黒華五刀が暫定Bランクへ昇格してから、十二日が過ぎた。
海都来訪三十日目。
黒華五刀は、毎日のように迷宮へ潜っているわけではなかった。
二十階磁軸から第二階層へ入る。
半日から二日かけて水林を調べる。
帰還する。
地図を清書する。
素材を処理する。
海都側の記録と照合する。
補給を整える。
そしてまた潜る。
その繰り返しだった。
急速に踏破階数を伸ばしている、という噂は半分正しい。
だが、実際の進み方は派手ではない。
二十一階。
二十二階。
二十三階。
二十四階。
黒華五刀は、進める速度よりも遅く進んでいた。
それでも速い。
海都の冒険者達はそう言う。
黒蘭は、それを聞いて首を傾げた。
「遅い方だ」
薔薇は笑った。
「それ、外で言うなよ」
「なぜだ」
「嫌味に聞こえる」
「事実だ」
「だからだよ」
---
第二階層、海嶺ノ水林。
第一階層とは、戦場の質が違った。
水の中に森がある。
木々の根は海水を吸い、白い珊瑚が幹に絡みつく。
浅い水路の底には砂があり、その下に泥がある。
音は反響し、足音は消え、匂いは塩に紛れる。
うずまきフグは腹を膨らませて水中から飛び出し、毒を含んだ棘で足を狙う。
アカトビヒトデは水底に張り付き、踏み込んだ者の脚へ吸いつく。
人食いサンゴは植物のように見える。
だが近づけば、花弁に見えた触手が一斉に閉じる。
ハイオンネプは、魚でも獣でもない妙な姿で水路を跳ね、硬い頭部で前衛を弾き飛ばす。
黒華五刀は、それらを倒す。
だが、倒し方が違う。
薔薇が受ける。
椿が位置を整える。
百合が急所を止める。
牡丹が素材の傷む箇所を避ける。
黒蘭が最後に切る。
必要なら一瞬で終わる。
だが、毎回そうしない。
観察する。
切る場所を決める。
売れる部位を残す。
次に同じ敵と遭った時、誰が倒しても同じ品質で素材を取れるようにする。
黒華において、戦利品は兵糧だった。
兵糧を粗末にする軍は、勝っても痩せる。
---
この日、彼らは二十四階の水路でFOEと遭遇した。
深海の殺戮者。
海嶺ノ水林に出る強大個体の一つ。
巨体。
硬い外皮。
水中からの加速。
そして、低ランク冒険者を一撃で潰す顎。
通常なら避ける。
少なくとも、初めて出会ったBランクが狩りに行く相手ではない。
だが黒華五刀は、避けなかった。
「来ます」
百合の声。
水面が割れる。
巨大な影が、薔薇へ突っ込む。
薔薇は笑った。
「おう」
籠手で受ける。
受ける、というより逸らす。
真正面から止めれば腕が折れる。
だから、力の向きを変える。
巨体が根の上へ乗り上げる。
その瞬間、椿の声が飛ぶ。
「右脚」
百合が短刀を入れる。
殺すためではない。
動きを止めるため。
牡丹が後ろへ回る。
毒ではなく、細い刃で膜を切る。
売れる部位を裂かないためだった。
薔薇が顎を押さえ、黒蘭が歩く。
刀は抜いている。
だが、斬るまでに数秒待った。
鱗の重なり。
呼吸の開き。
筋の動き。
「そこか」
一刀。
二刀。
三刀。
深海の殺戮者は暴れる間もなく沈んだ。
黒蘭の斬撃は、外皮を砕いていない。
鱗の継ぎ目を抜いた。
心臓に近い動脈を断ち、素材価値の高い外殻を残した。
薔薇が息を吐く。
「相変わらず、嫌な切り方するな」
「壊す理由がない」
「相手は殺戮者だぞ」
「素材でもある」
牡丹が頷く。
「良い状態です」
百合が水路の奥を見る。
「同型の気配なし」
椿は地図に印を付ける。
「深海の殺戮者、二十四階水路。水中加速。右脚関節部有効。外皮保存可能」
黒蘭は水面を見た。
「FOEは、避けるだけでは駄目だな」
薔薇が振り返る。
「急にどうした」
「戻るのなら、間引く必要がある」
椿が頷く。
「階層維持ですね」
「ああ」
黒蘭は続けた。
「倒せる個体は狩る」
「素材にする」
「道を安定させる」
「ただし、縄張りの空白が危険になる時は避ける」
牡丹が微笑む。
「戦果、兵糧、治安維持。三つ揃えば狩る理由になりますね」
薔薇は笑った。
「冒険者というより、完全に軍の仕事だな」
黒蘭は答えた。
「この街では、それも冒険者の仕事らしい」
---
夕方。
黒華五刀はネイピア商会へ戻った。
店内は、以前よりも明らかに混んでいた。
店の奥には、簡易の陳列台が作られている。
