海都来訪三十八日目。
朝の冒険者ギルド訓練場には、剣戟の音が響いていた。
迷宮へ潜る者ばかりが冒険者ではない。
潜る前に刃を確かめる者。
帰還後に体を戻す者。
負傷明けに動きを確認する者。
新人へ基礎を教える者。
そして、強者の技を盗みに来る者。
訓練場には、そうした者達が集まる。
Cランクの若手ギルド「潮騒の針」。
Bランクの採取護衛隊「鉄靴の梟」。
遠征帰りの「赤帆団」の斥候。
彼らは本来なら、この時間には迷宮へ向かっている。
だが、この日は多くが足を止めていた。
理由は、訓練場の中央に立つ女だった。
黒薔薇。
黒華五刀の守り手。
一刀と大型籠手を持つ、黒い女武者。
彼女はここ数日、時間が空くと訓練場へ顔を出していた。
理由は単純だった。
「身体が鈍る」
本人はそう言った。
だが、海都の冒険者達にとっては違った。
黒華五刀の一人と手合わせできる。
それだけで、人が集まる理由になる。
「次、誰だ?」
薔薇が籠手を鳴らす。
対面にいたCランクのウォリアーが肩で息をしていた。
木剣を握る手が震えている。
彼は今、三度打ち込んだ。
スラッシュ。
横薙ぎ。
踏み込みからの縦。
どれも初心者のものではない。
だが、全て流された。
薔薇は盾を持っていない。
それなのに、彼の剣は一度も身体へ届かなかった。
籠手で弾く。
刀の峰で逸らす。
足の位置だけで間合いを殺す。
受けているのに、受けていない。
それが薔薇の防御だった。
「もう一本お願いします」
若いウォリアーが言う。
薔薇は笑った。
「いい根性だ」
「けど、今の足だと次は転ぶぞ」
「え?」
次の瞬間、彼は踏み込もうとして本当に膝を崩した。
周囲から笑いが起きる。
侮笑ではない。
学ぶ者の笑いだ。
薔薇は手を差し出す。
「斬る前に足が死んでる」
「迷宮なら、そこを魚に噛まれる」
「はい」
「もう一回休んでから来い」
若いウォリアーは悔しそうに、それでも嬉しそうに下がった。
次に出たのは、Bランクのファランクスだった。
盾と槍。
名はダリオ。
「一本、お願いします」
「おう」
薔薇は構える。
ダリオは慎重だった。
盾を前に、槍を短く持つ。
一撃を狙うのではなく、押し込む構え。
悪くない。
薔薇は笑った。
「堅いな」
「ロイヤルガードの訓練を受けました」
「なるほど」
ダリオが踏み込む。
槍が来る。
薔薇は避けない。
籠手で槍先を軽く押す。
ほんの少し。
それだけで、槍の軌道が盾の外へ流れる。
ダリオが盾で押し込もうとした時には、薔薇はもう横にいた。
木刀が首筋に止まる。
「一本」
ダリオは固まった。
観客が息を呑む。
薔薇は木刀を下げる。
「盾は良い」
「でも、盾の後ろに自分で閉じこもった」
「押すなら、足も一緒に押せ」
ダリオは深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
それを見ていた別の冒険者が呟く。
「誰も一本取れないな」
「昨日もだ」
「一昨日もだろ」
「あれで黒華五刀の中では守り役なんだよな」
「守り役があれなら、他は何なんだ」
その声に、薔薇は振り返る。
「他はもっと面倒だぞ」
周囲が笑った。
薔薇も笑う。
黒華五刀の中で、最も外へ開いているのは彼女だった。
だから、海都の冒険者達は黒華五刀へ近づく時、まず薔薇へ声をかけるようになっていた。
訓練場の端で、アルベルトがその様子を見ていた。
ロイヤルガード隊長。
隣には、同じロイヤルガードのプリンセス、ミレイがいる。
ミレイが言った。
