殻を残した。

 

薔薇が息を吐く。

 

「相変わらず、嫌な切り方するな」

 

「壊す理由がない」

 

「相手は殺戮者だぞ」

 

「素材でもある」

 

牡丹が頷く。

 

「良い状態です」

 

百合が水路の奥を見る。

 

「同型の気配なし」

 

椿は地図に印を付ける。

 

「深海の殺戮者、二十四階水路。水中加速。右脚関節部有効。外皮保存可能」

 

黒蘭は水面を見た。

 

「FOEは、避けるだけでは駄目だな」

 

薔薇が振り返る。

 

「急にどうした」

 

「戻るのなら、間引く必要がある」

 

椿が頷く。

 

「階層維持ですね」

 

「ああ」

 

黒蘭は続けた。

 

「倒せる個体は狩る」

 

「素材にする」

 

「道を安定させる」

 

「ただし、縄張りの空白が危険になる時は避ける」

 

牡丹が微笑む。

 

「戦果、兵糧、治安維持。三つ揃えば狩る理由になりますね」

 

薔薇は笑った。

 

「冒険者というより、完全に軍の仕事だな」

 

黒蘭は答えた。

 

「この街では、それも冒険者の仕事らしい」

 

---

 

夕方。

 

黒華五刀はネイピア商会へ戻った。

 

店内は、以前よりも明らかに混んでいた。

 

店の奥には、簡易の陳列台が作られている。

 

黒華五刀がこれまで持ち込んだ素材の一部が、用途別に並べられていた。

 

ナルメルの牙。

 

ナルメルの鱗。

 

水袋の薄膜。

 

人食いサンゴの触手片。

 

アカトビヒトデの吸盤。

 

そして、状態の良いハイオンネプの硬頭殻。

 

もちろん、全て売却済みではない。

 

見本として残されたもの。

 

競売前に買い手へ状態を見せるもの。

 

学者や鍛冶師に価値を説明するもの。

 

つまり、素材そのものが広告になっていた。

 

ネイピアは帳簿を片手に、商人達を睨んでいる。

 

「勝手に触らない」

 

「匂いを嗅ぐなら近づきすぎない」

 

「毒腺付きの標本に指を出した人は、治療費を自分で払いなさい」

 

客の一人が慌てて手を引っ込めた。

 

薔薇が感心したように言う。

 

「商売になってるな」

 

ネイピアがこちらを見た。

 

「あなた達のせいで忙しいのよ」

 

「儲かってるならいいだろ」

 

「儲かる忙しさと、死ぬ忙しさは違うの」

 

牡丹が深海の殺戮者の素材を台へ置く。

 

ネイピアの表情が変わった。

 

「……今度はFOE?」

 

「深海の殺戮者です」

 

「見れば分かるわ」

 

ネイピアは外皮を広げる。

 

そして、眉をひそめた。

 

「また?」

 

牡丹が微笑む。

 

「また、とは?」

 

「前にも言ったわよね。傷が少なすぎるって」

 

薔薇が笑う。

 

「言われたな」

 

「で、あなた達はまた同じことをしたわけ」

 

ネイピアは外皮の端を持ち上げる。

 

「FOE素材よ、これ」

 

「普通は、帰って来られただけで拍手なの」

 

「外皮をこんな形で残すものじゃないの」

 

黒蘭は言った。

 

「前にも言ったが、商品だからな」

 

ネイピアは即座に返す。

 

「前にも聞いたわ」

 

黒蘭は少し黙る。

 

薔薇が堪えきれずに笑った。

 

---

 

ネイピアは素材を並べ直した。

 

「これは通常買取じゃ無理」

 

「競売に回すわ」

 

「鍛冶屋、盾職人、船大工、元老院の学術庫まで声をかける」

 

椿が尋ねる。

 

「船大工ですか?」

 

「水を弾く外皮よ」

 

ネイピアは素材を指で叩く。

 

「小型船の補強に使えるかもしれない」

 

「冒険者の鎧だけが素材の使い道じゃないの」

 

牡丹が感心したように頷く。

 

「街全体の資源になるのですね」

 

「そう」

 

ネイピアは黒蘭を見る。

 

「だから高い」

 

「だから、あなた達はもっと慎重に売りなさい」

 

黒蘭は帳簿を指した。

 

「税はどうなる」

 

ネイピアは一瞬目を瞬かせた。

 

「今回はそこから聞くの?」

 

「前回、売却先で税が変わると言っていた」

 

「覚えてるのね」

 

「必要なことは覚える」

 

ネイピアは帳簿を開く。

 

「元老院指定素材として出すと税は低め。ただし買取価格も抑えられる」

 

「商会間競売なら高値が狙える。ただし手数料と保管料がかかる」

 

「薬師向けの毒腺や膜は鮮度が命だから即売」

 