黒華五刀がこれまで持ち込んだ素材の一部が、用途別に並べられていた。
ナルメルの牙。
ナルメルの鱗。
水袋の薄膜。
人食いサンゴの触手片。
アカトビヒトデの吸盤。
そして、状態の良いハイオンネプの硬頭殻。
もちろん、全て売却済みではない。
見本として残されたもの。
競売前に買い手へ状態を見せるもの。
学者や鍛冶師に価値を説明するもの。
つまり、素材そのものが広告になっていた。
ネイピアは帳簿を片手に、商人達を睨んでいる。
「勝手に触らない」
「匂いを嗅ぐなら近づきすぎない」
「毒腺付きの標本に指を出した人は、治療費を自分で払いなさい」
客の一人が慌てて手を引っ込めた。
薔薇が感心したように言う。
「商売になってるな」
ネイピアがこちらを見た。
「あなた達のせいで忙しいのよ」
「儲かってるならいいだろ」
「儲かる忙しさと、死ぬ忙しさは違うの」
牡丹が深海の殺戮者の素材を台へ置く。
ネイピアの表情が変わった。
「……今度はFOE?」
「深海の殺戮者です」
「見れば分かるわ」
ネイピアは外皮を広げる。
そして、眉をひそめた。
「また?」
牡丹が微笑む。
「また、とは?」
「前にも言ったわよね。傷が少なすぎるって」
薔薇が笑う。
「言われたな」
「で、あなた達はまた同じことをしたわけ」
ネイピアは外皮の端を持ち上げる。
「FOE素材よ、これ」
「普通は、帰って来られただけで拍手なの」
「外皮をこんな形で残すものじゃないの」
黒蘭は言った。
「前にも言ったが、商品だからな」
ネイピアは即座に返す。
「前にも聞いたわ」
黒蘭は少し黙る。
薔薇が堪えきれずに笑った。
---
ネイピアは素材を並べ直した。
「これは通常買取じゃ無理」
「競売に回すわ」
「鍛冶屋、盾職人、船大工、元老院の学術庫まで声をかける」
椿が尋ねる。
「船大工ですか?」
「水を弾く外皮よ」
ネイピアは素材を指で叩く。
「小型船の補強に使えるかもしれない」
「冒険者の鎧だけが素材の使い道じゃないの」
牡丹が感心したように頷く。
「街全体の資源になるのですね」
「そう」
ネイピアは黒蘭を見る。
「だから高い」
「だから、あなた達はもっと慎重に売りなさい」
黒蘭は帳簿を指した。
「税はどうなる」
ネイピアは一瞬目を瞬かせた。
「今回はそこから聞くの?」
「前回、売却先で税が変わると言っていた」
「覚えてるのね」
「必要なことは覚える」
ネイピアは帳簿を開く。
「元老院指定素材として出すと税は低め。ただし買取価格も抑えられる」
「商会間競売なら高値が狙える。ただし手数料と保管料がかかる」
「薬師向けの毒腺や膜は鮮度が命だから即売」
「外皮や顎は保存が効くから競売向き」
黒蘭は頷く。
「では外皮と顎は競売」
「毒腺は薬師へ即売」
「小片は見本として残せ」
ネイピアは口元を歪める。
「私の仕事を取る気?」
「確認しただけだ」
「そういう客が一番怖いのよ」
牡丹が柔らかく言う。
「適正に売ってくださるなら、手間はお支払いします」
「その言い方、商人相手だと強いわよ」
「そうでしょうか」
「強いの」
薔薇が呟く。
「牡丹、戦より商いの方が怖いんじゃないか?」
百合が答える。
「どちらも得意です」
牡丹は微笑む。
「戦は胃と財布からです」
---
ネイピアはさらに帳簿へ印を付ける。
「それと、素材処理の手順を書いて」
黒蘭が見る。
「手順?」
「そう。薬師と解体屋が知りたがってる」
「どう切れば毒腺が破れないか」
「どこから血抜きすれば劣化しにくいか」
「どの部位を先に冷やすべきか」
「あなた達は、それを戦闘中にやってる」
牡丹は少し考える。
「有料でよろしければ」
ネイピアの目が輝いた。
「好きよ、そういうの」
椿が静かに言う。
「黒華では、解体手順や保存手順も兵站資料でした」
「兵站資料ね」
ネイピアは笑う。
「冒険者が素材を持ってくる」
「商人が売る」
「職人が加工する」
「薬師が薬を作る」
「そして冒険者がまた買う」
「この輪が太くなるなら、海都にとっても得よ」
黒蘭は陳列台を見た。
そこには、戦って得たものが並んでいる。
刃で奪ったものが、街の道具になる。
黒華でも同じだった。
戦は壊すだけではない。
勝った後、何を残すか。