「薔薇さん、人気ですね」
「ああ」
「黒蘭さんより話しかけやすいですし」
「それはそうだろうな」
アルベルトは苦笑した。
黒蘭は冷たいわけではない。
だが、話しかけやすい男ではない。
必要なことには答える。
礼も欠かない。
しかし、雑談のために扉を開けることはほとんどない。
それに比べて、薔薇は笑う。
怒る。
冗談を言う。
若手の訓練にも付き合う。
黒華五刀という黒い集団へ、海都側が触れる窓口になっていた。
薔薇が休憩に入り、水を飲みに来る。
アルベルトが声をかけた。
「見事だ」
「お、海都の盾様」
「その呼び方はやめてくれ」
「じゃあアルベルト」
「そちらの方がいい」
薔薇は水袋を置く。
「何か用か?」
「用というほどではない」
アルベルトは少し考えた。
「君は、なぜ黒蘭に従っている」
薔薇は目を瞬かせ、それから笑った。
「直球だな」
「すまない」
「いや、いい」
薔薇は訓練場を見る。
若い冒険者達が、今の動きを真似している。
「強いから、じゃないぞ」
アルベルトは黙って聞く。
「強い奴なら黒華にもいた」
「蘭より腕が立つと思っていた奴も、いたかもしれない」
「でも、蘭は勝てるかどうかだけで人を動かさない」
「誰が帰れるかを見る」
アルベルトは眉を動かす。
薔薇は続けた。
「戦場だと、それが一番難しい」
「勝てる道は見える」
「死なせない道は、なかなか見えない」
「蘭はそれを探す」
「だから、ついて行く」
アルベルトは黙った。
彼は少しずつ黒蘭を理解し始めていた。
黒蘭自身の言葉だけではない。
薔薇のような仲間の言葉。
椿の指揮。
牡丹の補給。
百合の警戒。
それらを通して、ようやく輪郭が見えてくる。
黒蘭は強い。
だが、黒華五刀が彼を見る理由は、強さだけではない。
「なるほど」
アルベルトは呟いた。
薔薇は笑う。
「分かった顔してるけど、多分まだ半分だぞ」
「だろうな」
「私も全部は分からん」
「君でも?」
「ああ」
薔薇の顔から笑みが少し消える。
「蘭は、自分のことだけは見えてない時がある」
アルベルトはその言葉を覚えた。
後に、意味を知ることになる。
その頃、ギルド本館の応接室では、黒蘭と椿が元老院関係者と向き合っていた。
Aランク審査の顔見せ。
名目はそうだった。
だが実際には、貴族達による値踏みである。
そこには三人の貴族関係者がいた。
元老院の使い。
港湾貴族の代理人。
そして、迷宮素材の利権を持つ商家貴族の老女。
老女が柔らかく言う。
「黒蘭殿」
「あなた方の活躍は耳にしております」
「我が家としても、ぜひ支援を」
黒蘭は軽く頭を下げる。
「感謝する」
「では、今後の素材売却を我が家へ優先的に」
「それはできない」
即答だった。
空気が少し止まる。
黒蘭は続ける。
「素材は最も適した先へ売る」
「武具用なら鍛冶屋」
「薬用なら薬師」
「研究用なら学術庫」
「価格と用途で決める」
老女の笑みがわずかに固まる。
「もちろん、相応の対価は用意します」
「対価だけでは決めない」
「街に残る形も見る」
港湾貴族の代理人が口を挟む。
「では、我が家の客将という形ではどうです」
「屋敷と身分を保証しましょう」
黒蘭は首を振る。
「我々は海都の家に仕えるつもりはない」
「なぜです」
「いずれ祖国へ帰る」
その言葉に、使い達が互いを見る。
黒華。
滅んだ東方の国。
その国へ帰る。
再興する、とまでは言わない。
だが、黒蘭の声には迷いがなかった。
老女が穏やかに言う。
「滅びた国に、帰る場所がありますか」