「外皮や顎は保存が効くから競売向き」

 

黒蘭は頷く。

 

「では外皮と顎は競売」

 

「毒腺は薬師へ即売」

 

「小片は見本として残せ」

 

ネイピアは口元を歪める。

 

「私の仕事を取る気?」

 

「確認しただけだ」

 

「そういう客が一番怖いのよ」

 

牡丹が柔らかく言う。

 

「適正に売ってくださるなら、手間はお支払いします」

 

「その言い方、商人相手だと強いわよ」

 

「そうでしょうか」

 

「強いの」

 

薔薇が呟く。

 

「牡丹、戦より商いの方が怖いんじゃないか?」

 

百合が答える。

 

「どちらも得意です」

 

牡丹は微笑む。

 

「戦は胃と財布からです」

 

---

 

ネイピアはさらに帳簿へ印を付ける。

 

「それと、素材処理の手順を書いて」

 

黒蘭が見る。

 

「手順?」

 

「そう。薬師と解体屋が知りたがってる」

 

「どう切れば毒腺が破れないか」

 

「どこから血抜きすれば劣化しにくいか」

 

「どの部位を先に冷やすべきか」

 

「あなた達は、それを戦闘中にやってる」

 

牡丹は少し考える。

 

「有料でよろしければ」

 

ネイピアの目が輝いた。

 

「好きよ、そういうの」

 

椿が静かに言う。

 

「黒華では、解体手順や保存手順も兵站資料でした」

 

「兵站資料ね」

 

ネイピアは笑う。

 

「冒険者が素材を持ってくる」

 

「商人が売る」

 

「職人が加工する」

 

「薬師が薬を作る」

 

「そして冒険者がまた買う」

 

「この輪が太くなるなら、海都にとっても得よ」

 

黒蘭は陳列台を見た。

 

そこには、戦って得たものが並んでいる。

 

刃で奪ったものが、街の道具になる。

 

黒華でも同じだった。

 

戦は壊すだけではない。

 

勝った後、何を残すか。

 

それを誤れば、国は痩せる。

 

「任せる」

 

黒蘭が言った。

 

ネイピアは眉を上げる。

 

「また簡単に任せる」

 

「お前が一番高く売れる」

 

ネイピアは少し言葉に詰まった。

 

商人にとって、それは信頼であり、挑発でもあった。

 

安く売れば、自分の価値を下げる。

 

高く売れば、この黒い客はまた素材を持ってくる。

 

「分かったわ」

 

ネイピアは帳簿を閉じる。

 

「一番高く売ってあげる」

 

---

 

その夜。

 

ネイピア商会の競売は、予定より大きなものになった。

 

鍛冶屋。

 

船大工。

 

薬師。

 

学者。

 

別の商会。

 

そして、Aランク冒険者の使い。

 

深海の殺戮者の素材は、通常のFOE素材より高値がついた。

 

理由は単純だった。

 

状態が良すぎた。

 

外皮は裂けていない。

 

顎は砕けていない。

 

毒腺に余計な刃が入っていない。

 

血抜きも早い。

 

海水による劣化も抑えられている。

 

素材を見た老鍛冶師は、低く唸った。

 

「倒した奴は、魔物を殺す前に素材を見てやがる」

 

その言葉は、すぐ商人達の間へ広がった。

 

黒華五刀は強い。

 

それはもう知られている。

 

だが、この日から別の噂が加わった。

 

黒華五刀は、稼ぐ。

 

そして、稼ぎ方が綺麗だ。

 

---

 

同じ頃。

 

冒険者ギルドの奥では、別の会話が行われていた。

 

レオンは机に肘をつき、元老院から来た文書を眺めていた。

 

目の前には、元老院の使いがいる。

 

身なりは整っている。

 

手は綺麗だった。

 

迷宮の泥も、魔物の血も知らない手。

 

「元老院としては、黒蘭一行の早期活用を望んでおります」

 

使いは淡々と言った。

 

「第二階層を越えられるなら、早急に第三階層への道を開かせたい」

 

レオンは文書を置く。

 

「補給費は?」

 

「ギルド予算内で」

 

「救助隊は?」

 

「必要時に検討を」

 

「調査支援は?」

 

「現場判断で十分かと」

 

レオンは笑った。

 

だが、その笑みは冷たい。

 

「つまり金は出さない。人も出さない。だが深く潜れと」

 

使いは眉をひそめる。

 

「言葉が過ぎますな」

 

「事実だろう」

 

「彼らは冒険者です。危険を承知で迷宮へ潜る者達でしょう」

 

レオンの片目が細くなる。

 

室内の空気が少し変わった。

 

「使い捨ての駒じゃない」

 

声は低かった。

 

使いは一瞬言葉を止める。

 

レオンは続けた。

 