それを誤れば、国は痩せる。
「任せる」
黒蘭が言った。
ネイピアは眉を上げる。
「また簡単に任せる」
「お前が一番高く売れる」
ネイピアは少し言葉に詰まった。
商人にとって、それは信頼であり、挑発でもあった。
安く売れば、自分の価値を下げる。
高く売れば、この黒い客はまた素材を持ってくる。
「分かったわ」
ネイピアは帳簿を閉じる。
「一番高く売ってあげる」
---
その夜。
ネイピア商会の競売は、予定より大きなものになった。
鍛冶屋。
船大工。
薬師。
学者。
別の商会。
そして、Aランク冒険者の使い。
深海の殺戮者の素材は、通常のFOE素材より高値がついた。
理由は単純だった。
状態が良すぎた。
外皮は裂けていない。
顎は砕けていない。
毒腺に余計な刃が入っていない。
血抜きも早い。
海水による劣化も抑えられている。
素材を見た老鍛冶師は、低く唸った。
「倒した奴は、魔物を殺す前に素材を見てやがる」
その言葉は、すぐ商人達の間へ広がった。
黒華五刀は強い。
それはもう知られている。
だが、この日から別の噂が加わった。
黒華五刀は、稼ぐ。
そして、稼ぎ方が綺麗だ。
---
同じ頃。
冒険者ギルドの奥では、別の会話が行われていた。
レオンは机に肘をつき、元老院から来た文書を眺めていた。
目の前には、元老院の使いがいる。
身なりは整っている。
手は綺麗だった。
迷宮の泥も、魔物の血も知らない手。
「元老院としては、黒蘭一行の早期活用を望んでおります」
使いは淡々と言った。
「第二階層を越えられるなら、早急に第三階層への道を開かせたい」
レオンは文書を置く。
「補給費は?」
「ギルド予算内で」
「救助隊は?」
「必要時に検討を」
「調査支援は?」
「現場判断で十分かと」
レオンは笑った。
だが、その笑みは冷たい。
「つまり金は出さない。人も出さない。だが深く潜れと」
使いは眉をひそめる。
「言葉が過ぎますな」
「事実だろう」
「彼らは冒険者です。危険を承知で迷宮へ潜る者達でしょう」
レオンの片目が細くなる。
室内の空気が少し変わった。
「使い捨ての駒じゃない」
声は低かった。
使いは一瞬言葉を止める。
レオンは続けた。
「迷宮に潜る者は、勝手に死にに行っているわけじゃない」
「街が素材を使う」
「商人が儲ける」
「元老院が名誉を得る」
「だったら、街も金を出すべきだ」
使いは不快そうにする。
「感情論ですな」
「そうだな」
レオンは机の上で指を組む。
「俺は感情的なんだ」
一瞬、彼の視線が遠くなった。
四十階。
暗い水音。
砕けた盾。
呼んでも返らなかった仲間の名。
派兵を待ち、来なかった夜。
その記憶は、今も消えていない。
---
使いは立ち上がった。
「元老院へは、ギルド側が前向きに調整中と報告します」
「好きにしろ」
「それと、Aランク審査については、貴族会合への顔見せが必要です」
「黒蘭一行にも、その旨を」
レオンは笑った。
「言うだけは言う」
「従わせてください」
「無理だな」
「ギルドマスター」
レオンは片目で使いを見る。
「俺でも従わせられる気がしない」
使いは不満げに部屋を出た。
扉が閉まる。
レオンはしばらく黙っていた。
そして、机の奥から古い金属片を取り出した。
欠けた認識票。
かつての仲間のもの。
レオンはそれを握る。
「……駒じゃない」
小さく呟いた。
だが、次に顔を上げた時、その目には別の光があった。
怒りだけではない。
野心。
元老院に頭を下げ、貴族の機嫌を取り、冒険者の命を数字で数える仕組み。
それを変えるには、力がいる。
ギルドが、ただの受付と報酬分配所でいる限り、何も変わらない。
軍に近い力。
街を守り、迷宮へ踏み込み、元老院に口を出させないだけの力。
黒蘭一行。
あれは刃だ。
うまく使えば、古い仕組みに傷を入れられる。
ただし。
使い方を誤れば、握った手ごと斬られる。
レオンは低く笑った。
「さて」
「あいつをどう転がすかね」
---
同じ夜。
銀狼の牙の宿舎では、ガレスが黒華五刀の噂を聞いていた。
彼の前には、四人の仲間がいる。
槍盾のファランクス、ユーリック。
冷静で堅実な男。
守りだけでなく、槍で前線を押し返す。
サーベルと銃を使うパイレーツ、マルコ。