椿の目が冷える。
黒蘭は答える。
「作る」
短い一言。
それ以上の説明はなかった。
取り付く島もない。
礼はある。
無礼ではない。
だが、貴族達が好む余白がない。
恩を売る余地。
家名で縛る余地。
宴で懐柔する余地。
黒蘭はすべて閉じていた。
元老院の使いは咳払いした。
「Aランクとなれば、海都の政治とも無縁ではいられません」
「ならAでなくていい」
椿が少しだけ黒蘭を見る。
使いは言葉に詰まる。
黒蘭は続けた。
「迷宮へ潜る許可があり、必要な取引ができるなら階級にはこだわらない」
「我々の目的は名誉ではない」
貴族達の顔に、不快感が滲む。
扱いづらい。
彼らはそう思った。
金で動かない。
宴に乗らない。
家名に膝を折らない。
かといって、無礼として処罰できるほどの粗もない。
老女はゆっくりと微笑んだ。
「そうですか」
「では、また別の機会に」
黒蘭は頭を下げる。
「失礼する」
椿も礼をする。
二人が部屋を出る。
扉が閉まった後、老女の声が少し低くなった。
「難しい方ですね」
港湾貴族の代理人が鼻を鳴らす。
「ガレス殿の方がよほど分かりやすい」
「ええ」
老女は扇を閉じる。
「彼はよい冒険譚を持ってくる」
「素材も、少し褒めて支援金を渡せば流してくれる」
「多少荒い取引にも目を瞑る」
元老院の使いが言う。
「黒蘭一行は、今後邪魔になるかもしれません」
「ええ」
老女は静かに答えた。
「なら、まずは海都の上位と並べるか見せていただきましょう」
その日の午後、銀狼の牙との模擬戦が決まった。
偶然ではない。
訓練場には、人がさらに増えていた。
ロイヤルガード。
月下猟姫。
獣王爪牙。
大地の記録者。
Bランクの「鉄靴の梟」。
Cランクの「潮騒の針」。
外洋遠征から戻った「赤帆団」の数名。
一方で、街にいない上位ギルドもある。
Aランクの「砂冠の旅団」は、南方の乾いた岬へ遠征中。
Bランクの「灰鷗隊」は、海都外縁の遺跡調査へ出ている。
世界は海都の中だけではない。
迷宮の外にも、冒険者の仕事はある。
それでも今日は、いる者の多くが集まった。
黒華五刀と銀狼の牙。
その衝突を見るために。
訓練場の中央に、銀狼の牙が立つ。
ガレス。
ユーリック。
マルコ。
ゼナ。
オルフェ。
説明は不要だった。
海都の者なら、彼らの名を知っている。
その向かいに、黒華五刀。
黒蘭。
椿。
薔薇。
牡丹。
百合。
レオンが中央に立つ。
「確認は模擬戦だ」
「殺し合いじゃない」
「使用武器は実戦用」
「致命傷は禁止」
「勝敗は、降参、武器喪失、または審判判断」
ガレスが大剣を肩に担ぐ。
「木剣で遊ぶ気はない」
レオンは睨む。
「真剣だからこそ、規則を守れ」
「分かっている」
分かっている。
その言葉に、ユーリックがわずかに眉を動かした。
ガレスは黒蘭ではなく、椿を見た。
「条件を付けたい」
レオンが言う。
「何だ」
「号令なし」
椿を見る。
「その姫の声で背を押されてから勝たれても、黒蘭個人の力は分からん」
空気が変わる。
姫。
その呼び方そのものではない。
含まれた意味が問題だった。
飾り。
後ろで声を出すだけの者。
そういう侮りが、滲んでいた。
百合の気配が薄くなる。
牡丹の笑みが消える。
薔薇が籠手を鳴らした。
黒蘭はガレスを見た。
「椿は飾りではない」
「そうか?飾りにしか見えん。とっととパーティから外せ」
ガレスは言う。
「とにかく、俺はお前個人と戦う」
「黒華五刀とではない」
黒蘭は少し考え、椿を見る。
「椿」