「迷宮に潜る者は、勝手に死にに行っているわけじゃない」

 

「街が素材を使う」

 

「商人が儲ける」

 

「元老院が名誉を得る」

 

「だったら、街も金を出すべきだ」

 

使いは不快そうにする。

 

「感情論ですな」

 

「そうだな」

 

レオンは机の上で指を組む。

 

「俺は感情的なんだ」

 

一瞬、彼の視線が遠くなった。

 

四十階。

 

暗い水音。

 

砕けた盾。

 

呼んでも返らなかった仲間の名。

 

派兵を待ち、来なかった夜。

 

その記憶は、今も消えていない。

 

---

 

使いは立ち上がった。

 

「元老院へは、ギルド側が前向きに調整中と報告します」

 

「好きにしろ」

 

「それと、Aランク審査については、貴族会合への顔見せが必要です」

 

「黒蘭一行にも、その旨を」

 

レオンは笑った。

 

「言うだけは言う」

 

「従わせてください」

 

「無理だな」

 

「ギルドマスター」

 

レオンは片目で使いを見る。

 

「俺でも従わせられる気がしない」

 

使いは不満げに部屋を出た。

 

扉が閉まる。

 

レオンはしばらく黙っていた。

 

そして、机の奥から古い金属片を取り出した。

 

欠けた認識票。

 

かつての仲間のもの。

 

レオンはそれを握る。

 

「……駒じゃない」

 

小さく呟いた。

 

だが、次に顔を上げた時、その目には別の光があった。

 

怒りだけではない。

 

野心。

 

元老院に頭を下げ、貴族の機嫌を取り、冒険者の命を数字で数える仕組み。

 

それを変えるには、力がいる。

 

ギルドが、ただの受付と報酬分配所でいる限り、何も変わらない。

 

軍に近い力。

 

街を守り、迷宮へ踏み込み、元老院に口を出させないだけの力。

 

黒蘭一行。

 

あれは刃だ。

 

うまく使えば、古い仕組みに傷を入れられる。

 

ただし。

 

使い方を誤れば、握った手ごと斬られる。

 

レオンは低く笑った。

 

「さて」

 

「あいつをどう転がすかね」

 

---

 

同じ夜。

 

銀狼の牙の宿舎では、ガレスが黒華五刀の噂を聞いていた。

 

彼の前には、四人の仲間がいる。

 

槍盾のファランクス、ユーリック。

 

冷静で堅実な男。

 

守りだけでなく、槍で前線を押し返す。

 

サーベルと銃を使うパイレーツ、マルコ。

 

軽薄そうに見えて、距離と射線を読む目が鋭い。

 

肉弾戦主体のモンク、ゼナ。

 

治療術も使えるが、本質は拳で敵を砕く前衛。

 

そして、メテオを習得しているゾディアック、オルフェ。

 

寡黙な術師。

 

属性の相性より、星術の火力で押し潰すことを好む。

 

銀狼の牙は弱くない。

 

むしろ強い。

 

火力に寄せた編成で、第二階層を高速突破してきた。

 

回復専門のモンクはいない。

 

ファーマーもいない。

 

純粋な支援職も置かない。

 

ガレスはそういう職を好まなかった。

 

戦えない者を連れて行く余裕はない。

 

それが彼の考えだった。

 

---

 

マルコが軽く言う。

 

「黒い連中、今度はFOE素材で競売だってさ」

 

ゼナが腕を組む。

 

「深海の殺戮者を綺麗に取ったらしい」

 

ユーリックが静かに言う。

 

「深海の殺戮者は面倒な相手だ。狩れるだけでも十分強い」

 

ガレスは鼻で笑った。

 

「素材屋にでもなるつもりか」

 

オルフェが小さく言う。

 

「金は力だ」

 

ガレスが見る。

 

「何?」

 

「装備。薬。情報。人脈」

 

「全て金で買える」

 

オルフェはそれだけ言って黙った。

 

ガレスは不快そうに酒杯を置く。

 

「迷宮は踏破してこそだ」

 

「素材を撫で回していても、深くは進めん」

 

ユーリックが言う。

 

「だが、補給が強いギルドは長く潜れる」

 

ガレスの声が低くなる。

 

「俺達が弱いと言いたいのか」

 

「そうではない」

 

ユーリックは目を逸らさない。

 

「黒華五刀は、我々とは違う強さを持っている」

 

沈黙。

 

ガレスは笑った。

 

「違う強さ、か」

 

「なら、確かめるだけだ」

 

その言葉に、マルコが小さくため息をついた。

 

ゼナは拳を鳴らす。

 

オルフェは目を閉じる。

 

ユーリックは黙っていた。

 

銀狼の牙は、ガレス一人のかませではない。

 

四人もまた、Aランクに相応しい力を持っている。

 