軽薄そうに見えて、距離と射線を読む目が鋭い。
肉弾戦主体のモンク、ゼナ。
治療術も使えるが、本質は拳で敵を砕く前衛。
そして、メテオを習得しているゾディアック、オルフェ。
寡黙な術師。
属性の相性より、星術の火力で押し潰すことを好む。
銀狼の牙は弱くない。
むしろ強い。
火力に寄せた編成で、第二階層を高速突破してきた。
回復専門のモンクはいない。
ファーマーもいない。
純粋な支援職も置かない。
ガレスはそういう職を好まなかった。
戦えない者を連れて行く余裕はない。
それが彼の考えだった。
---
マルコが軽く言う。
「黒い連中、今度はFOE素材で競売だってさ」
ゼナが腕を組む。
「深海の殺戮者を綺麗に取ったらしい」
ユーリックが静かに言う。
「深海の殺戮者は面倒な相手だ。狩れるだけでも十分強い」
ガレスは鼻で笑った。
「素材屋にでもなるつもりか」
オルフェが小さく言う。
「金は力だ」
ガレスが見る。
「何?」
「装備。薬。情報。人脈」
「全て金で買える」
オルフェはそれだけ言って黙った。
ガレスは不快そうに酒杯を置く。
「迷宮は踏破してこそだ」
「素材を撫で回していても、深くは進めん」
ユーリックが言う。
「だが、補給が強いギルドは長く潜れる」
ガレスの声が低くなる。
「俺達が弱いと言いたいのか」
「そうではない」
ユーリックは目を逸らさない。
「黒華五刀は、我々とは違う強さを持っている」
沈黙。
ガレスは笑った。
「違う強さ、か」
「なら、確かめるだけだ」
その言葉に、マルコが小さくため息をついた。
ゼナは拳を鳴らす。
オルフェは目を閉じる。
ユーリックは黙っていた。
銀狼の牙は、ガレス一人のかませではない。
四人もまた、Aランクに相応しい力を持っている。
だが、彼らは知っていた。
リーダーの苛立ちは、やがて刃になる。
そしてその刃が向かう先は、おそらく黒い五人だ。
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海都来訪三十六日目。
黒華五刀は、二十五階へ到達していた。
第二階層の進行は、第一階層ほど単純ではない。
水流が道を変える。
一方通行の流れ。
引き返せない水路。
足場に見える珊瑚。
生きている珊瑚。
そして、人食いサンゴ。
これが厄介だった。
薔薇が不用意に近づいたわけではない。
踏み込む前に、百合が止めた。
「待ってください」
百合は短刀を抜き、珊瑚の根元へ小石を投げる。
次の瞬間、白い花のようなものが閉じた。
牙。
いや、触手。
小石を包み込み、砕く。
薔薇が顔をしかめる。
「植物じゃないのかよ」
牡丹が観察する。
「植物に似た魔物でしょう」
椿が記録する。
「人食いサンゴ。擬態。踏み込み誘導。投石で反応あり」
黒蘭は言った。
「燃やせるか」
百合が首を振る。
「周囲の水気が多いです」
「なら根元」
牡丹が細い刃を入れる。
百合が星術を落とす。
椿が位置を指示する。
薔薇が動いた触手を籠手で払う。
黒蘭は最後に、芯を斬った。
人食いサンゴは音もなく崩れた。
「素材は」
牡丹が確認する。
「薬師向けです。ただし鮮度が落ちやすい」
黒蘭は頷く。
「すぐ戻る」
薔薇が驚く。
「これだけで?」
「高く売れるなら戻る」
「お前、最近どんどん商人っぽくなってないか?」
「兵糧だ」
「便利な言葉だな」
椿は少し笑った。
---
黒華五刀は、二十五階を一日で踏破しなかった。
人食いサンゴ、アカトビヒトデ、アカグロダコ。
新しい敵を確認するたびに止まる。
倒す。
記録する。
素材を処理する。
必要なら帰る。
この進み方は、外から見ると遅い。
だが、結果として黒華五刀の損耗は少なかった。
そして、収益は大きかった。
FOEを積極的に狩る方針も固まっていた。
深海の殺戮者。
古海の放浪者。
襲来する鱗竜。
全てを見つけ次第倒す、というわけではない。
だが、道を塞ぎ、下位冒険者の退路を脅かし、素材価値も高い個体であれば、黒蘭は狩りを選んだ。
それは名誉のためではない。
階層維持。
金策。
情報収集。
三つが揃った時、FOEは敵であり、資源でもあった。
---
昼前。
黒華五刀は、二十五階の水路脇で巨大な足跡を見つけた。
足跡と言うには、少し違う。