「はい」
「構わないか」
椿は静かに頷いた。
「はい」
「ただし、黒蘭様」
「何だ」
「私が必要だと証明する機会は、後ほどいただきます」
黒蘭は頷く。
「分かった」
ガレスは鼻で笑った。
「自己主張の激しい飾りだ」
その瞬間、百合が半歩沈んだ。
黒蘭が言う。
「百合」
「はい」
「まだだ」
「承知しました」
まだ。
その一言に、近くで見ていたマルコが口笛を吹きかけ、やめた。
冗談ではない。
黒蘭が止めなければ、何かが起きていた。
ユーリックがガレスに近づく。
「やめておけ」
「何を」
「言葉が過ぎる」
「事実を言っただけだ」
「相手を測る前に侮るな」
ガレスは笑う。
「測るために戦うんだ」
ユーリックはそれ以上言わない。
だが、彼の表情には不安があった。
アルベルトはそのやり取りを見ていた。
薔薇から聞いた言葉が頭に残っている。
勝てる道ではなく、帰れる道を見る。
黒蘭がどう戦うのか。
ガレスが何を見落とすのか。
アルベルトは、以前より少しだけ分かる気がしていた。
レオンが手を上げる。
「始め」
訓練場が静まり返った。
------
ガレスは、最初から様子見をしなかった。
大剣を低く構え、息を吸う。
次の瞬間、訓練場に獣のような咆哮が響いた。
「ウルフハウルだ」
観客の一人が呟く。
ウォリアーの戦技。
自らの闘志を剥き出しにし、敵の動きを縛り、己の攻撃をさらに鋭くする咆哮。
魔物相手にも、人間相手にも効く。
弱い者なら、それだけで足が止まる。
だが黒蘭は止まらなかった。
ただ、聞いた。
「声で押す技か」
そう呟く。
椿の号令とは違う。
味方を立たせる声ではない。
敵を押し潰す声。
ガレスらしい技だった。
---
初撃。
ブレイク。
大剣が斜めに落ちる。
骨ごと砕くための一撃。
木剣ではない。
真剣であれば、当たれば終わる。
黒蘭は半歩ずれた。
大剣が石畳を叩く。
罅が走る。
歓声ではなく、息を呑む音が広がる。
「重いな」
薔薇が呟く。
「受けたら?」
椿が問う。
「普通なら腕が死ぬ」
薔薇は笑わない。
ガレスの力は本物だった。
---
ガレスは止まらない。
スラッシュ。
横薙ぎ。
低い軌道。
黒蘭の足を狙う。
黒蘭は刀で受けない。
刃の腹に軽く触れ、軌道をずらす。
大剣は空を切る。
返す刃。
黒蘭はそこにもいない。
観客の中で、若手が声を漏らす。
「速い」
「いや、黒い方が先に動いてる」
「どっちが?」
「分からん」
アルベルトは腕を組んだまま見ていた。
ガレスは速い。
強い。
だが、黒蘭は避けているのではない。
攻撃が来る場所に、もういない。
---
ガレスの剣技は荒くない。
むしろ、洗練されている。
大剣を扱うには、力だけでは足りない。
腰。
肩。
手首。
踏み込み。
呼吸。
それらが揃っていなければ、あの重さは速度にならない。
ガレスは才能だけの男ではない。
第二階層後半まで進んだ実績は本物だった。
「ブレイクからスラッシュへ繋いだ」
「大剣であの切り返しは難しいぞ」
「ガレス、やっぱり強いな」
観客の声は正しい。
ガレスは強い。
だからこそ、黒蘭の異常さが際立つ。
黒蘭は攻めない。
ただ見ている。
大剣の癖。
踏み込みの深さ。
視線。
怒りで力が上がる瞬間。
逆に、防御が薄くなる瞬間。
全部見ている。
---
十合。
十五合。
二十合。
ガレスの息がわずかに荒くなる。
黒蘭の呼吸は変わらない。
ガレスが距離を取る。
「なぜ攻めない」
黒蘭は答える。
「終わるからだ」
静寂。
その一言は、剣より鋭かった。