だが、彼らは知っていた。

 

リーダーの苛立ちは、やがて刃になる。

 

そしてその刃が向かう先は、おそらく黒い五人だ。

 

-----

 

 

海都来訪三十六日目。

 

黒華五刀は、二十五階へ到達していた。

 

第二階層の進行は、第一階層ほど単純ではない。

 

水流が道を変える。

 

一方通行の流れ。

 

引き返せない水路。

 

足場に見える珊瑚。

 

生きている珊瑚。

 

そして、人食いサンゴ。

 

これが厄介だった。

 

薔薇が不用意に近づいたわけではない。

 

踏み込む前に、百合が止めた。

 

「待ってください」

 

百合は短刀を抜き、珊瑚の根元へ小石を投げる。

 

次の瞬間、白い花のようなものが閉じた。

 

牙。

 

いや、触手。

 

小石を包み込み、砕く。

 

薔薇が顔をしかめる。

 

「植物じゃないのかよ」

 

牡丹が観察する。

 

「植物に似た魔物でしょう」

 

椿が記録する。

 

「人食いサンゴ。擬態。踏み込み誘導。投石で反応あり」

 

黒蘭は言った。

 

「燃やせるか」

 

百合が首を振る。

 

「周囲の水気が多いです」

 

「なら根元」

 

牡丹が細い刃を入れる。

 

百合が星術を落とす。

 

椿が位置を指示する。

 

薔薇が動いた触手を籠手で払う。

 

黒蘭は最後に、芯を斬った。

 

人食いサンゴは音もなく崩れた。

 

「素材は」

 

牡丹が確認する。

 

「薬師向けです。ただし鮮度が落ちやすい」

 

黒蘭は頷く。

 

「すぐ戻る」

 

薔薇が驚く。

 

「これだけで?」

 

「高く売れるなら戻る」

 

「お前、最近どんどん商人っぽくなってないか?」

 

「兵糧だ」

 

「便利な言葉だな」

 

椿は少し笑った。

 

---

 

黒華五刀は、二十五階を一日で踏破しなかった。

 

人食いサンゴ、アカトビヒトデ、アカグロダコ。

 

新しい敵を確認するたびに止まる。

 

倒す。

 

記録する。

 

素材を処理する。

 

必要なら帰る。

 

この進み方は、外から見ると遅い。

 

だが、結果として黒華五刀の損耗は少なかった。

 

そして、収益は大きかった。

 

FOEを積極的に狩る方針も固まっていた。

 

深海の殺戮者。

 

古海の放浪者。

 

襲来する鱗竜。

 

全てを見つけ次第倒す、というわけではない。

 

だが、道を塞ぎ、下位冒険者の退路を脅かし、素材価値も高い個体であれば、黒蘭は狩りを選んだ。

 

それは名誉のためではない。

 

階層維持。

 

金策。

 

情報収集。

 

三つが揃った時、FOEは敵であり、資源でもあった。

 

---

 

昼前。

 

黒華五刀は、二十五階の水路脇で巨大な足跡を見つけた。

 

足跡と言うには、少し違う。

 

爪痕。

 

水底を削った跡。

 

そして、獣の匂い。

 

薔薇が顔を上げる。

 

「魔物か?」

 

「違います」

 

百合が答える。

 

「獣です」

 

「同じじゃないのか?」

 

牡丹が微笑む。

 

「飼われている、という意味でしょう」

 

その直後、水路の向こうから低い唸り声が聞こえた。

 

黒華五刀は即座に構えを変える。

 

だが、黒蘭は刀を抜かなかった。

 

敵意がない。

 

少なくとも、まだ。

 

根の影から現れたのは、巨大な獣だった。

 

狼に似ているが、肩まで人の胸ほどある。

 

濡れた毛並み。

 

鋭い牙。

 

だが、首には革の装具が巻かれている。

 

その横に、筋骨たくましい男が立っていた。

 

「待て」

 

男は片手を上げる。

 

「敵意はない」

 

黒蘭は静かに見る。

 

男は名乗った。

 

「獣王爪牙のバルトだ」

 

獣王爪牙。

 

海都Aランクの一つ。

 

ビーストテイマーを中心とし、獣と共に迷宮を進むギルド。

 

魔物の生態、縄張り、臭い、足跡に詳しい。

 

戦闘だけでなく、迷宮の異常を読む能力に長けている。

 

アルベルトからも名前を聞いていた。

 

---

 

バルトは黒蘭達を見る。

 

「噂の黒い五人か」

 

「黒蘭だ」

 

「知っている」

 

バルトは狼に似た獣の首を撫でる。

 

「こいつが騒いだ」

 

「そちらに敵意がないと分かるまで止めていた」

 

黒蘭は獣を見る。

 

獣も黒蘭を見る。

 