爪痕。
水底を削った跡。
そして、獣の匂い。
薔薇が顔を上げる。
「魔物か?」
「違います」
百合が答える。
「獣です」
「同じじゃないのか?」
牡丹が微笑む。
「飼われている、という意味でしょう」
その直後、水路の向こうから低い唸り声が聞こえた。
黒華五刀は即座に構えを変える。
だが、黒蘭は刀を抜かなかった。
敵意がない。
少なくとも、まだ。
根の影から現れたのは、巨大な獣だった。
狼に似ているが、肩まで人の胸ほどある。
濡れた毛並み。
鋭い牙。
だが、首には革の装具が巻かれている。
その横に、筋骨たくましい男が立っていた。
「待て」
男は片手を上げる。
「敵意はない」
黒蘭は静かに見る。
男は名乗った。
「獣王爪牙のバルトだ」
獣王爪牙。
海都Aランクの一つ。
ビーストテイマーを中心とし、獣と共に迷宮を進むギルド。
魔物の生態、縄張り、臭い、足跡に詳しい。
戦闘だけでなく、迷宮の異常を読む能力に長けている。
アルベルトからも名前を聞いていた。
---
バルトは黒蘭達を見る。
「噂の黒い五人か」
「黒蘭だ」
「知っている」
バルトは狼に似た獣の首を撫でる。
「こいつが騒いだ」
「そちらに敵意がないと分かるまで止めていた」
黒蘭は獣を見る。
獣も黒蘭を見る。
しばらく視線が合う。
薔薇が小声で言った。
「睨み合いか?」
牡丹は微笑む。
「挨拶かもしれません」
黒蘭は少し頭を下げた。
獣が鼻を鳴らす。
バルトの眉が上がる。
「珍しいな」
「何が」
「武人は獣を下に見る者が多い」
黒蘭は首を傾げた。
「なぜだ」
「人より優れた部分などいくらでもある」
バルトは一瞬黙り、それから笑った。
「気に入った」
薔薇が呟く。
「お前、獣には礼儀正しいな」
「敵か味方か分からない相手に礼を欠く理由がない」
「人間にもそうしてやれよ」
「必要ならしている」
「してるか?」
百合が短く言う。
「相手によります」
薔薇は笑った。
---
バルトは水林の奥を指した。
「この先、今日は少し荒れている」
黒蘭が聞く。
「理由は」
「水が濁っている」
「上から甲殻種が落ちてきている」
「誰かが奥で派手に戦った」
椿が地図を見る。
「銀狼の牙ですか」
バルトは少しだけ顔をしかめた。
「おそらくな」
「奴らは強い」
「本当に強い」
「火力だけなら、海都でも上から数えた方が早い」
バルトは続けた。
「だが、魔物を散らす」
「弱い個体が逃げて、別の縄張りに入る」
「結果、面倒が増える」
黒蘭は頷いた。
「戦場を荒らすのか」
「そういうことだ」
バルトは黒蘭を見る。
「お前達はどうする」
「今日は二十五階の水路構造を確認する」
「奥へは行かない」
「地形と魔物を知る」
バルトは満足そうに笑った。
「噂よりまともだな」
薔薇が笑う。
「噂はどうなってるんだ?」
「黒い化け物五人組」
「間違ってないな」
「薔薇」
椿がたしなめる。
---
バルトは黒蘭の地図を見る。
「……よく描く」
「必要だからな」
「大地の記録者みたいだ」
「彼らほどではない」
バルトはまた笑った。
「そこで謙遜するのか」
「事実だ」
「戦闘屋は地図屋を軽く見る。地図屋は獣使いを粗野だと言う。獣使いは騎士連中を鈍いと言う」
「海都の上位にも、いろいろある」
黒蘭は聞いていた。
バルトは続ける。
「銀狼の牙は、戦闘屋だ」
「悪い連中ではない」
「少なくとも、弱くはない」
「だが、ガレスは弱者の都合を見ない」
「だからロイヤルガードも、俺達も、少し気を遣う」
薔薇が言う。
「実力があるから面倒ってやつか」
「そうだ」
バルトは短く答えた。
「弱い馬鹿なら放っておけばいい」
「強い馬鹿は、周囲を巻き込む」
黒蘭は静かに言った。
「強いなら、なおさら責任が増える」
バルトはその言葉を聞いて、少し目を細めた。
「お前、本当に冒険者か?」
薔薇が笑う。
「登録上は、だとさ」
黒蘭は否定しなかった。
---
バルトと別れた後、黒華五刀は進行方向を変えた。
当初予定していた水路を避け、根の上を進む。
地図にはない迂回。
だが、黒蘭は迷わない。
水の濁り。
逃げた小型魔物の痕跡。
折れた水草。
それらを見て、危険域を避ける。
百合が戻る。
「前方、甲殻種三。魚型二。争っています」