ガレスの顔が歪む。
「言ったな」
「ああ」
「なら、終わらせてみろ」
ガレスの魔力が揺れる。
オルフェが、観客側で小さく息を呑んだ。
「ブレイドレイヴを使う気か」
マルコが眉を上げる。
「模擬戦で?」
ユーリックが低く言う。
「ガレス」
だが声は届かない。
ガレスは大剣を構え直した。
複数の斬撃を叩き込むウォリアーの高位戦技。
ブレイドレイヴ。
大剣一本で連撃を作る技。
一撃が重いウォリアーにとって、習熟には時間がかかる。
使えること自体が、剣への深い熟練を示す。
周囲の冒険者達もざわついた。
「ブレイドレイヴだ」
「本気か」
「当たれば死ぬぞ」
レオンの目が鋭くなる。
「ガレス」
だが、ガレスは止まらない。
---
ブレイドレイヴ。
一撃目。
黒蘭の肩を狙う。
黒蘭は半歩前に出た。
後ろではない。
前。
大剣の最も強い位置を外し、根元に入る。
二撃目。
刃が返る。
黒蘭の左刀が大剣の腹を叩く。
軌道がずれる。
三撃目。
ガレスが力で戻す。
黒蘭は右刀の柄で手首を打つ。
四撃目。
出る前に止まる。
黒蘭の足が、ガレスの前足の位置を潰していた。
五撃目。
ガレスは無理に振ろうとする。
そこへ黒蘭が踏み込む。
一刀目。
大剣の腹。
二刀目。
手元。
三刀目。
肘。
四刀目。
足元。
ガレスの体勢が崩れる。
黒蘭の右刀が、喉元で止まった。
紙一枚。
勝負あり。
---
レオンが即座に声を上げる。
「そこまで」
訓練場は静まり返った。
誰もが見ていた。
ブレイドレイヴは破られた。
力で受け止められたのではない。
技の途中で、構造ごと解かれた。
ガレスは膝をついている。
大剣はまだ手にある。
だが振れない。
黒蘭は離れる。
「終わりだ」
ガレスの顔に、屈辱が浮かぶ。
自分は負けた。
しかも、相手は殺すつもりがなかった。
それが分かるだけの実力が、ガレスにはあった。
だから余計に苦しい。
ユーリックが一歩出る。
「ガレス、負けだ」
マルコも言う。
「十分だろ」
ゼナは黙っている。
オルフェは目を伏せた。
ガレスは立ち上がった。
大剣を握る手に力が入る。
「まだだ」
レオンの声が鋭くなる。
「勝負は終わった」
ガレスは聞いていなかった。
黒蘭は椿の方へ歩き出している。
その背中へ、ガレスが踏み込んだ。
大剣が上がる。
そこには先ほどまではなかった殺気が、確かに込められていた。
観客が息を呑む。
ユーリックが叫ぶ。
「ガレス!」
椿の目が見開かれる。
百合の気配が消える。
牡丹が動く。
薔薇が前へ出ようとする。
だが、誰よりも早かったのは黒蘭だった。
---
黒蘭は振り返った。
表情は変わらない。
ただ、目だけが違った。
模擬戦の目ではない。
戦場の目。
「ここからは試合ではない」
低い声。
次の瞬間、刀が走った。
ガレスの大剣が落ちる。
それと同時に、右腕も落ちた。
肘から先。
石畳に金属音と、鈍い音が重なる。
血が散る。
観客の一部が悲鳴を上げた。
だが、多くの冒険者は動かなかった。
彼らは分かっている。
背中を斬りに行った時点で、試合ではない。
そして、腕を落とされることは、死ぬよりずっと軽い。
もちろん、普通なら冒険者としては終わる。
利き腕を失えば、剣士は剣士でなくなる。
だが、ここは海都だ。
モンクの治療術。
薬師の再接合薬。
樹海素材から作られる再生促進剤。
目の前で処置できるなら、腕は戻る可能性がある。
完全ではなくとも、戦える程度には。
だから、冒険者達は黒蘭を「やりすぎ」とは見なかった。