しばらく視線が合う。

 

薔薇が小声で言った。

 

「睨み合いか?」

 

牡丹は微笑む。

 

「挨拶かもしれません」

 

黒蘭は少し頭を下げた。

 

獣が鼻を鳴らす。

 

バルトの眉が上がる。

 

「珍しいな」

 

「何が」

 

「武人は獣を下に見る者が多い」

 

黒蘭は首を傾げた。

 

「なぜだ」

 

「人より優れた部分などいくらでもある」

 

バルトは一瞬黙り、それから笑った。

 

「気に入った」

 

薔薇が呟く。

 

「お前、獣には礼儀正しいな」

 

「敵か味方か分からない相手に礼を欠く理由がない」

 

「人間にもそうしてやれよ」

 

「必要ならしている」

 

「してるか?」

 

百合が短く言う。

 

「相手によります」

 

薔薇は笑った。

 

---

 

バルトは水林の奥を指した。

 

「この先、今日は少し荒れている」

 

黒蘭が聞く。

 

「理由は」

 

「水が濁っている」

 

「上から甲殻種が落ちてきている」

 

「誰かが奥で派手に戦った」

 

椿が地図を見る。

 

「銀狼の牙ですか」

 

バルトは少しだけ顔をしかめた。

 

「おそらくな」

 

「奴らは強い」

 

「本当に強い」

 

「火力だけなら、海都でも上から数えた方が早い」

 

バルトは続けた。

 

「だが、魔物を散らす」

 

「弱い個体が逃げて、別の縄張りに入る」

 

「結果、面倒が増える」

 

黒蘭は頷いた。

 

「戦場を荒らすのか」

 

「そういうことだ」

 

バルトは黒蘭を見る。

 

「お前達はどうする」

 

「今日は二十五階の水路構造を確認する」

 

「奥へは行かない」

 

「地形と魔物を知る」

 

バルトは満足そうに笑った。

 

「噂よりまともだな」

 

薔薇が笑う。

 

「噂はどうなってるんだ?」

 

「黒い化け物五人組」

 

「間違ってないな」

 

「薔薇」

 

椿がたしなめる。

 

---

 

バルトは黒蘭の地図を見る。

 

「……よく描く」

 

「必要だからな」

 

「大地の記録者みたいだ」

 

「彼らほどではない」

 

バルトはまた笑った。

 

「そこで謙遜するのか」

 

「事実だ」

 

「戦闘屋は地図屋を軽く見る。地図屋は獣使いを粗野だと言う。獣使いは騎士連中を鈍いと言う」

 

「海都の上位にも、いろいろある」

 

黒蘭は聞いていた。

 

バルトは続ける。

 

「銀狼の牙は、戦闘屋だ」

 

「悪い連中ではない」

 

「少なくとも、弱くはない」

 

「だが、ガレスは弱者の都合を見ない」

 

「だからロイヤルガードも、俺達も、少し気を遣う」

 

薔薇が言う。

 

「実力があるから面倒ってやつか」

 

「そうだ」

 

バルトは短く答えた。

 

「弱い馬鹿なら放っておけばいい」

 

「強い馬鹿は、周囲を巻き込む」

 

黒蘭は静かに言った。

 

「強いなら、なおさら責任が増える」

 

バルトはその言葉を聞いて、少し目を細めた。

 

「お前、本当に冒険者か?」

 

薔薇が笑う。

 

「登録上は、だとさ」

 

黒蘭は否定しなかった。

 

---

 

バルトと別れた後、黒華五刀は進行方向を変えた。

 

当初予定していた水路を避け、根の上を進む。

 

地図にはない迂回。

 

だが、黒蘭は迷わない。

 

水の濁り。

 

逃げた小型魔物の痕跡。

 

折れた水草。

 

それらを見て、危険域を避ける。

 

百合が戻る。

 

「前方、甲殻種三。魚型二。争っています」

 

「理由は」

 

「縄張り混乱」

 

「避ける」

 

薔薇が少し残念そうにする。

 

「倒せるぞ」

 

黒蘭は答える。

 

「倒す理由がない」

 

「素材は?」

 

牡丹が言う。

 

「状態が悪いでしょう。争って傷んでいます」

 

「なるほど」

 

薔薇は納得した。

 

素材として価値が低い。

 

戦う意味も薄い。

 

なら避ける。

 

金策もまた、戦術の一部だった。

 

---

 

昼過ぎ。

 

二十五階の広い水路で、黒華五刀は戦闘音を聞いた。

 

金属音。

 

銃声。

 

星術が落ちる重い響き。

 

魔物の咆哮。

 

薔薇が顔を上げる。

 

「派手だな」

 

百合が水音に紛れて前へ出る。

 

しばらくして戻った。

 

「銀狼の牙」

 