「理由は」
「縄張り混乱」
「避ける」
薔薇が少し残念そうにする。
「倒せるぞ」
黒蘭は答える。
「倒す理由がない」
「素材は?」
牡丹が言う。
「状態が悪いでしょう。争って傷んでいます」
「なるほど」
薔薇は納得した。
素材として価値が低い。
戦う意味も薄い。
なら避ける。
金策もまた、戦術の一部だった。
---
昼過ぎ。
二十五階の広い水路で、黒華五刀は戦闘音を聞いた。
金属音。
銃声。
星術が落ちる重い響き。
魔物の咆哮。
薔薇が顔を上げる。
「派手だな」
百合が水音に紛れて前へ出る。
しばらくして戻った。
「銀狼の牙」
椿が地図を見る。
「この先は、古海の放浪者の回遊域です」
「交戦中か」
黒蘭は少し考える。
「見る」
薔薇が口角を上げる。
「助けるんじゃなく?」
「助けが必要なら助ける」
「必要なければ」
「見る」
牡丹が微笑む。
「学ぶのですね」
「ああ」
---
銀狼の牙は、確かに強かった。
古海の放浪者。
巨大な魚影が、水路を縦横に走る。
FOEと呼ばれるだけあり、その突進は重く、速い。
並の冒険者なら陣形を崩され、一人ずつ食われる。
だが、銀狼の牙は崩れない。
先頭に立つのはユーリック。
槍盾のファランクス。
盾で受けるだけではない。
槍の穂先で進路を削り、突進の角度を変える。
完全に止めるのではなく、仲間が攻撃できる位置へ誘導する。
その横をマルコが抜けた。
サーベルで鱗を弾き、銃で目元を撃つ。
「こっちだ、魚野郎」
挑発。
軽い口調。
だが足運びは正確。
ゼナは素手で根の上を走り、FOEの側面へ入る。
拳。
肘。
膝。
肉弾戦主体のモンク。
回復役というより、体そのものが武器だった。
そして後方。
オルフェが手を掲げる。
星が落ちた。
メテオ。
水路ごと揺れる。
古海の放浪者の外皮が砕ける。
そこへガレスが踏み込んだ。
大剣。
一撃。
深い。
FOEの頭部が裂け、水が赤く染まる。
戦闘は終わった。
---
薔薇が素直に言う。
「強いな」
黒蘭は頷く。
「強い」
椿も記録する。
「火力集中。短期決戦型。支援より突破」
牡丹はFOEの死骸を見る。
「素材はかなり傷んでいます」
百合が短く言う。
「周辺魔物、逃走」
黒蘭は水路を見た。
メテオで砕けた珊瑚。
血で濁った水。
逃げるアカグロダコ。
離れていくアカトビヒトデ。
そして、別の水路で動く気配。
戦闘には勝った。
だが戦場は荒れた。
黒蘭はそれを見ていた。
---
ガレスが黒華五刀に気付いた。
「見物か」
黒蘭は答える。
「ああ」
その返事に、マルコが吹き出した。
「正直だな」
ガレスは眉を寄せる。
「何か言いたそうだな」
「強い部隊だ」
黒蘭は言った。
銀狼の牙の面々が少し意外そうにする。
ガレスも黙る。
黒蘭は続けた。
「短期決戦なら優秀だ」
「正面から押し切る力がある」
ユーリックが静かに頷いた。
「評価に感謝する」
だがガレスは笑った。
「随分上から言う」
「見たままを言った」
「なら続きがあるんだろう」
黒蘭は少し間を置く。
「素材が死ぬ」
空気が止まった。
マルコが今度は本当に笑った。
「そこかよ」
ゼナも口元を緩める。
オルフェは無表情。
ユーリックだけが、水路の死骸を見た。
ガレスの顔が険しくなる。
「素材など、倒した後で考えるものだ」
「違う」
黒蘭は即答した。
「倒す前に考える」
「戦闘中にそんな余裕があるか」
「余裕ではない」
「戦果だ」
黒蘭はFOEの外皮を見る。
「敵の半分を捨てている」
ガレスの目が鋭くなる。
「俺達の戦い方に文句をつけるか」
「違う」
「なら何だ」
「勿体ない」
また沈黙。
薔薇が片手で顔を覆う。
「黒蘭、お前な」
セリアやアルベルトなら笑ったかもしれない。
だが、ガレスは笑わなかった。
侮辱と受け取った。
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ユーリックが割って入る。
「確かに、素材は荒れた」
「次から少し考えよう」
ガレスが鋭く見る。
「ユーリック」
「事実だ」
ユーリックは静かに返す。
「火力で押し切るのは我々の強みだ」
「だが、収益が落ちれば遠征回数は減る」