むしろ。
首ではなく腕で止めた。
そう理解した者が多かった。
---
「ゼナ!」
ユーリックが叫ぶ。
「分かってる!」
ゼナが即座に治療術を発動する。
マルコが切断面を布で押さえる。
オルフェが落ちた腕を凍らせすぎない程度に冷却する。
ユーリックはガレスの身体を固定する。
銀狼の牙の動きは速かった。
混乱している。
だが、仲間を救う動きに迷いはない。
黒蘭はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「良い仲間だ」
ガレスには届かない。
だが、ユーリックには聞こえた。
彼は黒蘭を見る。
怒りではない。
悔しさ。
そして、畏怖。
黒蘭は殺さなかった。
殺せたのに。
腕で済ませた。
---
百合が黒蘭の横に戻る。
短刀は抜かれていない。
だが、あと一瞬遅ければ抜いていた。
牡丹は止血用の布と薬を持っている。
薔薇は息を吐く。
「やったな」
黒蘭は答える。
「あれ以上は危険だった」
「分かってる」
薔薇はガレスを見る。
「背中を狙った時点で終わりだ」
椿は静かにガレスを見ていた。
怒りはある。
だが、それだけではない。
彼の仲間達が必死に腕を繋ごうとしている姿を見ていた。
仲間はいる。
声もある。
なのに聞いていない。
それが哀れでもあった。
---
レオンが歩いてくる。
顔は険しい。
「黒蘭」
「何だ」
「……腕で済ませたな」
「ああ」
レオンは深く息を吐く。
「記録する」
「勝負後の攻撃はガレスの違反」
「黒蘭の反撃は正当防衛」
元老院の役人が慌てて前に出る。
「待ちなさい!」
「Aランクの腕を落としたのですぞ!」
レオンが見る。
「だから何だ」
「ガレス殿は貴族会合にも貢献している冒険者です!」
「素材供給にも、外部調査にも、何度も協力している!」
その言葉で、周囲の何人かが顔を見合わせた。
素材供給。
外部調査。
協力。
綺麗な言葉だ。
だが、裏を知る者には違う意味にも聞こえる。
貴族の欲しい素材を優先して回す。
危険な依頼を、表に出さず処理する。
報酬と名誉を受け取り、貴族側も都合よく使う。
ガレスが貴族に好まれる理由が、その言葉に滲んでいた。
レオンの片目が鋭くなる。
「それと今の違反に何の関係がある」
役人は詰まる。
「しかし」
「背中から斬りかかったのは誰だ」
「……」
「Aランクなら、勝負後に背を斬ってもいいのか」
「貴族に素材を流していれば、違反は消えるのか」
役人は答えられない。
---
アルベルトが前へ出た。
「私は証言する」
レオンが見る。
アルベルトは続ける。
「勝負は黒蘭の勝ちだった」
「ガレスは審判の制止後に攻撃した」
「黒蘭の反撃は、命を奪わない範囲に抑えられていた」
セリアも言う。
「同じね」
「首が飛ばなかっただけ温情でしょ」
バルトが低く言った。
「獣でも分かる」
「負けた後に背を狙うのは、群れの掟を破る」
元老院の役人の顔が歪む。
しかし、Aランク三者が同じ証言をした。
覆せない。
---
その時、椿が一歩前へ出た。
ガレスの前ではない。
元老院の役人と、観客の前。
「一つ、訂正を求めます」
役人が戸惑う。
「何を」
椿は静かに言った。
「先ほど、私は姫と呼ばれました」
「それ自体は構いません」
「私は今は亡き黒華の王族です」
周囲がざわめく。
黒華。
伝承レベルでしか聞いたことのない、遠い東方の国。
その名を、椿がこの場ではっきり口にした。
「ですが、私の声を飾りとして扱うことは許しません」