椿が地図を見る。

 

「この先は、古海の放浪者の回遊域です」

 

「交戦中か」

 

黒蘭は少し考える。

 

「見る」

 

薔薇が口角を上げる。

 

「助けるんじゃなく?」

 

「助けが必要なら助ける」

 

「必要なければ」

 

「見る」

 

牡丹が微笑む。

 

「学ぶのですね」

 

「ああ」

 

---

 

銀狼の牙は、確かに強かった。

 

古海の放浪者。

 

巨大な魚影が、水路を縦横に走る。

 

FOEと呼ばれるだけあり、その突進は重く、速い。

 

並の冒険者なら陣形を崩され、一人ずつ食われる。

 

だが、銀狼の牙は崩れない。

 

先頭に立つのはユーリック。

 

槍盾のファランクス。

 

盾で受けるだけではない。

 

槍の穂先で進路を削り、突進の角度を変える。

 

完全に止めるのではなく、仲間が攻撃できる位置へ誘導する。

 

その横をマルコが抜けた。

 

サーベルで鱗を弾き、銃で目元を撃つ。

 

「こっちだ、魚野郎」

 

挑発。

 

軽い口調。

 

だが足運びは正確。

 

ゼナは素手で根の上を走り、FOEの側面へ入る。

 

拳。

 

肘。

 

膝。

 

肉弾戦主体のモンク。

 

回復役というより、体そのものが武器だった。

 

そして後方。

 

オルフェが手を掲げる。

 

星が落ちた。

 

メテオ。

 

水路ごと揺れる。

 

古海の放浪者の外皮が砕ける。

 

そこへガレスが踏み込んだ。

 

大剣。

 

一撃。

 

深い。

 

FOEの頭部が裂け、水が赤く染まる。

 

戦闘は終わった。

 

---

 

薔薇が素直に言う。

 

「強いな」

 

黒蘭は頷く。

 

「強い」

 

椿も記録する。

 

「火力集中。短期決戦型。支援より突破」

 

牡丹はFOEの死骸を見る。

 

「素材はかなり傷んでいます」

 

百合が短く言う。

 

「周辺魔物、逃走」

 

黒蘭は水路を見た。

 

メテオで砕けた珊瑚。

 

血で濁った水。

 

逃げるアカグロダコ。

 

離れていくアカトビヒトデ。

 

そして、別の水路で動く気配。

 

戦闘には勝った。

 

だが戦場は荒れた。

 

黒蘭はそれを見ていた。

 

---

 

ガレスが黒華五刀に気付いた。

 

「見物か」

 

黒蘭は答える。

 

「ああ」

 

その返事に、マルコが吹き出した。

 

「正直だな」

 

ガレスは眉を寄せる。

 

「何か言いたそうだな」

 

「強い部隊だ」

 

黒蘭は言った。

 

銀狼の牙の面々が少し意外そうにする。

 

ガレスも黙る。

 

黒蘭は続けた。

 

「短期決戦なら優秀だ」

 

「正面から押し切る力がある」

 

ユーリックが静かに頷いた。

 

「評価に感謝する」

 

だがガレスは笑った。

 

「随分上から言う」

 

「見たままを言った」

 

「なら続きがあるんだろう」

 

黒蘭は少し間を置く。

 

「素材が死ぬ」

 

空気が止まった。

 

マルコが今度は本当に笑った。

 

「そこかよ」

 

ゼナも口元を緩める。

 

オルフェは無表情。

 

ユーリックだけが、水路の死骸を見た。

 

ガレスの顔が険しくなる。

 

「素材など、倒した後で考えるものだ」

 

「違う」

 

黒蘭は即答した。

 

「倒す前に考える」

 

「戦闘中にそんな余裕があるか」

 

「余裕ではない」

 

「戦果だ」

 

黒蘭はFOEの外皮を見る。

 

「敵の半分を捨てている」

 

ガレスの目が鋭くなる。

 

「俺達の戦い方に文句をつけるか」

 

「違う」

 

「なら何だ」

 

「勿体ない」

 

また沈黙。

 

薔薇が片手で顔を覆う。

 

「黒蘭、お前な」

 

セリアやアルベルトなら笑ったかもしれない。

 

だが、ガレスは笑わなかった。

 

侮辱と受け取った。

 

---

 

ユーリックが割って入る。

 

「確かに、素材は荒れた」

 

「次から少し考えよう」

 

ガレスが鋭く見る。

 

「ユーリック」

 

「事実だ」

 

ユーリックは静かに返す。

 

「火力で押し切るのは我々の強みだ」

 

「だが、収益が落ちれば遠征回数は減る」

 

「遠征回数が減れば踏破も遅れる」

 

オルフェが小さく言う。

 

「金は火力になる」

 

ガレスは苛立ったように舌打ちした。

 