「遠征回数が減れば踏破も遅れる」
オルフェが小さく言う。
「金は火力になる」
ガレスは苛立ったように舌打ちした。
「お前達まで商人の真似か」
マルコが肩をすくめる。
「商人の真似で弾が増えるなら悪くないけどな」
ゼナも言う。
「薬も買える」
ガレスは黙った。
銀狼の牙は、ガレスだけの集団ではない。
仲間達にも考えがある。
ただ、ガレスの火力と突破力があまりに強く、これまでそれで勝ててきた。
勝ててしまった。
だから、変わる必要がなかった。
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黒蘭は彼らの会話を聞いていた。
そして言った。
「お前達は強い」
ガレスは笑う。
「さっき聞いた」
「だから惜しい」
その言葉に、銀狼の牙の空気が変わった。
ガレスが一歩前に出る。
「惜しい?」
「ああ」
「支援を軽く見ている」
ガレスの声が低くなる。
「支援職を入れろと?」
「そうは言っていない」
「なら何だ」
黒蘭は椿を見る。
椿は少しだけ頷いた。
黒蘭は続ける。
「火力を落とさず、支援を持てばいい」
「何?」
「役割は一つではない」
「前に立つ者が指揮してもいい」
「斬る者が銃を持ってもいい」
「忍びが薬草を扱ってもいい」
「術師が索敵を覚えてもいい」
「火力と支援は、必ずしも分ける必要がない」
マルコが目を細めた。
「面白いな」
ゼナも拳を開いたり閉じたりする。
「殴りながら治す、みたいなものか」
オルフェは低く呟く。
「星術師が補助を持つ」
ユーリックは黙って聞いていた。
ガレスだけが、不快そうにしている。
「器用貧乏の発想だ」
黒蘭は首を振る。
「中途半端ならそうだ」
「極めれば違う」
薔薇が笑う。
「うちがそれだな」
椿は静かに言った。
「黒華では、一つの役目だけで戦場に立つ者は少なかった」
「人が足りなかったからです」
牡丹が続ける。
「補給できない忍びは、長く潜れません」
百合も短く言う。
「殺せない術師も、逃げられない術師も死にます」
銀狼の牙の四人は、それぞれ考え込む。
ガレスはそれを見て、さらに苛立った。
黒蘭の言葉が、自分ではなく仲間に届いている。
それが気に入らない。
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その時、水路の奥から別の気配が動いた。
百合が振り返る。
「来ます」
黒蘭も同時に見る。
「逃げた魔物が戻った」
血の匂い。
砕けた珊瑚。
荒れた水。
そこに引き寄せられたのは、アカグロダコの群れだった。
さらに奥に、ハイウォルラスの影。
ガレスが大剣を構える。
「ちょうどいい」
黒蘭が言う。
「ここで戦うな」
「命令か」
「忠告だ」
「俺達なら倒せる」
「倒せることと、戦うことは違う」
ガレスの表情が変わる。
その言葉は、彼の誇りに触れた。
「下がる理由がない」
黒蘭は淡々と言った。
「水が濁っている」
「足場が砕けている」
「素材も回収前」
「後続の逃げ道も狭い」
「ここで勝っても損が多い」
ガレスは笑った。
「損得か」
「戦いは損得だ」
「俺は違う」
「だから荒れる」
空気が凍る。
ユーリックが小さく言った。
「ガレス、退こう」
「黙れ」
その一言で、銀狼の牙の四人の顔がわずかに曇った。
黒蘭は、それを見逃さなかった。
支援職を見下す。
補給を軽んじる。
仲間の忠告を下に置く。
強い。
だが、危うい。
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椿が一歩前へ出た。
「黒蘭様」
「何だ」
「この場は撤退路の確保を優先します」
「任せる」
椿の刀が地面へ刺さる。
柄布が水気を含みながらも広がる。
黒い旗。
「薔薇、右の根へ」
「百合、後方水路」
「牡丹、素材回収は最小限」
「黒蘭様、左前方をお願いします」
黒蘭は頷く。
「分かった」
銀狼の牙の面々が、それを見る。
黒蘭が指揮していない。
椿が指揮している。
そして黒蘭が従っている。
その事実に、マルコが小さく口笛を吹いた。
「姫さん、飾りじゃないな」
ガレスは無言だった。
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戦闘は短かった。