「私の号令で立った兵がいます」
「私の声で退いた兵がいます」
「私の声で死地へ向かった兵もいます」
「それを飾りと呼ぶなら、その者は指揮というものを知らない」
訓練場は静かだった。
黒蘭は何も言わない。
椿自身の言葉だからだ。
ガレスは治療を受けながら、苦しげに顔を上げる。
椿は彼を見る。
「ガレス殿」
「あなたは強い」
「ですが、仲間の声を軽んじるなら、いつか仲間を失います」
その言葉は、黒蘭の刃より深く刺さったかもしれない。
ユーリックが目を伏せた。
マルコは笑わない。
ゼナは治療を続ける。
オルフェは黙っていた。
---
黒蘭は椿の横に立った。
「終わりだ」
レオンが頷く。
「今日の確認は終了」
「記録はギルドが預かる」
役人が何か言おうとしたが、レオンは遮った。
「文句があるなら、まずあんたらがガレスの違反を裁け」
それ以上、役人は言えなかった。
---
その日の夕方。
ギルド掲示板に正式な札は掛けられなかった。
だが噂は札より速い。
銀狼の牙のガレスが、黒蘭に敗れた。
勝負後に背を狙い、右腕を落とされた。
黒華の姫が、指揮官として言葉を返した。
ロイヤルガード、月下猟姫、獣王爪牙が黒蘭側の証言をした。
話は、海都中へ広がった。
ただのざわめきではない。
評価が変わる音だった。
黒蘭一行は強い。
それはもう分かっていた。
だが、この日、冒険者達は別のことを理解した。
彼らは軽く扱える相手ではない。
侮れば斬られる。
規則の名で縛ろうとしても、筋が通らなければ斬り返される。
そして彼の行動を、我らの居場所を守る高位冒険者達が支持している。
そして、黒華五刀は黒蘭一人ではない。
椿の声。
薔薇の守り。
牡丹の兵站。
百合の殺気。
その全てが、黒の刃だった。
---
夜。
宿で、黒華五刀は静かに食事を取っていた。
薔薇が言う。
「今日は派手だったな」
黒蘭は答える。
「必要だった」
「腕を落とすのが?」
「背を斬りに来た」
「まあな」
牡丹は茶を置く。
「処置が早かったので、腕は戻るでしょう」
薔薇が苦笑する。
「牡丹、そこ冷静すぎるぞ」
「冒険者として戻れるならよいことです」
百合は短く言った。
「次は首でよいかと」
「もっと冷静じゃないのがいた」
椿は黙っていた。
黒蘭が見る。
「椿」
「はい」
「よく言った」
椿の目が少し揺れる。
「……ありがとうございます」
薔薇がにやりと笑う。
「黒蘭が褒めたぞ」
椿の耳がわずかに赤くなる。
「薔薇」
「言ってない言ってない」
牡丹は柔らかく微笑む。
百合は窓の外を見ていた。
そこには海都の灯りがある。
その灯りの奥で、今日の出来事は広がり続けている。
黒華五刀の名は、また一つ重くなった。
そして同時に、敵も増える。
名声は盾ではない。
時に、矢を呼ぶ旗になる。
黒蘭はそれを知っていた。
だから、彼は食事を終えるとすぐに地図を広げた。
第二階層。
まだ半ば。
二十六階以降は空白が多い。
「次は迷宮だ」
薔薇が呆れたように笑う。
「今日の後でそれか」
「人間相手は面倒だ」
黒蘭は淡々と言った。
「魔物の方が分かりやすい」
椿は筆を取る。
牡丹は補給表を開く。
百合は窓辺に立つ。
薔薇は肩を回す。
黒華五刀は、何事もなかったように次の準備を始めた。
勝った。
名を上げた。
敵を退けた。
それでも彼らは浮かれない。
なぜなら、目的はAランクでも、貴族の後援でも、銀狼の牙でもない。
世界樹の奥。
失われた国を取り戻す手がかり。
そのために、彼らはまだ進む。
第十一話 了