「お前達まで商人の真似か」

 

マルコが肩をすくめる。

 

「商人の真似で弾が増えるなら悪くないけどな」

 

ゼナも言う。

 

「薬も買える」

 

ガレスは黙った。

 

銀狼の牙は、ガレスだけの集団ではない。

 

仲間達にも考えがある。

 

ただ、ガレスの火力と突破力があまりに強く、これまでそれで勝ててきた。

 

勝ててしまった。

 

だから、変わる必要がなかった。

 

---

 

黒蘭は彼らの会話を聞いていた。

 

そして言った。

 

「お前達は強い」

 

ガレスは笑う。

 

「さっき聞いた」

 

「だから惜しい」

 

その言葉に、銀狼の牙の空気が変わった。

 

ガレスが一歩前に出る。

 

「惜しい?」

 

「ああ」

 

「支援を軽く見ている」

 

ガレスの声が低くなる。

 

「支援職を入れろと?」

 

「そうは言っていない」

 

「なら何だ」

 

黒蘭は椿を見る。

 

椿は少しだけ頷いた。

 

黒蘭は続ける。

 

「火力を落とさず、支援を持てばいい」

 

「何?」

 

「役割は一つではない」

 

「前に立つ者が指揮してもいい」

 

「斬る者が銃を持ってもいい」

 

「忍びが薬草を扱ってもいい」

 

「術師が索敵を覚えてもいい」

 

「火力と支援は、必ずしも分ける必要がない」

 

マルコが目を細めた。

 

「面白いな」

 

ゼナも拳を開いたり閉じたりする。

 

「殴りながら治す、みたいなものか」

 

オルフェは低く呟く。

 

「星術師が補助を持つ」

 

ユーリックは黙って聞いていた。

 

ガレスだけが、不快そうにしている。

 

「器用貧乏の発想だ」

 

黒蘭は首を振る。

 

「中途半端ならそうだ」

 

「極めれば違う」

 

薔薇が笑う。

 

「うちがそれだな」

 

椿は静かに言った。

 

「黒華では、一つの役目だけで戦場に立つ者は少なかった」

 

「人が足りなかったからです」

 

牡丹が続ける。

 

「補給できない忍びは、長く潜れません」

 

百合も短く言う。

 

「殺せない術師も、逃げられない術師も死にます」

 

銀狼の牙の四人は、それぞれ考え込む。

 

ガレスはそれを見て、さらに苛立った。

 

黒蘭の言葉が、自分ではなく仲間に届いている。

 

それが気に入らない。

 

---

 

その時、水路の奥から別の気配が動いた。

 

百合が振り返る。

 

「来ます」

 

黒蘭も同時に見る。

 

「逃げた魔物が戻った」

 

血の匂い。

 

砕けた珊瑚。

 

荒れた水。

 

そこに引き寄せられたのは、アカグロダコの群れだった。

 

さらに奥に、ハイウォルラスの影。

 

ガレスが大剣を構える。

 

「ちょうどいい」

 

黒蘭が言う。

 

「ここで戦うな」

 

「命令か」

 

「忠告だ」

 

「俺達なら倒せる」

 

「倒せることと、戦うことは違う」

 

ガレスの表情が変わる。

 

その言葉は、彼の誇りに触れた。

 

「下がる理由がない」

 

黒蘭は淡々と言った。

 

「水が濁っている」

 

「足場が砕けている」

 

「素材も回収前」

 

「後続の逃げ道も狭い」

 

「ここで勝っても損が多い」

 

ガレスは笑った。

 

「損得か」

 

「戦いは損得だ」

 

「俺は違う」

 

「だから荒れる」

 

空気が凍る。

 

ユーリックが小さく言った。

 

「ガレス、退こう」

 

「黙れ」

 

その一言で、銀狼の牙の四人の顔がわずかに曇った。

 

黒蘭は、それを見逃さなかった。

 

支援職を見下す。

 

補給を軽んじる。

 

仲間の忠告を下に置く。

 

強い。

 

だが、危うい。

 

---

 

椿が一歩前へ出た。

 

「黒蘭様」

 

「何だ」

 

「この場は撤退路の確保を優先します」

 

「任せる」

 

椿の刀が地面へ刺さる。

 

柄布が水気を含みながらも広がる。

 

黒い旗。

 

「薔薇、右の根へ」

 

「百合、後方水路」

 

「牡丹、素材回収は最小限」

 

「黒蘭様、左前方をお願いします」

 

黒蘭は頷く。

 

「分かった」

 

銀狼の牙の面々が、それを見る。

 

黒蘭が指揮していない。

 

椿が指揮している。

 

そして黒蘭が従っている。

 

その事実に、マルコが小さく口笛を吹いた。

 

「姫さん、飾りじゃないな」

 