黒華五刀は、群れを殲滅しなかった。
退路だけを切り開いた。
アカグロダコの足を落とし、水路へ戻す。
ハイウォルラスの突進は薔薇が逸らす。
百合が水面を縫い、牡丹が回収可能なFOE素材だけを素早く切り取る。
黒蘭は一度だけ刀を振った。
左から来た個体の頭部を割らず、首の骨を断つ。
水が赤くなる。
だが濁りは広がらない。
一撃で終わったからだ。
ユーリックがその斬撃を見て、目を細める。
ガレスも見ていた。
速い。
重い。
そして、無駄がない。
派手ではない。
だからこそ、怖い。
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撤退路が開く。
黒蘭は言った。
「出るぞ」
椿が頷く。
黒華五刀は迷わず下がった。
銀狼の牙の四人もユーリックの判断で続く。
ガレスだけが一瞬残り、魔物を睨んだ。
だが、最終的には下がった。
地形が悪い。
それは彼にも分かっていた。
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安全域まで戻った後、沈黙が落ちた。
ガレスは黒蘭を見る。
「次は」
黒蘭は答えない。
ガレスは続けた。
「次は、邪魔の入らない場所でやろう」
薔薇が眉を上げる。
「やるって何をだ」
ガレスは黒蘭だけを見る。
「実力を確かめる」
黒蘭は少し考えた。
「必要か」
ガレスのこめかみが動く。
「俺には必要だ」
「そうか」
黒蘭は答えた。
「なら、場所と条件を整えろ」
「受けるのか」
「人が死なない条件ならな」
ガレスは笑った。
「優しいな」
「違う」
黒蘭は淡々と言った。
「後処理が面倒だ」
マルコがまた吹き出した。
ゼナも肩を震わせる。
オルフェは口元だけ動かした。
ユーリックは目を伏せた。
ガレスだけが笑わなかった。
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その日の報告で、黒華五刀は二十五階到達とFOE素材回収を提出した。
銀狼の牙との接触。
古海の放浪者交戦跡。
周辺魔物の再流入。
退路確保。
それらも記録された。
受付係は書類を受け取り、少しだけ手を止める。
「銀狼の牙と、何かありましたか」
黒蘭は答えた。
「まだ何も」
「まだ、ですか」
「ああ」
受付係は困ったように笑った。
それは、これから何かあるという意味に聞こえた。
実際、その通りだった。
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夜。
宿で薔薇が言った。
「絶対揉めるな」
牡丹は茶を注ぎながら微笑む。
「すでに揉めています」
百合は短く言う。
「敵対するなら処理します」
「だからすぐそれだ」
椿は静かに地図を畳む。
「ガレス殿は強い方です」
黒蘭は頷いた。
「強い」
「ですが、危うい」
「ああ」
薔薇が黒蘭を見る。
「お前、あいつをどう見る」
黒蘭は少し黙った。
「良い刃だ」
「だが、柄を見ていない」
薔薇はその言葉を聞いて、少し真顔になった。
刃だけでは戦えない。
握る手。
支える柄。
鞘。
手入れ。
それらがあって初めて、刃は戦場に残る。
ガレスは強い。
だが、仲間を刃の後ろにあるものとして見ていない。
それが黒蘭には見えていた。
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翌朝。
ギルド掲示板には、新しい札が掛けられた。
黒蘭一行
第二階層二十五階到達
深海の殺戮者討伐
古海の放浪者交戦域確認
FOE間引き報告
高品質素材提出
その横に、別の札。
銀狼の牙
第二階層三十六階維持
古海の放浪者討伐
周辺魔物移動あり
注意喚起
二つの名が、同じ掲示板に並んだ。
踏破階数では、銀狼の牙が上。
素材品質と地図精度では、黒華五刀が異常。
冒険者達はそれを見比べた。
海都の空気が、また変わる。
ただの新人の噂ではない。
上位ギルド同士の距離が、少しずつ詰まっている。
そして誰もが、薄々感じていた。
近いうちに、何かが起こる。
その中心には、おそらく黒い五人と、銀の牙がいる。
第十話 了