ガレスは無言だった。

 

---

 

戦闘は短かった。

 

黒華五刀は、群れを殲滅しなかった。

 

退路だけを切り開いた。

 

アカグロダコの足を落とし、水路へ戻す。

 

ハイウォルラスの突進は薔薇が逸らす。

 

百合が水面を縫い、牡丹が回収可能なFOE素材だけを素早く切り取る。

 

黒蘭は一度だけ刀を振った。

 

左から来た個体の頭部を割らず、首の骨を断つ。

 

水が赤くなる。

 

だが濁りは広がらない。

 

一撃で終わったからだ。

 

ユーリックがその斬撃を見て、目を細める。

 

ガレスも見ていた。

 

速い。

 

重い。

 

そして、無駄がない。

 

派手ではない。

 

だからこそ、怖い。

 

---

 

撤退路が開く。

 

黒蘭は言った。

 

「出るぞ」

 

椿が頷く。

 

黒華五刀は迷わず下がった。

 

銀狼の牙の四人もユーリックの判断で続く。

 

ガレスだけが一瞬残り、魔物を睨んだ。

 

だが、最終的には下がった。

 

地形が悪い。

 

それは彼にも分かっていた。

 

---

 

安全域まで戻った後、沈黙が落ちた。

 

ガレスは黒蘭を見る。

 

「次は」

 

黒蘭は答えない。

 

ガレスは続けた。

 

「次は、邪魔の入らない場所でやろう」

 

薔薇が眉を上げる。

 

「やるって何をだ」

 

ガレスは黒蘭だけを見る。

 

「実力を確かめる」

 

黒蘭は少し考えた。

 

「必要か」

 

ガレスのこめかみが動く。

 

「俺には必要だ」

 

「そうか」

 

黒蘭は答えた。

 

「なら、場所と条件を整えろ」

 

「受けるのか」

 

「人が死なない条件ならな」

 

ガレスは笑った。

 

「優しいな」

 

「違う」

 

黒蘭は淡々と言った。

 

「後処理が面倒だ」

 

マルコがまた吹き出した。

 

ゼナも肩を震わせる。

 

オルフェは口元だけ動かした。

 

ユーリックは目を伏せた。

 

ガレスだけが笑わなかった。

 

---

 

その日の報告で、黒華五刀は二十五階到達とFOE素材回収を提出した。

 

銀狼の牙との接触。

 

古海の放浪者交戦跡。

 

周辺魔物の再流入。

 

退路確保。

 

それらも記録された。

 

受付係は書類を受け取り、少しだけ手を止める。

 

「銀狼の牙と、何かありましたか」

 

黒蘭は答えた。

 

「まだ何も」

 

「まだ、ですか」

 

「ああ」

 

受付係は困ったように笑った。

 

それは、これから何かあるという意味に聞こえた。

 

実際、その通りだった。

 

---

 

夜。

 

宿で薔薇が言った。

 

「絶対揉めるな」

 

牡丹は茶を注ぎながら微笑む。

 

「すでに揉めています」

 

百合は短く言う。

 

「敵対するなら処理します」

 

「だからすぐそれだ」

 

椿は静かに地図を畳む。

 

「ガレス殿は強い方です」

 

黒蘭は頷いた。

 

「強い」

 

「ですが、危うい」

 

「ああ」

 

薔薇が黒蘭を見る。

 

「お前、あいつをどう見る」

 

黒蘭は少し黙った。

 

「良い刃だ」

 

「だが、柄を見ていない」

 

薔薇はその言葉を聞いて、少し真顔になった。

 

刃だけでは戦えない。

 

握る手。

 

支える柄。

 

鞘。

 

手入れ。

 

それらがあって初めて、刃は戦場に残る。

 

ガレスは強い。

 

だが、仲間を刃の後ろにあるものとして見ていない。

 

それが黒蘭には見えていた。

 

---

 

翌朝。

 

ギルド掲示板には、新しい札が掛けられた。

 

黒蘭一行

第二階層二十五階到達

深海の殺戮者討伐

古海の放浪者交戦域確認

FOE間引き報告

高品質素材提出

 

その横に、別の札。

 

銀狼の牙

第二階層三十六階維持

古海の放浪者討伐

周辺魔物移動あり

注意喚起

 

二つの名が、同じ掲示板に並んだ。

 

踏破階数では、銀狼の牙が上。

 

素材品質と地図精度では、黒華五刀が異常。

 

冒険者達はそれを見比べた。

 

海都の空気が、また変わる。

 

ただの新人の噂ではない。

 

上位ギルド同士の距離が、少しずつ詰まっている。

 

そして誰もが、薄々感じていた。

 

近いうちに、何かが起こる。

 

その中心には、おそらく黒い五人と、銀の牙がいる。

 

第十話 了

 

 

 

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